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13.比較で絶対の宗派を捜すという矛盾

2015.10.20 (Tue)
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人が自分の人生を正しく歩みたいと願うことは、本来誉められるべきことです。
そこに様々な宗教がそれぞれに存在してきた理由もあるでしょう。
人間は生れながらに正しく生きる道を会得しているわけではありませんから、それぞれに正しい指針を求めることは自然なことで、だれも間違った導きに従いたいとは思いません。

さて、そこで「ものみの塔」では、この宗教団体が「神の経路」であり、その指導に服することが唯一の正しい生き方であると教えているのですが、そこに絶対的な安心があるとすれば、魅力も感じることでしょう。何事も不安定で危ういこの世でまったく確実なものがありますなら、それは本当にありがたいことです。

そこで、この団体だけが「唯一正しい」との主張のために、「ものみの塔」は外部からのあらゆる情報をそのままには受け入れることを常に警戒するように内部の人々に促し、「その情報は100%信頼できるものですか?」とエホバの証人の方々に問いかけてきました。常に正しい情報を知ることができるとすれば、確かに過ちを避けて生きてゆけることでしょう。情報とはそれほどに重要なものであることは間違いありません。

ですが、実際にはどんな人も無謬ではありませんから、実証された理論や数式の解でもない限り、特に宗教に関して100%信頼できる情報というものは、どんな組織であれ個人であれ提供できるものではありません。特に信仰という主観の関わる分野、また聖書全体の100%正確な理解を得るなど人知を超えたことで、いったい誰がまったく正しい解き明かしを聴かせられるものでしょうか。聖書に記されたほどに霊感された言葉を語ることのできる人が果たして居るものでしょうか。

例え、聖書は神の言葉であるとしましても、それを解釈するのが預言者のようには格別の霊感を持たない普通の人間でありますなら、もちろん誰であれ間違いを避けられません。実際に「ものみの塔」であっても、やはり過ちをあちこち避けられなかったということが、正確な事実というべきでしょう。それは「ものみの塔」の幾らか古い出版物そのものが既に証拠立てていることで、誰であれ訂正を必要とする人間共通の不完全さはどうにもならない現実がそこにあります。

また、人は不完全でも、神に是認されているから正しいとの主張があるとしましても、そうなりますと、是認の有無をどう見分けるかという論点に置き換わるのですが、それは相対的な比較に決定をゆだねるほかなくなります。誰もが「自分が正しい」と同じ主張ができてしまうからです。それは人間同士の正義の競争を招きますが、実に空しいものです。それらの主張に使徒たちのような霊感は無く、言わば「神は不在である」からです。

この状況で陥る誤りの中には、信者の生涯設計に影響して、実は益とならないばかりか、同じ人間同士の中にあって、自分を救いに値する義人と見なすために、他の人々と差別化し、足台とするために特殊な規則を必要とし、規則の比較によって周囲との軋轢を生んでしまった教理は幾つかの宗教で少ないとは言えません。それも一般のエホバの証人が使徒や聖徒のように『新しい契約』に含まれず、義を認められるのに必要な、聖霊での油注がれていると自認していないにも関わらずです。
つまり、ごく普通の人が聖書の規則に従ったからと言って、神の是認に入れるものかという疑問を避けているのがエホバの証人とも言えましょう。
その考えでゆきますと、エホバの証人としての規則に模範的である人は神の是認の内にあり、そうでない人は是認の外にあるということにどうしてもなります。つまり「業による義認」ですね。

それでも、エホバの証人の皆さんからしますと、神からの唯一の経路として、真剣さを尽くして支えて来られた組織であればあるほどに、これまで払った努力を無駄にしないためにも、組織への従順が絶対的な義を与えるものと信じたくもなりましょう。ですから多少の間違いや醜聞があるにしても、組織も神によっていずれは改善されるに違いないと信じたく思われることでしょう。

そこで、人間が不完全であるからこそ、多少の間違いや汚点のために、神の組織全体を否認してはいけないという考えも正しいように思える方もいらっしゃるに違いなく、特に、長らくエホバの証人を続けてこられた方々にとっては、近年になってからの組織の大きな変化にあるいはそれなりの心配をお感じになられていらっしゃることと拝察いたしますが、長くこの組織に尽くして来られればこそ、貢献の蓄積の大きさからしましても、何としても改善されることが望ましく思われることでしょう。しかし、多少の間違いがあるのは、誰も、またどこの宗教団体も同じではないのでしょうか。

確かに、かのイスラエル民族も、律法を与えられていながら度重なる不信仰と相応しくない振舞いによって、バビロン捕囚の憂き目に遭ったとはいえ、時を経て許され、神の崇拝の復興を遂げたのも聖書の語ることでありまして、多くの悪業があったにせよ、その後もキリストの日に至るまで彼らが契約の民でなくなったわけではありませんでした。

それゆえ、今日のものみの塔についても古代のイスラエルのように、幾らかの失敗や相応しくない点があったとしても、他のどんなキリスト教の団体よりは優れていると思われるので、いつか必ずや正されるに違いない、そう信じることが信仰であると結論なさるかもしれません。

ではその願いの通り、本当にものみの塔が弁護に値するもので、古代のイスラエル民族のように、神の矯正が再びエホバの証人の組織に対しても行なわれ、事態が正されると信じ希望を託すことで、その通りの報いを得られるものでしょうか。「世代」の解釈からしますと、改善される時間の猶予も然程は有りません。しかも、エルサレムも神殿も懲らしめに破壊されてはいませんでしたか。これはものみの塔に当てはめるとしたら、どんな矯正になるのでしょうか?

あるいは、ものみの塔が改善されるに値する根拠として、三位一体や天国と地獄の中世的誤謬に満ちた教理に惑わされているキリスト教界に何も良いものを見出さず、それならば、ものみの塔の方がよほどまともなキリスト教であるとお考えであるからでしょう。

やはり、それは「消去法」での宗教上の居場所の確認というところになるのでしょう。
考えますに、「消去法」と言いますものは、比較による探索法でありまして、「比較」はどれほど行っても「絶対的なもの」を捜し当てることを保証するものではございません。それは常に「比較的に良いもの」が何かを知らせるばかりです。

それですから、今日存在する様々な宗派の中に神が是認なさる唯一の宗派が実在することがよほど確かでない限り、つまり明確な神の印が無いのであれば、唯一の神の是認の下にある宗派を見出せるか否かは断言が出来ないというのが事の真相でしょう。
しかし、実に多様な宗教を信じる様々な人々が、それぞれに「比較的なもの」を絶対化しているものです。しかし、それでは最初から真理も何もありません。むしろそれぞれ個人個人の「思い込み」の基準で他を消去して悦に入っているだけのことです。
その根拠として聖書のつぎはぎの言葉と人間の解釈が多様に利用され、様々な宗派の「正義」が成り立ってしまい、ほかと裁き合って優越感に浸っているのであれば、「現代のパリサイ人」を大量生産するばかりが「キリスト教」ということになってしまいます。

実際「クリスチャン」と称する人々に広くみられる特徴は、「自分の正義感で人を見る」頑なさにあります。
これは「アダムの子孫」であるはずの自分を明らかに高め過ぎています。たとえ行動の表面は努力で善良そうに装えても、それでその人が「神の前に変化した」と言えるでしょうか。「聖書の原則」を当てはめると神はその人を喜んで特別視するのですか。人を根本的に変えるのは人ではなくキリストの贖いではないのでしょうか。つまり『一万タラント』もの赦しです。それを知りながら「百デナリを返せ」と言うべきでしょうか。

この真相がエホバの証人の皆さんに受け入れ難いものであることは承知いたしております。これまで「真の宗教」なるものを見出されたと思われればこそ、「必ず有るはずだ!無いというならどこに行けば良いのか?」という悲愴な質問をなさるとしても無理からぬ事と思われます。
やはり、皆さんが「真理を見つけた」、あるいは「やはりこの組織は神のものだ」という感動をこれまで味わっていらっしゃれば、それをここで否定するとしますと、相当に大きな喪失感を味わせるという冒険を覚悟しなければなりません。しかし、真相に気付かれることは、誰にとりましても喪失というよりは、より真相に即した生き方を思い描くきっかけを得るとも言えましょう。


さて、聖書を省みますと、神の契約には奇跡のしるしが伴っていたということができます。
モーセに仲介した律法契約には『契約の証しの箱』がありました。それが安置されましたところの『会見の天幕』の上には誰からもそれと見える奇跡の雲の柱が在ったと書かれておりますし、それは神殿においても贖罪の日に大祭司は臨在光を発したという契約の箱の前に犠牲の血をはねかけております。その聖なる箱は敵軍の手に渡されても、それをものともせずに、奇跡を起こしつつ自力でイスラエルに帰還しておりましたから、それは単なる箱ではなかったというべきでしょう。

また、キリストによる『新しい契約』では、『神殿』に相当する人々の中に聖霊の奇跡の賜物が存在しておりました。それは神の恩寵がユダヤ律法体制からイエス派に移ったことだけでなく、その人々の王国を受け継ぐ身分を証しするものであったと聖書は語っております。それは業や立場を誇るユダヤ教のどんな派閥もまねのできない、神の是認のしるしでありました。それは神の証しでしたから「比較的に良い」というものではありません。(エフェソス1:13)

その聖霊の賜物も、第二世紀以後には次第に減少していった様が初期キリスト教徒の資料に散見されます。著名な書としては、エウセビオスの「教会史」に、『聖霊によって語る聖なる合唱隊の』去っていった時代として記され、その他にも様々な資料の引用が存在しております。⇒「エクレシア内での聖徒と信徒
実際、『聖霊の顕現』は「合唱」のように一致していたと記す史料もあり、「偽預言者」が本物の聖霊で語る預言者の中に入ると一致したことが言えなくなり、その正体を曝していたとあります。そのうえ「偽預言者」は信者の集まりから利得を得ようとしてあちこち巡回し、聖霊を持たないにも関わらず、預言者が異言者より重んじられる事から各地で歓待を受けることを願い、その行う預言にも代価を求めたのだそうです。(ヘルマスの牧者 XI,13)

こうした時代の後、なぜ聖霊による奇跡の賜物が無くなっていったかにつきまして、ものみの塔の側はコリント第一13章8節の『賜物があっても廃される』というただ一言を根拠に、"奇跡的な能力は,クリスチャン会衆の揺らん期の間だけ存続し,その後はなくなることが予告されていました"として、もはや必要のない「余分なもの」扱いをしております。(洞察2-p199)

ですが“揺らん期”の間だけに聖霊が存続したという裏付けにつきましては、実は聖書から得ることはできませんし、エウセビオスの「教会史」のような歴史上の資料を見ましても、聖霊が去った時期の第二世紀の終りから第三世紀にかけては安定期に入ったと申しますよりは、いよいよ本格的な背教の時代のはじまりであったと申すべきでしょう。この時期にヘレニズム哲学との融合が進み、そこに異教も混じり始めます。それは三位一体も入り込む時代の到来でありました。
これでは聖霊の賜物は幼弱な“揺らん期”の助けとして存続したと言いますよりは、奇跡の賜物が過ぎ去ったためにキリスト教界はすぐに純粋さを保持する助けを失ってしまったかのようです。

特にキリスト教史上最初の内部的分裂をもたらしたのが「モンタノス運動」であり、第二世紀中頃からその活動を始めていたとされています。その女預言者らは「終わりが近づいた」と唱え始め、戦争や地震などの災厄の到来を告げ、自分が最後の預言者になると宣言して、キリストの来臨と「新しいエルサレム」がトルコ、アンカラ近郊のアルダバウに降って来ると「預言」していましたが、もちろん何も起こりませんでした。それでも、この宗派は八世紀ころまで長く存続していたとされます。⇒ 「小アジア地震歴

しかし、キリスト教会は揺れ動き、熱狂して会衆ごと転向してしまった都市も一つや二つではなかったとのことで、黙示録で知られるフィラデルフィアはモンタノス運動の前進基地とされ、ティアティラとスミュルナはまったく改宗し、エフェソスも深刻な分裂に陥ったと伝えられます。⇒ 「小アジアメモ
終わりが近づいたと説いて緊急間を煽り、信者の生活を厳格に規定するこの運動は一見道徳的に見えるため、トルコから来たアフリカへと広がり、ついにローマにも押し寄せたため、177年にローマでモンタノス派の真偽を確認する会議が持たれるほどになっていたのです。(教会史5:16-)

これらの逸脱が示すことは、聖霊の失われる時期のキリスト教界はとても安定したとは言えず、むしろ、イエスの弟子たちから「何か」が急速に去って行ったと観察されるべきでしょう。
初期キリスト教から逸脱させないよう助けていた「何か」が失われていったと見る方が、キリスト教全体が逸脱に向かったことが自然に説明できるでしょう。その「何か」がキリスト教というものを存立させていたという見方です。つまり、聖霊の賜物が在った時期こそがキリスト教として確固としていたということです。
その後のキリスト教界は、腐敗と是正運動を繰り返し、その中から「正しさ」を追求して無数の宗派が誕生してまいりました。

しかしその一方で、キリストはご自分が去って行き、再び来て弟子たちと一緒になることを知らせていました。(ヨハネ16:16)
一度去ってから、また戻られるというこの聖句の意味は、第一にキリストの死と復活を指して言われたことですが、イエスは帰天なさった後であっても聖霊を介して彼らと共にいたということができます。初代の弟子たちはそのようにしてキリストの指導を受け続けておりましたし、実に使徒たちを『真理の全体へと案内し』、彼らによってキリスト教と聖書が仕上げられてゆく過程で『聖霊』の働きを度外視することができません。(ヨハネ16:22)

パウロは、コリント人とエフェソス人への手紙で、『聖霊』は、それを受けた者らが肉体を離れて霊に生きる印、また『相続財産を受ける保証』であると明言しており、『聖霊』を受けた者が格別の立場にあることは、他の使徒も述べているところであります。(コリント第二5:5/エフェソス1:13/ヨハネ3:5/ペテロ第一1:2/マタイ3:11-12)

それでも、いずれはキリストがこの世に対して不在となる時代が生じることは、『臨在』という言葉そのものにも表れております。
ミナやタラントの例えでも最終的な終末の時代に再来となる『臨在』があることは明らかです。
そうなりますと、『わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいる』とのイエスの言葉であっても、ずっと間断なくキリストがこの世に対して関わりを持ち続けるという意味を持たせることは、『臨在』という言葉との間に矛盾を孕むことになります。つまり、『臨在』(パルーシア)が起こるのであれば『不在』(アプーシア)の時期があることになるからです。(マタイ28:20)

聖霊の賜物の去った後のキリスト教界がどんなものであるかにつきましては、ものみの塔も認めるように著しい背教を特色としていることは明らかです。
ですから、それはなおのこと背教というキリスト教の乱れの到来こそ、聖霊の降下が終了し、キリストの不在が始まったことの表れという見方が実態に沿うものではないのでしょうか。

ものみの塔は、背教し切ったキリスト教界にも、ずっと間断なく神の是認を得た正しいキリスト教徒が居たはずであるとの見解をとってまいりました。
しかし、たとえそうであったとしましても、それにどんな意義がありましょうか。

仮に、そのような「正しい」とされる人々が細々と存在したとしましても、キリストが不在で聖霊のような『新しい契約』のしるし無く、その人々が『聖なる者』であることを示す『キリストと結ばれた』奇跡の証拠も、『王国を受け継ぐ』保証も無いのであれば、その存在が神のご予定の中でどんな価値を持つのでしょうか?それはただ「比較的によい」という以上のものとはならないのではありませんか?

神に是認されたクリスチャンが常に存在してきたのだと、ものみの塔側がそのように主張したい背景には、今日にも聖霊の賜物を持たなくても、「自分たちは神の是認を得ている」と皆さんに訴える口実を捜しているかのようでさえあります。それはローマン・カトリックがするように、使徒ペテロ以来の連綿と続く後継者を示して「正統」を訴えるのと同様、聖霊の賜物という神からの証しを持たずにも神の是認が常にあったと、そして今はものみの塔がそうであると訴えようとするからではないのでしょうか。

そこで「小麦と毒麦」の例えを用いて歴史的つながりを訴えるために、カトリックのアウグスティヌスに同じく、小麦も毒麦も間断なく生育を続けたと例えを用いて主張するのでしょう。その理解には「キリストの不在」がありません。
ですが、キリスト不在の歴史の中で、ほんの僅かな小麦のように純良と言えそうなキリスト教徒は常に僅かで、世界の片隅に追いやられ、毒麦ばかりが畑一面に広がっているかのような歴史の実情を思い見ますと、例え話と一致しているように考えられるものでしょうか。 世界という毒麦だらけの畑は、すでに作付けの段階で大失敗していて、小麦の収穫などとても望めません。

一方で、この例えでは、小麦が多く産出する中で幾らかの毒麦が蒔き足されるというものですから、キリスト教界の歴史をそのままに俯瞰するものとは異なる何か別の事情を教えようとしているのではありませんか。

そこで、キリスト教界の全体ではなく、『小麦』に当たる聖霊が注がれた人々の中に限ってこの例えを当てはめますと、例え話と合致してまいります。つまり、聖霊が無い期間は小麦も蒔かれていないので、初代と終末においてだけ小麦の種が蒔かれて成長すると捉えますなら、毒麦も小麦に紛れてその後から芽を出してくることが考えられます。毒麦をもっぱらに撒くなら、それは撒き足しているのではなく、意味がありません。

ですから、現在まで聖霊が降らないことで、『小麦が蒔かれ』ていないのであれば、『毒麦』も聖霊降下のその後に現れるはずでしょう。
この点で、古代にパウロが背教の『不法の秘事はすでに作用している』と述べたのは、聖霊の種が蒔かれた初代キリスト教徒の中にも『毒麦』が存在していたことを言うのでしょう。ですが、同じテサロニケへの第二の手紙で、終末の『背教』はまだ先であるとも書いています。もちろん、その『背教』は終末のものですから「まだ先」というのは当然です。

その『小麦』が聖霊を得て天に召される人々であれば、『毒麦』に相当するのは、聖霊を受けながらもそれを逸するところの元『聖なる者たち』ということになります。これこそが聖霊からの逸脱であり冒涜、ユダ・イスカリオテのような真の『背教』と言えましょう。
終末の『聖なる者ら』に試練が臨み、『ひとりは連れて行かれ、ひとりは捨てられる』のであれば、双方の生育は、聖霊が降下して種が撒かれた「初代」と「終末」とに起こるべき事ではありませんか。終末には、為政者の前に引き出され聖霊によって語る人々がいることを福音書は繰り返し語っております。

では、どうなのでしょう。
確かにイエスは『事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいる』と言われました。
ですが、それは以後の歴史を通して間断無く「ずっと一緒に居る」という意味で語られたのでしょうか。

もしそれが正しければ、聖霊もその人々と共にずっと留まる理由もあったことでしょう。なぜならイエスは聖霊について使徒たちに『[父]は別の助け手を与えて,それがあなた方のもとに永久にあるようにしてくださいます』と言われているからです。(ヨハネ14:16/イザヤ59:20-21)

しかし、実際には聖霊が存続していることのしるしとなる賜物はその後の第三世紀には存在しなくなっていったことを古代資料が明かしています。それらの資料では、奇跡の賜物が必要が無くなったというようなことは書かれず、却って『純粋な時代の終り』また損失として描かれているのです。

そこでマタイ福音書の最後の『わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいる』との主イエスの言葉は、そこで直接に語られた11人の使徒を介して、共にイエスに連なる、「聖なる弟子たち」について語られたと見るべきでしょう。(ローマ8:1)

ですから、聖霊の降下が終わり、聖なる弟子が絶えていなくなったところでキリスト教は純粋さを失ってバビロン由来の異教にまみれ、以後はキリストの『臨在』を必要とする「不在」の時代に入ったと考えられますし、その時には『あなた方』と呼ばれた人々も存在していなかったと捉えるべき理由が現実に見えております。その期間は『小麦』そのものが撒かれてもいないでしょう。『聖霊』が地上に無いからです。

他方でイエスは、終わりの日に聖霊によって語る弟子たちの姿を予告していましたが、それは『総督や王たちの前に引き出される』という状況で、『反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできない』ほどの言葉が与えられるとさえ述べられました。(マタイ10:18/ルカ21:15)
その聖霊の言葉は『彼ら(為政者ら)と諸国民への証し』のためであれば、それはもはや「比較で見つかる正義」ではありません。第一世紀と同様に、『聖霊』こそが神の是認の証拠、唯一神に是認された経路という以外になく、聖霊に満たされた弟子によって世界は『右と左に』分けられることになるのでしょう。つまり、真実なキリストの『兄弟』のことです。(マタイ25:31-32)

それであれば、「神に是認されたキリスト教」を今日までの歴史に中に無理にでも捜す必要もありません。それゆえにも聖書が存在しているのでしょう。聖霊を擁した「正統なキリスト教」は以後はその書の中だけに見出されるからです。
ですが、神の証しである聖霊が存在した時代以降に、無理をしてでも絶対のものを見つけ出そうとするには、比較を用いる「消去法」で何かをすくい取ること以外に方法がないのです。

ですが、「消去法」では偽物をつかんでしまい兼ねず、神の是認ある団体の発見ではなくて、人の規準による自己満足を得るばかりです。
そこでは、『その実によって(偽預言者を)知る』とのイエスの言葉に従っているつもりでも、「比較的に良い」ものが見つかった以上にはなりません。その理由はどれも『聖霊の証し』がない人間のものだからです。
では、この記事の主張は的外れな極論であって、「ものみの塔」のように奇跡を起こさない「聖霊」で満足すべきでしょうか。
どう思われますか?

そうなりますと、皆さんにおかれましては「正しいキリスト教」が今存在しないことへの不安が募ることもありましょう。
ご自分の存在が急に不安定なものに感じられることに耐えられない気持になられるとしましても、これまでに「ものみの塔」によって得て来られた安心感からすれば無理からぬ事とお察し致します。

ですが、間違いに根差した安心感に頼りたいとは誰も思いません。
それこそは、問題を先送りして苦難をため込む生き方をしてしまうことではありませんか?

それでも、「エホバの証人はやはり神の是認の下にあり、古代のイスラエルが正されたように、いつか矯正されるはずである」と、なおも思われるのでしたら、「キリスト教世界全体がなぜ正されては来なかったのか」をも考えねば不公正となります。キリスト教世界は単に神の是認の下にはないからですか?
皆さんの責任ある立場の方々も不完全で許されるべきなのであれば、ほかの誰もが許されるべき不完全さを負っているのではないのでしょうか。

では、神の是認の有る無しは何によって決まったのでしょう。 ものみの塔以外のキリスト教はすべてが「サタンがまいた毒麦」だからでしょうか?
それですと、どのような宗派でも「自分たちは神が蒔いた小麦である」と主張するだけで正当化することが可能となってしまいます。
イエスの直弟子たちのように、絶対的な奇跡のしるしがどこにもないからです。それこそが初期キリスト教と今日のあらゆるキリスト教とを分かつ違いとなっております。

そこでものみの塔は、優れた聖書解釈、偶像礼拝をしていないこと、兵役の拒否や政治に関わらないこと、輸血を含めて血を避けていること、仮のものにせよ神の名を唱えていることなどを次から次へと挙げることでしょう。
では、それらの「証拠」の中で他との行状の「比較」ではないものが何かあるものでしょうか?それは他の宗派でも行える「人間の業のしるし」ではないのでしょうか? 明らかな神からのしるしが何かひとつでもあるでしょうか?

こうして見回しますと、比較による「消去法」で神の是認の下にある宗派を捜そうとすることには根本的に無理があることが見えてまいります。
それは人間の世界にこだわることでは近視眼的であり、良さそうに残ったものをひとつ選らんでいるに過ぎません。
そのうえ、「比較」は相手を非難する相対評価で成り立ちますので、他宗派の欠点を自派の正統の理由としなければならず、それは絶え間ない競争と蔑視を生み出さずには済みません。それはどうしても「パリサイ人」を作ってしまうことでしょう。

これまでにも、そのようにして世の中の様々な「クリスチャン」が、それぞれの宗派にご自分にとっての「正しいキリスト教」を見出してまいりました。
それぞれの方々には結構な事なのでしょうが、その「正しさ」は必ずしも他の人にとっても「正しさ」となるわけではありません。それは精々「比較の上での正しさ」であって、誰にも明らかな「絶対の正しさ」にはならないからです。

ここに関係する問題は、人間の倫理の限界でしょう。
ある人は人間が絶対の正義を持ってはいないという現実を受け入れることができません。

ですが、パウロはこう言っています。『すべての人が偽り者であったとしても,神は真実であることが知られるように。』(ローマ3:4)
間違えもする普通の人間と、神からの聖霊のどちらに人は信をおくべきでしょうか。
まさしく、「ものみの塔」とは「聖霊の注ぎのない人々」を「油注がれたクリスチャン」と呼んで、全き専心を捧げる宗教であり、神からのものである確たる印のない人々に追随する教えに従うものであることは否定ができません。

しかしいま、絶対的キリスト教が無いとしましても、キリストの臨在によって与えられる聖霊を待つことはできます。それこそが、神を畏れて待ち望む信仰と言えるものではないでしょうか。

真の聖霊は聖霊注がれたと主張する人にだけ分かるようなものではなく、キリストや使徒らのように、神からの印として信仰を惹き起こし、『人々を右と左に分ける』ほどのものになるでしょう。それにさえ信仰を働かせないとすれば『神を偽り者とする』ことになると使徒ヨハネは警告しております。
また、イエスご自身も『もしわたしが,ほかのだれも行なわなかった業を彼らの間で行なっていなかったなら,彼らには何の罪もなかったことでしょう。』と言われ、初臨の業でイスラエルが裁かれたことを言われました。

それですから、『だれでも聖霊を冒とくする者には永久に許しがなく,その者は永遠の罪を負う』と言われたのでしょう。この点で、ものみの塔は『聖霊』という神の証しを軽視してはこなかったでしょうか。なぜなら、それを持たないからです。また『聖霊』のない人々が「神の経路」となり得るのでしょうか。いいえ、それは詐称でしょう。そこに永遠の命もなにもありません。ただ、強い願望により、そうであって欲しいと思い込んでいるのでしょう。それは敬虔でもなければ、真に利他的と言えるものでもありません。

人は『信仰によって義と宣せられる』のでありまして、真に人を救う信仰とは、人間製の宗派の比較によらず、奇跡の聖霊という神からの印に対するものであるべきではありませんか。




⇒ 「『聖徒』 聖霊の指し示す者たち

⇒「ヨブ記の結論 唯一の正しい宗派があるか

⇒ 「小麦と毒麦 『不法の人』の現れるとき

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追記

永らく「ものみの塔」に所属されてこられました方々には、その教理がすっかりと人格や行動を形作るように、価値観やご自分の存在の安心をも、そこから得てこられたことでしょう。
そこで、新たな観方や信仰信条を考える余地も、ほんの僅か、あるいはほとんど無いというところが実情でしょう。
「ものみの塔」の教理が、ご自分の安らかな心の置き場所となってきたからです。
それでも、その心の置き場所は、本当に安らかさをもたらすところであったでしょうか。

例えますと
神ご自身の介入のない状態では、誰も「自分は正しい」とは言えないのですが、それがある人々には不安で仕方がないようです。
しかし「正義」と申しますものは、元来『罪』ある人間には属してはおりません。それが証拠に、世界に向かって「これが真理だから従え」と言って世界を平伏させる義人は一人もおりません。完全な真理の体系を説明できる人が居るでしょうか?それは常に上から与えられるばかりで、聖書が述べるように、それを自ら体現できる人もけっして存在し得ません。

ですが、この現実がどうしても認められないなら、その人は精神的圧制を他の人に課すことになり、ご自分の宗教以外の人々を断罪することになるでしょう。つまり、人はみな不完全で『罪』を宿していることを忘れているのです。
そこでは、ご自分の宗教の立場を認めてもらうのには、他の人々の思想や立場も認めなければならないという当然の良識も失って、傲慢というありがたくもない性質に染まり兼ねません。

正義感と敵意を特徴とする宗教上の過激分子に共通する精神がまさしくこれではないでしょうか。それは非常な害悪をもたらすもので、主イエスもこの恐るべき精神によって死を遂げられました。それこそはサタンの思いを宿すことでありましょう。

やはり、神ご自身の介入のない状態では、誰も「自分は正しい」とは言えません。これが『罪』を持ち、倫理上に欠陥を持った人間の現実ではありませんか?たとえ聖書が正しくとも、それを間違いなく理解している人が誰かいるでしょうか?

もし、自派の正当を言い立てるとすれば、どうしても実情とは異なるので無理やあらが目立つことになります。そこで、その宗派やそこに属する人々は、強い反論に出合うと思考を止めて答えを出さないよう努めなくてはなりません。そこで新興宗教などで見られる、誰かに話かけはしても、反論は受け付けないという信者の理不尽さの背景があるのでしょう。
つまり、宣伝はしても合理的な推論さえしないという論理性の破綻です。神がそれに証しを添えるようなこともけっしてありません。ただ、自派の存亡に関わるような反論については、頑強に理性や意識から締め出す以外に方法が無くなってしまいます。


ものみの塔のすべてが悪いわけでもありません。確かにキリスト教諸宗派よりも進んだところも見られます。
ですが、教理や業などで幾らか優れているように見えたにせよ、「神の是認」にまでは届いていなかったというべきでしょう。
本当の神の是認を前にしては、ものみの塔の良さも五十歩百歩であり、この点を謙虚に認められなければ、現実を見失うばかりか『聖霊を冒涜』することにもなり兼ねないことでしょう。

「聖霊の賜物」につきまして、ものみの塔は”神はその組織に預言や異言や知識の霊の賜物がもはや必要ではないと判断なさいました。”とまで断言しております。(1992年7月15日号 ものみの塔p31) こうした、神を代弁するかのような決め付けの論調は度々繰り返されていますので、ものみの塔の奇跡の賜物を過去のものとしてしまう姿勢は明白と云う以外にありません。それでは福音書が語る聖霊によって王や高官の前で語るのは誰なのでしょうか。

ですが、お考えください。
人類史のクライマックスとなる終末において、神がその御力を発揮されない理由が何かあるでしょうか?(ミカ7:15-17)
神の是認がユダヤ教からイエス派に移ったことを聖霊が証ししたのであれば、裁きがある終末の中で神の是認がどこにあるかを奇跡の賜物をもって示さないことがあるでしょうか?

イエスは、終末に聖霊を注がれる弟子たちが審問の場で『諸国民への証し』を行うと言われました。(マタイ10:18)
その言葉にわたしたちは、不安ではなく希望を託すことができるでしょう。それこそが、真に神の是認ある人々を将来に見出すという願わしい希望です。
彼ら『聖なる者ら』には勇気が求められます。
では、その益に与る希望を持つ者が、真相に従ってその道を変えることに臆していて良いものでしょうか。

個人の信じられるところに応じて信じることには、やはり勇気が要るものです。
「ものみの塔」は個人が判断力を働かせて、組織の判断を吟味なり評価なりすることを勧めてはきませんでした。
むしろ、一度「真理」を見つけたのだから、それから離れないことを名目に、他の一切の意見からエホバの証人が耳を閉ざすよう指導しております。
もちろん、これは恐れの感情を利用した信者の囲い込みのようで、「真理」を云々する以前に正しいものでなく、人の尊厳を蹂躙しています。

ですが、この事だけは信じられる確かなことではないでしょうか。
つまり、いずれは聖霊が注がれ、その信仰に応じて人々が裁かれるということです。

ですから、今どのような宗教や宗派があるにしても、全能の神ヤハはすべての個人を放ってはおかないと言えることです。




11.「大いなるバビロン」とは何ですか?

2015.10.02 (Fri)


「大いなるバビロン」とは何でしょうか?
ものみの塔によりますと"偽りの宗教の世界帝国"であり、"エホバ神に反対する立場を取るすべての宗教が含まれ"るとのことです。
つまり、エホバの証人以外の宗教をすべて含めた名前として「大いなるバビロン」が用いられております。

ヨハネへの啓示の中で、この『大娼婦』は最期に、彼女の顧客であった『地の王たち』から攻撃を受けて滅ぼされる姿が描かれています。そこで『彼女の災厄を共に受けることを望まないなら,彼女から出なさい』とも促されているというわけです。

この『彼女から出なさい』との命令の意味は、皆さんにとっては次のような意味になることでしょう。
「エホバの証人以外のすべての宗教は偽りであるので、そこから出てエホバの証人になるべきです。」

多くのエホバの証人の皆さんは、キリスト教世界が三位一体で混乱し、刑具の十字架を崇め、政治と混じり合っては多くの流血に関与してきたことをよく理解していらっしゃいます。
その通りに、キリスト教にせよどんな宗教にせよ、偶像崇拝などの宗教面ばかりでなく、政治への介入によっても様々な宗教には負うべき汚れが付着していることは間違いないでしょう。

しかし、エホバの証人については、第二次大戦の最中に兵役を拒否して連合国と枢軸国とに関わらず、迫害を受けても戦闘に関わることを多くの人々が拒絶してきたことはその方面で知られたところです。
また、キリスト教に本来求められていない教理や儀式を振り払ってきたことにおいても、確かにものみの塔は特異な存在であり、それゆえにもキリスト教世界から「異端」の烙印を押されてきたことは、かえって勲章のようなものでしょう。

では、それらが「ものみの塔」という宗教組織だけが清く汚れない神の是認されたもので、ほかはすべてが滅びる偽りの宗教であることの証拠と言えるでしょうか?
また、聖書の記す『大いなるバビロン』とは、本当に「偽りの宗教の世界帝国」という意味で、また「エホバの証人以外のすべての宗教」という意味で啓示の書は語っているのでしょうか?
これまでもエホバの証人であられたからには「そうに違いない」と言われる以外にないことは承知しております。
では、ヨハネへの啓示の聖句を思い起こし、その正しさを確認してみるのはいかがでしょうか。

さて、ものみの塔がこの「大いなるバビロン」を解説するときには、それが昔からずっと続いて来た宗教制度とされてきました。
確かに「バビロン」は非常に古くから存在した都市であります。
シュメール時代から、この地方では偶像が見られ、占いや呪術、死後の世界を教える宗教を有していたとのことです。

また、啓示の書での「大いなるバビロン」については、政治との関わりと共に強調されるのが『心霊術の行い』であり、『その女が聖なる者たちの血とイエスの証人たちの血に酔っている』と述べる部分も、ものみの塔では歴史上にずっと正しい崇拝者を迫害をする者であったと捉えています。
それは『彼女の中には,預言者と聖なる者たちの[血],そして地上でほふられたすべての者の血が見いだされた』という啓示の書の記述によって裏付けられているようにも見えるかも知れません。つまり偽物の崇拝で、エホバの証人のような「正しい」人々を迫害してきた宗派を指すというでしょう。

それにしても、『大いなるバビロン』にユダヤ教やキリスト教以外の多様な宗教もすべてが含まれているのでしたら、どのようにして『預言者と聖なる者たちの血』がそれら別の宗教にも見出されるのでしょう。例えれば、日本神道などはどうでしょう。これらの宗教から流血に至るような激しい迫害を預言者や聖なる者が受けたことがあるのでしょうか。またはユダヤ人との軋轢があったでしょうか。

カトリックの宣教師であれば、日本の鎖国前に幾らかは処刑もされていますが、それはヨーロッパの植民地化を防ぐ目的で為政者が行ったことであって、仏教や神道から積極的に介入してはおりません。一方で、宣教師らが武器商売を仲介するばかりか、日本人さえ相当数を奴隷として海外に売っていたことは余り知られていないにせよ、無かったことにはできず。キリスト教の禁令には欧州人のしたたかな野心を食い止める意図があってのことと言われるのも間違いとはいえないところがあります。

そこで、単純にすべての宗教が「正しいキリスト教徒」を迫害してきたと唱え、『聖なる者たちの血』の負い目のない宗教も『大いなるバビロン』に含めてしまいますと、『ご自分の奴隷たちの血の復しゅうを彼女の手に対して行なわれた』との気負いある記述は、随分と説得力を失って見えるものです。いったいどこに「正しいキリスト教徒」が居たでしょうか?(啓示19:2)

そこで考慮しなければならないのは、啓示の書の内容が『主の日』と呼ばれる期間に起こることを告げていることです。
啓示の書で語られている『大いなるバビロン』とは、『主の日』また終末に存在するものでありまして、その期間に「聖なる者たちとイエスの証人たちの血に酔っている」ことになります。

そうでありませんと、これを書いたヨハネの時代から、人々がこの「バビロン」から歴史上ずっと出るようにしてきたわけでもありませんし、「キリスト教世界」のほとんどが背教していた時期にはどこに逃れたら良かったのでしょうか。
そこで、この『出なさい』との言葉に従うべきはいつであったか、またどこに逃げるべきであったかと歴史を問うなら答えが出ません。啓示の書はこのバビロンの「滅びが近いので」そこを出るように語っておりますので、やはりバビロンを見分けるべきは、『主の日』でなくては意味がありません。

ですから『聖なる者たち』が何者で、『大いなるバビロン』がどのようにその血の罪を負うかにつきましては、キリストの臨在の日である終末で『聖なる者たち』に起こることを考慮しければならないでしょう。

イザヤ書にはこうあります。『あなた方はバビロンから出よ! カルデア人のところから走り去れ。歓呼の声を上げて告げ知らせ,これを聞かせよ。それを地の果てにまで届かせよ。言え,「エホバはその僕ヤコブを買い戻された。』(イザヤ48:20)
つまり、「バビロンから出よ」と呼びかけられているのは『買い戻される』『ヤコブ』に属する民であるのです。「エホバの証人」というわけではありません。なぜなら、買い戻される人々は『聖なる者』となり、人類に先立って『罪』から仮釈放されているからです。(ローマ8:1)

ギリシア語(新約)聖書の『聖なる者たち』(ハギオイ)がどのような人々かについて、パウロは『キリスト・イエスと結ばれて神聖なものとされ,聖なる者となるために召されたあなた方』としております。(コリント第一1:4)
これは皆さんが「油そそがれたクリスチャン」と呼んでいらっしゃる立場に相当しますが、もう少し聖書に耳を傾けると様子は異なってまいります。

彼らは『養子縁組の霊を受け』、『相続財産を受け継ぐ』人々であり、『キリストと共同の相続人』であるとも言われます。(ローマ8:15.17/エフェソス1:18)
この人々は神が『義と宣した者たち』で、聖霊により『神の子』と承認され、キリストと『共に栄光を受けるため,共に苦しむならば』天に召される人々となります。つまり、キリストの仲介による『新しい契約』に入った人々であります。(ローマ8章)

彼らに『注がれた聖霊』は奇跡の賜物をもたらし、訂正の必要のない霊感された言葉と真理を告げさせましたが、それは彼らの聖なる立場を証しするものでもありました。(エフェソス1:13-14)
またキリストに続いて『自分を捨て,自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従』う事が求められています。『契約』とは不確定な事柄について結ばれるものだからです。(マタイ16:24)

ですから、イエスも『狭い戸口を通って入るため,精力的に励みなさい。あなた方に言いますが,入ろうと努めながら入れない者が多いからです』と言われるのは、この例えで『王国』に入るか否かという絶えざる試練に彼らが直面することを指しています。まさしく『だれでも多く与えられた者,その者には多くのことが要求され』ることの端的な例と言えます。(ルカ13:22-30 ・12:48)

また、古代キリスト教徒の中には賜物によってイザヤのような古代の型の預言者とは幾分異なるタイプの『預言者たち』も居ます。(使徒11:28/コリント第一14:24-25)
キリストの臨在する終末ともなれば、彼らは聖霊によって王や高官の前で語り、その言葉には、『あなた方の反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできない』ともイエスは言われました。

ですから、終末での『偽預言者』とは、聖霊によらず、悪魔の力を得る預言者、妥協してしまう『聖なる者』のことを指していることになり、それは1タラントや1ミナを預かりながら、終末の反対が『恐くなり』霊の賜物を『埋めて』しまい、銀行の『利息』さえ受け取らず、『新しい契約』に違反してしまう「脱落聖徒」のことでしょう。(マタイ7:22)

マタイ福音書第七章によれば、彼らはイエスの名によって『悪霊を追い出し、数多くの強力な業を』行ったのです。ですが彼らは『不法を行う者』とされ王国には入れません。恐れなくキリストの道を辿る勇気を奮い起こさなかったからです。
確かに、イエスの臨在はこれら「天的成員」が、世に先立ってまず裁きを受けることは、聖書のあちこちに明瞭に書かれております。むしろ、それを否定することの方がよほど難しいくらいです。どうぞ、キリストの臨在に関わる聖句をもう一度お確かめください。

これがつまり、聖徒の試み、『一方は連れて行かれ,他方は捨てられる』とされることであり、『入ろうと努めながら入れない者が多い』とは、本来、天の王国に入るべき重い責任を担う聖徒らに対する言葉とはなっているのです。

そこに、ものみの塔の主張する「油注がれたクリスチャン」を超える姿がはっきりと見えることでしょう。
ものみの塔の主張する「油注がれたクリスチャン」は、記念式で表象物に預かれば、特に『大群衆』以上の厳しい裁きや試練を受けることもなく、天に行くことは確定済みですが、それにしては聖霊の賜物を持ちませんので、この世の為政者の前に引き出され、『聖霊によって語る』こともありません。
精々が裁判所に実際に呼び出されて「自分は神を代表しておらず、責任がない」と言うのなら、正直でまだ良いほうです。

では、聖霊によって語る本当の『聖なる者』とされる人々は、まだ現れていないという見方は間違っているでしょうか。
イエスの終りの日の預言で語られる弟子たちは、『自分の苦しみの杭を背負って、わたしに続きなさい』と言われているのですから、『大群衆』とは比較にならないほどの試みがあることでしょう。
当然、そこから離れ落ちる者も出ることが、タラントやミナの例えなどにも明らかです。

そこで聖書の言う『偽預言者』とは、ただの異教の宗教家を言う以上のもので、「脱落聖徒」らが『偽預言者』と変じてハルマゲドンを誘発するのに相当な役割を持っていることを啓示の書が明かしています。それはまさしく『主の日』に予告された『背教』であり、単なる「他の宗教の教師」を超える存在と言えます。(啓示16:13・テサロニケ第二2:3.8)

やがて『聖なる』人々に聖霊が注がれ、初代のように再び地上に現れる時が来ることでしょう。その目的と言えば、『総督や王たちの前に引き出され、彼らと諸国民に対する証しのため』であると福音書は明かしております。つまり、それこそが「世界宣教」となり、人々は「キリストの兄弟」を見分け、親切を施すこともできるでしょう。(マタイ10:16-20/マルコ13:9-13/ルカ21:12-19)

そこで、これらの人々が実際に現れるなら、世の中がどう反応するかを考えますと、政治家たちには『神の王国』に支配権を譲り渡すよう求められることでしょうけれども、それに権力の座にこだわる政治家たちが応じるとも思えません。そこで世界の大きな関心を呼ぶでしょう。それは世界を揺るがし、人々の中から信仰を懐いて聖徒を支持し、キリストの右に『羊』として分けられる人々が現れると考えない理由が何かあるものでしょうか。

そして宗教界としても、『聖なる者たち』に強く反対せずにはいられないのではありませんか。
神の聖霊によって語られては、どのような宗教もかすんでしまい、宗教はその実態を暴露されてしまうので、それは存亡の危機でもあり、人々を引き留める力も大いに失ってしまうのでしょう。その言葉は『反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできない』ほどのものであるとイエスは言われましたから、「聖霊に導かれている」と公言しながら、しばらく前の見解を常に調整するようなものではないようです。(ルカ21:12-15)

こうして見ますと、聖霊の発言に反駁もできない為政者らと宗教家らとは、利害が一致することは自然な流れになるでしょう。
つまり、聖霊で語る『聖なる者たち』を迫害し、亡き者とし、黙らせることにおいてです。

しかし、今日の宗教家といえば、イスラムも過激派でもない限りは権力を直接に行使できませんので、『聖なる者たち』を攻撃するよう政治家たちに働きかけるほかありません。

そこで啓示の書の幻の中で、『聖なる者たち』を攻撃するために用意されるという『七つの頭を持つ非色の野獣』という強大な権力の上に、『大いなるバビロン』が乗っている理由に見えるものがあります。(啓示13:1-7/17:3)
しかも、その女は『聖なる者たちの血とイエスの証人たちの血に酔っている』のですから。

こうして見ますと、この野獣の上に座す女『大いなるバビロン』が何であるのかにつきましては、啓示の書の他の聖句とも合致が出てまいりますので、いよいよその実体が分かってくるではありませんか。

それら『聖なる者たち』に反対する多様な宗教は、単に正しい宗教ではなかったことが罪とされているのではなく、はっきりと神からの音信を聴き、それが正しいことを自覚しながらも『聖なる者たち』に反感を抱き、聖霊によって語った人々の迫害を野獣に対して誘うところに『聖霊に言い逆らう』罪が生じるというべきでしょう。しかも、『聖なる者たち』を殺害に名を連ねるなら、報復されるべき『血の罪』も生じます。(マタイ12:32)

ですから『大いなるバビロン』とは、『聖なる者たち』に反対し、政治家らに働きかけて迫害を仕掛けさせるすべての宗教を表していると言うべき理由があるのです。それは、かつてユダヤの宗教家らがローマ総督を動かして他ならぬメシアを処刑させたようにです。

今の時点では実体がどのようなものか分からない『七つの頭を持つ非色の野獣』によって『聖なる者たち』は『殺される』ことになりますが、これはかえって『聖なる者たち』を主に倣わせて練り浄め、キリストと共に支配するに相応しい者としてしまいます。(啓示11:7/11:11-12/ダニエル11:35)

それからほどなく『大いなるバビロン』はその重大な報いを受けるのでしょう。啓示の書にはこうあります。
『[神]は,その淫行によって地を腐敗させた大娼婦に裁きを執行し,ご自分の奴隷たちの血の復しゅうを彼女の手に対して行なわれた』(啓示19:2)

こうして『大いなるバビロン』の滅びの前には、必ず『聖なる者たち』の聖霊による活動が先立つことが明らかとなります。
そしてこの大娼婦に、現在どの宗派がそれに含まれるのかを決めることができません。
『聖なる者たち』の活動に反対し、彼らを亡き者とし、黙らせようとするすべての宗教を含むのであれば、ものみの塔が含まれないとはけっして断言はできません。むしろ危険性は大きいでしょう。
なぜなら、ものみの塔は『終りの日』の期間に奇跡を起こす聖霊の働きを度外視し、一般のエホバの証人の方々を動員して世界宣教としてきたのです。これはもはや否定できるものではありません。

ものみの塔はキリストの臨在の間に聖霊がこれほど大きな役割を持っていることを知らせる多くの聖句をほとんど無視してきている理由もそこにあることでしょう。
しかし、パウロは、『またわたしが宣べ伝えた事柄は,説得のための知恵の言葉ではなく,霊と力の論証を伴うものでした。それは,あなた方の信仰が,人間の知恵によらず,神の力によるものとなるためでした。』と述べて、聖霊の奇跡が宣教を支えたことを知らせてはいないでしょうか? (コリント第一2:7)

そして、みなさんもご存じのヨエルのこの預言では
『またその後,わたしは自分の霊をあらゆる肉なる者の上に注ぐことになる。あなた方の息子や娘たちは必ず預言する。あなた方の老人たちは夢を見る。あなた方の若者たちは幻を見る。そして,その日には下男やはしためたちの上にもわたしの霊を注ぎ出す。』(ヨエル2:28-29)
この預言の「霊を注ぐ」という句は「終りの日」に成就しても、ものみの塔の見方では「預言する」の句は成就するとは言えなくなります。

キリスト・イエスも、『約束の聖霊』が到来するときには『その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。』と言われました。これは、『この世』を糾弾するという意味であり、反論の余地のない言葉を語ることも『終りの日』の印であることは、それぞれの福音書からも明らかではありませんか?
『大いなるバビロン』とは『聖なる者たちの血に酔う』、つまり権力を誘う宗教の集団であり、神からの言葉に反対し、聖霊に逆らうという大罪を犯して、自らも同じ酬いを受ける事になると言うべきものです。


他方でものみの塔が、聖霊の働きをほとんど無視してきた理由といえば、「聖霊で油そそがれたクリスチャン」という人々をエホバの証人の内部に居ることにしてしまったからでしょう。
ですが、聖霊の働きに関わる言葉を無視するほどに頑なである集団に聖霊が降ることが期待ができるものでしょうか?(ルカ11:5-13)

やはり、『聖霊』の理解からしますと、「油そそがれたクリスチャン」と聖書中の『聖なる者たち』とは明らかに別ものです。
その最も異なるところは、聖霊の賜物が無いという一言に尽きます。
「聖霊で油そそがれたクリスチャン」には、予告されたような聖霊による宣教は不可能です。
そのために聖霊も無い多くのエホバの証人を肉による労役の世界宣教に従事させてきたのですから。

確かに出版物にはこうあります。


重要なのは救いの音信であり,奇跡ではありませんでした。奇跡は音信の真実性を証明したに過ぎません。そのこと,および神がクリスチャン会衆を用いておられる事実がひとたび確立されるや,霊による奇跡の賜物は癒しを含め,もはや必要なくなりました。

<ものみの塔誌1981年12月1日p7>

こうした見解の表明は一度だけではなく、長い期間に亘り定説化してきたもので、もはや、変更は難しい、いや不可能というべきでしょう。それが「油注がれたクリスチャン」の存在を揺るがしてしまうことになるからです。⇒ 「ものみの塔の奇跡の業への見方

では『聖なる者たち』が現れ、本当に聖霊による奇跡の言葉を語るときに、ものみの塔はどのような反応をするのでしょうか?
これが『大いなるバビロン』に関する皆さんの最も重要な問いとなるでしょう。これこそは、異教や心霊術に潔癖であるよりも遥かに重大な問題となるでしょう。
ものみの塔に留まって、聖霊に反対するとなれば、それはどういうことになるでしょうか。

聖なる者たちの血の罪を負うものとされて、公権力を介した神の復讐にエホバの証人も含まれるなら、おそらくは「預言の通りに迫害される時が来た」と思い込んでしまい、そのまま終わってしまわないものでしょうか。

エホバの証人の皆さんは「天的成員」を見間違えてきたのであり、聖霊を真に注がれた人々を待つべきではないのですか?




⇒「大いなるバビロンの滅び

⇒「誤解されてきたバベルの塔

聖なる者たちの声に信仰を働かせ、彼らを支持する人々は、実際の攻撃を受けることなく保護されることでしょう。
.⇒「ヨエル書の蝗害を解き明かす黙示録

10.二つの世代が重ならない理由

2015.09.27 (Sun)

エホバの証人の皆さんが特に希望を託してきた一言がイエス・キリストの語った「終りの日」の預言の中にあります。
『これらのすべての事が起こるまで,この世代(ホ ゲネア)は決して過ぎ去りません』という中の『この世代』という一語こそが、永年エホバの証人の方々の注意をひき付けてやまない言葉となってまいりました。

かつて「ものみの塔」は、この『世代』というイエスの言葉を根拠にして、頻繁に次のように主張し続けていたものです。
”イエスは、「これらのことがすべて起こるまで、この世代は決して過ぎ去らないであろう」とはっきり言われました。この点に注意してください。現存する悪の制度とあらゆる悪の終わりは、その世代のすべての者が死ぬ前に来るのです。”
この引用文は、二十世紀中のものみの塔の出版物によく見られたフレーズで、エホバの証人の信仰の特徴を形作ってきたものです。つまり、聖書的年代計算から導き出された1914年という年が『この世代』の判断基準であるとのことです。
ですから、この『世代』の一語が「1914年」と共に、エホバの証人や周囲の方々、また共に聖書を学んだ人々に与えた影響は非常に大きなものとなってきました。

しかし、1914年は遠く過ぎ去って前世紀の事となり、『世代』が尽きることを理由に緊急感を煽る外部への宣教方法は減退せざるを得ない時代に入ってしまいました。いまでは「二つの世代が重なる」との弁明によって、いよいよ終わりは近いと緊張感を増す理由にされ、それに対する内部の方々の反応といえば、組織への依存をますます強めるばかりのように見受けられます。

その原因は、このような特定の時間的切迫を警告する近代英米の覚醒運動系の宗派が、これまでの歴史上で尽く失敗を重ねてきている中で「ものみの塔」以外に年代計算の信仰で延命している宗派も見当たらないからでしょう。年代信仰とは、自分たちだけは数字で宗教上の正解を出したと思い込まなければ、とても信仰を保てないほど脆弱な「教理」だからです。

しかし、この種の「信仰」は「ものみの塔」独自のものではなく、19世紀の英米では流行していた「信仰」でありました。
1914年に見えないキリストの臨在が始まったので「終わりの日」の災厄が起こり始めたというこの教理は、もともと19世紀アメリカの覚醒運動の唱導者ウイリアム・ミラーが『7つの時』は2520年であると主張していたものを、やがてものみの塔の創設者となる若き日のラッセル師がアドヴェンティスト派(N.H.バーバー)を通して19世紀から採用し始めたものです。ですからラッセル師が、神の時が来れば「正しいクリスチャンが天に召される」と主張したのも、この創唱者がまさしく覚醒運動の延長線上の「信仰」を持っていた証しです。⇒再臨待望 Wiki

ただ、1844年にそれが起ると唱えて「大失望」を刈り取ったミラー信望者の年代計算を、ラッセル師は1914年に修正したことにより、覚醒運動を延命させる試みをしていました。しかし1914年が過ぎても彼らの願っていた「正しいクリスチャンの天への召し」は起こらず、ラッセル師と追随者らも失望しなければなりませんでした。しかし、この年に第一次世界大戦が勃発していましたので、これが後のエホバの証人の基礎教理を形作ることになります。それでも、この時点で今日のエホバの証人のようには『世代』の信仰を持つには至ってはいませんでした。その1914年にキリストが到来し、この世のすべては終わるはずであったからです。
⇒ミラーからラッセルへの系統樹

しかし、20世紀に入ると「現存する万民は決して死することなし」との講演を二代目の代表者が行った1920年を経て、21世紀の今日に至るまで『世代』の教理は、ものみの塔を特徴づけると言ってもよいほどの基本的信条として、神の王国による新体制の到来時期への信仰に継承されてまいりました。「1914年からひと世代でそれが起る」と信じ始めたからです。

この『世代』の解釈が、第ニ世紀までに書き終えられた聖書の記述と、ずっと後代の彼ら信者たちとを強く結びつけ、アドヴェンティスト派と同じくキリストの臨在を興奮のうちに永遠の命と共に迎えるという、刺激的で、既に神の是認に入ったような幸福感を伴う教理として今日まで保持されています。

特にものみの塔では、キリストの臨在が1914年から始まったとするところが特徴でありました。しかし、今日ではすでに一世紀を経てしまいましたので、「ふたつの世代の生涯が重なる」と訂正され、引き続き『その世代』という言葉への執着は続いています。そこに「楽園に入る」というエホバの証人の方々の最大利得が懸かっているからのことでしょう。
いずれにせよ、イエスの語られた『この世代は決して過ぎ去りません』というこの一言に時間的期待をかけていらっしゃるのでありましたら、その信仰の本質はミラーの運動とさほど変わるところがありませんし、18世紀に始まった時間的幸福感を誘う覚醒運動の余波がこの21世紀にまで引き伸ばされているという事は間違いのないところと言えましょう。

エホバの証人の方々の信仰では、その『世代』の言葉を他ならぬキリストご自身が語られ、さまざまな「終わりの日」の患難も「この世代」の内にすべてが終わり、願わしい楽園をもたらす『王国』が到来するとの説明を受け容れた結果として培われたものでしょう。
それはもうすぐそこまで来ていると励まされ続け、様々な困難に立ち向かい、自己犠牲にも邁進して来られた方も少なくないものと存じます。それこそが人類の唯一の希望であると信じていらしたのであればそれも当然の反応と言えましょう。

また、第一次世界大戦が勃発した1914年が一般的にも歴史上の転換点とされていることもまさしく事実でありまして、ラッセル師が世の終りの到来、また追随した人々の昇天ということでは、予告した通りではなかったにせよ、世相の状況分析によらず、その年が歴史学上で何かしら徒ならぬ時となるとのことであれば、予め計算された年がそうなったことも事実であります。

では、キリストの預言された『この世代は過ぎ去らない』との言葉は、ものみの塔の主張の通りに患難が続く時代の長さを知らせることがやはりその目的であったのでしょうか?マタイなどの終末預言を拾い読みしますと、なるほど、そのような印象も受けます。

さてそこで、別の預言の中での主イエスの言葉を見ますと、ユダヤとエルサレムの滅びについて、このようにも言われています。
『あなたの敵が,先のとがった杭でまわりに城塞を築き,取り巻いて四方からあなたを攻めたてる日が来るからであり,あなたの中で石を石の上に残したままにはしておかないでしょう。あなたが自分の検分されている時を見分けなかったからです。』(ルカ19:43-44)

「神殿の石が石の上に残らない」とは、オリーブ山上での「終わりの日」の預言の中でもイエスの語られた言葉であることはよくご存じのことと思います。
これらの双方の場面で語られた『石』に関する言葉は、共に西暦七十年に成就することになるローマ軍によるエルサレムの滅びを確かに予告した言葉でありましたが、これも歴史に明かされる通りです。

また加えて、当時のユダヤの体制が『検分されている時を見分けなかった』ことがユダとエルサレムの荒廃の原因であったことをイエスはルカ福音書で語っています。(ルカ19:44)
それは、戦争や地震があったかどうかという情勢の観察を求めるものではなく、ユダヤ人に年代計算が出来ていなかったということでもありません。イエスという奇跡を行う人の現れをどう捉えるかという問題で躓いていたというべきでしょう。(ヨハネ5:38-40)

奇跡の業を行い、見事に語るナザレ人イエスにメシアの到来を認められない問題がユダヤ人にあったからです。
使徒ヨハネの言う通り、『神に信仰を持っていない者は神を偽り者としているのです。なされた証し、つまり、神が証人としてご自分の子に関してなさった〔証し〕に信仰をおいていないからです。』との使徒ヨハネの言葉は、まさしくイエスの奇跡の業を見た上で否認したユダヤの世代の罪として、イエスも指摘されました。イエスの奇跡について、彼らは『だれも行わなかった業を見た上で、わたしもわたしの父をも憎んだのです。』(ヨハネ第一5:10/ヨハネ15:22〜24)

つまり、ユダヤ人は「奇跡を行うメシア」の到来によって信仰が『検分されていた』のであって、これはマラキのユダヤ体制への警告の言葉からもはっきりと分かることです。マラキは、契約の使者であるメシアについて『彼の来る日にだれが忍べるであろうか』と警告していました。(マラキ3:2)
そのため、ユダヤ教のラビたちは、これを「メシアの患難」とさえ呼んで恐れていたことがタルムードに記されてもいます。⇒安息日の運搬規定
そしてまさしくユダヤ教体制派はメシアの災いを被ることになりました。

ですから、そこで「年代」からメシアに気付くべきだったと主張するには、かなりの無理がありますし、年代計算が『検分されていた』と云えば、これは的外れである以外に言いようもないことは同意して頂けるものと存じます。

信仰に篤いユダヤ人であれば、メシアの到来に気付いた人々は、どんな年代であろうとも、奇跡を行うナザレのイエスを見て気付き、その価値観からメシア信仰を懐いたことでしょう。それが「神の証し」であったからです。

奇跡の業について、イエスは当時の世代の問題についてこう言われました。
『もしわたしが,ほかのだれも行なわなかった業を彼らの間で行なっていなかったなら,彼らには何の罪もなかったことでしょう。しかし今,彼らはわたしもわたしの父をも見,そのうえ憎んだのです。』(ヨハネ15:24)
このようにユダヤの『世代』は、イエスを通して目撃した『父の業』を否認し、サタンの力だと言ってはメシアを退けたこと、つまり、聖霊の働きをはっきりと見ていながら、それを冒涜するという赦され難い罪を行い、またそこで裁かれたのです。

イエスは『世代』が何を行うかについて、このようにも言われました。
『彼はまず多くの苦しみに遭い,この世代から退けられねばなりません。』(ルカ17:25)
ここでも『この世代』(ホ ゲネア)という言葉でイエスは話されました。つまり、メシアを退ける『世代』であったと語っていたのです。

では、『この世代』という問題の言葉を「メシアを退けた世代」としてイエスは言われたのでしょうか?

ルカ福音書を見ますと、次のように書かれております。
『世の基が置かれて以来流されたすべての預言者の血がこの世代に対して要求されるのである。アベルの血から,祭壇と家との間で殺されたゼカリヤの血に至るまでが。そうです,あなた方に言いますが,それはこの世代に対して要求されるのです。』(ルカ11:50-51)

イエスは度々『この世代』について言及されますが、それぞれに良い意味は見出せません。
『邪悪で姦淫な世代』『不信仰でねじけた世代』と手厳しく呼ばれます。

それは使徒の時代になっても変わらず、ペテロはあのペンテコステの日に集まってきたユダヤ人の群衆に向かっては、『この曲がった世代から救われなさい』と繰り返し説き勧めておりました。(使徒2:40)
パウロも、『曲がってねじけた世代の中にあってきずのない神の子供となる』ことを教えております。(フィリピ2:15)

また、バプテストのヨハネは、当時のユダヤに与えるキリストの影響について、『その方は聖霊と火であなた方にバプテスマを施すでしょう。 [穀物を]あおり分けるシャベルがその手にあり,その方は自分の脱穀場をすっかりきれいにし,自分の小麦を倉の中に集め,もみがらのほうは,消すことのできない火で焼き払うのです』と警告していました。(マタイ3:11-12)

確かに、西暦七十年にはユダヤとエルサレムは戦火によりローマ軍の蹂躙するところとなりましたが、それこそは「火のバプテスマ」であり、無用な籾殻を『火で焼き払う』という表現に合致していると言うべきでしょう。
他方で、キリストに信仰を持った人々はあのペンテコステの日から、聖霊のバプテスマを受け、『小麦』として倉に集められております。

これらの背景を考えますと、ひとつの観点が浮かび上がってまいります。
つまり、イエスは『この世代』という言葉を用いたときには、時間の長さを表す意味としてではなく、明らかにメシア到来による「裁き」があった『世代』の悲惨な結末を言われています。それは予めマラキが『彼の来る日にだれが忍べるであろうか』と警告していた通りです。(マラキ3:2)

そのとき、ユダヤ律法体制が目的としていたはずのメシアへの信仰にユダヤ人は到達することもなく、却って退けてしまった決定的な背きの世代の生きている間に、その処罰としての「報いが必ず臨む」という意味で『この世代』と言われたという事に他なりません。

これこそは、ものみの塔の中では、ずっと背景に押しやられてきた観点であると言えましょう。それも、特定の年代1914年をキリストの支配の始まりと見做す観方に強く傾いていたので、何事も20世紀の事柄に当てはめようとした結果です。
しかし、キリストの世代当時の観点から見ますと、オリーブ山でこの言葉が語られてから、西暦七十年までの期間が37年であったことに気付くでしょう。
それは、エジプトを出たイスラエルの世代が過ぎ去るのを待って荒野をさまよい始めてからの38年間とほぼ同じ長さであったことになります。いずれの『世代』も四十年を越えるものではありません。

やはり、オリーブ山上で『これらすべてのことが起こるまで、この世代は決して過ぎ去りません』とイエスの語られたその通りに、その世代に対してユダとエルサレムの滅びが遅れることなく見事に起こっているのです。
もちろん「ふたつの世代が重なる」というような説明をする必要もありません。

まさしくイエスの語られたままに物事は生じており、『この世代』と言えばまさしく『この世代』であったのです。神の預言の言葉とは、このように違えることのなく成就するというべきでしょう。

ですからイエスの語った『世代』という言葉は、患難の続く期間の長さがどれくらいになるかについてヒントを与えるためではなく、処罰としての滅びが遅れることなくその世代に臨むことを知らせていたと理解すべき言葉であったことは明らかです。

ラッセル師の算出した「1914年」とラザフォード判事の「ひと世代」を組み合わせて案出された「時の予測」も、今では100年をさえ経過していますが、これは「いよいよ終りが近い」証拠でしょうか?この冗長な年月の経過と、キリストの言葉の引き締まった確かさを比較しますと、どうお感じになられますか?

では、ものみの塔の『世代』の捉え方はイエスの語られたその言葉の意味を得そこなったのでしょうか?
おそらくはそうでしょう。
聖句の関連から学べる教訓や、実際の歴史と整合していないのが見えるからです。

それでも1914年に拘りたい理由があるとすれば、「楽園での永遠の命」が素晴らしいと思えるからかも知れません。確かに聖書は「永遠の命」を否定はしていないものの、いつ実現するかの年代を信じた方々にそれを請合ったのは、神でも聖書でもなく「ものみの塔」というアメリカの新興宗教であったことになります。

他方で、福音書の中のイエスの終末預言では、戦争、飢饉、地震、疫病という災厄については補助的に語られていますが、その主要な部分といえば、読んだ通りに弟子たちに臨む苦難や誘惑があることと、それに弟子らがどう向かい合うべきかという教訓で占められております。

しかしラッセル師は、アドヴェンティスト派からの影響を受けて、年代を探るというアプローチから聖書を観るようになりました。それはW・ミラーに始まる19世紀アメリカキリスト教界の教理の流行でもあったことは、ものみの塔の「ふれ告げる」の書籍からもうかがい知れるところです。実際、若きラッセル師は1878年にもアドヴェンティストのバーバーらと共に、自らが天に召されるものと信じていて失望する結果を共有していたのです。⇒C.T.Russell

実際、ものみの塔の解釈にはアドヴェンティストと共通するところが幾つも残されています。年代計算による時の予告だけでなく、それが期待通りに実現しないときには「天での成就」を主張するところは、ただその年数が違うばかりのことであり、ほかにも「魂はその人そのもので、その人と共に死ぬ」というアドヴァンティストの一派の女性教祖ヘレン・ホワイトの理解がそのまま用いられているようなところがあります。

ラッセル師が教理を借りてきたアドヴェンティストの方はといえば、予告していた1843年の携挙が起らなかったために、相当数の信者を失っています。これは「大失望」と呼ばれていますが、それでも残った人々は、特にエレン・ホワイトを中心にその信仰を続け、予告は外れたのではなく、実は人には見えない天界でキリストが新たな奉仕を始められたのだという「新たな解明」を唱えて、このグループは、セヴンスディ・アドヴェンティスト(SDA)として現在も活動を続けています。

このような英米の「覚醒運動」の時代には、科学が応用された発明が相次いで社会が急速に進歩し、欧米の生活が格段によくなっていました。それは人間の叡智を信じる時代の到来でもあり、残された聖書というフロンティアの謎を説き明かす人間の能力に重きか置かれ、科学的に聖書にアプローチする試みが多様に為されました。高等批評もそのひとつと言えますが、19世紀のキリスト教に年代計算が流行する時代の潮流もあったので、ものみの塔の年代計算を信じた人々は、19世紀の蒙昧な誤りの中に信仰を持ち、現代も留まっていると言わざるを得ません。

残念なことに、年代計算が流行した時期はオリエント考古学が急速な進展を見る直前の時期であったため、19世紀からの年代の様々な仮定はその後に再考と訂正を余儀なくされてゆき、やはりラッセル師の理解も例外とはなりませんでした。

今日のものみの塔の年代主張である、前607年のエルサレム陥落が、以後の考古学の研鑽の結果と20年ほどずれているのは、ラッセル師の活躍なさった時期に原因があります。オリエント考古学の進歩より幾らか早すぎたのです。
それでも、ものみの塔は今日まで再考も訂正もしない道を選んできています。そのようにしなければ1914年臨在説が成り立たないところで譲れないものがあるからでしょう。

ですが、特定の年代を論証することがキリスト教の本旨なのでしょうか?
また、「聖書」とは人間の叡智で解明できるような書であったでしょうか。将来への「預言」とは年代を言い当てて救われるべきものなのでしょうか。
エホバの証人が、間違いなく「ご利益信仰」を行い、人の内面ではなく「気付いて信じた者が助かる」という利己的で狭い見識のパリサイ的な思考を懐いていることでは、本来のキリストの精神とは真逆です。⇒ 一神教の盲点

19世紀当時の聖書の密議を科学的に知ろうとする試みは、実際にはラッセル師がそうであったように、ピラミッドの構造や寸法などを根拠にするなど、オカルトの範囲に踏み込んでいましたが、その「疑似科学」による、人間叡智による探求、また、それが新たな信仰の形をもたらしたと思えたような痕跡が、この組織の発行になる古い資料に残されております。⇒世代の図表

ながらく証人のお一人でいらしたなら、きっとピラミッドと年代をかけ合わせたような図をご覧になった事がお有りでしょう。
これは当時には先進的とされた思想の流行を偲ぶには良い、アンティーク臭の漂う資料にはなるのでしょう。しかし、もはや19世紀のカビ臭い遺物です。三位一体が中世の荒唐無稽な誤謬であるように、今や1914年説誕生から三つの世紀の時を跨いで、ラッセル師由来の年代計算といえども、実は廃墟のように古びていないものでしょうか。

中東の発掘により考古学がようやく進展しつつある最中に、大胆にも前607年がエルサレム破壊と王権断絶の始まりであったと言い切ったところは、振り上げた拳が高すぎ、その後に考古学が進展するに従い、やはり1914年を導き出した起点である年代も考古学の進歩から取り残されてしまったところは否めません。

ラッセル師がその年代計算を発表した1876年の頃では、オリエント考古学は今日ほど解明されてはおらず、アッシリア史を解くアッカド語の資料が解読されている途上にあり、シカゴ大学に著名なオリエント研究所が設立されたのは1919年のことで、シュメール語が読めるようになったのは1930年のことでありました。

そればかりでなく、エレミヤの語った「70年」のラッセル師の解釈は、それ以前からの解釈(1823年J.A.ブラウン)をそのまま踏襲したものとなっておりまして、若きラッセル師が当時に流行した聖書解釈を寄せ集めていた姿が窺えます。ですから、前607年という年代に留まり続けるのも、19世紀のままに足踏みし、人間の叡智の進歩について行けなくなった証拠というべきでしょう。

しかし、よくよく聖書を読みますとエレミヤの70年の解釈も、預言書の筆者らやエズラの意図するところをかなり得損なっていたのが読めば分かるのですが、これをなぜ誰も指摘しなかったのか不思議です。エホバの証人は世界中に八百万人も居るはずではないのでしょうか。「エレミヤの七十年の終点から起点を探る」

そのうえ、ものみの塔の信仰箇条は年代が間違っているだけに留まりません。
このように古びた擬似科学的、またオカルト的な教えでは、イエスの終末預言に込められた弟子たちへの人格的で重要な訓戒のメッセージが置き去りにされてしまい、「何がいつ起こるのか」を言い当てるという、倫理性を置き去りに、聖書に隠された謎を探るような、魔術に似た「謎解き」の領域に追随者を引きこんでしまったというべきなのでしょう。こうした信仰の本質は、単に「生き残る」という身の安全に関心が向かいます。しかし、「神の裁き」というものは、察知して回避するべき災害のようなものなのでしょうか?

しかし、これはキリストの精神からすると相当に異質です。「神の裁き」はサバイバルを要する災害とは異なるからです。
初代の聖霊注がれた弟子らは、主イエスの訓戒に従い殉教さえ覚悟していました。つまり『死んでよみがえらされた方のために生き』たからで、けっして、キリストが自分たちのために死んでくれたのだと悦にいってはおりませんでしたし、メシアの到来を時の計算から時期を予測して備えるという事とも無縁です。

もちろん、危険を避けることは誰にとっても必要な行動ではあります。
しかし、人の内面を吟味される「神の裁き」は「危険」なのでしょうか。
患難がいつ起こるかの秘儀を聖書中に発見し、警報を鳴らして救われようとすることなのでしょうか?

そうではなく、イエスの教訓はメシアを退けたユダヤの『世代』のようになって、自分の正しさに頑なになり、却って滅びの側に立ってしまわないところにあるのではありませんか?

それこそはパリサイ人に例証されましたように、「その人の心はどうなのか?」という問いでありまして、正確な知識や善行を誇ることではありませんでした。
キリストの当時の宗教家たちは聖書に通じ、暗唱できるほどの人々であり、道徳的に振る舞うことでは相当に自信のある人々でありましたが、イエスをメシアと認めた人々のほとんどは、彼らではなく大衆であったわけですが、彼らは時を見分けたのではなく、イエスの奇跡にメシアを見出していたからです。

ものみの塔では、1914年からひと世代でこの体制が終わり楽園となることを正面に大きく掲げ、人々の期待を集めてまいりましたので、『この世代は過ぎ去りません』という言葉は”イエスの保証の言葉”とも、”創造者の約束”とも雑誌で宣伝されました。

しかし、イエスの言葉が裁きの執行を指していたのであれば、年代を知っただけで救われる理由は果たして何でしょうか?
ものみの塔は、この差し迫った大患難を知らせる人、また、滅ぼされるこの世とは異なる生活をすることを条件として信じる人々に請け負ってきたことは事実です。様々な禁止事項を守り、この世の終りを宣明することが救いの道であると言ってきたのです。

ですが、害が身に及ばないよう避けることよりも、イエスの訓戒の意味を知り、神がなぜ世の裁きをもたらすか、何が許されない事なのか、その意向を探る事こそをけっしておろそかにできません。イエスは『人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されます』と言われるのであり、裁きの要点は「道徳規準」や「組織の見分けや宣伝」とも言えません。まして年代に信仰をおく事とは到底言えません。(マタイ12:31)

ですから、『世代』という言葉に「楽園」までの期間の終りを信仰することは危ういことです。
それを信じるなら、ご自分に架空の「緊急感」を煽られことを許し、非常なストレスの中で自己義認の妄想に陥ることになるでしょう。

どこの宗派が正しいという考え方を別にしても、「神の裁き」を前にして、エホバの証人だけはもう救われて「楽園」に入ることにしてしまっているのですから、本当に終末が臨む時には、自分が神の是認にあると思い込んで律法体制と命運を共にしたパリサイ人と同じ道を辿る危険が濃厚ではありませんか?

パリサイ人も永遠の命を求めて聖書を調べ、相当に精通していたのですが、その動機に最も重要なものが欠けていることをイエスに指摘されています。聖書を知り尽くしていながらメシアを見落したからです。(ヨハネ5:39-44)


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しかし、より重要な事柄が何であるかを新約聖書は繰り返しはっきりと教えています。
神の意向また訓戒とは、メシアが『雲の内にあって』再び地上に関わられる本当の臨在のときに、「聖霊の言葉」を退けてしまわないようにすることを含んでいることはまず間違いありません。『なされた証しに信仰を置かないなら』ユダヤの『世代』と同じ結果を買い取ることになるでしょう。(ヨハネ第一5:10)

ヘブライ人の手紙には『今日,もしこの方の声を聴いたら,あなた方は,苦々しい怒りを引き起こした時のように,荒野で試した日のように心をかたくなにしてはならない。』とあります。(ヘブライ3:7-8)

「終わりの日」には、弟子たちは王や高官の前に引き出されますが、そこで何が起こるかをルカはこう記録しています。
『また何を言うかについて思い煩ってはなりません。聖霊が,言うべきことをその時あなた方に教えるからです。』

しかも、その聖霊による言葉がこの世を糾弾するものであることを教える主の言葉をヨハネはこう記しました。
『そして,その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。』(ヨハネ16:8)
この『納得させる』(エレグコー)とは「糾弾する、 誤りを示して言い開きを要求する」という意味があります。

ですから、ルカ書の終末の預言の中で、イエスはこう言われます。
『あなた方の反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできないでしょう。』(ルカ21:15)

マタイは、弟子らが総督や王たちの前に引き出される理由について、『彼らと諸国民に対する証しのためです』と明記しております。ですから、これは世界を揺さぶる音信となることでしょう。(マタイ10:18)

そこで、これらの句に加えて思い起こされるのがハガイの預言でしょう。
『あと一度 ―それはしばらくのことであるが― わたしは天と地と海と乾いた地とを激動させる。またわたしはあらゆる国民を激動させる。あらゆる国民のうちの望ましいものが必ず入って来る。』(ハガイ2:6-7)

これは聖霊を通して行われる本当の意味での「世界伝道」ではないのでしょうか。
本当に聖霊で油そそがれた人々がこの世に存在しているとすれば、このように際立った宣教を行っていることでしょう。
終末の人類を羊と山羊に二分するほどの裁きをもたらす宣教とは、不確かな人の言葉でなく、聖霊によって神が介入されると信ずべき理由がないでしょうか?

これに信仰を働かせるなら、聖霊で語る『聖なる者たち』に支持を表して救いに入ることになるでしょう。それは『羊と山羊』の例えに示されている通りす。しかし、聖霊の言葉を話していない人々、契約の奇跡のしるしを持たないただの人々を支持する理由が何かあるでしょうか?それは相手を間違えていませんか?

パウロは、聖霊がその人に押された『証印』となることを教えておりますし、当時の宣教は『霊と力の論証を伴うもの』であったとも記しております。(エフェソス1:13/コリント第一2:6)
また、その聖霊の賜物を『霊の顕現』と呼んでおりますが、皆さんの「油そそがれたクリスチャン」については、表象物に預かる他に『新しい契約』に入った証しを何か持っていらっしゃるのでしょうか?(コリント第一12:7)

もし、本当には聖霊を注がれた人々がこの世に現れていないのであれば、「終りの日」また「キリストの臨在」は1914年に始まってはいないという可能性を検討すべき理由があることになります。

その「終りの日」に、聖霊によってキリストの大使としての役割を果たす人々が現れるとき、かつてのユダヤ体制のように、それを退ける『世代』に含まれてしまうとすれば、どれほど年代のしるしに関心を払おうとも、イエスの預言に含まれた教訓からは何も益を得ないことになるでしょう。これこそ極めて注意深くあるべき問題ではありませんか?




・1914年という年代計算の根拠は、考古学だけでなく聖書記述がそのものが否定しています。
⇒「エレミヤの七十年の終点から起点を探る

・キリストの終末預言の意義は、弟子らに教訓を与え、忠節の試みに備えさせることにありました。時代を見分けるというだけのレベルにはありません。
⇒「マタイ福音書の終末預言と例え

・戦争、飢饉、疫病などはキリストの臨在の開始の印ではなく、大患難そのものに深い関連があります
⇒「黙示録の四騎士 時代の印か絶滅の使者か






8.問われるのは従順か愛か

2015.09.12 (Sat)
神の裁きで問われるものは


「神の裁き」と聞けば、誰しも幾らかの怖れを抱くものです。
キリスト教世界では、人は死後に天国か地獄かに分けられると教えられますからく、その違いはたいへんなもので、それを想像するに恐れもひとしおです。
カトリックでは、「地獄」は永遠に出て来られないほど恐ろしい責め苦の場所です。それでも出て来ることのできる「煉獄」や「辺獄」というものもあるそうです。

エホバの証人の皆さんには、賢明にもヘブライの古来の理解に基づき死後の世界の一切は存在せず、地獄などは異教のものであり聖書の誤解に過ぎないことはよく理解されています。
この点で、今日のものみの塔の創始者であられたチャールズ・テイズ・ラッセル師は、「地獄にホースを向けて火を消した」とも評された人でありました。これは迷信の中に固執したままのキリスト教界にあって、画期的な理解の回復と言えましょう。

やはり、人々が地獄を恐れて善行に励み、悪を避けるとすれば、その働きは犯罪を取り締まるこの世の権力とあまり変わるところがありません。
外部から力を誇示して人々を威嚇牽制し、人々に悪行を避けされるという方法はこの世の有様と同じです。誰であれ、人間の倫理性など当てに出来るようなものではないからです。

架空のものとはいえそれを信じさせることができるなら、人々の悪を抑え善を行わせるのに地獄ほど効果的なものもないでしょう。人の見ていないところでも神は見ているので、隠された悪事も最後には裁かれると教えられるからです。
永遠の責苦を与えるという「地獄」の教理は、この世の権力が治められない人目に隠れたところでも効果を発揮できる優れた統治法としてこの世の権力に協力してきたことでしょう。

ですが、ご承知のように律法に守るユダヤ教はともかく、キリスト教は根本的に外から力で規制するようなところはありません。
ギリシア語聖書に見られる教えの根本は、恐れによる拘束にはなく『愛』にあり、それは人を内面から変化させるものであります。

「愛の使徒」とも呼ばれるヨハネが次のように書いたのも、キリスト教ならではの教えと言えましょう。
『愛には恐れがなく,完全な愛は恐れを外に追いやります。恐れは拘束となるからです。』(ヨハネ第一4:18)

また使徒パウロも、上なる権威に従うよう述べた後にこう述べております。
『愛は自分の隣人に対して悪を行ないません。ですから,愛は律法を全うするものなのです。』(ローマ13:10)

そこで、キリスト教徒は警察のような『上なる権威』によって外からの圧力で悪行を抑制される必要がないようにとパウロは訴えたうえで、『愛』によって導かれ自ら行いを制御することがキリスト教徒の本来の姿であることを指摘しています。

ですから、「地獄」の恐怖によって『拘束』されるのでしたら、その人は自由から発するアガペー愛というキリスト教の根本精神を知らないというべきでしょう。パウロはキリストについて『死に対する恐れのために生涯奴隷の状態に服していた者すべてを解放するため』に犠牲となられたと書いております。

しかし、『恐れは拘束になる』としましても、それは神の裁きを恐れなくてよいことにはなりません。
パウロは、悪行を行うことについて、次のようにも述べているからです。
『あなたは,こうした事柄を習わしにする者たちを裁き,同時に自分がそれを行なっていても,自分のほうは神の裁きを免れられる,というような考えを抱いてでもいるのですか』(ローマ2:3)

では、神は裁きにおいて人の何を問うのでしょうか?これはまことに重要な問いと言う以外ありません。

ものみの塔が主張しますところでは、神に善悪を定める権利があり、その原則的規準に従うかどうかでその人の善悪が決まるとのことです。ですから”神のみ前での是認された立場を個人的に維持する”のだそうです。(ものみの塔誌1997.8/15 p29)

もし、そうでありますなら、たとえ「原則」という言葉のオブラートに包むにしましても、神は善悪を定めその規則を履行させることでは、この世の権力者と変わらず、『裁き』という外的圧力で人々を拘束することになります。

その教えで「地獄」を用いてはいないとしましても、「ハルマゲドン‪の滅び」という外からの力の規制を用いているとしますと、地獄と比較してどれほど優れた意味があるものでしょうか?

神が人々に求めるものとはなんでしょう? もし、善悪の規準を受け入れ、その法を守ることであるとしますと、それはキリスト教の本質である『愛』や『信仰』との間に超え難い溝を生むことになってしまいます。
なぜなら、それでは律法制度のユダヤ教にいつの間にか戻ってしまっているからです。神の御前での是認が、キリストの犠牲が捧げられてなおも、規準に適うかどうかという「個人の行いの義」によってもたらされるかのようにされるという以外にありません。

確かに、ノアの日の大洪水の前、また、ロトの日のソドムでは人々は道を踏み外しており、その報いとして土地もろともに水や火の裁きを受けました。

しかし、キリストが『世の罪を取り去る神の子羊』となって屠られたことにより、人々には『義者と不義者との復活』が可能となり、『よいことを行った者も いとうべきことを習わしにした者も』どちらもが復活すると言われたことは聖書に記され、動かし難いものとなっておりますが、そこは皆さんにも異論のないところでしょう。

死んだ人々は既に『罪の酬い』を受けていますので、キリストの犠牲を介して復活するのでしたら、その後の選択はアダムと同様に完全なものとなるでしょう。生前のことは不問とされ『罪』なく復活するからです。それゆえパウロも『人がただ一度かぎり死に,そののち裁き[を受けること]が定め置かれている』と述べておりますが、それは復活後に、アダムのように倫理での完全さの内に試されることを言うのでしょう。(ヘブライ9:27)

その復活につきましては、原始キリスト教をいくらか調べますと、まことに興味深い教理を有していたことを知ることになります。
使徒ヨハネの指導を受けておりました第二世紀小アジアのキリスト教徒たちは、ニサン14日に主の晩餐を守るだけでなく、復活については「早い復活」と「千年王国後の復活」があり、その二つの復活を分けるものが神の千年王国であるとの理解を得ておりました。これはスミルナ出身のエイレナイオスが主著「異端反駁」(V:32:1)に述べております。 ⇒「復活」-綱領-

そしてこの理解はアレクサンドリア写本やヒエロニモスが精査して訳したウルガタ訳に存在する『残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった』という啓示20章5節とも一致します。(ヴァチカン写本は当該部分散逸)

啓示の書を読みますと、千年期の前の裁きはキリストによって行われ、その『早い復活』は『キリストと共に千年のあいだ王として支配』する人々のためのものでありますが、千年期の後の復活については『大きな白い座とそれに座っておられる方』による裁きでありまして、こちらは神ご自身による最終的な裁きを表しているのでしょう。

復活した人の以前の『罪』は、その人の死の『酬い』によって相殺されておりますので、そのままにアダム同様に裁きの上では全き選択を行うことができるはずであり、復活した人々に贖罪の一環としての聖書レッスンが必要である、などとはまるで考えられません。『義とされる』事と『知識を得る』事とが別物であるのは、イエスを退けたユダヤの宗教指導者たちに見えてはいないでしょうか。彼らは聖書を暗唱しているほどの知識をもっていたのですが、その知識のためにかえってメシアに気づかず殺害してしまったのです。

人の復活については『その業は完全』という全能の神が人を復活させるのに、不完全な業を行われる理由が何かあるでしょうか。
聖書も『罪』を持った不完全な復活を述べてはおりません。このあたりは聖書から非常に端的な理解を得ることができます。

千年の後の裁きは、エデンの園の中央にあった二本の木で象徴されていた選択に相当するものでありまして、アダムが『善悪の知識の木』から食べたように創造者への忠節な愛を選ばないとしますと、やはり同じように永遠に命の木からは象徴的にせよ食べることはないのでしょう。

使徒ヨハネは、『すべて愛する者は神から生まれており,神について知る』とも、また『愛さない者は死のうちにとどまって』いるとも記しております。こうして、神がアダムに永遠の命をそのまま与えなかった理由が見えてまいります。

それは、創造者が知的創造物との間に愛という絆を望まれたのであり、それは創造者への忠節に表れるはずでありました。
アダムはサタンの籠絡にはまり、強い誘惑の下で忠節な愛を示さなかったので創造物として正統な『神の子』とは見做されなくなり、生涯に亘る労役の果てにいつかは死にゆく者とされました。

しかし、独り子イエスは創造者を『父』と呼ばれ、忠節な愛を全うし、全創造物の前で創造主に対して忠節な愛を示すべきことを立証され、その『死を通して』、サタン以下のあらゆる反抗者を沈黙させ『無に帰せしめる』ことになったのです。(ヘブライ2:14)

パウロはこれを『一つの罪過を通してあらゆる人に及んだ結果が有罪宣告であったのと同じように,正しさを立証する一つの行為を通してあらゆる人に及ぶ結果もまた,命のために彼らを義と宣することなのです』と述べております。(ローマ5:18)

神が終末の裁きにおいて人々に求めるものは、それが千年期の後でも前でも変わるところがありませんし、それはエデンの二本の木がアダムに求めたものと本質的に同じもの、つまり、創造物が創造者との絆を選択するかという「愛」の問題に帰するでしょう。そのようにして初めて、人は『神の子』の立場を得ることになります。

しかし、長らく道徳的であることに、神の是認があると言われ続けてこられたエホバの証人の方々でしたら、神との関係には絶対的に従順で道徳的な行状が必要であるとの信念は動かし難いものがあることでしょうし、そこでノアやロトのようなキリスト以前の道徳的模範者になることが、ご自分の救いの証拠であるとの考え方を後にすることに、非常な危惧を感じられることでしょう。そのような行状に伝道活動や道徳律を守る平素のエホバの証人としての活動を行うべき根拠が、楽園での永遠の命としてずっと提供され続けてきたからです。

もし、その捉え方が正しいのでしたら、キリストは道徳的模範者のために何を犠牲にできたのでしょうか?
また、イエスは収税人や娼婦ら、罪深いとされる者に寄り添い、宗教的には異端的なサマリア人への偏見の無さによって何を教えていたのでしょうか?
もちろん不義や放縦が良いわけではありませんが、それを避けている道徳性がそのまま『義』とはいえません。
この点で、キリスト教はやはりユダヤ教とは大きく異なっているのではないでしょうか。律法によって道徳者になろうとするユダヤ教は、もとよりそれが不可能であり、唯一律法を成就なさったキリストの犠牲への信仰によって救われるとの教えがキリスト教の基本中の基本であったことも、同意されることでしょう。

むしろイエスは、『人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されますが,霊に対する冒とくは許されません。』と言われました。即ち、キリスト・イエスや直弟子たちに聖霊が注がれ、奇跡の証しが立てられたときに、それを信じるかどうかということであり、当時の道徳的模範者であり聖書を知り尽くしていたユダヤ教の指導層は、これにまったく躓き、最悪の行いをしています。(マタイ12:31/ヨハネ第一5:10)


ですから、神が裁きにおいて人に問われるものは、善良さでも、従順さでもないと言えますし、これは危険な暴言ではありません。世の人々を救うものは道徳的清さでも、敬虔さでもないでしょう。
もし、キリスト教というものが人を道徳的に振る舞わせるものであるなら、それは他の宗教でも可能なことで、キリスト教である必要もありません、キリスト教の本質はキリストの払った犠牲の価値にあり、それは他の誰も代わることが出来ない『罪』の赦しをもたらしたことにあるでしょう。

キリストは『罪人を招くために来た』とも『世を裁くためではなく、救うために来た』とも言われています。
それは瑣末な「行いの義」を誇るユダヤ人の宗教的常識とはかけ離れたものであったため、多くの宗教家は却って躓きを覚えたほどであったのです。キリストは一定の道徳規則に従っている人々を是認したのではなく、むしろ『律法を知らないこの民は呪われている』と言われていた「地の民」と親しく交わり、清さを自認する宗教家らとは度々口論することさえあり、それが彼らの怒りを買って、ついに磔刑に至ることになりました。
彼らには、『義』というものが自分の努力や行動で得られるものであった以上、キリストの犠牲の価値が分からなかったという以外になんと言えるでしょうか。

一方での神の裁きに於いて、行いの清さが求められるというのは、聖霊を注がれた『聖徒』が祭司のように『聖なる者』であるよう求められるという『新しい契約』によるもので、キリスト『義』に浴していち早く『神の子』とされる聖なる者たちには求められて然るべきことです。清くないものが人を清めることなどないからであり、『聖徒』には依然としてアダムの罪がありながらも、『契約』によって義が仮承認された状態に入っているのですから、自ら敢えて汚れた行いをするなら、それは『契約』に従っているとは言えなくなり、それは彼らが天に召されるに際しての『汚点や染』となり、あるいは『契約』を全うしなかったと見做され、肉のままで地に残されることにもなりかねません。

ですから、ギリシア語聖書の道徳規準の存在はキリストと共になる契約に預かる『聖徒』に求められる当然の清さではあっても、誰でもが道徳的であれば救われると捉えるのは明らかに間違っています。それはキリストの犠牲の価値を低めるものであり、キリスト教の最も基本的な教えから真逆の方向に逸脱しています。そのうえ、再び業を誇る高慢な「パリサイ派」を生み出してしまう誤りでもあります。

神が人々に求める事は道徳性ではなく、神と人を愛することであり、初めて神を知る人々にも、神の存在とキリストを通したその人間への忠節な愛あるご意志に信仰を働かせ、その愛に応えることを望んでいらっしゃるに違いないのです。(ミカ6:8「親切」=「忠節な愛」)
その「忠節は愛」(ヘセド)というものは、キリストを犠牲とされたこと、またキリストご自身が見せた、神と人への愛を貫く無私の姿勢とを通して世に対し、まことに見事に表明されております。

この愛に倣うことはどこかの宗派に属することで安心を得ようとすることにはなりません。思想信条からの正義感は人々を分かち、愛を抑制してしまうものですが、神の裁きはまことに公平であり、裁きのときまでにその人がどのような宗教を信じているかを問いませんし、どのような思想を抱いているかも関係がありません。「羊とやぎ」の例えのように、聖霊によって語る『聖なる者たち』の発言を聞いて、『信仰』を働かせ、彼らを支持するか否かが問われるのではありませんでしたか。(マタイ25)

また、神の裁きは、ただ恐れて保身を求めるべきものではなく、神のご意志に深い価値を認め、それを支持しようと願う積極的な活力を人にもたらす利他的なものとなり得るでしょう。
つまり、神の裁きを前にして、自分のためではなく、神に同意し、その側に立ち、ご意志に協働しようとする敢然たる態度を表明する機会ともできるのです。そのような人はハルマゲドンでの身の安全を願う利己的な人であるとは思えません。恐怖を動機としていては利他的には振舞えず、却って脅す者の奴隷となってしまいます。

神の裁きでは、その人の過去は一切問われないことでしょう。
ヨハネ五章の、行ったことに応じて『命の復活』と『裁きの復活』に出てくるのは、聖霊注がれて亡くなった聖徒たちに関わるものであり、その裁き主は、聖徒たちの『隅の親石』であるキリストでしょう。
そのイエスはやはり『人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されます』とまで言われるのです。(マルコ3:28)
そこでは、世の裁きの根拠が「道徳性」ではなく、『聖霊』に対してどう振る舞うかであることをキリストは明言されているのです。これは従順かどうかということではなく、「自発的な賛同」、つまり信仰が促す「忠節」が求められているのです。

加えてパウロはこう述べます。『キリストの持たれる愛がわたしたちに迫る(強く促す)のです』。何をでしょうか?
『彼がすべての人のために死んだのは,生きている者たちがもはや自分のために生きず,自分たちのために死んでよみがえらされた方のために[生きる]ためである。』(コリント第二5:15)

それはキリストが見せたような能動的な姿勢でありまして、滅びから救われたいだけの受け身の姿勢ではありません。
ですから、道徳に神経質でいかめしい裁判官の姿を、愛の神に見るべき理由はないのです。
もろもろの世の罪のためにキリストの犠牲が捧げられたのであれば、道徳を厳格に要求する意味が神に何かあるでしょうか。(詩篇130:3)

このような『信仰』は、単に自分がキリストの犠牲に預かり救われることだけを願う態度にはなりませんか。
例えれば、教会の信者席は「ノアの箱舟」に相当する語「ネーヴ」で呼ばれます。
それは、信者たちの救われたいという願望を巧みに取り込んだ僧職者の発案と言えるでしょう。確かに教会ではバプテスマを受ければ救われていると教えますが、ものみの塔もこのキリスト教界からの影響を免れているとは言い難いようです。

ですが、「クリスチャン」はもう贖罪されているわけでも、またはそれが確定しているわけもないのです。(箴言20:9)
(それは契約に預かる『聖なる者』だけが仮に得られるものです(ローマ8:1))
もし「クリスチャン」がすでに救われているなら、神の裁きはその人にとってもう終わっていることになります。そこでは許しの根拠として、その人の「信仰」や「バプテスマ」であると聖書の字面を追っただけの不合理な理由づけがされることでしょう。それでは一般の教会の教えと変わるところがありません。

「全人救済論」を採らない大半の教会の方々の悩みのひとつには、「クリスチャン」ではない身近な人々が信仰の無いために神に裁かれ、永遠の責苦を受けることになるのを予期しなければならないというものがあります。それが親しい人の場合に特に辛いそうです。このあたりは、ものみの塔もそう変わるものではありません。

「そのためにも伝道している」とおっしゃるかも知れません。しかし、聖書を追ってまいりますと、神もキリストもそのように偏狭で残酷な方ではありません。それは「全人救済論」(すべての人が無条件に救われる)の教理が正しいというのでもありません。やはり聖書にはすべての人が裁かれる『神の裁き』が明らかに記されているからです。

ですが、すでに救われた状態に入ったとは、聖霊を注がれた『新しい契約』に預かる人々だけについて述べているのであります。彼らはキリストの血の犠牲により『新しい契約』に入り、聖霊を注がれ聖なる者となったのですから、『清い行状と敬虔な専心』を示し、一定の清さが求められたのは、レヴィ族祭司と同じことです。千年期前に復活する古代の聖徒らには、人生を忠節の内に終えたか否かが問われることは確かに避けられません。『多くを委ねた者には、多くが求められる』からであり、彼らはキリストと共なる祭司なのですから。

しかし、聖霊の無いその契約の外にいる一般の人々については、千年王国での贖罪が待たれているのであり、「羊とやぎの例え」のように、契約の中にいる人々に対して信仰を抱いて親切を行うか否かで初めて分けられるのではありませんか。(テサロニケ第二2:13/ヨハネ17:20)
そして真実で純粋な愛の行いとは、脅しの無い自由さの中で初めて行われるものです。

それでしたら、ご自分がエホバの証人で、ものみの塔という組織に所属することがノアの箱舟のような救いをもたらすと考えてよい理由が何かあるでしょうか? そこにあるのは、滅びへの恐れから神の言葉への神経質に「従順」を示して、自分を守ろうとする保身の利己的動機ではありませんか。その心が真に神に向かうでしょうか。

つまり、「組織が救いをもたらす」と信じたのでは、神の裁きを前に我が身可愛さで救いを求める教会員と何ら変わらないことにならないのです。 「永遠の責苦」ではないものの、「永遠の滅び」があなたの身近な不信者の方々に臨むことを予期なさるのでしょうか。そのためにも宣教に励むのですか?

その前に一度冷静にお考えください。
神の裁きから逃れて、もう救われているという安心感を求めるその姿勢が、神の『この世』の全体に救いを行き渡らせるご意志よりは、あなた個人の安泰に関心を寄せていることを表してしまってはいないのでしょうか。
それでは、キリストに激しく反対したパリサイ派のように利己的で、キリスト教の精紳とは逆のものではないのでしょうか。

教会員は洗礼を受けたので救われたと信じます。同様にエホバの証人は規準を守るので楽園に行けると期待します。
それを決めたのは人であって、神ではありません。
どちらも神の裁く権限を尊重するよりは、自分の救いを優先してしまい、神がなぜ裁くのか、何を人に求めているかにはさして関心はなく、むしろ単純な規則にしてもらった方が自分の救いの要件が分かりやすくて良いのです。誰が救われるかが、もうそこに見えるのですから、それは人々を正義感で分断してしまう教えではありませんか?

それですから、どれほど熱心な宣教を行うにしても、社会一般から利他的と思われることはないでしょう。『この世』を救いに値しないものとして裁いてしまい、あたかもご自分は清く、社会を汚れたものと見下しているのであれば、そのパリサイ的な優越感は宣教において隠しようもなく見抜かれているでしょう。それとも、あなたご自身は契約に入っていて、もはや『世のもの』ではなくなったのでしょうか?(ヨハネ第一5:18-19)

ですが、あなたは「世の人」の中にも人格的に優れた人を認めることがあり、また組織の中にその逆も見てこられてはいませんか。
それが自然な感覚が知らせる真実の声ではないのでしょうか。つまり、エホバの証人も世の人も、神の御前には何ら変わりのない『罪人』なのです。(ローマ2:14)
それにも関わらず、良いものを良いとは言わず、そのような自然な感覚を振り払ってまで組織の観念に合わせるなら、おそらくは神にも評価されるべき人の美を見過ごすことになり、そこに学んで人格的に進歩することを拒むことにもなるでしょう。それは「偏狭」と呼ばれる精神です。

パウロは神を奉じない外部の人々の悪行について述べたあとで、このように信者に忠告します。
『それゆえ,人よ,あなたがだれであるにしても,[ほかの者を]裁くなら,言い訳はできません。他の人を裁くその事柄において,あなたは自らを罪に定めているからです。それは,裁くあなたが同じことを行なっているからです。』(ローマ2:1)

そこでキリストの臨在の期間において最も重要なのは、組織に所属して道徳的に振る舞うことで身の安全を図ることではありません。それは明らかに恐れと利己心を動機としています。
その人の示す「従順」というもっともらしい外見も、自分の救いのためのものではありませんか!その証拠に、恐れのためにさまざまな規則で縛られているのです。
むしろ、これから来る真の「神の裁き」に備えて、あらゆる人が利己心を避けるべきであり、自分で信仰上の決定を心の曇りなく行えるよう、様々な人づての教えで判断を邪魔されないようにしておくべきなのではありませんか。(ヘブライ12:25)

奉仕区域の一般の方々は、皆さんが自分と同じような人であるにも関わらず、その優越感や救われるつもりでいらっしゃることを、また、背後にある「見返り」を望んで、誰かに従順にしていらっしゃることを、おそらくあなたが思うよりはよほど敏感に、また語られなくても直感的に察知しているものなのです。それは皆さんの善意も熱意も相殺し兼ねないその人の反発をわざわざ誘っているのです。

考えてもみて下さい、いったいどれほどの人が「自分は清いという」パリサイ人の訪問を喜べるでしょうか? 「区域が硬い」とおっしゃる前に、他の人を組織の仲間にすることでのみ「救う」という、そのご自分の律法主義的なお考えは如何なものでしょうか。

そうなりますと、皆さんが懸命に宣教をなさる動機の中には、それを通してご自分も「箱舟」のような組織に中にいらっしゃる実感を増し加えることを願っていることも含まれていることになります。
その「信仰」の中心といえば、神のご意志よりは、そのハルマゲドンでの滅びを回避するという人間の思惑にあるからです。

もしそのようなら、仮に証人の誰かが組織から否とされるとなれば、永遠の命や神の是認から疎外されると感じるようになってはいませんか。
それは『神の裁き』と「人の裁き」のすり替えではないのでしょうか。これはあなたご自身の将来の重大な決定に影響するものとなるわけですから、もちろん「軽い問題」ではありません。

それは実質的に『神の裁き』を待たずに「組織が神の裁きを前倒し」することでありまして、神のご意志を度外視してしまい、人間の設けた厳しく狭い規則で人々をすでに裁いてしまっていることにはならないでしょうか。それは人をして「神の経路」や「代弁者」と称える以上の僭越さというべきでしょう。

あなたが望む人に永遠の命を得させたいと願われることはごく自然な情ではあります。
ですが、それは本来、神に属する権限でありますから、それゆえにも「神の裁き」があるのでしょう。明らかに人や組織がどうこうできるものではありません。 しかし、ものみの塔は教会同様に、それを請合ってしまってはいませんか?

はたして、愛する人のためにひとつの宗教組織に入らせ留まらせようと躍起になることがその人への愛になるでしょうか。
または、組織から否認された人を交友から閉め出すことが神の義の実践となるでしょうか。
いいえ、愛にも義にもなりません。そこでは道理や情愛を欠いた非人間的な無理が起こるだけでしょう。

それは神の裁きとは何ら関係がなく、人間の設けた基準を条件に人々をすでに裁いてしまっているばかりです。
しかも、世を救う憐れみ深い神を、偏狭な道徳と誤った信仰を要求する厳しい方として恐れさせ偽り伝えているのです。これをあなたご自身はどう思われるでしょうか?

『神の裁き』は、終りの日に『聖霊』を介した発言を聴き、それに「信仰」を抱き、その発言をする『聖なる人々』を支持するか否かによるのであれば、エホバの証人の皆さんは、この重大な『神の裁き』の要点を『聖霊』のない人間の宗教組織に入るかどうかという人への「従順さ」に、いつの間にかこっそりと置き換えられてしまっているのではありませんか?

その教え手がどれほど善意を抱いていると主張していましても、その教えの意味するところはキリスト教の精紳とは逆のもの、律法的なものでありましょう。
これは真の『神の裁き』が到来するときに、あなたご自身の救いの願いとは裏腹に、非常に危険な事態にご自分を置くことにならないものでしょうか。

裁きで求められるのは「従順」の結果としての所属でもなく、規則の道徳でもなく、自発的な「信仰」と「愛」ではなかったのですか?(ローマ3:27-28)



ヨブ記への誤解  -宇宙論争-

2015.08.23 (Sun)
7.被造物の忠実にヨブ記を持ち出す誤謬


エホバの証人の皆さんにとって「ヨブ記」といえば、サタンと神の論争を知らせる書として思い浮かべることでしょう。
サタンはそこで、どんな者をも神の側から引き離すことができ、また、神に純粋に無私の動機で仕える者はいないと主張しているという説明を受けられたことと存じます。

それは「被造物の忠実」とも「宇宙論争」とも関連付けられ、このようにサタンが神に挑戦した論争に答えるのはあなたご自身であると説かれたのではなかったでしょうか。
皆さんの生き方によっては、神の側を支持することにもなれば、サタンの側を支持してしまうことにもなるということです。つまり、行動によって人は善と悪、神と悪魔との間を行き来するとの見方です。

このヨブ記ですが、この書全体の意義を探りつつ丹念に読み込んでゆきますと、実際にはこの書の主要な論点が別のところにある事が見えてまいります。

では、ヨブ記という著作の役割はどんなところにあり、その全体の主題は何でしょうか?
やはり、人の忠実を巡る神とサタンの論争を教えるための書なのでしょうか?


さて、ヨブ記は分量からしますと出エジプト記より短いのですが、たいへん長い文章であるかに錯覚させるところがあります。
それは何と言っても、ヨブの三人の友との論戦が第三章から三十二章まで、格言的な言い回しで絶え間なく続くところに原因があるのでしょう。

ですが、このヨブが神とサタンの間で忠実さを試されたというところがこの書の本旨であるとすれば、それはむしろ誤解で、この書の意義は逆ですと申し上げれば、エホバの証人の方であればきっと意外に思われることでしょう。それでもヨブ記を最後まで丁寧に読みますと、キリスト教界で広くこの書の意義を逆に捉えられていることが明らかになってまいります。
この書の全体を注意して見直すなら、どなたもお分かり頂けると思いますが、ヨブは「忠実」を試されたのではなく、むしろ彼の「正義」の方に問題があったのです。

まず、この書は単純に三つの部分から構成されていると見なすことができます。
第一が導入部で、ここで道徳的なヨブという人物を巡って神とサタンの論争があり、そのためにヨブに試みが臨んだことが描かれます。
その苦しみはまことに深刻で、いつ果てるともなく辛いものであったことが描写されて後に、見舞いに来た三人の友との論争が延々と続く記述を第二の部分とすることができるでしょう。

そこまでの内容は、ヨブという義人をこれ以上なく引き立てております。
つまり、他ならぬ神ご自身によって『彼のような人,とがめがなく,廉直で,神を恐れ,悪から離れている人はひとりもいない』とされます。(ヨブ1:8)
これはたいへんな褒め言葉ではありますが、このように賛辞を聖なる神から受けるとはいったいヨブとはどんな人でしょうか。

そこでサタンはさっそくに反論を始めるのですが、この反論というのがヨブ記全体の観点からしますと、あたかも反論になっていないかのようです。
なぜなら、究極まで忍耐を続けたヨブの忠節な言動が呆気なくサタンの二度の言い分を打ち負かしてしまい、かえって、ヨブの高潔さを強調してしまっているからです。その後、敗北したサタンは話の舞台に姿も見せません。
ものみの塔はヨブ記の主要な価値を、この導入部で示されるヨブの道徳性に見出しているようなのですが、ヨブ記はまだ始まったばかりです。

それから、ヨブの三人の友が見舞いに訪れますが、これも見舞いになりません。
ヨブには何か問題があって、神はこのような災いを彼に下したに違いないと、彼らは様々な方面からヨブを吟味し責め立てます。
しかし、ヨブは繰り返し執拗に問いただされても、最終的に三人を沈黙させてしまいます。
こうして、ヨブは友らの審問にも打ち勝ち、まったく義なる者と認められるに至ります。(ヨブ32:1)

この第二部までを眺めますと、神とサタンの論争も、三人の友の審問も、ヨブ記の中に在って同じ働きを果たしていることが見てとれます。特に三人の友らの審問は徹底的にヨブの道徳性を磨き上げてゆきます。
ですから、それらの試練は、ヨブという人物がこれ以上なく清廉潔白な道徳者であるということを強調するための描写となっていることに気付くでしょう。

すでに、神ご自身からヨブのような者はひとりもいないとされたところでさえ、ヨブがいかに道徳的であるかは充分に証しされていると言えましょう。
しかし、ヨブ記では、そこにサタンの試みを付け加えて念を押し、更に三人の友らのしつこい審理もあわせて、これ以上なくヨブという人物の道徳性の描写を極限まで高めます。
つまり、サタンも三人の友も、「最高度の義人ヨブ」の肖像を描くための絵具や筆のような役割を負っていると見ることができるのです。


ヨブ記の本論

そこでヨブ記はいよいよ本論へと入ってまいります。
この書の主要な論旨はエリフという新たな登場人物の発言をもっていよいよ始まるのですが、このエリフの主張からヨブ記は明らかにその潮目を変えるかのように内容が一変してまいります。

ヨブの道徳性が完璧にまで高められたからこそ、その後のヨブ記の内容に重みが加わり、この書はそこから結論に向かって一気に駈け下るかのように進みます。

エリフの発言の要旨において、まさにヨブが勝ち得た「義」そのものが問題とされてゆきます。
つまり、ヨブは自らを完徳者としてしまい、神の義を押し退けてしまったと指摘されるのです。

エリフの発言はこのようです。
『神が答えないからといって、あなたはどうして神と争ったのか』。(33:13)
『あなたは言った、「わたしの義は神に勝る」と』(35:2)

ここにヨブ記の重要さが在ります。
つまり、ヨブの道徳性がどれほど高いからといって、人間の義を神の義の上に高めるべきではないと戒めているのです。

エリフはヨブの義をまるで評価しません。こう言うのです。

『あなたが正しくても、あなたは神にいったい何を与え得よう。
神は、あなたの手から何かを受けられるだろうか。

あなたの悪は、ただ、あなたのような人間へのもの。
あなたの正しさも、ただ、人の子らに関わりを持つだけに過ぎないではないか。』(ヨブ35:6-8)

ここに至って、再び神ご自身が登場なさいます。大風に乗ってヨブに近付かれるとこう云われるのです。

『あなたはわたしの裁きを無効にするつもりか。
自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。』(40:8)


こうしてヨブ記はいよいよ結論を迎えることになります。
ヨブは自分の道徳性、自分の義に惑わされ、神こそが義であらせられるという基本的な真実から遠くはなれてしまっていました。
彼は、自分が義人であることを示そうと躍起になる中で、神は自分を救うべきであると主張し、自分の義で神の行動すべきことを決め付けていたのです。

遂に、誤りに気付いたヨブは、自らを修正するに至ります。
『私は自分の言葉を撤回し、塵と灰の中で悔い改めます。』(42:6)

彼の類い稀な高潔さも、この結論を導き出すための極めて希少な材料となっていたことがここで明らかになります。
こうして、神がなぜヨブを祝福したのかが見えてまいります。
それは彼が最後まで道徳的で忠節を保ったからでしょうか?

そうではありません!その逆というべきでしょう。
ヨブ記の巻物は、律法と共に存在してきたとされますが、登場人物が全員、非イスラエル人であるこの書は、律法遵守による行いの義を追求するユダヤ教とは異なり、非常にキリスト教に近い意義を持っています。それゆえにも、律法と共にずっと存在し、律法の傍らに在って補完してきたとも言えるほどです。

彼がこの試練を通して達した結論は、人がどれほど清廉潔白であろうとも、神の義に勝ることはけっしてなく、自らを誇るべきでもなく、それはかえって自分を正義の主人公にすることでは不忠節でさえあるのです。
最後にこれに気付き、自らを正したヨブを神は祝したのであり、その悔いを神は喜ばれたのです。


キリスト教に近いヨブ記

さて、ヨブ記とは神とサタンとの間の人の忠実論争を知らせるのがその主旨でしょうか?
ヨブはサタンに打ち勝ったのですか?
わたしたちもヨブのようになって、「神に純粋な無私の動機で仕える者はいない」というサタンの主張に反論する必要があるのでしょうか?

被造物の忠節についてはヘブライ人への手紙にこうあります。
『ご自分の死によって,死をもたらす手だてを持つ者,すなわち悪魔を無に帰せしめるためでした。またそれは,死に対する恐れのために生涯奴隷の状態に服していた者すべてを解放するためでした。』(ヘブライ2:14-15)
つまり、イエス・キリストの死が成し遂げた事柄について述べております。

すべての被造物が神に忠節であるべきことは『全創造物の初子』であられる独り子イエスの忠節をもって見事に一度限り創造界に証明され、サタンとその側にある者らは『無に帰せしめ』られ、反論の余地は無くなっています。そこに、例えヨブであっても何かを付け加える余地があるものでしょうか。
これについては『一つの罪過を通してあらゆる人に及んだ結果が有罪宣告であったのと同じように,正しさを立証する一つの行為を通してあらゆる人に及ぶ結果もまた,命のために彼らを義と宣することなのです』とパウロも述べているではありませんか。(ローマ5:18)

むしろ、ヨブ記の主旨は、人が自らの道徳性や義のゆえに、神の義を押しのけるべきでないことを教えているのであり、イエスが『王国と[神]の義をいつも第一に求めなさい』言われたのは、パリサイ人のように独善的になって、自分は神に是認されていると思い込むようなことを避けることを教えてはいないでしょうか。

自己義認の恐ろしいところは、人間の義を根拠に、神の上に自分を高めることでありまして、ヨブの場合にも、自分はこれほど義に適っているのだから、神は祝福するべきだと言っていたことになります。

ある宗派の人々が、自分たちの善行を根拠に、神は自分たちを是認していると主張するとき、そこで神の行動を縛ってはいないのでしょうか?

しかし、ヨブ記が示すように、人がどれほど道徳的であろうとも、それが神の是認や祝福を保障することはありません。
キリスト教は、義認は『業』ではなく『信仰』によってもたらされることを繰り返し教えるものであること、それはあなたもよくご存じのはずではありませんか。


では、人を救うものは何でしょうか?

エホバの証人の皆さんは、ヨブのように道徳的な業によって神の是認を勝ち得ると思われますか?
サタンを偽り者とするのに、あたかも「選挙」のように神はあなたの正しさや忠実を必要となさるのでしょうか?

むしろ、悔い改めたヨブのように謙虚に振る舞う事こそが神の喜ばれるところではありませんか。
それには、ご自分やものみの塔だけが正しいという非現実な「人の義」を後にする必要があることでしょう。

神こそが義とされることを願うときに、初めて『神の義を第一に求める』ことができるのではありませんか。(ローマ3:4)
それには神の義が示されることをいつまでであろうと待ち望む必要があります。
エリフはヨブにこう忠告します。
『あなたは、ひたすら神を待つべきである』(ヨブ35:14)

イエスはパリサイ人に『わたしは,義人たちではなく,罪人たちを招くために来たのです』と言われました。
『真理があなた方を自由にする』とは、自らの不完全を不完全と認めることではないのでしょうか。
そうするなら、わたしたちは宗教上の対立や、架空の正義を無理に取り繕い、自らこそが永遠の命に値すると主張する空しい労役のストレス「ヨブの苦しみ」から解かれるでしょう。

人は誰も、道徳的に善と悪の目盛りの上を行ったり来たりしていません。そう考えていたのはパリサイ人ではありませんでしたか?
そこでキリストの大きな犠牲を許した神が、人の行動の良し悪しで一喜一憂なさる理由があるでしょうか?
それぞれの人の行動を、神が好き嫌いで善悪判断すると思われるのはひどい誤解です。
むしろ、イエスは『人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されます』と言われます。そのためにキリストは世に来られたのですから。(マタイ12:31)

エホバの証人の方々が負って来た「行いの義」、道徳律を守り、制度化された伝道を毎月行い、組織で模範的であることは、ただの人が付け加えた「重荷」であり、神が期待しないばかりか、それはキリストの犠牲の価値の大きさを侮るものとなってしまいます。
皆さんが、ものみの塔の行動規準に従うことに安心感を持つのは、そうすれば「永遠の命を得られる」と思えるからでしょう。
ですが、ヨブ記が示すようにそれが人の義を立てる根拠にはならないのでしたら、皆さんの努力は「ものみの塔という組織を義とする」業に邁進してきたことになってしまいます。まさしく、ものみの塔は「ハルマゲドンを通過して永遠の命を得るのはエホバの証人である」と言う教えを中心にして来なかったでしょうか。

このことを指摘すれば、多くの方々は「いや、エホバの証人だけが救われるとは言っていない」と反論なさるようですが、それがどれほど、ものみの塔で普段の教えられている内容とはバランスのとれない詭弁であるかは、内心ご存知なのではありませんか。それが証拠に、一定の道徳律に従い、毎月伝道活動に邁進するのも、「エホバの証人が救われる」と思えばこそではないのでしょうか。
それが「エホバの証人の義」と言わずして何でありましょうか? 受け入れ難い事かも知れませんが、その「義」はヨブ記に照らしても間違っています。

人は誰もが『アダムの子孫』であり、「裁かれる前の罪人」であることは動かし難い現実ではないのでしょうか。
そこで必要となるのは、キリストの犠牲に一心に頼る『信仰』であって、自分の業で『義』を立てることではないでしょう。
エホバの証人で、バテシバとの関係での重罪を赦されたダヴィデ王への神の処置に納得がゆかない方がいらっしゃるのも、この辺りの理解が出来ていないからでしょう。やはり、イエスは『人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されます』と言われました。(ローマ4:6/マタイ21:31)

ユダヤ教ばかりか、多くのキリスト教の宗派でも「業」による独善的な教理が信じられてきましたが、それらのいずれもが、人間という存在の危うさ、儚さへの不安を解消したいという心理をしたものであることでしょう。
そこで誰かが「これを行っていれば救われる」と言い出すと、それに従ってしまうのも理解できないことでもないでしょう。

メソジスト派は人の生き方(メソード)を教え、セブンスデーアドベンチストは安息日を土曜に守り、モルモン教会は刺激物を採りません。カトリックは善行や秘跡で罪を相殺するように教え、そしてキリスト教界全体は洗礼を受けた信者の救いを唱えてきました。
ですが、聖書を通して、神が『業』による人の義を求めていない事を知らせているのでしたら、それら人間の業は危険な自己満足ではないのでしょうか。神が求めるのは『信仰』であるという動かし難い原則を、それぞれの宗派は何かの理由を付けては実質的に無視し、『業』で宗派に属する益を訴えては信者を囲い込んできたというのが実情でしょう。つまりは教団や指導者の都合です。(マタイ15:9)

ですが、何を行おうと人は誰もアダムからの罪から避けられません。
一方で、神の是認の印は、奇跡をもたらす聖霊を注がれた『聖なる者』だけに示されてきたのです。(ローマ8:1)
是認された人は、誰であれ聖霊の明瞭な印を待たねばなりません。『霊に導かれる人は』キリストの贖いを適用されて赦しを得た『神の子』であるとパウロは言います。(ローマ8:14/エフェソス1:13)
では、霊に導かれるような『聖なる者』が、今日どこに居るでしょうか?

イエスは『もとめ続け、たたき続ける』なら、『天の父は、ご自分に求めている者に聖霊を与えてくださる』と言われます。(ルカ11:13)
神の義を求め続けるところにやがて聖霊は降ることになり、終末には真実の正義が宿ることでしょう。聖霊の注ぎは人間が行って見せるものではありませんから、真実に神の印と言えましょう。(ヨハネ15:26-27)
しかし、自分たちに聖霊はあると思い込んだ人が、それを切に願い求め、またそれを認めるものでしょうか。「自分の義」にこだわって、現れた聖霊にかえって反対するようなことにならないものでしょうか。果たして、ものみの塔の統治体はどうするでしょうか。

ですが、あなたが切に求めてこられたのは真実の聖霊による神の義ではないのですか?
本当に奇跡の業を行う聖霊を持つ人々が現れ、為政者や諸国民への証の証言を世界に向けて行うときにこそ、信仰を働かざることができ、それを支持することもできるのではありませんか。(マタイ10:18)
これこそが『信仰』であり、唯一の救いの道ではありませんか。やはり、この点からしても、人は『神を待つべき』ではないでしょうか?(マタイ24:48-51)





ヨブ記の結論 唯一の正しい宗派があるか
ヨブ記の背景









6.啓示の四騎士は時代の印でしょうか

2015.08.20 (Thu)
戦争、飢饉、疫病


エホバの証人の方々が信じていらっしゃるように、これらの災厄がこの世界の終わりの日に臨むことはイエス・キリストの預言なさったことであるばかりでなく、更にヨハネへの啓示においても繰り返されていることから、西暦七十年のユダヤとエルサレムの滅びだけにとどまらず、これらの災厄が後の時代にも成就することを証拠立てていることは、まず間違いないものでしょう。

では、戦争、飢饉、疫病などは時代を見分けるためのしるしなのでしょうか?
ヨハネへの啓示の書をもう一度注意して読み直すなら、そこに何か気付けることがあるでしょうか。

主イエスの預言は、その世代のユダヤとエルサレムの滅びと、終末の「この世」の滅びとの二重預言でありました。
その一方で、ヨハネへの啓示の書の中の黙示的預言は、まさしく「終わりの日」のこの世に起こることをもっぱらに知らせるものとなっております。
この啓示は、神に発し、キリストから天使に与えられ、そして使徒ヨハネに至ったものでありますから、福音書の預言と遜色のない真正なものと言えましょう。

その著書の第六章に、四頭の色の異なる馬とその乗り手、つまり「四騎士」の幻をヨハネを記します。
それぞれに、白い馬とその乗り手は、征服に征服を重ねるために出て行く王冠を戴く者を、赤い馬は、人々が無残な殺し合いをして地上から平和が失われることを、黒い馬の乗り手には秤があって、家族の三、四人が一日の食費をまかなうのがやっとという、食料不足の到来を、そして青ざめた馬には「死」がまたがっていて、それが死の災厄、おそらくは疫病をも表しているのでしょう。(エレミヤ29:17/ハバクク3:5)

これらの象徴を福音書のキリストの終末預言とあわせて1914年から成就し、世界大戦と飢餓の蔓延とスペイン風邪の流行による危機の時代の始まりを表していたとの説明に納得なさって皆さんもエホバの証人のお一人となられたことでしょう。


さてヨハネへの啓示の記述ですが、この災厄を表す四騎士の部分をよく見直しますと、この四騎士の後からついて来るもうひとりの登場者をどう解釈したらよいものかと少々悩むところが出てまいります。

それが『ハデス』(墓)の象徴なのですが、四頭目の青ざめた馬の後に続いて現れる意味はいったい何でしょうか?
また、啓示の書のその部分を読み進めますと、この『ハデス』は同じ節の後半では『地の野獣』に入れ替わっているのです!これはまた何故でしょう?

ですが、この最後の登場者が何者かを含めて全体を理解できるようになりますと、この四騎士の啓示の意味がより具体的に、ずっと鮮明に見えるようになってまいります。
しかも、これはこの世の終わりに関わる幻でありますから、すべての人々にとって重要でないわけもありません。



では、改めて四騎士の意味するところから聖書の記述を確認してまいりましょう。

まず、白い馬ですが、冠を戴く姿からしても王であり、征服を重ねるために乗り進むところは、王権を戴いた大いなるダビデとなられたキリスト・イエスを表していることでしょう。そう解釈することは「ものみの塔」が始めたことではなく、第二世紀の著名な教父エイレナイオスによって説かれてきたことでもあります。
キリストが王権を受けるその時がどのような状況であるかについては、幾つかの聖句が示唆を与えています。

詩篇では『地の王たちは立ち構え, 高官たちも一団となって エホバとその油そそがれた者に敵対』する姿が描かれています。(詩篇2:2)
ここでは、権威者たちが既にはっきりと神と任命されたメシアを相手に強い敵意を表しております。

続けて『彼らの縛り縄を引きちぎり, その綱を我々から振り捨てよう』との為政者たちの目的が、神への反抗であることが語られていますから、彼らは互い同士で世界覇権を争っているのではなく、確かに神とキリストに敵意の的を絞っています。

そこで神はどうなさるでしょうか。この詩篇はこう続けます。
『わたしは,まさしくわたしは,わたしの聖なる山シオンに わたしの王を立てた』
つまり、この世の指導者たちがはっきりと神とキリストに敵意を表している状況が訪れたときに、その抗いの行いに対してイエスに戴冠させるということでしょう。

それに同意を与えるかのように、別の詩篇はこう述べています。
『わたしがあなたの敵をあなたの足台として置くまでは, わたしの右に座していよ。 』(詩篇110:1)

この句によれば、復活したキリストが神の右に座して待つ期間は、その敵が征服されるまでに及ぶということになるでしょう。

このダビデによる詩篇は続けてこうも歌われます。
『あなたの力の杖を,エホバはシオンから送り出して,[こう言われます。] 「あなたの敵のただ中で従えてゆけ」。』

これらふたつの詩篇をあわせて考えますと、キリストの戴冠の時期は地上の為政者たちが、はっきりと神とその王に敵意を示しているというべきでしょう。
それゆえ、キリストはご自分に対立する『敵のただ中』から戦いを起こす危急の時を迎えるのであるからこそ、全能の神も敵らを『あざ笑う』と言えます。(詩篇2:4)
それは類例のない人間と神との戦いであって、諸国家を二つの分けた神の関わらない世界大戦でもないでしょう。

もし、1914年にキリストが戴冠されたのであれば、そのときに誰がキリストに敵意をもって立ち向かい、どこに攻撃を仕掛けたのでしょうか。
まして、「天でキリストは王権を得た」という解釈そのものさえ、二代目会長ラザフォード判事の1920年代以降のものであれば、それ以前の1914年の時点で、いったい誰がその王権に抗おうなどと思えたのでしょう。どうして『縛り縄を引きちぎり, その綱を我々から振り捨てよう』などと言えたでしょうか。

エレミヤの預言には、『エホバが諸国民と[戦わす]論争があるからである。すべての肉なる者に対して,[神]ご自身が必ず裁きを行なわれる。』とありますが、では1914年に神と人とのどんな論争が意識されたでしょうか。(エレミヤ25:31)

またイザヤ書にも、『彼も同様に多くの国の民を驚かす。彼のことで王たちは口を閉ざす。彼らは自分たちに詳しく話されていなかったことを実際に見,自分たちの聞いていなかったことを考慮しなければならない』と予告されていますが、どの支配者がキリストに驚かされ、話されていなかったことを聞いて考えなければならなかったでしょうか。

そうなりますと、諸国民も支配者たちも、共にキリストの王権を意識する時期とは1914年には未だ到来していなかった可能性も考えに含めるべき理由が生じてまいります。
では、主イエスが王冠を戴き、白馬に乗って「征服し(更に)征服を完了する」ために出て行かれるその時とは、いつのことになるのでしょうか?



さて、次に現れるのが、火のような馬とその乗り手なのですが、この騎士には長剣が与えられます。
曰く『人々がむざんな殺し合いをするよう地から平和を取り去ることが許された』(新世界訳)とあります。

この句で注目するべきは、『人々が互いに殺し合うように』という原語の意味があることです。
『互いに』はギリシア語の原型で「アッレローン」が用いられております。この語はキリストが終わりの日に人々を羊とやぎに分けるという預言の中でも『ひとりひとりに』という意味で用いられています。

そこで、他の翻訳を確認しますと『人々が互に殺し合うようになるために』(口語訳)『人々が、互いに殺し合うようになるためであった』(新改訳)となっております。英文の新欽定訳もまたそのように訳しています。

エホバの証人のお一人でしたなら、この点でヘブライ語聖書のいくつかの終末預言が思い浮かぶ方もいらっしゃることでしょう。
つまり「同士討ち」がこの世の終わりに起こると知らせる預言です。

これには、百万の連合軍に同士討ちをさせてまったく滅ぼし、エホシャファト王のイスラエルを救われた神の事跡をはじめ、それを含めて『エホシャファトの低地平原』を後に預言したミカ、『その手は友の手に向けて上げられる』という終末の軍役を預言しているゼカリヤ(14:13)、『各人の剣は自分の兄弟に向かうことになる』と預言しているのはエゼキエルです(38:21)。これにギデオンの事跡を加えることも不適当ではないでしょう。

これらの預言者たちの語るところと、ヨハネへの啓示のこの部分に用いられているギリシア語が「アッレローン」であることを考え合わせますと、『火のような馬』をどのように見なすことができるでしょうか。

これはすなわち『ハルマゲドン』の戦いそのものではありませんか?

そのように捉えることで、白い馬に召して乗り進まれる新王キリストの戦いの目的もはっきりとしてまいります。
それこそは神と人との戦いであり、キリストに激高する諸国の権威者は天に向かって攻撃できないので、地上で信仰を働かせる人々に敵して軍を起こすに違いなく、キリストが征服に乗り出されるのは、ご自分の民の救出のためという以外にありません。(ヘブライ9:28)それは臨在の最後の段階に起こる主の『顕現』(エピファネイア)の時になされ、諸国の権力が自壊して打ち砕かれるとき、神の圧倒的な勝利を見るすべての人々は、否応なく『人の子が雲のうちにあって来るのを見るでしょう』。(マタイ24:30)

ならば、『敵のただ中』、つまり敵意の目標を信仰ある人々に定めたこの世の連合軍がまさに攻撃を開始しようとする危急の時となってから、全能の神がキリストに王権を授け、救いのために『征服せよ』と命じられるということにはならないでしょうか。
もともと不仲で、分裂気味に集合した世界の軍勢は何かをきっかけに同士討ちを始めてしまい、『火のような馬』で表された『無残な殺し合い』によって『地上から平和が取り去られ』ほどになるのでしょう。それは世界大戦をずっと凌駕するほどの規模の、多極的戦いのように想像されます。



このようにして啓示の書の内容を捉えますと、後は最後の登場者である『ハデス』まで見通しは一気に開かれます。

火のように赤い馬が過ぎ去った後の『この世』には、もはや何の力も残らないでしょう。権力を失った世界というものを想像するなら、制御されない無秩序なこの世とはどんなにか恐ろしい場所でしょうか。今日の体制がどれほど強固に見えていても、その日には熱して溶解してしまうとペテロも言います。(ペテロ第二3:10)

『わたしたちの上に倒れかかれ。そしてみ座に座っておられる方の顔から,また子羊の憤りからわたしたちを隠してくれ。彼らの憤りの大いなる日が来たからだ。だれが立ちえようか』と生き残った地の王や高官たちをはじめ、あらゆる人々がほら穴や山の岩塊の間に身を隠して言うのはこの時、つまり「神と人との戦い」に敗れた後ではないのでしょうか。(啓示6:15-)

必勝間違いなしと思えたハルマゲドンの戦いで、人類の強大な連合軍も同士討ちによって滅びてしまえば、世の権力を支持した人々にいったいどんな希望が残るでしょう。
ルカが記したように『人々は,人の住む地に臨もうとする事柄への恐れと予想から気を失う』としても不思議はありません。
マタイでは『すべての部族は嘆きのあまりに身を打ちたたき』不可視の雲に乗るイエスを「見る」と語られています。つまり、戦いの結末を見て初めて、キリストが臨在していることを悟るのであり、この象徴的な現れを聖書は『顕現』と言うのでしょう。(ルカ21:26/マタイ24:30)


こうした権力の機能しない状況下では、この世の諸制度も崩壊してしまうでしょうから、経済活動だけが健全である理由はまずないでしょう。ペテロが『諸要素は熱して溶ける』と予告したのはこのことなのでしょう。
国家間の争いがあるなら貿易もうまくゆくとは思えません。更に流通も断たれ始めると、食料品や必需物資に満ちた便利な生活も、命を支える食料を確保するのがやっとの有様になってしまうことは想像するに難しいことではありません。燃料やライフラインの寸断も避けられるものでしょうか。
この情況がもたらす飢餓は、不作によるものではなく貿易や流通の遮断によるものとなれば、猛烈な高騰が急激に起こることは容易に想像がつきます。

しかし、これが改善されなければ、より恐ろしい事態へと進まざるを得ません。
それが通貨による交換が不能となる事態の到来であり、恐るべき奪略と無秩序の出現であり、一切の権力も権威も存在しない状態に陥ります。『天が過ぎ去る』とはこの事態によく当てはまります。

そこにおいて、『罪』ある人間が如何に利己的であるかは、貪欲を抑えてきたこの世の権力と経済の消滅によって、この世の『罪』の本性が暴かれてしまうことでしょう。『諸要素は極度に熱して溶解し、地とその中の業とはあらわにされる』とペテロが語るこの言葉も、こうすると非常によく理解できます。『その中の業』とは、『罪』ある人間の素のままに行ってきた奪い合いに基づく日頃の行動のことであり、その本質は無秩序の中でこれ以上なく露見します。(ペテロ第二3:10)

軍隊は壊滅し、警察機構も物資の流通も働かず、小売店に行けば必要物を得られる便利な生活はあっという間に過ぎ去り、通貨を発行していた政府まで機能せず、通貨に価値を裏付けることも、そもそも物資もない以上、『彼らは自分たちの銀をちまたに捨てる。彼らの金は憎悪すべきものとなる』という言葉のままの情景を見ることになるのでしょうか。命を支える物資さえ得られない金銭に何の価値があるでしょう。『銀も金も,エホバの憤怒の日に彼らを救い出すことはできない』とも預言されております。(エゼキエル7:19/ゼパニヤ1:18)


こうして飢餓という黒い馬の疾走する世界には、やがて次なる青ざめた馬に乗る「死」の到来を見ることになるのでしょう。
即ち、栄養不良を通り越し、身動きもできないほどになってしまうなら、死を覚悟しなければなりません。青ざめた馬が神からの疫病の蔓延を指すのであれば、作物のある地域の幾らかの人々にとってもその影響から逃れる期待も空しくなるでしょう。

加えて、ハバククの語るようにYHWHの前を『疫病が進む』のであれば、それはモーセの時に荒野で、またダヴィデの時代にも示された神の裁きの処置の終末に於ける世界規模の再現が為されるとも言えましょう。原因も治療法も分からない新種の病気は今でも稀に現れることがありますが、そのような病気がパンデミックを迎えるとなれば、人類生存の危機も覚悟しなければならないでしょう。

おそらくは、それが選択的な疫病であるとするなら、罹患しない人々は神の『奥の間』に入ったかのように描写される云われもあることになるのでしょうか。(イザヤ26:20)

こうして、最後の象徴的登場者である『ハデス(墓)』<単数>が、啓示の書の文脈中で『地の野獣』<複数>に置き換えられている理由が見えてまいります。(啓示6:8をご確認ください)

それこそは、地上に累々と横たわる膨大数の屍の「墓」が、まさに『地の野獣たち』の腹となることを教えていると捉えられます。このように解することの方がどれほど啓示の文章に自然な理解に寄り添うものとなることでしょうか。

これらは、終わりの日の災厄がいまだに過ぎ去っていないだけでなく、将来に「四騎士」が人類の裁きを執行を表すという恐るべき内容となりますが、これは警告として考慮に値する捉え方ではありませんか? 実に、誰もがどちらに裁かれるのかは、その時まで不定であって、救われたい人が助かるわけではありません。

そして「ハルマゲドン」というものは、神ご自身が諸都市を地震や雷で破壊するわけでもなく、直後に神の王国の楽園をたちどころに期待することも的外れなことではないでしょうか。
「ハルマゲドンの戦い」は、権力同士の乱戦ではあっても大患難はまだ序章であり、キリストの臨御に気付いた世に執着する人々が、その後に起こることを予期して恐怖のあまりに気を失うという神の裁きの処置全体の発端に過ぎません。

さて証人の皆様は、時代の印ということで「戦争、飢饉、疫病」が、1914年以来にそれまでになく世界的な規模で起こったと納得なさり、その時以来、見えない天でキリストが王となり、サタンが地に落とされた印がそこに見えるとこれまで信じてこられたことでしょう。
以来百年を経過しましたが、 しかし、黙示の書が述べる終りの日は長いものではないようです。(ダニエル12:7/マタイ24:22)
イエスの戴冠が既に百年も前に行われているとすれば、救いの王の戴冠の意義は果たして何であったのでしょうか? しるしとなる災厄を人類に充分に味あわせるためでしょうか?

その答えが個人として、たとえ今ははっきりしないとしても、あなたにとっては以上のような可能性を考慮することもできるのではありませんか。
事が終末に関わることでありますから、その信仰の余地も残しておくことはあなたにとってけっして不利益にならないことでしょう。
もちろん、ここに述べたことが必ず正しいと言うのではありません。その可能性もあるということです。
いずれにしても、聖霊を注がれる『聖なる者たち』が再び地上に現れるときに、何が正しいかは明らかにされることでしょう。

そして、ものみの塔に所属することが救いとはならない事態も考慮に入れる必要性が見えて参ります。
なぜなら、キリストはひとりひとり(アッレローン)を羊とヤギに分けて裁かれると言われるからです。
もし、ものみの塔に留まることが救いであるなら、キリストはひとりひとりではなく組織を救うということになりませんか?

ですが、それでは個人の内面をご覧になる神の裁きと言えるのでしょうか。
聖書は、人を救うものは組織や規則への「従順」であるとは言わず、個人の「信仰」であると述べてはいなかったでしょうか。

確かに、人は仲間と共に居ることに安心感を抱きます。
教会堂の信徒席が「ノアの箱舟」の名称で呼ばれるのも、その安心感を与えるからでしょう。

ですが、終末の裁きとは人々の選択をもたらすものであり、その処置である滅びも、当然に選択的なものではありませんか。
そこで重要なことは、組織に所属していることが救いを具体化すると信じることではありませんし、終末の出来事が、現在信じている通りに進展することばかりを期待することでもないでしょう。

キリスト教を信じるとは、人や組織の述べることを信頼し、その後を着いて回るのではなく、終りの日に神の御旨のまま起こることを受け入れ、自ら判断して行動することを意味するのであり、そのような決め付けのないニュートラルな信仰こそが、その人を終末の救いに近付けるものとなるのではありませんか。神が一人一人を裁かれるのであれば、組織にご自分の判断を委ねる理由がどこにあるでしょう。任せたところで、組織が神の裁きにどんな責任をとれるのでしょうか?

イエスをキリストであると見分けた当時の人々は、聖書の知識にも、生活にも貧しい平民で、自分を宗教的に誇るところのない人々であったのですが、他方で、聖書に通じたパリサイ人は、頑なに自分の思うようなメシアを望んでイエスを退けましたが、ユダヤ体制の裁かれた当時、物事は彼らの予期しない方向に進んで行き、彼らに自信のあった聖書の理解は意味を持ちませんでした。
彼らの世代に聖霊は注がれず、却って『火のバプテスマ』という滅びを西暦七十年に被ったことは、終末への重い警告というべきでしょう。
揺らぐこともなく思えた彼らの強い確信は、却ってそのまま身動きのとれない頑固さとなってしまい、宗教体制の裁きに向かうことになったのです。




⇒「黙示録の四騎士 時代の印か絶滅の使者か

⇒「二度救われるシオンという女



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5.見分けるべき「終わりの日の印」

2015.08.19 (Wed)
見分けるべき「終わりの日の印」は?


イエス・キリストは、オリーブ山上で使徒たちの質問に答え、ご自分の臨在の時期に何が起こるかを知らせています。
それは、共観福音書の中でキリストの戻られる時期に起こる事柄、つまり「終わりの日」についての重要な預言となっておりまして、そこでは戦争、飢饉、疫病、また地震などの災禍も挙げられています。

エホバの証人の皆さんが、これらが20世紀の初頭、1914年から起こり始めたという信仰を持っていらっしゃるのはよく知られたことです。

皆さんによりますと、ダニエル書にある『七つの時』、またルカ福音書の終末預言の中に記された『異邦人の時』が同じもので、西暦前607年から2520年を経過して到達したのが1914年であるとのことです。
その時から、天でキリストが王となられてこの世に臨在を始められたので、サタンが地に放逐されて、上記の災禍が地上にあふれたとも信じていらっしゃることでしょう。

この信仰の土台となっているところの福音書の部分をもう一度眺めますと、すぐに見えてくるものがあります。

それは、これらの「終わりの日」の預言の内容には、弟子たちの遭遇する苦難とその心構えがその記述の大半を占めており、時代の印として災禍を挙げている部分は僅かであることです。

ですから、これらのキリストの終末の預言を全体からみますと、その多くの教訓が、時代の印が何であるのかを知らせるよりも、弟子たちの苦難についてずっと多くを語っていることに、あるいは以前から気になっていらしたかも知れません。

それはマタイでもマルコでもルカでも同じようで、世界が受けることになる災禍の印よりも、弟子たちが経験することになる偽キリストや背教的な不法な行い、また迫害を受けて王や高官の前に引き出され、そこで聖霊の言葉を語ること、また、彼らの身近なところから裏切りが起こり、家族や親族とも対立が生じること、こうした事柄についてイエスはより多くの言葉を費やして弟子たちに心の準備をさせていることが明らかです。

では、これらの言葉はいつ、どのように生じるのでしょうか?

皆さんが信じてこられ、他の人々にも熱心に教える1914年という年は、確かに時代の転換点と云われてきました。
その年には第一次世界大戦が勃発し、20世紀を強く特徴付ける世界戦争の時代をもたらしました。
そこから飢饉やスペイン風邪が猛威を振るい、その一方で地震も被害の大きなものが世界各地で発生しましたことも事実です。

ではこの時代についてのイエスの預言の他の言葉の数々についてはどう生じたでしょうか。
偽キリストが地上に興って、自分がその者だということ、またキリスト教の中で裏切りや親しい人々との対立が、世界情勢のように際立った仕方で起こったでしょうか。
そして何よりも、為政者の前に引き出され『誰も論駁できない』ほどに『聖霊によって語る』という事態に至ったでしょうか。

特に、この最後の点、つまり聖霊によって語るという内容はマルコとルカによって終わりの日の預言に含まれましたし、マタイはその預言より以前の主の言葉として別に記してはいますが、聖霊による言葉が『彼ら(為政者)と諸国民への証しのため』であることをはっきりと書いています。(マタイ10:18をご確認ください)

その点についてヨハネ福音書では、聖霊が到来するときについて『その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。』ともイエスは予告なさいました。

この、聖霊によって弟子たちが諸国民への証しを行うというところは、非常に重要な事柄に違いありません。
なぜなら、福音書にある通りにそれこそが神の世界伝道となるからです。

その捉え方を後押しするのが、マタイの終末預言の中の『タラントの例え』です。
この例えの中でタラントを殖やそうとしなかった奴隷がひとり出てまいります。
とりわけこの奴隷に注目しますと、「終わりの日」の預言になぜ弟子らへの訓戒が多いのかが理解できてまいります。

この奴隷は、預けられたタラントを銀行に預けておくことさえしないで、わざわざ地中に穴を掘って隠したのですが、その理由を彼はこう言っています。
『ご主人様,わたしは,あなたが手厳しい方で,まかなかった所で刈り取り,あおり分けなかった所で集めることを知っておりました。それでわたしは怖くなり,行って,あなたの一タラントを地中に隠しておきました。』(マタイ25:24-25)

この奴隷の主人がキリストであり、奴隷たちが弟子たちを表していることには皆さんもご存じのことでしょう。
主人であるキリストが帰って来ると、預けておいた財産を奴隷たちがどう運用したのかを報告させています。
つまり、この奴隷との清算の話もイエスがオリーブ山上で語った終末預言に含まれていて、キリストご自身が臨在なさるときに起こる事柄を語っていらしたのです。

マタイのこの例えの前に記されているように、その時期には迫害があり、マルコやルカの記すように弟子らは権威者の前に引き出されて聖霊の言葉を語らねばなりません。
そのときには弟子たちの間から裏切りがあり、親しい人々とも対立が起こるという極めて強い圧力の下に置かれることが描写されています。これは聖霊で語る者たちがこの世との鋭い対立の矢面に立たされることを教えていないでしょうか。

こうした難しい状況下では、イエスの語られた『体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。』また、『だれでも自分の魂を救おうと思う者はそれを失うからです』との言葉が非常に重い意味を持つことでしょう。(マタイ10章)

ですが、そこで恐れてしまう弟子が出ないと言い切れるでしょうか。
1タラントを預けられた不精な奴隷の言葉にもう一度注目してみましょう。
『ご主人様,わたしは,あなたが手厳しい方で,まかなかった所で刈り取り,あおり分けなかった所で集めることを知っておりました。それでわたしは怖くなり,行って,あなたの一タラントを地中に隠しておきました。』

こうして見直しますと、このタラントの例えの様々な言葉がよく見えてくるではありませんか。

つまり、この『不精な奴隷』は『怖くなり』ました。なぜなら、主人であるキリストはご自分が直接に宣教したわけではない「終末」においても収穫を求める『手厳しい方』で、弟子たちを襲う迫害や裏切りの吹き荒れるところでも宣教することを求めたからでしょう。

そこでタラントが何を表しているかも見えてまいります。
それこそは『聖霊の賜物』であり、それによって彼らは為政者の前で語り、『諸国民への証し』ともなる宣教を行うべきであるのに、そのことを怖がったのです。そこで、この奴隷がタラントを地中に埋めてしまったのは、聖霊を持っていることさえ隠さなければ迫害されたに違いないからでしょう。
確かにパウロは霊の賜物は、注がれた者によって制御できることを記しており、一人ずつが話して皆が学べるようにするよう勧め『神は無秩序ではない』と言い添えています。ですから、霊の顕現を抑え込んで、恰も地面に埋めてしまうこともできないわけではないでしょう。

マタイの終わりの日の預言の中で語られたこのタラントの例えは、はっきりと終わりの日の世界宣教がどのようなものになるのかを知らせております。

それは聖霊の無い人々が効率的とも言えない方法で、できるだけ長い時間を宣教に費やすということでしょうか。
いえ、その時に至れば、神は紛うことのない印である聖霊を弟子の中のある人々に与え、その「タラント」や「ミナ」の働きによって世界の宝のような人々が刈り取られることになると聖書は示唆を与えていないでしょうか。(ハガイ2:7)

聖霊を注がれる弟子たちは格別な人々でありますから、勇気をもって宣べ伝えた者には報償として多くのものが委ねられます。なぜなら、彼らはキリストと共に王として支配する『新しい契約』に預かる『神のイスラエル』だからです。
彼らは『自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従』うべき人々であり、アブラハムの胤として『いつも善を行ない,どんな怖ろしい事をも恐れずにいる』ことが求められます。なぜなら、世に対抗して聖霊の言葉を語るからでしょう。(マタイ16:24/ペテロ第一3:6/啓示11:3-7)

この世の終わり、それも終局(テロス)に際しては、類例のないほどの戦争や飢饉や疫病もあることでしょう。⇒「黙示録の四騎士
それは見えてから悟る「時代の印」のようなものではなく『大患難』そのものです。
(福音書の終末預言に『戦争』に関わる記述がそれぞれ二回ずつある事に注目して下さい)
しかし、聖霊による証しが諸国民に対するものであると語られているのであれば、これに勝る時代の印は他にないのではありませんか?

この「終わりの日」の預言の中で、主イエスは明らかに『聖霊』によって語る弟子たちがいることを知らせていらっしゃるばかりか、タラントの例えを含んで、それは明示されたご意志となっているのです。誰がこれに逆らえるでしょうか。

そうであれば、わたしたちは聖霊が再び注がれる時を待つ必要があります。
その時こそ、神は世界の一部の人だけでなく、全世界を相手にご自分を証しなさるに違いないからであり、ひとつの宗派の人々だけが行うことを遥かに超えて宣教し、その声はあらゆる人々に届くものとなることでしょう。

ですから、聖霊が語らせるその弟子らの声を聞くときには『心をかたくなにしてはならない』でしょう。(ヘブライ4:7)
それは聖霊に逆らうことになり兼ねないからであるとパウロは忠告しています。
もし、その時にエホバの証人であり続けるとすれば、本当の聖霊で語る『聖なる者』を、却って「背教者」と誹謗中傷することにならないものでしょうか?ものみの塔は『聖霊』を初期キリスト教の「揺籃期」には必要であったものの、『廃れるもの』としてしまっているからです。

ですが、キリストの終りの日の予告はそうではありませんし、預言者ミカもこう言っています。
『あなたがエジプトの地から出て来た日のように,わたしは彼に驚嘆すべき事柄を見させる。諸国民は見て,自分たちのすべての強大さについて恥じる。彼らは[その]手を口に当てる。その耳も聞こえなくなる。』(ミカ7:15-16)

聖書の教えはこの点で一貫しています。聖霊で語る者こそが『キリストの兄弟』であり、彼らの言葉を聞いて信仰を持つ人々が、終わりの日に羊により分けられることでしょう。(マタイ25:31-/ヨハネ17:20)

宣教の価値をよくよく知っていらっしゃるエホバの証人のお一人であれば、あなたも人の努力を超える「聖霊による神の世界宣教」に大きな意義を感じられるのではありませんか?

では、人々が見分けるべき「終わりの日の印」とは何でしょう。
忌まわしい災厄が喜ぶべき合図でしょうか、それとも神の聖霊による証しが人類への希望の印でしょうか。
あなたにとってはどちらに時代の印として宣べ伝える価値を感じますか?



関連記事として 

 考古学の示す年代を別にして、聖書記述だけを見ても、エレミヤの預言した七十年の始まりが前607年にはならない理由が生じています。「エレミヤの七十年」は、より深い価値がある「崇拝の再興」を指し示しています。
 ⇒ 「エレミヤの七十年の終点から起点を探る
聖書を見直すことで、神への信仰をお持ちなら、より深くご納得いただけるものと思います。是非一度ご欄ください。



4.道徳規準と神の是認

2015.07.20 (Mon)
道徳規準と神の是認



確かに「神の是認」とは願わしいものです。
キリスト教に限らず、神を信奉する宗教はほとんどがこれを望んでいることでしょう。
エホバの証人の皆さんが、道徳的であるよう個人として努力なさる目的も、神に是認された状態を保つというところにあることでしょう。

キリスト教の諸宗派ばかりでなく、ユダヤ教やイスラーム、また仏教においても、この世での行ったことの報いを人はいずれ受けるという教えが広く見られます。
では、キリスト教も、その人の行いが道徳的かどうかで判断されるのでしょうか?
もしそうなら、キリスト教の目的は道徳的な人を作ることになるでしょう。


さて、聖書には神との契約関係にあったイスラエル民族の神との交渉の記録が記されています。
それを見ますと、イスラエルの上に神の是認のあった時期も、そうでない時期もあったことが分かります。

そこでは、神に対してどう振る舞うかによって彼らの上に神の是認が留まるか否かが異なってきました。
律法に従って歩むときには祝福が注がれ、そうでないときには災いが臨んでいます。

神に選ばれたイスラエル民族といえども退けられたことがありました。

まず、エジプトを出た後に紅海での奇跡の救出に預かりながらも荒野で不信仰を示した世代があります。
またバビロン捕囚に至る結果を招いたのは、まさに歴代イスラエル民族の律法不履行でありました。

メシアが現れてもこの民は不信仰によって、ナザレの人イエスを処刑させてしまいます。
その咎は特に重かったのでしょう。その報いはその世代の内に臨んで神殿を失い、やがてイスラエルは約束の地から吐き出される結末に至っています。

その一方で、神の是認がキリストの弟子たちに移ったことを彼らの上に働く奇跡の聖霊が知らせていましたが、ユダヤ教徒はこれを認めることもなく自らの行いを省みず、イエスの弟子らへの反対を止めませんでした。

こうして神の是認について少し思い巡らすだけで、それが一度与えられたならずっと留まるものではなかったことが分かります。
キリスト教徒の中にも、古代のユダヤ教パリサイ派のように、自分たちが神の是認を受けているとするためにどんなことでも行おうとする人々が存在してきました。

ではキリスト教徒も、神の是認を受けるためには、神の言葉に従うことが最も大切なことであると結論するべきでしょうか。
そのように教えるキリスト教の宗派も少なくありません。
失敗したイスラエル民族のようになって神の是認を失わないために、聖書の中から神の道徳規準をあらん限り探り出し、それらを守るなら神の是認を得られると思うのでしょう。しかし、神のご意志をあらん限り行えば、そこに正しい崇拝が再現されるでしょうか。

どうなのでしょう?キリストの犠牲が捧げられて後の今日も、依然として神は人々にご自分の道徳規準を守ることを望まれていて、やはりそうする人を是認なさると言えますか?

確かにギリシア語聖書の中にも道徳規準が記されている箇所がありますが、それらは、律法の終わった今日も、神は人々に一定の道徳水準を求め、それに達している人を是認なさる証拠なのでしょうか。

もし、そうなら、イエスが犠牲の死を遂げられる前でさえ、その許に収税人や娼婦らが共に交わっていたのはなぜでしょうか。
その人たちはイエスと交わる以前にその悪行を止めていたので、彼らをイエスは受け入れたのでしょうか。

そうすると、その人々はモーセの律法を守ることにおいてユダヤ教徒としては問題を抱えていなかったことになるでしょう。
ですが、イエスの足を涙で洗い、それを自らの髪で拭った女について『その都市で罪人として知られる女』とされていたのはなぜでしょう。
また、イエスご自身が『健康な人に医者は必要でなく,病んでいる人に[必要]なのです。』と言われたのは、既に自力で道徳的に回復している人を受入れたという意味だったのでしょうか。

しかしイエスは『わたしは,義人たちではなく,罪人たちを悔い改めに招くために来たのです。』とも言われました。
この『義人たち』とは逆説的に、律法を堅く守り、自ら義に適っているとするパリサイ人を含んでいたことでしょう。

他方で、「罪人」とされた人たちは、会堂で律法の朗読を聴くこともできず、血統の上ではアブラハムの子孫でありながら神の是認からは遠く引き離されたかのようにされていました。
しかし、その人々をイエスは、「イスラエルの家の失われた羊」として顧みられています。

例えれば、その中にエリコのザアカイがいます。
彼の家にイエスが泊まられることは彼にとって予期しないことであったに違いありません。
なぜなら、イエスの一行がザアカイの家の客となることを知った他の住人たちは、そのことに大いにつまずいているからです。

もし、彼がイエスに会う以前からゆすり取ったものを四倍にして返していたとしたら、住人たちはイエスの決定にそれほど落胆したでしょうか。 (ルカ19:8 ギリシア語には現在進行形というものがありません)
ザアカイは、イエスとの出会いを通してはじめて大いに感化を受けて、その歩みを改めたのでしょう。ですから、その悔悛の言葉を聞いたイエスは、『この日にこの家に救いは来た』と言われます。

やがてイエスが犠牲の死を遂げられると、復活から五十日を経て『新しい契約』が発効しますが、このときから契約に含まれる人々に特に求められる事柄が生じています。

その人々は聖霊を注がれることで『聖なる国民』として選ばれることになりますから、『聖なる者』となることが求められます。
ペテロは聖霊を受けた人々にこう命じます。『あなた方を召された聖なる方にしたがい,あなた方自身もすべての行状において聖なる者となりなさい。なぜなら,「あなた方は聖なる者でなければならない。わたしは聖なる者だからである」と書かれているからです。』(ペテロ第一1:15-16)

パウロはコリント人への手紙の中で、淫行の者,偶像を礼拝する者,また盗む者,貪欲な者,大酒飲み,ののしる者,ゆすり取る者はいずれも神の王国を受け継がないと警告しています。
これに加えてこうも述べています。『あなた方の中にはそのような人たちもいました。しかし,あなた方は洗われて清くなったのです。神聖な者とされたのです。』
では、彼らを清めたものは何だったでしょうか?『わたしたちの主イエス・キリストの名において,またわたしたちの神の霊をもって,義と宣せられたのです。』(コリント第一6:9-11)
『聖なる者』とされ、キリストの兄弟とも成り、アブラハムの共同相続者となったからには、相応の清さが求められるのは、律法のレヴィ族が祭司らへの要求からして理に適っているといえましょう。

では、これらの新約聖書の『キリストの律法』ともされる道徳規準は、聖霊で油そそがれた人々に求められたことなのでしょうか。
ギリシア語聖書中の他の箇所も参照するとそこには何と書かれているかを探ると、一貫した見方を見出せます。

エフェソス人への手紙の中でもパウロは道徳規準を次のように記しています。
『聖なる民にふさわしく,あなた方の間では,淫行やあらゆる汚れまた貪欲が口に上ることさえあってはなりません。』
『むしろ,いつも霊に満たされ, 詩と神への賛美と霊の歌とをもって自分に語り,心の調べに合わせてエホバに歌い,』とも言うのです。(エフェソス5:3-20)
彼らは聖なる民であり、霊に満たされ、霊の歌を歌うのですが、これは聖霊を注がれた人々を指してはいないでしょうか。


ガラテア人への手紙で、パウロは肉と霊とを対照させてこう語ります。
『肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,みだらな行ない,偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事柄です。こうした事柄についてわたしはあなた方にあらかじめ警告しましたが,なおまた警告しておきます。そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません。』

これについて『霊によって歩んでゆきなさい。そうすれば,肉の欲望を遂げることは決してありません。』とも言い加えています。つまり、霊によって歩み、その実を結ぶのは、聖霊を受け神の王国を受け継ぐ人々であり、そこには霊の特質が反映されるべきだったとみるべきでしょう。

やはり、それらの道徳規準が誰に適用されるかは『神の子』という明らかな立場を表す言葉によって示されています。
パウロはフィリピ2章で、何事も闘争心や利己心から行うことのないようにと訓戒し『それはあなた方が,とがめのない純真な者,また,曲がってねじけた世代の中にあってきずのない神の子供となるためです。その中にあって,あなた方は世を照らす者として輝き,命の言葉をしっかりつかんでいます。』と述べています。(フィリピ2:15-16)

しかし『神の子』というのは、誰でもなれるものではありません。
パウロは『霊そのものが,わたしたちの霊と共に,わたしたちが神の子供であることを証ししています。』とローマ人の8章で述べます。また、『キリストの霊を持たない人がいれば,その人は彼に属する者ではありません。』とも言うのです。
彼は『神の霊に導かれる者はみな神の子である』とも証ししており、『キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はありません。』とまで言うのです。
彼らが『新しい契約』を通し、キリストが犠牲を捧げて到達した、倫理上の『完全にされた』状態を共に認められ、その代理者イエスに免じて『義』を仮承認を受けていたのであれば、この要求も不当とは言えないことでしょう。

つまり、『新しい契約』に預かることでいち早くキリストの犠牲が適応されており、『義』が信用貸しされ地上にいる間から聖い状態に引き上げられていると言うのです。(ローマ8:1.33)
彼らは『養子縁組の霊』を受けた人類の『初穂』とされる人々なのです。(ローマ8:15/ヤコブ1:18)

これほど高い立場にこの人々を押し上げたのは、彼ら自身でも品行方正な生活態度でも道徳水準でもありません。
それは『聖霊』であって、彼らの信仰によって無償で与えられたものなのです。(ローマ5:1-5)


こうしてギリシア語聖書を見直すと、そこにある道徳規準は『新しい契約』と関連付けられていることが明らかになります。
その観点からペテロの『最終的に汚点もきずもない,安らかな者として見いだされるよう力を尽くして励みなさい。』との言葉を読むときに、それが聖霊を注がれた聖なる者たちの務めであることを悟ることができます。

イエスも『狭い戸口を通って入るよう』にと弟子たちを訓戒されたときには、聖なる者となる見込みにあったユダヤ人の弟子たちが、新しい契約を捉えて『精力的に励む』必要のあることを知らせていたことを知ることができます。彼らはレヴィ族の祭司に聖さが求められたように『聖い民』でなくてはなりません。

こうした見方は、聖霊のないキリスト教を実践しようとする『普通の人』が聖霊の助けもなしに実際的でない道徳律を当てはめ窮屈な思いをしたり、律法の時代に逆戻りしパリサイ人のように振る舞うことから解放するものとなるでしょう。(コリント第一14:16)

もちろん、そうであるからといって、キリスト教信徒に道徳律は何もなく、今日では何をやっても許されるということにはなりません。
本来のキリスト教には、人を外から規制する律法のようなものはありませんが、「愛の掟」というものがあるのです。パウロは『愛は律法を全うするもの』であることを教え、また『愛するほかに何も負ってはならない』とまで言うのです。(ローマ13:8)

その掟とは、自ら望んで自らを律するという、内面の動機、アガペー愛を育てるべき務めなのです。
それが真に人を神と結びつけるものとなることでしょう。(ヨハネ第一4:16)

ですから、何かの道徳規準を守ることで神の是認を得られるというのは、アダムの罪を肉体でいる状態から贖われた『聖なる者』にだけ当てはまることであって、『神の王国』の贖罪を待つべきその他の人々には、規則を守って品行方正な模範者を装うよりも優れた道があります。
それが「愛する」ということであり、それはパリサイ人のような行状による優越感とは無縁で、しかも神の特質を反映した生き方をその人にもたらすことになるのです。(ルカ18:9-)

パリサイ派の考えでは「清い者が取分けられ」、そうでない「地の民」が神の是認から除外されるところにありました。
一定の道徳規準を定めて、それに達していると思うことで自らの正しさを自認しましたが、彼らが道徳的でなく律法も知らない「地の民」との比較において、彼らは安心感をも抱きました。彼らは「地の民」を侮蔑していながら、自分の正しさを証明するために、彼らの存在を「踏み台」のように必要としていたのです。

当然、それはキリストの批判を受けることになります。まさに、キリストの教えの神髄はアガペーにあり、パリサイ派の精紳とは正反対であったのです。(ルカ18:9-)
では、一定の道徳規準に達していない人を忌避することと、パリサイ派の精紳とはどう異なるのでしょうか?それは最も助けを必要としている人々をただ安易に退けているのではありませんか。

もし、キリスト教がいつまでも道徳律という外からの規制を教え続けていれば、そこではアガペー愛が育たないに違いありません。民衆を愛したイエスに激しく反対し、与えられたメシアを除き去った律法主義者の道をキリスト教徒が歩むべきでしょうか。
いいえ、キリストの教えは自発的なアガペーによってユダヤ教を遥かに超える優れた教えとなったのです。
その救いはあらゆる他者、『敵』にさえ広げられているのであり、処刑される場でさえ「この罪を彼らに負わせないでください」との請願は外面の義を装う言葉ではなく、その請願の中からあの『百卒長』の信仰が興され、更には元はパリサイ人であった『使徒パウロ』のような人物が現れて来たのです。
その救いは、道徳主義の集まりに占有されているわけもなく、あらゆる人々へと広げられているのであり、それがキリストを人類に与えた偉大な神YHWHの御意志であったのではないでしょうか。

そしてイエスは『人はあらゆる罪と冒涜の言葉を赦される』と言われました。
キリストの犠牲の前に善人の仮面をつけることがどれほど無益なことであるかを知らないとすれば、その人はキリストの教えの基礎をさえ知らないと言うに等しいことではありませんか。

「愛する人々」は「道徳的な人々」に優り、規準を満たそうとすることよりも大らかで、人を許し、自分も許されます。(エフェソス4:32/ヤコブ2:13)
それこそがキリストの犠牲が成し遂げる贖罪の精紳ではありませんか。六千万デナリの負債を免除された人が誰を許さないでおれましょうか。(マタイ18:24)

神の是認はキリストのような愛と赦しの特質を示すところにやがて聖霊と共に来ることになります。しかし、そのような人は身勝手に条件をつけ、自分たちだけで神の是認を独り占めにしたいとは思わないでしょう。
なぜなら、その人は利己的ではないからです。(民数11:29)




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2.命を救う業 神の世界宣教とは?

2015.07.17 (Fri)
命を救う業


エホバの証人の皆さんが、毎月できるだけ多くの時間を割いて宣教奉仕に邁進していらっしゃることは、皆さんの宗派の際立った特徴と言えましょう。そのようになさる理由を挙げますなら、それが「命を救う業」との認識をなさるところが大きいでしょう。
この「終わりの日」にひとりでも多くの人々のところに「良い便り」を届かせることが、現代の最も重要な仕事と信じていらっしゃることと存じます。

その一方で、皆さんの組織も認めていますように、野外奉仕の場面で伝道された人が、その場で「羊」か「ヤギ」かを表し、その伝道の場でそのままに「裁かれる」わけではありません。
ご承知のように、マタイの「終わりの日」に含まれます「羊と山羊のたとえ」では、苦難に遭うキリストの『兄弟たち』に親切を示す羊のような人々が王国に入るとされております。

では、キリストの『兄弟たち』にどのように親切を施すことで『羊』とされ、『王国を受け継ぐ』ことになるのでしょうか。
この詳細なところは、人々の命に関わる重要なポイントであるに違いないでしょう。
では、この点を聖書をいま一度確認されますなら、キリストの『兄弟たち』について、より明瞭に理解なさることでしょう。


さて、「羊と山羊」の例えは、キリストの終わりの日の預言が記されたマタイ福音書の24章に続いて25章に書かれております。
ここでイエスは、『すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分け』られるという臨在の日に於ける裁きを描いて語られました。
すべての国の人々が右と左に分けられて、祝福と呪いに選別されるのですから、これは本当に重大なことと言えましょう。

終わりの日の人々を「羊か山羊か」に裁くものは、その人々がキリストの「兄弟たち」に親切を示すかどうかであることを、イエスがはっきりと語っていらっしゃいます。
この、キリストの「兄弟たち」とは誰かについては、皆さんもご存知の通りに、聖霊で油そそがれた人々であることはギリシア語聖書の中に何度も明言されています。

つまり、天でキリストと共になるために天に召される人々の総数は最終的に14万4千人となるのでしょう。
この人々のうちの終わりの日に生きる人々に対して、親切をもって接する人が「羊」と見なされることを、この「羊と山羊」の例えは教えております。

このキリストの「兄弟たち」について、聖書をもう少し詳しく見ますと、皆さんも今更ながらに納得なさると思われるような記述が多く存在しています。


例を挙げれば、ヨハネ福音書の16章は、イエスが刑柱上での死を迎える前の晩に語られたことを、その懐にあった若き使徒のヨハネが書き記した部分です。
そこでイエスは、このように語られました。

『その者,すなわち真理の霊が到来するとき,あなた方を真理の全体へと案内するでしょう。彼は自分の衝動で話すのではなく,すべて自分が聞く事柄を話し,来たらんとする事柄をあなた方に告げ知らせるからです。』(ヨハネ16:13)

ここでキリストが去った後に遣わされる聖霊は、弟子らを『真理の全体に案内する』すなわち、彼らの真理を知る経路となることを知らせています。

ですから、あのペンテコステの日から、使徒たちをはじめとする120人ほどのガリラヤの人々は、単に自分たちで勇気を奮い起こしたというよりは、よほど『聖霊』に助けられてディアスポラの人々に宣教を開始しているのです。
使徒ペテロは『聖霊に満たされて』ナザレ人イエス・キリストがよみがえらされ、メシアとされたことをヘブライ語聖書を自在に引用して大胆に宣明します。

聖霊に満たされた彼らの発言を聴いたサンヘドリンの宗教指導者らは、彼らの『おくすることのない話し方を見,またそれが無学な普通の人であることを知った時,彼らは不思議に思』ったと書かれております。(使徒4:13)

イエスが処刑されてからしばらくは、エルサレムの片隅にユダヤ人を怖れてひっそりと過ごしていた使徒たちが、これほど敢然と、しかも教理の知識を得て語り始めたのはなぜでしょう。(ヨハネ20:19)
ペンテコステの日以降のイエスの弟子たちの勢いは、聖霊の働き無しには考えられません。

皆さんもご存じのように、このように聖霊が注がれた人々には、「異言」ばかりでなく、預言や癒しや翻訳や知恵や教えなど、多様な聖霊の賜物がありました。この点でコリントの会衆には賜物の種類が揃っていることをパウロに誉められてもいます。(コリント第一12:7-11)


この聖霊について、やはりイエスは捕縛される晩に次のように命じました。
『わたしが父のもとからあなた方に遣わす助け手,すなわち父から出る真理の霊が到来するとき,その者がわたしについて証しするでしょう。そして今度はあなた方が証しをするのです。あなた方はわたしが始めた時から共にいるからです。』(ヨハネ15:26-27)

この「証し」とは何でしょうか。ヨハネは第一の手紙の中でこのようにも書いています。
『神のみ子に信仰を置く者は,自分について証しされています。神に信仰を持っていない者は,[神]を偽り者としているのです。なされた証し,つまり,神が証人としてご自分の子に関してなさった[証し]に信仰を置いていないからです。』(ヨハネ第一5:10)

神はご自分の子に関して証しをなさったとヨハネは言います。つまり、イエスが『たとえわたしを信じないとしても,その業を信じなさい。』と言われた『父の業』、奇跡によるその「証し」を弟子らも行うようにと命じられたのでした。(ヨハネ10:38)

イエスを退けたユダヤ人たちは、聖霊による神の業を見ながら、その奇跡を言い訳して拒んでいました。
それは『聖霊への冒涜』であり、許されることのない決定的な罪であったでしょう。(マルコ3:22-30)

そして、イエスが父のみ許に上られた後、聖霊が弟子たちに降ると、『今度はあなた方が証しをする』ことになったことが分かります。
こうして彼らは、聖霊によってみ子イエスを証しする業をはじめ、力強くユダヤ人の中へと、それからサマリア、そして無割礼の異邦人へと聖霊を注がれる仲間を増やしてゆきました。
つまり、弟子たちは「アブラハムの胤」を召し出す業に邁進していったということができます。

これらのキリストの『兄弟たち』が存在してはじめて他の人々の救いも可能となるのですから、この特別な人々がまず何と言っても地の四方から集められなければなりません。
天でキリストと共になる人々は聖書中で『聖なる者』(ハギオス)とされ、パウロをはじめ聖書筆者たちはこの語を用いてこの特別な人々を呼びかけています。パウロの書いた手紙の多くはこれらの『聖なる者たち』への挨拶で始められています。


この聖なる人々は『養子縁組の霊』を受けて『王国』ばかりか、キリストの『業』を受け継いでもいました。しかもパレスチナを越えて、『より大きな業』を行っていったのです。
そのはじまりが、あのペンテコステの日からの『異言』でしたが、そのほかにも様々な聖霊の賜物を受け、集まりにおいてはそうした賜物がプログラムを提供していたことをパウロの手紙から知ることができます。(コリント第一14章)

彼らを教え導き、業を行わせた原動力はやはり聖霊であったことは使徒たちの活動の書にもよく描かれています。
また聖霊は人の印であったことも聖書は明らかにしています。パウロはこの聖霊が彼らの身分を証しするものであったことを何度も書簡で述べ、聖霊の活動によってその人々が見分けられていたことが明らかです。(コリント第二1:22/エフェソス1:13-14/テサロニケ第二2:13)


第一世紀の集会では、ほとんどの信者に聖霊が注がれていたことがギリシア語聖書の記述から分かりますが、やがて、聖霊の賜物をもつ人々が少なくなり、第二世紀が終わる頃には聖霊の賜物は過去のものとなっていたように「教会史」のような当時の資料が伝えております。

第二世紀の初め、当時のキリスト教徒で117年頃に「護教論」を著したシリアのクワドラトゥスは、自らが預言の霊を持っていたこと、またキリストご自身に癒された人が当時にはまだ生存していたことを知らせています。同時にキリスト教界はこのころから次第にギリシア哲学や様々な異教が混入するようになりましたが、それは予告された背教のはじまりでもあったでしょう。

聖霊の賜物が地上を去って行ったのは、「キリスト教が揺籃期を終えた」から必要が無くなったのではなく、聖なる者たちが居なくなったことで、キリスト教にはいよいよ本格的な背教が臨んでいるというべきでしょう。

そして第二世紀以後、今日までの間に使徒時代のような聖霊の賜物をもつ人々は絶えて現れてはおりません。
しかし、イエスは「終わりの日」に聖霊によって語る人々がいることを予告され、それは福音書中に何度も記されています。

例えればマタイ福音書の10章には次のように記されています。
『人々に用心していなさい。人々はあなた方を地方法廷に引き渡し,また自分たちの会堂でむち打つからです。いえ,あなた方はわたしのために総督や王たちの前に引き出されるでしょう。彼らと諸国民に対する証しのためです。しかし,人々があなた方を引き渡すとき,どのように,または何を話そうかと思い煩ってはなりません。話すべきことはその時あなた方に与えられるからです。話すのは単にあなた方ではなく,あなた方の父の霊が,あなた方によって話すのです。』(マタイ10:17-20)

このように弟子たちが聖霊によって語る場面は、マルコもルカも記していてどちらも「終わりの日」の事柄として述べていますので、この際立った業が人々の裁きの関わる時期に行われるとみるべき理由があるでしょう。(マルコ13:9-11/ルカ21:15)

上記のマタイでは、霊によって話すことは為政者たちと諸国民への証しとなることが明記されております。
そしてこれは共観福音書だけでなく、ヨハネも最後の晩のイエスの言葉の中でも、「聖霊」にひときわ注意をひいているのです。

その晩、イエスは弟子たちと多くを語り、特に聖霊については『その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。』とも予告されました。(ヨハネ16:8)

この『納得させる』というギリシア語(エゲグコー)には「論破する」の意味が含まれます。つまり、聖霊が語るときに政治家たちも諸国民もそれを認めざるを得ず、ルカ21章15節でイエスが言われましたように『あなた方の反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできない』ほどの内容になることでしょう。

それは世界にとって大きな衝撃を与えるものとなるとしても不思議はありません。その可能性に思いをとめて、イザヤのイエスに関する預言を見直しますと、その古代から予告された終末での神の証言に疑問を残すところは無いでしょう。それは聖霊による世界宣教を指し示していないでしょうか。

『彼も同様に多くの国の民を驚かす。彼のことで王たちは口を閉ざす。彼らは自分たちに詳しく話されていなかったことを実際に見,自分たちの聞いていなかったことを考慮しなければならないからである。』(イザヤ52:15)

また、ハガイもこう述べます。
『「万軍のエホバはこのように言われたのである。『あと一度―それはしばらくのことであるが―わたしは天と地と海と乾いた地とを激動させる』。
「『またわたしはあらゆる国民を激動させる。あらゆる国民のうちの望ましいものが必ず入って来る。わたしはこの家を栄光で満たす』と,万軍のエホバは言われた。』(ハガイ2:6-7)

ここまでこうして聖書を追ってまいりますと、非常に重要な事柄が明らかになるのではありませんか?


それは、本当に「命を救う業」となりますのは神による世界伝道でありまして、その発言を導くのは『聖霊』に他なく、それを世界に向けて語るのは、その聖霊を受ける『聖なる者たち』であるということになるのです。

彼らは『新しい契約』に入った人々であり、地上にいる状態から『義』を得ると言われます。(ローマ8:1・33)
ですから、彼らは神YHWHに『アバ、父よ!』と呼びかけることが許されます。(ローマ8:15)

その宣教は、この世のすべてを相手とするこれら聖霊を受ける『聖なる者たち』の「命がけの宣教の業」となるのでしょう。
ですから、『体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂も体も共にゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい』
また『自分の魂を見いだす者はそれを失い,わたしのために自分の魂を失う者はそれを見いだす』とイエスが弟子たちに警告された言葉は、将来に於いて聖霊を注がれる『聖なる者たち』に非常に重い現実味を帯びてくることが分かるのです。(マタイ10章)

そこで決死の証言を行う「キリストの兄弟たち」の発言に信仰をもって受入れることがまさにその人を救うものとなるでしょう。
イエスは上記のマタイ10章の続きでこうも言われます。
『あなた方を迎える者はわたしをも迎えるのであり,わたしを迎える者は,わたしを遣わした方をも迎えるのです。』
『弟子であるということでこれら小さな者の一人にほんの一杯の冷たい飲み水を与える者がだれであっても,あなた方に真実に言いますが,その者は自分の報いを決して失わないでしょう」。』(マタイ10:40・42)

この『兄弟たち』には、様々な困苦が臨むことも覚悟する必要があります。
『獄につながれる』のも、世の為政者たちに聖霊を通して対峙するからなのでしょうし、そこで聖霊を通した言葉に信仰を働かせる世界の人々が彼らに『親切』を示せることにもなりましょう。

しかし、初代の弟子たち以来、人類は未だにこのように聖霊で発言する人々を見てはおりません。
『油注がれたクリスチャン』とされる方々と聖書の『聖なる者たち』との違いは、単に理解の仕方が異なるだけの同じものを指しているというには相当の無理があります。
そこに奇跡の業と言葉をもたらす『聖霊』が無く、教理に度々調整が加えられ、予告された年に何も起らないことが続いたことは、一般から見ても「普通の宗教」という以上には言えません。

ものみの塔の言い分としましては、こうした聖霊の奇跡も、論駁できないほどの言葉もないのも、それは「重要なのは救いの音信であり,奇跡ではありませんでした。奇跡は音信の真実性を証明したに過ぎません」とあり、使徒ヨハネの『神に信仰を持っていない者は,[神]を偽り者としているのです。なされた証し,つまり,神が証人としてご自分の子に関してなさった[証し]に信仰を置いていないからです』という言葉と衝突してはいないものでしょうか。(81.12/1「信仰治療-それは害をもたらしますか」7p/ヨハネ第一5:10)

また、ものみの塔は聖霊の奇跡をいよいよ軽んじているのか、こうも述べています。
「今の時代には,イエス・キリストが神の任命された救出者であることを証明したり,神がご自分の僕たちの後ろ盾となっておられるという証拠を示したりするために,神がそのような奇跡を行なわれる必要はありません。」(洞察1「奇跡」687p)
なんという確信のこもった断言でしょうか。まるで神の威力を観るのを拒んでいるかのようでさえありませんか。
このような「信仰」はいったいどこから来たものでしょうか? ⇒ 「ものみの塔の奇跡の業への観方

ですが、本当に聖霊を注がれる『聖なる者たち』の現れなくして、世界はけっして「終わりの日」に入らないことでしょう。
世界には、『聖霊』という『世の裁き』の要を欠いているからです。


こうして聖書を幾らか見直すだけで実に大きな事柄に気付くではありませんか。
そこには真の「命を救う業」が記されています。
それはキリストの兄弟たちの行うはずの際立った奇跡の業であり、わたしたちは聖霊の声に心を柔らかくして受け入れるなら誰でも救いを得ることになるのです。(ヘブライ12:25-27)

それはつまり、いま現在、どんな宗教に属し、どんな思想を持ち、またどんな立場や道徳的行動をしているのかにも関わりなく、神は公正に聖霊を信ずる人々を救われるということです。主は『人はあらゆる種類の罪や冒とくを許される』と言われます。(マタイ12:31)

人は、自分が救われたいという願いが強いと、自分たちで定めた基準が神に受け入れられると信じたいものです。
実に多くの宗派で、それぞれ聖書から引用した規準を守るなら救われるという言葉に大きな魅力を感じて、さまざまな宗派へのバプテスマを多くの人々が受けてきました。そこで大きな安心を得てもいることでしょう。

ですが、神の救いの意志は広く、聖霊の言葉を信じるか否か、それを語る『キリストの兄弟たち』を、その投獄されるほどの苦難にあっても支持するか否かによるのです。
しかし、いまだに世界に向かって語る人々が現れていないのであれば、終末の裁きはまだなのでしょう。

そこで求められるのは、けっしてひとつの宗教組織の指導を受け入れて「神に従順を業で示す」のではなく、神とキリストと聖霊に信仰を働かせることが裁きに関わるというべきでしょう。

キリストの『兄弟たち』への『親切』な行いは、彼らを支持したいと願う聖霊への信仰から発するものに違いなく、それほどに聖霊の言葉が人を動かす素晴らしいものなのでしょう。

イザヤはこの「命を救う業」の成果を高揚感溢れる言葉を用いてこう語ります。
『末の日に,エホバの家の山はもろもろの山の頂より上に堅く据えられ,もろもろの丘より上に必ず高められ,すべての国の民は必ず流れのようにそこに向かう。そして多くの民は必ず行って,こう言う。「来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう。[神]はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう」。』(イザヤ2:2-3)

それは人間にはけっして行うことのできない神の宣教の業であり、それを聴く人々の範囲は世界の隅々に及び、その内容はどんな人間にも考案も反論もできないほどのものとなるでしょう。

エホバの証人の方々は、神からの音信を遠く広く伝えようとなさる強い意志をお持ちなのですから、このように偉大な神の宣教のご計画には是非とも協働なさろうと思えるのではありませんか。さもなければ、聖霊の言葉が聞かれるときに、その音信を敢えて退けることにならないものでしょうか?

そこで何をもっても、天から注がれる強力な神からの真実の『聖霊』を待ち望むべきであって、人間の努力で義を立てることをまず止める必要があるでしょう。真にキリスト教を清めるのは、使徒たちの時のように、人の思い付きからではなく神の聖霊からのものとはなるに違いないのではありませんか。(コリント第一2:12-13)

パウロは、宣べ伝えられる神の音信が『霊と力の論証を伴うもの』であったことを述べております。それは神の威力、御腕であって、『説得のための知恵の言葉ではない』とも記されております。(コリント第一2:4-)

千八百年ほども、神が永い沈黙を守られたとはいえ、終末には再び奇跡を行うその右腕が目覚め、そのご意志は必ず行われるに違いないのです。
「終りの日」という歴史のクライマックスに於いて、神が人々に御力を見せずにいらっしゃるでしょうか?

預言者ミカを通し、ヤハはこう言われています。
『あなたがエジプトの地から出て来た日のように,わたしは彼に驚嘆すべき事柄を見させる。 諸国民は見て,自分たちのすべての強大さについて恥じる。彼らは[その]手を口に当てる。その耳も聞こえなくなる。』(ミカ7:15-16)

これほどに聖書が語るのであれば、きっと『約束の聖霊』が「終わりの日」に注ぎ出され、「キリストの兄弟たち」が世界に向けて語り始めることでしょう。あなたはこれを信じることができるのではありませんか。







エホバの証人にお勧めしたいこと

2014.05.07 (Wed)
エホバの証人にお勧めしたいこと


最近になって、現役の「エホバの証人」の方々からメールを頂戴するようになり、それぞれご自分では疑念を感じ始めていながらも、そう簡単には組織を後にすることもできないご事情を伺うようになりました。
そこで外部からのセカンド・オピニオンのように参考意見をお聴き頂ければと思い、疑念を感じ始めていらっしゃる現役「証人」の方々に、いまや進退窮まったかのように観える御組織の現状にあってもお勧めできるところを申し述べたく存じます。

もちろん、こちら側である「新十四日派」がまったく正しいという訳ではありません。しかし、こちらからの視点で見えるところをお話することが無駄ではないように思えるのです。

お聞きするところでは、現役のエホバの証人であっても、これまで絶対的とも感じられてきた「組織」の正当性に疑問を懐き始めていらっしゃる方々が最近たいへんに増えつつあるとのこと。

情報を総合しましたところで原因と思えますものは、まず話題にどうしても上ってしまう性的幼児虐待に関わる事件ですが、これはカトリックでも、仏教でも起こっていることで、人間に共通の汚点なのでしょう。そこでそれぞれの宗教の真価も問われてくることになるますが、そこでものみの塔はこの挑戦にどう答えているのでしょうか。

これについては組織の管理者、つまり意思決定を行って来た「統治体」とよばれる上層部は、報道を「外部からの攻撃」と主張して情報を否定し、信者からの真摯な問いも受け付けず、その一方で密室で行われた事件にさえ「二人の証人制度」を適用し続けたために、ついに被害者側への「忌避」まで用いてもみ消しに走るという以前からのアプローチの積み重ねが、いよいよ裁判所からの口座凍結のような事態を招いてしまい、結果的に内部の誰の目にも明らかなほどの資金不足に大きな影を落としたことを挙げないわけにも参りません。それほどに内部には財産不足として、一般人にも醜聞の認知が進んでしまっているものですから。

伺うところでは、一件の敗訴でも十億円単位の罰金や保障が求められ、それも一件や二件ではなく、十件単位であちこちから訴訟が起こされているとのことです。これが欧米を中心に各国に広がりつつあるとなりますと、その負担額の大きさは傍目にも軽くないようです。これは背教者のデマがどうこうと云うところでなく、早急な解決が求められる、組織そのものの存亡に関わる重大事ではないのでしょうか?もちろんこれは、賢明な指導があるなら、すぐにでも正面から向き合うべき課題というべきものであることは外部からも明らかなことです。

この問題は、宗教団体の中から犯罪者が出たことが問題なのではありません。オーストラリアを始めとして、ものみの塔としての対処の仕方が犯罪として嫌疑が懸けられてしまったのであり、その被告が実に「ものみの塔」であるというのです。理由といえば犯罪者と犯罪を放置、隠蔽していたと司法から見做されてしまったからです。

原因といえば、性犯罪者の大半が長老などの立場ある人たちで、長老は「二人以上の証人」によらなければ裁かれないと、正しく聖書に従ったつもりでも、その規定が今日の現実には則さず、加害者を匿うかのように教えが作用してしまったところにあります。
しかし、これは聖書に責任があるとも思えませんし、エホバの証人の大半の品行方正な方々の直接の悪行ではないのです。
しかも、証人のみなさんには動揺しないよう知らされていないことで、それは却って知る機会を得た方々に衝撃を与えることになるでしょう。

この問題の根は、「聖書にある通りにすれば自動的に正しいキリスト教が実践される」という仮定が問われるべきだったのでしょう。聖書に書いてある通りにするだけで、指導層が良識ある判断を加えないとすれば、それは『忠実』のようでいて、『思慮深い』とは言い難いことでしょう。そこには非人格的で良識を欠いた規則主義が感じられますが、果たして神もキリストもそれを望まれるのでしょうか。
この点、ユダヤの宗教家たちが暗記するほど聖書に詳しく、却ってキリストを殺害したのが大きな教訓と言えます。硬直的な文字への正確な従順さよりも、宗教人らしく重きをなすべき意味を悟る「良識ある人格的判断」が求められたということでしょう。

ですが、宗教団体が訴訟を起こされるということはそう珍しいことでもなく、表沙汰になりにくいだけのこと、まして、米国のような訴訟社会であれば尚更でしょう。
そこでどう対処するかによって、本来の組織や指導者の資質が問われることになります。完全無欠な人も組織もどこにもないのですから。

ではそこで、「神の経路」と称される「ものみの塔」組織の対処法は主張に違わず立派なものとなっているでしょうか?
早期に適切な対処が出来ていましたら、今日一般にも伝えられるほどの不名誉までは免れていたことでしょう。

その当然の結果として現れた資金の危機に対して、ものみの塔側は(法的には独立した宗教法人の場合がほとんどの)各集まり(会衆)からの拙速な、信者の心尽くしの寄付や労働によって得られた集会所の名義や資金などの所有していた財産の収奪した上でこの世に販売するという、傍目にも良心的とは思えない方向にミスリードを重ねつつあるようです。犯罪の罰金や賠償のために悪行を行っていない人々から金品を集めることを、一般ではどう考えるでしょうか。そうしなければならないほどに強い切迫感が資金面に及ぶ事態に立ち至ったということでしょう。

もちろん、金銭そのものを惜しむ気持ちからではなく、その物事の行い方や起こっている事への説明の無さに義憤を感じられるとしても、それは自然な良心の反応であり、それを「不忠実」や「背教」と責めるのは的外れであるに違いないことです。まして意見の異なる仲間を「排斥」するというのは外から見ても余りにも行き過ぎです。

しかし、この状況も本来「罪」ある人間の集団である以上、どんな組織であってもこのような構成員の失態は避けられないことであると思われます。それは犯罪の加害者自身ばかりでなく上層部の対応にしてものことで、それが直視せねばならない「罪」ある人間のおしなべて現実の姿なのでしょう。
そこではやはり、世俗権力の機能、つまりパウロも従うよう求める『上なる権威』と言う、警察力や司法に頼り、また協力する必要のあるところはやはりそうしなければなりません。加えて、この種の警察からの捜査と、宗教弾圧としての迫害とを混同するとすれば、それはエホバの証人には良識が備わっていないと公表するに等しい愚行です。

もちろん、道徳的で知られるエホバの証人のほとんどの方々が不名誉な罪人として警察のお世話になることは無いことでしょう。
ですが、誰であれ倫理的不完全さを免れているわけではなく、そこで「道徳的完全を演出」するべく幾らかの事件を無かったことにしようと、もみ消しを意図し始めたときに、却って人間共通の大きな悪の罠へと深々と落ち込むことになってしまいます。むしろ、自分たちの崇拝にプラスになることであるとすら思えたとしても、もみ消しはやはり悪であり、善を装うところは更にあるまじき事に思えます。

それが「罪」ある人間がどうしても避けられない弱点であり、人の倫理上の欠陥はキリストの犠牲を要したと聖書も教えるところとなっております。(ローマ3:9) この『罪』という問題を、ひとつの宗教組織の中で処理しようとするには問題が大き過ぎます。まして皆さんのお仲間の中での、お心がけや努力で本当に警察が不要になると期待してよいものでしょうか。
もし、それができるものなら、パウロが『剣』を恐れるようにと弟子には言わなかったのではないでしょうか。

また、ひとつの集団が倫理的に潔白であると主張することは、人間全体に巣食うこの「罪」の実体や危険性を、信仰のお仲間については無視することでしょう。 どれほど道徳的に振舞うとしましても、エホバの証人の方々だけが特に救いに価するほど神の目にも清いと思うとすれば、それは間違った感じ方ではないでしょうか。
使徒ヨハネも『罪を犯したことがないと言うなら、その人は偽り者』と述べた通り、どれほど清い人格を誇っても誰も例外なくアダムからの罪を逃れることはできません。キリスト教徒であれば、自らの倫理的実態を正直に見つめてこそ、キリストの犠牲の価値がどれほど高く貴重であるか分かるものでしょう。

ですが、「ものみの塔」の指導的立場に在る人々からはこの組織においては性的幼児虐待のような不道徳は起こり得ないとする意識が強く働いていたのではないでしょうか。この団体こそが「神の経路」であると拳を高く振り上げるほどに、その「清さの演出」が実態から離れてしまい、却って組織をあげて性犯罪者を隠匿保護するような罪の上塗りになってしまったのでしょう。

この点だけ見れば、その宗教信条の是非はともあれ、九億人の信者のトップに立つローマ教皇自らが謝罪し、該当聖職者を罷免したカトリックは余程謙虚であり、同じ問題にあってもまだ道義的に対処したと言えるでしょう。

カトリックには聖職者の独身制と、人間の実際の道徳性のギャップとに問題の背景がありましたが、ものみの塔の場合にも、何かの制度上の無理が背景があるのではないでしょうか。もし、聖書の言う通りにすれば間違いは起こらないというのであれば、律法に厳密に従おうと腐心したユダヤの宗教指導層はなぜメシアを殺めたのでしょうか。聖書に問題の根はなく、問題の根は『罪』ある人間の方ではないでしょうか。

おそらくは「二人以上の目撃者」によるのでなければ責任ある立場の男子を裁かないこと、また、その二千年前の状況で有効であった裁きを今日の社会の実態から切り離して優越化したところに、『罪』ある人間というもの、また聖書そのものの意図を読み違えていたようにも見えます。
その「二人の証人」の句は、かつて古代に指導者をおとしめてエクレシアに混乱を持ち込もうとされていたときに、聖霊ある指導者を守るために機能した決まりではありましたが、今日実際には、その制度が悪用されてしまい、性犯罪者の温床を作って、会衆が悪の巣窟となっているのですから、古代とは正反対に作用しているではありませんか。
そこで、なお聖書にある言葉だからと固執するのは、人らしい良識ある判断をせずに自派の正当化のために聖書に従っているだけではないのでしょうか。

しかし、果たして、思い違いの避けられず、また非倫理性のある人間が聖書の字面の通りにすれば、いつでも正義や真の宗教が出来上がるものかといえば、やはりそれは無理でしょう。その「忠実さ」にどんな実際的知恵や判断があったものでしょうか。むしろ、良識を働かせることを捨て、神に責任を負わせるようなことになるなら、それは神を賛美してはいない結果となりましょう。

ですから、エホバの証人がカトリック信徒の倫理的不完全さを何か云えるものでもありません。カトリックだから倫理的に不完全なのでしょうか。外部からはけっしてそのようには見えません。

そのうえ被害に遭った信仰の仲間が裁判に訴えるとなれば、自動的に信者とはされなくなり、他のメンバーから遠ざけられ、家族も他人以下の扱いをするというのはまったく理に適わないように見えますが、どこかが間違ってはいないのでしょうか?
それでは、「道徳的で知られるエホバの証人」らしくなく、まるでナチのように非情です。思うに教理がどうかという以前の良識や道徳の問題でしょう。

さらに、その教理について言えば、長らく「1914年からひと世代のうちにこの世が終わりを迎える」とされてきたものが、近年になって「ふたつの世代が重なる」という教理の変更が行われたことに、内心では残念な思いを感じた方々も少なくはないように拝察いたします。

そこで「年代に信仰を持ってきたわけではない」とご自分に言い聞かせ、これまでの1914年からひと世代の内に「新体制」が臨んで、「楽園」が到来することで人生の様々な問題も解決されると熱意を込めて信じて来られた希望が静かに消滅し、新たな決意を胸に「この組織を信じよう」あるいは、「ほかにどこに行けばよいのか」と念じてこられていることを、それぞれの方々の誠実さの表れと見ることもできましょう。

しかし、この問題の淵源はこのような方々には無いように思えてなりません。
原因は、それら多くの誠実さを無駄にしてしまう、より大きな力が働いていることのように見受けられます。

それこそは、最も悔い改めるべき少数の上層部の頑なさであり、ネット上では、これに気付いている方々も実に少なくはないようです。
つまり、組織の意志を定める指導者ら、おそらくは「統治体」とよばれる人々こそが、まず第一に、信者の方々がみせるような誠実さを発揮させるべきなのでしょう。

この上層部の人々の陥っている問題に的を絞って見ますと、その実態に関わらず「とにかく自分たちは正しい」という自己義認から抜け出せない点に帰着するようです。その動機には信者を失うことへの恐れがあるようですが、これは逆効果にならないものでしょうか。聖霊に霊感されてもいない限り、人は誰もが間違いを逃れられないのは当然のことだからです。

つまり、人間の誰もが『罪』ある実態に関わらず「神の是認の下にある」あるいは「批判は許さない」という態度を改められず、この源から様々な害悪が増幅されつつあるように見えます。ですがこれは逆効果で、現実とのギャップに気付いてしまった方々に失意を、また「罪ある者」同士の一方が「正しい」と主張する傲慢な対人関係が激しい義憤と重苦しい閉塞感をもたらしているのでしょう。

また、この点に関しては指導を受ける側に問題がないとも言えません。
「正しい自分たちに間違いはない」という願望的妄想に対して、宗教組織や圧政下では人間が本来賜物として持っているはずの「英知」や「判断力」というブレーキの利きが著しく悪いのです。

判断することは常に上に上にと委ねられ、そのために本質的には「誰が偉いか」を問う宗教となってしまい、皆が同じではなく、階層社会を作り上げてしまうことを許しています。証人の皆さんは余り意識なさらないかも知れませんが、皆さんの全体に浸透しているのは上から下への特権欲ではないのでしょうか。

組織の中では「兄弟姉妹」と呼び合いつつも、巧妙に上下の層が幾重にも作られております。その「偉さ」の根拠と云えば、「霊性」という奇妙な優越感ではないのでしょうか。楽園も永遠の生命もその「偉さ」を確立するための燃料にされてはいませんか。

このピラミッドの頂点を成す統治体が、いよいよ「異例と思える指示にも・・」となりますと、危険運転さながらの「暴走も覚悟せよ、しっかりつかまれ」とのことなのでしょうか。 当然ながら、これは個人の持つ良識や判断力を抑え込んでしまう圧政国家の施策と変わりなく、キリスト教とは何ら関係の無いものです。

この点では、カトリックやプロテスタントは歴史が長く、これまでに多くの失態があって、自分たちがまったく潔白であると主張するには程遠いことを内心弁えております。ですから、まだ過ちを認めて謝罪もできますが、ものみの塔に限らず新興の宗教となりますと、まだまだ子供のような潔癖妄想が抜けず、パリサイ派以来の業の清さの主張が、どれほど罪ある人間にとって非現実かを知るだけの経験が足りないようです。

もちろん、皆様の支配層の人々も間違いを犯すことを認めないわけではないのでしょうけれども、特定の事柄においてはそうしようとしているようには見えません。
その頑なさは、人の「罪」を無視したような仮想の潔白性においてだけでなく、すべての証人に対する「統治」の権限に関わる事柄においてそのようです。

例えれば、小さな教理を変更することはこの人々にとって、「統治」を然程に左右することではありませんから、訂正も容易な事でしょう。ですが、これが神の前に「唯一正当」であることを危ぶませるような教理については、実情とはまるで異なってしまっても変更を加えることがどうしてもできないようです。その中には「1914年からの臨在の始まり」や「忠実で智き奴隷」に関する教理が含まれることでしょう。

また、「ものみの塔」だけが「神のもの」であり、キリスト教世界とは異なり優れた教理を有しているので、「聖霊」の指導の下にある。という事柄に疑問を差し挟む余地は許されていないようです。

確かにキリスト教界が中世の暗黒を克服できていないような異教の教理をいまだ後生大事に抱えていることは事実でありますが、今日、誤謬を克服でき、神の前に潔白であると主張することが誰であるにせよできるものでしょうか?

ものみの塔の教理の場合、「1914年からキリストの臨在が始まった」というような根幹を成す教えは、元来どこから現れたのでしょう。
神からのものでしょうか? それとも人からのものでしょうか?

神からのものであれば、なぜにあれほど変更を重ね人々を欺き苦しめ宣明する御名まで汚したのでしょう。
人からのものであれば、なぜその教えを信じ込んで苦難の道をわざわざついて行ったのですか。

ある現役の方に「1914年という年代を信仰しないでも良いのでは?」とお尋ねしたことがありましたが、そのお答えは「エホバの証人であれば、それは無理でしょう」とのことでした。これは教会員に「三位一体を信仰しないでも良いのでは?」とお尋ねしても同じような返答をもらうことになるでしょう。

これらのどちらもキリスト教に付け加えられた「人間の教え」ではないのでしょうか。そのせいか、どちらもその聖書のごく一部を根拠にしたこれらの根本教理にはそれぞれに頑固で、それぞれ自己義認の根拠にしているため身動きもできません。
ですが、三位一体説がもたらすものと言えば、聖書理解の放棄と、神への無関心と言えましょう。

そして、仮に1914年が本当にキリストの臨在の開始年であって、実際にそれからがハルマゲドンを待つべき時代だとしても、その教えがもたらす「信仰」に、どれほどの価値があると思われますか??
一言で表せば、「時が来たので、神の悦ばれる道徳者になりましょう」と言っているのではありませんか?
果たして「神の裁き」とはそれほど外面的なものなのでしょうか?
その信仰の目的は「楽園への生き残り」であって、別に言えば「自己義認に安心して終末を裁きを迎えましょう」とも言っているのです。
もちろん、主人公は神ではなくご自分でしょう。ですから、神の御旨を探るにしても、ご自分が裁かれないためです。
そこで、証人の皆さんは、ご自分が何としても行きたい「楽園」の色眼鏡をかけて聖書を読んでしまい、また教えられたように読み、そうして偏った「生き残り」のための生き方を始めます。果たして最重要なものは『永遠の命』でしょうか?神は人間にとって『愛』を最重要にすべきことを教えてはいないのですか?『愛』は命の源であり、命そのものに勝ります。もし、人が命を優先するなら、逆に神は命を差し控えるのではないでしょうか?

命を最重要とするのは人の心を見る神を奉ずるキリストの教えとして異質ですし、例えればエレミヤの七十年という年代計算の起点の理解からして、伝道や集会のために聖書をあまり読んではいらっしゃらないようにこちらからは見えます。 なぜなら、年代計算が導く動機は「生き残り」であり、『愛』とは言えませんし、そもそも1914年の根拠は聖書そのものが根本から否定していることは、いくらか読めば誰にもはっきり分かりそうな事だからです。⇒「エレミヤの七十年の終点から起点を探る

特にエホバの証人のアイデンティティとも言えるほどになっているこの「1914年臨在説」という根幹的教理は、けっして崩すことのできない組織側と証人側の合意事項とさえ言えます。
なぜなら、これが危うくされるなら、証人の人生を懸けた「楽園」の希望がかすみ始めてしまい、組織側では証人への統治権の基盤が揺らいでしまうからでしょう。欲望のために神の意志の真意は探らず、ご自分のために組織以外の言葉の一切に耳をふさぐというのは真理や真相を求める態度なのでしょうか?

そこで、これらの最重要項目については「真偽を問わない」という双方の暗黙ともいえる合意が形成されていますが、その動機をはっきり申し上げるなら「ご利益の獲得」と「宗教指導者の特権の維持」というよりほかなく、どちらも純粋に神の意図を汲もうとしているか否かは、こちらからは判然と致しません。

しかし、今やその同意事項も上層部の不義理な行動の結果として危うい状況に入り込んでしまい、証人の方々には幾つかの分離の選択肢が生じ得る状況にあります。

ひとつには「ものみの塔」が改善されることを願うこと
また、この組織に見切りをつけて「大いなるバビロン」と呼んだ宗教に属すこと
あるいは、最初から信仰が育っておらず、まるで宗教を後にすること
もうひとつ、様々な事情があって、内心の信仰はともあれ所属を続けるという方も多いとお聞きします。

わたしから見て、この何れもが善い方策には見えませんが、とはいえ、それは個人の倫理上の決定でありますから、断じることは致しません。

ですが、こちらのサイドから見て、次のひとつの事は「証人」の皆様にお勧めできるように思えます。

神からもたらされる真理に近づく方法があるとすれば、それは「捜し続けること」であると聖書は述べます。

それにはまず、伝道活動に費やしている時間の半分でも、個人で聖書を熟読することです
これはエホバの証人の皆様に限らず、キリスト教に近付こうとする方々でしたらどなたでもお勧めしたいことでありますし、これなら何も今ここでわたしが強調するまでもないことのように思われるかも知れません。

ですが、何かを見失いそうになるとき、基本に立ち戻ることは何せよ必要なことではありませんか?
皆さんの手には、これまで研究に用いて使い慣れた聖書があり、以前の新世界訳は教会員が誹謗するような悪書ではありません。
しかし、聖書の熟読は「塔」組織が勧める「通読」や「朗読の範囲」のようなところにけっして限ってはなりません!

通読というものには欠点があり、恰も「聖書を理解してはならない」と言うに等しいことで、通読の回数を誇る虚しい努力は、消化できないままに次々に読み飛ばして「終わること」を目標にしがちで、教会によってはこの通読を奨励し、信徒の間でも通読を何回行ったかを競うようなところがありますが、これは敬虔さをひけらかす手段となっており、却って嘆かわしいところです。
また、ものみの塔の「朗読の範囲」では組織の都合の悪い箇所は注目されず*に、決められた同じ観点が強調され、僅かな言葉のニュアンスに隠された理解の糸口も無視して通り過ぎてしまうでしょう。 *(エゼキエル34章など)

もちろん、聖書理解に助けは必要でしょうけれども、「詳しい」と思える他者に余りに任せてしまい、ご自分の判断を下さない習慣をつけることは、ご自分と神との間に人間の講釈師を入れることになってしまい、その人が間違えればあなたもそのまま間違えるはずで、実際、それは年代の件で何度も経験して来られたことなのでしょう。

ですが、それは本来、あなたご自身の間違いではなかったのです。
三位一体がエジプトの異教や哲学から入り込んだように、「年代計算」はアドヴェンチスト派に同意した、ひとりの人の思い込みを介して「混入」したものではありませんか。
もちろん神の聖霊の間違えであろうはずもありません。

ご自分よりは聖書に詳しい人また組織が、宣伝してやまない「ご利益」を聖書の教えと信じてしまい、そのために言われるまま、ほのめかされるままになって人生設計をそれに合わせたところが問題だったのです。

ですが、それはキリスト教そのものが間違っていたのでしょうか?

そこで、もう一度聖書に正面から向かい合うことにより、あなた個人が見落としていた点に気付けるところも多いのではありませんか。そこから思いもよらなかった価値ある理解に発展するところがきっとあるでしょう。あなたなりであっても、その新しい理解は、聖書の他の部分と合致し始め、やがて確固たる信仰へと実を結びます。

そうして、ご自分で判断を下す習慣を付け、ご自身の持たれる愛や良識や価値観など、様々な良い特質を伸ばしてゆくことは、もちろん今からでも可能でしょう。そうすると、何がより優れた見解かを見抜けるようになってゆくことでしょう。

そこでは、「ものみの塔」という宗教組織一つにつまずいたからと言って、よほど貴重なキリスト教の方を投げ出してしまう必要も、三位一体を教える教会に退行する必要もないのではありませんか。この世はあらゆる手段を用いて神の知識を得させまいとしていますが、その手段には宗教組織という巧妙な方法もあることでしょう。ご利益を使って知りかけた人々の欲を引き出し、そこに集めて蒙昧にしておくためですが、もちろん、そんな悪辣な罠に掛ってみすみす泣き寝入りをする必要など初めから無いのです。

是非、もう一度聖書に目を向けて頂きたく思います。それも真剣で集中的な熟読によって精査すれば、そう遠からず何かを得られるのではないでしょうか。つまり、ご自分と神との間を密接にして、神のご意志、その根底にある意向や精神により深く、また広範に触れることを通して、ご自身の前に置かれたものの真偽を見分け、それがキリスト教のものか、そうでないかを直感できるように感覚を聖書に合わせて鍛錬できます。

つまり、深く継続的な熟読によってキリストや使徒たちの、また古代の人々の環境にご自分を置くかのようにして読み込んでゆくことで、当時のキリストの弟子になったかのように、そこに語られる精神に触れることができます。
やはり古代のイスラエル民族に起こった事柄や、キリストという人物の現れには、徒ならぬ何かがあったに違いないのです。(使徒10:37-43)

現代に生きるわたくしたちは、まずこれを調査し、あるいは信仰の基礎とするべきで、他の幾らか詳しい人々から何かを聴くにせよ、それは本来補助的なものとされるべきでしょう。まる任せにしては、ご自分の重大な判断を放棄して、何事も人間の教えに従う奴隷になってしまうでしょう。

そこで、まず手始めに比較的短めのパウロの書簡や、使徒言行録、また福音書の数章をどこかに定めて、数週間から一か月なりの期間に繰り返し繰り返し数章の同じ場所を丹念に読み込んでみることをお勧めします。きっと、これまでと違った聖書観を得られるものと思います。

そうして、毎月少しずつ熟読の場所を移動してゆくとよいでしょう。できれば小さな聖書を用い、シャープペンシルで書き込みを行い、余白に個人の「相互参照」を書き込むことは特にお勧めしたいところです。

やがて、書簡群と使徒言行録の密接な関係性や著者たちの主張の意味とその背景、また福音書でのイエスと使徒らの語らいや様々な譬えの意味がこれまでになく把握でき、理解することの幸福を味わうことでしょう。いや、これはもちろん、わたくしが申し上げるまでもなく確実なことです。

また、聖書全体にわたって文脈を知った上で聖句と聖句の関連を追うと、実に多くの発見に出合いますが、そのようにして神のご意志の詳細を辿り出す喜びは、あなたに深い価値を感じさせるものとなることでしょう。
更には専用のメモを取り、題目毎に聖句なり論点なりを整理するなら、ずっと明解に理解が進むはずです。それはご自分なりに気付いたもので良いのです。それでも、あなたにとって相互参照やメモはこのうえなく貴重なものと感じられるようになるでしょう。

こうして聖書を「面」として理解することを目指さなければ、書物として知ったことにはならず、いつまでも「点に線を引いただけの」辞書のようにしか理解しないことになります。

翻訳は引用に慣れていらっしゃる「新世界訳」を(改訂前の版を今のうちに確保して)主に用いて良いと思われますが、できれば他の訳本も比較できるように用意されるに越したことはありません。といいますのも、訳者によって意味が異なるところが出てしまうのは避けられないことで、特に理解の鍵となる聖句については様々な訳を比較したいと思うように促されるでしょう。

こうすれば、エホバの証人特有の聖句と聖句の間を抜いて結ぶような理解が、単に「点を線」で強引に結んだものに過ぎないことを実感されるものと思います。
そればかりか、聖書そのものが雄弁に語り始め、これまで見えていなかったこと、ご存じなかったことがどれほど多いかに気付かれることでしょう。それは知識の単なる更新とはならず、神への想いの変化を経験なさることと思います。

つまり、もう人任せの解釈の鵜呑みの段階を後にして、聖書を介して直接に神の言葉を聴く態度に変わってゆくでしょう。
それは本当に充実した時間となり、人に対する神の意図を探り出すという、貴重な経験となるはずです。それは自分が存在しているという価値への難問の解答を探ることでもあり、それに勝る重要な解答はありません。


それらの研究に加えて、ギリシア語やヘブライ語の原語で聖書の言葉を確かめたくなってこられるはずです。
この点で、「ものみの塔」が「この世」と呼んで蔑む世界はむしろ進んでおり、人々が本文(ほんもん)のそれぞれの単語の意味も調べられるようにとの善意を抱いて原語聖書写本の本文や逐語翻訳を無償で公開している寛大な組織や個人が少なくありません。

これらを活用することこそが、こうした善意に答えることになり、且つ、真に神の意志を探ろうとなさる方の謙遜さの表れとも言えましょう。

こうして、本当の意味で聖書を探求し始められますと、ご自分が「楽園」に行けるか否か、ご自分の生涯中にハルマゲドンが来るか否かを問うような、「ご利益信仰」は霧が晴れるように消えて行ってしまうでしょう。
そこにあるのは、神の行動計画であり、その偉大な意志、歴史の長さと変わらぬ神の善意、キリストの自己犠牲の重さなどに圧倒され、人の欲望の小ささに恥じ入ることにさえなられるように思えます。

加えて、聖書の書かれた当時の歴史や民族の習慣など、背景に注意が向いて来られるものと思います。最近では日本語でも多様な周辺の知識に関する本が出され、また訳されるようになり、徐々にこの方面でも知識を増やすのも容易になりつつあるのは喜ばしいことです。
これも加わることで、「面」の理解はいよいよ「立体」的把握へと更に進みます。しかもこれは興味深く、然程に難しいことでもありません。様々な知識を前にして、聖書と神のご意志を知ろうとする意欲の高まりをいよいよ感じられることでしょう。


以上のように、聖書を読み込む事や、並びに個人が深く聖書に通じる事は、イエスが音信をいつも「例え」で語ったことに関係してきます。
つまり、大多数の人々はイエスの講話を聴いても、深く悟ろうとはしませんでしたから、「例え」は「例え」で終わってしまったのです。

それは今日も同様に思われます。
多くの人々は「ご利益」を求めてキリスト教に集まってはきますが、自らの欲が満たされるとそれ以上は聖書を学ぼうとはしません。それは真剣に知ろうとしない人々をまるで聖書そのものがフィルターで濾し取るかのようです。
ですが、聖書は私たちが一生を費やしても学び切ることができないほどの内容が詰め込まれていて、一部を知っただけで満足することなど聖書の優れた記述そのもの、類い稀な価値あるその内容が許しません。その内容は読む人の価値観を呼び起こし、神の優越性は人を感化せずにおきません。その最たるものは『愛』であり、自然に読者をカルト的野蛮から引き離すことでしょう。

「楽園」の希望を知らせるだけが聖書の役割であれば、確かに「一度、真理を知ったのだから、もう探す必要は無い」との説得に耳を傾けてしまうかも知れません。
ですが、聖書は「求め続け、敲き続け」ることを命じていなかったでしょうか?


どうか、「エホバの証人」の方々が、ご自分の聖書理解に満足しきって、「楽園に行くのに必要なことはみな知っている」などと思われませんように。それはこの世で成功することや「天国」に行きたがる教会員と同じ「ご利益信仰」であり、その自己本位な思いが、神のご意志が何かを探ろうとする聖書研究を曇らせてきたのです。



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-日本語訳聖書で基本的なものは-

口語訳、新改訳、新共同訳、それぞれ利点があります。
岩波の翻訳委員会訳は註釈がすばらしく豊富で研究向きですが、朗読には適しません。
ほかにも質の高い個人訳や、ラディカルな訳も色々出版されていますが
それぞれの主張や特長に学ぶところがあるでしょう。

新世界訳にもあちこち意図的な翻訳の問題点もありますが、使えないような翻訳ではなく、市販の聖書にない優れているところも多々あります。
(私個人としましては、常々比較しておりますと、英文の「新ジェームズ王欽定訳」(略号「NKJV」)の安定性に気付かされます。
もし、入手できる機会がありましたらお勧めしたいところです。文語訳がこれに準じています)

但し、どんな翻訳も、言語の相違から必ず「危険の伴うもの」であります。
 それは、どんな宗派の教えでも、何らかの問題があるのと同じことです。
加えて、訳者の聖書理解の影響を受けずに済むことはまずありません。
 しかし、原著者の書いたひとつの意味が必ずあるはずでしょう。

そこで多くの場合に決め手になり得るのが、古代写本やそこから構成された「原語本文」です。
 翻訳される以前の元の言葉はどうであったのかを確認することで、訳された文章を見直すと、その訳文には随分と意訳や省略がなされているところがあるものなのです。また、訳者の迷いさえ読み取れるところもあります。
また、ある解釈に読者を誘導したり、特定の宗派の意図さえ感じられるような訳文も無いとは言えませんし、訳している側でも意味を測り兼ねる本文に出くわすことも避けられません。そこで『求め続け、探し続ける』姿勢こそが誰にも求められているという以外ありません。


-聖書本文の公開サイトの例-

・http://www.hebrewoldtestament.com/
旧約(ヘブライ語)聖書の本文に、新字体(アラム式)だけでなく、旧字体も添えられています。
加えて、ヘブライ語の発音とラテン・ウルガタ訳と何種類かの英訳も並記されています。

・http://www.greeknewtestament.com/
こちらはギリシア語で五つの本文とラテン・ウルガタ訳、それからいくつかの英語訳が平行しています。
フォントも安定しているようです。

・http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/Hebrew_Index.htm
旧約(ヘブライ語)聖書の本文に行間逐語を施してあります。
但し、単語はヘブライ語とは逆に左から右に並んでいますのでご注意ください。

・http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/Greek_Index.htm
上記に同じくギリシア語本文の行間逐語訳です。

・http://www.lexilogos.com/english/greek_ancient_dictionary.htm
ギリシア語辞典などがあります。

・http://stephanus.tlg.uci.edu/lsj/#eid=1&context=lsj
彼の「リッデル・スコット・ジョーンズ」のギリシア語辞典がオンラインで使えます。

・http://www.perseus.tufts.edu/hopper/
このタフツ大のサイトは単語を追いかけて様々な古典資料を比較するのに索引が非常に便利です。

・http://www.doitinhebrew.com/Translate/default.aspx?welcome=1#.UvoRDnmCi4B
ヘブライ語の辞書です。タイプしやすいように、ご親切にもソフト・キ-ボードが添えられています。

・http://www.ellopos.net/elpenor/greek-texts/septuagint/default.asp
セプチュアギンタが参照できます。新旧聖書の橋渡しで、多くのヒントがあり重要度は低くありません。

以上に相当する無料の日本語環境のものは、まだ存在していないようですが
インターネット上には他にもいろいろとありますので、検索なさればもっと良いものも見つかるでしょう。

まずは、一か所でも気になる言葉があれば是非調べてごらんなさい
きっと古代の息吹に触れる想いを味わうことでしょう。

ルネサンス期の人々もポツリポツリと始めていったのです
あの、ラテン語の大学者エラスムスでさえも、周囲に誰も教師の居ない環境で、新たにギリシア語に取り組みましたが、それも彼の人生では歳が随分進んでしまってからのことでした。
彼に調査できたことは、今日のネット回線に繋がったわたしたちよりよほど限られていましたが、それでも何とかあの新たなギリシア語本文にまとめ、それを底本にしてルターが、ティンダルが・・・と翻訳が続いていきました。今日、聖書を母国語で読めますのも、これらの先達たちの、荒海に小舟で漕ぎ出すようにしてまで探求しようとした決意と努力の積み重ねに多くを負っております。

もちろん、あなたなりでも良いのです。要点はご自分で情報を確認し、自ら神と向き合うよう努め、ご自分で吟味して判断をする習慣を持つことです。
これを他の人、それも幾らか詳しいだけの人なり組織なりに丸任せにしては来られませんでしたか。それでは「信仰していた」のはどなたなのでしょう。

しかし、今やご自分で何かが分かればそれも成果ですし、分からなかったとしても、事が複雑であることは「分かった」のでありますから、そこで「何でも知っている」という傲慢を去って神の御前に謙り、物事への「慎重さ」や「謙虚さ」という貴重な特質を身に着けることはできたのです。

そして、まったく収穫が無いという事はまず無いでしょう。少なくともその部分については詳しく知ったのですから。
熟読に至って初めて、これまで様々な人々が、聖書の様々な部分を理解しようとしてきた蓄積から学ぶという補助的手段があなたにとって真の意味での助けとなります。

しかし、補助的手段の注解の方に支配されては本末転倒というべきでしょう。人々が第一に読むべきは何を以っても聖書であることが明らかなことではありませんか。
聖書を深く理解し把握するための参照資料はあるにしても、辞典を調べるようにして聖書が証拠に参照されるような「研究」をしてはこられませんでしたか。
それでは、初めに結論ありきと、後から聖句を証拠に挙げるような指導者に何かと誘導にさらされる危険は避けられないでしょう。本当には聖書そのものに精通していないからです。



-聖書理解の時代背景については-

まず、ヨセフスの「ユダヤ戦記」加えて「ユダヤ古代史」
そして重要性の高いエウセビオスの「教会史」
特に「ユダヤ戦記」と「教会史」は何を置いても読んでおきたく思われるでしょう。
またローマ帝国の歴史にも幾らかの知識が欲しくなることでしょう。
これらは近年文庫本となっていますので大変入手し易くなっております。

この辺りの書物を揃える過程で、次から次へと興味尽きない資料が現れると思われます。
もちろん、旧来の「塔」の資料も(年代以外のところで)良い意味で役立ってくるでしょう。

そうなれば、これを基礎として、あなたはキリスト教だけでなく、様々な事に於いても熟考しご自身で判断なさる習慣を身に着けられ素養とリテラシーの持ち主となられ
今後何を為すべきかも、集団行動によらず、聖書に学ぶところからご自分で判断なさることでしょう。

そうして「神の象り」に相応しく、宗派や組織によらず、個人の信仰と尊厳を持ったキリスト教徒となられるに違いありません。
即ち、聖書そのものが、誤謬をあなたから遠ざけ、圧政者の頸木から解いてくれるので、もう何者にも宗派にも隷属することはないでしょう。
ここでわたしが「塔」組織の揚げ足をとるような批判の苦々しい駄文を長々と連ねる必要もありません。

すぐに結果を期待できるわけではありませんが
それでも、熟読を始めると心は晴れやかになるように思います。

今日からでも、聖書(できれば新約〈ギリシア語聖書〉中が善いでしょう)
の何処か一か所を定めて始められますように


(ちなみに、私は決意してガラテア書を一か月間何度も読み込み、翌月には使徒言行録の前半に向かったのを覚えております)



翌日まで怒りを持ち越すことのないようにとのキリストの教えはまことに心身を癒すもので、軌道から外れたかのように観える上層部に従う苦衷から、皆さまの想いと身体が壊されませんよう、神YHWH(ヤハ)の御祝福がありますように





エイレナイオス
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