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17.旧約聖書を知る  *

2015.01.01 (Thu)
聖書を読む 旧約


聖書理解したいと思い、まず読んでみようとこの本に向かい合うとき、その理解が簡単なことでないことは、その本の厚さからも明らかです。

そこに旧約と新約を合わせて二千ページにもなる厚い本があります。そのうえ、最初の創世記から最後の黙示録まで読み通せばおおよそを理解できるかといえば、そのようなことはまず無いでしょう。と言えば初心者であれば意気阻喪して、誰か詳しい人に頼り切ってしまいたいと思うことでしょう。

しかし、全体のおおよそを知ると、後は読んでいる箇所にどのような時代や背景があるかをある程度でも分かるようになり、ひとりで読み進めるにも理解を大いに助けることになるでしょう。

聖書の目的とするところは、神による人類の救いであって、人生のガイドブックのようなものではありません。単に道徳を教える本と見なしても的外れです。天国や地獄もそこにはありません。人間の死後の世界さえ教えていないのです。ありきたりの宗教的常識も通用しません。なればこそ、これを理解してゆくことに深い意味もあります。

聖書とは、『罪』を負ってしまい『顔に汗してパンを食し、遂に地面に帰る』とされた人間を、アダム以来のむなしい状態から解き放ち、創造されたままの輝かしい姿を再び得させるための、非常に永い時代にわたる神の歩みと人間との生々しい交渉の記録ということができます。

聖書全巻を眺めると、その分厚さに圧倒されますが、目次を見ると内部は幾つにも分けられています。
おおよその聖書であれば、66の部分に分かれていて、旧約聖書が39巻、新約聖書は27巻から構成されています。
旧約聖書は全体の約七割を占め、残りの三割程がキリスト後に書かれた新約聖書です。

旧約、新約の「約」とは「契約」を略したもので、それは共に神とイスラエルとの間に結ばれた契約を表します。
聖書をふたつの部分に分かつ決定的な要素は、この契約にありますので、以下に、それについて述べておきましょう。



まず、古い方の契約ですが。
これが「旧約聖書」と呼ばれ、そのほとんどが「律法契約」という神とイスラエル民族の結んだ契約の履歴について述べられています。

まず簡単に言えば、この「律法契約」はイスラエル民族側が履行を怠ったために、神から破棄されてしまい、「新約聖書」の新約という言葉に表される『新しい契約』に取って代わる必要が生じます。

それでも、この「律法契約」には多くの重要な意義が込められていましたので、「新約聖書」の基礎となるこの部分を抜きにしてキリスト教を語ることはできません。

この古い「律法契約」は、預言者モーセを仲介に、神とイスラエルの仲立ちをして取り結ばれた契約であり、神が与えた『律法』にイスラエルが従うことを条件に、イスラエルは『祭司の王国、聖なる国民』となって、世界の人々を祝福するものとなることができる。という契約でした。

この『律法』は、宗教法だけでなく、行政法、司法、また軍法も含んでいて、イスラエルを国家として成り立たせる各種の法律がコンパクトに六百ほどに収められた国家法でした。これはモーセの仲立ちによって与えられたので「モーセの律法」とも、「教え」を意味する「トーラー」とも呼ばれました。

またこの契約は、神が、この以前にエジプトの奴隷であったイスラエル民族を多くの奇跡によって救い出し、紅海を渡らせて、対岸のシナイ半島でこの『律法』を与えて契約を結んだのでその場所から「シナイ契約」とも呼ばれます。

旧約聖書の大半は、この『律法契約』を巡った神とイスラエルの事柄が記されています。
結論から言えば、イスラエル民族はこの契約を守りませんでした。

彼らはほとんどの世代にわたって、『律法』に示された善政を行わないばかりか、彼らの神「YHWH」*を捨て、周辺諸民族の神々の偶像を拝するまでになります。 *(ユダヤ人によって発音が忘れられたイスラエルの神の名 旧約聖書中に7千回近く存在 新改訳聖書はその固有名の箇所を【主】と表記)

そこで神は、最終的にこの契約の民を新バビロニア帝国に強制移住させます。これは、「バビロン捕囚」と呼ばれます。
その前に、神は預言者を通して、律法契約に代わる『新しい契約』を結ぶことを予告します。

その新しい契約の謎が残る中、イスラエルの有志たちが、『約束の地』であるパレスチナに捕囚を解かれて帰って来て、再び神殿を建て神への崇拝を再興します。ほかの多くのイスラエルは他国に残り居留生活を続け、離散したイスラエル(ディアスポラ)を構成してゆき、ユダヤ人は世界各地に自分たちの社会を設けてゆきます。

「預言者たち」は、将来のいつかに『モーセのような偉大な預言者』が現れることを告げていましたが、未だ現れぬその人物は「メシア」と呼ばれます。

こうしてバビロン捕囚から戻って二世紀を経ると、まったく預言者が現れなくなりました。今日のユダヤ人は「預言者は皆、眠りについてしまっている」と言います。
そして、その後の「沈黙」の四百年間には、聖書に匹敵するほどの価値高く、聖性を持ち革新的な書物は記されませんでした。
神は、前5世紀に旧約聖書を書く筆を置き、旧約聖書は書き終えられたということができます。
ユダヤ人も今日までの2400年間、旧約聖書に付け加えることをしていません。

ユダヤ人の長い歴史のなかでは、今日の旧約聖書に含まれていないたくさんの書物も存在しましたが、旧約聖書に含まれるべき聖典がどれかを決めたのもユダヤ人でありました。

特に最終的なものは、西暦80年以後の一時期にヤブネというエルサレム近郊の町で、ユダヤ教の指導者が集まって聖典の検証を行いましたが、継承してゆくべき聖典を決めるに当たり、それまでの聖典に含まれていて、ヘブライ語もしくはアラム語でも存在しており、古くからの伝承が確かなもの24書を確定し、これを「聖なる書」としました。この24書が、分け方こそ違うものの、現在のキリスト教徒の持っている細かく分けられた旧約聖書の39書に相当しています。

ですが、これらの書が著されたときからずっと同じ文書として存在してきたかどうかは分かりません。旧約聖書中にも幾つかの現存していない書名が登場していますし、特に古い時代の書物、例えればモーセ五書にも後に編纂された形跡が見受けられます。また、創世記は、モーセのときまでに存在していた資料を、モーセが編纂したものと考えるのは妥当なことでしょう。

ユダヤ人は、旧約聖書を「タナハ」または「ミクラ」と呼びます。
「ミクラ」とは「読まれるもの」つまり読まれるべき書物である聖典を指し。他方「タナハ」は、ユダヤ教徒が聖書を三つの部分に分類しているところから来くる名称で、第一は「トーラー」、第二は「ネイヴィーム」第三に「ケトゥヴィーム」があり、それぞれの最初の子音から「タナハ」とされています。(最後の「ハ」は日本語では特に表せない発音なので「カ」や「ク」と表記されることもあります)

第一の部分は「トーラー」であり、最初の創世記からの五つの書を指しています。
ここにすべての律法が収められていますので、「トーラー」はそのまま「律法」を意味するといってよいほどですし、実際には出エジプト記の第20章から有名な「十戒」をもって正式な律法が語られるのですが、「無酵母パンの祭り」や「安息日」を行うことなどの幾つかの掟がそれに先行して述べられていることもあってユダヤ人はこの五冊を『律法』としています。

ですが、創世記は、モーセが現れて預言者に任じられ、イスラエルをエジプトから導き出す以前の民族の歴史について、天地創造の過去から語られていますので、そこに律法は含まれていません。
また、イスラエルの先祖であるアブラハムについて語り始める創世記第12章より前の部分には、「原初史」と呼ばれるユダヤ教にもキリスト教にも重要な土台となる太古の資料が伝えられています。

「トーラー」に続くのが「ネイヴィーム」とユダヤ人が呼ぶ預言書がまとめられた部分です。
この預言書集は、キリスト教徒の読む「旧約聖書」では最後に位置しています。
後代イエス・キリストも『律法と預言者たち』と発言していたことが、新約聖書に記録されていますが、これは「トーラーとネイヴィーム」と言っていたことになります。つまり、イエスもユダヤ教徒のひとりとして、タナハから引用して話していたのです。

『預言者たち』にはイザヤ、エレミヤ、エゼキエルの三大預言書と、その後に12の「小預言書」が続きます。(ユダヤ教徒はダニエル書を預言に含めず「諸書」に分類します)

これらの預言書の数も多いですが、これらを時期別に見ると、幾つかセットになっています。
例えれば、王国時代のイザヤとミカ、捕囚期のエレミヤとエゼキエル、帰還時期のハガイとゼカリヤというように、それぞれの時代で複数の預言が行われて、互いに補い合っています。この時代の観点から「列王記」や「歴代誌」また「ネヘミヤ」や「エズラ」とあわせて預言書を読むなら、様々な預言も語られた事柄の意味が相当に理解し易くなることでしょう。

タナハの最後の部分は「ケトゥヴィーム」と呼ばれます。
それは「諸書」の意味であり、律法でも預言でもない歴史上の逸話や詩篇や格言などがまとめられています。
この「諸書」にはヨブ記という巻も含まれていますが、これはモーセ以前に遡るほど、非常に古い書物です。その主人公ヨブも登場人物もすべてイスラエル人ではありません。ヨブの道徳性はたいへん高いのですが、神の前に道徳性がどれほどの意味を持つのかがそのテーマとなっており、この一書でイスラエルに与えられたトーラーを補完するという特異で奥深い事柄を主題としています。

以上がユダヤ人の聖なる書物「タナハ」の構成ですが、これがキリスト教徒の「旧約聖書」と幾らか順番も冊数も異なったのは、キリスト教徒の側での「旧約聖書」の伝わり方の違いが関係しています。

というのは、キリスト教徒にはユダヤ教徒に優って諸国民に拡大しましたが、当時の地中海の東側では、今日の英語のように古ギリシア語が話されていた関係で、原始キリスト教徒は、ユダヤ人の監修の下でギリシア語に訳されていた旧約聖書を使う伝統がありました。

そのギリシア語訳の旧約聖書は七十二人のユダヤ人翻訳家によって訳されたという伝承から「セプチュアギンタ」(七十人訳)と呼ばれていました。ユダヤ人によってギリシア語に訳された理由のひとつが、ユダヤ人も世界各地に広がり、居留するようになると、ユダヤ人でも二世三世と世代を重ねるうちに、ヘブライ語を話せなくなってしまい、聖書が読めない不便さが生じていました。

そこで、外地のユダヤ人の便宜を図って、ユダヤ人が慎重にヘブライ語からギリシア語に言葉を移し変えて作ったのが、このセプチュアギンタと呼ばれるギリシア語聖書でしたが、このギリシア語聖書の諸書の配列が、今日のキリスト教徒の持つ旧約聖書のものとなっています。

しかし、このギリシア語聖書にはヘブライ語聖書(タナハ)にはない文書も多数付け加えられ、ほとんどギリシア語だけで伝えられている文書もありました。例えれば、日本語では新共同訳聖書に収められている「旧約外典」として収められている部分がそうです。

こうした外典や聖典への追加は多く、ユダヤ人の権威ある教師たちが集まってヤブネで除外した諸書に含まれています。つまり、ヘブライ語やアラム語としては古くから存在していなかったギリシア語だけで伝えられた書物だったからです。
そこで、後代のキリスト教徒*もこれに倣い、現代の私たちの見るほとんどの旧約聖書もタナハの24書に相当する39書となっています。*(プロテスタントがヤブネに従い39書、カトリックはセプチュアギンタにほぼ倣い47書を旧約とします)

あるいは、これら以外に極めて重要な書が除かれてしまったのでは、との心配があるかも知れませんが、外典を見る限り、聖典ほどの重い情報を見出すことは無いので、その心配はなさそうです。

さて、実際に読むにあたっては
まず、読んでおくべき書として創世記は欠かせないものです。
そこでは、原初史という最重要の土台があり、そこからアブラハムに与えられた約束の理由が見えてきます。
つまり、人間は楽園を追われる身の上となりましたが、神はこれを見捨てず、救いの手立てを備えます。

それが深い信仰の人アブラハムの子孫を通して来るという約束を結び、聖書はその子孫イスラエルによって書かれ、その歴史を追って旧約聖書は展開してゆきます。

ですから、失楽園した人類を祝福する器としてのイスラエルという民族の由来と、与えられた律法契約の行方を追うのが、まず旧約聖書の読み方と言えるでしょう。

その点で、キリスト教徒の旧約聖書の並び方は都合の良いものとなっています。
それは、詩篇の前までで、イスラエル民族の歴史を一望できるように配列されています。

歴史を追って読む場合、創世記、出エジプト記、と読むと律法契約までの由来が分かります。
それからレヴィ記、民数記、申命記は、律法の細かい規定が、当時の出来事と織り交ぜて語られます。

これら「モーセ五書」とも呼ばれる「トーラー」ですが、これらと共に古くから在ったとされるのが「ヨブ記」です。
時代はアブラハムの子孫の時代で、モーセが登場する以前のものです。
この「ヨブ記」にはイスラエルに属する登場人物が一人も出て来ません。その中でヨブという人物の正しさが延々と試された後に、重要な後半部分で「人間の正義」と「神の正義」が語られるという非常に深遠な内容の書です。

時代としては、その後にイスラエル民族が奴隷にされていたエジプトを脱出して、彼らのために約束された土地カナンの地(パレスチナ)に向かう様が描かれます。そこでモーセが神から任命され、兄のアロンと共に多くの奇跡を行いながら、最後は紅海の水が分かれて民はエジプト軍から救われ、シナイ山麓に至り、そこで神との「律法契約」を結ぶに至ります。

レヴィとは、イスラエル12氏族のうちのひとつですが、彼らは神に取り分けられ崇拝に関わる事柄が任される特別な部族として選ばれ、彼らに与えられた務めが主に記されています。

民数記は、エジプトを出たイスラエルの荒野で人数を数えたことから名づけられたものですが、その生活が描かれ、彼らが早くも不信仰を表したことも暴露されています。そして律法の記述も続いています。

申命記とは、中国語の書名から来たものですが、「よくよく申し渡す」というような意味があります。
モーセが、その最晩年に至って、神と歩んだ自らの生涯を振り返り、辞世に当たってイスラエルに約束の地に入って後も律法を守ってゆくよう訴えています。このなかには預言も込められており、その中にはキリストの到来を予告するものも含まれています。

ヨシュア記以降は、イスラエルが「約束の地」パレスチナに入ってからの征服の戦いと定住してゆく様子が描かれます。
イスラエルがヨルダン川を渡ってパレスチナに入ると、律法契約は本格的に効力をもち始めます。
しかし、モーセに代わってイスラエルを導いてきたヨシュア自身、この民族が将来必ずや神に対して不善を為すことを最晩年に至って悟っています。

士師記という書名は、申命記のように中国語からきたもので軍人の総帥のような者の歴史というところでしょう。しかし、ヘブライ語では「ショフティーム」、つまり「裁き人たち」の意味で、イスラエルが外部の民族からの圧迫に曝された時代に、諸国を裁き、イスラエルを救うという意味がこめられています。

士師は、民が苦難に遭うときに、支族のうちのいずれからともなく現れて、イスラエルを率いて救う者となったので、世襲の王を持たない時代のイスラエルは、神によって治められていたということができるでしょう。

この律法がイスラエル民族を治めていた時代の人々の間にも、神の計画は進んでゆきます。
この時代、神はやがてイスラエルを治める王となる家系を準備していました。その一旦を荷うのが非イスラエル人の「ルツ」という女性で、若くして寡婦となった異邦人の彼女が、どのようにして律法に守られながらイスラエルの王家の家系にまで連なっていったかが語られます。

その後のサムエル記に入ると、イスラエルは神への熱心さを失い始めます。
イスラエルの民は王と常設軍を望み始めます。神がこれを許して王国となってゆきますが、初代の王サウルは神に対してその心は常に真っ直ぐとは言えず、やがて神の目に適う王ではなくなってしまいます。

またダヴィデという傑出した王が現れ、エルサレムが首都となります。次いで列王記ではダヴィデの治世が終わり、エルサレムに神YHWHの神殿が建立され、ソロモン王の下で、この民族は平和を享受し国力の最盛期を迎えるさまが描かれます。

ダヴィデ王は多くの歌を残しており、それは「詩篇」の中に含まれています。特に詩篇22篇などには、後代のイエス・キリストの上に起こる事柄が幾つも書かれています。

これらは、人間の側からの神への感謝や賛美でありますが、預言も含まれていて、神の秘儀に関する情報も含んでおり、単なる人間の作った歌というだけのものに留まりません。これらの歌は神殿祭祀にも使用され、特に「ハレル(賛美)詩篇」と呼ばれる数編は管弦楽の伴奏を伴った見事な大合唱に組織されていた様が描かれています。ですから、詩篇の詠み人には、レヴィ族の歌い手であったアサフや、レヴィの中でもコラ支族によるものも含まれていますし、古くはモーセによる味わい深いものも残っています。

一方で、ソロモン王はその優れた知恵による格言集、「箴言」と「伝道の書」(または「コヘレトの言葉」)で旧約聖書に色取りをそえています。これらは短い句や文を集めたものですが、その中には人間の有り様を露わにし、神の観点からでないと書けないような魂や霊の認識を教えるものとなっています。
また、女性を主人公にした、「ルツ記」と「エステル記」、それにソロモンの「雅歌」もこの諸書に含まれ、神の弱者への暖かい眼差し、また神は意志を成し遂げるために女性も用いること、忠節な男女愛への称賛などを聖書全巻に亘る神の経綸に沿って著されています。

しかし、ソロモン時代に受けたイスラエルの栄華は続かず、国はふたつに分裂し、エルサレムを中心とする南のユダ王国と、サマリアを中心とするようになる北のイスラエル王国に分かれてしまう歴史を列王記は追いますが、強力な奇跡を行う預言者エリヤやエリシャが起こされた時代でもあります。イスラエルは南のユダ王国よりも早く西暦前7世紀に、北の強国アッシリアに攻め滅ぼされてしまいます。当時までにアブラハム以来の神YHWHへの崇拝心は衰退の一途を辿っているばかりでした。

ユダ王国でも多くの愚昧な王たちが民に誤導を重ねて預言者らを迫害し、幾らかの善王が現れても、全体の改善には至らず、遂に神は律法契約の破棄と新しい契約の到来を決意し、ユダもイスラエルと同じく滅ぼされ、新バビロニア帝国によって散らされてしまいます。列王記の記録が捕囚に至るまでの南北を含めた諸王のエレミヤによる記録であり、捕囚後のエズラの記した歴代誌の方は、それを創世記の記録から振り返り、特に南のユダヤ王家の人物像を味わい深い筆致で描いています。

この、王たちの時代の後期に預言書(ネイヴィーム)が書かれはじめています。それらは以前のエリヤやエリシャのような奇跡を専らに行い、書物を残さなかった預言者とは異なり、神から与えられた言葉をそれぞれ書物に残して、それがイザヤを始めとして旧約聖書に収められています。
おおよその旧約聖書ではイザヤ書からはじまる17の書がこれに相当します。(タナハでは列王記と歴代誌も預言書に含まれます)

この時期になると、律法契約を捨てたイスラエル民族を神は流刑を定めた事を繰り返し警告し、またそこからの帰還がある事も知らせるようになります。預言者イザヤは古くからその事を警告し、預言者エレミヤの時代はまさにその災難が臨んでゆく過程を、預言者エゼキエルは一足先にバビロンに囚われた身として預言しています。

それらの警告は現実となり、西暦前586年に新バビロニア帝国によって最終的にエルサレムに在った神殿を破壊され、民も流刑となったことが歴史にも記されています。

しかし、預言書は、同時に律法契約に代わる『新しい契約』を予告し、何代も後の世代に回復があることを告げ、それらが「預言者たち」の重要なテーマとなってゆきます。

それから、ユダは捕囚を解かれる機会を得て、帰還した民はユダヤ人と呼ばれるようになります。
その帰還を導いたのが、新バビロニア帝国を降した新興ペルシア帝国の王キュロスⅡ世で、彼は神の意志を行う「メシア」(任命された者)とイザヤは二世紀前に予告していました。

そこで幾らかの人々がパレスチナに戻り、神YHWHの神殿を再建して崇拝を復興し、やがてエルサレムの城壁も元通りにされます。この捕囚以後の帰還時代をネヘミヤ記とエズラ記のふたつの歴史書が記しています。以後、イスラエル民族が「ユダヤ人」と呼ばれるようになったのは、パレスチナへの帰還がユダ王国の人々を中心に行われたことによります。

しかし、預言者マラキの後の歴史については、聖書そのものには語られていません。
僅かに、最後の預言書マラキが、『契約の使者』と呼ばれる何者かの到来と、それに先立って来る預言者エリヤのような者の存在を告げて、旧約聖書は沈黙に入っています。


ここまでが旧約聖書に含まれる事柄です。
それは恰も、書きかけの本を読むようで、次に現れる「メシア」という何者かに注意を向けさせるかのような内容の中断といえましょう。その「任命された者」とは誰なのでしょうか?その謎を抱きつつユダヤ人は歴史を重ねてゆきます。


さて、一般の歴史にマラキの後を見ると
神からの啓示が途絶えている間に、パレスチナを治める宗主国はペルシアからギリシア、そしてローマへと代わってゆきます。
その間に、ユダヤ人は捕囚に至った自分たちの歩みを反省し律法を犯さないことへを決意を深めます。その中から、律法を守るために更に厳格な法を守ろうとする動きも現れてくるのですが、その一派が律法学者(タナイーム)であり、そこにパリサイ派(ファシリーム)も加わり、ユダヤ全体の宗教を仕切る立場に就き始めます。

その後にもユダヤ人の間では多くの書が書かれましたが、預言者のように権威あるものは現れず、幾らかのその後の西暦前4世紀あたりからのユダヤの様子、特にダヴィデの王統ではないものの、一度イスラエルの支配権を再確立できたハスモン家の歴史を外典のマカバイ書などが伝えていますが、ユダヤ人自身の手によって、これらは聖典から除外されています。(マカベア書などの幾らかの外典は新共同訳聖書に含まれています)

これらの除外された書と残った書とでは、文章の価値が異なり、古いヘブライ語などの書物が持つ荘重さや革新性、また意義の重さに欠けています。これは、聖書に読み慣れてくると分かるので、おそらくはいずれ同意していただけるものと思います。

ですから、旧約聖書も人間によって編纂されたものではありますが、ユダヤ=イスラエルの非常に長い歴史の中で扱われてきた人々の感覚と原典性に照らして取捨選択されたのであり、誰かの教理を推し進めようとして意図的に集められ、また捨てられたということではありません。

むしろ、不思議なことに、時代の異なる人々が書き継いでいった書の集まりであるにも関わらず、これらの書はひとりの主要な著者の存在を指し示しています。
殊に、預言されていた事柄が成就し、それも更なる別の成就を指し示しているようなところは、もはや人間の能力を超えています。
例えれば、神は律法に従わないときにイスラエルは「約束の地から吐き出される」ことを律法で警告していましたが、預言者はそれがバビロン捕囚となって成就することを予め知らせ、同時に、再び「約束の地に帰ってくる」ことも知らせています。そして新たな契約についても予告されていますが、モーセから千年近い時の流れを経た後にこれらのことが起こっています。

これらのことを俯瞰すると、旧約聖書とは、イスラエル民族を通して神が行ったこと、また書き記させたことが、なお途中経過であり、旧約聖書で完結されることなく、更なる展開を遂げるものであることが見えてきます。

つまり、神は旧約で聖書を著す筆を休めはしたものの、その続編は明らかに予告されているのです。その最終目的は人類の救いであり、それは「アブラハムの子孫」とされる民を通してなされます。

加えて、メシアとされる人物について旧約聖書は何度も知らせています。
ベツレヘムから現れること、自ら打たれて人々の罪を負うこと、新しい墓に葬られることなど、この特定の人物に関して予告されたことを挙げると三百近くなるとも言われています。

ですが、これほどに予告されたメシア(任命された人)が誰であり、それがいつ成就したのかについて知るには、どうしても新約聖書を必要としますが、ユダヤ教徒はイエスをメシアとしないので、新約聖書も認めていません。

まさしく、新約聖書は、預言者たちが沈黙した四百年の空白を破って、聖書の主要な著者である神が、再び語り始めたことを示します。
旧約聖書に記されたメシア預言の数々が、一人の人物の上に成就したことを知らせているからです。






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原始キリスト教とキリスト教との違い

2014.12.23 (Tue)
「原始キリスト教」とは、キリストの使徒たちの時代の教えを指すもので、それから「教父たち」つまり、使徒の後を継いだユダヤ人ではない指導者たちの時代が「使徒後教父」の時期が続き、その間に原初の教えは徐々にヘレニズム文化の影響に曝されてゆきました。

その後、第四世紀に入るとローマ皇帝コンスタンティヌスが太陽神崇拝者でありながらキリスト教徒を自認するところから、キリスト教界に介入を始め、それでなくても原初の教えを離れ始めていたキリスト教は決定的な変化を余儀なくされました。
殊に、ミラノ司教アンブロジウスがふたりの皇帝を三位一体派に取り込んで後、「正しいキリスト教」を法によって規定し、その後ローマ国教化が完成を見ています。

カトリック最大の教父とされる「聖アウグスティヌス」も、その後に現れた指導者であり、以後の欧州的キリスト教の土台を据え、今日の大半の「教会のキリスト教」はその教えの上に成り立つものです。

今日「キリスト教」と聞けば、西洋文化のものと感じられますが、原始キリスト教はユダヤ=ヘブライ文化に由来し、東洋を土台としていたものでありました。

原始キリスト教は、今日の大半の教会で教えられる「キリスト教」とはまるで別の宗教であるかのように異なっています。

本来、「教会のキリスト教」というものは、ヨーロッパの歴史と文明の中で相互に作用しながら培われたものではあっても、中近東の原型からは大きく外れた別物です。今日でこそ信徒数と欧州の歴史と文化の厚みを頼んで「正統派」を自認していますが、ローマ国教化された前と後とでは「キリスト教」が大きく違うことはまるで意識されません。

日本の一般的キリスト教会も欧米由来のものがすべてと言ってよいほどですが、これらはヨーロッパで醸成されたキリスト教であり、イエス・キリストもその直弟子たちもユダヤ人、つまりは黒髪の東洋人であったことさえ忘れさせるほどに西洋化されたものです。


今日の一般的な「西洋キリスト教」の由来は、ローマ帝国がキリスト教を国教化し法制度化させたことから始まるもので、西暦第四世紀より前までに遡るものではありません。それが「教会のキリスト教」の正統性の限界となっています。
実際に、キリストやその使徒や直弟子たちが活動したのが第一世紀から第二世紀のはじめにかけての間であり、第二世紀にユダヤ教からの脱皮を遂げて新約聖書と共に新たな教えに結実したのが原始キリスト教です。
その後、更に二世紀が経過して、コンスタンティヌス大帝によるキリスト教への介入が起こって以降のキリスト教には大きな違いが生じてしまうだけの時間の流れが存在しましたし、その後も今日の欧州的キリスト教が趨勢となるまでには、なお百年以上を要しています。

その間に、キリストの教えた牧歌的で廉潔な教理は、周囲の無理解と迫害の中でひっそりとした集まりで教えられていましたが、ローマ皇帝の宗教となってからは、国家の宗教へと変貌し、大きく豪奢な建物の中で行われる礼拝の宗教へと変質しています。その崇拝の姿は、かつて動物の犠牲による神殿儀式の繰り返されていたユダヤ教に似たものとなりました。同じく国家の宗教となった結果というべきでしょう。

また、ローマ国教化を境にキリスト教らしい個人として自由に抱くべき信仰は、国民皆信徒制に移行してゆくに従い、生まれながらのキリスト教徒を作るという矛盾も孕んでゆきました。ユダヤ教が嬰児に割礼を施して生まれながらのユダヤ教徒を作るように、個人的信仰からコミュニティの宗教へと変質してしまった「キリスト教」は幼児洗礼を取り入れて同じ性質の習慣を持ち始めます。

これらの「儀式の宗教」、また「国民皆信徒制」は、本来はキリスト教のものではなく、それ以前のユダヤ教の特徴でありましたから、ローマ国教化を境に、キリスト教は本質的にユダヤ教に戻っていってしまったことになります。ならば、ユダヤ教に大革新をもたらしたキリスト・イエスの現れの意義はどうなってしまったのでしょうか。

しかも、「キリスト教」では死刑のための刑具である十字架を自分たちの表象としたうえ、それに向かって祈りをさえ捧げるという異様な変化までが起こっているのですが、以後、今日まで「クリスチャン」と呼ばれる大半の人々には、それに違和感なく、処刑の道具も却ってキリストに近づくありがたい媒介物のようにされているのです。

この十字の表象は国教化なくして有り得ないものです。なぜなら、皇帝がキリスト教徒を名乗るようになって迫害を止め、帝国内から十字架刑を廃止した後でなければ、とても首から下げられたものではなく、それが迫害下であれば「逮捕の標的にして下さい」と信徒自ら言うようなものだからです。十字架は国家と妥協した産物として登場したものであり、原始キリスト教時代には、一筆で書け、直ぐに消せるような「魚」を仲間である暗号としていたほどに緊迫した状況にあったのです。

そして将来、聖書が随所で明らかにしているように、キリストが栄光に輝く王として「終末」と呼ばれる世の終りに再臨されるのなら、十字架に掛けられ、うなだれる姿を見て感傷に浸っているとすれば、悪魔さえ無に帰せしめてしまうほどに畏怖すべき御厳の大王キリストの到来の栄えある姿を讃えず、却ってサタンの手に掛かった姿のキリストを、自分のご利益を願って眺めていることになり、それを喜ぶのはけっして神ではないでしょう。(創世記3:15)

そればかりか、国の定めた宗教になった以上は、戦争が起こった場合に、キリストの教えのゆえに戦闘に参加することを断る者は、却って「キリスト教信仰」を否認されるようにもなってしまいました。
つまり、キリスト教徒であった四世紀の聖人マルティヌスのように、『剣を執る者は剣によって滅びる』と諭された兵士らが、キリストの教えにそのまま従い、帝国の兵士として戦闘を拒むなら、国教化以後には背教者とされてしまったのです。以来、キリスト教は国家と共に戦う宗教となって今日に及んでいます。⇒ トゥールのマルタン

こうしてキリストの教えの無効化が始まると、内容においてそのキリスト教らしさを相次いで失い、本質的にはユダヤ教に近付いていったのですが、実際にはローマ帝国時代のキリスト教徒はユダヤ教徒を特に嫌っていました。今日、欧米を中心に日曜日を休日にする習慣は、土曜日を安息日とするユダヤ教徒に対抗して始まったもので、やがてキリスト教に帰依したローマ皇帝によって法に定められ、欧州に広まり、やがて世界へと広まったものです。

こうしたユダヤ教嫌いは、キリスト教勢力が未だ弱体であった第四世紀より前の時代に、ユダヤ教徒たちが自分たちから現れたキリスト教を無くしてしまおうとすることにたいへん熱心で、キリスト教徒の迫害には大いに協力し、執拗に密告や通報を行い続け、拷問ばかりか火刑や獣刑などの残酷な処刑の手伝いまで進んで行っていたところに原因があります。

今日のユダヤ教徒は、歴史上で常にキリスト教徒からの迫害の被害者であったと主張しがちですが、キリストを処刑に追いやり、その直弟子らに苛烈な迫害を自ら行ったこと、またローマ帝国がキリスト教迫害に乗り出したときに、弱体であった彼らを殲滅させるべく率先して加担したことは都合よく忘れているようです。

しかし、やがて第四世紀以降、迫害していた皇帝がキリスト教徒を名乗るようになり、ローマ帝国がキリスト教を国教としてゆく過程で、ユダヤ教は次第に片隅に追いやられ、迫害する宗教から迫害される宗教へと転落してゆきます。その一方で、キリスト教は入れ替わるように、帝国の権力を背景に遂に迫害する側に立ちました。

この時代には皇帝までもが、ユダヤ人を「主殺しの民族」と呼ぶほどになり、キリスト教がユダヤ教を嫌うあまりに、イエスはユダヤ人でさえなかったかのように教えられてゆき、キリスト教の基本であるはずのユダヤ教の重要な事柄も忌み嫌って、別の極端に傾きはじめます。

その中でも決定的な逸脱の極みが、神の変更となってゆくのでした。
つまり、イエス自身もユダヤの神殿で崇拝される神を『父』と呼び、ユダヤ教徒としての崇拝の務めを生涯果たしていたので、その時点では未だキリスト教も分化していませんでしたが、やがてイエスの弟子たちが「クリスティアノイ」と周囲から呼ばれるようになり、両者がはっきりと袂を分かつと、その後キリスト教徒らはユダヤ人と神を同じくすることさえ忌み嫌うようになってキリストの立場の強化を図ります。
しかも都合の良いことに、ユダヤのエルサレム神殿はキリストを葬った世代の生きている内に、ローマ軍によって完膚なきまでの破壊をされており、それ以降、神の固有名が何と発音されるのかも忘れるに至ったのです。ユダヤ教徒が勝手にその発音をエルサレム神殿聖域だけに限っていたからです。
ですから、ユダヤ人によって神は固有名でなく、ただ「主」と呼ばれており、キリスト教徒によってやはりイエスは「主」と呼ばれていたのです。ですが、双方の「主」が同じ対象を表すわけもありません。(詩篇110:1)

このようにユダヤ教徒とキリスト教徒の不仲は、双方共に多くの連続した教えを失なわせるものとなりました。
キリスト教徒は、イエスが崇拝したユダヤの神である「主」を無視して、「主」イエス自身を神の座に祭り上げることに躊躇しなくなってゆきます。
しかし、「キリスト」とは神から任命された人を表す言葉でありますから、そこで矛盾は避けられません。
キリストが神への『従順を学んだ』という新約聖書の言葉などを自ら理解できないものとしてしまいます。(ヘブル5:8)

その後はますますキリストの教えから離れてゆき、信者が増えるに従い、他の宗教からの教理や崇拝方式が混じり始めます。
そこに現れて来た極端な教えが「三位一体説」であり、元々のユダヤ教の唯一神と、その任命を受けたキリストという構図を変えて、キリストも神とするだけでなく、当時に流行したギリシア(ヘレニズム)神秘文化の「三神一柱」の影響を受け、聖霊も加えて、この三者の皆が同等で神を構成しているという教えがエジプトのキリスト教の中から姿を現します。⇒ Triple deity
その目的は『神の初子』であるキリストを、創造の神と同等に引き上げ、ユダヤの神と同一の存在にするところにあり、そうしてユダヤ教に対するキリスト教の優位を謀ります。(コロサイ1:15) 

確かに、キリスト教はイエスをキリストとして受け入れ信じるものではありますが、そのキリストを遣わしたのは神であり、ユダヤ教徒が崇拝を捧げてきた神に他なりません。なぜなら、イエス自身も生涯ユダヤ教徒であり、その神に祈りを捧げ、神殿での祭りにも参加する務めを果たしていたのであり、死に至るまでの忠節を示し、ただ一人「律法」を全うし、血の犠牲を捧げたのはその神に対してであったのです。(申命記18:18-19/ガラテア4:4)
ですから、三位一体説は神とキリストという重要な関係を打壊す古代異教の蒙昧でしかありません。

そのうえヘレニズムの三神組という当時の流行に取り込まれ、神とキリストと共に信仰を抱く上で重要な、奇跡の働きを行うことになる『聖霊』までも「三位一体」に含めて理解を妨げることは、その後のキリスト教信仰に大きな誤解の種を撒くことになります。

なぜなら、人は『聖霊』の働くときに見える奇跡を通して、信仰をはっきりと表明する機会を得ることにも、それを否認して裁きに至ることにもなるからです。ですから、『人はあらゆる罪を許されるが、聖霊への冒涜だけは、けっして許されない』ほど重い罪となることがキリストによって警告されていたのです。(マタイ12:31)

これをキリスト教徒は、自分の中にキリストが「聖霊」によって内住し、成功への導きを与えてくれると思い込み、信者個人のためのご利益信仰としてしまいました。こうしてキリスト教は信者の幸福を図る「内向きな」宗教に変質し、人類を虚無の『この世』から救うという壮大な神の目的は無視され、その利他的本質を失っています。水のバプテスマを受ければ「救われました」というのは茶番でしかなく、そこには単なる心理効果以上のものを見ることはありません。

まず『救い』とは、信者に独占されるものでは決してありません。むしろ弟子たちを通して世界に向けて広げられるべきものであり、現状では不可能であっても、宗教も思想も様々な違いさえ乗り越えて、信仰を惹き起こす神の力が聖霊によって世界に示される時が到来します。それが『聖霊』の活躍する「終末」であるのです。(マタイ10:18・ハガイ2:6)

ですが、奇跡を行なうばかりでなく、真理を教えるのが『聖霊』であって、その教えはどんな人間にも由来せず、使徒たちの時代にそうであったように、教えは『聖霊』を通して知らされるのであり、『聖霊』が天からの伝達経路であった使徒時代に三位一体説はいまだ存在しなかったのですから、『聖霊』はけっして神ではなく、新約聖書にすら「三位一体」という言葉も考えも存在してはいない以上、そのようには聖霊自身も教えるわけもないのです。

しかも、その聖霊は「終末」のキリストのこの世への不可視の「臨御」を待って、再び注ぎ出され、それを受ける弟子たちは『聖霊によって語る』とキリスト自身が予告されました。
その聖霊の発言は、終末に在って論駁不能の驚異的なものとなり、世界中が傾聴し、震撼すると聖書は繰り返し述べています。
(マタイ10:18/マルコ13:9-11/ルカ21:15/ヨハネ16:8/イザヤ52:15/ヨエル2:28-32/ハガイ2:21-22)

古代にも、イエスの去った後、地上に残された使徒や直弟子たちに教えを授け、キリスト教の完成に携わったのが『聖霊』であって、使徒言行録の全般に見られるように、教祖が四年に満たない宣教期間で刑死を遂げた宗教が、世界にあまねく広がり、新約聖書に開花した理由も、超自然の『聖霊』の活躍無くして考えられないことです。(ヨハネ14:26)

三位一体は、この神と子と聖霊に関する根本的な関係の理解を阻むものであり、神が誰であるかという基礎中の基礎の教えさえ覆い隠すものです。しかし、ヘレニズム時代でもない現代に「三位一体」で何の益があるのでしょうか。そこで教会の教師が「三位一体」を説明するのに、神の事柄は人間には分かり得ないもので、むしろ理解する必要もないとしばしば教えるのも、それが理性的思考には堪え難い古代の迷信的な教えであることを自ずと表しているのです。(ルカ10:21/コリント第一1:19)

ですが、神を理解することがこのように難解なことであるとすれば、信仰も難解で不明瞭なものと成らざるを得ません。
神は三位一体であると言うと同時に、その信仰は理解し難いものとされますので、神に任命されたキリストの働きの意義も目的も充分に理解することは諦めねばなりません。(ヨハネ第一5:20)
しかも、『わたし以外の何者も神としてはならない』と十戒に命じられているのであれば、三位一体説を唱えることは神の前に余りにも大胆であり、怖れを知らぬ所業ではないのでしょうか。加えて『父はわたしより偉大』とも、『わたしは父を尊んでいる』と言われるキリストをも却って蔑ろにしてはいないでしょうか。

三位一体が教えられるところでは、信じる者はキリスト教が本来持つ優れた意義を教えられず、信徒が難解さにたじろぐ隙を突いて、天国や地獄などの俗受けする単純な教理が混入する機会を与えてしまい、却って、キリスト教がどこにでもあるような凡庸で幼稚な教理の宗教に格下げされているのです。
ローマ帝国の国教となり信者の拡大を得るに際して、本来のキリスト教が失ったものはこれほど大きなものでありました。

三位一体派がキリスト教の主流を成すようになったのは第四世紀末以降のことで、それまではユダヤ教以来の純然たる一神教がキリスト教の姿であり、こちらが普遍的(カトリック)であったのですが、第四世紀の後半、皇帝が遂に三位一体派となるに及んで「普遍的キリスト教」の名義を権力によって原始キリスト教から奪います。こうして今日見るように、キリスト教を名乗る教会の大半が三位一体を教えるものになってしまいました。 ⇒ 「アンブロジウス 俗世との岐路に立った男

しかし、原始キリスト教と今日の「キリスト教」を比較すると、変化したことはこればかりではありません。
キリスト教の教理は、三位一体を取り入れて神を分かり難くする一方で、国教化に伴い諸国の異教の風習を取り入れ、ローマの帝国民や大衆に受け入れやすくされました。その結果、膨大な信者数の増加を得ながら、一方では内容に大きな劣化が生じたのです。

古代のヘレニズム世界に広く見られた、死後にゆく天界の至福や責苦の地獄、地母神や母子崇拝、冬至の三日後に誕生する太陽神の祝いなど、かつてのローマ帝国の諸宗教は、今日のキリスト教界の中に形を変えて脈々と生き続けています。

キリスト教のものとして知られるクリスマスやイースターはローマ国教化の結果として異教の習慣が混じったものであり、ほかにメイポールやハロウィンまでも本来のキリスト教に関わりのないヨーロッパの異教の風習なうえ、カーニバル(謝肉祭)もそうですから、今日の主流を占める「キリスト教」の文化は、ほとんど他の宗教を集めたパッチワークで出来上がっていると言わねばなりません。

これについてイエスは、「からしのたとえ話」と「パン種のたとえ話」で預言して語っていました。
つまり、非常に小さかったキリスト教が巨大に膨らみ、世界最大の宗教となってゆくのですが、きっかけはわずかな異物が混入であることを、イエスもパウロも『パン酵母』を例に予告していたのです。(マタイ16:11-12/コリント第一5:6-7)
古代の諸国の人々がそれまで崇拝していた異教というパン酵母をキリスト教に取入れることによって、大量の信者を獲得して来たことは歴然たる史実で、否定のしようもありません。

また、キリスト教を生業とする聖職者の集団という鳥たちがその大樹に「住まう」ことになったのを確かに見ていますし、ヘレニズム以来、哲学者らの思索の場ともなってきました。ソクラテスやプラトンにも神が啓示を与えていたなどと、どうして言えるでしょうか。⇒アポカタスタシス
これは奇跡の『聖霊』も、旧約聖書で力強く神を証しする預言書ら(ネイヴィーム)の不動の言葉も、どれほど畏敬すべき内容がそこに込められているかを知らないからこそ言えた妄言に過ぎません。さらにキリストの例え話には、それらにも勝る秘儀が込められているのです。(マタイ13:31-33

まさしくヨーロッパの受け継いだキリスト教はローマ帝国の国教として妥協したキリスト教であり、そこでは教理の模様替えのようなものに留まらず、基礎であるべきユダヤ伝来の教えもヘレニズム宗教という土台に変えられてしまっていたのです。そこに原始キリスト教の面影さえありません。

イエス・キリストの教えのテーマは「神の王国」でしたが、これは世界に見られる不道徳性による争いと空しい一生を余儀なくされている「この世」の現状から人類全体を救うという、非常に壮大な目的を持つ「神の支配」であったのです。しかしローマ帝国の国教となって以来、キリストの伝えようとした聖なる「神の王国」は、俗世の「ローマ帝国」の存在によって曖昧にされてしまいました。

一般的教会が説く「救い」が信者の個人的な幸運になって俗化していることもそこに原因があります。
遠い昔に神がアブラハムに約束された、彼の子孫、「神の王国」が『地上のすべての国民の祝福となる』という大いなる目的はまるで見失われています。(創世記22:18)

十二使徒の最後に残されたヨハネは、小アジアの弟子たちの間に教えを残し、パトモス島に流刑にされていた間に黙示録の霊感を受け、その書は福音書や書簡類と共に保存されましたが、そこには『この世を征服する』という内容が繰り返され、また『神の王国』が千年続く支配と贖罪の期間であることを明かしています。
小アジアの弟子たちは、この理解を保っており、それは同地出身でヨーロッパで活躍した初期教父エイレナイオスの著作にも明らかです。それを否定したのがカトリック最大の教父でルターも敬服したヒッポのアウグスティヌスであり、彼は先達エイレナイオスの「千年王国」の記述部分を写本作成の際に自説擁護のために破棄までしています。

聖書の主題は『神の王国』であり、「天国での至福」でも、個人の「より良い生活」や「成功する人生」でもありません。聖書は道徳の本でもなく、人生の指南書とさえも言えません。今日の人々が「正しい生き方」や「戒律」を守ることを神が喜ぶとも言えません。
品行方正に生きる人を神が是認されるというわけでもありません。もし、そうであったなら、キリスト・イエスはなぜ『罪』のための犠牲となったのでしょうか。『医者を必要とするのは病人』ではありませんか。

その主要な教えは、キリストの犠牲による人類全体の「不道徳性の除去」と「神との和解」が最重要のテーマであって、敬虔で従順な信者だけが救われて恩寵に入ることなどではけっしてないのです。(コリント第一5:18-19)

キリスト教とは信者だけの「内向きな救い」ではなく、この世に難儀したあらゆる人に対してもたらされる「外向きの救い」であるのですが、聖霊によって『神の王国』に召される幾らかの人々(聖徒)について書かれている聖書の記述を、キリスト教の信者の大半は自分について述べられていると思い込んで、キリストの救いを自分たちに限定してしまい、イエスの自己犠牲の精神とは真逆の「自分たちの救い」ばかりを願う結果を招いています。

この点では、「天国と地獄」の教えも異教からのもので、天国に召される善人と地獄行きの悪人という平板な思考の汚染が「キリスト教」を狭く閉鎖的であるばかりか本質的に高慢な宗教にしてしまっています。
他方、聖書はあらゆる人の復活を教えているのであり、「地獄」と訳される『火の燃えるゲヘナ』とはエルサレムの「ゴミ処理場の谷」を表すものであり、復活してすら裁かれて『二度死ぬ』ことを象徴するものです。(ヘブル9:27/ユダ12)

しかし、自分たちは正しいので、神は必ず地獄から救ってくださるという独り善がりで神意を無視したその優越感は、けっしてキリストの教えではなく、キリストに激しく対立したユダヤ教パリサイ派の精神に他なりません。歴史上、キリスト教同士でさえも長く争い、許多の流血を見て来たことには理由がないわけではないのです。(ヤコブ1:18)

これは「宗教改革」を経てもその土台を回復するまでには至りませんでした。16世紀当時、キリスト教史を原初の時期にまで充分に遡ることができなかったことが一因しているのでしょうし、また急激な変化を大衆信者が望まなかったとも言えます。宗教改革期には、三位一体の否定など斬新な改革案も提出されたのですが、カトリックが幾らか改善されることを望むほどであった大衆信徒に動揺を与えないことを目的に、その「改革」も穏便な程度に収められていたのです。⇒ ミゲル・セルヴェトの死

たびたび現れる一神論者たちはカトリックからもプロテスタントからも排撃され、教師ばかりでなく一般信徒からオランダでは印刷業者までもが背教の汚名を着せられ、火刑の炎の中で息絶えてきたのです。この残虐非道を行わせたのはキリストの教えではけっしてなく、人間共通の「自分は正しい」という傲慢さ以外のなにものでもありません。

それはまさにキリストを刑死に追い込んだ精紳に他ならず、そこで神の義やその意志は無視されます。
神の許にこそ義があるとは考えず、自分たちは正しいのであるから神の是認が有って当然と考えるからです。(ローマ3:4/マタイ6:33/ヨブ35:6-8)

その動機として考えられるのは強欲であり、宗教家は神意を探ることよりも、ひとりでも多くの人を自分の下に集めておくことに権威の利得が有り、大衆信者は救いやご利益の確定を願います。こうして人間の都合による「人の義」で出来上がった「正しいキリスト教」が存在して来ましたし、このキリスト教の「教理」そのものは終末の裁きの日まで今後も存続してゆくことでしょう。

自分は「救われるクリスチャンである」というステータスは、個人を飾るアクセサリーのようなものにされ勝ちであり、キリストの強烈な反対者であったところの、清さを誇るパリサイ派の服装や態度に共通するところが濃厚に感じられるとしても仕方のないことでしょう。隣人を対等に扱う愛よりは自分を高める利己心という同様の精紳態度を持つからです。

これらは「自分は正しい」とするときに避けられない闘争性と傲慢さの発露と言うべきでしょう。「パリサイ」には「取分けられた」という意味があり、自分たちこそが神の是認を受けていると信じ込み、行いの清さを誇りつつ、周囲への蔑視を特徴としていましたので、下層民に寄り添うキリストとの衝突が避けられなかったのは理の当然と言えましょう。

新約聖書にある『罪を赦された人々』というのは、本当に聖霊を注がれた『聖徒』と呼ばれる初期のキリスト教徒にだけ当てはまるものであり、新約聖書の当時は信者のほとんどが『聖徒』であったので、聖書で『あなたがた』と書かれているところを、現代の自分に向けてすべてが語られていると思い込むのは大いなる誤解です。これは聖書を幾らか読み込むだけで分かるものですが、そこまでの関心もないのでしょうか。(ローマ8:1)

しかも、聖霊を介して『新しい契約』に入った『聖徒ら』は、聖霊によって奇跡を行う人々であり、主に続いて怖ろしい殉教をものともしない勇気の持ち主でもあったのです。この人々は自分の人生の成功を求めるようなご利益崇拝者などとは無縁でありました。(ペテロ第一3:6/コリント第二5:15)
この『聖なる者』たちの存在した痕跡は、カトリックの聖人伝に、奇跡を行い殉教に散った人々として残っていますし、「教会史」をはじめ多くの初期の資料も伝える通りです。

キリスト教は、誰かが幸福であっても、誰かが幸福でないことを望まない利他的な愛と、『世の救い』とがキリストの犠牲の精神であり、ただ自分の幸運を願う宗教とは根本的に異なっています。
また、人の思惑ではなく、神の真理と義を求めて『求め続け、敲き続ける』ものであり、そうしているところに聖霊が与えられるとキリストは言われます。つまり、今すでに聖霊を受けていると満足しているなら、どうして真実に聖霊を求め続け、また遂に受けることがあるものでしょうか。(ルカ11:9-13)

しかし、人間自身には真理も正義もありません。それは聖霊によって神から伝えられるものだからです。
真正なキリスト教の回復などは人間の努力を超えたものであり、聖霊の再降下なくして何人もできるところではありません。
また、自分は「クリスチャン」だから神の是認や恩寵の下にあると思うなら、それは不遜というべきでしょう。
なぜなら、あらゆる人が神の前に倫理的欠陥を負った「罪人」であり、それはこの世の有様を幾らか見るだけでまったく明らかなことであって、そのゆえにもすべての人がキリストの犠牲を要したのではありませんか。(ローマ3:23)

ですから今日、原始キリスト教の姿を知ることは、そこにキリスト教本来の深い意義や独自性を見出して、まったく新鮮な印象を受けることになるでしょう。それは旧来の「キリスト教」とは、懐くべき根本の精神が逆であるからです。

原始キリスト教によれば、人がどんな行いをしてきたか、また、どのような思想信条を持っているかにも、またその人の社会の評価や立場にも関わり無く、善人であろうと悪人であろうとすべての人に救いの差し伸べられる時が到来するのであり、キリストは『人はあらゆる罪や冒涜を許される』と明言しているのです。(マタイ12:31-32)
そのときに信仰を懐くか否かの選別を成し遂げるのが、神の威力である『聖霊』の奇跡と言葉であることをキリストは度々に予告しています。

世の終末のときに至れば、神は聖霊で語る弟子らを再びもたらし、彼らは為政者らに神からの言葉を告げることを福音書は揃ってはっきりと記しています。その言葉は誰もが論駁できないほどの内容となることもキリストは予告されました。それは四つの福音書が何度も語るように、それこそが神によるこの世への世界宣教となるでしょう。信仰が問われるのは聖霊によるその裁きの時であって、けっして今その人が「クリスチャン」かどうかではないのです。(マタイ10:18/マルコ13:10/ルカ21:15/ヨハネ16:8)

何を信じるもその人の自由な決定ですが、これら本来のキリスト教を信じるには、「ご利益信仰」ではなく、空しいこの世の有様から人類の全体を救済するという、人類史の初めからアブラハムへの約束を経て、キリストの『新しい契約』へと悠久の時に亘って歩みを進めてこられた偉大なる創造の神と、人類のために命(魂)を差し出した「アガペー」(慈愛)の体現者イエス・キリストに共感するだけの大志や広い愛が求められることでしょう。そこに信者だけの安楽を約束するような、狭い「ご利益信仰」の余地はありません。(創世記22:18/マタイ25:31-33)



⇒ 「キリスト教の救いとは

新十四日派の要諦
------------------------
⇒ 「三位一体の来歴と影響
⇒ 「非三位一体論者の戦い


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⇒「キリストとは何者か
⇒「キリスト教を1ページに要約
⇒ 「キリスト教の「救い」とは
⇒ 「聖霊と火とのバプテスマの異なり
⇒ 「初期キリスト教徒の様子 第二世紀の小アジア
⇒ 「ローマ国教化でキリスト教が失ったもの
⇒ 「アンブロジウス この世との岐路に立った男
⇒ 「聖霊という第三のもの」.
⇒ 「聖徒 聖霊が指し示す者たち

⇒ 「原始キリスト教再興の試み」(新十四日派)

[三位一体とキリストの地上再臨の教えは、終末に於いて恐るべき役割を果たし兼ねません]⇒「不法の人

「終末」に起るとされる事柄



15.政治と宗教という必要悪

2014.12.16 (Tue)
人間社会の避けられない余分なふたつのもの


政治と宗教の無い社会を想像することができるでしょうか?
実に、人間の社会は政治と宗教から逃れることができません。 

結論から言えば、このふたつの分野は、共に同じ一つの事柄に由来しています。 
それは、「倫理上の欠陥」であり、世界から争いが絶えないのも人間が道徳的に不完全であるからです。 政治と宗教に正解は無く、幾らかの正しさを巡って常に争いが避けられません。
つまり、我々人間は「隣人とどう生きてゆくべきか」を本当にはわきまえておらず、また、分かっている部分でさえ、その通りには出来るとは限らないのです。ですから、政治と宗教とは人間にまとわりついて離れることがありません。
そのうえ、その不倫理性のために、聖書によれば人間は創造神との関係も損なってしまっています。人間は正義も真理も持ってはおらず、あらゆる関係で倫理の問題を抱えているということです。

キリスト教は、人間の争いの原因を以下のように端的に指摘しています。 
『 あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。
あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。
求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。』 (ヤコブ4:1-3)

つまり、人々の内に宿る『貪欲』の結果、人間は互いに争うことを止めることができないでいる現実があります。 
そこに「正しさ」が主張されるにしても、程度の差のようなものでしかありません。

聖書は、人間すべてに宿るこの倫理上の欠陥を『罪』と呼んでいます。 (ローマ3:9-10)
つまり、この『罪』というのは、何かの特定の犯罪を指しているのではなく、人間は善を行えるにも関わらず、なお、悪に向かう拭い難い傾向を持っていることを指しているのです。正直に自分や周囲を省みれば、誰もこの『罪』と呼ばれるものから逃れることはできないことが分かるでしょう。 (ローマ7:23-25)

人間全体がこの『罪』を負っていることは、ニュースを眺め、社会を少し観察するだけでも明らかでしょう。
その『罪』の証拠の一つが、警察の必要であり、また、軍隊の存在です。 
この二つを持たないなら、人間社会は怖ろしく危険な無法地帯となってしまいます。いや、これらが有ってさえ、貪欲を抱いた犯罪者や、武装集団や軍隊の餌食となる人々は絶えないのです。 人間の貪欲とは際限が無く、真に恐ろしいものです。

そこで人間は互いの間に「防御の壁」を必要としているのです。どんな壁かと言えば、基本的に「権力」という強い暴力で出来上がった欲望を抑制するための障壁なのです。その「壁」となる「権力」について聖書は、『悪行に対する復讐者であり、いたずらに剣を帯びてはいない』と言います。(ローマ13:3-4) 

実際、悪に報復する権力によって「犯罪」と呼ばれるどれほど多くの欲深い行動が防がれているか知れません。 それでも明らかにならず罰せられる事も無く見過ごされている諸悪はどれほどあることでしょうか。
これは、人間の倫理性が当てにならない事の否定しがたい証拠というほかありません。
どうしても悪に傾く、この変えられない人の性質を聖書は『罪』と呼ぶのですが、それは個々の悪行や犯罪を指すのではありません。 

そこで人間社会は、まず善と悪とを法律に定める必要が生じています。 
しかし、法律を守っているからと言って、その人の倫理性が完全であるわけでもありません。 
聖書は、『自分には罪が無い、と言えば、その人は欺いているのであり、その人に真実は無い』と言っています。 (ヨハネ第一1:8)
それでも善悪を定めて人の行動を規制しなければ、社会の秩序は成り立ちません。

このように、人間の『罪』は貪欲を生み出したので、それぞれの貪欲を規制するために、法律と権力が生まれることになり、それは「政治」と呼ばれる分野を造り出しました。 

政治とは、人それぞれの貪欲の調停を行うもので、権力の上に立って、行き過ぎた貪欲を犯罪として規制し、通貨を発行し流通させ、その価値を保つよう努めつつ、欲望の遂げられる範囲を規制し、人間の持つ貪欲を抑え、世の中に一定の秩序をもたらす役割を負っています。 

しかし、経済が公正であるわけでもありませんが、人々は従わざるを得ません。そうしなければ人々は交換社会によって生活を支えらず、生きることも覚束ないでしょう。
ですが、経済活動とはせめぎ合う貪欲の調停であり、弱者を特に顧みることもなく、強者同士もしのぎを削る戦場のような場を作り、争いが絶えることがありません。それほど人の『罪』とは過酷なものです。

また、この『罪』は、人間と神の関係にも悪影響を及ぼしています。 (イザヤ59:2)
ですが人間を創造した神は、はじめから『罪』あるものとして人間を作ったのではありません。 

最初の人間であったアダムに、神は話しかけ多くの親切を行っていました。神は、アダムがその愛に応えて、神との関係を保ち、生き続けることを望んだに違いありません。そうでなければ、はじめからアダムを創造しなかったでしょう。 

アダムは神のように自分の独立した思考を持ち、自ら愛を抱くことのできる知的存在者という意味で『神の象り』であったと聖書に書かれています。 (創世記1:27)

しかし、アダムはその自由な意志を悪用し、創造者に愛も感謝も示さない生き方を選んでしまいました。
それがエデンの園の中央に置かれた二本の木の選択であり、創造者を退けるなら倫理は根底から覆され、以後、人はすべての他者との関係に問題を抱えます。 (ローマ5:12)

人は、神の創造の意図から離れ、社会は神と関係なく存在し始めます。これは聖書で『この世』と呼ばれます。
その結果、人間と創造者との関係が壊れてしまい、人間は自分勝手な生き方を始め、今ある世の中が出来上がってきましたが、「この世」は神の意図するようなものではありません。 (ヨハネ第一5:19)

「この世」は神を敬わず、何らかの宗教を信じていてさえ、神の意志を探ろうとはしません。利己的に御利益を望んだ崇拝を勝手にしようとするからです。これもまた『罪』の影響であり、人間は宗教に於いてさえ神との間に問題を抱えているのです。 

こうして、神と人間の間には、越え難い溝があり、自由な意思の疎通が妨げられてきました。 
そこで、人間は自分の存在理由を知るために、また、「この世」の空しさの理由を知ることを求め、住み辛さの解消などを願い「上なる存在者」を答えを求めて、「宗教」という分野も登場させることになりす。 
つまり、人間は空しい「この世」に生きるようには造られていないのです。

ですから、「政治」と「宗教」とは、同じく人間の『罪』を根源としているもので、『罪』がなければ必要の無いものなのです。 

人間の『罪』は、「政治」と「宗教」と云う、必要であるのに非常に厄介なものを生み出しました。 

これらには、人間の倫理上の欠陥が関係しており、初めから正しいもの、完全なもの、正解がないので、どうしても適切には働きません。 
政治と宗教とが、人々の争いの原因であるのは当然の事で、このふたつは、共に人間の『罪』に対する「応急処置」としての必要に迫られ、人間が何とか編み出した欠陥だらけの一時的な対症療法に過ぎないからです。 

しかし、神は人間の『罪』への根本治療法を用意されました。 
それが、『神の王国』であり、人間の『罪』を浄めるだけでなく、完全な支配を行い、神への道を拓きます。 (マタイ6:10)
この「王国」が到来するまでは、政治も宗教も人類に十分な益をもたらすものにはなりません。それらは常に神の意志からかけ離れた『この世』の一部でしかなく、『罪』のための「対症療法」に過ぎないからです。

その一方で、『神の王国』が真に人間を益することが出来る理由は、『罪』の無いキリストを王として正義の支配をもたらし、『罪』の無いキリストの犠牲によって、人々の『罪』を相殺するからです。 (ヘブル9:28)

どんなに優れた人間にも、このような事はけっしてできません。 
これまで、人間は甚だ不完全な政治と宗教に翻弄されるばかりでしたし、今後も『この世』の終末まで、この苦しみを忍耐しなければなりません。

しかし、これらの必要悪から解かれ、『罪』の無い栄光ある人間の姿を得ることは、神によって可能であり、創造者はそれを望まれるからこそ、人間の『罪』を除くためにキリストを遣わされたのです。 

その結果として、『罪』から浄められた人間に対して、アダムと会話していたように、神と人は直接に意思の疎通を図るので、宗教という「取り次ぎ」の必要は無くなってしまいます。(イザヤ65:24/黙示録21:3)

『神の王国』は、人間を『罪』から開放することを成し遂げると、『一切の権威や権力を無に帰せしめ』『すべてを神に返し』こうしてその働きを終えることになります。(コリント第一15:24.28)

そのときに人間は神と直接に意思を通わせることができ、政治と宗教はその必要性を失って、神の創造の業は完全な成就を見ることになり、創造界は神の栄光で満ち溢れるところとなるでしょう。もちろん、警察も軍隊も必要がなく、貪欲の調停である政治の必要もなく、常に動揺する市場経済から不公正な貨幣交換制度に至るまでが過去のものとなる以外にありません。

この遠大な神の計画に、今日の人々も協働できる道が一本開かれています。
それが神と人との仲介者であるキリストに希望を託すことであり、これは「信仰」と言います。それこそが本来の「キリスト教信仰」なのです。

もし、『この世』に対する神の意志に信仰と同意を抱けるなら、その人には神の意志が成就する事を世に知らせることが勧められています。(黙示録22:17)



.⇒ 「人は何故傷つきながらも政治と宗教を存続させるか

14.キリスト教の信仰とは

2014.12.06 (Sat)
キリスト教の信仰とは何か

宗教にはそれぞれ信じるべき事がそれぞれに異なっています。
仏教では、この世の無常と輪廻転生が説かれ、神道では多様な神があり、自然や偉人への畏怖と、崇拝による利益があります。

ユダヤ教は、神から預言者モーセを通して授けられた『律法』を守ることで、神の是認を得て『選ばれた民』となり、『諸国民の光』となることを目指します。 彼らが信じるのは旧約聖書であり、それに付け加えられた無数の法体系である「タルムード」を守ることで、『律法』よりも厳格なこの教えを守るなら『モーセの律法』を犯すことを避けられると教えられます。ですからユダヤ教とは律法を守る宗教と言えます。

イスラームでは、人生は試練であり、唯一絶対の神アッラーに平服する生涯を送り、不自由ない生活のできる天国に召されることを目指します。 この宗教で強調されるのは徹底した服従であり、ユダヤ教並みに生活の細々したところにまで規則があり、教えと結びついた独自の行政法を持っているので、政治までも宗教によって規制されなくてはなりません。

では、キリスト教の目指すところは何でしょうか?

キリストとは一言で言うなら「任命された者」を意味します。 人々を『罪』という不倫理性から解放するために任命された方であるキリストの役割を信じること、これがキリスト教の根本です。

キリストの到来は旧約聖書の古代から予告されていましたので、それを「約束のメシア」と呼びます。メシアとはヘブライ語でキリストを意味します。
新約聖書は、そのキリストがイエスと言う人物であることを具体的に知らせ、イエスというキリストが、ユダヤ教徒の間で多くの奇跡を行い、人々の病気を癒しながら『神の王国』と言う、人類を救う国の到来を告げて回った事を知らせています。

このように、イエス・キリストを知らせるのが新約の聖書でありますが、新旧の双方の部分が無くてはキリスト教全体の意味は分かりませんし、キリスト教が成り立つために両方の聖書が必要不可欠です。この点で、新約聖書を認めないユダヤ教には、いまだにメシア=キリストが現れていません。イエスを「約束のメシア」とは認めなかったからです。

二つの聖書には基本的な違いがあります。
特に新約聖書では、ユダヤ人だけでなく、どんな人間も旧約の『律法』を正しく守ることはできないことが知らされます。その理由は、人間には皆、等しく『罪』があり、それは全人類の始祖アダムが罪に堕ちて以来、遺伝しているためなのです。 律法はその『罪』を明らかにするためにイスラエル民族に与えられたものであると新約聖書は説きます。

ですからキリスト教では、どれほど規則を守って善良であろうとしても、神の是認には入れないことを悟り、自分の善良さや義を誇ることから自由にされます。旧約の『律法』は人間の試す試金石であり、キリスト以外の誰にも『罪』があることを証明していたからです。

こうしてキリストの到来によって、『モーセの律法』はその役目を終えることになり、キリスト教によって聖書の教えは新たな段階に入りました。
『罪人の友』とキリストがユダヤの宗教家たちから呼ばれたのも、罪深い者とされて社会から見下された人々をイエスが避けることをしなかったので、律法を守ることを自負していた宗教家になじられた結果でした。

しかし人間の『罪』とは、この世の有様にはっきりと表れています。それは、人間の持つ倫理上の欠陥であり、その端的な姿が「貪欲」となってあらわれます。 この倫理上の欠陥が非常に多くの苦しみを人類にもたらしています。 人々は互いの貪欲に警戒して生きなければならず、警察や軍隊を必要とするのも、金銭に縛られて生きるのも、その根本には人の貪欲が存在するからです。
誰であろうとこの倫理上の欠陥、つまり不道徳性であり聖書が『罪』と呼ぶものから人類はけっして逃れることができません。 また、この『罪』は神と人との間を隔てる障害ともなっています。

しかし、キリストはその人類の『罪』を一身に担い、すべてのとがめを引き受けたので、人々が神の前に無罪とされて、アダムが創造されたときの状態に引き上げられる救いの道を拓いた、というのがキリスト教の基本的な教えです。
そこでイエスが罪人と呼ばれ蔑まれた人々を分け隔てしなかった姿も理解できます。 このキリストの自己犠牲を前にしては、何者も自分の義を誇ることなどできません。キリストはアダムの子孫ではなく生まれたので、どんな罪人をも許すことができるからです。

神の前における人の根本的な『罪』とキリストの『許し』、これがユダヤ教には無かった新しい教えであり、キリスト教の真髄を成しています。
そこで、新約聖書はイエス・キリストを『神と人との仲介者』と呼びます。
つまりイエスは、わたしたちの『罪』を除き、神に導くために特別に任命された『天からの方』なのです。

そこで、人間が神との関係を回復するときには、『罪』は過去のものとなり、倫理上の欠陥が無くなるので、人々は貪欲を去って争うことがなくなり、創造の神との関係に復帰するので、様々な病気はもちろん、老化や死さえも過ぎ去り、すべての悲しみの涙が拭われることを新約聖書は告げます。 端的に一言で人間の苦しみの理由を言えば、それは人間の持つ『罪』であり、それによって創造の神から離れてしまったことにあるのです。

この教えは人間を死後に天国の召すのではなく、人間を創造された姿に回復し、この地上に『神の意志が行われるように』することにほかなりません。

ですからキリスト教とは、単に神の存在を信じるものではなく、神に任命されたキリストがイエスであり、この方を通してのみ、人間が神に立ち返る道が開かれた事を、深い共感の内に信じるものなのです。

しかし、信仰を持ったからといって『罪』から解かれるわけでも、良心の咎めから自由にされるわけでもありません。むしろ、信仰を抱くことにより、自分の『罪』の深さに対するキリストの犠牲に共感するので、『罪』を出来る限り避けようと努めるように促されます。これを『悔い改め』と呼びます。

キリスト教に信仰を持ったからといって、人は自動的に『救い』に入るわけでもなく、終末の『裁き』を前にして、『罪は』相変わらずわたしたちの身心から無くなることもありません。しかし、キリストへの信仰によって、その人が自分の『罪』をどう見なしているのかを神の前に示すことは今からもできるのです。

『罪』があることを望んでいないのであれば、その想いは『悔い』を生じさせ、『罪』を除いてくださる神とキリストの意志のゆえに、また人々への愛のゆえに、貪欲や放縦な行動を避けようという願いが自然と湧いてくることでしょう。これがキリスト教信仰による感化といえます。

この神からの影響が、キリスト教徒に『愛』という印を与えますが、その敬虔さから起こされる自発的行動は、規則によるものであってはなりませんし、誰かと比べるべきものでもありません。こうして『信仰』は、今日でも『愛』を介して『悔い改め』という実を結ぶことになります。

そして、『罪』を除き、神と人との和解を具体的に成し遂げるのが、『神の王国』であり、キリストの伝道の主題とされていたものです。

将来、この神の国が到来するのは、神に無関心な『この世』が裁かれる『終わりの日』または「終末」となります。
今日の貪欲に動かされる世界は、人間の努力で愛によって推進される世界へと代わることは決して無いからです。

そのとき、キリストは再びこの世に臨むと新約聖書に予告されています。 そこで人々に問われるのは「善行」ではなく「信仰」であり、一般的な「善人」ではなく真に「信仰を抱く人」を神は望まれます。

『この世』は創造者である神と和解していませんし、ノアの時代のように「終末」に至って神を知らされても神を信じず認めないと預言されています。

しかし聖書には、イエスは『世』のために遣わされたとも書かれていますので、やはりキリストが「この世」の全体を救うと考えるかもしれませんがそれは誤解です。キリストの救いは、この世の中の信仰を働かせる人々の救いのためであって、神を信じず尊ばない『この世』という体制全体を救うことも存続させることもありません。聖書はキリストが『この世』を裁くことをもはっきりと告げているのです。

ですから、キリスト教徒も『この世』を改善するために専ら活動するのではなく、政治には関わらずに争い事から離れ、キリスト・イエスと『聖なる者たち』を天の支配者とする『神の王国』の到来を待ちます。しかし、けっして自分が救われると利己的に考えるのではなく、利他的に人類への救いの手段であるキリストと神の王国を、『この世』に向けて知らせるのが本来の務めです。

加えて、その人はキリストの治める『神の王国』の到来を待ち、その『福音』を知らせつつ、『終わりの日』に聖霊を介した神からの言葉が世界を揺るがすようにして知らされるときに、自らと人々の多くが、その音信を聴き信仰を抱く者となることを願うことでしょう。そのように信じた人々を、神はキリストの治める王国に導き入れて救います。

以上がキリスト教の基本的な内容であり、まず、このように信じる人をふさわしくキリスト教徒と呼ぶことができます。

そこで信徒の生活においては、キリストのような自己犠牲的な愛を原理とし、この世の貪欲や争いから離れようと努める結果として、キリスト教独特の『聖い』印象や特質が信徒にもたらされることになるでしょう。

本来のキリスト教信仰には、善人を気取るような規則への盲目的服従からの自由があり、他方で、『神の義』を求めて自分の義を立てず誇らず、自発的な愛を行動の指針とし、欲得や俗事から離れた聖らかさが観られることでしょう。




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13.「魂」という死生観

2014.11.03 (Mon)


人は必ず死ぬものです。
病気や事故や災害でいつともなく死ぬ怖れからは誰も逃れることができません。
それでなくても、いつかは老化の波が身体を襲い、次第に衰えてゆくことは残念ながら誰にも避けられない定めです。

そして世界は常に様々な人の死の知らせに満ちています。
人は歳を経れば必ずいつかは誰もが死ななければならないのですが、それにも関わらず、世界の各地では紛争による殺し合いが絶えず、武器は日々進歩を遂げ、頻発するテロでは、自分が死ぬことばかりか、わざわざ他の人々まで巻き添えにすることが目的で、しかもそれが正義にされています。嘆かわしくも、世界の命の見方は実に多様であるとも言えましょう。

そればかりか、様々な苦しみから、自ら命を絶つ人々も少なくありません。
そこで、「自殺は自分を殺すから罪だ」と言うことはいとも簡単なことですが
自死に追いやられた人々の事情に誰かが配慮していれば、命を捨てさせることも無かった事例も多いことでしょう。

さらに加えねばならないのは、家族の絆が弱まっている今日、子供たちが親たちの横暴から物言わぬ犠牲者となって世を去ってゆくケースの少なくもない事は実に痛ましいばかりです。

しかし、親たちも社会で厳しい状況に置かれ兼ねません。
低い賃金で長時間働かされたり、充分な睡眠もとれないほどの残業があったり、職場での軋轢や嫌がらせに遭い、辛い毎日をしのんでいる方々も少なくはないでしょう。
正社員であっても、成果主義が進むと、人間を見る価値観が変化してきます。
役に立つ人を評価し、そうでない人を低めます。非正規労働者の場合は淘汰されるばかりです。

そこでは人間の価値の違いが生じています。社会は、それとなく、あるいは露骨に、人を様々な仕方でランク付けしているのです。この点では、人は人の真価を知ることはできないというべきでしょうし、すべての人を公正に判断しようとする余裕も能力もありません。
そこで社会から有能と評価され、よい待遇を得るために、親たちは子がよい学業成績を得て、安定的な職に就けるようにと心を砕きます。

その一方で、こうしたシステムについてゆけない子供たちや青年の憤懣が、反社会的な様々な行動となって現れることもあります。
ですが、会社の経営者や政治家も、その高い立場のゆえに間断の無い勢力争いとストレスにさらされていて、僅かな油断でもたちまちに築いたものを失い、とてつもない負債を抱える危険もあるのです。

これら世の罠から、うまく逃れたように見える人々は、自分たちの安泰に安住し、同情心や人間らしさを失うかも知れません。つまりは、世の苦しみも他人事になってしまうのです。
そしてどのように生きるとしても、すべての人に最期が訪れることになります。
こうして、この世を見回すと、人間の持つ愛情や叡智も、さほど働いていないかのように見えます。

いったい、誰が望んで社会はこうなったのでしょう。これでは、人間は皆が犠牲者のようではありませんか。
人はこのように「この世」という世界に生まれ、いずれは去って行くにも関わらず、様々に意地の悪い目に遭わされなくてはなりません。

そこでは災害や事故や病気という諸苦があるというのに、人々は競争と差別、虚しい贅沢への貪欲と明日をも知れぬ貧窮、虐待や抗争をわざわざ付け加えているのです。
これでは、人が生まれて来た世界は「修羅場」のようではありませんか。

そこで、人々は「神が居るならなぜ・・」と疑問に思うにしても、この世の有り様の変わることのない非情さから、人が不信仰に向かうとしても、また、自分の幸運を願ってご利益宗教にすがるとしても無理もないことなのでしょう。
あるいは、自分たちだけのささやかな幸福を叶えてくれた何かの崇拝の対象に感謝捧げる人もいるのでしょうけれど、この世のありさまが苛酷でないわけではありません。

ですが、本当にそれで良いのでしょうか?
誰であれ、この世にまったく幸福な人が居るでしょうか。

むしろ、どうにもならない境遇に置かれた人々、取り返しもつかないほどの失敗に陥ってしまった人々
生きるだけで精一杯な人々、価値を低められ、自らを居場所を見いだせないような人々
社会からの配慮も意思の疎通も難しくなっている人々、そして、すべての人々を覆う人生の空虚さ

これらのこの世での人のありさまを、神はどう見ているのでしょう。
何の助けも差し伸べないのでしょうか。
もし、この世がすべてであるとすれば、世界を作った神とは、虐待嗜好のある理不尽な性格の持ち主ということになるでしょう。
そして、本当に世界を創った神というものが存在するなら、その神は、人を一人一人を大切にはしておらず、能力や機会の不公正を与える差別主義者であることになります。


ですが、聖書なかでの「この世」は、けっして創造の神の意図するところでは無いというのです。
天地の創造者である神の霊感によって書かれた聖書によれば、世界のこうした乱れは、神の意図から離れてしまったところに原因があるのです。

創造されたばかりの世界は、神をして「大変良い」と満足させる出来栄えであったと聖書は伝えています。
ですが、そこに問題が起こります。
最初の人間夫婦が、神の創造の意図から離れ、自分たちの作り手に構わず、勝手に生きる道を選んでしまったのです。

今在る「世」、その苦難満ちる有り様への方向付けをしてしまったのが、わたしたちの共通の先祖であって、よくもこれほどまでの多くの苦しみをすべての子々孫々までにもたらしてくれたものです。

しかし、その子孫についてはアダムと同じ罪を犯したわけではありません。
それでも、人間は存在して以来ずっと、この世界の激しい不調和の中に投げ込まれてしまいました。

これまでに数知れない人々がこの世に生を受け、それぞれに儚い生涯をこの世で終えてきましたし、今なお、わたしたちの上には苦しみと死が覆っています。つまり、最初の先祖によって人間はすべて死刑を定められた収容所に押し込められたようになってきました。そのうえ、もし死が永遠の消滅であるにせよ、たとえ天国や地獄に行くにせよ、人はいったい何のために生まれてきたのでしょうか。

では無数の人々は、ただ偶然に生まれ、苦しみを味わうために生かされていたのでしょうか。宗教の中には、人生は試験であるとするものがありますが、聖書が伝えるところでは、そうではありません。


創造の神はこれまで存在したすべての人を、そして今生きている一人一人について知り尽くしているというのです。
神にとっては、『あなたがたの髪の毛までが数えられている』とイエスは言われます。
今も、わたしたち各人がどのような状況に在って、何を必要とし、何を考え、何を行おうとしているのかを神は知っているとイエスは言うのです。
そればかりか、当時にはまだ生まれていなかった、後の時代の人々についてさえ知っていたことを聖書は度々示してきました。

ですから、神が「この世」の苦しみの存続を「終末」と呼ばれる清算の日まで待たれるのは、まだ生まれず、現れていない人々の登場を予見しているとも言える理由があります。

さて、日本語の「魂」の意味とは異なり、ヘブライ語で「魂」(ネフェシュ)は、元々「喉」を表す言葉です。
喉はその人の必要物が通過する場所で、その人の必要や渇望をも暗示します。
主にヘブライ語を用いた旧約聖書では、「魂」はその人そのものを表すかのように用いられてもいます。

ですから助命嘆願するときに『わたしの魂を生かしてください』と書いてあるのは、『魂』が精神的なものだけを指していないことを示しています。(列王第一20:32)
『わたしの魂を剣から、救い出してください』という言葉も、『魂』が肉体の生死と関係していることを教えますし、やはり『魂は死ぬ』ともあります。(詩篇22:20/列王第一19:4/ヨナ4:8)

それでもキリストは、弟子らに『体を殺しても、魂を殺すことのできない者らを恐れてはならない』と言われました。
つまり、人の体は死ぬとしても、魂までがまったく損なわれることはないということです。
そして、キリスト自身の魂は『墓に捨て置かれることなく、神はこれを復活させた』と聖書は述べています。(マタイ10:28/使徒2:27)

そこで『魂』は、生きている人の中に有り、体と共に死を迎え『死んだ魂』となりますが、まったく無に帰して神にも忘れ去れるわけではありません。

ですから神は、『すべての魂はわたしのものである』と言われるのです。それは生死に関わらずです。(エゼキエル18:4)
つまり創造の神は、過去、現在、未来を含め、時間を超越して、人のひとりひとりを「魂」として見做します。

これを証しするように、ご自分の刑死を目前にされたイエスは、古代に死んだ人々であっても『神にとっては生きている』と宣言されました。(ルカ20:38)

 神は創造者であるゆえに人を存在させ、また人を自在に復活させることができるからであり、『神にとっては生きている』とのイエスの言葉に違わず、最初にキリスト自身の『魂を墓に捨て置かず』に復活させて『死者からの初穂』とされました。
そこで、人を存在させた神は、『善人も悪人も』すべての人について、創造者であるゆえに所有権を持つと云えます。(使徒24:15)
その通り、『善人も悪人も』です。

創造者の人への評価に不公正はなく、ただ、あなたが存在することに価値があるのです。
なぜなら、神があなたを在らしめたからです。(詩119:73)
最初の夫婦の子孫である誰もが、『魂』という全能の神の侵し難い所有権の中に守られているのです。

ですから、わたしたちの空しい一生が「この世」ですべて終わってしまうことは決してないことを聖書は知らせます。(コリント第一15:13-)
その根拠がキリストによる「魂」の代替であり、すでに二千年も前、新約聖書にある通り、アダムの「魂」に対応するキリストの犠牲は確かに捧げられ、それを神は間違いなく受け取られているのです。(ローマ5:21)

アダムが魂を損なったので、子孫の全体は拠って立つ存在の根拠を失ってきたと言えるでしょう。しかし、キリストはアダムの失われた魂を自らのものに代えたので、彼は預言されたように『とこしえの父』となると書かれているのです。(イザヤ9:6)

そうして、すべての人を浄められた地に復活させ、どれほど悲惨な生涯を送った人であっても、いずれは輝かしい創造物としての祝福に報われるように神は取り計らわれました。
キリストによって、わたしたちの「魂」はすべて神によって買い取られた状態に入っています。
創造者が御子キリストという最も貴重な犠牲を払って買い取ったものとは何でしょうか。それこそが人々の「魂」であり、創造されたわたしたちそのもの、真実の存在なのです。

その貴い贖いの価が罪の無かったときのアダムの魂に対応するものなら、買い取られたのは、実に子孫であるわたしたちのひとりひとりであり、善人も悪人もなく、すべての人がその価値において何らの違いもないのではありませんか?
すべての人は、生きていようと死んでいようと、所有権を持つ神にあっては変わりがなく、その手にしっかりと「魂」として握られているのです。

いつの日か、創造者はアダムの子孫のすべての「魂」を肉体に回復して、必ずや栄光溢れる創造の業を完遂されることでしょう。
それだけでなく、今現在でさえも、この世の苦しみに喘ぐ個々の人々のために善意を施してくださいます。

イエスはこうも言われました。
『何を食べるのか、何を着るのかと思い煩ってはなりません。天の鳥たちを見なさい、倉も持ってはいませんが、天の父は彼らを養っているのです。野のゆりを見なさい、栄華を極めたソロモンでさえこれほどまでには装っていなかったのです。』(マタイ6:29)

そこで、わたしたちにとっての最善を知るのは、実にわたしたち自身ではありません。
人には誰も将来を見通せません。これはソロモンも諭すところで占いなどは無益です。(伝道10:14)

ですから、わたしたちは窮境に陥るときに、非常な不安に駆られることもあるでしょう。心細さに打ちしおれることもあるでしょう。
しかし、あなたも創造の神に所有されている「魂」であり、神に頼り、その助けを願うなら、神は自らの所有する「魂」を今でさえ省みるとイエスは教えました。(マタイ6:25-)
神ご自身も『ご自分の手の業(創造物)を慕われる』というのです。
そしてキリストは苦しむもの、弱きものに寄り添い、難病にある人々をも癒し、神の善意を施し示されました。(ヨブ14:15/マタイ9:11)
神はご利益を与えはしませんが、苦難にある者には道を拓かれます。

それに加え、『神の子』として立に戻った将来の生活を送る人々について神はこう言われます。
『彼らは無駄に労することなく、生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らはYHWHに祝福されたものとなり、その子孫も共にいる。彼らが呼びかけるより前にわたしは答え、まだ語っているうちに聞く。』(イザヤ65:23-24)
人は短く空虚な人生を後にするだけでなく、アダムのように自由に神と会話をするというのです。

この世に在って、人々は皆アダムの罪の影響下から逃れてはおりませんが
全能の神の権利以上に確実で強固で信頼できるものが他に何かあるでしょうか。

今、わたしたちがどのような境遇にあるとしても、また何が起ころうとも、たとえ死ぬようなことがあってさえ、神はすべての人のひとりひとりをしっかりとその手に把握され、その「魂」を何者にも損なわせません。
なぜなら『すべての魂は』神のものだからであり、その神があなたという存在の由来だからです。

この世が続く限り、人の苦難は絶えず、死も避けられませんが、それらを乗り越える力強い神が、何時の日か、必ず「この世」を終わらせて、人々に栄光を回復する日が到来します。聖書はまさにそれを告げており、キリストはそのための働きを地上で全うされました。キリストの死と復活は、存在したすべての魂の先駆けであったのです。

何と心強いことでしょうか。ですから苦難にあるとき、あなたを在らしめた創造者に心を開き語りかけて頼れる理由もあるのです。神はご自分の創造物を必ず顧みると言われるからです。(ヨブ14:15)

神に頼り、自らを委ねることは弱さではなく、見えない創造の神に信頼を寄せる「信仰」と呼ばれる大胆さの証しであり、「人が弱い時にこそ、神は強い」と聖書は言うのです。(コリント第二12:10)




12.人はなぜ生きるのか

2014.11.02 (Sun)

"Why do people live?"
人はなぜ生きるのか


これに似た問いに、「人生の目的は何か?」や「なぜ生まれてきて、死ぬのだろう?」などもあるでしょう。
こうした質問をする時期は、青年期に多いようですが、それは社会に出て、考える間もなく生きるための日常に追われる日々に入る前だからなのでしょうか。
あるいは、若者でなくとも、今日もどこかでこの問いを思い浮かべている人もいることでしょう。

しかし、「人はなぜ生きるのか」という問いに答えるのは易しいことではありません。

もう随分と以前のことで、おおよその内容を書くことになりますが
ある中学校では自殺する生徒が出てしまいました。
校長先生は、全校生徒の前で「死んではいけない、強く生きなさい」と訓示したそうです。

しかし、ひとりの女生徒は新聞(朝日)に投稿して大人たちに尋ねました。
「死んではいけない、強く生きなさい」と言われましたが、どなたか生きる理由を教えてください。
生きる理由が分からないのに強く生きることはできないとも、この女生徒は書きました。

これに対して、様々な返答が寄せられたものです。
おおよそ要約すると、次の三種類に分けられるように見受けられました。

「生きる理由は、生きているうちに見つかる」。
「人は生かされているのであって、理由はないが懸命に生きるべき」。
「人を愛しているので生きようとする」。

ですが、その女生徒はこれらの回答に感謝しつつも、満足せず、同じ問いを投書します。
やがて大人たちは、ひとつのことを共通の認識としていったように見受けられました。

つまり「人はなぜ生きるのか」との質問の答えは、人それぞれになり、すべての人に当てはまる解答が無いということです。

それでも、大人たちの回答にはそれぞれ真実が含まれていたように思えます。
人は何かに打ち込んでいると、それが生きる理由や目的のようになってくるものです。
また、わたしたちの誰もが、生まれようとしてこの世に来たわけではありませんから、確かに「生かされている」という感覚もうなづけます。
そして、誰かを愛するゆえに、生きようと努めることも、まことに価値ある理由と言えましょう。

では、これらに何が足りないものがあったのでしょうか?

これらの回答には共通するものがあります。
それらは、自分の意志によらず、いつの間にか生まれていた人間の側から、その存在の理由を自ら考え、何とか作り出そうとしているところは同じなのです。 しかし根源的な答えはそこにありません。人は皆、自分から生まれてきたのではないからです。なぜ生きるかの解答は人の限界の向こう側にあると言えましょう。

これを例えると、様々な用途に使うことのできる機械が作られたかのようです。
その機械は便利に様々な仕事をこなしますが、製作者が不在で、なぜ自分が作られたのかを知らずにいます。

時折に、自分が何のために作られたのかを考えても、自分なりの答えで満足する以外にありません。
そして今日も、せっせと自分の仕事と思える事をこなして忙しく過ごします。ですが機械にはあちこち不具合が出るようになり、やがて仕事を行うこともなくなり、スクラップとされます。
人の一生は、このように存在させたものとの繋がりが欠けているので、人はそれを見出そうと様々な宗教に問いかけてもきたと言えましょう。

では、ここから聖書に目を向けてゆきますと、こうあります。
『造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。』(イザヤ書29:16)

これはつまり、造られたものは造ったもの以上にはならず、造ったものに自分の存在意義を尋ねない限り、それを知ることはないことを教えていると言えましょう。
人は自分から生まれようとしてこの世に来たわけではなく、人は生まれながらに自分を在らしめた何者かを認識するわけでもありません。そこでジョン・ロックが17世紀に唱えたように、人々は生来的に「白紙」の状態の認識で生まれてくるので、宗教といえども神認識で一致しません。

ですから、多様な神や信仰がそれぞれの人々によって確信されてはいるのですが、その神も教理もバラバラで、その不一致が原因で時に互いの間に敵意をさえ生じ、それが宗教紛争などの厄介な問題を起こし兼ねません。
宗教といえども、神ではなく、やはり人間それぞれの思惑やご利益への願望が強いばかりで、本当には神に耳を傾けているとは言い難いものがあります。

しかし、このように自らを存在させた何者かに対してさえ人が無頓着で、何事も決め付けてばかりなら、果たして自らの生きる目的を知ることなどできるものでしょうか。

他方で、聖書には簡潔ながら人間の始まりからが描かれています。
「創世記」のはじめの部分には、天地の造り主である神が、自身の六日に相当する永い期間をかけて次第に地球を整え、最後に人間を地上に置いて地上の生き物を従わせる役割を与えることにしました。

創造神は第七日には、天地の全体が非常によく出来上がったことに満足を覚えたと創世記に記されます。
最初の男女はアダムとエヴァであり、このふたりから地上に人々が広がってゆくように取り計らわれます。
ふたりは「楽しみ」を意味するエデンと名付けられた園を与えられます。ですから、創造者はこの世のような苦悩の多い環境に生きるようにと、人間を意図して作ったわけではないのです。

創造神はアダムに様々な動物の名を付けさせましたから、アダムは神から独立した自由な意思を持っていたことになります。それを神は喜ばれたのであり、創造者は主権をかざす強圧的な存在とは言えません。また、神は自らに平伏させるために人を作ったとも言えません。
そこでは、神と人間たちは意思を通わせ互いに会話することができました。両者の間に隔たりもなく、今日のような宗教を間に挟む必要もありませんでした。
しかし、それも変化する事態が起こります。

この創世記の最初の部分は「原初史」と呼ばれますが、これは神話のようでありながら、それだけでは済まされないような人間の本質を突く記述があり、それは「人はなぜ生きるのか」と問う人をして見過ごせないものとなるでしょう。

それがエデンの園の中央に植えられた二本の木なのです。
これらの二本の木は、実に創造者と人間の関係性を左右する決定的なものなので、エデンの園の中央に在ったと言えます。

さて、あなたが何かの機械の製作者であったなら、その機械をそれなりの目的に合わせて作ったことでしょう。そして機械がどう用いることが良いか、どう用いてはいけないかを知っていることでしょう。
しかし、機械も操作する者もそれを知りません。分かるのは適性くらいです。なぜなら製作者との意思の疎通が欠けているからです。

ですが、人間は単なる機械ではなく意思を持つ生き物であり、神と会話できるところは他の動物とも異なっていました。それで、意図せず生み出された自分が「なぜ生きるのか」を問うのです。
エデンの園の真ん中に植えられた二本の木は、人が自らの意思に従って生きることのでき、不自由なく神との意思の疎通を図れる者として存在し続ける条件を指し示していたと言えます。

一方の木は「善悪を知るの木」、もう一方は「永遠の命の木」とされますが、それぞれの木の名前に人の行う意思の選択が表れています。人がそのどちらか一方を食べることが意図されているのでしょう。

その選択は、まず「善悪を知るの木」に対する禁止によって与えられます。
創造者である神という存在を人がどう捉えるかに関する自由な選択がその木について一度開かれましたが、これは神と人の関係に関わるものです。人は創造者を敬愛して生きるでしょうか、それともないがしろにして生きるでしょうか。
そこで神は、人の選択の自由を保つためにその行動を強制せずにおくばかりか、「蛇」という第三者の誘惑をも許します。

つまり、創造者との良好な関係を望んで「永遠の命の木」からその実を食べるのか
あるいは、創造者を背を向け、利己的な願望に流れる生き方を選んで「善悪の知識の木」から実をもいで食べてしまうか、という決定的な生き方の二者択一で、そこに関わるのは生き方であり、倫理と呼ばれるものです。

結論と言えば、アダムとエヴァは、創造者からの禁を犯してその関係をないがしろにする方の木の実を食べてしまいました。
そこで人は倫理の問題を抱え込みます。倫理とは、他者とどのように生きてゆくかという事柄です。
人類は、神に対してばかりでなく、互いに対しても倫理の問題を抱えていることは、少しこの世の有り様を観るだけではっきりします。この世には人間の悪が多過ぎるのですから、今日のニュースを見回すだけでも、人間に倫理問題が在る事を確認するのには充分過ぎるほどでしょう。
神は、ふたりを「楽しみの園」から追放しました。つまり、創造者との関係が損なわれ、「永遠の命の木」からも採って食べることのないようにします。これによって、悪が永久にはびこり、創造界に対する神の意図がいつまでも成し遂げられないことが避けられます。

これが神の願うところでなかったことは、『善悪を知るの木から食べてはならない、死ぬことのないためだ』と忠告していたことからも、またアダムたちに示していた多くの親切からも明らかなことです。 しかし、彼らは神の善意に応えませんでした。 二本の木の選択に求められたのは、権威者への全き「従順」というより、自発的な神への「忠節な愛」であったといえるでしょう。

神はふたりに「永遠の命の木」から与えたかったに違いありません。創造者なのですから。
しかし、ふたりは与えられるのを待たず、奪う仕方で「善悪の知識の木」を採って食べてしましました。

それから、創世記は今日の人間の日常の理由を語ります。
人間は『顔に汗してパンを食べ、ついに地面に帰る』という生涯を送ることになり、『地は呪われ』雑草がはびこるようになって耕作は容易ではなくなり、やがて地上は不作や災害も起きる場となってゆきます。
アダムとエヴァがエデンから追放されたとき以来、人間社会は創造神とは隔たった根無し草のような生活を余儀なくされました。

それが今日までの人間の受け継いだ境遇であり、その一方で人々は、相変わらず神を意に介さず、または自己の義を立てるような崇拝を行って、やはり神に無関心であることを示してきました。
人は自らを存在させた創造者から心が離れてしまい、それはあらゆる道徳や倫理の基本を壊してしまいましたから、人類世界には悪や苦しみが絶えません。

もちろん、幾らかの善を行うこともできるのですが、人間は自らの悪を無くすことができなくなっています。
そこで、善と悪とを仮に定めて法律とし、それを守るよう強制しなければ人間は社会を維持できないばかりか、生活もおぼつかないことでしょう。

つまり、今日の世は創造者の意図から外れてしまった状態にあり、それで人々はこの世を空しく感じます。
生まれて、育てられ、苦労して生活し、やがて子をもうけ、老化を避けられず、自分も去って行く、という世代の繰り返しを眺めると、それだけのために存在することに、人は満足できないものを自然と感じ取ります。
その一生にどんな意味があるのか、ほんとうにそれだけなのだろうか、という疑問は誰もが思い浮かぶものです。

しかし、創造神との間には充分な意思疎通が失われているので、それが「人はなぜ生きるのか」という問いの答えを得る事を阻んでいます。人に「なぜ生きるか」という問いへの普遍的で決定的に得心できる答えがないのは、わたしたちがまさしく造られた存在だからなのでしょう。われわれ人間が形造られたものであるなら、本来、自分で存在意義を決める理由がありません。
そしてやはり、人々には「なぜ生きるか」の答えが本当には見当たりません。その答えは創造者の許にあり、その以前に、神や人とどう生きてゆくかを弁えていないのですから、まず、神との間の垣根が取り払われねばなりません。

この簡潔でありながら大きな難問「人はなぜ生きるのか」について、聖書が伝えるところは、「人間を楽しませるため」とも「地上を管理させるため」とも答えることはできるでしょう。それは文字からの知識としてのことです。
しかし、二本の木に示されたように、より重要な解答は、「人間を存在させた神との関係」の中にあります。
つまり、創造した側からの、人の生きる理由というその答えを知る必要があるのです。

ですから、創造者との関係が途絶え、短い寿命に生きている現在、「人はなぜ生きるのか」の問いへの神の答えを得ることには無理があります。
もし本当に、「永遠の命の木」から採って食べ、永遠に生きることが創造神の人間への意志であったのなら、「なぜ生きるのか」の問いはまったく答えられなければなりません。

そうでなければ、人は永遠という時間にいつかは飽きて、生きることに意欲を持てなくなるに違いないからです。
ずっと生き続けるためには、充実した生涯を送り寿命を全うして満足することをも遥かに超えて、永続する目的意識を持ち、身体が生きようとするように、心も生きることに意味を見出していつまでも闊達としていなければ、永遠という時間に空しさが付きまとうに違いないのです。

しかし現在では、人が「なぜ生きるのか」の神の回答を得ることは無いといってよいでしょう。
やはり、わたしたちは創造者との十分な関係をもっておらず、人の内の悪に流れる傾向は、創造に当たって神の意図したところから脱線してしまっているからです。つまり、この世の有り様も、人の心の傾向も、神の意図するところではありません。そこで人間が自ら生きる理由をいろいろと考え出しますが、実感を伴った得心のゆく正解を得ることは不可能なのでしょう。

そこで人々は神を、また「上なるもの」を求めてきました。
そのために宗教があり、人はそこで自らの根本的な問いに答えを捜してきたのです。
しかし、それぞれの宗教は様々な答えをいろいろと並べることはあっても、誰もが納得できるような普遍的な答えにはどのような宗教も到達したとは言えません。多様な宗教が並立するのもそこに一因もあるのでしょう。

「生きる理由を教えてください」と、新聞に投書した女子生徒は、この端的な答えの無い問いを尋ね続けたといえましょう。
あまりにも純粋で無垢な問いに、知ったつもりでいた大人たちはたじろいだのではなかったでしょうか。
実は大人たちに正解が無かったので、正解と思える答えを並べるところで終わってしまったように見えるからです。

この堂々たる正面からの問いと、幾らか的を外した答えに漂う空虚さは、創造者との絆を失い、寿命によって生きる時間を制限されている人間の現状をさらけ出しているかのようです。

しかし、その一方で、創造の神はアダムの子孫のすべてに対して、自らとの関係を回復する手段を設けました。
その手段について聖書は『神と人との仲介者』と呼ばれるひとりの人物を指し示していて、その方はイエス・キリストと呼ばれます。

「キリスト」とは、一言でいうなら「任命された人」を表します。
つまり、アダムの子孫たちが、神との関係を取り戻し、「悪」に流れる傾向を正して、再び創造されたままの輝かしい姿を回復させるという大役を担うために、神から「任命された者」を指しているのです。
その「救世主」とも呼ばれるキリストは、「この世」という創造者との断絶の広大な暗黒に、差し込むたったひとすじの光のようであり、人類に残されたこの上なく貴重な助けです。

キリスト教とは、この任命された方を通して、神から離反している状態から人類が救われることを信じるものなのです。
「なぜ生きるのか」という問いの答えは、やがて「この世」が正されて後、「永遠の命の木」から実る果実を味わうときに、創造者が溢れるほどに示されるでしょう。その時には、深い実感をもって十分に得心のゆく正解を誰もが味わうことになるでしょう。それは命への本能的願望でも、人への愛着でも、物事を究めることでも、単なる知識でもなく、人が会得して永遠に生きようとさせる何かなのでしょう。





11.キリスト教の始まった日

2014.10.07 (Tue)
キリスト教の始まった日


キリスト教はユダヤ教から現れたと言われます。
それでも、イエス・キリストもユダヤ教徒であったと聞けば、たいていの人は意外に思うでしょう。
ですが、確かにイエス・キリストもユダヤ教徒の家庭に生まれ、ユダヤ教徒として育ち、終生ユダヤ教徒としての務めを全うしています。

その務めには「律法」と呼ばれる預言者モーセのときに定められた法律に従うことや、エルサレムで行われる祭りに参加することが含まれます。

使徒パウロは、イエスがモーセの律法を守る務めを負っていたことをこう述べています。
『神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。』(ガラテア4:4)

もちろんキリストが現れたので、キリスト教という宗教が存在するようになったのですが、実際にはイエスもその直弟子たちも皆ユダヤ教徒であったのです。

では、いったいこれらのユダヤ教徒はいつからキリスト教徒となったのでしょうか。
また、何がキリスト教をユダヤ教から分かれさせたのでしょうか。

そこで、ここではキリスト教が始まったとされる日についてお話ししましょう。

キリストが磔刑に処されて直後の弟子たちは、それまで従ってきた師の居ない中で、その処刑に彼らの主を追い込んだ周囲のユダヤ人におびえて過ごします。

しかし、キリストは処刑から三日目を迎えた早朝、神によって復活させられます。
その朝、墓の前には、見張りの兵士が配置されていたのですが、イエスの復活に伴って現れた天使の姿に恐れ慄いて動けない状態に陥っていました。

しかし、彼らは見たことを他言せず、弟子たちが遺体を持って行ったと言うようにと、兵士らを遣わしたユダヤの宗教家から口止めの金を渡されています。ですが噂は漏れ出ていました。(マタイ28章)

その後、弟子たちが扉にかんぬきを下ろした部屋に集まっているところに復活したイエスが現れ、弟子たちに挨拶をし、食事までしています。(ルカ24:36-53/ヨハネ20:19-31)
では、なぜ食事までしたかといえば、復活が起こったことの具体性を示すためであったことでしょう。その場面で、磔刑に遭ったときに受けた傷も見せているところにもその意図が窺えます。

しかし、これは普通の人間となっての復活したということではありません。
例えれば、聖書の中では天使が人間の姿をして何度か現れている場面があり、食事もしているので、それは天使という霊的存在が一時的に人間の身体をまとった「化肉」ともいえる状態であったのでしょう。(創世記18章)
これは、復活後のイエスについても、同様であったと言えます。ですから、使徒パウロはイエスについて『命を与える霊となった』と記しています。(コリント第一15:45)

しかし、当時のユダヤ人も復活を信じることは易しいことではありませんでした。
イエスが墓に横たえられてから三日目の朝に、遺骸に香油を塗ろうと墓に向かった女たちが、遺体が墓に無く、復活したイエスから声を掛けられて初めてそれを悟るに至ります。

しかし、キリストの直弟子であっても、その話が信じられず十二使徒のひとりであるトマスは『わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない』と言い張っていました。
そこで、イエスは扉にかんぬきを下ろしたはずの部屋の中に再び現れ、トマスに『あなたの指をここに入れて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしの脇に差し入れてみなさい。そうして信じない者ではなく、信じる者となりなさい』と言われます。

こうして十二使徒や直弟子たちは、自分たちの師が本当に復活したことを得心することができなければ、その後に、この生き返った方イエス・キリストを専らに宣明する決意を抱くこともなかったことでしょう。

そして、彼らにキリストを宣明させるもうひとつの重要なきっかけを与えたのが『聖霊』と呼ばれるもので、これはイエスがその到来を弟子たちに予告していたところの神から発する力であり、その『聖霊』はキリストの直弟子たちに、イエス自身が行っていたような奇跡の業を行わせるものとなりました。

そのことをイエスは『父の御許から来る真理の霊が下る時、それはわたしについて証しをするであろう。そして、あなたがたは初めからわたしと一緒にいたのであるから、証しを行うのである。』また『父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』とも予告していました。(ヨハネ15:26-27/20:21)

つまり、使徒たちや直弟子たちはいまや『聖霊』を受けることによって、キリストの行ってきた業を受け継ぎ、それを世界に向けて広げてゆくことになります。

そのことをイエスは『わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、より大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。』また、『聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となるであろう』とも語っていました。(ヨハネ14:12/使徒1:8)

しかし、弟子たちはそれが具体的にどのように実現するのかを知りません。
地上に残った弟子たちは、キリストが天に去って行くのを眺めていた日から十日後の朝に、再び驚くべきことを経験します。

それはおそらく西暦33年の5月24日*日曜日の朝、ユダヤの暦ではシワンの月の6日、キリストの復活から50日目であったことでしょう。 *(ユリウス暦)
その日はユダヤの大祭のひとつである「ペンテコステ」とも呼ばれる五旬節(シャヴオート)の日で、外地のユダヤ人たちが祭りを祝うために世界各地の居留場所からエルサレムに集まって宿泊していました。

その朝、エルサレムには『風の吹きつけるような大きな音』が響き渡ります。
いったい何事かと、人々はその音のする方に集まってくると、そこではキリストの弟子たちが、習ったことのない様々な各国の言語を用いてそれぞれに『神の壮大さ』を語り讃えているのですが、彼ら一人一人の上には『舌のような炎』が見えたと書かれています。

この奇跡が何を意味するのかを使徒ペテロは人々に向かって知らせます。
『神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。』『イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが磔にして殺したイエスを、神は主とし、またキリストとなさったのです。』(使徒2:33.36)

古来、ユダヤ教徒には旧約聖書を通してメシア、つまりキリストという傑出した人物が現れ、その者に従うようにと諭されていましたから、ペテロの言葉を聴いた国外在住のユダヤ教徒たちは心を刺され、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と尋ねます。(申命記18:15)
そこでペテロは『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるでしょう』と勧告します。(使徒2:27-28)

こうして、その日のうちに三千人が水に身体を浸す儀式であるバプテスマを受けて、イエスが旧約聖書に予告されていたキリストであることを信じるようになり、やがて使徒たちのように聖霊を受けるようになりました。こうしてイエス・キリストを信じる人々の輪が、『聖霊』と共にこの日を境に世界にむけて広がってゆくことになり、そして今日、キリスト教は世界最大の宗教となっています。

そこで、キリスト教が始まった日を、この『聖霊の注がれた』ペンテコステの日と見做す識者は少なくありません。
もちろん、未だ新約聖書は書かれておらず、教理も完成されてはいませんでしたが、この日にユダヤ教徒の中からイエスというキリストを信じ、『聖霊』を受けてキリストの業を受け継いだ人々と、イエスを信じず、それまでと変わらずにモーセの律法と旧約聖書やユダヤ人の伝承を含むユダヤ教に留まり、聖霊による奇跡の業に嫉妬する人々の分離が起こったことが、当時を記録した新約聖書の中の「使徒言行録」に明瞭に記録されています。

それからも『聖霊』はキリスト教徒の上に働いて、教理を教え宣教を導き続けます。
その過程で新約聖書が次第に形成されてゆき、最も長生きをした十二使徒のヨハネの著作をもって、新旧の聖書の全巻が今日の形に書き終えられました。
こうして『聖霊』は一度その働きを終え、今日まで聖霊が注がれ奇跡の業を行う人は現れていません。
『聖霊』が活動した期間は、あのペンテコステの日からおよそ百年ほどの間であったことが、エウセビオスの「教会史」などの歴史資料から窺えます。

他方、ユダヤ教はイエスを救世主キリストとは認めずにいましたので、『聖霊』を受けることもなく、新約聖書も受け入れず、現在までも旧約聖書だけを聖典とし、それに付け加えた「タルムード」という規則集を守ることを教えの主眼に置いています。ユダヤ教は旧約聖書に予告されたメシア=キリストをその後も二千年も待ち続けているのですが、この21世紀になってもイエスのような傑出した人物は現れていません。

「イエス・キリストはユダヤ教を改革した」というような解説がされるのを目にすることがあるかもしれませんが、イエスはユダヤ教を「改革して」キリスト教を創り出したというよりは、本来ユダヤ教が向かうべき目的としていたところの、新たで高度な、まるで異なる次元の宗教に導いたと言う方が適切でしょう。

その新しい「キリスト教」を存在させたのはどんな人間でもなく『聖霊』であったということができます。
これは意外かも知れませんが、キリストが地上に居た間にはユダヤ教とキリスト教は別の宗教にはならなかったのです。

一方、『聖霊』がもたらしたキリスト教は「改善されたユダヤ教」という範疇を遥かに超えていて、基本的な考え(原理)も正反対なほどに違うものになっています。
例えれば、ユダヤ教は律法への「従順な行い」を強調しますが、キリスト教では「信仰」や「愛」という自発性が求められます。
この点で、使徒パウロは律法に従うことを『隷属』とし、キリストが『自由』を与えたことを告げ、また『キリストは律法の終わり』とも記しています。(ローマ10:4/ガラテア3:24)

ではやはり、あのイエスがユダヤ人の待つべきキリストだったのでしょうか?
この質問は、ユダヤ教徒には今でも無礼な禁句となっています。なぜなら、ユダヤ教徒がイエスを当時のローマ総督ポンテオ・ピラトに処刑させてしまったことは、もはや到底取り返しのつかないことだからです。
ユダヤ教徒が今日も信奉する書物である「タルムード」では、イエスは「田舎ガリラヤの私生児で、魔術を行って人々を惑わし、最期はローマ総督に処刑された」と主張します。

一方で、キリスト教の側から見ると、ユダヤ人の体制派やほとんどの人々は、イエスの行う奇跡を見ても彼を神から遣わされたキリストとして受け入れず、却って悪魔によって不思議を行う者で、国を亡ぼすという理由で死に追いやってしまったのです。
そのため、キリスト・イエスを退けた当時の世代の内に、ユダヤの体制は神の神殿もろともにローマ軍によって滅ぼされてしまいます。その事についてはイエスが予告していた場面を新約聖書は記しています。(ルカ19:41-44/マタイ24:1-2)

イエスは、このユダヤ体制崩壊の事態を予見し、ユダヤに居る弟子たちには、エルサレムが軍隊に包囲されるようなことが起こったなら、ユダヤに見切りをつけ山地に逃れるようにと指示していました。(ルカ21:20-)
それはユダヤという体制の破局が迫っていることの印であり、モーセ以来永く続いた律法契約が終わることを意味していました。
つまり、それ以後はユダヤ人のキリストの弟子たちであっても、神殿を中心とした崇拝方式からまったく離れることになります。こうしてユダヤ教徒であったイエスの弟子たちも、ユダヤ教の崇拝を続ける理由を失い、規則に従うユダヤ教から、個人の信仰と自発的愛(アガーペー)によるキリスト教本来の姿に向かってゆくことになりました。

律法祭儀は、実際に西暦70年に終わりを迎えました。エルサレムでは祭りで人々が集まる時期であった事が却って災いし、ローマ軍の攻撃の前に多くのユダヤ人が命を落とし、また生き残ったユダヤ人も奴隷として売られてしまいます。
その後ユダヤ民族は国を持たない流浪の民となってゆき、彼らは自分たちの神の名が何というのか、その発音さえ忘れてしまいます。 神殿をまったく失ったことで、彼らが律法のすべての要求を果たすことは不可能となりました。 なぜなら律法の中のおよそ三分の一は、神殿で行われるべき儀式の取決めが指示されていたからです。
それに加えて、ユダヤ人は自分たちだけが神殿域だけで発音していた神の名前が何と呼ばれるかも分からなくなってしまいました。それらは、キリストを殺めたこの民族が、まさしく神の恩寵も契約も失った結果というべきでしょう。

この律法体制の滅びに際して、ユダヤ人の中からキリストの弟子となっていた人々は、イエスの指示に従いユダヤから北東方面の山地の都市に逃れて、その災厄を被らずに済むができました。この人々も各地のユダヤ居留民のところにそれぞれ散ってゆきました。以後、十二使徒のヨハネやフィリポは小アジア(現トルコ西部)に移住して、その地のキリスト教徒を指導してゆきます。

特にヨハネは、聖書巻末にある「黙示録」を記して、この世の終末があること、また、他の福音書と共にそれがユダヤの滅亡と似たものになることを明らかにしています。

さて、古代にモーセはこう語っていました。『あなたの神YHWH*は、あなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない』。*(今日では発音不明となった神の名)
さて、では旧約聖書でモーセがこのように預言していたメシア=キリストとは、やはりイエスだったのでしょうか?

あなたはどう思いますか?
「イエス・キリスト」という名称も今では当たり前のようになっていますが、そこにはナザレ村から来られた方イエスが神に任命されたことを信じるという意味が込められているのです。
あの聖霊が降ったペンテコステの日から今まで、イエスこそが予告されたキリストであると信じることができる人を、キリスト教徒と呼ぶことができます。
今日では、聖書に記されたところを読み、調べることで、その人が自らそれを判断することができるでしょう。




10. 聖書の神の名前は人を救う

2014.08.30 (Sat)
聖書の神の名前は人を救う


世界には様々な宗教があり、ほとんどの神には名前があります。
日本の神社にもそれぞれ神があり、伊勢神宮の内宮は「天照大御神」が祀られています。
中国の各地には廟(ミャオ)があり、三国志の関羽のような英雄も神となって祀られています。
インドのヒンズー教の神々は数知れませんが、ビシュヌー神やシバ神やスーリア神の神殿が多いでしょう。
ヒンズー教にはあれほど多くの神が居ても、基本的には一神教であるとのことです。
「アッラー」は、イスラームの神の固有名ではなく、絶対的な神と意味するとのことですが、元はアラビア人の神々の中の主神であったと言われます。
ギリシア神話の主神はゼウスですが、これはローマ帝国のユピテルと同一視され、キリストの時代にもローマ帝国各地にその神殿が存在していました。

そして、旧約聖書の舞台となった古代の土地にも様々な神々が崇拝されていました。
太陽神ラーや、アモンなど古来多様な神々の祀られていたエジプトは、奇跡を次々に行う預言者モーセの神と対決しなければなりませんでした。またパレスティナにはバアルやモレクなどの偶像が崇敬の対象となっていました。
そこではモーセの神も自らを名乗り、その名前はヘブライ文字で[יהוה]と旧約聖書に記録されています。
ですが、この四文字が何と読まれるかを知る人は、今日までにユダヤ人の間でも居なくなってしまいました。
ですから人類は、聖書という世界で最も頒布されている経典の神の名が何というのかを忘れてしまっているのです。

もちろん、かつてのイスラエル人は自分たちの神の名を知らされており、この四つの子音を表す文字の間に母音を補って読んでいました。しかし、イスラエル人が律法契約をないがしろにいたことの酬いとして、この国民がバビロンに流刑に処された後、彼らが「ユダヤ人」と呼ばれるようになって後の時代から、この神との契約の民は、律法を守る決意を強める過程で、神の名の扱いも変化し始めます。

与えられた律法に従おうとすることは良かったのですが、やがて、逆の極端に傾き始めてしまいます。
つまり、律法よりも厳しい掟を定めることで、律法を間違いなく守ろうとする人々が現れ、様々な規則を付け加えて行きました。
確かに旧約聖書には、神の崇拝される場所、また神殿に、「神は自らの名を置く」と言われていましたが、ユダヤの人々は神の名前の神聖さを汚すまいとして、エルサレムの神殿の中だけ、それも「贖罪の日」(しょくざいのひ)と呼ばれる一年で一日だけ許されるものとしてしまったのでした。(申命記12:5/列王第二21:4)

ですから、キリストが現れた時代のユダヤ人にとって、神殿の境内以外の場所で神の名前を発音することは禁じられていて、ユダヤ人の歴史家ヨセフスは、神の名を普段の場所で唱えることを「恐るべきこと」としています。またユダヤ人哲学者フィロンも異邦人に向けて、神は奥深い存在なのでその名は口にすべきでないと説明しています。

ユダヤ教は民族中心の宗教でした。ユダヤ人でないと神殿の境内の中心にある聖なる所に入ることは許されませんでしたから、異邦人はその名が発音されるのを聴くことができませんでした。
しかし、参拝したユダヤ教徒はその神の名を知っていましたし、毎年神殿域でその名を聴くことができました。

その後、到来を預言されていた偉大な預言者イエス・キリストがユダヤ人の間に現れます。
しかし、ユダヤ教の指導層はこのイエスを退けて処刑させてしまいました。

それから一世代を過ぎない内にユダヤにはローマ軍によって恐ろしい滅びが訪れることになりました。
エルサレムも神殿も徹底的に破壊されてしまい、やがてユダヤ人は流浪の民となってゆきます。
新約聖書は、それがキリストへの不信仰の酬いであることを告げます。

それ以来およそ二千年、律法で定められた神殿での神への崇拝は行えなくなってしまい、21世紀の今日まで神殿は失われたままなので、神の名を発音する機会が地上からまったく失われてしまって久しいのです。

ですから、ユダヤ人が神の名を知っていたのは、神殿のあったキリストの世代を最後としていたことでしょう。
それは、ユダヤ人から神の是認や恩寵が去ったことを象徴する事態の進展でありました。

そこで神の名はヘブライ文字の四つ[יהוה]だけが聖書に残されています。
これはギリシア語で「テトラグラマトン」(四文字の意)とも呼ばれています。

このヘブライ文字四つをローマ字に直すと「YHWH」となります。
ユダヤ教徒にとって「聖書」とは、キリスト教徒が「旧約聖書」と呼ぶ部分だけですが、そのヘブライ語の(旧約)聖書の中にはこのテトラグラマトンが7000回近くも現れますます。

では、ユダヤ教徒が聖書を読んでいてその文字のところまで来たときに、その神の名をどうするのでしょうか。
彼らは、その四文字が読めませんし、たとえ読めても畏れ多くて読まないでしょう。そこで、その四文字を「アドナーイ」(主)、または「エロヒーム」(神)と読み代えるのです。

今日の日本語の聖書では、日本聖書協会の口語訳や新共同訳などの旧約聖書では、全部の箇所を「主」としてしまっていて判別できないのですが、新改訳聖書ではヘブライ語の本文にテトラグラマトンの書かれている場所では【主】とされ、単なる「主」より太い文字で区別され、その存在を教えています。

このようにテトラグラマトンを単に「主」と呼ぶ習慣は、キリスト到来の前、西暦前1~2世紀には確立されています。
というのも旧約のギリシア語に訳された聖書に神の名が現れなくなるのです。
ヘブライ語が出来ない外地のユダヤ人の便宜を図ってギリシア語の聖書をユダヤ人が作りましたが、それは「セプチュアギンタ」(70人訳)と呼ばれています。(古くは72人訳と呼ばれましたが、第五世紀までに省略されて70人とされています)

このギリシア語の翻訳聖書が出来上がった時代が、キリストが登場する二百年くらい前ですが、キリストの現れの近づいた後代の「セプチュアギンタ」は、ほとんど神の名前の四文字がユダヤ人の習慣に合わせてギリシア語の「キュリオス」(主)、また「スェオス」(神)と置き換えられ、ごく古い72人訳の写本にはその名だけヘブライ語のままに在ったとされますが、ほとんど写本には出てきません。

というのも、ギリシア語を話すユダヤ教徒が、テトラグラマトンがギリシア文字での[ΠΙΠΙ](PIPI)に似ているので、それを「ピピ」と読んでしまう流行が生じるのを避けるという意味もあったとのことです。

古くからこの名[יהוה]を「エホヴァ」と読む習慣もあります。これは、10世紀頃にユダヤ教の学者たちが、この四文字を「アドナーイ」と読ませようとルビをふったものをそのまま当てはめて読むと「イェフワー」となりますが、「エホヴァ」はそれに由来しています。これはヨーロッパで中世から存在して来ましたが、本来はルビの誤読から発祥したものです。
また「ヤハウェ」と読むことを推奨されることがあるかも知れませんが、これはドイツのチュービンゲン派の学者の提唱から19世紀に始まったもので、これが確かなものかどうかもやはり分かりません。

神の名を巡る現在のこうした現状は、ユダヤ人が神の名を神聖視して大切なものにしようとした意図から始まったことなのですが、キリストの死後の時代に彼らには予想外の「神殿破壊」という事態が起こり、結果的に地上から神の名を知る人をまったく絶えさせることになってしまったのでした。

一方で、初期のキリスト教は、ユダヤ人の使徒たちを中心に宣教され世界に広がって行きました。彼らにとって最も重要であったことは、彼らが信仰を持ったキリストが、イエスという、ナザレ村から来られた方であることを世界に広く知らせることにありました。 その活動は実を結び、当時パレスティナ以外ではまったく無名であったイエスの名も、今日これ以上なく有名になっています。

いまでこそ、常識としてキリストと言えばイエスなのですが、初期キリスト教の時代にイエスがキリストであることが常識であったはずもありません。使徒や初代の弟子たちの前にはイエスの名を宣明すべき広大な世界が目の前にあったのです。(使徒4:10-12/19:17)

また、初期の弟子の中心を占めたユダヤ人は神殿域以外で神の名を発音することは考えられないことでしたから、ユダヤ人の使徒たちが信者になった諸国の人々に知らせるべき名はイエスであり、[יהוה]についてはユダヤ人の習慣からして発音は避けたことでしょう。もし、発音していれば、その件でユダヤ教徒と激しい争いになったでしょうが、その点での争論の記述を聖書に見ることはありません。

また、新約聖書の筆者たちはセプチュアギンタから旧約を引用しており、それは当時のテトラグラマトンの無いものだったでしょう。なぜなら、もし引用文の中に神の名があれば、それを諸国民のキリスト教徒に説明していたに違いないのです。しかし、そのような場面を新約聖書に見つけることもできませんし、まるで異教徒ばかりの群集を相手にしたときにさえ、使徒たちが神の名を宣明している場面は聖書にないのです。

加えて、新約聖書の手紙類の最初の挨拶文では、「神とキリスト」が専ら用いられています。そこでもし神の名が発音されていたのであれば、母音字を持つギリシア語で神の名が書かれていたことでしょう。しかし、そのような習慣は西暦前から行われていなかったことを写本が物語っています。もし、ギリシア語の聖書の写本で一か所ですら母音を補った神の名の書かれた箇所が見つかっていれば、今日神の名の発音は間違いなく知られていたでしょう。
(聖書以外では幾つか伝えられていますが母音が一致しません)

ですから、初期キリスト教徒の時代から、常に強調されてきたのは専らキリストとしてのイエスの名であり、彼らにはその大きな必要がありました。(ヨハネ5:23/使徒4:10/5:28)
なぜなら、世界各地に神の名を知るユダヤ教徒がいる環境の中で、パレスティナにイエスというキリストが現れたことを宣べ伝えることは、なによりもキリスト教がユダヤ教から脱皮して、「律法」を守る古い宗教から、「愛」の宗教へと昇華されるべき重要な要素であったことはまず間違いがないことだからです。

ではこうして、イエス・キリストの現れの後に神の名の発音が世界から失われていったことは、神が自らの名を保存できなかったという無力さの証明でしょうか。
それとも、三位一体を信じる人々に都合よく、キリストが神であるから、神の名は「主」ということで良いのでしょうか。
あるいは、神は自らの名の発音を地上から取り去ることを意図されていたのでしょうか。

この点で、キリスト教界は全般として、聖書を翻訳するにあたり、神の固有名を旧約聖書からも無くしてきました。その狙いは、キリストを神に祭り上げる三位一体説を助けることにあるでしょう。
つまり旧約聖書の創造神の固有名を「主」と普通名詞に置き換え、新約聖書のキリストも「主」とすることで、双方を判別し辛くさせて、神[יהוה]とキリストを同じ神に錯覚させようとの意図です。

その一方で、旧約聖書の詩編の中では、「エルサレムで神の名が告げ知らされる」ことが記されています。しかし、その詩編が書かれた当時にはイスラエル人も周囲の諸国民も、当然に神の名[יהוה]が何と読まれるかを知っていたに違いないのです。その時代には人々はどこでも自由に神の名を唱え、近隣の諸国民までがイスラエルの神の名を知っていたのです。
では、なぜその状況の中で「エルサレムで神の名が告げ知らされる」と書かれる必要があったのでしょうか。

これについては、詩編には預言の言葉を含まれることが多いことを考える必要があります。
この第102篇の『神の名がエルサレムで告げ知らされる*』という言葉が、わたしたちのなお将来のことである可能性を否定しきれるものではありません。*([レサフェル]「宣告される」)

また、イエスは神の名を弟子たちに知らせたことが新約聖書に書かれてあり、しかも、その言葉はイエスが神に祈っている場面のものですから、イエスが神であろうはずもありません。
そこでイエスはこう祈っています。『わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました*。』(ヨハネ17:6 [新改訳])*([エファネロー]「明確に示す」)

また、使徒ペテロは旧約聖書を引用して、この世の終末の裁きでは『主(旧約ではYHWH)の名を呼び求めるものは救われる』と言っていますし、その旧約聖書では『その名を呼び求める者は皆、救い出され、その名を求めない諸国民には怒りが臨む』となっています。(使徒2:21/ヨエル2:32/詩篇79)
したがって、神の名を呼び求めることが、人々の救いに関わる重要な事柄であることが新旧の聖書の教えるところとなっているのです。

ですが、今日その名を知る人が居ないということは、誰も救われないということになるのでしょうか。
しかし、それでは終末の「裁き」の意味も「救い」の意味もありません。

そうなると、神はいつか再び自らの名を知らせる必要があります。
そこで思い起こされるのが、神殿は『神がその名を置くところ』であったことと、新約聖書でのキリストと共に神殿を構成することになる特別な弟子たちの存在です。(ペテロ第一2:4-5/エフェソス2:21-22)

思い返せば、神の名YHWH[יהוה]は律法契約の仲介者モーセに知らされ、ずっと律法契約と共に存在して来ました。モーセはエジプトの王、ファラオの前で神YHWHを代弁する預言者となったのです。
そしてキリストは「新しい契約」の仲介者であり、神の名を弟子たちに知らせたことを祈りの中で語っていました。
ですから、初期のキリストの弟子たちは神の名を知っていたことでしょう。つまり、神との契約の当事者が、契約の相手の名前を知らないということは考えられないからです。

そしてキリストと共になる弟子たちは、信者の中でも特別な『聖霊』を受けた人々で、彼らはその聖霊の指導を受けてイエスの死後であったにも関わらず新約聖書を著し、キリスト教を完成させています。
それはキリストが『真理の聖霊が来る時に、それがあなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。』と予告していたようにです。

イエスが地上から去って百年ほどの間には、このような聖霊を受けた人々が居たことを示す幾つもの歴史文献が存在していますが、やがて、これらの人々が少なくなり、居なくなってしまったことも同様に知られています。

それから千八百年ほどが経過しましたが、その間に初期のキリスト教徒のような聖霊を受けた奇跡を行う人は歴史上に現れません。しかし、聖書は一貫して「終末」という時代に注意を促しています。
つまり、キリストが再び来られ、この世が裁かれる時期のことです。
新約聖書は、「終末」に政治家たちの前で堂々とファラオの前のモーセのように、聖霊によって話すことになる人々の存在を告げています。しかし、そのような人々を歴史は未だに示していません。(マタイ10:18)

もちろん、聖霊が教えるのであれば、神の名を再び知らされるとしても何の不思議があるでしょうか。
その人々こそが『御名のための民』と呼ばれるべきでしょう。ですから、神の名の発音が失われたことは損失ではなく、その特別な人々を見分ける印を与える意義をもつことになります。

神の名[יהוה]が人類に読めないということは、今日神との契約に預かる人が居ないことを表していると言えます。ですから、神の名を誤読や推測に由来する別の名「エホヴァ」や「ヤハウェ」に置き換える必要はないでしょう。
というのも、それらは人を救う名とはならないでしょうし、実は神の名の省略形の発音だけはヘブライ語に残されているのです。それは「ヤハ」[יה]と呼ばれます。
「ハレルヤ」(神を讃えよ)の最後の「ヤ」の中にこの「ヤハ」が含まれていますから、これはキリスト教徒によってもずっと用いられてきたもので、今日のわたしたちが神の名[יהוה]を古来からの「ヤハ」と略式発音することだけは許されてきたのです。

神の名[יהוה]がこうして秘められたことは、終末の救いに備えて神聖さの内に秘めて置くところの、神『自らの栄光』ということができ、それは「終末の裁き」に関わる極めて貴重なものであることも人々は意識しなければならないでしょう。(イザヤ42:8)

その神聖な神の名が再び知らされるときには、キリスト以降、ずっと人間によって汚されたり、罵られたりすることなく天に保たれた名であることが明らかにされるのでしょう。(イザヤ48:11)
将来、その名を知ることは、その人の救いに関わることであり、それを知らせる聖霊を受ける人々は、非常に重要な知らせを神の名と共に世界にもたらすことになるでしょう。彼らこそが神『[יהוה]の証人』と呼ばれるべきなのです。

その時について聖書はこう預言しています。
『万軍のYHWH[יהוה]は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と悪を行う者とは、藁のようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して根も枝も残さない。
しかし我が名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼は癒す力を備えている。』(マラキ4:1-2)



.より詳しくは ⇒ 「神名浄化の至上命題
        ⇒ 「新約聖書の神名の扱いについて





9.神の選民イスラエル

2014.08.16 (Sat)
神の選民「イスラエル」

「自分は神との契約にある」と主張する人がいれば、それは周囲の人にとってけっして心地よいものではありません。
「神の選民」という言葉に何がしかの傲慢さを感じ取り、抵抗感を持つ人がいるとしても、それは自然な反応と言うべきでしょう。

特に今日のイスラエル共和国が、その強い武力を近隣の民族に向ける有様を見るにつけ、選民思想の弊害を感じる人々が多いとしても仕方のないことです。

選民思想はほとんどの場合に、その民に属する人々の優越感、また、それが流血をもたらした原因であったとしても、一方で、その選民の行うことへの正当化をもたらしてきました。

そして確かに聖書には、明らかに選民思想が存在し、しかも全編を貫いていることは間違いのないことです。
そこでは神の「契約」が介在していて、神との契約を結んだゆえに「イスラエル」は神の選民であるとされています。
ですが、新旧の聖書を概観し、歴史で実際に起った事からすると、今日のユダヤ人には契約も恩寵も、実は過去のものであることが明らかとなっているのです。

確かに、ユダヤ民族が神の選民であった時代は、神はユダヤ人と「律法」という法律を守ることを条件に契約を結び、それは『律法契約』と呼ばれました。しかし、その中では彼らがかつてエジプトの奴隷であったのであるから、異邦人を苛酷に扱ってはならないとされていたのです。この律法契約の時代は千年以上も続きましたが、神は、ユダヤ人たちが律法を守ったとは言いませんでした。
常に、律法を守らず、頑なで、神の意を汲まなかったのです。


イエス・キリストの世代が過ぎ去ると共に神の恩寵もユダヤ民族から去っていたことは、エルサレムに在った神の神殿がローマ軍によって徹底的に破壊されたところに明らかに表れています。

キリストはそれを予見して、次のように語っていました。
『エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために涙して言われた。「もしこの日に、お前(エルサレム)が平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
やがて時が来て、敵がお前の周りに堡塁を築き、すっかり取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいる子らを地にたたきつけ、お前の中の積石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の査察の時をわきまえなかったからなのだ。」』(ルカ19:41-44)

この言葉は西暦70年に語られた通りにエルサレムはローマ軍に攻囲され、そのとき以来二千年になろうとする今日まで、ユダヤ教徒は神殿を失ったままで、そのために旧約聖書の掟のすべてを守ることもできなくなり、その神の名が何というのかさえも忘れ去られてしまいました。
それでもユダヤ人は、自分たちは依然として神の選民であると信じようとし、上記のイエスの言葉も認めません。

むしろ、これらのことの起こった原因は、ユダヤの体制が神から遣わされたイエスをキリストとして受け容れずに、かえって処刑させてしまったところにあるのですが、それを指摘する新約聖書をユダヤ教徒は今日まで認めないのです。
ユダヤ教徒にとってのイエスは『ガリラヤの田舎の私生児で、魔術を行って人々を惑わしたが、ローマ総督ポンテオ・ピラトによって磔刑に処された』と、聖書ではない彼らが付け加えた経典「タルムード」で今日まで書かれている有様です。

そのように、ユダヤ教徒は旧約聖書の古い教えにこだわり、キリストが現れて、より進んだ新しい教えを説いたときに、イエスを極悪な背教者として退けました。ですから、ローマ総督に圧力をかけイエスを処刑させてから40年を経ずに、ユダヤの神殿は破壊されてしまい、やがてユダヤ人は祖国を失って流浪の民となってゆきました。

しかし、これで神の契約がまったく消えてしまったということではありません。
結論から言えば、神の契約はキリスト後にユダヤ人から諸国民へと移ってゆきました。それは「使徒」と呼ばれるキリストの直弟子たちが、当時の世界に向かって教えを広めたことで、キリスト教徒が現れたことを表しています。これら初期の弟子たちには『新しい契約』が神との間に結ばれました。

しかし、その一方で、ユダヤ人のほとんどはイエスを認めず、今まで通りのユダヤ教で満足してしまいましたから、『新しい契約』には乗り遅れてしまい。いまだに「律法契約」を続けようとしているのです。


では、神はどのように人間と契約を結び、また何のために、ある人々を契約の民、「神の選民」としてきたのかを探って、歴史を辿ってみましょう。
この問いが解けることで、「選民思想」の観方が変わってくるでしょう。なぜなら、その選民は人類の中にあって「公僕」のような働きを目的としていることを聖書は示すからです。

さて、「契約」というものには何かしらの目的があるものです。
そして、契約を結ぶからには、そこに約定されなければならない何かの不安定な事柄があるでしょう。
つまり、約束によって互いに守るべき務めを負うことになります。

聖書の中での神の選民の始まりも、神と一人の人物との約束からスタートしたものであり、それは歴史を遡ること四千年も前の中東メソポタミアでのことでした。

おそらく、その時代はシュメール人の最後の王朝であるウル第三王朝の末期であったことでしょう。
シュメール人とは世界最初の都市文明を築き、あの楔形文字の創始者とされている由来のはっきりしない混血民族でありました。

王朝のあったウルという都市の近くにアブラムという人物がその一族と共に住んでいましたが、このアブラムという人物には時折話しかける神があり、彼はその神に深い信仰を持ったのです。
その神はアブラムにまず次のような約束をします。

『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上のすべての民族は、あなたによって祝福されるだろう。』(創世記12:1-3)

この神の契約は、アブラムにどこであれ、またどれほど遠くとも、ウルから移住することを求めるものでした。
その目的は、アブラムの子孫が大きな民となり、その民によって地上のすべての民が祝福されるというものであったことを創世記は伝えています。

この約定は後に「アブラハム契約」となり、アブラムが神の示した土地、現在「パレスティナ」と呼ばれる地域に住むようになると、神はアブラムの名を「アブラハム」(多くの民の父)と変えさせます。(創世記15:18-21/17:5)
アブラハムには子がいませんでしたが、彼が移住を果たして後に妻の奇跡の超高齢出産をもって、イサクという独り子が与えられ、そのイサクはやがて二人の息子の父となり、兄はエドム民族、弟はイスラエル民族の父祖となります。(25:25-34)

この弟ヤコヴは祖父アブラハムからの神の契約を高く評価しましたが、兄はその価値観をまるで表しませんでしたので、弟は契約の継承権を無頓着な兄から奪います。(27:24-38)
そればかりか、この弟ヤコヴは誰かを祝福に行く途中の天使を見つけると『私を祝福するまでは行かせません』と言って、一晩中出かけようとする天使と格闘を続けました。
遂に天使は、彼に「イスラエル」(神を圧倒する者)という名を与えることになり、彼の十二人の息子を中心に形成された民族の名称となってゆきます。

この民族は、エジプトで奴隷にされていましたが、神はアブラハムへの契約のゆえに、この民を約束の地パレスティナに携えることを決意し、モーセをこの大事業のために預言者として選びます。
エジプトのファラオは奴隷を失うことを望まず、モーセを通して神の奇跡が十度示されて後にようやくイスラエルの解放を認めますが、すぐに思いを翻しエジプト軍を率いて連れ戻しに向かいます。
こうして、紅海の水が二つの分かれ逃げ道となってイスラエルを救い、その後を追ったエジプト軍を呑み込むという神の奇跡を呼び込むことになりました。

それからイスラエル民族はシナイ山のふもとに集められ、民族として神との契約関係に入ることになります。
モーセは神とイスラエルの仲介者となって両者をとりもち、牛の血が注がれて、その契約が結ばれます。
その契約とは、イスラエルが神の与える掟である「律法」(りっぽう)を守るなら、イスラエルは『王なる祭司、聖なる国民』となり、神の『特別に所有する民』と成る、というものでした。(出エジプト19:5-6)

つまり、そこではアブラハムへの契約に含まれた『地上のすべての民族は、あなたによって祝福される』との内容が、モーセのときに「『王なる祭司』の聖なる国民」と、より具体的に示されます。

その後、イスラエルは約束の地に入り、神から与えられた掟である「律法」を履行する義務が正式に生じます。その律法の最初の十か条は「十戒」と呼ばれ、人手によらず二枚の石板に刻まれたもので、それは「契約の箱」と呼ばれる金で覆われた箱の中に収納され、以後、この箱は『契約の証し』とされます。

しかしイスラエルは、祝福を強く求めたその父祖の名のようには神との契約を重視せず、また律法を守らず、異教の神を崇拝するまでになり、遂に神はイスラエルを処罰するために、アッシリアとバビロニアの強大な帝国に占領させ、それぞれ強制移住させますが、特にユダ族を中心に移住させられたバビロン捕囚のときに、「契約の箱」は消失してしまい、遂に今日までも戻ることはありませんでした。

しかし、神はその処罰を行う前に、預言者を通して『新しい契約』を締結することを知らせていました。
加えて、「メシア」というイスラエルを比類のない強大な国家とする王についても予告していたので、捕囚となって以来、人の住まない荒野となっていたパレスティナに帰った民は、これらの新たな希望を待って過ごすようになります。

ここまでが旧約聖書の内容に含まれる契約のあらましで、やがて「ユダヤ人」とも呼ばれるようになっていたイスラエルの民の間に、予告されていた「メシア」が現れます。「メシア」とはギリシア語を基準にして言えば「キリスト」となります。

アブラハムから二千年もの歳月の後、ナザレ村出身のイエスが現れます。つまり、今日最も知られたイエス・キリストであり、驚くベき奇跡を行ってパレスティナを巡ります。
そしてこの人物は『神の王国は近付いた』とユダヤ人に宣告します。
つまりそれは、アブラハムに約束された『地上のすべての民族は、あなたによって祝福される』というその子孫が受ける特権、またモーセを通して示された諸国の人々に対して『王なる祭司、聖なる国民』となるという、その人類の祝福となる「王国」の実現が、このメシア=キリストによって『近付いた』ということを意味します。

モーセは『あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。』(申命記18:15)と予告していましたが、モーセのようにイスラエルに画期的な変化をもたらした預言者はその後出ていませんでした。
しかし、キリストはイスラエルに『新しい契約』をもたらそうとしていました。それはまさしくイエスがモーセ以上に偉大な預言者であった証しです。

その契約は牛の血ではなく、キリスト自身の血の犠牲に基づいて発効するものでしたから、キリスト自身が地上に生きている間にはこの契約は始まりませんでしたが、キリストの死と復活を経て五十日後の「五旬節」(ペンテコステ)のユダヤの祭りの日に、『新しい契約』がキリストの血によって発効し始めました。

その日、エルサレムに片隅に集まっていた120人という少数のイエスの弟子の上に奇跡を起こす権威を授ける『聖霊』が与えられ、その人々は学んだことの無い諸国の言語で神について話し始めます。
祭りに集まって来ていた諸国からのユダヤ人はそれに驚き、キリストに信仰を持つようになります。
イエスをメシアであると信じたユダヤ人が、水のバプテスマを受けると同じように聖霊を与えられてゆきます。

しかし、ユダヤ人の体制派や大半の人々は聖霊による数々の奇跡を見てもキリストの現れに信仰を持つことはなく、血統上のイスラエル民族の多くはこの『新しい契約』に入れませんでした。
そこで神は、本当の意味での「アブラハムの子孫」を単に血統上のイスラエルから集めることを止め、アブラハムのような信仰を持つ人を真の「アブラハムの子孫」と見做して、『新しい契約』に入る機会をユダヤ人以外の諸国の人々にも開いてゆきます。

そのため新約聖書の使徒言行録は、『新しい契約』がどのようにユダヤ人から世界へと広げられて行ったかの実例が描かれていて、まったくの非ユダヤ人で『新しい契約』に与った第一号がローマ士官コルネリウスとその親族友人であったところからはじめて、多くの諸国の人々が聖霊を注がれて『新しい契約』に入ったことを知ることができるのです。

対して、ユダヤ人はナザレから来たイエスをメシア=キリストとは認めず、今日いまだに律法を行うことで神の選民になることを目指して頑固に「律法」を守ろうとしています。
ですから、ユダヤ教徒は新約聖書を読まず認めず、『新しい契約』もメシアもまだ現れていないという立場のまま二千年をも過ごしてきました。

ですが、キリストの使徒ペテロは、当時の諸国のキリスト教徒について次のように言っています。
『あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。』(ペテロ第一2:9)
これはまさしく、モーセを介してイスラエルが律法契約を結んだときの言葉そのものです。
そこで『新しい契約』が『律法契約』でのユダヤ人の失敗を補う働きをするものであることが示されています。

そして、確かに新約聖書はキリストの犠牲と仲介によって『新しい契約』が発効されたことを書き記しており、それは遠い昔にアブラハムに約束された彼の子孫によって、地上のすべての民が祝福されるという約束が大きな進展を見て、血統によらず信仰によるアブラハムの子孫が、バプテスマの水と聖霊の注ぎによって『産み出された』ことを証ししているのです。(ヨハネ3:3-5)

その『新しい契約』の目的は、聖霊を注がれた人々が神とキリストへの忠誠を全うした生涯を送ることによって、全人類の陥っている苦境から救い、キリストと共に、創造者である神と和解させ永遠の命を得させるために、人類が背負っている「罪」という倫理上の欠陥を取り除く『贖罪』(しょくざい)を行う「祭司」の一人と成ることを可能にするものです。

律法契約の時代、つまり旧約時代には、その契約の目的はここまで精密に明かされていませんでした。しかし神は、聖霊を与えた初期キリスト教徒の人々に『新しい契約』に関する事柄を教えたので、アブラハム以来の悠久の時を経てその契約の『奥義』は漸進的に明かされ、遂にキリストの死後に聖霊を通して神の契約の全容が知らされるところとなり、それが新約聖書に記されるに至ったのです。

このような契約の概念が存在することそのものが奇跡のようです。
というのも、聖書を記してきたユダヤ人さえも、その奥義全体の意味するところを知らずにアブラハム以来数千年の時を過ごしてきたのであり、その間神はその意図をしだいに明らかにしてきたということを新旧の聖書記述そのものが証ししているからですから、これはとても人間にできることではなく、聖書が書かれるよう導いた背後の永遠の存在「神」なくしては考えられません。

こうしてみると、神の選民というものの本来の目的は、単なる選民思想のように特定の民族や人種に優越感をもたらし、周囲の民族を排除圧迫し武力行使まで行う傲慢な言い訳とは無縁であることが分かります。
むしろ、地上のすべての民の祝福のために神が用いるための「神の選民」であり、この概念はしばしば誤解され、曲解され、悪用もされているものとなっています。

ですが、今日のように聖霊を注がれイエスのような奇跡の賜物を持つ人がどこにも居ない以上、誰も「神の選民」であると唱えることはできません。

しかし、神はこの選民『神のイスラエル』を再び、そして聖霊を与えることで再出現させ、この世から人類を救い、奴隷のように苦難の一生という虚しい生き方から逃れることのできない人類を導き出す希望となる日が来ます。
それは聖書が『末の日』と呼ぶ世の終末に起こることであり、そのとき神はキリストの使徒たちの時代のように『神のイスラエル』を諸国から集め出すと予告しています。

こうして『神の王国』に属する『聖なる民』『選ばれた民族』が全集合する時代となり、人類は今日まで背負ってきた『罪』の重荷を下ろし、神の創造物としての栄光を回復することになるのですが、それは終末という『苦難のとき』に起こる事とされています。

そのとき、聖なる民は『神の王国』が実現し、キリストが世界を治めて信仰ある人々を「罪」から救い、「この世」を終わらせる時が来たことを政治家たちに宣告します。この聖霊による発言は世界を揺るがし、人類は信仰をもつ人と、そうしない人に分けられます。(マタイ10:17-20/ハガイ2:6-7)
そして神は、信仰働かせる人々を欲得で出来た「この世」から救い出し、人類が経験したことのないアガペーという「愛」に基づく栄光ある支配、つまり『神の王国』の下に導き入れることになるでしょう。(黙示録21:4)

これらが聖書の旧約と新約とを貫通する神のご意志であり、それを成就するための器が「神の選民」であったのです。
これは新約と旧約の双方の聖書を理解して初めて到達できる理解ですが、旧約だけに拘るユダヤ人はもちろん、新約聖書を持つクリスチャンの大半もこの理解に到達できず、キリストが自分の中に住んでくれるというご利益信仰の選民思想に堕ちてしまっていることはたいへん残念なことです。

しかし、神の契約と選民の働きについて、そこに類い稀な価値を感じる人は幸いです。
その人は、どんな人間の儚い希望でも不確かな計画でもなく、永遠に生きる創造の神の意図する計画に沿って自らを協働させることができるからです。
この歴史に一貫して示された神の善意ある主題が、人間の思惑を超え、数千年に亘って聖書に記され続けてきたことを考えるなら、それはけっして虚しく終わらないに違いないのです。

ですから、パウロも言うように、人々は『聖なる者』という『神の子ら』を『切なる思いで待ち望む』のです。
神の選民は、聖霊を受けて再びいつか現れることが、人類の救いと祝福となるからです。



8.「この世」というもの

2014.07.26 (Sat)
「この世」というもの


わたしたちは、自分たちの住む「この世」というものに生まれたままに暮らしています。
ですから、「この世」とは「そうしたもの」と思い、何とか適応して生きようとするのがふつうのことです。

人はよほどの虐待を受けるのでもない限り、生まれて来たことを喜びます。
この世界には興味尽きない多様なものがあり、人間はそれをほかのどんな動物よりも享受する感覚も能力も備えています。

人間は互いに協調して働き、知恵を出し合い、文化にしても科学の応用にしても、この世界から優れたものを得ていて、それらは生活を一層興味深く、豊かなもの、意義深い価値あるものともしています。

そして、人間の身体そのものも生きようとしており、その働きには驚異的な仕組みがあることも知られるようになってきました。
それほどに優れた人間ですが、わたしたちの生きる世界としての「この世」という言葉には、それらの良いところだけではない、ほろ苦いペーソス漂う味わいが往々にして込められてきました。

さて、聖書では特に新約聖書において「この世」という言葉が数多く出てきます。
旧約で数少なく現れる「この世」と訳される句は、人が地上に生きている現実を意味しますが、新約での「この世」は、ギリシア語で「コスモス」という単語で、より深い意味合いを持っています。
これは英語では「宇宙」を指し、秩序立った調和の内に配列された世界を表してもいます。(反語にギリシア語「カオス」(混沌)があります)

「この世」について、ほとんどの人々がその意味を考えると、「人々によって構成される社会」のことを指し、そこには一抹の「虚しさ」を意識することでしょう。そして、やはりギリシア語の「コスモス」には「空虚」という意味も含まれています。

人は生まれて以来、この世の中で育ちつつ社会の掟を学び、体力や能力を、また様々な忍耐力を振り絞って生業に従事し、あるいは失業し、職に就くことにさえ多大の精力を傾注し、自己所有の家を持つことが男の一生の夢ともされ、結婚を通しては家族を設ける幸せを味わいつつも何かと家庭問題に直面し、子供も成長して去った後には、幾らかの楽しみが有っても、老化などの身体の不具合と闘いに努めてゆくうちに、やがては誰もが寿命を迎えなくてはなりません。

これが一般的な「人生」と呼ばれるものなのでしょう。
ですが、このような人生もまだ良い方かも知れず、悲惨な一生を送らねばならなかった人々も「この世」に数知れぬほど存在したのであり、今日もまた、悲痛の声を上げる境遇にある人々も少なくはありません。国家的圧制もあれば、社会の片隅でのいじめや家庭内虐待、過剰労働や対人関係から心のうめきの中に忍従している人々も少なくは無いに違いありません。

社会不適応やうつ病の増加は、21世紀の今日、人間は幸福に向かって進んでいるわけではなく、常に問題を抱えてきたばかりか、人の心理までをも蝕む社会というものは、事態がいよいよ複雑化している象徴なのでしょう。

これに加えて、避けられない広範な危機の拡大についても警鐘が打ち鳴らされています。
世界は自然破壊、人口過剰と食料の偏在、方や人口減少による経済危機や構造変化による就職難と貧困、場を弁えないテロや隠れたサイバー攻撃など、全球に関わる災厄が先鋭化されつつある事態に直面しており、国や地方や民族という単位で闘争や災害や経済変動に巻き込まれる社会的危険も常にあり、世界は武力の関わる紛争の列挙に事欠くことがありません。
それに大地震や津波、異常気象による予告ない旱魃と洪水、巨大台風や猛烈な竜巻などをも加えなければならなくなっています。

これらは、生活を一時に急変させ、人々のささやかな幸福さえも根こそぎにしてきましたし、誰もが今もその危機と隣り合わせにされています。
ある人々は人間の過剰な生産活動のツケが回ってきたと考えます。
経済学者は、生産によって環境負荷に対するコストを人類は払って来なかったと説き、それを「影の経費」としています。

しかも、環境の解決に要するコストは膨大で人類が支払い切るのも難しいと言われます。
つまり、人類は勝手に振る舞いつつ、大自然に対する負債が大きくなりすぎて、すでに破産状態にあるのかも知れないということです。

そのうえ、地球環境の維持を真剣に試みるには、直ちに世界中の人々の一致を求めるものですが、諸国の我欲はそれを困難にしており、その時も失われ機会の扉も閉じられつつあるというのは、よく見聞きする通りです。

こうしたマクロ状況にある「この世」で、個々の人々の生活にも相変わらず様々な困難が降りかかります。
では、個人が「この世」に生きる意味とは何でしょうか?

芥川龍之介が「侏儒の言葉」の中で、「我々は母の胎内で人生に処する道を学んで生まれてくるわけではないので、水泳を習ったことのない者がいきなりに水泳競技に参加する狂人の主催になるオリンピックがあるとすれば、それは我々に課された人生そのものであり、我々は生まれるや否や、人生と戦う中で傷を負いつつ戦い方を学んで行かねばならない」と書いて、世というものの理不尽さを指摘しているように、人には「この世」を上手く生きる方法というものがなかなか手に入りません。

そこでは占いや、厄除けといった人知を超える導きを与えると称する仕事が常に存在もできた理由があります。
また、人々は生きる意義を問い尋ねて、宗教に向かい、その答えを得ようとしてきました。
ゴータマ・ブッダは、生命が終わってもこの世に繰り返し生まれてくる「輪廻転生」というバラモン教の教えを発展させて、苦難溢れる世に繰り返し生まれることを永遠に止めることを最高の目的とし、これを「涅槃」(ニールヴァーナ)と呼びました。
やはり、この世は究極的に生きるに値しないというのが、この賢人の結論であったのです。

イスラム教では、この世での生き方次第で天国にも地獄にも行くことになります。
つまり、この世を生きるとは「試験」のようなものと説かれます。
このように教える宗教は非常に多く、仏教の中にも今日のキリスト教の大半にも、この教えは広くみられるものとなっています。
人生とは一時的な務めであり、試練の場であるという説得には、この世の辛苦を思うときに納得させられるようなところもあるのでしょう。

ですが、こうして宗教界を見回すと、その多くが、「この世」というものに人生に満足をもたらすものと観ていないことでは一致しているのに気付くことになります。
しかし、「この世」が人々にとってこれほどまでに住み易くないのは何故でしょう。

この点で、聖書での「この世」はどのようにものに描かれているかと言えば、この世界を創造した創造者の意図から外れてしまっていることが明らかにされます。
神は創造の業を終えて、そのすべてを眺め「たいへん良い」と言われたと創世記にあります。ですが後のソロモンは『すべては空しい。太陽の下、人は労苦するがすべての労苦も何になろう』と述べます。

つまり、世界は初めから今の世の中のようには造られていないので、確かにわたしたちの社会の現状が「生きるに値しない」とされるとしても、その指摘も的外れではないかも知れません。

聖書から見る世界は、本来の在るべき姿から「逸脱している」のであって、人間がどう生きるかを「試験」する場として造られたわけではないのです。
さらに、「この世」というものが、「神から離れたもの」、「神との敵対関係」にさえあり、「罪の赦し」と「救いを必要とするもの」であると明かします。そこに「神の導き」のようなものはなく、ただ法則が支配する自動化された自然があるばかりです。

それでも人々は「神」などの「上なる者」の導きや善意を乞い求めて多様な宗教を興してきました。
しかし、創造の神が最初に人間に与えた境遇は「エデン」と呼ばれる場所の東に設けられた楽園でありました。「エデン」とは「楽しみ」を意味します。
創世記によれば、神は天地を創造した後に人を創り、これを楽しませる意図をもっていたことが語られます。

しかし、最初の人間アダムは、この神の愛顧に答えず、創造者の意図から離れてしまったことが次いで語られています。
それは自らを存在させた創造者を愛さずに生きてゆくということを選択したことになり、これはまったく不義なことでしたから、以後、人間は倫理的に欠陥をもった存在となってしまいました。この倫理上の欠陥を聖書は「罪」(ハマルティア)と呼んでいます。

人間が負うことになったこの倫理上の欠陥は、第一に神との絆が断たれたところから始まりましたので、この「罪」は神と人との間を隔てる壁のようになっていて、現在も神と人には越え難い境界線が引かれています。実に聖書は『この世の神』とは創造者ではなく『邪悪な者』すなわち『サタン』であることを記してもいるのです。(ヨハネ第一5:19)

その支配の結果として、人間には寿命が定められ、誰もが必ず死を迎えねばなりません。聖書には『罪の酬いは死』とあります。
この「罪」はアダムによって人類全体に広がりましたので、今日まで人間が利己的で貪欲であり、常に争い続けたことが歴史に深く刻み込まれてきました。「罪」は明らかに「この世」を覆ってきましたし、現に今もそうです。

この状況下では、基本的に「罪」を負ったわたしたち人間には、互いをも警戒しなければならない理由が存在しています。
つまり、他者の貪欲の犠牲にならないようにしなければなりません。
もちろん、身近な人々に善を行えないわけではないのですが、そのような人であっても、常にすべての人に善を行うとは言えません。

端的に言って、わたしたちは奪い合いの世界に住んでいます。
これはたいへんに危険がありますから、人々はそれぞれの貪欲を調停し、抑制する方法というものを、どこの社会でも作り上げてきました。この「貪欲の調停」が「政治」というものの本質的役割です。

人間は、行って良い事と、行ってはいけない事を決めないと、互いに生きて行くことができません。つまり『善悪を知る』ということです。
そこで、人々が横暴に振る舞うことを抑えるための「法」を定め、これに違反する者が出れば、強制してその行いを制御します。
そのため社会の何者にも勝る強制する力がどうしても要るので、非常に強い暴力を用いる組織を持たねばなりません。

この強制力は、社会の内側に対するものを「警察力」と呼び、社会の外に対するものを「軍事力」と呼びます。これらの強制力である暴力が政治というものが存立する絶対的な条件となっているのです。やはり人間は罪人なのでしょう。

これらの権力を社会が失った場合、それは恐ろしいことになります。つまり、人間相互の貪欲の無規制、弱肉強食の危険だらけの「カオス」状態に落ち込んでしまい、世の中はジャングルのように歩くのも危険なところとなってしまいます。
そこでわたしたちの社会「この世」(コスモス)を再考すると、何と!、人と人との間は、強制力である国家権力という「暴力で出来た垣根」で仕切られているのです。

この「垣根」の存在は、あたかも牢屋のようにもなり、そこで人々は「法」という看守に見守られつつ、小さな自由を得ています。
なぜなら、人々が互いを害さないためで、その原因は人間の持つ倫理的欠陥である「罪」にあるからです。

その「罪」は貪欲を介して害悪を行いますが、これは日常的なものとなってさえいます。
例えれば、わたしたちが買い物をするのに通貨またはそれに准じるものを必要とします。
国家なりの政府は、通貨を発行して流通させることにより、商品や財の価値基準を設けます。それを通して個人の満たされる願望の範囲を規制するという目的がそこにあります。
ですが、通貨の流通が作り出す市場経済は、結果的に公平と言えるようなものではありません。

そうでなければ、世界中で見られる富の激しい偏在は説明がつきません。それはむしろ貪欲による果てしない競争を行わせる場となっています。人は互いの貪欲のためにこの世では奴隷にされ兼ねません。いや、ほとんどの人々は何らかの搾取を受けているというのが実際でしょう。

「通貨」という人々の欲望を規制する制度によっても争いが尽きないことは余りにも明白で、それはわたしたちの買い物での価格のせめぎ合いの中でも生じていることであり、また、そのような競争が無いところでは、誰かの貪欲がはびこってしまうので、価格の攻防を誰も止めることができません。これが「価格の適正化」を促すというのです。そこで破産や倒産、それに伴う失業が数知れず起こったとしてもです。

その争いの中では、弱い立場にある人々ほど生活に困窮するほどの苦境に落とされてしまいます。為政者はその弱者にも区別なく間接税の重荷を負わせます。実に貨幣制度は、多数の弱者を作り出し、死にも至らすことが往々にして起こるものです。

強い者も他の強い者に常に対抗していないと、とてつもない敗北を被ることになるかも知れず、弱者から搾り取ることを余儀なくされても、それを抑制するだけの心の動機はまずありません。 あからさまな奴隷制度は歴史の舞台から去っても、「生かさず殺さず」という搾取の実態は依然として目の前にあるということなのでしょう。

その一方で、職にさえありつけない人々、生活の糧を得る手立てのない人々にセーフティ・ネットが有る国でも、様々な制約を課さねば悪用される危険があって、それが十全には機能せず、その助けを受けられずに自死に追い込まれたり、治療を充分に受けられず寿命を早めることも現実に起こっています。せっかくに設けられた助けも、大きな社会悪に対しては「対症療法」に過ぎないのでしょうか。確かに、この社会は貪欲の争いによって動いてはいても、個人の福祉を顧みることを主要な目的としてはいません。

このような世の中の仕組みについて、古典的経済学の父アダム=スミスは、「人々の欲が経済を活性化させ、それが巡り巡って社会全体を豊かにする」と主張しました。更に、自然界は人間の経済活動を今後もずっと数百年は許容できると考えました。 おそらく十八世紀にはそのように観察されたのでしょう。

ですが、もはや地球環境が壊れていることを示すサインは世界中に顕著にみられているのではありませんか?利益の多くは一部の人々が占有するものとはなっていませんか?
それにも関わらず、人類はこの歩みを止めることができません。
そこに増え続ける総人口が、貪欲を懐いて更なる豊かさを求めるこの世界は限界を迎えつつあると言っても過言ではないでしょう。

もちろん、これが創造者の意図した世界ではあるはずもなく、この世に神の支配が行われているわけでもありません。この世の苦しみは人間の持つ「罪」が行った害悪に他ならず、創造者を意に介さないことにおいて、今や人間の作り出した「この世」のシステムの害が頂点に達しようとしているかのようです。

この状況にあって、宗教は無力に近い状態にあります。宗教も宗派同士も「自分たちの正義」を唱えて対立し牽制しあっており、それぞれの信者だけの安寧を教えて、社会全体の抱える問題には何ら有効的な教えを持ち合わせてはいません。精々がボランティアを自慢するレベルにあります。

他方、「この世」は、過去の人々が嘆息して述べた「虚しさ」を越えてしまい、いよいよ「破局」の様子を見せていると言うべきでしょう。聖書では『神の象り』とされる人も、社会のなかの個人というものは、嵐の中の一葉のようでしかありません。

ソロモンは三千年も前に『人が人を支配して、これに害を与える』と指摘しています。(伝道8:9)
ですが、神は「この世」を憐れんで放置されず、既に二千年も前に人類救済の手段を具体的に準備されました。

それが『神の王国』と呼ばれる神の支配であり、その支配者は「罪」ある人間ではなく、『神と人との仲介者』となったイエス・キリストであることを聖書は知らせています。

あの、弱き者らに寄り添い、傲慢な者を譴責し、遂には自らを犠牲として人の『罪』の贖いに捧げた方イエスを王として迎える『神の王国』を通して、人類の「罪」が許される道を拓き、人類の神への復帰を助ける務めを果たさせるのが神の意志であるというのです。

この犠牲について聖書にはこうあります。
『神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅ぶことなく、永遠の命を得るために。』(ヨハネ3:16)
虚しく非情な破局に向かう「この世」から脱出することは人間自身に出来ることではありません。人類全体はこの窮地から自力ではけっして逃れられないでしょう。その身に負っている「罪」の重さがそれを許さないからです。

ですが、聖書に目を向けるとき
この世に在っても、「罪」からの解放という一本の希望の光が差し込んでいることを理解できるのです。

この「光」は旧約聖書では『諸国民の光』また新約聖書では『世の光』と呼ばれました。
これらは共に『神の王国』のもたらす人類救済を指しています。これが多くの教会で「天国」という仏教の「極楽」のような個人の救いに誤解されてしまっているのは、まったく残念なことです。

「この世」を動かしてきたものが「貪欲」であったなら、『神の王国』の社会を動かすものは「アガペー」と呼ばれる「愛」となります。それが人間が本来抱くべき行動原理です。
「この世」の原則は「他人のためには働かない」というものですが、『神の王国』では『自分を愛するように他者を愛する』ことに置き換えられます。つまり、『罪』の反対側に『愛』があり、この『愛』こそアダムが神に示さなかった特質でありました。

これは「この世の精神」とは百八十度の変化といえるでしょう。「アガペー」と呼ばれる「愛」は「敵をも愛する」ほどに強いもので、これをイエスは「この世」で最期まで体現されました。

人々の貪欲を外からの強制力によって抑制するこの世の「法」のシステムは、キリストによって、「愛の掟」という自発的な個人の内面の規律に置き換えられます。これを聖書は『贖罪』と呼びますが、つまり『罪』をキリストの罪のない犠牲という代価をもって許すことです。それは人間の行えるようなものではありません。どんな社会変革も人に幸福をもたらさないのは当然でしょう。

この世では人々の貪欲が法の網をすり抜けようとするので、法に法が加えられてゆきますが、「愛の掟」は『神と人を愛せよ』という極めてシンプルに、ただ一条あるだけです。しかし、そこで人々は規則に頼らず、自らを省みる必要が生じることになります。自分の貪欲を遂げようとして虎視眈々とするような「この世」の人はそこにいません。

また、創造者への配慮は、与えられた大自然を管理するという人間本来の務めを怠らせることなく、世界はひとつの政府の下に一致してことに当たることができますし、アダムの堕罪以降の『地の呪い』も解けて自然界も息を吹き返し、大災害を見ることもなくなってゆくことでしょう。その自然の美しさは、今日には想像もつかないほどのものなのでしょう。

また、『動揺する海の波』のような今日の市場経済も過去のものとなるので、富の偏在や大不況、また奴隷的雇用にうめくようなこともないでしょう。もとより規制されるべき貪欲が影をひそめるなら、人々の貪欲を調整するための「通貨」というものの必要性さえ失われてゆくことは間違いがありません。他者の幸福を自らのものと捉えるからです。(イザヤ57:20)

イエスは当時のローマ帝国の総督に向かって『わたしの王国はこの世のものではありません。もし、そのようなものであったなら、弟子たちはわたしを捕縛させまいとしてユダヤ人と闘ったことでしょう』と言明しました。

この言葉が示すように、「この世」のものでない『神の王国』では、貪欲を去った人々に暴力の垣根を必要としなくなるでしょう。「罪」から洗われ愛によって生きる人々に警察や軍隊の必要が無いことは充分に信じる理由があります。

新約聖書は『愛は隣人に害を行わないので、愛は法を全うするものなのです』と述べます。
ですから『神の王国』においては、法規制への外面的隷従を去って、「愛の掟」により自発的規制の自由な世界となることでしょう。倫理性を体現した人々であれば、「裁き」というものを恐れる必要もないでしょう。

この『神の王国』が、キリストが「この世」に現れて伝道した教えの主題となっていたものであり、福音書にはこの『王国』について語るイエスの姿が随所に見られます。彼こそが、その王国の支配者となるべき方であったのです。
聖書はキリストについて『この方に希望を置くものは誰も失望させられない』と述べています。

この世というものは、人々がアガペーの愛によって生きることを許さない構造をもってはいます。
それでも、あなたにとっても『神の王国』に深い価値を見い出されるのでしたら、今からでも、神と人を愛し、自らを律する精神を持つように出来得る限りに努めることはできます。 行えることに限界があるのはどうにも仕方ありませんが、それでもキリストを見習うことになり、『神の王国』を待ち望んでいることになるのです。それがキリスト教の信仰となるでしょう。(ヨハネ13:34-35)







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