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エホバの証人の差別化による義

2016.11.16 (Wed)

エホバの証人は自分たちの行動の良し悪しが神の名声に関わると考えています。
自分たちが行動に於いて周囲の人々と異なっている事が救われる証しであると信じているので、他の人にもその行動様式を守らせる事、つまるところそれが伝道の目的になっています。

その口実として、つまりはそれが御名に関係していると主張し「エホバ」と名付けた聖書の神を、その名を称えてこの世に対して代表しているということです。
しかし、そもそも神の名声とは本当に彼らの行動に左右されるものでしょうか?
もし、そうなら聖書が予告するように終末で神の名が高く上げらるというのは、証人の行状無しには起こらないことになるでしょう。

しかし、そうではないことは証人自身も知っているはずですが、「神を代表する」という意識を教えられているので、自分たちの「新しい人格」を身につけたための「清い行状」が自らを救うだけでなく、人々を引き寄せ、それが延いては神の御名を高めると信じているのです。

ですが、これは他の人々に同じくアダムの罪を陥っているにも関わらず、義人の仮面をかぶることになり、実際の倫理性では他の人々と変わらないところを、一定の道徳律を守ることで神の是認を受けていると妄想するものです。
実は同じ「罪の状態」にあるにも関わらず、救われる証人と、滅ぼされる世の人という、二つの区別が生じ、レッスン生や未信の家族はその中間を占めることになるのでしょう。一度信者となって離れた人々には教団全体はもちろん、家族、親戚、友人であっても無視するという制裁が加えられ、そこで差別化も極まります。これを余りに異様な事と感じられるかも知れませんが、「エホバの証人 忌避」でネット検索するなら、無数の実害を見ることになるでしょう。

また、証人だけが神の是認を得て救われる理由というのは、輸血を含む悪行を避け伝道という善行に努めることでキリストの兄弟とされる油注がれた仲間を助けることになり、それが彼ら自身の義の根拠ともなって、それがハルマゲドンで滅ぼされない条件であると日々繰り返し教え込まれているからでしょう。しかし、本当にその行動規準による「義」が永遠の命をもたらすところなのでしょうか。(『ハルマゲドン』とは本来そのような最終的な滅びを意味しません)

もちろん、このような質問について考えることすらエホバの証人であれば避けることでしょう。永遠の命が脅かされているとばかりに洗脳教育されているからで、実際には『なにが義であるかを自分では考えない』ので、信頼できそうな権威をふりかざす他人の矛盾した信仰に言うなりになることを通し、神を「滅ぼす方」としてしまい、実は内心怯えつつ神を意図せずにも「恐ろしい方」として暗に非難しているのです。
証人は、その教えによって神WHWHに滅ぼす役割を与え、他方で組織が救いの箱船であるという印象操作を間断なく行い、多くの人々に神を恐れさせて取り込み、救いを与える組織信仰に頼らせてきました。
そこで、中途半端に聖書に従うその独自の道徳規準は、実際には人々が神よりも「組織」に頼り、惜しみなく支持し、片時も忘れることのないよう巧妙に仕組まれたものになっています。彼らの言う「霊的ライフライン」とは、その依存性が薄れないための思考操作の事を言う言葉となっています。

神の裁きから救い出してくれるのが「組織」であり、「組織」と結びついているならこの世の滅びから救われるというので、つきつめると頼るべきは「組織」の方です。そこで頼ってきた人々に好き放題、恣意的な支配を行う喜びを指導層も各集りの長老たちも隠して来なかったようであり、これらの人々が主なトラブルメーカーとなって、信者に多くの迷惑をかけてもきたわけです。
ですが、それが正しい「神への怖れ」でないことは、集団の表面を道徳的に取り繕うにしても、それが生み出す実によって明らかです。

しかし、どれほど善人を装うとしても、内実はキリストの贖いを必要とする『罪人』なのであり、証人の架空の「義」は信者に間断のないストレスと、悪行を揉み消す誘因とを与え続けるものともなっていますが、それが神からの是認の実感を得させるものとされてしまっています。
その先にあるものと云えば、行状による周囲への偽善的優越感、または、一定の基準に達しない時の劣等感などから精神を病むことのふたつの害であり、これらは実際に特徴的にこの団体の中に観られるところなのです。
しかし、人間というものは、エホバの証人が思う以上にナイーブで傷つきやすいということなのでしょう。人間というものの実態を無視した命欲しさからの人間の単純化が横行しているのがこの集団の特徴です。それは信者である人には苛酷であり、組織上層にとって旨味があるところは正体を隠した奴隷制度というべきでしょう。

エホバの証人の道徳的な外見は、一見するところでは外部の人々からは誠実で親切に見え、社会の模範でもあるような団体に入信する人々は魅力を感じて引き寄せられるのでしょう。
品行方正で組織を宣伝していれば神の前に「義」と見做されるというのは余りに短絡的に「アダムの罪」を軽く見ているだけでなく、周囲の人々にたいして傲慢というべきでしょう。

彼らの義の外見は造られたもの、「イミテーション」であり、人間の努力の範囲に留まる「この世に通用する義」であって、それが神の前に「救い」をもたらすわけではありません。それはパリサイ派が陥った罠であり、エホバの証人は聖書に描かれたその偽善にわざわざ自分たちから落ち込んで、悦に入っているのです。どうしてそのようなことで神の御名が高められるものでしょうか。

では、御名の清めが証人の善良さに依存しないとすれば、それまでの間に証人がその行状によって神の名を汚さないようにするというのは、神のためであるのでしょうか?

いえ、証人たちの自己救済の正当化のためという以外に答えもないでしょう。
もしそうでないなら、神の御名の聖さは証人に依存していることになってしまいます。
その理屈でゆけば、証人は裁きを許され、既に神を代表していることになり、聖霊も注がれていない罪ある只の人が「自分は聖い」と主張していることになるのです。

ですが、神の御名を清めるのは神自身であるという、このあたりの証人たちの意識ははっきりとはしていないのが実情らしく、その原因といえば、彼らが「この世の終りを生き残る」という刹那的な事を信仰の目的としてしまい、聖書を保身の方向から読むので、神の意志を探るよりは、自分たちが生き残りたいので、人々の間で決め付けを行って、自分たちだけは救われることにしたいからです。
ですが、それは神への願望の押し付けであり、神がパリサイ人の独善を不快に思われていたのなら、エホバの証人についても同様に感じられはしないでしょうか。
それは偽善であり、その道徳性の動機は自己保存の願望にあります。もし、この精神を持ってキリストの時代に生きていたらパリサイ派か律法学者に喜んでなっていたことでしょう。

ですから、むしろ彼らの外の「世にも善い人は居る」、またエホバの証人であっても「個性の強い人」という表現によって倫理性に問題のあるメンバーを認めざるを得ないのが彼らの正直な感想であるでしょう。エホバの証人になったからと言って、神の前には倫理性に於いて他の人々と何も変わらないからです。ですから、証人の信条は本当に終末の裁きに直面するとき、見境なく組織にしがみ付くほどに、却って危険なものとなるでしょう。そして、実際に組織は道理に合わないと思う事があっても組織に従い続ければ永遠の命に入ると教えているのです。

終末の重大極まりない神の裁きを前にして、個人の思考力を奪うことはどれほど破滅的でしょうか。しかも組織はその責を負うことはありませんしできません。統治体も長老らも現在進行中の幼児性虐待隠蔽の裁判でどれほど苦しい言い逃れを続けてきたかを考えれば、遙かに難しい人の救いなどにどうして神の前に責を負えるものでしょうか。むしろ、この組織は終末の裁きに到底耐えられないでしょう。もちろん、統治体に聖霊などは注がれているわけもなく、彼らに奇跡の賜物など期待できず、その教えさえレベルの低い教訓と、矛盾した文章の羅列に堕落している現状があるばかりですが、それを指摘する者には誰であれ「背教者」と吠えかかり、正義感に燃えて排除しようとはしても何かを顧みようとはしないのです。彼らは正しい事が何かを探しているわけではなく、自分たちが滅ばされ、永遠の命から除外されないことに必死なだけです。さて、神はそんな保身目当ての信者らを生きながらえさせるのでしょうか。

加えて、教団の唱える「宇宙論争」というヨブ記を正反対に誤解した理屈でも、「神の主権」の正当性を証しするのは証人たちであるとしているのですが、これでは「神は証人たちの義の行動を必要としている」ことになります。(まして「神の主権」という概念を持ち出すこと自体が神を誤り伝えるものなのですが)⇒ヨブ記の結論

では、証人は何をもって自らを清いと判断しているのでしょうか?
ひとつには、新約聖書中の『聖なる者ら』に要求された道徳規準を守っているからとされているのですが

新しい契約に預かっていない人々がどれほど清さを誇っても、それが神の名を清めることにはなり得ません。
なぜなら、聖なる者らが表す清い行状ですら、それに神の名声は依存しないからで、油注がれた彼らが清い行状を保つのも、神の名声を汚さないためではなく、キリストの血の犠牲に預かり罪を許されたキリストの契約について忠節を表しているからです。(コロサイ1:12)

まして、『新しい契約』になく、現状で『神の子』とされていない只の人がどれほど行状の清さを示そうと、それに神の名声は左右されるわけがありません。

むしろ、人に宿るアダムの罪の重さを取り繕うような事になり、そこではキリストの犠牲の価値が低められ、証人は自分たちが恰も清く取り分けられた者として他の人々を見下す傲慢がどうにも避けらないことになり、実際にそうなっております。
つまり、これは罪人と交わるキリストに激しく反発したパリサイ派の精神そのものになっているのです。

そのうえ、自らに宿る罪ある傾向を取り繕ろい、清さを装う不自然さが、様々な無理をもたらし、証人の生活に無用な緊張感を高めていて、これが証人たちの間に多くの苦しみと偽善とを生んでしまってもいるのは、既にこの団体を離れた人々、また依然として留まっていながらも「覚醒」した方々の苦衷を記した許多の記録にも明らかです。

例えれば、証人はこの偽善的清さの根拠を捏造するために、一般の人々からの差別化を行う必要に迫られます。
それが、道徳的生活の強要であったり、輸血拒否であったり、様々な制約を自らに課すことになっているのです。また、その強い緊張が精神疾患の原因になっていたり、家族の不和の原因であったりすることに正直に向き合おうとせず、それらが明らかになることが神の名声に関わると見傚して隠蔽するのですが、それが大いに間違っていることは、証人であっても幾らか冷静に考えれば判断できるものでありましょう。

エホバの証人が唯一神に是認された信仰者であるという「義」が、信者の中でどうして成り立つかと言えば、それで彼らが周囲とは異なる「行いの義」を用いるほかありません。
周囲との異なりを作り出し、際立たせることによってエホバの証人の「義」は初めて作られているのですから、これは他者との比較によってはじめて成立する「義」であり、これは果てしない競争を呼び起こすもので、人をして極端に走らせるものとなるものです。

この点で、輸血拒否など、この集団を極めて特異なものとして周囲に印付けるのに格好の戒律となっています。
ときに、うやむやにされるケースもあるとしても、この戒律を守るために命がけの危険を冒す姿は、周囲に驚異と格別の配慮とを要求しますが、信者にあってはこの宗派だけが神の要求に従順であるという自己義認を得させるのに強い効果を持っているといえましょう。

この療法の拒否が命に関わる場合に在っては、特にこの戒律を守ることが宗教組織の清さを維持するか否かに関わってくるので、輸血を許した信者に対しての制裁には非常に強いものとなり、かつては「排斥」が検討されましたが、現在は一様に自ら組織から脱退を意味する「断絶」したと見做すという処置に変更されています。

いわば「口封じ」というべきでしょう。なぜなら、証人を辞した者とは「挨拶の言葉もかけてはならない」とのヨハネの手紙の句をまったく捻じ曲げた適用をして、家族ですら忌避する制度が存在しており、驚くべきことに証人たちは、その非人間的、非人道的戒律に従ってしまうのです。これは「永遠の命」の望みが断たれると信じているところからくる異様な洗脳なのですが、この人たちにとってそれは「愛ある行い」だとさえ言うのです。忌避が「自分にして欲しいことを他の人にもする」ことかどうか、それが「懲らしめ」という名の虐待であるばかりか、自分自身をも傷つけてまで教団をただ守ることにだけ貢献していることに気付けるほどの賢さは失われているのでしょうか。

また彼らにとって、他の宗教や宗派に対する嫌気から、崇拝はもちろん行事に参加することさえエホバの証人としての資格に関わる事柄となりかねません。
そこで、友人、知人はもちろん、親族、家族の冠婚葬祭への出席をも避け、周囲からの反感をさえ買うことによって、その「清さ」が演出されてしまうのです。その結果、儀式に拘ってしまい、本質的な喜こびや悲しみを周囲の人々と共にすることができません。そこまで周りの人々とは違う自分に関心が向いてしまっているからでしょう。神のためなどと思うとすれば、それはまず欺瞞です。

その共感性の無さは、死亡告知の知らせを用いて「復活の希望」を見知らぬ人々に知らせようと手紙を書くような「伝道」に表れているのでしょう。もちろん、伝道するご本人はたいへんな善行をしているおつもりに違いないのですが、遺族の心情に共感は持っていらっしゃらないからこそできることでしょう。いかに永生がありがたくとも、ソロモンが嘆きの家に居ることが宴会に勝ると語るほどに死は厳粛なものです。

その伝道者が亡くなった方を知っていて、また親しくしていたのでないのならば、あまりに大きな喪失感に見舞われている遺族にどうして寄り添い、苦衷を共にできるものでしょうか。そうでないなら、そこに「復活の希望」などを持ち込むそれは不快な「人の弱みに付け込む信者集め」としかなり得ないことが分かりそうなものですが、死を通して知らされる人の命の重さへの共感の無さが、あるいはものみの塔という宗派の教理の為せる業なのでしょうか。彼らにとってひとりの人の存在とはそれほど軽いのでしょうか。

同様に、職場や学校に於いても様々な汚れを神経質に避けている事によっても、この宗派の「義」が造られてゆくのです。
これが「エホバの証人の義」であって、そのすべてが人間同士での比較に成り立っており、聖霊の奇跡のような神からの印は何一つ挙げることができません。にも関わらず、彼らは唯一神から是認されているというのです。これはひどい詭弁ではありませんか。

契約から逸脱したイスラエルであってさえ、預言者らが遣わされ、メシアの到来と新たな契約が予告されていたのであり、到来したメシアは自らの犠牲によって聖なる油注ぎを行って『聖なる国民、王なる祭司』となるべき民を集め出したのですが、エホバの証人には到底関わりのないことで、精々が主の晩餐で表象物を飲み食いしたか否かの程度の印をとやかく言うばかりの程度です。その『主の晩餐』でも、主の死の厳粛さよりも、その犠牲で楽園行きが決まったかのような祝いの雰囲気が支配しているとのことで、内部からも疑問の声が一部に聞かれるとのこと。

しかも、神の是認をもたらすという、ものみの塔が信者に要求している規準は、聖書の字面を追ったばかりのものであり、新しい契約が律法契約に優越する意味が理解されず、そこで「律法の原則を当てはめる」と称して、「行いによる義」が差別化の中で混ぜられ、いつの間にかパリサイ化を起こしているのですが、信者はその指導を神からのものと信じてキリスト教の実践であると現に思い込んでいるのです。

それは、彼らも同じく罪ある者であるにも関わらず、自分たちを他者とは異なり清いとするための捏造された人間の義のために空しい演出の努力でしかなく、自己満足な行いであるばかりか、周囲に不要な迷惑を及ぼし、自らも傷つけるという、全くキリスト教らしからぬ行為というほかないのです。

その関心は神にも隣人にも無く、ただ自分が神に嘉され、救われることに向かうばかりであり、その宣教にどれほどの犠牲が伴うとも、自己満足が根底にあり、その動機は利己心にあるという以外にありません。即ち「永遠の命」というご利益を受けるか否かという欲得を中心に伝道しているのではありませんか。しかも、浸礼を受け模範的であれば、それは約束されていると思い込んでいるのです。そこで「全人類への救い」というアブラハムに示された神の広く寛容な意志は無視され、独善に染まったパリサイ人の精神がぬくぬくと育てられてしまっているのです。

もし、証人の動機がキリストへの共感にあるならば、自らに罪を認め、罪深きに寄り添い、助け合うほかに何があるでしょう。
もちろん神の経綸を知らせることが、苦難の世に生きなければならない事情を知らせ、神の創造物として復帰される希望を持つよう互いを鼓舞することは、キリスト・イエスが単に憐れみと癒しを行う人ではなく、『神の王国』が近付いたと教えた姿に倣うことです。しかし、エホバの証人は『神の王国』を自分たちの理想世界に仕立て上げ、神との関係の回復という最重要な事柄を、快適に生きる永遠の時間という欲得に置き換えてしまったのですが、これはまったく本末転倒です。

そのうえ、その王国が既に到来したことにして自分たちで独占してしまい。証人は自分たちの道徳規準から外れた仲間を忌避し、切り捨て、家族にすら当然与えるべき助けも、情愛も断たせている。これはキリスト教からの著しい脱線であり、一般常識以下の「行いの実」を表すことであり、その「実」で判断するなら、『偽預言者』という以外にありません。

しかし、それを悟ったからと言ってエホバの証人のほとんどの方々が、この信仰の形から出ることもないように思われます。その理由の第一には、集団からも各個人からも忌避され、『挨拶の言葉もかけてはならない』の句の本来の意味は外部からのからの紛らわしい異教の分子に対する戒めであったものを、弱った仲間やものみの塔の誤謬に気付いて去ろうとする人々に適用して、組織の安泰を図り、圧政国家と同じ野蛮な制裁を加えるのです。

そこで、内部に留まる人々との関係を無下に断ち切れない事情が作られてしまうのですが、実によく信者の囲い込み制度が整った宗教団体と言えます。これはもちろん褒め言葉ではなく、非人間的な横暴というべきでしょう。

加えて、信者ご本人には、信仰歴が長いほどに「埋没費用効果」(サンクコスト)が働いて、よほどに廉潔でもなければ、生き方を信念に合わせることが難しいことが多いでしょう。そこで、しかたなく、惰性で組織に残って活動を続けもするでしょう。

こうした人間の弱みを見事に捕えて、信仰の外面だけでも何とか保たせる理由と言えば、教勢と寄付金の維持なのでしょう。
これは純然たる宗教とも言えませんが、他所の宗教でもまま見られるような事で、ただ、ものみの塔の場合には、より極端で過酷であるということなのでしょう。やはり、この世には聖なる領域がどこにも存在してはいないようです。

もし、ものみの塔がこのあたりを改善するなら、却ってこの組織の株も上がる可能性も有りそうですが、そこまで廉潔な指導部に恵まれているかと問えば、見るところ難しいと言うほかありません。

そうであれば、証人の一人一人が、自らの境遇に照らして対応を考え、賢く立ち回るほかありません。
ひとつ言えるとすれば、この組織相手に内部からの弱い立場でまともに異議を唱えてぶつかるだけの価値は無いように思えます。
なぜなら、この集団を見るに「話せば分かる相手」であると証人の方々は思えるでしょうか?
もし、そう思うなら、それは危険なことであり、確実に損失を害を被るでしょう。
この組織は儲けや保身のためとなれば、道徳にもとることも躊躇してきませんでした。それをこの世の裁判所に対して行ったのであれば、証人個人にはどういうことをするのでしょうか。既に、忌避制度は罰則として誤用され、清さを守るのではなく組織をあらゆる正論から守る「口封じ」のために縦横に活用されているではありませんか。

証人の方々が安心感を抱いて参加しているその組織の清さとは、そこまで弱々しく、内部は圧政的な狼の巣食う、隠蔽の砂の上に建てられた家なのです。それを存続させているのもまた証人の方々となっているのです。
しかし、証人の皆さんには、ものみの塔の分断圧力の中に在って難しいながらも、純心である、また、賢い行動は何かを考える機会が開かれてもいることでしょう。様々な「差別化の義」から解放されるなら、人の実態に適った見方が可能になり、組織の都合で造られた「人の義」を去って『神の義』を求める道に入ることができるでしょう。





矛盾した「エホバの証人」という存在し得ない名称

2015.06.01 (Mon)


「エホバの証人」とは、広範な戸別伝道や街路での宣伝を通してその雑誌「ものみの塔」と共に見聞きされるキリスト教一派の信者を指す名称である。

この「エホバの証人」の由来はイザヤ43:10-12に記された言葉によるものとされている。

その句はこのようになっている。(以降、新世界訳)
『10「あなた方はわたしの証人である」と,エホバはお告げになる,「すなわち,わたしが選んだわたしの僕である。それはあなた方が知って,わたしに信仰を抱くためであり,わたしが同じ者であることを理解するためである。わたしの前に形造られた神はなく,わたしの後にもやはりいなかった。11 わたしが―わたしがエホバであり,わたしのほかに救う者はいない」。
12 「あなた方のうちにほかの[神]がいなかったときに,わたし自ら告げ知らせ,救いを施し,[それを]聞かせた。それで,あなた方はわたしの証人である」と,エホバはお告げになる,「そして,わたしは神である。』


上記の言葉はイザヤの時代に契約の民イスラエル民族に向けて語られている。
しかし、イスラエル民族はモーセの律法を守ることなく、バビロン捕囚の憂き目に遭うことになる。
それはイザヤも、『22 「しかし,ヤコブよ,あなたはこのわたしを呼ばなかった。イスラエルよ,あなたはわたしにうみ疲れたからである。23 あなたはわたしにあなたの全焼燔の捧げ物の羊を携えて来なかったし,あなたの犠牲をもってわたしの栄光をたたえることもしなかった。』と同じイザヤの章にある通りである。

だが、イスラエルの神YHWHは、彼らをバビロンに囚われた状態から救い出し、再びエルサレムでの崇拝を再興を許すことも予告し、このイザヤの預言を通してもそれを知らせている。
『あなた方を買い戻す方,イスラエルの聖なる方,エホバはこのように言われた。「わたしはあなた方のためにバビロンに人を遣わして,獄のかんぬきを下ろさせる。そして,船の中のカルデア人はすすり泣く。』(43:14-)

この崇拝の再興を通してイスラエルは自分たちが神YHWHに選ばれた民であることを自覚することになるという。
これが所謂「回復の預言」であり、それはイザヤばかりでなくエレミヤやエゼキエルにも存在する、同様の事柄が多面的に語られ,、預言者は違えども一連の共通する内容を知らせる予告を構成している。

しかし、それはバビロンからの僅かな残りの者たちの帰還の時期に実際に起こったところだけに含まれない事柄も示唆しているのであり、それはなお将来への展望を期待させるものとなっている。
なぜなら、「イスラエル」は神の民であり、その格別な目的は未だに充分に果たされた姿を誰も見ていないからである。
イザヤにはこうある。『それは,わたしの賛美を詳しく話すよう,わたしが自分のために形造った民なのである。』(43:21)

つまり、この「イスラエル」と呼ばれる民は『「イスラエルよ,あなたはわたしの僕である。わたしはあなたのうちにわたしの美を示す」』と呼びかけられた民であり、それはアブラハムの後裔として『諸国民の光』となるべき民、古代のアブラハムに予告された『そして,あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう。あなたがわたしの声に聴き従ったからである』との言葉を諸国民に対して実現する務めを負う者たちとなるのである。(創世記22:18)

それこそは、シナイの荒野でモーセを通して『わたしとの契約をほんとうに守るなら,あなた方はあらゆる民の中にあって必ずわたしの特別な所有物となる。全地はわたしのものだからである。6 そしてあなた方は,わたしに対して祭司の王国,聖なる国民となる』と律法契約によって進むべき目標となったところであった。(出埃19:5-)

しかし、イスラエルはこれに従うことが出来ず、遂にバビロン捕囚を経て契約の証しであった「契約の箱」を失い、律法契約は不確かなものとなって、エレミヤの予告した「新しい契約」とメシアの出現を待つ不安定な時代を過ごさねばならなくなった。
この民は神から『イスラエルの神の名を真実によらず義によらずに語り告げる者たち』とさえ呼ばれざるを得なかった。即ち、名を唱えることがそのまま善ではなかったのである。(イザヤ48:1)

最後の預言者マラキの後四百年を経ると、ヨルダンの荒野にバプテストが現れて『悔い改めのバプテスマ』をこの民にほどこし始め、そこにメシアが現れる。
バプテストの告げたようにメシアは帰天の後、信仰をもった民に『聖霊のバプテスマ』を施す一方で、信じなかった民には西暦七十年の『火のバプテスマ』をもたらした。
それはメシアを退けた「世代」への報いであって、メシアの刑死から四十年を経ずに起こったことであった。それは遅滞なく生じ、けっして「ふたつの世代が重なる」ようなことはなかった。

こうして見ると、神YHWHから自らの証人であると呼ばれたのは、聖霊を注がれ、『新しい契約』に入った『聖なる者』(ハギオス)を表していることが明らかになる。
パウロはこの民を『神のイスラエル』と呼んでいる。つまり、血統上にある『肉のイスラエル』と対照される民である。しかし「霊的イスラエル」または「霊のイスラエル」と呼ばれていない。仮にそう呼ぶのであれば、ますます奇跡をもたらす聖霊を度外視できないことになる。

彼らにはイエスから約束されていた『聖霊』が臨む。それは多くの奇跡を行わせるだけでなく、『真理の全体へと案内する』ものでもあり、その働きの結果として聖書も完成してゆくことになった。
それは主に聖霊の言葉であって偽りなく、聖書に記されるところとなって、僅かな筆者個人の記憶違いとされてきたものを除き、訂正も調整も必要もないものとなって今日まで存在している。(ローマ9:1)

彼らは繰り返し『聖なる者』(ハギオス)と聖書中に呼ばれており、けっして「油そそがれたクリスチャン」と呼びかけられていない。
その身分は、既に肉体に在りながら『罪』を許された『義』の状態に入っていることをパウロは指摘する。
『こういうわけで,キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はありません。』また『神の選ばれた者たちに対してだれが訴えを提出するでしょうか。神が[彼らを]義と宣しておられるのです。』とも書いている。(ローマ8:1・33)


それであるから、聖書中の『聖なる者』は、エホバの証人の中の「油そそがれたクリスチャン」を遥かに超え、人類に先立って『養子縁組の霊』を受け、既に肉体に在ってさえ『神の子』とされるはずである。それゆえ奇跡の聖霊も注がれてキリストの業を続行し、間違いのない知識も与えられていたのである。

彼らがこれほどの異例に高い立場を得た理由は何かと言えば、それこそが「新しい契約」による仮の「贖罪」であったことを彼はこうも指摘している。
『この[み子]によって,わたしたちは贖いによる釈放,すなわち罪の許しを得ています。』(コロサイ1:14)
またこうも言っている。
『わたしたちはこの方により,その血を通してなされた贖いによる釈放,そうです,[わたしたちの]罪過の許しを,その過分のご親切の富によって得ているのです。 8 [神]はそれを,あらゆる知恵と分別とにおいてわたしたちに満ちあふれさせてくださいました。9 そのご意志の神聖な奥義をわたしたちに知らせてくださったことにおいてです。』(エフェソス1:7-)

しかし、この「贖罪」はキリストと共なる『初穂』である人々、つまり『キリストと共同の相続人』である『新しい契約』に与った人々だけが受けることのできたものであり、それ以外のすべての人にとっての贖罪は千年王国を待つべきであることには誰も変わりがない。それは現に「エホバの証人」であろうとなかろうとである。
では、エホバの証人だけが終末の裁きを考慮せずに、一足飛びに「楽園」に入ったつもりを云々する理由が何かあるのだろうか?それは他の人々に対して、パリサイ派のような優越感と蔑視を免れないのではないだろうか?また、教会員が洗礼を受けていない人々は地獄に落ちると教えられているところと実質的に変わりはないではないか。どちらもアブラハムに示された人類全体への大志は失せ、どちらも閉鎖的に信者だけの救いを請け負うことで利己心を煽る悪魔的教えに堕している。

他方、人類を贖罪するための『新しい契約』に与った人々は、既に仮贖罪されているゆえに『神の子』であるとパウロは言うのである。聖霊はその見える証拠であり、奇跡の賜物は自他共に明らかな身分を明かす神の印であった。
『14 神の霊に導かれる者はみな神の子であるからです。』
したがって、『水と霊から生まれた』『聖なる者』は、地上に在る間から『キリストの兄弟』となったとされている。(ヘブライ2:10-3:1)

彼らを『聖なる者』と証しした『神の霊』が神の子として生み出したこと、これについては聖書に疑問の余地がない。
『あなた方は,再び恐れを生じさせる奴隷身分の霊を受けたのではなく,養子縁組の霊を受けたのであり,わたしたちはその霊によって,「アバ,父よ!」と叫ぶのです。16 霊そのものが,わたしたちの霊と共に,わたしたちが神の子供であることを証ししています。』(ローマ8:14-17)

彼はエフェソス書簡ではこう語っている。
『しかしあなた方も,真理の言葉,すなわちあなた方の救いについての良いたよりを聞いた後,この方に望みを置きました。そして信じた後,やはりこの方により,約束の聖霊をもって証印を押されたのです。14 それはわたしたちの相続財産に関する事前の印であり,また,[神]ご自身の所有物を贖いによって釈放し,その栄光ある賛美とすることを目的としています。』

『栄光ある賛美とすることを目的』とあるように、与えられた聖霊は彼らがまさしく「イスラエル」あのイザヤ43章の示す『わたしの賛美を詳しく話すよう,わたしが自分のために形造った民』そのものであり、イエスが山上の垂訓で『あなたがたは世の光』と言ったそのユダヤ人の本来あるべき姿であったが、彼らの身の証しを立てるものは『聖霊』であったことを聖書は繰り返し語っている。(ローマ15:16/コリント第二5:5/エフェソス1:13-14/ペテロ第一1:2)

しかし、彼らは依然として肉体に住まう間は、アダムからの罪にまとわれていることは変わりない。そこで、彼らは『新しい契約』によって義が仮に与えられている状態にあるので、その生涯を通して忠節と道徳性を保たねばならない。それが彼らに与えられた務めであり、「契約」とは常に不確かな事柄について締結されるものである。パウロ自身自分が義に適っているわけではないとしながらこうも言うのである。『わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない』(コリント第二5:10新共同)

そしてこの契約によって与えられた『聖霊』が、終末において大いなる業を行うことをイエスによって予告されている。
ルカ福音書のまさに21章は終末のキリストの預言を記した箇所であるが、そこでは彼らの発言が格別のものとなることが知らされている。
『12 「しかし,これらのすべての事の前に,人々はあなた方に手をかけて迫害し,あなた方を会堂や獄に引き渡し,あなた方はわたしの名のために王や総督たちの前に引き出されるでしょう。13 それはあなた方にとって証しの[機会]となるのです。14 それゆえ,どのように弁明するか前もってけいこなどしないことを心に定めなさい。15 わたしがあなた方に口と知恵を与えるからです。あなた方の反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできないでしょう。』

イエスがこのように弟子らに語らせる経路となるものが何であるかは、他の福音書も語るところである。
『人々に用心していなさい。人々はあなた方を地方法廷に引き渡し,また自分たちの会堂でむち打つからです。18 いえ,あなた方はわたしのために総督や王たちの前に引き出されるでしょう。彼らと諸国民に対する証しのためです。19 しかし,人々があなた方を引き渡すとき,どのように,または何を話そうかと思い煩ってはなりません。話すべきことはその時あなた方に与えられるからです。20 話すのは単にあなた方ではなく,あなた方の父の霊が,あなた方によって話すのです。』(マタイ10)

このように為政者と敢然と対峙し、誰も論駁できない聖霊の言葉を語る者こそを「YHWHの証人」と呼ぶべきではないか。
これらの人々であれば、確かに「世のものではない」。しかし「エホバの証人」はそう言えるだろうか。この世に敵意は懐いても、それ以上ではなく、やはり『罪』を贖われてはいない『世のもの』ではないか?
ましてこの団体の責任ある者らが神を証しして為政者に臆せず立ち向かっているだろうか。
むしろ世の法廷で醜聞を問い詰められていながら、末端の信者らにはそれを隠して部外者の偽りであると言い包めてはいないか。そのような者はどうしても「証人」とは呼べない。まして神の名の証しなど、到底無理である。

どんな集団からでも性犯罪は起こりえる。それが人間が拭い得ない『罪』というものの実態であろう。
それが起こることは避けられずとも、どう対処するかというところでこそ、宗教団体に限らず集団の質が試される。
この点で、「ものみの塔」はまったく失敗しており、司法に対して犯人隠匿という方向に向かってしまった。これは、罪を避けられない同じ人間でありながら『自分には罪はない』というに等しい詐称というべきであろう。その聖句の通りに、その言動はまさに『自分を惑わしているのであり,真理はない』ことを証ししているのであろう。(ヨハネ第一1:8)

それが神の名を戴く「証人」なのだろうか。むしろその名を汚しており、ミスと隠蔽という、どこの宗教団体にも見られる醜聞の凡庸さは「この世」の常ではないだろうか?
まして、神の名を用いているからと言って、自己義認の証拠として神聖な御名を担ぎ出しているのであれば、現実が示す通りに、本来の発音を証明できないように、それも神からの拒絶に面しているのである。

他方で、マタイ25章の羊と山羊の例えは彼らの有様とは異なる聖霊を注がれた弟子らの姿を描き出している。即ち、聖なる「キリストの兄弟ら」が世の矢面に立ち、その他の人々は彼らに親切を示すのであるが、エホバの証人ではその他の人々が世の矢面に立たされており、「キリストの兄弟」を自認する者はその背後で安楽に「指導」してはいないか? これはどこかで「教えのすり替え」が密かに為されている証拠であろう。
それに加えて、信者には社会からの情報を得させずに置きながら、指導層は多くのミスリードについて自己正当化の宣伝を繰り返す。これはもはや「キリスト教」を名乗るべくもない一般良識以下の卑怯な醜態ではないか?


真正な『聖なる者』らには神からの聖霊が臨む以上、また神との契約の一方の当事者である以上、神の名を知らないということがあるだろうか。エホバの証人でさえ「エホバ」が真正の神の名前ではないことを知っている。

だが、キリスト自身は『そしてわたしはみ名を彼らに知らせました。また[これからも]知らせます。それは,わたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり,わたしが彼らと結びついているためです」。』と祈っているのであり、神やキリストと本当に結ばれた『聖なる者』であれば、どうして神の名の発音を知らないでいる理由があるだろうか?

全能の神が自らの御名を保存できなかったのだろうか。ならば「エホバの証人」がそれを回復するべく奮闘努力する必要があるのだろうか。そして全能の神もその助けを待っているというのだろうか。
それとも、いと聖き御名は神自ら秘められることを許されたのだろうか。そうであれば、いったい何者がそれを公表することができるのだろう。
神は終末に自ら名を清め『高く挙げる』と言われる。(イザヤ33:10) 神が御自らその名を高く挙げるときに、信者が口々に家から家へと伝える介助が要るのだろうか。

その終末には、神名を知らされたモーセとアロンが御名を掲げてファラオに対峙したように、『聖なる者ら』も為政者らに知らされるであろう御名を掲げて立ち向かい、『この世』を糾弾するのであれば、確かに彼らを御名の証人と呼ぶことは相応しい。彼らが担う御名に信仰を働かせ『御名を唱える』人々が救われるというのなら、それは聖書の一貫した論理に整合しているというべきではないか。

これらを考慮しても「エホバの証人」というこの名前は、「エホバ」と「証人」が相矛盾しているのである。
さらに「エホバ」とは子音字[יהוה]YHWHをユダヤ人が「主」(アードナーイ)と読ませるために振ったルビ(ニクード)を子音四文字にそのまま当てはめて読んだ欧州人の仮の呼び名だからであり、それは当のエホバの証人も教えられていることである。キリスト教界はこれを「誤読」としているが、確かに、「エホバ」はいまさら「証人」を必要とするものでもなく、八百年も以前からカトリックに存在していた読めない神名を呼称する一便法であったうえ、神名理解の進まなかった19世紀までの神名音読の古い習慣に留まるものである。

むしろ、それを「ヤハ」と残された省略形で読むこともできるだろうし、その方が古来ユダヤに伝わるものである。もちろん、それでも御名を人類は未だ知らないということに変わりはなく、その後に「証人」と続けることはやはり相応しいことにはならない。真実の名を証しすることは、神からの啓示を持つ者だけが為し得ることではないか。

それが即ち真実の『神のイスラエル』即ち『キリストの兄弟たち』である。
キリスト自身を深く描写した詩篇22篇にはこうある。
『わたしはあなたのみ名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ,会衆の中であなたを賛美します。』(22:22)そしてイエスは祈りの中で『彼らに知らせました』と御父に語っているのである。
そしてヘブライ人書簡には、この詩篇22編を引用してキリストがその『兄弟たち』に神名を知らせるとあるではないか。即ち、「救われるべき者らが、親切を示すべきキリストの兄弟たち」のことである。(ヘブライ2:12)


つまりは、今日この世に神の御名を正しく知る者は絶えていないので、却ってそのことが真実に「YHWHの証人」がいったい誰であるかを指し示すものとなるはずではないのか。神名は人々の救いに関わるものであり、終末に重要でないわけもない。
そこで「יהוהの証人」とは真実に聖霊を持つ者だけが発音して名乗れるものだからであり、この世にそれができる聖霊注がれた『聖なる者』は初期以来、実際に絶えて居ないではないか。

この点で、「エホバの証人」は19世紀の蒙昧のままに「エホバ」と発音することを通して、むしろ自分たちも神名は知らないと言っているのであり、そこで「エホバ」と「証人」のふたつの言葉はまったく撞着しているのである。
これほどお粗末な名称も宗教界に見当たらないのではないだろうか。実にこの組織の代表者が一晩でこの名称を思い付いたというが、自分たちを「エホバの証人」と呼んだその日以来、彼らに神の導きは無かったことが名称そのものに明白に出ていたのである。つまりは「クリスチャン」と称するのアメリカ人の傲慢な妄想である。

彼らは、「発音などは言語によって異なるのだから正確である必要はない」などと強弁するのだが、これはますます傲慢不遜を重ねることである。なぜなら、言語によって名の発音が異なるのと、元の名が不明である事とは全く別問題であることは明らかである。
エホバの証人の指導層は、神の真正な御名を証してはいない点でけっして『キリストの兄弟』ではなく、これをただ詐称していることが歴然と表れているではないか!

しかも、この「エホバの証人」の名称が僭称にも至らない嘘名そのものであり、これを公言して憚らないのである。その嘘名とは聖霊に対する偽りを含み兼ねず、そうなれば悪気はないとしても軽い咎で済むとは思えない。

もちろん、神の名は誰も知らないのであるからには「エホバ」である可能性もゼロにはならない。しかし、だからといって神名はやはり「エホバ」だと言っても、それは「証し」していることになるわけもない。その名が「エホバ」である微少な確率に懸けるとしても、それは普通「予想」と呼ばれるものであっても「証し」とは言えない。その「予想」こそは、この組織が「年代」に於いても長年行っては何度も逸し続けて来たものである。

キリストはこう言う。『子と子がすすんで啓示する者をほかにすれば、だれも父を充分には知らない』(マタイ11:27)
では、その名を知らないエホバの証人は、啓示を受けたと言えるだろうか? キリストがすすんで知識を与えるものとされているのだろうか?
やはり、ラッセル師以来、この人々の誰にも啓示はなかったのが実態であり、怪しげな年代計算から1914年に固執し、それに「楽園」という希望的観測を抱いた人々の集まりが「エホバの証人」の看板を掲げただけのことである。

ならば、他の誰とも変わらない聖霊のない人々が神の「証人」の身分を語ってよいだろうか?名をさえ知らぬ者が「証人」たり得るか?

ますます良いはずもない。
これは詐称に中でも神の聖霊と御名に対するものであるからには、極めて罪の重い騙りというべきであろう。
彼らが日毎に口にするその「エホバ」は聖書の神の御名ではないばかりか、用いる程に自分たちはその発音を知らないと繰り返しているのであり、それが頻繁であればあるほど実際には「自分は神名を知らない」とうるさいほどに公言して憚らないのである。
そこでは聖霊はもちろん、何ら「神からの経路」を得てはいないと、その「エホバ」と発音される都度に自ら反証しているのである。(詩篇102:21)

少し考えて頂きたい。
「エホバの証人」に聖霊が注がれているというのであれば、どうして教理の訂正を避けられないのだろうか?
パウロは『わたしはキリストにあって真実を語ります。偽りを述べるのではありません。わたしの良心も聖霊によって共に証ししているからです。』と書いているではないか。(ローマ9:1)
彼の言葉は、時間が経つと訂正されたり、撤回されたりはしていない。それにも関わらず「エホバの証人」は聖霊が導いているのか。 ならば、その訂正を繰り返す「聖霊」とは初代と同じ「聖霊」か?

この件に関するものみの塔の常套句は「聖霊に導かれてはいても、霊感はされていない」という口上である。
では、霊感を与えない「聖霊」とは、間違える導きも与えるものではないか?それを「聖」と称するどんな理由があるのか?
そのように不確かで惰弱な「聖霊」なら、他の誰かも持てるものではないのだろうか。教会員もそう唱えているのだから。

また、「家から家」が求められた宣教の主要な業であれば、なぜ終末に聖霊の言葉が為政者らと諸国民への証しとなるのだろうか?
どうして性的幼児虐待の廉で法廷に呼び出されても出廷せず責任逃れをするような代表的「エホバ証人」が、終末預言にあるように敢然と為政者と対峙できるだろうか?

「エホバの証人」とは何と厚顔無恥な名称であることか。
「エホバ」と言うなら「証人」とは言えず、「証人」なら「エホバ」とは言わないのは明白だからである。
上記の事柄を理解したうえで恥を知るなら、この名称はとても名乗れない。
不遜を重ねて「初代キリスト教徒もエホバの証人であった」というなら、今日イエス・キリストが世界で最も知られた人物とはならず、神の御名は保存されていたであろうし、神名は今日「エホバ」とは呼ばれていなかったであろう。(ローマ10:9/15:20)

この名称を良いつもりで用いる人々は、聖書の根本的な教理をすら知らないと言っているに等しい。
おそらくは「楽園」以外に関心も無いのかも知れない。いと聖なる神の御名よりもご利益を大事にするからだろうか。

この人々が「エホバ」と声高に叫ぶ動機は、自分たちの「楽園」と「永遠の命」が、また仲間内の交友や権威をふるう願望が掛かっているからではないのか。キリストよりも神名を専らに掲げることで、アメリカの多種多様なキリスト教宗派の中での差別化には良いかもしれない。その特殊性が、唯一正統を演出するに便宜もあろう。
だが、そこで神への純粋な関心は利己心へと歪められてはいないのだろうか。そのご利益信仰と裁きの前の自己義認の横柄さがキリストを迎える態度として相応しいだろうか?

彼らが誇る「行状の義」も、『あなたの義は地の人の子に対するもので』『たとえあなたが実際に正しくても,[神]に何を与えられよう』。という言葉を超えることができるのだろうか。(ヨブ35:8.7)
ヨブでさえこのようであれば、「エホバの証人」はいったいどんな証しを神の御前に提出できるというのだろう。
「宇宙論争」なる妄想はキリストの一度限りの忠節の立証の前に霧散するべきものではないか。(ヘブライ2:14)

「エホバの証人」という言葉の響きには、強烈な自己義認の傲慢さが漂っている。
だが、この宗派の信者も、普通に見られるただの『罪』ある人であり、神の裁きの前に有利である事はとりたてて何もない。
むしろ、自派の正義を押し立て不遜であることに固執しているので、真に聖霊の降るときにそれが頑なにさせる恐れが強いであろう。 だが、いまからでも「人間の義」を捨て、心を柔らかにする機会はまだ残されている。



関連
「神の名は人を救う」
「新約での神名の扱い」
「神名浄化の至上命題シェム・ハ メフォラーシュ」
「ヨブ記の結論 唯一の正しい宗派があるか」


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ものみの塔のユダヤ教への退行

2014.09.06 (Sat)
(この記事は、この前の排斥処置の根拠に関するNo.113の続編を記事として起こしたものです)

キリスト教のユダヤ教への退行に関して
「エホバの証人の場合につき」
以下、書簡文とそれに補筆したもの

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まことにお気の毒なことで、このエホバの証人という宗教現象は、精神的圧制と言わねばなりません。

もちろん、どんな宗教でも宗派でも、間違いのないものなどありません。
なぜなら、今日では神の霊感を受けた無謬の宗教などは一つもなく、神に由来するものはひとつも存在していないからです。
どんなキリスト教にせよ、現状では聖書解釈でも道徳性でも五十歩百歩の差が諸宗派にあるばかりで、使徒時代のように神との契約関係を主張できる派がどこにあるでしょうか。
そこで「塔」は使徒らも間違いを犯していたと言うのですが、聖霊の知恵により聖書を著した使徒らと自分たちを同列になど置けるものではありません。書かれたものの違い、指導の違い、行いの違いがどれほどか分からないとすれば、その人の価値観は疑われるべきでしょうし、むしろキリストの使徒らを誹謗してはいないものでしょうか。

人由来のいずれのキリスト教の宗派も教理や規準を設けていますが、どれも間違いは避けられません。
しかし、特に実害があることでの間違いというものは、当然社会からの注目や批難を浴びることになります。それは特に周囲に実害をまき散らしておきながら絶対善を主張する派に却って見られる特徴と言えましょう。

どんな宗教であれ、絶対の善や正統を唱えることはまったく危険です。それは人間というものの実情を無視しているからです。
その結果、宗派の「正しさ」は、現実を粉飾しなければ存立しないもので、実際の信者の倫理性とは異なってしまっているにも関わらず、信仰者各個人からはその自然な判断能力も奪われてしまいます。テロや集団自殺を起こした宗教はその警告なのですが、どれも人間の罪ある実態を見損い、「絶対善」に従うつもりで逆に「極端な悪」に堕ちているのです。

実際とは異なった人間の妄想は、絶え間なく信者の想いに影響を与え続けないと維持出来ないもので、放っておけば、人間らしい判断力が働いて、与えられた妄想がしだいに晴れてしまうもので、それが人間の自然な叡智でしょう。ですから、人間の実際を無視した宗教は、定期的に人の想いに影響を与え続けないでは成り立ちません。そこで、ものみの塔が集会を「霊的ライフライン」とするのはもっともな事です。その効果と言えば、組織への従順の継続であり、周囲の人を軽んじ、団体を高めるという、おおよそキリスト教とは関係のない、永遠の命を質に取った「脅しの害」というべきものです。

それらの害が、外からの圧力によってではなく、信者が自虐的に被害に遭っているところでは、その宗派の制度や教理そのものに何らかの根本的な問題があるでしょう。やはり「エホバの証人」に様々な自虐的被害が明らかではありませんか。生活の様々な場面に規制が入り、周囲の人々との間に生じる「違い」がそのまま証人の「正しさ」を実感させる「演出」になってしまっているからです。これは典型的なパリサイ派です。「業による義認」という以外に何と言ったらよいでしょうか?

その人々が、どれほど「自分たちは正しい」と思えたとしてもです。
いや、やはりそう思うほどに、ますますそこに何かが潜んでいる危険性は高まるというべきでしょう。
人間は皆が同じく間違いを犯す「罪」ある存在であるという現実から遊離した考えでいるからです。それともバプテスマを受ければ裁きを通過したとでも教えられているのでしょうか?それでは諸教会と同じことであり、さらに組織内で相応しい状態で居れば神に是認されると言えばパリサイ派ではありませんか?聖書に正しく従えば是認されてアダムからの罪は許されるのでしょうか?そこに「塔」の利己的で硬直的な「人間の義」の源があるのでしょう。

例えれば、輸血の謝絶は絶対的な正義と固く信じているとしても、それが成し遂げる事はいったい何でしょうか?
神がそうした行為を喜び、証人を是認するというのには無理があります。
むしろ、キリストの弟ヤコブがそれを聞けば、反対しそうな事です。

と言うのも、ヤコブの裁定はユダヤ教のイエス信奉者たちと、異邦人たちとが分け隔てなく一つの集まりに参集できるよう、当時のユダヤ教の会堂参加の最低限の習慣を述べたものであり、ユダヤ教のナザレ派が居ない今日には、キリスト教の戒律でもありません。律法に従い続けるキリスト教徒は遠い過去に過ぎ去ったからです。(使徒21:20〜25)

「塔」が追随者らにユダヤ教さえ求めない輸血拒否をキリスト教の戒律であるかのように教えるのは、指導者らが信者たちへの強烈な指導力を保持し、証人たちとすれば、自派の正当性の証を人為的に得るところが内奥の動機ではないのでしょうか?つまり、「永遠の命」を確実にしたいという欲からくるものですが、そのように選民的な欲はパリサイ派らユダヤ人も抱いていたものであり、業の救いを妄想しているところはまるで同じです。(ヨハネ5:39〜40)

「塔」のように自派が正しく、他の宗教が間違いであるばかりか、自分たち以外のこの世の一切をもサタンのものであり避けるべきものとするとき、そこでは人間という相対評価されるべきものの絶対視が行われてしまい、「世の人と自分は違う」と言っているのであり、明らかに自分を高め過ぎていて、責任を深く感じて顧みる機会を自ら奪ってしまいます。では、エホバの証人は世の人の罪を咎められるほど清いのですか?申し訳ないのですが、到底そのようには見えません。もし、あなたがただけは是認する神が存在するなら、その神は人を偏り見ることに於いて程度が低いと言っているのです。それを神と呼ぶには無理があります。キリストの犠牲を人類に与えた聖書の神とはそれほど偏狭なのですが?

まさしく偏狭さに於いて「塔」は、間違いを指摘される度に、却ってその相手を「不従順」や「背教者」として容赦なく攻撃し続けてきましたが、もはやこれらを無かった事にはできないほどに「実績」が積み上がっていますので、「塔」は信者から外部の情報を遮断する以外に対処ができません。統治体でなくてもこの組織を弁護することは困難なことでしょうから、裁判費用も相当支出していることでしょう。
間違いを指摘する人々を「極悪人」とし、自ら省みる機会を放棄してきた酬いではありませんか。これほどの事を、「ものみの塔」は信者にだけは、巧妙に善を装いつつ行ってきたのです。それは見事なほどです。

ですが、たとえ自分の宗派に間違いがあっても、自分たちは神に受け入れられていて正しく、自分たちの誤りは「いつか神が正される」という考えは社会や法廷で通用するものではありません。それは全く身勝手な詭弁であり、自ら改善する機会を放棄するばかりが、犠牲を放置し、なお自分たちの行動による被害の責任を他ならぬ神に転嫁するという冒涜以外の何物でもありません。その先にあるものといえば、理屈の破綻した、信者や周辺の被害者への無責任で傲慢な圧制のほかにありません。つまりは「自分は偉い」と云う単なる利己主義なのです。

しかも、この世の終わりの年代予測の勧告に従って財産を処分した信者にも、輸血が神の是認を失わせると教えらた信者が死亡してさえも、この組織は「戒律のようなものではなく」「自発的な決定だった」として、これらの極端な行動をとらせるために相当な圧力を信者にかけていた実態を否認し、それぞれの損害については組織的関与を認めようとはしてきませんでした。

つまり、責を問われて窮すれば、信者の「従順」は上層部へのものではなく聖書への従順であるとすり替えることで、却ってその責は神に有ると言っているのであり、自分たちは神を代弁しただけだと言うのです。いや、まさしくこの組織が「神の経路」であるとはっきり自認していたことは隠しようもないことです。信者には「神の地上の組織に従え」と言っておきながら、実際に法の調査の下で都合が悪くなれば「自分たちは神を代表などしていない」と平然と言ってのけるのです。

しかも、「自分は間違えることもあるが、いつでも唯一正しい」という人を、社会一般の良識がその矛盾し幼稚なわがままの害を受け入れるものでしょうか?当然ですが、 間違えるのは人間なら誰もがみな同じことです。
自分は「間違えもするが唯一正しい」のだといえば、他のどんな宗教でも間違いの責任逃れをすることができるではありませんか。
それでは不動の言葉を記した使徒らのように神と通じているとはけっして言えません。
お互い只の人だからです。どこが違うでしょう?その傲慢な人の見方は、必ずや蔑視と衝突を避けられないでしょう。その唯一正統の自認こそが、この世のどこにでもあるような敵意の根源だからであり、イエス・キリストもその精神によって殺害されているのです。

一方で、この社会は確かに不完全で必ずしも人を常に益するものではありませんけれども、長い歴史と多大の犠牲を経る中で工夫され、人々の福祉を省みる様々な制度を徐々に整えてまいりました。これらをも有するこの世の仕組みまでサタンのものと敵視するなら、その観方はどれほどその人を益するものとなるでしょうか。

例えるなら、エホバの証人は終わりが近いとして年金を軽視してきました。その報酬といえば、世の終りの到来が予想外に遅くなってしまったために、経済的窮境のまま老年に入ってしまった信者らの姿というべきでしょう。生活保護の制度に救いを得るようなことになっていれば、いや、受給できればまだ良い方で、そうした状況は「塔」という宗派の年代信仰が、現実にも世に対しても無残に敗北したことを意味しているのです。しかし、その名称「ものみの塔」とは、本来「先見性」を標榜したものではないのでしょうか。

その結末を悟ったかのように若い人々は去りつつあり、大会会場は老人会を彷彿とさせるかのようだと言われます。残っているのは、いまさら道を変えることのできない人々が占めているのでしょう。指導者は「世代」の解釈を捨てられず、過去の自分たちの主張を「熱心な信者の間違い」としつつ、「ふたつの世代が・・」と言い訳に終始しているという、指導者と信者の双方の姿にはまことに痛ましいものがあります。ですが、このままでは「世代」の教理を放棄せざるを得なくなり、「ものみの塔」はアイデンティティを喪失することになるのでしょう。「世代」の解釈は「塔」に独特なもので、非三位一体にはユニテリアン系の各派があり、集団の兵役拒否はアデルフィアン派も既に南北戦争から行ってきたことです。

そこまで至っても、エホバの証人は神の側に立っていると見做せる理由が何かあるのでしょうか?
その模範的行状が神の前に『義』をもたらすと言うのでしょうか?
エホバの証人の方々は世を断罪できるほどに清いのですか?
聖書の道徳規準を守り宣教奉仕していれば神に是認されますか?
人間の『罪』とはそのくらいの行状や業で許されるような軽いものでしょうか?

もし、「そうだ」と言うのであれば、ものみの塔はキリスト教ではありません。
キリストの犠牲の価値を自分の善行で得られるというところはまさしくユダヤ教であって、しかもその優越感はパリサイ派というべきでしょう。

ものみの塔は、キリストの犠牲を受けるについて行状と宣教という二つの条件を付けてきましたが、証人には楽園での永遠の命に「救われる」と思えばこそ、その条件を受け入れてしまう弱みがあります。それは代価の支払いのようであり、実にその支払い先は神でもキリストでもなく、信者に永遠の命を請け合ってきた「組織」であり、そうして人々の多大な犠牲の上に、この宗教組織は発展を遂げてきたのです。
そこで神の裁きの結論は出ていることにされ、「組織」に問題なく交わっていれば、ハルマゲドンで滅ぼされることを免れるというのです。ですが神の裁きは「組織に属すかどうか」に「聖書研究」を通して気付かぬ内に捻じ曲げられ、信者の側では滅びへの恐れを原動力とする信仰が「組織」という偶像を欠かすことができなくなっています。

エホバの証人の信仰の要諦は、「楽園」という御利益であり、神との関係の回復が希薄です。理由は自分に関心が向いているからであり、崇拝の主人公は明らかに人間であって神ではありません。キリストの犠牲までも自分のためであったとすでに感謝を捧げるとは、この人々は『新しい契約』に預かっているつもりなのでしょうか。裁きの来る前に、もう救われるつもりなのです。

少し考えればエホバの証人でも分かりそうなものですが、「楽園」欲しさを動機とするものみの塔のヒステリックな差別化の義認は、超然としたパリサイ派そのもので、キリストの精紳に逆行するものです。
「エホバの証人の正しさ」は常にこの世の人々との行動の比較の上に成り立ってきました。つまり、つねに比較して優越感に浸るための卑しめの踏み台にする他の一般の人々を必要としてきたので、一般の人々と違うところが多いほどに、滅びの恐怖は薄らぐという自己義認の悪循環に陥ってきたのです。

例えれば、以前には種痘を拒ませ、後には輸血を拒ませることが神の是認と直結していると教えてきたのですが、これを求める聖句は使徒15:29だというのですが、これはイエスの弟ヤコブの意図を取り違えています。⇒ 「キリストの弟ヤコブの寛容さ
エホバの証人にとっては、「輸血を拒否するまでに自分たちは神の前に従順で正しい」のであり、命を懸けてまで神に従順であるのです。

しかし、これは聖書本来の意図、ユダヤ系キリスト教徒を異邦人系キリスト教徒がつまずかせないという観点を一顧だにせず、ただただ、「自分たちの楽園への救い」が確かである保証にしてしまっているのです。しかも「楽園での永遠の命」というご利益が聖書の本旨でもないにも関わらずのことです。実に人間にとって最重要なことは「永遠の命」とは言えません。(詩篇63:3)

全能の神してみれば、あらゆる魂を保持され、命を与えることができないわけもありません。それでも、現状で人間に永遠の命が無いということは、そこに事情が有ってのことに違いなく、それこそがアダム由来の不倫理性によるのであり、それは神の前に清い行状を見せれば赦されるものでありません。『新しい契約』にある『聖なる者ら』だけが、キリストの命に在って生き、『この世から出ている』のであり、それ以外のすべての人は「千年王国」の贖罪を必要としているのではありませんか?

聖書の本旨でない事には証人の数々の禁止事項だけでなく、宣教方式についても言えます。
使徒らの宣教は、第一にユダヤ人の会堂を用いて行われていました。
初期キリスト教は、まずユダヤ人からの反感、次いでローマ権力からの迫害に曝されてきました。
そこで「家から家」に宣べ伝えることは彼らの特徴であったとは言えません。

その言葉もパウロがエフェソスの年長者らに一度語っただけのものですが、エフェソスのユダヤ社会ばかりか、異教徒までがいかにパウロたちに反対したかを考えるなら、「家から家」への宣教はユダヤ教徒やアルテミス信者の迫害を煽るようなものであったことになります。それは危険なことでパウロの当時なら、男でも騒乱と死を覚悟しなければ、とても戸別伝道などの行える環境ではなかったことでしょう。(使徒19) これは「弟子らの家々で私的にも教えた」を意味する以上の何を読み込むべきでしょうか。

区域網羅の危険度は、エルサレム市内の場面からしてそうでしたから、そこでの「家から家」とは、神殿の中での公けの教えと、彼らの家々とで私的に教えたという以上に捉えることには実際上無理があります。神殿に立つ使徒らのグループに、一般の人々は祭司長派を恐れて加われなかったという当時の状況下で、どうして軒並み宣教して回れたものでしょう。(使徒5:13)

しかも[カト オイコン]を「家から家」と必ず訳すのなら、五旬節後のエルサレムの弟子たちは、「家から家へと食事をして回った」ことにもなってしまいます。(使徒5:42⇒使徒2:42)
これは明らかに、地元の弟子らが逗留を続けるディアスポラで信者となった人々への「家々」での私的な食事の提供を意味すると捉えるべきでしょう。

そのうえ、初代の弟子らには聖霊の奇跡の賜物という、人々が信仰を働かせるべき「神の証し」があったのです。パウロも『わたしが宣べ伝えた事柄は,説得のための知恵の言葉ではなく,霊と力の論証を伴うものでした。』と述べております。人々が迫害を恐れつつも使徒らに信仰を働かせたのは、神の証しであって、区域の網羅ではありませんし、生活の知恵を分かつことでもありませんでした。ですが、福音書は繰り返し聖霊によって為政者の前で語る聖なる者らの世界宣教について語っているのです。(使徒4:31/ヘブライ2:3-4/コリント第一2:4/マタイ10:17-20)

おそらくは、先に米国での宣教活動があり、それが戸別伝道であったのを、後から聖書に裏付けを捜してこの使徒言行録にやっと見つけたというところでしょう。これは「間違えた」というよりは、意図的にこじつけてきたもののように見えます。(「家から家」の矛盾)
「塔」が強要する伝道方法は、もっぱらキリスト教国に通用する狭い観点に立ったもので、今日のイスラム圏など命に関わることになります。仏教国とされる日本での宣教方法が的を外しているかのような強引さが見られるのも、他人にもフランクに話しかけるアメリカ人の世界観の単純さから来るように見受けられます。



このように、人間社会ではどこでも間違いや偽りの情報からは逃れられません。それゆえにも人々はより正確な情報を広く求めて日々努めているわけですから、この世の情報をすべて疑うべきものとすれば、ものみの塔からの情報について、その正確さをどのように検証するというのでしょうか?まさしくエホバの証人とは情報弱者の隷属にあります。
実に、ものみの塔の主張する「真理」とは、ごく普通の人々の評価にさえ耐えることもできない惰弱なものとなっており、その脆弱さは日々酷いものになっています。

それでもしがみ付く理由と言えば、「楽園での永遠の命」が素晴らしいと思えるからでしょう。
しかし、誰にでも「それを希望するなら与える」のなら、「裁き」は何のためでしょう? わざわざキリストが人々を右と左に分けるのは、ただ希望を聞くためですか? キリストによってユダヤが裁かれ、ユダヤ体制派が神の恩寵から退けられたのであれば、『永遠の命を得る』ことを願っていたパリサイ派の者らはどうなのでしょう。

彼らが自称する「証人」とは名ばかりで、社会的責任を問われると沈黙するか、証拠ある情報を頑なに否定するか以外に方途が無いようで、まして、教理の矛盾を聖書から示されると、その人を「背教者」となじるばかりで、自己判断さえ放棄してしまいます。
この人々は「世の人々は心を閉ざして、真理に耳を傾けようとしない」と嘆くのですが、ご自分たちは如何なものでしょうか。
反論や醜聞の一切に目を閉ざし、懸命に耳を塞いでまで守らればならない「真理」とは、何と脆いく弱いものでしょう。確固たる聖書の不動の言葉とどう調和するのでしょうか。真理を聞くまいと耳を塞いでステファノに突進したのは誰だったでしょうか?『預言者に石を投げつける』とは、反論を封殺しようと躍起になる圧制者を指していませんか。

この宗教団体では情報が上から下へと伝達されるだけで、一般の証人にはそれを検証する方法も許可も無いのです。それは「神からの経路」であるから、ただ信じろという事なのでしょう。
しかも指導部がミスを犯すことを認めろと強いてのことなのです。理由は、指導層も聖霊に霊感されておらず、やはり人間であって間違えるからだと言いますが、時折間違える情報源をどうして誰もが従うべき「神からの経路」と言えるのでしょうか?それならば他のどの宗教の情報源も「神からの経路」と言えましょう。

しかも、「使徒らも間違えることがあった」とまで言うのですが、使徒らの幾らかの勘違いを聖霊は正してゆきましたが、それは間違った行いを避けさせ、常に彼らの先に立って訂正が施されているではありませんか。では、ものみの塔の指導者らはどう正されてきたのでしょう。度々に問題を起こしては密かに、あるいは聖霊ではなく人々から訴えを起こされ不承不承にルールや見解を変えてはきませんでしたか?そこにどんな「聖霊の導き」があるのでしょうか。

使徒らの言葉は聖書に結実しており、二千年近く不動の言葉であるのに対して、ものみの塔の記事は二十年前のものですら、見解の「調整」が避けられませんし、近年は以前に鳴り物入りで出版した書物を処分するようにと信者に勧めているのですから、土台、比較の対象でさえありません。間違いなく只の「人間の教理」です。

「塔」のユダヤ教的な体質はまったく明白です。キリスト教的でないのです。
といいますのも、この宗教組織は信者を支配する方便として、キリスト教を称しながら、律法制度を混ぜ込み、支配層の都合に合わせて、あるときはキリスト教から、またあるときにはユダヤ教からというように教えを恣意的に取り混ぜているのです。
それは狡猾なほどであり、その目的は、信者に「永遠の命」を約束しつつ、組織的に「支配する」ことにあるという以外にありません。信者個人は尊重されず、時に間違える組織の指示が神の命令と同じ位置に置かれ、人間臭い組織を偶像化させてもいるのです。

ですが、旧約に含まれる部分から生活上の指導を行っているところで、致命的に聖書の新旧を混同しており、自分たちはキリスト教であるというその主張と律法的規則主義との間には根本的な無理があります。そのうえで、塔はなお「神の是認の下にある」と言うのです。加えて「真理はあなたがを自由にする」とまで言ってのけるのですが、「行いの義」に縛られた信者に、キリスト教らしい自発的自由がいったいどこにあるのでしょうか?

「永遠の命」という人間が与えることのできない事柄を、従うものにだけ約束し、その対価を組織に対して求めているのがこの「ものみの塔」という宗派の本質ではありませんか。未信者を「異邦人」と呼んで滅びゆく者と蔑視し、自分たちは楽園に招かれた選民であるかのように、様々に差別化を行っては自分たちの「義」を演出していますが、どんな行いをしようともアダムの罪を逃れられるわけもありません。


この宗派のユダヤ教的な体質の例を挙げますと
『ほんの少年から懲らしめを差し控えてはならない。あなたがむち棒でこれを打ちたたくなら,彼は死なないであろう。』(箴言23:13)
『愚かさが少年の心につながれている。懲らしめのむち棒がそれを彼から遠くに引き離す』(箴言22:15)

この点で箴言の翻訳では他の聖書翻訳と比べて、新世界訳は極端なまでに「懲らしめ」の語が多く、他の口語訳、新改訳、新共同訳、また英文のNew King James Versionと比較しても、そこから受ける印象の異様さは一目瞭然です。
他の翻訳では「懲らしめ」ではなく「諭し」や「戒め」としていますが、「懲罰」を連想させる語が新世界訳の特徴であることは呆然とさせられるほどです。
「懲らしめのむち棒」が「諭しの鞭」とされるだけでも、その印象も適用も変わってくるでしょう。(新共同訳)
もし、できれば箴言第一章の出だしの幾らかだけでも比べてみてください。それはそれは北朝鮮の国民指導のようです。


とはいえ、何が何でも「新世界訳」が間違いで、「聖書ではない」などとは申しません。
どんな翻訳聖書にも一長一短があるでしょう。
ですが、新世界訳にもやはり「これは?」と思えるところがあり、それは少なくもないのです。

しかし、その組織の体質が翻訳に表れているところは否めません。
さすがに、幼児へのムチにムリがあると実態を知って思い知らされた塔は、『懲らしめのむち棒』を後に『細棒』と訂正しましたが、実際に打たれる側にすれば、却って細いがために痛く、ナイフに近付くので皮膚に傷が残りやすいと云われます。それは却って過酷な「訂正」となりました。おそらく訂正を施した指導者には、打たれる側の観点や実施される様子の認識が欠けていたのでしょう。また、そのときの親子の心情さえ理解してはいないようにも思えます。

しかしそこで、「箴言」にせよ旧約の教訓の大半が、律法体制下のユダヤ人に向けたものであることはどれほど考慮されているのでしょうか。
確かに、ユダヤ教は国民皆信徒制で、生まれると割礼が施され、許されるべきほかの事情がなければ軍隊にも応徴しなければなりません。 塔が兵役拒否を誇るのであれば、軍務をも規定していた律法体制と決別するべき理由がここにもあります。

また、その体制下での非行少年は親の判断で処刑もされていたのです。そこでは確かに幼い内に訓練しなければ、『彼は死なない』とは確かに言えません。(申命記21:11-21)
この組織内では、行状が悪い子らは肉体的にも精神的にも無傷ではすみませんので、この辺りは古代のユダヤに倣うものでしょう。

また、律法では大人への鞭打ちも含まれており、古代には処刑としてのムチ打ちを行うことが習慣的であったと云えますが、人権尊重を基調とされるようになった今日、イスラム圏でもなければ、人へのムチはまことに異例であり、それが本当に行われるとなれば異様にさえ見えるものです。
それは古代中東の習慣には適用できても、現代では非常識の咎めを免れず、それがどれほど神の定めた律法の規定であると主張しましても、どうしてユダヤ教を去った筈のキリスト教徒に律法からの懲罰を適用できましょうか。

まして『夜明けから真昼まで,男や女およびその他理解できる者たちの前で,それを朗読し続けた。すべての民の耳は律法の書に[注意を向けて]いた。』とはエズラの時代の律法体制そのもので、しかも何歳とは書いてありません。
幼児が注意力が大人のようでなく、遊びたがるのは脳の自然な発育に不可欠ではないのでしょうか?集会中に静かにできないからと子供たちに制裁を加え、「小さな大人」を作る必要があるのでしょうか?一律で無理な強制は、その酬いをその子の将来に刈り取らせることにもなるでしょう。

箴言の冒頭で『懲らしめ』を強調するべきか、『諭し』の教訓の有用性を説くべきかも、ソロモンの箴言の持つ意味からして、後者であることは明らかなように思えます。
箴言は、律法の意味するところを照らし、その精神を知らせるところに意義があったと云えましょう。
ですが、イエスは自らを指して『ソロモンより偉大な者』と言われました。

やはり、律法が如何に神からのものであり、その精神に神の意向の反映があったとはいえ、その直接的行動基準が通用する時代はとうの昔に過ぎ去っており、パウロの明言するように『キリストは律法の終わり』であったという、はっきりとした意識が持たれなくてはなりません。

この人々に、古代の処刑法である「石打」であっても聖書に書いてあることならばそのまま行いますか?と問えば「律法は終わったので行わない」と答えることでしょう。そこではユダヤ教とキリスト教の大きな違いを誰もが意識されるものです。
では、子供への「鞭打ち」は律法体制のものでなくて何でしょうか。

新約聖書が鞭打ちを勧めているところをひとつでも挙げることができるでしょうか。ユダヤ人に向けて書かれたヘブライ書でだけムチ打つことの親の訓練について述べるのみです。そこでも、やはり親が子をムチ打つ姿は律法からのものであって、時代に即応すべきキリスト教らしいとは言えません。
それはアングロ=サクソン系白人の永年に亘る野蛮な幼児教育法であり、塔もその19世紀的慣習を是認してきたところで時代の変化から取り残されたように見えますが、教育を超えた虐待を受ける身になれば堪ったものではないはずです。しかも、日本人が如何に幼児に優しく接するかに、明治期に来た白人らは目を見張っていたというのですから、なおさら残念なことではありませんか。

元来ユダヤの律法契約下では、生まれながらに律法の条項をすべて守る務めを負っており、そこに宗教選択の自由などは存在しません。それから逃れることは死を意味しました。そこで、塔の親たちは『打ち叩けば、死なない』を子供を叩いて善行を強制すれば楽園で生きられるかのように錯覚したのでしょうか。しかし、律法体制下にキリスト教のような自発的信仰の自由はないのです。この違いは決定的です。

それを考えますと、確かに塔の信者の子ら、二世三世は律法体制下に在るかのような扱いを受けざるを得ません。宗教選択の自由、個人の信仰への尊重は生まれながらのユダヤ教徒のように実質的にほぼありません。彼らのバプテスマに教団社会内の暗黙の圧力を含んでいるところは「割礼」に近いものがあります。バプテスマを受けて組織に模範的に留まることが「救い」に置き換えられてしまっているので、「神の裁き」もこの組織内ですでに終わったことにされており、これはもう個人の宗教ではなくコミュニティの宗教の特色でしょう。

そこでは親と共にひとつの絶対性を主張する宗教に従う習慣により、自分で善悪を考えず、自ら決定することを怖れ、塔の過去の資料を検索して、そこに書かれた事柄が神の求めであるかのように行動を従属させるところは、今日のユダヤ人が生活上の指示を求めて、分冊になっているそれぞれ分厚いタルムード(最近は塔に同じくPC検索できるらしいですが)に従おうとするのと同じでしょう。

「原則」という言葉は振り翳すものの、自分からは考えて行動しないためにアガペーは育たず、実質的にユダヤ教に同じく、信者の人々を常識的道徳で縛るため、そこでは法はさらに多くの法を生まざるを得ず、厳格な組織権威の道徳体裁が築き上げられる一方で、あまり自分で考えることをしない信者は、却ってそれを頼もしく感じさえするでしょう。

しかし、これはもちろんキリスト教からの脱線であり、わざわざユダヤ教のコピー宗教を造っているのです。
自発的であるべきアガペーは、規則で縛られていない自由な環境で初めて育ち得るものなのです。

対して規則主義は、愛を型にはまった像にしてしまい、そこに命はありません。
それが醸造するものは規則を定める指導者の「権威」であって、彼らに従うことが「愛」や「義」にされてしまいます。
まさしく、この権威主義がエホバの証人の実態ではありませんか。
つまり、「兄弟」と呼び合いながらも「誰がより偉いか」と言い張っているのがこの組織の真の姿です。

実に、長老は巡回の、巡回は支部の、支部は本部統治体の見解を越えることができず、独自の見解は許されないのであり、何が「義」で何が「愛」かを決めるのも、より強い権威をもつ人間となっているのです。これは恐ろしい圧制というべきです。

また、律法的原則の影響のひとつに、人々を「善い人」と「悪い人」に分けて見ようとする傾向があります。
ですが、人間の罪は誰にも存在するので、この見方は現実的ではありません。誰にせよ、倫理的に善い行動と悪い行動があるばかりです。

しかし、それが服従体制下では、どれくらい組織に服従したかで善悪が決まってしまうのです。それも相対評価であり、パリサイ派がそうしていた通りです。そこでは、業を競って果てしない優越感の戦いが繰り広げられることでしょう。つまり、誰が一層「模範的」か?というキリスト教徒らしからぬ馬鹿げた争いです。

たとえ、そこまでゆかなくても、活発に伝道しており、排斥されておらず、道徳的に良い状態にあれば、果たして神の是認の下に居るのでしょうか?そう思うのは自由ですが、これはキリスト教のものではありません。それは信仰の宗教ではなく、滅びの恐怖からの保身の宗教というべきでしょう。

もし、このような「服従の宗教システム」をキリスト教徒に適用するのであれば、それは「信仰」を掲げるキリスト教が、「従順」によって義を得ようとするユダヤ教に後退させられ、未だに律法の奴隷状態に繋がれていることを自ら露わにすることでしょう。

つまり、塔の指導者らは、キリスト教も「愛の掟」の何たるかも本当には分かっていないのでしょう。ですが、律法制度がキリストの世代の内の西暦七十年に神殿を失って破綻して以来、人を救うものは規則への「従順」ではなく、自発的「信仰」であることはあまりにも明らかです。(ローマ4:14)

塔では「自由人のキリスト教」を実践する名目で、「律法への隷属」の宗教モデルを強制するのですからムリが来ないわけがありません。(ガラテア4:21-31)
個人の自由を与えるはずのキリスト教の看板の下で束縛的ユダヤ教を実践しようとするのです。
『新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる』とはこのことであり、やがて張り裂けぶどう酒はこぼれ出ることでしょう。その中身は実際、皮を破りつつあり、ぶどう酒はこぼれ始めているのを目にします。

どうして塔がこのようにユダヤ的であるかと問うなら、それはおそらく、指導層が規則を通して権威を振うことができ、「統治」が行い易いからでしょう。この点では「統治体」という言葉そのものにもキリスト教との齟齬が生じてしまっています。そこでは「サンヘドリン」以上の権威が主張されていて、まるで行政体のようですが、実際に塔では「神権統治」が行われているつもりであることをこの組織自ら明らかにしています。

ですが、どのように神がこの組織と契約関係を結んだりしたのでしょうか、いったい何時この組織に聖霊が注がれたのでしょうか。 それとも未だ地上に居る人々が、使徒や聖なる者たちを『抜きにして、王として支配を始めたのですか』。(コリ一4:8)

そして多くの場合、その神の同意もない無理な「統治」の犠牲者はもっぱら「懲らしめ」を受ける二世三世であるでしょう。
神との契約に在る訳も無い塔組織に従う親を持って、生まれながらにこの状況に置かれるとは、まったく、お気の毒というほかありません。それでは生まれで宗教が決まる旧来の諸宗教と同じく、個人の信仰の自由も尊厳もないということでは本来のキリスト教からは乖離しております。

また、「大人のための懲らしめのムチ」ともいうべき「排斥制度」に至っては、ユダヤ教徒が歴史上、再三為政者を悩ませたように、ユダヤ的な司法制度であり政治的に問題を呼び込むのは理の当然と云えましょう。
何故なら、その法治国家にふたつの司法制度が存在してしまい、ものみの塔と言う名の排他的独善性の壁に囲まれたゲットーの中で逃れ難いリンチ(私刑)を課してしまっているからであり、まさにキリスト自身もユダヤ教の偏狭な祭司長派の宗教上のリンチを受け、同意しかねるピラトゥスにその処刑を強要したのでありませんか。

おそらくは、今日の塔の内部にキリストが来られるとすれば、サンヘドリン同様に上層部は主を背教者として排斥に処すでしょう。聖霊の働きを否定し自分たちを正しいとすることにおいて、サンヘドリンにも統治体にも妥協は無いからです。
その通り!統治体は寛容なるエルサレムの使徒会議の継承ではなく、その偏狭さも定常性も権威指向もサンヘドリンの血統に属することを自ら示していないでしょうか。

現代では、そこに人権蹂躙も絡んできますが、これはまったく時代錯誤的であり、キリスト教のアガペーとの対極にあるハルマゲドンの滅びを利用した恐怖の従順、シナイ山が激震し、神の大音量の声に怯える必要のあった律法制度下の隷属にいまだ信徒を置こうとしているのです。(出埃20:19-20/ガラテア4:22-26/ヘブライ12:18-24)

その恐れを強調するために「サタンの攻撃がある」との妄想を信者に抱かせていますが
ライオンの吼える習性を敷衍し、組織という囲いの中から恐れさせて出させたところをサタンは襲うというのです。
ですが、どちらかと言えば、羊たちは「組織」という名の檻のなかで貴重な時間や財産をライオンに貪り食われている最中ではないのでしょうか。しかも、檻の外への恐怖に怯えさせてのことです。

ご本人がそれでもよいということであれば、その意志は尊重されるべきであり仕方も無いのですが、後になって「騙された」という認識に変わったところで、一体誰が責任をとることができ、生涯にわたるような大きな損失をどう補填できるのでしょう。「自己責任」という言葉の恐ろしさもそこにあります。そのうえ、伝道して回った以上、「騙された」とはいえ、その拡散に努めたことにおいて、加害側に組したという以外にありません。

ですから、長くこの組織の「指導」に従って来られた伝道者であるほどに、これらの点を認めることに大きな躊躇があるはずです。
これから転向することが、その実績を無にするほどの謙虚さを求めるからであり、それは倫理的に凡庸な人にはなかなかできないことでしょう。

詰る所、自分の身は自分で守らねばならず、その点で、「緊急感」を演壇から説くような方が、老後に備えていつのまにやら内緒でバリアフリーのマンションなど購入していたというお話などは、この組織の本質を弁えた本音と建て前の「使い分け」であり、教理とは別に本能的に賢いのでしょう。その延長線上に「楽園」もあれば、その方にとっては「間違いのない人生」なのかも知れませんが・・虚しくはないものでしょうか。

以上が、様々なブログから感じたところですが
塔のキリスト教は、教会の人々が云うような意味ではなく
その行う実際において、やはりキリスト教らしいとは言えません。

教会員はエホバの証人を「異端」また「カルト」と言うのでしょうけれども
実質的には、キリスト教にユダヤ教を持ち込んだ為に、信者を苦しめてしまったと言うべきでしょう。

キリスト教の場合、信仰は個人の価値観が懐かせるものであり、家族関係が「救い」となるのは幼児くらいです。(コリント第一7:14)
それを『むち棒でこれを打ちたたくなら,彼は死なない』というのは律法を守る人格形成の話であり、それでは却ってキリスト教らしく自分で考え行動する自発性の成長を失わせるばかりです。証人の親御さんたちは、愛するお子さんを「楽園に入れよう」として、却って神から遠ざけるという反対行動をとっていることになるのです。

そこで優等生や模範者の外見を作ることが親の責務になってしまい、信仰を育てることから大きく外れてしまいます。
キリスト教の信仰とは内面の自発的選択であって、律法の従順な遵守者を作る事とは180度異なります。(ガラテア4:22-26)
従って、キリスト教の規準は「その心を見る」神の視点であり、人の外見によらないのです。それはキリスト・イエス自身がエリートや模範者ではなく、罪人と共に居たところによく表れています。
たとえ、その信者たちが善行に富むとしても、外的規則ではなく、内面からの愛でなければ何の意味もありません。

その点で塔は、イエスが共に居た罪人たちは悪行を克服していた人々であることを強調しますが、聖書の記述は必ずしもそれを支持しておりません。

例えれば、ザアカイですが、新世界訳は『ゆすり取ったものは,四倍にして元に返しています』と訳します。(ルカ19:8)
ここを多くの翻訳は、突然に宿泊したキリストに感化された結果としてのザアカイの決意を含意して、『私がだまし取った物は、四倍にして返します。』としています。
新世界訳の訳し方は、ギリシア語に現在進行形が無かったことを巧みに突いた手加減というべきでしょう。

この翻訳でのザアカイであれば、イエスに会う以前に、収税人という悪辣非道な行いを自ら改めていたことになり、それを知っていたイエスが彼の客となったことになります。そこではキリストの感化が、彼にどう及んだのでしょうか。

それとも感化を与えたのは、イエスではなくて律法の方だったのでしょうか。では収税人や娼婦がシュナゴーグでモーセを聴けたのですか。そこで彼らは既に悔い改めて転向していたというのでしょうか。それなら立派なユダヤ教徒であり、それにも関わらずイエスの御許に罪人が集まったのは何故でしょう。 彼らは、キリストに集められたイスラエルの『失われた羊』ではなかったのでしょうか。

いいえ、このユダヤ社会から弾き出された人々は、メシアの奇跡の噂を聞いて、信仰を働かせたのであり、律法に基づいて行状の表面を自己努力で整えていたとは言えません。
当時の娼婦や収税人がユダヤ社会から締め出され、言わば「排斥」の状態にあったことはよく知られたことであり、一般人は彼らに近付かず、娼婦や収税人は会堂に出入りも許されず、話し相手といえば同業者ばかりであったと言われます。
しかし、イエスはその排斥された人々の間に身を置き、共に食事をしていたのですが、それに不平を鳴らしたのは誰だったでしょうか?

そこで塔は、あたかもパリサイ人のように「キリストのコミュニティに入る者は、以前には悪行を為す者であっても、悔い改めて行いを転向した者からイエスの許に来てよかったのであり、エホバの証人になる前には全員が同様の道徳的水準に達していなければならない」とやりたかったことでしょう。 ここで「排斥」という道徳的水準強制の役割が生じます。それを神の是認を得る条件にして、再び律法主義の奴隷に戻ろうとしているのです。

その動機は、パリサイ派のように自分たちだけは「取分けられた清い者」でありたいという、利己的な傲慢さであり、自分たちだけは既に神の是認に入っているという、惰弱な保身というべきで、神のご意志を探る大志も気概も無く、ただ神の怒りを怖れてはいないのでしょうか。そこに自発的で闊達なアガペーの光明があるでしょうか。

しかし、そのような「キリスト教」は、人間の倫理的実際とのバランスを崩すことでしょう。
その証拠が法廷で争われる様々な(倫理上の)問題となって現れてきていると見做すのは間違いでしょうか。
つまり、人間の倫理性への過剰な期待があり、その扱いのどこかに実際上の無理があるのです。これを強行すれば、罪ある皆が善人の仮面をかぶった異様な集まりとなり、相互監視の牢獄のようになることでしょう。

確かに、キリストの死後、ペンテコステを経てからは聖霊の注ぎが起こっていますので、その人々に一定の道徳水準が維持されるべきであったのは前述の通りです。ですから新約(ギリシア語)聖書にも道徳上の規制があるのはそのためであり、キリスト教徒が放埓に振る舞うことを思い留まらせるものは、神の是認を失うことやハルマゲドンの滅びではなく、「聖徒」の場合には『上への召し』を受け、神と人に仕える者となる「新しい契約」が関わっており、「信徒」の場合も神と人への愛からのものでなければ、その道徳性に意味がありません。

ですが、地を受け継ぎたいなら、「聖徒の道徳水準を守れ」とやってしまったなら、キリスト教の精紳との間に超え難い矛盾を孕むことになります。
「罪多き者、多くを愛す」の、涙でイエスの足を洗い、髪でそれを拭った女や、『健康な人に医者は必要でなく,病んでいる人に[必要]なのです』と語ったイエスの精紳は、そこで的確に理解も把握もされず、「自分は神の前に義人である」としたパリサイの弟子となるよう求めることになるでしょう。

これを間接的に助長しているのが「排斥制度」であり、会衆からの放逐はユダヤ律法時代から少しも変っていません。そこで弱者は追いやられ、脱落もするに違いなく、皆が役者のように模範者を装う証人独特の社会が当然に発生します。

ですが、涙でイエスの足を洗った女にせよ、ザアカイにせよ、イエスに会う以前から転向して模範的な行いをしていたのなら、なぜ周囲からなお悪評であったのでしょうか。

人には、道徳性について自分の努力ではどうにもならないこともあり、避けられないからこそ、キリストの犠牲を要したのではなかったのでしょうか。聖徒にあってさえ罪の許しがあることを新約聖書は述べていなかったでしょうか。(ヤコブ5:14-15/ヨハネ第一5:16-17)


このように内面を重要視せず、宣教時間や言動の模範性で信徒を判断し、より救いに近いような錯覚を懐かせたこと、また現にそうしていることがもはや精神疾患などの実害を招き、犯罪的レベルに達していることが、これらの方々の証言から明らかではありませんか。パウロも『義』は『業によらず』『無償の賜物』であると言っているではありませんか。
しかし、人類全体は、依然として神の裁きを前にしているのであり、そこでは誰もが「罪」あることにおいて何ら変わりはありません。

それを、親が子に模範的であって「楽園」に入って欲しいというのは、家族の自然な情の様でありながら、実は信仰を観られ査察される神の裁定を度外視したご利益信仰であって、まったく愛の実践ではありません。
それは意図せずに子をいたぶるばかりか、却って神への自発的信仰から遠ざけ、「もう聖書など見たくもない」と言わしめているのです。
なんという神への反対行動なのでしょうか。これは教理が聖書的か否かを超えて、実害を及ぼしているのです。

もはや、この組織の人格蹂躙の弊害は他の様々なところからも裁判沙汰となって噴出し始めており
ともあれ、自分を精神的にも経済的にも守るために行動を起こすべき時であることは傍目にも明白と云えましょう。
おそらくは統治体でさえそこに気付いていて、「賢く」も、また「思慮深く」も、信者の大量離脱に備え、縮小モードに入っているように見えてなりません。ならば「知らぬは被害者ばかり也」

律法の諭しを適用するのなら、せめて『賢くあって、我が心を喜ばせて』欲しいものです。(箴言27:11)
ユダヤ教のように「服従して救われよう」とする打算的賢さではなく、キリスト教らしく自発的に「信仰を働かせ」キリストの精紳に倣った無私な賢さの方が神の喜びとなるに違いありません。⇒「ユダヤ教とキリスト教の歴然たる違い

アメリカ発の比較的新しい19世紀頃にスタートしたような宗派にはこうした旧約的で圧政的なところに特徴がみられます。
このような、愛と自発心ではなく、恐れと従順の律法的キリスト教を、それもここまで有害なものを放置させてしまったのは、キリスト教に対する無知が原因しており、その責任を担うべきは指導者側ばかりではありません。キリスト教徒を自称しながら、聖書を充分に読まず、「楽園に入る」ことばかり考えて、神の真意を探ろうとはしなかったすべての信者も含まれると思えてなりません。結果的とはいえ、その組織体制を支持しなかったわけではないからです。

「覚醒」したばかりであれば被害者意識が勝っても致し方ないかも知れません。
ですが、信じ込んでいた間は、ものみの塔という体制の支持者であったことは明らかで、何らかの仕方で加害側に立った恐れは拭えません。


更には審理の現場で組織の言うなりになって排斥なりの裁きを下した方々は、裁かれた被害者以上にまことに不幸であったということになるでしょう。「裁き人」は、キリスト教徒としては的外れなユダヤ教的行動を取って、しかも要らぬ心痛を羊に与えたからです。
『悪を行って苦しみに遭うよりは、善を行って苦しむ方がよい』とは、却って被害者への慰めとなり得ます。

もし、上層部との事前の協議があって悪行のリストを周到に準備するなどした上で、はじめから排斥有りきの形ばかりの審理を下したのであれば、その審理する側に立った人々は更に不幸なことであると思えます。 キリスト教の精紳からはまったく離れてしまっており、その信仰は破綻しているようにしか見えないからです。

それこそ傍目にもカヤファが邪悪さのうちにイエスに不利な証人を寄せ集めた姿に重なるではありませんか。カヤファでさえ「民と崇拝を(ローマから)守る」というもっともらしい大義名分があったのです。それは善の美名の下に悪を行うことであり、排斥の審理のあらゆる協力者はイスカリオテのユダの役回りを不承不承に、あるいは喜んで演じたということになるでしょう。

さて、こうした「聖書に書いてあるからそうなのだ」式の浅はかな信仰はアメリカ由来のもので
つまり原理主義ですが、愚かなユダヤ的熱狂と紙一重の危うい「信仰」でしょう。
それは、キリスト教全般への教養の薄く、聖書の字面は追っても、その精神を学ばなかった人々の間で起こる疫病のような信仰というべきものでしょう。

そして、日本はキリスト教国でなかったこともあり、カルト的キリスト教をあまり知らず、防疫面に弱さがありましたから、「カルトには一切関係ありません」と叫びはしても、どこがどう危険かを理を立てて説明できるほどの人が教会を含めて稀にしか居ませんでした。 この点では、不条理な三位一体を教える旧態依然とした教会側が、教理の説得力においては塔に大敗していて防戦一方であったことも原因しているでしょう。こうしてキリスト教界は全体としても巨悪に塗れて参りました。

ともあれ、ものみの塔については、日本で「ユダヤ折衷キリスト教」への免疫が出来ていなかったのか、発生地アメリカの病気に多くの人が罹ってしまいました。総じて言えば、ものみの塔もエホバの証人も、アメリカ人のご都合主義で出来上がった新興宗教という以外にありません。
その疫病に冒され、今日も20万もの感染者を出してしまっております。

一度これに罹患すると、聖書を熟読して真正面から自分で考えるというワクチンを自ら頑なに断ってしまうのです。
その病状の原因のひとつに、「永遠の命」や「楽園」の喪失、また「排斥」と「忌避」への恐れがあるでしょう。また、暖かい交友を失う恐れもあるでしょう。そこはやはり「ご利益信仰」という以外ありません。

エホバの証人に関しては、この交友関係こそが現世的な(ほぼ唯一の)利益となっております。
ですから、そこから排除されるということが、どれほどの損失になるかは計り知れません。
そのゆえにも、ものみの塔は聖書の根拠を曖昧にしてでも、「排斥」の制度を存続させてきたのでしょう。民をコントロールし、信者の上に統治権を唱えるためにです。

しかし、この組織で得た交友関係は誰の所有に帰するものなのでしょう?塔という組織でしょうか。そう主張するとすれば、それは自然な人間性の発露である交友関係そのものに対する度外れな占有というべきでしょう。

しかし、今やそこから逃れ出たいと願ってやまない人々は少なくは無いことは特に二世、三世に明らかです。
せめて、自ら進んでそこに残りたい人々が残ればそれで十分ではないでしょうか。

「罪」ある人間にとって、その持てる「真理」とは絶対なものにはけっしてなりません。
それが証拠に、これまでの百年だけでも塔は何度、教理や見解を変更してきましたか?最初の理解と現在のものはどれほど異なっているのでしょうか。また、現役の方々はそれをどれほど知っているのでしょうか。

人間の教えである以上、変更は仕方がないとしても、それが唯一神の是認された組織の教えであるとしてきたところに、最大の欺騙があります。「自分は正しいから従え」と唱えて『信仰の主人』として君臨してきたからです。それは正しく聖霊の注がれ、不動の理解を教えた『奥義の家令』、パウロでさえ避けたことではありませんか。

人間の主張への信仰は、倫理上の個人の選択の域を出ることはもちろん、そこに救いがあるわけでも無いという現実に気付いて頂きたいものです。そこではすべての人が依然として「終末の裁き」を前にしているのでありまして、「救い」の可否は、律法制度のように人や組織への「従順」に依拠するものではけっしてありません。

「救い」こそは、終末でキリストの臨在の紛うことのない印である「聖霊の力や知恵」に信仰を表し、真実にその印を持つ、聖霊によって油そそがれた人々、発言を訂正することのない『聖なる者たち』を自発的に支持する行動を起こすことに依るのです。それを為させるのがまさに「信仰」と言えましょう。

そこでは「神だけが真理を持つ」ということを、別の言葉に置き換えるべきではありませんし、「再び奴隷となる」べきでもありません。(ローマ3:4/ガラテア4:5)
この点では、人はみな神を待たねばなりません。したがって、少なくともキリスト教では自派を絶対化することは是非とも避けるべきであり、終末の聖霊の声を待つ姿勢が求められるのです。 ⇒ヨブ記の結論

しかし、この派からの逃避や脱出を願う人々の前には様々な障碍が置かれていて、たいへん難しい状況にあることが多くのブログ記事から伝わって参ります。

ですが、証人や元証人、また忌避された方々を含め、聖書もキリスト教も、けっして皆さんを断罪してはいないことを得心し、心を安んじて頂きたいものです。
もちろん塔だけが神に用いられている見える組織などということはあり得ません。普通に間違いを犯す人間製の組織です。
もし、本当に神への信仰があるなら、今からでも個人として神を待つことは難しいことではないでしょう。なぜなら、神に用いられている組織など今日まで地上に絶えて久しいからなのです。

しかし、こうして書くばかりであることを非力に痛感する次第であります。


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エホバの証人の排斥制度の根拠が聖書にあるか?

2014.09.02 (Tue)
" Does the Bible have grounds for The Shunning of Jehovah's Witnesses? "
English translation of this article
 


所謂「覚醒」なさった方々のブログを幾つか読んでいて気付いたことがあります。

それはエホバの証人の中で行われている「排斥」と呼ばれる制度についてのことですが、聖書の神の命令であるとすることそのものについては余り問われていません。
人は何を信じようと自由であるべきことに異論はないのですが
しかし、誰であれ、実害が生じたところで責は問われるのも道理です。

「ものみの塔」の主張する、聖書に書かれているからという理由で、信者に科せられた一定の道徳規準から逸脱して言わば「罪」を犯したとされる人々に対する「挨拶」や「個人的会話や接触」を友人や家族でも断つという、「排斥」と呼ばれる特徴ある忌避制度が、塔そのものに疑念を懐き、あるいは既に塔から離れている状態にある元証人の方々にあっても、やはり忌避の根拠が聖書にあると捉えられていることを知りました。根底に横たわる問題は、自己義認の貪欲がもたらした「聖書絶対正義」の誤謬です。しかし、聖書に従えば真の崇拝となるというのは単純な妄想であり、厳密に従ったユダヤ指導者層はキリストを退け殺害しているのはこの誤謬に陥ることへの明白な警告と言えましょう。それが自己義認に走り、知識に優るものを退けた酬いです。

そこで、この根拠についてもう一度聖書を読み直して頂きたく思い、以下に元証人の方に書き送った書簡に書き足して掲載することに致しました。

近年「ものみの塔」では「排斥」ばかりでなく「断絶」の範囲も広げ、批判を避けるべく輸血を受けた信者を審理せずに断絶したことにしていますので、これは「忌避」の全体に関わるものです.。忌避が乱用されていることは、この教団の「真理」が強い情報統制を施さなければ存立できないほど、いよいよ不合理で弱まってきている表れというべきでしょう。この教団の「真理」というものは、いまや強権独裁国家の主張のように真実さのない「密室の真理」に程度を下げ続けており、この数年だけでも劣化のペースを上げていることが内外で実感されています。集会の内容は「状況倫理」のような生活道徳と神に好かれる方法論が大半を占めるようになりました。その中に在って、忌避を含む個人の倫理的な判断も、いよいよ社会通念や自然な情愛から遮断され、多くの訴訟が起こされる中で、理性的良識を欠いた苛烈さ、異様さが目立ってまいりました。

つまり、異なる思想信条を持つなら、本来あるべき家族、親族また一切の交友関係を与えないと脅しているのがこの宗教組織の実態であり、しかも、この宗教団体「ものみの塔」では、これが圧制下に有り勝ちな情報統制による信者確保の方便ではなく、神やキリストの意志からきている「愛ある懲らしめ」だとまでいうのですが、信者を見えない牢獄に突き入れ、互いの交友を断ち、家庭の自然な情愛を破壊する実害が、真に「人の負うべき正しい行い」と言えるでしょうか?また、その実態が聖書の教えがもたらしている「愛ある業」なのでしょうか? もし、そうでないとすれば、この「忌避」は神や聖書を偽り伝える悪魔的違背行為にはならないものでしょうか?

以下、長文になりますが、忌避行為について「ものみの塔」が主張する聖書の根拠を考慮しております。
あるいは閲覧のみなさまの一助になりますなら幸いに存じます。
また、ものみの塔からすれば、この筆者を「背教者」となじることは、まことに簡単なことでしょうけれども、理を立てて誤りを指摘なさることについてはどうなのでしょうか。



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多くの現役信徒さん方ばかりでなく、中には元信徒さん方までもが「排斥の制度は聖書の根拠がある」と思っていらっしゃるようです。

しかし、明確に申し上げまして
まったく、ありません。
これは痛々しいばかりの誤解です。

まず、道徳規準を定めるところから的外れになっているのです。
例えれば
コリント第一6:9-10
ここでは『淫行の者,偶像を礼拝する者,姦淫をする者,不自然な目的のために囲われた男,男どうしで寝る者, 盗む者,貪欲な者,大酒飲み,ののしる者,ゆすり取る者はいずれも神の王国を受け継がない』とあります。(以下新世界訳)

これは誰に求められた道徳規準なのでしょうか? 「真のクリスチャン」と答えるとすれば相当な誤解があります。
その文脈を見るなら、それは『聖なる者たち』であり『神の霊をもって,義と宣せられた』状態に入っているところの、『新しい契約』に預かり、聖霊と賜物を受け、それによって清められ、すでに地上に在って仮の贖罪に入った人々であることは文脈の語る通りです。(ローマ8:29・33)

そこで、ここに記された道徳性の要求はキリストと共なる『兄弟たち』である『聖徒』に関するものであることはまったく明らかとなっています。
『聖徒』とは、『キリストの花嫁』となるために『上への召し』を受けた格別な人々を表します。彼らは『清い民』でありますから、神が聖であられるように『聖なる者』となることが当然に求められています。つまり、「対型的なレビ族」であり、他部族より一段高い清さが求められたのです。(ペテロ第一1:15/レヴィ21章)

ですから、イエスが『入ろうと努めながら、入れない者は多い』と言われたのは、新しい契約を通して『神の王国』『聖なる国民』を目指すべきであったイスラエル人に向けた言葉でありまして、それゆえにも『精力的に励む』ようにとも言われましたが、あらゆる信者を不安に陥らせ、何かの業を要求するために利用されるべき句ではありません。もちろん、贖罪を行う側と贖罪される側ほどに異なる人々を混同してよいものではありません。

他方で、娼婦や収税人など道徳的に行状の芳しくない人々は、キリストの当時、ユダヤ教の会堂に入ってモーセを聴くことが許されませんでした。他方、会堂に入り律法を学ぶことのできる人々には、無割礼の異邦人でも一定の道徳性が求められ、淫行や不品行の評判があったり、飲血や神殿会食など、当然ギリシア的な偶像崇拝に類いする事柄を行うようでは追放されてしまいます。

当時の律法を守っていると自負していたユダヤ教徒、特にパリサイ派にとっては律法が自分の義を示す道具であり、従えない『呪われた者たち』は彼らの清さや正義を示すための踏み台であったのです。
しかし、キリストは『医者を必要とするのは病人』であり『わたしは義人ではなく罪人を招くために来た』とも言われ、宗教教師らとは異なり、彼らが見放したイスラエルの失われた人々に寄り添われています。

イエスの弟子らは、後に聖霊の注ぎを受け、『新しい契約』に預かることによって浄めを受けていますから、『キリストの兄弟』の高みに挙げられた以上、行いを改め『聖なる行状』が求められたとしてもそれは理に適ったことでしょう。
では、ものみの塔の中の「油注がれたクリスチャン」の方々は、どんな根拠の「聖さ」に達しているのというのでしょうか。

聖霊の注ぎが起り、弟子らが聖なる者とされたのであればともかくも、聖なる道徳水準に達していることを戒律のようにして契約にない『大群衆』に相当する「信徒」に求めるとすれば、それは「聖徒」と「信徒」の区別が分からずにいることを指導者は露わにしていることになります。しかも、それは人間という『罪』ある現実を無視し、『業』の良し悪しでパリサイ人のように裁いているのです。

ものみの塔が唱導する「忌避」には、卑しめられた罪人たちを気遣うことで、業を誇る宗教エリートらと対立したキリストの慈愛ある精神は無く、正反対の『週二回断食をし、十分の一を納めて』『ほかの人々のようでない』ことを感謝しているパリサイ人の精神を表しています。これは言い逃れできない事実であり、キリストが『その実によって見分ける』と言われたように、そのキリスト教はどこかで間違えており、正反対の教えになってしまっているのです。

もちろん誰であれ悪行は避けられるべきですが、キリスト教の場合、それも他者へのアガペーから発するものでなければ意味がありません。純粋な愛は自発的なものであるでしょう。悪行を避けるにせよ、エホバの証人の場合には、楽園に入りたいだけの自己義認であって、忌避する対象を「罪人」にしてしまい、パリサイ人のように自分たちの救いの踏み台にしているではありませんか。もっともらしく、悪行者を反省させるなどと吹聴していますが、聖書をよく見てください。適用する相手がまるで違います。貴重なキリストの犠牲を人類に与えたほどの神が、どうして「エホバの証人の義の規準」で人を裁かなければならないのでしょう。

この点では、信者だけの天国と不信者の地獄を教えるならキリスト教界も容易にこの誤ちに落ち兼ねません。
自分の義を願って、聖書の中に何かの規則を見つけては、それを行っていることに安心したいのであり、救いの実感がいま欲しいばかりに律法の教条主義舞い戻ってしまいます。その一人よがりの動機に利己心以外に何があるでしょうか。

忌避の聖句については『交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように』というコリント第一の第五章ですが、先立つ文脈である四章には『わたしたちもあなた方と一緒に王として支配する』と明記されている以上、これは聖なる者への要求であり、確かに彼らは『新しい契約』を全うしなければなりません。(コリント第一4:8)
またヨハネ第二の手紙での『決して家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません』とされる相手は、信仰の仲間ではなくキリストの肉体での地上の現れと死を認めないグノーシス派の分子を指していることを史料は示しています。(ヨハネ第二7-11)

晩年の使徒ヨハネは、エフェソスを中心に活動していたことが「教会史」などの資料に明らかですが、当時は神殿を失い、エルサレムも失ったユダヤ教に幻滅を感じた元ユダヤ教徒が、キリスト教も取り込んだかのように紛らわしいグノーシス派を興しており、その指導者のひとりケリントスにヨハネは面識があり、ヨハネがエフェソスの浴場でケリントスを目にすると、一目散に出て行った事例がスミュルナ出身のエイレナイオスによって伝えられております。(エイレナイオス;異端反駁1:28/3:3)

彼らは、イエスの「仮現説」を唱導し、キリストは苦難を受ける前にイエスの肉体を離れたと教えていました。『あいさつのことばをかけてもなりません』と同じ文脈が言うように、『すなわち,イエス・キリストが肉体で来られたことを告白しない者たちで』、ケリントスによれば、初めからキリストは霊者であって、ナザレのイエスの肉体を借りて憑依していたというのです。ヨハネは彼らについて『反キリスト』と呼ぶのです。(ヨハネ第二7)
イエスの胸元に寄り添い、受難と死をペテロやマリアと共に直に目撃した使徒ヨハネからすれば、これは到底認めるわけにゆかないに違いなく、そのような紛らわしい教えを唱える分子がエクレシアに入り込んで影響を与えることなど、けっして許せなかったことでしょう。そのうえケリントスの教えは千年楽園説でもあり、それでいてユダヤ的道徳性を称揚してもいるというほどに紛らわしいものであったとされます。つまり、ものみの塔の言う不道徳に陥った仲間を指しているのではなく、本格的な背教への警告であったのです。

これを『あいさつのことばをかける者は,その邪悪な業にあずかる』の部分を拾い上げ、パウロの別の意味の句と同じに扱うのは、自分たちの自己義認の踏み台とするために、信仰の仲間を犠牲にすることであり、「悪質な聖句の流用」であって、大半の証人が「聖書にあるからそうなのだ」と納得しているとすれば、エホバの証人とは聖書もきちんとは読んでおらず、キリスト教の歴史も知らずに、ひどく欺かれた人々の集まりというべきでしょう。聖句を質に取り、自分の「服従」によって自分の「義」を神に押し付けているその姿はまさしくヨブ記の意義を知らない蒙昧ではありませんか。 ⇒「ヨブ記の結論

こうして、本来は別のことを述べている聖句の数々を教団の都合に合わせて組み合わせるなら、どんなサタン的仕業をも人に行わせることができるのではありませんか。
それが証拠にイエスまで誘惑したサタンが聖句をどう使ったかを思い返してみてください。そうして、キリスト教徒らしからぬ個人攻撃の最たるものである陰険な忌避を、本来は愛情深く良識ある人々に強制させ、生き辛いこの世に在って寄り添う人々が、生きるための精神的、また実際的糧を備える家庭という、無条件に親密であるべき人間関係、神の創始した基本的制度まで破壊してきたのです。それでは「中傷者」(ディアボロス)の業ではありませんか?

この世の司法が、忌避行為を人権蹂躙として告発するのも当然でしょう。その行いの実が、何と言い繕いしようとも証明してしまっているのですから。
忌避行為の狙いと言えば、教団の暗部を信者に知らせず、人数を、また寄付金を減らさないところにあるでしょう。それだけその「闇」は深く、教団は、批判はおろか疑問にさえ答えられない程に脆くなっているのでしょう。そうであれば、今後も忌避は止めようがないでしょう。このような事を「罪の上塗り」というのではありませんか。

他方、彼らの言う「油そそがれたクリスチャン」という指導層の名称も、相当に聖書記述からは脱線しており、これも白日の下には曝せない程に欺瞞的で、それも彼らが「ギリシア語聖書」という部分を幾らか読み込めば、この教団の解釈者は、聖書を読んでいないのではないかと思わせる程に幼稚です。

聖書中に度々現れるこの『聖徒ら』、つまり『聖なる者たち』(ハギオイ)は、聖霊を注がれた人々を指すにも関わらず、「塔」 はこの道徳基準を契約にあるわけでもない人々に当てはめて、その道徳規準を重荷としたうえ、その一方では「油そそがれたクリスチャン」という聖書に存在しない名称に置き換えて『聖なる者』とは呼ばず、奇跡は古代に途絶えたと主張して、実際に聖霊を持つわけもない偽りの『聖なる者たち』を自分たちの中に存在させてきたのです。⇒ 「ものみの塔の奇跡の業への見方」

しかし、キリストの臨在する終末こそは、それまでにない強力で世界に知られるほどの奇跡を通し、『神の御腕が目覚める』ときとなることは、多くの預言から余りにも明らかなこととして聖書は再三明らかにしているのです。(イザヤ51:9/ミカ7:15-16)

しかし、統治体という『キリストの兄弟』を自認する人々は『聖なる者』に相応しいのでしょうか?いいえ、問題外です!
裁判には出頭せず、信者からの訴訟さえ「背教者のデマ」と言い訳を繰り返してはいないでしょうか?

彼らが、使徒4章を引用するかのように法廷命令に対し「人よりも神に従う」と言うのは、まったく的外れです。「二人の証人」を理由に性犯罪者の隠匿をするとは、どれほど使徒たちとは異なる「低次元の行い」を訴えられていることでしょうか。それは今日のような録音手段の無かった当時には有効な方法ではあったかもしれませんが、結果的に組織の指導者を守って信者の人権を貶めることの理由にしてしまっているではありませんか?(聖書に従えば何でも正しいわけではありません

他方で、「キリストの兄弟」また『聖なる者』について聖書は何と述べるでしょう。
この聖霊によって奇跡を行い、為政者らと命がけで対峙し、誰も論駁できない聖霊の言葉を語る『聖なる』人々は、仮のものとはいえ、人類に先立って贖罪され、既にアダム由来の「罪」を許されています。これは非常に大きな違いです。(ルカ21:12-15/エフェソス4:30)

しかし、「塔」はこの辺りの教理さえ明瞭に語りません。その理由は、「大群衆」なる大多数の信者と「油そそがれたクリスチャン」の違いを聖書の言う通りに大きなものであることを認めれば、大半の信者の不興を買うことを許して、人数を失うことになるからでしょう。エホバの証人が戸口から戸口へと人海戦術で行う世界宣教も、聖書は『聖霊』こそが短期間に行うことを述べてはいませんか。(マタイ10:18)

この注がれた『聖霊』が、『聖なる者たち』を聖別するものであることをペテロは
『父なる神の予知にしたがい,霊による聖化をもって,[また]従順な者となってイエス・キリストの血を振り掛けられる目的で選ばれた者たち』と呼びかけ(ペテロ第一1:2)

またパウロも
『捧げ物であるそれら諸国民が,聖霊によって神聖なものとされ,受け入れられるものとなる・・』ことを指摘します。(ローマ15:16)
ですから、コロサイ人への手紙の『あなたがたの肢体を死んだものとしなさい』の句は、誰にでも当てはまるものでは決してありません。その文脈をご覧ください『わたしたちの命であるキリストが現わされるとき,その時にあなた方もまた,彼と共に栄光のうちに現わされることになるのです。』というように、このそれに先立つ句が聖徒に当てはまる理由を、『地上にあるあなた方の肢体を』と新世界訳ですら書いているではありませんか。

これは即ち、天でキリストと共になる人々について、地上で肢体を持っている間に関する訓戒であって、『聖なる行状』を示すべき契約にある人々について述べているのです。(コロサイ3章)

新世界訳の日本語版では、その『肢体』が恰も聖徒以外の人々にも当てはまるかのような語順に訳されておりますが、この誰にでも当てはまるように歪曲された訓戒によって、この組織は度々に証人の皆さん各自の良心の咎めで縛り上げ、上層部からの命令に従い易くするための方策に用いられています。

つまり「あなたは、これが出来ているか?」という良心への責めによって、上層部が証人方々を精神的に操作しようとする方策のひとつです。
これは人間というものの実態を無視した横暴となり、自らを責めさいなむため、生活上に間断の無いストレスを招く元凶です。
まさしく、極端な独裁国家やカルトと呼ばれる宗教が、人々を抑圧の下に置くための典型的な施策であり、どれほど外見を取り繕うとも、キリスト教らしい慈愛などはありません。

それでは、キリストが示した「健康な者に医者はいらない」また「罪多き者、多くを愛す」という精神をはなれ、自分の業の義に慢心し、神の是認にあると思い込んだパリサイ人の罠にまんまと落ち込んでいるではありませんか。
排斥者への忌避は極めてパリサイ的で、弱き者を助るのではなく、ただ傲慢に排除し、いたぶっているのです。


ですが、聖徒たちに注がれた『聖霊』については
千年期以前では、まず『聖徒』についてのみ与えられるものです。
その聖化をもたらす『聖霊』とは、『わたしたちは,イエス・キリストの体がただ一度かぎりささげられたことによって,神聖なものとされている』と書かれたように、キリストの贖いを通して初めて聖徒たちに注がれたことにおいて、それまでにない「霊」でありました。(ヘブライ10:10)
それゆえヨハネは、キリストの公生涯の間でさえ、その栄光の時を迎えていないので『そのころ、まだ霊がなかった』と書いています。(ヨハネ7:39)

この格別の聖霊を受けた『聖なる者たち』に含まれることは、あのペンテコステの日まで存在したことのなかった、キリストと並ぶべきほどに高い『兄弟』の立場であり、パウロもヨハネもその立場を『神の子』と呼んでおります。(ローマ8:16/ヨハネ1:12)

これを、単に「主の晩餐」で無酵母パンとぶどう酒に与ったという行動だけで、この『新しい契約』に入って既に贖罪された『神の子』になったとするなら、それは聖霊の証しのない詐称であり、神の前に恐るべきことになるでしょう。(ローマ8:14)
そのような「油そそがれたクリスチャン」なら、神からの何の印もない誰でもがキリストの兄弟を名乗れます。

つまり、キリストの業を聖霊によって継承し、不可視のキリストの代弁者となるべき、極めて重く、価値ある職責について、聖霊の印もなく、発言の訂正を繰り返すただの人たちが、「聖霊が注がれたのは自分だ」と言っているのです。本当にそれで良いのでしょうか?
それこそはあらゆる僭称の内でも最も罪深い、キリストの『偽兄弟』になり兼ねません。
そこに「聖霊」と「裁き」が関わっているからです。

この「聖徒」はキリストと同じような聖霊の奇跡の業を行いますが、それは『あなた方はわたしのために総督や王たちの前に引き出されるでしょう。それは、彼らと諸国民に対する証しのためです。』とあるように

聖なる者らは、『終わりの日』に命がけの宣教を行うことを意味します。それこそが『[為政者らと]諸国民への証し』という人類全体を揺り動かす終末の世界宣教となるでしょう。(ヘブライ12:25-26)
(マタイ10:18とその周辺をもう一度よく確認してください)

ご存知のように、キリストの兄弟たちは、終りの世の人々を右と左に裁く媒介となる重要な働きを担いますが、人々が本当の聖なる者らではなくて『偽兄弟』に従うなら、それは「偽りの希望」でありまったく危険なことです。

確かに迫害されながらも、聖霊の言葉を語る本当の聖徒らにとっては、イエス言われた通り、『だれでも自分の苦しみの杭を受け入れてわたしのあとに従わない者は,わたしにふさわしく』ない理由が生じます。(マタイ10章)

しかし、『聖なる者』とされたとはいえ、地上に在る間は彼らも肉の罪ある身であることに変わりなく、聖徒同士での軋轢が生じることは避けられませんでしたから、イエスはその解決法を示して、まず当事者で話し、それから二人か三人の証人を求め、最後にエクレシアに話しても罪を認めない聖徒について、『あなたにとって,諸国民の者また収税人のような者としなさい。』としたのであり、コリント第一6章に見られるパウロの発言はこれを敷衍したものというべきでしょう。(コリ一6:1-3)

そこでの聖徒同士の問題は、こうして地上で処理され、『何であれあなた方が地上で縛るものは天において縛られたもの』また『二人か三人がわたしの名において共に集まっているところには,わたしもその中にいる』とは、聖徒同士の裁きにキリストが監臨されることを示したものであることは文脈から明らかです。
つまり、『聖なる者』に相応しくない行いを改めない者は、その「聖徒」としての立場が天でも解かれるということに他なりません。(マタイ18:15-20/コリ一 5:4)

この「二人か三人」の句を根拠に、争い合う宗派がそれぞれ「自分たちの集まりにイエス様が臨在してくださる」と言うとすれば、まことに愚かしくも厚顔不遜な誤謬というほかありませんが、ものみの塔もまたそのように主張する宗派のひとつに過ぎません。『聖なる者』と『新しい契約』を理解してはいないからでしょう。

やはり、聖徒の道徳規準は高く要求されるとしても当然のことです。
何故なら、彼らは『聖なる』状態を仮承認されており、そのキリストと兄弟として結ばれた深い絆に感謝するなら、道徳的であるよう努めるはずであり、『罪を犯し続ける』ことなどアガペーが許さないからなのです。(ヨハネ第一3:3.9)

そればかりでなく、キリストと同じ生き方が求められ、殉教の死をも覚悟しなければなりません。
この意味でも、まさしく聖徒はキリストの兄弟と言えます。
しかし、塔内部で「油そそがれたクリスチャン」を称する人々に、こうした「聖徒」の働きを見ることがあるでしょうか?

むしろ、人を集めては「地を受け継ぐ」ことを請負い、誉めそやして肉体労働による「組織勧誘の宣教」のための膨大な時間と種々の犠牲を、聖霊も無い一般信者に無理に求めてきたというのがものみの塔の指導者らの覆うべくもない実態ではありませんか。
そこで奪われた多くの人々の様々な犠牲の数々はそれぞれ天文学的数値に上っていることでしょう。

塔が本来の『聖徒』、つまり『聖なる者』(ハギオス)と聖書に存在する用語で語られるべきものを、「油そそがれたクリスチャン」と曖昧な言葉でわざわざ言い換えてきた背景には、上記の聖徒の類い稀な立場と、聖霊を注がれるということが如何に大きな業を成し遂げ、如何に危険をも顧みずに世界の注目を浴びる中で為政者らの前に立ち『抵抗することも論ばくすることもできない』ほどの言葉を宣告するという、瞠目すべき「聖霊」の威力溢れる働きから一般信者の目を逸らそうとの意図的なごまかしが透けて見えます。(ルカ21:15)

なぜなら、「天的級」の存在を解明し、「副次的な王なる祭司」を明らかした人々が、『聖徒』という格別な立場を表す聖書の言葉に気付かない道理も訳もないからです。聖書を読んでいるならば、つまりは『忠実で賢い家令』と自称しつつ、マタイ10:17-20などの聖句への説明を怠ってきたのは作為的であり、「悪賢くも不忠実」であったというべきではないのでしょうか。

さて、そこで「排斥」制度の規準のひとつとされているコリント第一6:9-10に目を向けると、これが『神の王国を受け継がない』と確かに書かれています。 ですが、これは本来、『聖なる者』について述べられているもので、所謂「排斥」があるにせよ、それは聖徒の資格に関わる裁定であり、地上での『聖なる行状と敬虔な専心』を示さないなら、聖徒の身分の『外衣』を失うことになり、エクレシア(召し出された者たち)から出されてしまうということです。

また、「その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい」という申命記17:7を引用したパウロのコリント第一5:13にしても、もともとイスラエルの会衆に適用された律法の求めでありますから、やはりこれは選ばれた民の集まりに求められる事柄であって、『神の選び』の外にある人々に一律に課すとすれば、『聖』であるべきことを『聖なる者』でないすべての人々に重い頸木を負わせることになってしまいます。

聖徒でない他の大多数の人々の贖罪は、今日ではなく、千年期のことであり、そのための『神の王国』であるはずです。
まして、行状で救われるのなら、それは律法を守るユダヤ教ではありませんか。
キリストの王国は、世の人々の贖罪が行われる場であり、贖罪された人が入るわけもありません。
「終りの日」に人々に求められるのは「信仰」であって「業」や「義」ではないのです。

聖霊の奇跡を行う「聖徒」の存在していない現在に「排斥」を行うことは、『神の王国』の意義も働きをも理解してはいないことを露呈することにほかなりません。「排斥」は空しく意味のない人間の自己満足であって、愚かしい妄想の産物、幼児の戯れのようなものでしかありません。どうしてこんな虚構で人々が傷つき、支え合うべき家庭が分裂してよいでしょうか。


つまり、『最後まで信仰を守り通し』『キリストの日に至るまできずなく,他の人をつまずかせることなく,また,イエス・キリストによる義の実に満たされて,神の栄光また賛美となる』ことは『聖なる人々』に求められているのです。(テモテ第二4:7/フィリピ1:12)ですが、果たして、統治体にそのような姿が見えるでしょうか。
しかし、これこそが『王なる祭司、聖なる国民』の存在する目的であることを聖書は一貫して述べているのです。(ペテロ第一2:9/エフェソス1:13-14)

塔はこの『神の王国を受け継がない』という言葉を「王国の地上の領域を」と付け加えて、所謂「大群衆」(一般の信徒)にまでその適用を広げました。
また、律法を持ち出して『同一の司法上の定めがあなた方に当てはめられる。外人居留者もその地で生まれた者と同じにされるべきである。』(レヴィ24:22)を根拠に聖徒と信徒の扱いの区別を取り払う理由としています。

ですが、律法規定下における『同一の定め』が適用されるという記述については、そこでの割礼を受けた『外人居留者』は、イスラエルの会衆(カハル)に加えられるのであり、それが指し示す対型は『大群衆』ではなく、『神のイスラエル』に『接木されて』含まれ『聖なる者』となった異邦人を指すのであって、塔においては、この適用までも取り違えている姿も見えます。(ローマ11章)

しかし、単に気付かずにいるだけなのでしょうか?私には聖書をここまで理解している中枢の人々が、このように単純な思い違いをすることが不自然に見えてなりません。もし、指導層が人々を拘束し支配するために聖徒への道徳規準を利用しているのであれば、これは忌々しい人権蹂躙というべきでしょう。それは神も意図しないところで、分派を助長するでもなく、異なる教えを説くでもない温順な人々の弱点に付け込む圧制でしょう。

つまり、指導層が仮に「油そそがれたクリスチャン」であったとしても、『大群衆』という人々の扱いを間違えているというべきで、その原因といえば、彼らの指導層は本当には「油注がれて」はいないばかりか、サタンのように「崇められたい」願望を宿しているからではないのですか?この団体の実相を見てください。『自分の理解に頼るな』の句を誤用して、より特権あるものが判断を許されるのであって、自己に信仰を他人に任せる結果、信者は重要な決定を自分では下せません。

そればかりか、信じて従ってきた多くの善良な人々の心も財産も搾取するために、統治体は偽の「油注ぎ」や『忠実で思慮深い奴隷』を自称してもいるのです。
これが神の御前に無傷で済む所業でしょうか?わたしには到底咎無しには見えません。

そのうえ、排斥制度は今日のように世界各地からこの組織への訴訟や醜聞が相次ぐなかで、それを知った人々に制裁を加え、また「永遠の命」を質に取ったかのように脅すという、およそキリスト教であるなら考えられないほどの邪悪な隠蔽工作が専らとなってしまっていますが、それでも信じた人々は「エホバと称する神」を恐れてすくみ上がってしまうのです。

これは信仰心の善良さを騙ったサタンの業というべきでしょう。いまや、統治体の「聖でもない」本質を悟った人々から信者を隔離し、組織を保つための方策として忌避が濫用される悪循環にはまってしまいました。

加えて、品行方正である外見を作ることで本当に全知全能の神に是認されるというのでしょうか?その「組織が清い」と言えるのでしょうか? ならば、その神とは人間のように狭量で、とても御子を犠牲になさった方には思えませんし、その「清さ」とは作り上げた仮面のようなもので社会一般の「善人」程度のものではありませんか。それを塔は『義』の演出に使用していますが、そこでイエス・キリストの愛と憐れみはパリサイの偽善の仮面にすり替えられています。

やはり、旧態依然としたキリスト教から三位一体や地獄を濾し取った「ものみの塔」とはいえ、19世紀のアメリカ由来の「クリスチャン」という凡庸さからは未だ抜け出してはおらず、組織中枢の独善性や圧制からすれば、今後の改善も遠い彼方の事柄で、まず期待できるところではないようです。

加えて、統治体を批判する不活発な信者の家族も避けるようにと、忌避の乱発という理不尽の上塗りを始めたとのことですが、ならば、批判に耳を傾け自らを改善する貴重な声さえ退け始めたのであり、批判されないよう自重し努めるという責任をも負わない、恰も我儘な幼児のごとくに意思表示をしたと言うべきで、この宗派の将来はますます暗澹たるものとなっています。

それが証拠に、組織から卑しめられた人々の半分は、より寛容な一般社会に友を見出し、受け入れ保護してくれる仲間を得ているのです。
結局のところ、この組織を清く保つというよりは、神の前に、自分たちは一定の道徳律を保ったから是認しろと言っているのであり、その実、神が御子を人類の犠牲としたまでに人々の罪を許されようとしたことは等閑に付され、そのうえで、自分たちのキリスト教的でない高慢さが、特権意識や世間に憐れみを垂れるような宣教を行わせていることに気付かないのです。

それも道徳規準ばかりでなく、聖霊の奇跡を通して行われるべき宣教までも、「ご家庭で役立つ情報を聖書から」などと、王国にも聖霊にも関わりの無い組織拡張のための宣伝を「命を救う業」と称して強制してきました。

しかしそれは、キリスト教の宣教でもなければ、イエスの宣教の主題であった「神の王国」を、イエスがほとんど語られなかった「楽園」と差し替え、それをご利益信仰として宣伝し、組織への従順という代償を払わせるという、欲と欲の相関関係の構築となってきたのです。

ですから『今日,全地の諸会衆に交わる兄弟姉妹の大多数は,神のみ前での是認された立場を個人的に維持することにより,会衆の霊的な清さを保つよう懸命に努めています。』などの出版物にある文言は、決定的な矛盾を露呈しています。(塔97.8/15p29)

考えてもみて下さい。神との契約になく贖罪されてもいない只の人が、如何に『神のみ前での是認された立場』に立ち得るのでしょうか、またその立場を『個人的に維持する』ことができるのですか。神からの是認を得ることが本人の努力にかかっているのでしょうか。 それでは「アダムからの罪」を認めず、律法を守って義を追求するユダヤ教と同じではありませんか。それはキリストの犠牲の適用される条件として「信仰」ではなく「従順」を求めるという根本的誤謬ではないのですか。

もちろんアガペーを抱くキリスト教徒にとって、悪行は避けるべきものであります。(ローマ13:10)
しかし、「キリストの犠牲に与るには個人の道徳規準を守ることが必要である」としてしまうなら、「信仰」ではなく「従順」が人を救うと言っているのであり、それは愛という原動力を欠いていて、自己救済的で、まったくキリストの教えではありません。動機が正反対なのです。

そのうえ「塔」組織の排斥制度は「組織を清く保つ」ことに成功しては来なかったと言うべきでしょう。
といいますのも、幼児への性的虐待の罪に対して有効に機能しないばかりか、組織そのものが法廷から審問され、今や極めて不利な状況に置かれていることは隠しようもないように見えるからです。それも一件や二件の訴えでは済みそうにないことも、組織中枢の人々こそが慄きつつ知り尽くしていることでしょう。

今や、「悪行を行う信者から仲間を守る」という、元来唱えられてきた「忌避」の効果はまったく歪められ、極端な独裁国家のような「批判の粛清」に変質し、まったく統治体の不義を隠す「公開処刑」のような手段として機能するようになっています。
この変化は、一般の証人の見えないところで画策され、信仰心を利用して静かに変更されてきたところは巧妙であり、なお多くの信者数を保っているのは、情報を遮断するためのものとなった「忌避制度」の働きなくして考えられません。

このような体たらくの宗派でありながら、一斉の大量離脱が起きない理由の大きな部分を「排斥制度」が担っているのはもはや明白なことです。つまり、信者同士のつながりを断つという脅しによって、個人が自由に宗教を探求することも、この組織から離れることさえできないように縛る縄目となっており、組織の急速な崩壊はこの怖れで何とか防がれていることでしょう。

聖句を悪用した排斥は、凶悪な独裁国家が体制維持を図る公開処刑や情報統制に相当する役割を担っており、今や統治体を頂点とするものみの塔の秩序が、ドミノ倒しのような分断の危機に瀕していることの象徴でしょう。


現時点において明るみで出てきたこれらの事柄が意味するものは、「本当に審理されるべきは誰だったのか」ということです。世の権威は信仰の自由を認めています。しかし、悪辣な行為の実害は許されないことを統治体も信者も肝に命じるべきでしょう。

聖書の解釈を間違えることは誰にでもあることです。そこを謙虚に認めればよいのですが
真の聖霊なく「自分は神に是認されていて、唯一正しい」と言った途端に、誰であれその者は「紛れも無い偽り者」と成り果てるのです。 それこそは『新しい契約』に預かり、真に聖霊を受けた人だけが、聖書のように無謬の言葉を語って初めて言い得るものだからです。

キリストが進んで「神の義」を与えない者に正義はありません。
それ以外は皆、「人の義」を唱えるばかりであり、その証拠に教えで訂正を繰り返さざるを得ません。
どれほど叡智を誇ろうとも、人の実態とはそのようなものではありませんか。

それですから、「自分こそが正しく、唯一神に是認されている」という者こそが、それ以上ない偽り者なのです。
これを無視した主張は、時の経過によって、ますますその取り繕いがあばかれてゆくことになるでしょう。

随所からの問題の噴出を「いつかエホバが正される」というのは、近年は実質的に限界が見えています。
エホバの証人は何を感じ、何を考えているにせよ、事態は制御不能の領域に入っているのですが、「どうにかしてくれるに違いない」という信仰だけが残ることになるとすれば、どうして神がその義務を負うべきでしょうか?

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上記のような理解がどこであれ広められ普遍化してゆくなら、逃れ出る人々から障碍の幾らかでも減るように思えます。



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エホバの証人の宣教理解に対して2

2013.10.17 (Thu)
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将来に、再び聖霊の賜物がその奇跡の力を示す様は、まず宣教において共観福音書が揃って語るところです。
それは『人々があなた方を,公の集会や政府の役人また権威者たちの前に連れて行くとき』のことであり、そこで聖霊は弟子たちに働き『聖霊が,言うべきことをその時あなた方に教える』という場面です。(ルカ12:11~12)
その発言は『あなた方の反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできない』ほどのものであるので、『どのように弁明するか前もってけいこなど』する必要がないとも言われるほどのものです。(ルカ21:14~15)

マタイでも『人々に用心していなさい。人々はあなた方を地方法廷に引き渡し,また自分たちの会堂でむち打つからです。いえ,あなた方はわたしのために総督や王たちの前に引き出されるでしょう。彼らと諸国民に対する証しのためです。しかし,人々があなた方を引き渡すとき,どのように,または何を話そうかと思い煩ってはなりません。話すべきことはその時あなた方に与えられるからです。話すのは単にあなた方ではなく,あなた方の父の霊が,あなた方によって話すのです。』と書かれています。(マタイ10:17-20)

マルコはこう記します『人々はあなた方を地方法廷に引き渡し,あなた方は会堂で打ちたたかれ,わたしのために総督や王たちの前に立たされるでしょう。彼らに対する証しのためです。また,あらゆる国民の中で,良いたよりがまず宣べ伝えられねばなりません。しかし,人々があなた方を引き渡そうとして引いて行くとき,何を話そうかと前もって思い煩ってはなりません。何であれその時に与えられること,それを話しなさい。あなた方が話しているのではなく,聖霊が[話している]のです。』(マルコ13:9-11)

これらを見ると、いずれの福音書も、こうした聖霊による奇跡の発言が終わりの日での反対や迫害と関連付けられて記されていることに気付きます。
それは、世界のごく狭い範囲内で目立たずに起こることに過ぎないのでしょうか。

マタイによれば、『話すのは単にあなた方ではなく,あなた方の父の霊が,あなた方によって話すので』あり、それは『彼ら(為政者)と諸国民に対する証しのため』であることをはっきりと述べています。(マタイ10:18.20)
つまり、この聖霊による発言は為政者たちばかりか、諸国民の聴くところであり、且つ、こうした聖句をそのまま自然に読めば、その発言が広く世界に証しになるほどの注目を集めるとみてはならない理由があるでしょうか。つまり、聖霊による世界宣教と言えるでしょう。(ハガイ2:7/ヘブライ12:25-27)

それは聖霊の発言が行わせるものであって、人間らしい誤解や間違いとは無縁であり、時折訂正が必要になってしまい「見解の調整」が為される類のものではありませんし、もちろん理解が「タッキング」するような人間の次元のものでもあるようにはけっして思えません。そんな「発言」であれば、どうして『誰も論駁できない言葉』になるのでしょう。(イザヤ54:17)

その発言の内容は、為政者たちに直にキリストの支配の到来を知らせるものとなることでしょうから、家から家へと「ご家庭で役立つ知恵を聖書からお話ししています」などと的外れにも、ご利益信仰の勧誘などして回ることとも無縁であるに違いないでしょう。

戸別伝道が、そのまま神の裁きとはならないという(改善された)理解は当然であるとしても、では人々がキリストの『兄弟たちの最も小さな者に』親切を示すとはいったい何を行う事を意味し、また何時のことでしょうか。

それは聖書の述べるように、聖霊で油注がれる「聖なる者」たちが世からの死にさえ至るような強い迫害に直面し、困難に陥るところを助けるということではなしに、肉的努力により、彼らに与えられた世界宣教という当面の至上命令を助けることがキリストの兄弟たちへの親切であるということ、いや、というよりは殆んど肩代わりして行う事なのでしょうか。

共観福音書が揃って語るように、神の威力である聖霊によって世界宣教を行うと預言された人々が、どうして聖霊の賜物を持つこともない人々の多大な努力や様々な犠牲を払わせる肉の業の世界伝道の助けを必要とするのですか。
そこでは「油注がれた」と称する人々に、実は聖霊が注がれていないという事実が見えていないでしょうか。

これは恰も「裸の王様」のようであり、証人が偽の「油注がれたクリスチャン」に惑わされているのではないと言い切れないのは「楽園」という御利益への願望からではないのですか。それは砂上の楼閣であり、蜃気楼を見たいと欲する人々の目にだけ見える「偽の聖徒」なのではありませんか。

聖霊の発言では力不足であるとはさすがに云わないとは思いますが、聖霊というものがこのように過小評価され、初代の弟子たちに注がれたその賜物の意義の深さ、また神の御力の働きの大きさへの理解に十分達していないか、敢えて無視されているようなことはないのでしょうか。

もはや聖霊の奇跡は遠い昔のもので、モーセの時のような神の御力の表れなど起こるはずも無いと云うのでしょうか。
一方で黙示録は、この『ふたりの証人』には『地を何度でも打つ』権威が与えられるとしています。そこにはモーセとアロン、エリヤとエリシャ、ベルバベルとエシュアが敷衍されており、それを見聞きする世の人々の信仰を巻き起こす姿が描かれてはいないでしょうか。そして、聖霊無くしていったい誰がこのようなことを行えるものでしょうか。

例えれば、上記のようなマタイ10章20節、マルコ13章11節、ルカ12章11節や21章15節などが一致して告げる、聖霊を受ける弟子たちが為政者らと対峙するというほどに重大な局面について、それをいったい誰に適用し、「終わりの日」におけるその意義をどう説明するのでしょうか。

そこでもし、敢えてこれらの聖句への説明に沈黙するとすれば、それは聖霊によるこのように人知を超えた奇跡の発言などは起こって欲しくも無く、むしろ神の御力の表明である聖霊を無視してまで、「楽園」というご利益に釣られて自分たちに信仰を持った人々をひとつの人間製の組織に繋ぎ止め、その権威の下に何としても保っておこうとの動機が無いと言い切れるものでしょうか。

多くの人々を従順にならせ、神の義よりは組織の正義を証しする勉めに邁進させ、聖霊に信仰を抱かせるよりは人間の努力に救いの要を信じさせる事柄が、証人たちをして納得させるというなら、その道を行くがよいでしょう。人は「信じたいもの」を信じるからです。
ですが、そこには「聖霊の冒涜」へと人を導き兼ねない危険は無いのでしょうか。
そして、この事の責任は最終的に誰が、どのように引き受けるのでしょうか。

信仰を抱いた証人たちには、ひとたび「正しい信仰」をものみの塔に見出したのであれば、他の宗派の教えはもとより他の異なる思想や宗教的情報の一切がサタンの偽りであるから、読んだり、聴いたりしてはならないとしては来なかったでしょうか。
それならば、人々の目を覆い、耳を塞ごうとした者こそは、神の御前にその人々の信仰の結末に責任が無いと言えたものでしょうか。

つまり、その教導者は「信仰の主人」であり、自分は正しいから付いて来るようにと命じたのであって、創造者でさえもアダムとエヴァに介入されず、その選択を尊重された「神の象り」に創られた人々の自由な意思も倫理的決定さえも、ものみの塔の指導部は「請け負ってしまった」と言うほか無いのではありませんか。

黙示録はその11章で、『ふたりの証人が1260日の間、粗布を来て預言する』ことを知らせていますが、サタンは彼らを攻撃するために「野獣(七つ頭の)」を呼び出し、それによって彼らは殺されてしまいます。
それは1260日の終わったあとのことで、上記の共観福音書が述べる為政者との対峙は、彼らの預言の期間の終わりに起こるという可能性が濃厚に残っており、それを20世紀初頭に起こり、既にアメリカで過ぎ去った事としてしまい、「聖なる者ら」が終末に聖霊によって油注がれるということの重大な責務に不注意にならせてよいどんな根拠があるのでしょうか。

なぜなら、これらの聖霊による奇跡の発言を為す人々は、その段階で世からの敵意に曝され、親族や友によってさえ告発される事態に進んでゆくことが、それぞれの聖句の文脈からはっきりとしているのです。(マタイ10:32-42/マルコ13:9-13/ルカ12:49-53)
即ち、この「聖霊ある人々」はこの事態に至る以前に、世の考えとは相容れない滅びの宣告を広く伝えていることでしょう。それが『ふたりの証人が1260日の間、粗布を来て預言する』ことではないのでしょうか。(ヨナ3:5)

「終わりまで忍ぶ」べきは聖霊を注がれた人々であって、大群衆の方ではないことは「羊とやぎ」の例えからも明らかではありませんか。⇒「マタイ福音書の預言と例え」

その人々の『預言』は世からの好意を受けるものとはなりませんが、それは伝道して回る区域の人々が都合が悪かったり、ひとつの宗派に縛られる意志が無かったり、自分も生活を犠牲にして伝道して回ることに躊躇を感じたりするから好意を持たないのでしょうか。あるいは、伝道する人々の独善性を嗅ぎ分けてその高慢さを嫌う人は、果たして神に敵意を示しているのでしょうか。
聖書に描かれたこの『ふたりの証人』が、そのように次元の低い問題で迫害を受けるのであれば、そのどこに「神の王国」が関係しているのでしょうか。

やはり問題点は、聖霊の見方にあるでしょう。
なおも、コリント第一の13章8節を以って、聖霊の賜物は遠い昔に廃されたと弁明することは、上記の共観福音書の揃って語ることからして無理があります。
また、そのパウロの言葉そのものでさえ、それはアガペーの優越性を語る文脈であって、異言や預言が何時廃されるかについて述べているのでしょうか。


ここまで推論を重ねると、証人の方々であれば「ではエホバの証人が唯一の正しい宗教でないとすれば、どれがそうなのか?」と内心不安になることでしょう。
実は、そこにこそ問題の根があります。
「神の義」と「人の義」の違いが見えていません。

つまり、「人間には皆「罪」があり、真の義も、真理も神の許にこそある」という認識が欠けているのです。(ローマ3:4)
『完全な賜物は上から』与えられるのであり、人は謙虚に神の語られるのを待ち、『求め続け、敲き続ける』べきであり、そうしているところに『聖霊を与えて下さる』と書いてありませんか。(ヤコブ1:17/ルカ11:9-13)
神は聖霊によって人々に真理を教えるのであって、人間の推論や年代計算がその前にどんな意味を持つでしょう。

真理を探究する人々には共通する弱点があります。
それは、真理を自分のものにしたいという欲求であり、素晴らしいと思えたものを真理の座に就けてしまおうとする自分の傾向に対し、一歩下がって警戒することをしません。簡単に言えば、思い込みが強すぎるのです。

しかし、最も重要なのは、自分たちが楽園に入ることではなくて、神が何を意図されているかであり、そのご意志は、どれかの宗教組織に入っている信者を救うことなどではありません。
人はエホバの証人であろうとなかろうと、神の聖霊を待つ必要があります
それこそが奇跡を伴う神の威力の証しであって、見紛う心配も、思い込みの必要もありません。
信仰を抱くべき裁きはそれからです。
しかも、御子キリストの犠牲を許した神は「ご利益信仰」をけっして容認されないでしょう。それはキリストの自己犠牲の精神に反するものであり、自分は是認されていると思う、パリサイのような傲慢さを逃れられないからです。どれほど熱心に伝道に携わるとしても、自分を救われる立場に置いているのであれば、それは理不尽な裁きであり非現実な差別です。

聖霊を待つとは、真実に聖霊を注がれ、その賜物を持つことで『約束の聖霊をもって証印を押された』『相続財産に関する事前の印』という身分の保証を得た人々の出現を待つことを意味します。(エフェソス1:13-14/コリント第二5:5)

聖霊注がれた人々が「見解の調整」をして以前の信仰箇条を変更する必要があるでしょうか。
もし、毎年の「主の晩餐」で表象物に与っている人々が、聖書のように霊感された不動の知恵を語らないのであれば、「普通の人」より優れて神との関係には無いでしょう。つまりは神の御前に「ただの人」なのです。本当には聖霊を持たず、油注がれてもいないからです。

他方、『聖なる者』は、『罪』を地上にある段階から『新しい契約』によって許されており、それゆえに神とキリストと結ばれているのです。(ローマ8章を注意深くお読みください)
『聖なる者』と普通の人にこれほど大きな違いがあるにも関わらず、ただ主の晩餐でパンを食しぶどう酒を飲むだけであれば、それはまさしく「裁きを飲み、また食する」ことであり、そのうえ従順にさせた数多くの人々を聖霊への冒涜へと誘っていることにもなるです。

即ち「エホバの証人」とは、「楽園」を自分の存命中に渇望することを教唆され、その欲のために聖霊を押しのけてまで、これら「ただの人」に隷属して崇め奉るご利益信仰の行状主義キリスト教徒を意味すると言って差支えないことでしょう。それはどれもキリスト教的に見えても、実はその精神からはいずれも大きく逸脱していると言うほかありません。

マタイ24章48~49節には『「わたしの主人は遅れている」と言い,仲間の奴隷たちをたたき始め,のんだくれたちと共に食べたり飲んだりするようなことがあるならば』というイエスご自身の言葉が記されています。
主人を待たなかったのは誰でしょうか。聖霊の時が来ていないにも関わらず、自分たちで時を定めて「霊的宴」と称する「宴会」を始めてしまったのはいったい誰なのでしょう。
この事の結末はと云えば、それに続く聖句の50と51節で恐ろしく克明に描き出されており、それらの言葉以上のことを語る余地をまったく残していません。







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エホバの証人の宣教理解に対して 1

2013.09.14 (Sat)
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エホバの証人の宣教理解に対して
その目に余る聖霊軽視


キリストに信仰を持つ者はキリストより大きな業を行うと、イエスが語った場面がヨハネ14章12節に確かにあります。
では、その業とは何を意味するとエホバの証人に認識されているのでしょう。単に仲間を増やすための宣教ですか?
それはキリストの弟子たちが皆、総出で行うべき、「人間の業」なのでしょうか?

大半のエホバの証人は、宣教の業こそはクリスチャンにとって最も重要で神聖な責務であり、疑問を差し挟むことさえ不謹慎なことであると思うようです。一人一人の具体的な自己犠牲がレンガのように積まれ、その「大きな業」という建物が神の前に形作られると考えるからでしょう。

それこそがキリストに課された個人の責務を果たすことであり、この点で率先する人が、他のすべてをも導くに立場に相応しいということにされているかのように観察されます。つまり、聖書を研究するのは集会とその準備を専らとし、ほとんどの時間を戸外の活動に費やすことを奨励しているのです。

実際、「エホバの証人」と呼ばれる人々にとって、宣教はハルマゲドンを生き残るための、また復活する亡くなった親しい人に会うための、また神の前に正義であり続ける最重要な活動であり、いきおい熱心に取り組む中で、人間の業が宣教を成し遂げるものであるので、せっせと組織の宣伝に努めることになります。

加えて、毎月個人がそれぞれ報告することで貢献度が数値化されるところの宣教に費やした時間数の多さが、仲間や組織から認められ評価されるべき、その人の「クリスチャン」としてのステータスのように見做されるため、宣教には純粋ではない自己顕示の願望に訴えられていることにもなります。動機はともあれ、より大きな伝道が行われる施策が行われているのであり、それはやはり人間による業を駆り立てる必要が純粋な信仰の業に勝るからでしょう。
しかし、その伝える内容がそれに見合うものかと言えば、反論されると自分の脆弱な信仰を守るために会話を止めて、その場を立ち去るというセオリーにその程度が表れてもいます。

その伝える音信は、ノアの箱船モデルに留まる集団内でのみ占有されるご利益であってキリストの救いという開放的原形のものではありません。
信仰の中心は、「楽園」という肉的欲望を確信させるところにあり、神との関係性も、伝道の業の大小により強められ、また弱められもする、と教えられているようです。そこまで音信を伝道させるための報酬とするのは他のカルトに例をみることはあっても、聖書中に見出すことはできないものです。

その一方で、宣教を重視しない意見は彼らの言う「背教者」に共通する罠のように言われてもいます。この見解はまことにゆるぎない確信のようで、証人の間では、上記の聖句も、キリストに真実な信仰を抱いた人々の肉の努力を通して世界への宣教が行われる、というようにイエスの言葉が解釈されているのです。

そこで、世界宣教は人間の業であり、他方で全能の神といえども、エホバの証人の伝道を時折に天使が導くという程度にしか加わりません。神の働きは非常に限られており、信仰を働かせる人々の善意と犠牲を主人公とし、たまにそれを幾らか助けるのが全能の神の姿です。しかも、自己犠牲の精神を示させるために、そうさせてやっていると云うほどなのです。

ですが、その犠牲には、この世での収入が限られる仕事に甘んじ、無条件で人を愛し受け入れる「家庭」という場に、神を第一にするという名目の下で、まず愛するべきは神=組織であることになります。それは一定の規約を満たせない信者であれば、家族ですら愛情を制限し、交友を断つという証人独自の「忌避制度」に明瞭に見えています。

その業を委ねられたのは「油注がれたクリスチャン」という、ほんの少数の人々であり、そうでない人々がせっせと助けなければこの世界宣教はとても達成できませんし、そのように助ける人々が神の裁きを生き残ると教えられ、この基本的教理によってこの団体は増えて来たという以外にありません。ここまで、信者を宣教に駆り立てることができる理由のもうひとつは、この世の終わりが近付いているという主張も関係しています。

その短い期間に世界伝道が達成されてゆかねばならず、そのためには信者各自がそれぞれ「自己犠牲」を払わなければ、不信者を見殺しにする「血の罪を負う」と云うのです。利己的だとも批難されるでしょう。それならば、神の裁きを荷うのはエホバの証人であると言っていることになるのですが、それではあまりに神を無能な方としないものでしょうか。
ここに、何も感じず、そのような宗教組織の有り様が正しいと思えなければ、エホバの証人を続ける動機はまず得られません。

しかし、あるいは、『わたしに信仰を働かせる者は,その者もまたわたしの行なっている業をするでしょう。しかも,それより大きな業をするのです。』という、この聖句に何かもっと深い意味があるのでしょうか?それは今日のエホバの証人がしているようにすべきだとキリストも言われたのでしょうか?

この句はキリスト最後の晩餐のあとで語られています。つまり、使徒たちに最後の訓戒を残している場面です。
この前後でキリストは、何度かご自分が「天に行く」ことによる、使徒らを含む弟子たちの状況の変化に言及されているのですが、その変化とはどんなことを指していたのでしょう。この点でイエスは同じ文脈にあるヨハネ14章16節で「父はあなたがたに別の助け手を与えて、それがあなた方のもとに永久にあるようにします。」と言われ、その変化が聖霊の降下であることをお示しになっています。

この聖霊が実際に弟子たちに降り始めたのは、おそらく西暦33年のペンテコステからで、それはイエスが天に挙げられて10日後のことであったと記されています。それまで弟子たちは、ユダヤ人からの迫害を恐れて、エルサレムの一角にひっそりと過ごしていましたが、ひとたび聖霊が注がれると状況は一変することになるのでした。

聖霊はユダヤ人を集めるために非常に大きな風の音を響かせながら弟子たちの上に火の舌の姿をもって現れ、彼らは学んだこともないはずの言語を操り、「神の壮大な事柄を」様々な言語で話したのでした。120人ほどのガリラヤ人の小さな群れであったものが、聖霊が与えられると、その日のうちに「三千の魂が加えられた」と記されています。

こうした勢いは聖霊の存在無くして説明がつきません。弟子たちは聖霊を得たゆえに大胆になっており、ユダヤ人からの迫害に面しても彼らが心を一つにして「あなたの僕イエスの名によってしるしや異兆がおきますように」と祈ると「彼らの居た場所は揺り動かされ、一人残らず聖霊が与えられた」とルカは伝えています。

しかし、その後の彼らの宣教の勢いは増え行く人数に表れたというよりは、真似のできない癒しや異兆を伴う「聖霊の賜物」を通しての、神の恩寵がイエスの弟子に移ったことへの神の奇跡の表明を通じたものでありました。まして、伝道時間数の報告など義務付ける必要もありません。
この聖霊の賜物は、イエスがご自分の血の犠牲を携えて天に昇り、天の場所における大祭司となって、携えた血の犠牲をまず共に働く使徒たちをはじめとする弟子たちに用い、彼らを最初に贖い、彼らを祭司として内定することで初めて与えられたものであったのです。(使徒2:33)

ですから、弟子たちがキリストを超える大きな業を行うようになる理由としての『天に行くからです』とは、キリストとして地上で払った「血の犠牲を携えて天に行く」が含意されております。これは律法中の贖罪の日に関する指示に明らかな予型を見るものです。その日には、まず大祭司が自らの贖罪を行い、次いで祭司たちの贖罪を行い、最後に民が贖われます。(レヴィ記16:6)

今日の状態は、大祭司が祭司たちの贖罪を行っている段階にあり、世界の人々の贖罪は「千年王国」を待たねばなりません。

ですから、大祭司キリストは、その犠牲の価値を、選ばれた『最初に認めた者たち』に適用し、彼らをまず贖うことで聖霊を注がれるに相応しいものとされたのです。(ローマ8:29-30)

そのため、彼らは神の前に罪を許された人類最初の人々でありました(ローマ8:33)
つまり、聖霊による超自然の賜物は、キリストの犠牲をもって初めて与えられたものであり、そのことが上記の、『きわめて真実にあなた方に言いますが、わたしに信仰を働かせる者は、その者もまたわたしの行なっている業をするでしょう。しかも、それより大きな業をするのです。わたしが父のもとに行くからです。』というヨハネ14章12節の言葉の背後にある深い意味について伝えるものとなっています。

それは、決して伝道活動の範囲が単純に広がることを意味しません。むしろ、ヨハネ15章26~27節でイエスが明かされたように、聖霊を受ける弟子たちがキリストのような業を行うことで、更なる聖霊に与る人々が各地から見いだされ、その人々がまた聖霊を受ける人々を招くという業の拡大を意味していたと見るべき理由は、聖書にも歴史にも刻まれております。それはすなわち、「アブラハムの裔」を集め出すという、キリストがパレスチナで始めた業の世界への広がりと言えるでしょう。

聖霊の証しは、まずユダヤ人がメシアを除き去ってしまった事を悔い、イエスを見直してこの方が間違いなく神YHWHから遣わされたことに信仰を働かせる為のものでした。実際、多くの奇跡が聖霊を受けた弟子らを通して行われると、ユダヤ人からも信仰を持つ者たちが更に加えられました。

しかし、そのようにイエスをメシア=キリストとして受け入れたユダヤ人の数は、ユダヤ人の大多数に至るものとはなりませんでしたから、ユダヤ人は、けっしてキリスト教徒ではなく、今日でもイエスを除き去ったときのユダヤ教ヒレル系パリサイ派を大半の人々が信奉し続けています。彼らの経典でもあるタルムードは、イエスについて「ガリラヤ出身の私生児で、魔術を行う者であったがローマ総督ピラトに処刑された」と、その評価を伝えています。

当然の事ながら、彼らはイエスがメシアであったと認めるわけにはゆきません。そうでなければ、彼らが極めて深く尊崇する神YHWHの遣わされた貴重なメシアを、歴史の実際通りに自分たちで殺してしまったことになってしまうからです。しかし一方で、自分たちの先祖が強制してピラトに処刑させた事実を今日もはっきりと認めず、ユダヤ教徒は往時の頑なさをもそのまま受け継いでいるように見受けられます。(マタイ21:33-45)

大半のユダヤ人たちのイエスに対する態度は、このレベルを越えるものとはなりませんでしたので、使徒時代、ユダヤの全体が充分にキリスト教に転じる可能性が無いことを示すと、神はイスラエル民族以外で深い信仰を持った人々に聖霊を注ぎ始めます。それは、キリストへの信仰についてのイスラエルの不足を補うという目的によるもので、使徒パウロはこれを「接ぎ木」に例えています。(ローマ11章)
最近では、ユダヤ人の中からも、実はイエスという人物が本当に来ることになっていた約束のメシアだったのではないか、と考え直す人々も現れるようになり、この人々は「メシアニック・ジュー」と呼ばれています。

ですが、彼らとてキリスト・イエスが聖霊を与えた弟子になったわけではなく、この点、今日では使徒時代のような聖霊の賜物を受けていると正しく言える人は絶えて誰も居ません。
初期教会の歴史を伝えるエウセビオスの「教会史」などの資料によれば、聖霊の賜物が確かに存在していた時期があり、『彼らは自分たちと共に働く神の霊と自分たちを介して成し遂げられるキリストの奇跡を行う力だけを用いて、天の王国の知識を全世界に宣べ伝えた』。(教会史Ⅲ24)とも、『当時はまだ神の霊による多くの奇跡的な力が彼らを介して働いたので、大勢の人々が、皆初めて聴いただけでも、その魂に世界の創造者への敬虔な念を抱いたのである。』(教会史Ⅲ37)とも述べています。

これらの聖霊注がれた人々はユダヤ人ばかりでは足りず、宣教の諸国への拡大によって、ローマ人コルネリオを初めとする様々な民族から『召され、選ばれた人々』で構成されるようになってゆきます。
この人々は、キリストとの「新しい契約」により、人類に先だって肉体にあってさえ「義」が神の前に仮承認されており、その意味で既に「救い」に至っており、『聖なる者たち』とも呼ばれていました。(ローマ11:27/10:9/コリント第一1:2)

エウセビオスの「教会史」では、こうした聖霊の賜物を有する「聖なる人々」について述べ、西暦130年以降に関して、『使徒たちの聖なる合唱隊がそれぞれ絶え、神的な知恵を自分の耳で聴くことを許された世代が過ぎ去ると、神を信じない血迷った一団が、単なる教義を教える者たちの瞞着によって根を下ろした。
彼らは、使徒たちが一人も生き残っていないことを知ると、それからは素顔のまま真実の教えに対抗し偽って知識(グノーシス)と呼ばれたものを宣べ伝えようと企てた。』と述べる西暦第二世紀パレスチナの教父ヘゲシッポスの言葉を採録しています。(教会史Ⅲ32)

このような『聖なる者』たちの減少と消滅を、パウロの『預言があってもそれは廃され』という言葉の成就とは必ずしも言えません。
なぜなら、そのコリント第一第十三章の本旨は「アガペー」の優越性と永続性にあり、それに対して聖霊の賜物もいつかは止むと言っているので、けっして何時賜物が止むのかを論じてはおりません。加えて、『聖なる者』たちが天に召集された後には奇跡を示す賜物の権限の必要も無くなることになるでしょう。


聖書そのものの述べること、及びこれら第二世紀に関する資料は、この時期まで聖霊ある人々を通して霊的知識が備えられていたことを示しています。
では、聖霊の存在した時代、キリスト教には一致が保たれ、現在のような分派もなかったということでしょうか。

この点について、使徒ヨハネはこのように述べていました。
『あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。』(ヨハネ第一2:27)

また、パウロも『もしあなた方が何かの点でこれと異なる考え方をしているとしても,神はここに述べた[態度]をあなた方に啓示してくださるでしょう。』と述べ、自分の教え以外は間違っており、そのような考えを抱くことも、見聞きしてもいけない、などとは言わずに泰然として居られたのも、当時は聖霊が広く弟子たちに臨んでいて、彼らを指導していたからでしょう。(フィリピ3:21)

この言葉と調和してエウセビオスは次のようにも書いています。
『そのためシモン(マグス)も同時代の他の者らも、この使徒時代には何の組織も作ることが出来なかった。なぜなら、真実の光と、そのころ神から出て人類を照らし、地上で活動した使徒たちに宿った聖なるロゴスは、すべてに打ち勝ち圧倒したからである。(教会史Ⅱ14)

これらの記述をまとめて考えると、イエスが弟子たちに与えると約束した「聖霊」は、使徒ヨハネがその福音書の14章17節にキリストの言葉として残されたように、『それは真理の霊で、世が見ることも知ることも無い』ものであったとわたしたちも繰り返して述べるに不都合なことは何も無いでしょう。
使徒言行録からも明らかなように、初期キリスト教徒たちの時代には「約束された聖霊」が使徒らや聖徒たちに宿り、教理を教え、宣教に赴くべき方角を示し、牢獄にある弟子らの傍らに立って励ましを与えています。

これは、今日ものみの塔協会組織が似たことを行っていることを思い起こさせはしますが、とても比較の対象ではありません。
また、これほど優れた「助け手」である聖霊があった以上は、恒常的「地上の中央」にどれほどの意義があったでしょうか。
この点、「聖霊の賜物による奇跡は、キリスト教が揺籃期を脱するまでそれを助けた」と云うとすれば大きな矛盾を抱え込むことになるでしょう。なぜなら、実際には聖霊降下の終了と見られる第二世紀中葉は明らかな混乱と背教の始まりであったからです。

これを否定するとなれば、それは当時の聖霊の働きを軽んじるものであり、神の御力に対する無関心の責めも免れないことでしょう。いや、聖霊を邪魔にすら感じられるのであれば、キリスト教徒としては破綻していないでしょうか。

三世紀の人オリゲネスは使徒たちと聖霊の関係について、『彼らの宣言の根拠の探求に関しては、それを聖霊の優れた賜物を受けた人々、特に聖霊から言葉と知恵と知識の恵みを得た人々に任せた』。とその著「諸原理について」の中で書いています。この記述の仕方からすれば、既に「聖霊の時代」は過去のものとなっていたように読めますし、実際、オリゲネスの教理の大半には、哲学の汚れが既に入り始めていたことが観察されます。

エウセビオスは殉教者アルキビアデスの時代[二世紀中葉]について
『そのころ、フリギアではモンタノスやアルキビアデス、テオドトスとその追随者らが、その預言活動によって大きな評判を得始めていた。なぜなら、当時はまだ神の賜物によって多くの不思議な業が様々のエクレシアで行われていたので、そのために人々は彼らも預言者であると信じ込んだのである』としています。(教会史Ⅴ3)

これらを総合すれば、おそらく西暦第二世紀の中頃まで、キリスト教徒の集まり「エクレシア」に聖霊が留まり、キリストは天から各地の集まりを導いていたという姿が見えてきます。
奇跡をもたらす聖霊の働きの終りは、ものみの塔の言うような「揺籃期にだけ必要があった」のではありません。聖霊が去った時代に、はっきりとキリスト教は逸脱を始めているのです。

この点でテサロニケ第二の2章6-7節が述べる、パウロの曰く「背教を阻んでいた、当時のキリスト教徒が良く知っていた」という『いまのところ抑制となっているもの(「もの」[ ト カテコン] )*』が何であるかを現代の我々にも十分推察させるものとなっています。当時のエクレシアで聖霊の顕現は広く見られており、人々を教えるものであった以上「よく知られていた」というべきだからです。

果たして、使徒にせよ傑出した「人間の影響力」に頼るということが、他の宗教ならともかくキリスト教の教理そのものにおいて何らかの意味を持つものでしょうか?
実に、その他者への影響力を持つことを願い、人を自分の側に付けてしまいたいキリスト教の(様々な意味での)「教え手」は、ものみの塔にもその外部にもいくらでも居て、彼らは聖霊を軽視させる努力を怠らないことでしょう。真の教え手が邪魔だからです。

しかし彼らの思惑に関わらず、使徒時代に背教を抑制していたのはどんな人間でもなかったと言えます。それは間違いなく統治体の成員のような「優れた人間」よりも遥かに高次な『真理の霊』であったことを信じる方が、よほどキリスト教徒でありましょう。

さて「霊性」とやらの高い方々は、この真理の霊を保持していらっしゃるものなのでしょうか?
もし、そうでないのであれば、それはやはり只の人に過ぎず、神の前に義認もなく、教えるところには必ず間違いがあり、それを実態に則して悔いるところなければ、人々を誤導する以外にないでしょう。その「イエスとつながっている」と唱えるところも空虚に響きます。なぜなら、聖霊の無いことにおいて、まったく初期キリスト教徒のようではなく、むしろつながっている客観的証拠は何もないからです。

キリストの犠牲が捧げられて以後、贖罪されていない者が、どんな理由で神やキリストとつながるのでしょうか。(ローマ8:1)
キリストの血による「新しい契約」が有って初めて、人は神ともつながることでしょう。
明瞭な聖霊の賜物が在ってこそ、その契約に関わる人の身分を証しするものであったことをパウロが記したのは明らかなことです。(エフェソス1:13-14/コリント第二5:5)

では、ひとたび途絶えた聖霊が再び注がれ、人類は聖霊が顕現するのを見ることが有るのでしょうか?
聖書はこれを、終末の世界宣教に関連して再三肯定しているのです。


 (後半へ続く)








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