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キリストの果たす役割8

2012.09.10 (Mon)
創造の助け手としての御子

さて、神に最初に創造されたという『知恵』(ホクマー)と呼ばれる者が存在します。(箴言8)
彼は、創造の業において神の代行者となり『名匠』ともなったと箴言にあります。
しかし、ユダヤ人はこれを充分に啓示されていなかったので、この『知恵』が何を表しているのかは謎のままでした。

しかし、新約聖書の筆記者たちは、この「創造の初め」であり神以外を創った者について証しをして書いています。
十二使徒のヨハネは、その福音者の初めの部分でこのように述べています。
『初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。それは初めに神と共にあった。すべてのものは、それ(言葉“ロゴス”)によって生じた。それを離れて生じたものは一つとしてなかった。』(ヨハネ1:1~3)

更にパウロも、コロサイ人への手紙の中で、この件について疑いようのない記述をしています。
『彼(イエス)は、見えない神の像であって、全創造物の初子である。すべての物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、みな彼によって造られた。すべての物は彼を通じて、彼のために創造されたのである。』(コロサイ1:15・16)

こうしてキリスト・イエスの由来はキリストの弟子となったユダヤ人には啓示され明らかとなりました。
イエスが、創造の根源者である神を『父』と呼ぶのはこのように適切であり、同時にキリスト・イエス自身も神のような方であり、旧約聖書では、イエスの「父」を『全能の神』(エル・シャダイ)と呼び、御子イエスを『大能の神』(エル・ギッボール)と称し、父に従属する方であることを明らかにしています。(イザヤ9:6)

これについてはパウロもテモテ第一6:15で、天に昇ったイエスを『大能の神』と呼んでいることに一致し、ヨハネ福音書の冒頭でイエスを「言葉」として『言葉は神と共にあった。言葉は神であった』と記しました。ヨハネは、このふたつ目の『神』の語には定冠詞を付さず、最初に現れる『神』の語との区別を設けているのはそのためでしょう。

ヨハネは続けて『こうして言葉は肉体となって我らの間に宿った。我らはその栄光を目にした。それは父のひとり子の栄光であり、慈愛と真実とに満ちていた』。と書き記し、父なる神に次ぐ方が地上に来られたことを証ししています。(ヨハネ1:14)

御子は天を一時去って、ダヴィデ王の家系に属する大工ヨセフの婚約者マリアの胎内に移り、この夫婦の帰省先のベツレヘムで預言の通りに誕生しましたが、その命はアダムに連ならず、その罪を受け継いでいません。

この御子が人間イエスとなって地上に在られる間にも、神である父に対する深い愛情や尊敬を度々示されました。
殊に、御父の崇拝されるエルサレムの神殿について、そこが汚されることに対しては他では見られない敢然とした行動に出られました。

イスラエルの至聖なる神YHWHの『名が置かれる』家であったエルサレムの神殿は、イエスにとっては少年の時から『父の家』でありました。
しかし当時には、そこで犠牲を捧げるための動物や鳥たちを暴利で売る商売人たちや両替商が境内を占め、長さ450mある神域の間を神聖視せずに近道として荷物を運搬する認識の無い者らがいました。

今や、聖霊が降り正式にキリストとなられたイエスはこれを許されません。縄をむちとされ動物を追い出し、商人たちの机をひっくり返し『わたしの父の家は「諸国民の祈りの家と呼ばれるであろう」と書いてあるのに、お前たちはそれを強盗の巣窟にした!』と叫びます。(イザヤ56:7/マラキ3:1-3)

その勢いには弟子たちも唖然とさせられたようです。彼らは『神の家に対する熱心がわたしを食らい尽くす』という詩篇の言葉を目の当たりにしたと言われますが、イエスがこのように実力を振るったことは他に記録されておりません。それほどイエスの父への思慕はまことに強固であったと言えましょう。(ヨハネ2:17/詩篇69)

このように父に対してはその神聖さを擁護する格別な熱意を行動にまで表す一方、イエスは当時の宗教家たちのような大仰な盛装をせず、上等の亜麻布の上衣を着けてもずっと質素な身なりで生涯を通されました。そのことを指してか、イザヤの預言書は『彼には堂々たる姿も光輝もなく、我らに彼を望ましく見せる外見もない』とあります。(イザヤ53:2)

エルサレムの人々はイエスをガリラヤの田舎者と見なしてもいました。こうした廉直さをイエス自身は『わたしは父を尊んでいる』と語り『わたしが自分に栄光を付すのは空しい』とも言われます。つまりご自分の質素な佇まいによって神の前に謙虚に振舞われます。(ヨハネ8:49.54)

裁きについても『子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事も行うことができない』と言われ『わたしは、自分から(独自に)は何事もすることができない。ただ聞いた通りに裁くのである』。とも語って父を高めます。

その一方で、『わたしを信じないとしても、父がわたしに行わせる(奇跡の)業は信じよ』。
また父の神殿を清める強い熱心を示す一方で、ご自分については『人の子を罵倒する者も許される』と言われるのです。(ヨハネ10:38/ルカ12:10)

イエスは事毎に父に頼って祈り、『苦しみを通して従順を学ばれた』とも書かれています。そして、この試みに打ち勝ち世を征服された御子を、神は復活させ天に帰らせました。(ヘブル5:8)

それは、最期まで父である神を高め、忠節を尽くした生涯でありました。父子は愛で強固に結ばれており、また人を造られた「知恵」(ホクマー)としての人間への愛をこの上ない仕方で表す生き方でもありました。
このように、キリスト・イエスは神と人を深く愛して双方を繋ぐ絆となられました。

ですから、イエスは人々の罪の犠牲となっただけではなく、父である全能の神を高めることにおいても大きな働きをなさっていたのです。
そのことは、ひとつの極めて重要な証明を創造された世界全体にもたらすことにもなりました。

では、次にそれがどんな証明であったかに注目しましょう。



 ⇒ 父の神性の立証












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キリストの果たす役割9

2012.09.10 (Mon)
父の神性の立証

キリストが大祭司、また偉大な王に任じられ、人類の罪を贖い、千年間地上の社会を治めて、人間を創造されたままの罪のない状態に戻し、そうして神と和解させ「神の子」に復帰させる務めを果たすことについてをこれまで見てきました。

これらの務めのすべては人間に関わることでしたが、実はキリストには『父なる神』についても成し遂げることがあります。

人間は神に創造された知性ある存在です。人間は「神」という概念を持ち、また理解します。その理由は、本来人間が、神と意志を通わせ、その交友を享受し、幾多の益に与ることができるように創られたからといってよいでしょう。
しかし、そのように神と意志を通わせるのは人間だけではありませんでした。物質ではない領域に創造された天使たちも、天界というより神に近いところにあって神との交友を享受し、また神の使いとして仕えています。

これらの天使たちの中の『ケルヴ』と呼ばれる種類の使いのひとりは、たいへん有能で美しかったとされています。(エゼキエル28)
この使いは、その優れた立場に酔って高慢になり、創造の父である神の意志に従うことから離れようとしました。

彼は「反抗者」を意味する「サタン」と呼ばれることになりますが、自分と同じように神の創造の意図を離れ、神の意志から離れた生き方をするよう他の者たちにも働きかけるので「中傷者」を意味する「悪魔」(ディアボロス)とも呼ばれるようになりました。
このサタンは、エデンの園でエヴァを誘惑して、人類最初の夫婦を神から引き離すことに成功しましたが、こうして人間は、自分たちの作り手である父の意志に従うことを離れて、自由勝手に生きることを選びます。

それは、自分たちが創造されたにも関わらず、そのことを意に介さないで生きることであり、創造物としてではなく恰も『神のようになって』善悪を自分たちで決めることでしたが、この倫理的欠陥は遺伝によって人類全体が背負うものとなりました。(ローマ5:12)

今日の人類は、このような倫理の基礎を損なった状態にあるので、皆が倫理上に欠陥を持っています。それで人間社会には不義や争いが絶えることがありません。
この人間の「罪」は、キリストが大祭司となって贖いを適用してくださることになるのですが、そのことについては以前に書いた通りです。

さて、サタンはエヴァをたぶらかしたように、天界の使いたちをも誘惑し『三分の一』とも言われる相当数の天使を堕落させることに成功します。
このひとりの天使の創造物としての逸脱は地上だけでなく、そうして天界にも影響を及ぼしました。(黙示録12:4/ペテロ第一3:19-20/創世記6:1-2)

その結果、「創造の父をどう見なすか」という問いが天地のすべての理知ある創造物に投げかけられました。
創造の父を神として、その意志を尊重して生きるべきか。あるいは、生まれた以上は自分の思う通りの自由にしたいのか。という生き方の違いがそこにあります。

ですが、創造されたものには、創造の意図があり、それを離れてしまうと自分たちの設計された通りの働きからずれてしまい。創造者からしてみれば、創造の意義は成し遂げられません。
加えて、創造の父を否むことは、倫理破壊の道をずっと歩まねばなりません。したがって、創造者から離れた独立的な生き方の道を歩む者は自らを傷つけるだけでなく、創造された世界全体をも害することになります。そのように倫理的に害された世界が確かにわたしたちの目の前に存在しており「この世」と呼ばれています。

そこで、神は全能性を発揮して、この事態をいつまでもは容認されず、時を定めてその道をゆく者らの歩みを終わらせます。
創造者である父を神として、創造の企図に沿って生きることこそが正義であり、創られたものすべての益であることを全創造界は味わい知らねばなりません。

これには創造者の「神性の立証」が掛かっています。現在の人間社会を見ても、人々は創造主をそのご意志に従うべき神として認めた生活を送っているようには見えません。それは聖書の神を信仰するという人たちにしても同様です。
この状況が示すことは、アダム以来、創造者の立場に変化は無いということでしょう。

このような創造主への無関心をサタンは喜んでいることでしょう。使徒ヨハネは『世は邪悪な者の支配下にある』と書いて、神を無視する風潮の源を明かしています。
それは、神を信じると唱える人々の中にも、利己的に自分の救いなどの益を求めて、神には無頓着な態度を持つことにおいて、結果としてはサタンの精神を抱いてしまうことでは変わりありません。

父である神を深く愛する御子は、創造界が神を崇めてはいない状況を極めて残念に思っていたことでしょう。
神ご自身も、サタンの傲慢な独立によって生じたこの問題をいつまでも放置することはありません。ご自分の「象り」に創られた理知ある被造物の自由な意思を尊重しつつも、その全能性に違わず創造の企図を必ず実現されます。

創造のままの調和した世界をもたらすために、神は最初で唯一自ら作られた御子を、すべての創造物の一致の要とすることにされました。(コロサイ1:20)
神の「ひとり子」は、第一原因者である「全能の神」に次ぐ「大能の神」に位される方ですから、この第二の地位に在られる方が、第一の神を愛し、その意図に従うなら、他のすべての被造物もそのようにすべき道理が生じます。

サタンは、人間社会に来られた御子を誘惑し、躓かせることができたなら、創造界が神に従う理由を失わせることもできたでしょう。
そのような生き方は、虚しく刹那的なものではありますが、自分の思うがままに生きるということで神から独立し解放されたと看做すことが彼らにはできるのでしょう。

しかし、キリスト・イエスは誘惑を退け、父の神性を一心に支持して、死に至るまでの忠節を示されました。
これはサタンからすれば、独立の歩みの根拠を失わせ、創造物すべてが父を神として仰ぐべき理由を証しされてしまったことにおいて、まったくの敗北となりました。それはサタンに従った霊者たちにしても同様です。 この点について、ヘブル書には次のようにあります。『その死によって、死の強い力を司る者を無に帰せしめる[カタルゲオー]ためでした、その者とは悪魔[ディアボロス]です。』(ヘブル2:14)

キリストは父の神性を立証する死を遂げられた後、再び霊者となってから、この論議の結論を堕落した天使たちにも通知しました。聖書はそのことを、キリストは霊に復活された後『獄にある霊たちに宣告された』と記しています。この論争には、はっきりと決着がつきました。もはやサタンをはじめ自らを「神のようにする」者らからの反論の不可能となりました。(ペテロ第一3:19)

こうして御父こそが神であることを命を賭けて立証したキリストは、創造界の一切をご自分において一致させるという父の意志に適うものとなられ、いまや、その権限を行使される時が神から示されるのを、父の右に在って待っておられます。(詩篇110:1-2/フィリピ2:8-11)
その「時」は、キリストが天にあるもの、地にあるものの一切への権限を与えられた「王の王、主の主」として、自分を「神のようなもの」とするすべてのものを一掃する権力を行使する日であり、人類にとっても「裁きの日」となるでしょう。

そこで問われるのは、神を神とするか、というエデンのときと同じ事柄となります。
人類は、雲と共に来るキリストの姿を直接には見ることはありませんが、信仰ある人々に聖霊を注ぎだし、世の為政者らに対しご自分の代理大使として聖霊の言葉を彼らに語らせ、またモーセの時のように多くの徴となる奇跡を行わせるでしょう。
こうして、初めて聖霊の奇跡を見聞きする人類全体が真の信仰を抱く機会を得られます。

その人々もサタンの強い誘惑を受けることでしょうが、信仰を守ろうとする人々は強固に守られた古代の先例のように安全に保たれます。
これら一連の「終わりの日」の裁きを主導するのはキリストであり、それから救われる人類は、今日の「欲」が支配する社会を去って、まったく新しい「愛」の支配する輝かしい「神の王国」を受けることになってゆきます。

こうして、生ける人々は「罪」を浄められ、創造された通りの「神の子」への復帰を果たす道筋に入ることになるでしょう。
神と人との仲介者として任命を受けた「ひとり子」は見事にこれらのことすべての礎となる犠牲の死を遂げられました。

それから二千年が過ぎようとしていますが、純粋であった初代キリスト教は今日見る影も無いほど異教や哲学などと混濁していますし、世界はますます不安定な方向に進んでしまっているように見えます。
人間の力で、このような状況をまったく改めることができるものでしょうか。むしろ、こうした人間の弱さこそが救世主キリストの浄める御力を際立たせることになるでしょう。

人の待つべきは、対症療法のような人間の政治や宗教という応急処置ではなく、神の任じた偉大なる王にして大祭司であられる方の到来以外にありません。この方の支配こそが根本治療となることは、どれほど科学が発達しようと、いかに優れた指導者が現れようとけっして揺らぐことのない真実です。


さて、イエス・キリストの果たす役割を様々な角度から見ましたが、結論として、この方こそ世界にとって欠くことのできないあらゆる事柄の「救世主」であり、神と人への愛の最大の模範者であることが明らかです。(使徒4:12)

今、ご自身は聖霊による弟子たちへの指導を再び始める時を、御父の右に座して待っていらっしゃいます。
そして、ひとたび行動を起されるなら、時を延ばさずに短期間にすべてを裁かれ、「神の王国」をもたらされることでしょう。

キリストは最後の使徒ヨハネにこう言われました。
『わたしは速やかに来る』。(黙示録22:20)

それゆえ、わたしたち一人一人がこの方をどうお迎えするかは極めて重要、いや最重要の事柄となるでしょう。

















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キリストの果たす役割6

2012.08.23 (Thu)
王としてのキリスト


イエスが最後にエルサレムを訪れ、その門を通るのに、普段とは異なり子ろばに乗って入られました。
群集はこぞって自分の外衣をイエスの通り道に敷き、手に手に棕櫚(ヤシ)の枝を持って王の到来に賛意の栄光を添えました。(マタイ21:7-10)

マタイはそれが『見よ,あなたの王があなたのもとに来る。気質の温和な者でありろばに乗って、駄獣の子なる子ろばに乗って』というゼカリヤ九章九節の成就であることに読者の注意を向けています。
それはかつてソロモンが王となったときの故事に由来するものでした。(列王第一1:32-37)

しかし、その時までイエスはご自分を王としては一度も民に示そうとされず、民衆の方からイエスを王にしようとして向かって来たときには、ひとり山奥に逃避までなさいました。(ヨハネ6:15)

一方、イエスは王を題材にした譬え話を弟子たちに度々語っていましたが、それらはご自分の役割や働きを暗示していて、それらがなお将来に関わるものであることを弟子たちは理解しました。

しかし、イエスが天で大祭司となったことは聖霊によって知ることができても、イエスが王権を帯びるのが何時なのかについては、イエスは常に「あなたがたはその時を知らない」と繰り返され、弟子らはついにそれを知ることはありませんでした。(マタイ24:42)

さて、「キリスト」をユダヤ人は「メシア」と呼びますが、旧約のイザヤ九章の聖句はメシアの輝かしさについて、こう述べていました。

『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。』(イザヤ9:6-7)

この旧約に預言されていた「約束のメシア」を、ユダヤ人は切に待望し待ち焦がれていました。(ルカ3:15)
かつてのダヴィデ王はユダヤ=イスラエルの最強の王で、その王国の版図は史上最大となってエジプトとの境からユーフラテスの西岸に及び、神がアブラハムに約束した全域をすっかり手中に収めました。

そのようにメシアが強力な王となって、再び統治することにユダヤ人は心からの期待を寄せていたことは充分に想像のつくところです。
特にイエスの現れる頃まで、ユダヤ=イスラエルは五百年以上に亘りダヴィデ王統による独立を失い、約70年続いたハスモン朝は別として、常に諸強国の属州としてその統治下にありましたから、「神の選民」を自認するこの民族にとって、被征服民の屈辱から脱して、栄光ある王国が再興されることは大いに切望するところでありました。

イエスがメシアであると信じてやまない弟子たちやユダヤ人も、王への期待はけっして弱くはなく、時折イエスに尋ねたことを聖書は語っています。(マタイ20:21/ルカ17:20/使徒1:6)

例えれば、イエスと弟子たちが最後にエルサレムに向かう途上で、弟子たちはエルサレムに一行が到着すれば『たちどころに王国が来る』と信じていたことを福音書は明らかにしています。
また、イエスが生き返った後にも『あなたは、今このときに王国を建てられるのですか?』と質問しています。

こうした弟子たちの期待があることを知っていたイエスは、王国が彼らの時代にも、また、イエスが復活してすぐにも設立されないことを繰り返し教えて来られました。

イエスが生き返って後に使徒たちに問われたときには『神ご自身の権限内に置かれている時や時節については、あなたがたの与るところではない』と返答され、王国の設立がその時でもなく、将来の不定の時になされることを明らかにされました。

また、エルサレムへの最後の旅の途上では、ひとつの譬え話を用いて王国設立の時期がまだ先になることを弟子たちに教えています。

つぎに、その譬えを見ましょう。


 ⇒ 王権を得る旅へ










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キリストの果たす役割7

2012.08.23 (Thu)
主人の旅と不在


それは「ミナの譬え」と呼ばれます。
そこで弟子たちの先走る思いとは裏腹に、譬え話では、生まれの高貴な人物が王権を確かなものとして授かるために遠く旅をすると語られます。
これは、当時のローマ帝国に従属する王たちが皇帝からの王権の承認を得て、それを確立するために帝都に赴くという、実際の習慣を思い起こさせるものであったでしょう。

イエスの当時ユダヤと周辺を治めていたヘロデ大王の子らもそのようにローマに行って、そこで従属の王権を得てから、再び領地に正式な王として戻っていました。しかし、実際に支配を始められるか否かは帰国した時点では定かではありません。
ローマ皇帝の承認状は手にしてはいても、対立王子や諸勢力を屈服させてはじめてその王権も意味を持つことになりました。
そこで、この「ミナの譬え話」の王の帰還の場面は、それを聴く弟子らにイエスの王権についても同様に思い巡らさせたことでしょう。

キリストの王権は弟子らの期待に関わらず、イエスの旅立ちとその後の期間があることが示されます。加えて、イエスの譬えは時期的なことから更に進み、弟子らの待つべき態度に触れてゆきます。
つまり、キリストの王権獲得には、相当の期間を要することが知らされてゆくのでした。

この譬え話では、王を得ることになる主人は、出立に際して家僕らに財産を分け、留守中に運用させることにします。
そして、この人物が王権を得て帰還したときには、家僕らは預かっていた財産の銀子(1ミナ)をどう増やしたか報告することになると語られます。

ある僕は1ミナを見事に10倍に増やしており、他の一人も5倍にすることができました。
しかし、ひとりは1ミナのまま差し出し、主人は厳しい人で、自身が撒きもしなかったものを刈り取るので怖かったから1ミナをそのままとっておいたと言うのです。

すると、主人は憤って言います。
「ならばそれを銀行に入れておけばよかったのだ。そうすれば利息と共に受け取れたものを!」
それから、この家僕から銀子を取上げ、さらに、この主人を王として受け入れるのを拒んだ市民らを「敵」と呼び、討ち殺させます。(ルカ19:14)

この譬え話の「王権」を確かなものとして戻る主人がキリストなら、留守を預かる家僕たちは弟子たちを指していることでしょう。
したがって、弟子らはキリストが戻られるまでになすべきことが委ねられることになります。

この「ミナの譬え」によく似たマタイの「タラントの譬え」(マタイ25:13-)では主人の財産を増やそうとしなかった家僕は『外の闇に投げ出され、そこで歯噛みします』、これは主人の家から出され、当然、家僕の務めを失います。

ミナの譬えでも、この不精な家僕から預けられていた財産が取り上げられるところは同じようですが、こちらでは、この主人が王となることを望まなかった市民らの処刑が続いていて、この不精な家僕も関連をほのめかされています。(ルカ19:27)

そこで家僕の務めについて記述を総合すると、主人が皇帝からの王権の許諾を得て帰ったときに、家僕はその王権を支持し高める務めがあることのように示唆されています。

そこで彼らに託されたものは、聖霊によるイエスの教えであり、特に王国に関する理解ということができるでしょう。
しかし、それは単なる教えではありません。彼らは主人である王となる方の王権を代弁し、その土地の支配者らにその権力を渡すよう求めることになります。

その発言は福音書が述べるように誰も論駁のできない言葉であり、彼らによらず聖霊が語らせるものとなると予告されています。
確かにそれを活用するなら、主人が王権を確かにして来られるときにふさわしい栄光や誉れで飾ることができます。
また、これらの反対する市民の存在は、キリストの王権を望まない人々が終末に居ることも示しています。

しかし、聖霊の言葉を語らないなら、それは主人が王となることを望まなかった市民らと幾らも変わるところがありません。王権を理解せず支持もしない彼らは、みな「王権」の反対者であり、王からすれば『敵』と見なされても仕方のないことでしょう。


ですから、イエスは弟子たちの『主人』として、弟子らに教えを残し、ある期間にわたって天に戻られます。つまり、その間はイエスは地上に対して不在となるのです。(マタイ24:43-51)
「キリストの再臨」という言葉は、キリスト教界で良く聞かれる言葉です。それはイエスご自身が『再び戻って来てあなた方を迎える』と語られていたところにより、それは何度か話されました。

再び来られる以上は、不在の時期があるに違いないのですが、多くのキリスト教徒は、イエスが自分の傍に居てくれることを願って、主が不在であることを軽視します。

使徒たちも、イエスが地上に居た間に王となられ、その王国が設立されることを期待していましたが、それはこのような譬えによって、イエスが王となるために旅立ち、しばらくの期間を経て王となった主人を弟子たちが迎えるというように理解するべきことが示されました。

しかも、弟子たちは主人の帰る時がいつになるのかを知りません。そこで『いつも見張っているように』と諭されています。(マルコ13:34-36)


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このように、神から正式に王権を与えられてのキリストの王としての登場は、イエスが地上にある間にも起きませんでしたし、これまでにも世界は王権を帯びたキリストが到来を見てはいません。(ヘブライ2:8)

キリストが王としての行動を起されるまで時があることについては、詩篇110編にも述べられていて『【主】*は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」』(新改訳)とあります。この言葉は新約聖書でも五回繰り返され、キリストの王の立場に深く関わっていることを教えています。(*全能の神)

この言葉も、イエスが王権を受けるまで、神の右に座して時を待つことを教えています。そして、次にキリストが地上に関わりをもたれることは「再臨」という言葉で語られていますが、これに相当するギリシア語は「パルーシア」です。

「パルーシア」という言葉そのものには「到来」や「再び」という意味はありません。その言葉は「その場に関わりを持つ」という意味を持っています。つまり、一定の期間を過ごした後に、王権を得る前にキリストは地上に対して「関わりを持ち」はじめることになります。そこで「パルーシア」を王に成るべき方の「臨御」と訳されるのが妥当のように思えます。

その時に、イエスは再び聖霊を弟子たちに注ぐことを通して、大祭司としてとしての権能を発揮されることでしょう。
しかし、「王権」を得るのはその必要の生じる諸国民との戦いまで待たねばなりません。⇒「黙示録の四騎士

しかし聖書の全体は、このキリストの王となるべき「臨御」の時についてかなりの注意を向けて書かれています。なぜなら、それはただならぬ時代となるからです。

一方、その時までの間は地上に対してキリストはこの意味において不在(アプーシア)となります。
当然、大祭司として弟子たちを聖霊を通して選んだり、その人々が聖霊の業を行うことも無くなりました。

キリスト教界には聖霊が無くなったため、知識の統一ができなくなって分裂や分派が登場し、どこにもまったく「正しい宗派」というものがなくなりました。

それでも、人々の手元には聖書が残されています。それはモーセの頃から記された霊感の書であり、数多の神の事跡や聖霊の働きの記録が記されています。

わたしたちは、この書の中からかつて聖徒たちに注がれた聖霊の教えの姿を知ることができ、こうしてキリストの様々な役割を新旧の聖書からある程度探り出ことができます。

そして、今日のわたしたちの注意を集中するべきは、いつか始まることが待たれている、王権による実効支配前のキリストの「臨御」です。
聖霊を受ける弟子らがミナやタラントの譬えの不精な家僕のようにならないために、キリストの王権や「神の王国」への知識を知らせる聖霊の働きを隠さずに、堂々とその神の義に基づく啓示を世に知らしめる務めがあるのです。⇒ 「ミナの例え

そこで奴隷が主人を『厳しい方』と言うのは、聖霊の言葉や働きを公にすることへの怖れからであったことを、この『不精な奴隷』は自ら告白しています。(ルカ19:21/マタイ25:25)
つまり、世の政治家との対立を怖れ、聖霊の言葉を自ら封じてしまい、恰も地面に埋めてしまうという行いを通して、主人の王権をないがしろにしたのです。
『この世が受けることができない』『聖霊』というそれ以上ない宝を受けながら、それを運用することを怖れて躊躇する結果は、王となるべき主人からの拒絶と、この世と共に過ぎ去る者となる永遠の不名誉ばかりです。

実際、イエスは非常に多くの言葉をもって「王国」を説明していましたが、それはキリスト教界にあってどれほど理解されているのでしょうか。それらのひとつでも多くを知って、人々に広く知らせようとすることは、イエスの弟子を自認するすべての人の務めと言ってよいでしょう。

そのようにする方々は、キリストが「臨御」するときに、その王権に栄光を加えることになるでしょう。
ですが、キリストが戴冠し彼を王として迎えることを望まなかった不精な奴隷を含む全勢力を打ち砕くときには、ミナの清算は終わっていて、あとは家令たちの誰がどこを治めるかの話に進んでしまいます。

そして全ての敵を処罰する戦いに王は乗り進まれることでしょう。⇒ 黙示録の四騎士

では、キリストが「王なる祭司」となるためにこの世に「臨御」なさるとき、イエスはどのように世と関わることになるでしょうか。つまりそれは「世の裁き」に関わる事柄となります。

この将来に生じる事態について、その重要さからしても世界に周知されるべきことではありますが、その前に、キリストの死が成し遂げた事柄について次に考えましょう。
それは、神と創造に関わる根本的な理解に影響するものです。



 ⇒ 創造の助け手としての御子





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キリストの果たす役割4

2012.08.17 (Fri)
キリストが導いた聖なる者たち

イエスが天に去って十日後の五旬節の日に、初めて聖霊を注がれ奇跡の能力という賜物を受けた弟子たちはその後も増えてゆきます。
その能力の種類も増えてゆき、後にパウロは九つの賜物の種類を挙げています。(コリント第一12:7-11)

それらには、最初に与えられた「異言」という外国語で神に関することを話す能力の他に、「預言の賜物」では後に起こることを知らせ、飢饉や地震、またパウロの身の上に起こることを知らせて、覚悟を促したりすることもありました。(使徒11:28/21:11)
また、イエスが予め語っていたように『真理の全容に案内する』という、『知識』の賜物もあり、その働きで各地の弟子たちはその教えを混乱させたり、異なった教理で分裂してしまう事態を避けることができました。(ヨハネ16:13)

それで、パウロと異なる意見を持つ弟子が出てきても、パウロは徹底的に反論する必要がなく、却って『これと違った意見を抱くことがあっても、神はあなたがたに啓示してくださるでしょう』と穏やかに言うことができました。(ガラテア5:10/コリント第一14:37/フィリピ3:15/ヨハネ第一2:20-)

このように、聖霊の賜物は「異言」のように人々に広く福音を知らせることを助けるものもあれば、弟子たちの全体の一致を保つことを助ける働きもあったと言えます。

当時の集まりは、これら様々な聖霊の賜物を通してプログラムが満たされ、人々はそこから信仰上の糧を得ることができました。
パウロは当時の集会を秩序立て、異言を話すならひとりずつ順番にして、できれば翻訳できる人を付けて聴いている皆が理解できるようにするようにと勧告しています。(コリント第一14:26-40)

さらに、使徒たちには「癒し」の力も与えられており、ペテロやパウロは死んでしまった人を生き返らせることも行っています。
それはあたかも、キリストの行った業を弟子たちが受け継いで地中海世界の各地に広げられたかのようです。これについてはイエスも『わたしを信ずる者は、わたしと同じ業を行い、しかもより大きく行う。わたしが天にゆくからです』と予告していました。(ヨハネ14:12)

使徒の生きている時代の初期には、信じて集まる人々のほとんどが、この「聖霊の賜物」を受けた人になったことが新約聖書の記述から分かります。
パウロは、これらの聖霊の賜物は、それを受けた人々がキリストと共になるように選ばれ召されたことの印であると語っています。(エフェソス1:14/コリント第二5:5)

キリストは既に天に戻っていますので、『キリストと共になる』とは、彼らもいずれは天に昇ってキリストのような霊の姿となって共に神に仕えることを知らせています。(フィリピ1:22-23)
使徒たちは、この人々を『聖なる者』または『聖徒』(ハギオス)と呼びました。この人たちの行う奇跡の業は、彼らが地上に居る間からキリストと業を分け合う者であることを証しているかのようです。(ローマ1:7)

聖霊を用いて、キリストは天から使徒や際立った弟子たちを導き続け、宣教に赴く方向を教え、迫害の際には傍にあって励ましを与えます。

また、「王国の鍵」を与えたペテロを用いて、まったくの異邦人であるコルネリウスのところの出向いて、選ばれた非ユダヤ人にも聖霊が注ぐというご自分の意志を遂行させ、そうしてペテロが鍵を用いて「王国」にユダヤ人以外の人々も含めさせるようにします。

これら、使徒時代の奇跡的で充実した業の進展は、聖霊によるキリストの天からの指導なしには成し遂げられなかったことでしょう。

しかし、使徒時代の後期になると、弟子の中には聖霊の賜物を受けない人が次第に現れてきている様子が聖書に散見します。(ヘブル6:9-10/ローマ8:9)
これらの人々は、自分に聖霊がないからといって神に捨てられているわけではありません。

むしろ、聖なる者たちの働きから益を得ることができ、それはキリストと聖徒が共になった後には、さらに贖罪されて地上で「神の子」となるので、アダムがそうであったような創造された本来の素晴らしい人間として地上で生きることができます。(マタイ5:5/詩篇37:11)
ですから、聖霊ない弟子らは聖徒たちの存在に感謝することができます。そして実際、聖徒に選ばれるということはけっして楽なことではありません。

パウロもペテロも、聖徒たちが『聖なる者』として『聖なる行状』を保つことを求めており、加えて彼らには迫害や誘惑があることが再三予告されています。彼らはイエスに続き、それらに打ち勝って『世を征服する』務めもあるのです。(エフェソス5:3/ペテロ第一1:15)

初期キリスト教は、多くの殉教者を出しましたが、死に面しても揺らがぬ信仰や静穏さには、異教徒からの同情や尊敬さえも得ることになり、それは結果的に更なる信者をもたらすことにもなりました。
イエスは、『わたしの杯を飲み干せるか?』と使徒らに尋ねましたが、それは彼らがイエスの後に続く決意を問うものでしたし、パウロはそれを『キリストへの死へのバプテスマ』と呼び、実際彼もローマで処刑されたとされています。(マルコ10:38/ローマ6:4)

しかし、今日のキリスト教徒の集まりに古代と同様に聖霊を持つ人を見ることはありません。もし、正しく聖霊を持つ人がいれば、キリスト教界はこれほど分裂はしていないことでしょう。
聖霊は神の御力であり、明瞭に働くのでパウロはその現れを、英語でマニュフェストとも訳される「ファネローシス」という語を用いて言い表しました。(コリント第一12:7)
それら教えや奇跡が組み合わされると、様々に集まった人々全体を益することができる意義深いものとなったことが聖書に窺われますので、本人の陶酔や自己満足で終わるようなものではなかったと言えます。(コリント第一12:4-12)


では、古代のように聖霊を注がれた聖なる者は、今日居ないのでしょうか。


 ⇒ 聖徒の伝承 






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キリストの果たす役割5

2012.08.17 (Fri)
賜物は地上を去る


聖霊の賜物を持つ聖徒たちは、キリストの同世代の人々が寿命を迎えて去ってゆくにしたがい人数が減るようになり、やがてまったく居なくなったことが第二世紀頃の歴史から窺えます。

例えれば、第四世紀の有名な教会史家カエサレアのエウセビオスは、初代キリスト教徒が後の時代のような派閥の分裂が起こらなかったことについて『そのためシモン(マグス)も同時代の他の者らも、この使徒時代には何の組織も作ることが出来なかった。なぜなら、真実の光と、そのころ神から出て人類を照らし、地上で活動した使徒たちに宿った聖なるロゴスは、すべてに打ち勝ち圧倒したからである。』と述べています。(教会史Ⅱ14)

また、初期のキリスト教徒であったヘゲシッポスの語ったところも伝えられており『しかし、使徒たちの聖なる合唱隊がそれぞれ絶え、神的な知恵を自分の耳で聴くことを許された世代が過ぎ去ると、神を信じない血迷った一団が、単なる教義を教える者たちの瞞着によって根を下ろした。』と記録されています。(教会史Ⅲ32)

第二世紀にシリアで書かれたとされる「イザヤの昇天」という本は、当時のシリアの状況を述べて、聖霊によって預言する者が激減したことを伝えています。
最後の使徒ヨハネは、西暦第二世紀の始まる頃までエフェソスで生活していたとされますが、彼の最晩年に書かれたヨハネの手紙からしても、当時にはまだ聖なる者が残されていました。

さらには、エフェソスの近くのスミュルナのポリュカルポスという人は使徒ヨハネを知る人でしたが、117年の夏になってもイエスに癒された人が生きていたと書いています。
同じ頃、キリスト教徒で著作家のシリア出身のクワドラトゥスは、彼自身が「預言の賜物」を持っていることで人々に知られており、彼も当時にイエスに癒された人の生存を書いたことが知られています。

これらの情報を総合すると、キリストと同世代の人々が世を去る頃になると、聖霊の賜物も少なくなって、やがて無くなっていった形跡が見て取れます。
それはおそらく、西暦100年から130年くらいの間のように観察できます。

これに呼応するように、西暦120年を過ぎる頃から使徒たちや、初代の有名な弟子の名を借りた「疑典」と呼ばれる怪しげな内容の書物が続々と現れはじめます。それはまるで著作権が切れたかのように押し寄せてきました。

それらは霊感を受けた聖書の一冊のように装ってはいますが、聖典の精神からはあちこちに逸脱が隠せません。
このような疑典の流行は、キリスト教を警護し逸脱を「抑制していたもの」が去ったことを暗示しています。逸脱を防止していたそれは弟子たちに注がれていた聖霊と言えるでしょう。(テサロニケ第二2:7)

これらの書物には、当時流行していたヘレニズムという諸民族の宗教や哲学の混合思想の影響があり、キリスト教は疑典などを通してヘレニズムの入り混じった異教の教えに間断なく曝されることになります。
こうして、初期キリスト教著作家たちのいう『純正な時代』や『汚れない処女』の日々は終わりを迎えます。

その間、ユダヤ教徒とキリスト教徒の仲は非常に悪くなってしまい、互いの教えを排撃し合う度合いは強まるばかりで、キリスト教徒は旧約本来の教えを好まず、ユダヤ教徒はイエスも新約も価値をまるで認めません。
これでは、聖書全巻の一貫した見方を双方が拒んでしまい、全体の意味を捉えることが非常に困難となります。

こうして、元来ヘブライの教えであったキリスト教は、ギリシア的哲学や宗教と混合を始め、やがては混血したかのように、どちらともつかない宗教となってゆきます。いわゆるギリシア=ローマ型の「キリスト教」がやがて登場してきます。

さらに追い討ちを掛けたのが教えの変質による分裂でした。西暦150年を越えたあたりからは、最初の分派が内部から起こったことを教会史は伝えています。
トルコ半島中部の現在のアンカラに近いフリギア地方で、モンタノスという人物が「霊」を受けて前後不覚の憑依状態に陥ります。
そして、失われた聖霊は自分に移ったと唱え、預言者を自称して弟子を増やして行きます。

しかし、聖なる者の場合、聖霊の賜物は憑依状態に陥らせるものではなく、パウロによると自分の意識をはっきりと持っているだけでなく、聖霊の賜物の働きを自分でコントロールできたことが知らされています。(コリント第一14:15/14:27-33)
ですから、モンタノスに訪れた「霊」というものは、聖霊ではないでしょう。

イエスは弟子たちに偽預言者に注意するよう促して『その実によって彼らを見分ける』と語っていました。(マタイ7:15-20)
その点、まさにモンタノスの『実』は良いものとはなりませんでした。女預言者を加えた彼らは自分たちは貪欲な生活をしつつも、弟子らには結婚を禁じるなど禁欲を奨励したのです。(テモテ第一4:1-3)

その派の根拠になったのが彼らの預言で、しばらくすると戦争や無秩序が起こってキリストの予告したこの世の終わりが来る、と緊急感を煽ったのです。
しかし、女預言者が死んでもそのような事態は起こりませんでした。この一連の「モンタヌス運動」をはじめとして、キリスト教界はその後様々な分裂を経験することになります。(ルカ20:30)

それは、聖霊を持った聖徒たちが去ったのと入れ替わるように現れました。
それから二百年が経過すると、ローマ帝国はキリスト教を国教に定めたので、キリスト教は政治と手を握っていて、権力の穢れを避けることは出来なくなってしまいます。
キリスト教のその後は、初代の教えとは異なった教理、つまり多くの『パン種』を次々に埋め込まれ、世界一大きな宗教に膨れ上がりましたが、同時に清さを失って行きました。(マタイ16:12)

しかしそうなると、聖徒の後のキリスト教は聖霊という舵を失い漂流を始めた船のようになったのでしょうか?
今日まで初代と同じように正しく聖霊の賜物を持った人が現れたという記録は見当たらず、また、歴史を眺めても、現れるべききっかけも起こってはいません。

では、どうして聖霊の賜物は無くなったのでしょうか?
また、キリストは聖霊を通して弟子たちを指導することを止めたのでしょうか?

この疑問には、キリストの「神の王国」の王としての役割が関係しています。
次に、この観点からキリストを考えましょう。



 ⇒ 王としてのキリスト









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キリストの果たす役割1

2012.08.16 (Thu)
1.神と人との仲介者

キリスト教を信じるのに、イエス・キリストの役割についての理解をはっきりさせておくべきなのは言うまでもありません。

テモテ第一2:5でパウロは、『神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです』。と書きました。[新共同訳]

では、クリスチャンを自認する方なら、このキリストが仲介者であるという点で、どのくらい理解がはっきりしているのかを少しテストしてみましょう。

まず、イエスという方の役割について簡単に追ってみると
西暦起源前数年に、名義上の父をヨセフとしてその妻となっていたマリアを母として旅先のベツレヘムの馬小屋に生まれます。
ヨセフの家系はダヴィデ王の子孫で、正統な王権相続権がありました。
そのため、当時ユダヤを治めていたヘロデ大王は幼子イエスを警戒して、ベツレヘムの二歳以下の男児を皆殺しにしました。

そこで、イエスにはイスラエルの「王」としての相続権があったことが分かります。

それから、イエスには偉大な預言者の役割もあります。
モーセは申命記の中で次のように述べています。
『あなたの神、【主】は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない』。(申命記18:15[新改訳])

モーセという人物は、神とイスラエルとの間に立って、契約の仲介者となって働いた偉大な預言者でした。
では、それほどまでに重要な働きした預言者が現れたのでしょうか。
後に、神はモーセを仲立ちに締結した律法契約を超えるものについて予告していました。

『見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』(エレミヤ31:31.33[新改訳])


新約のヘブル人への手紙は、この新しい契約の仲介者が誰であるかを知らせます。そこではモーセが律法契約の発足で活躍したことを語ってから次のように述べています。
『 しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。』(ヘブル8:6[新改訳])

それで、イエスはモーセよりも勝った預言者であるばかりではなく、より高度な契約の仲介者となったことを、聖書はわたしたちに知らせています。

契約の仲介者ということは、両方の側を取り持つ役割で、片方は「神」であり、もう片方は「人間」です。

神は「律法契約」をイスラエル民族と結びましたが、イスラエル民族としてはこの「律法契約」を守ることに失敗してしまいます。その原因は、彼らの「不信仰」にありました。
しかし、神は以前に交わしたアブラハムとの約束を守るために、別の契約をイスラエルと結ぶことを意図され、そこで「新しい契約」を用いられることになりました。その「新しい契約」の仲介者はモーセに勝って偉大な預言者となられたイエス・キリストです。

これらの契約は、神がアブラハムの子孫であるイスラエル民族を用いて人類全体を祝福するという計画を成し遂げるためのものでした。
それは、「イスラエル」というものを通して、人間に宿っている「罪」を浄め、最終的に人間が倫理的欠陥を尽く無くし、神に創造されたままの清さを取り戻すことで「神の子」の状態に復帰させる目的を達成させます。

それで、イエスはただ「新しい契約」の仲介者であるだけでなく、最終的には『神と人との仲介者』ともなられます。

キリストが人類を神と和解させる仲介者としての務めのはじめは、具体的にまず「大祭司」となることが含まれていました。その務めについては、モーセの律法の下での「大祭司」の取り決めが、鏡が実体を映すかのようにして、予め模型的にキリストの大祭司職について指し示していました。

では、次にキリストの果たす「大祭司」としての役割を律法下の大祭司の奉仕と照らして見てみましょう。

 ⇒ 大祭司としてのキリスト





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キリストが果たす役割2

2012.08.16 (Thu)
2.大祭司としてのキリスト


エルサレムの神殿では、律法の取り決めに従って定期的に動物の犠牲が捧げられましたが、それはイスラエルの罪のためのものとされていました。

しかし、それらの動物の犠牲は人間の倫理上の欠陥である罪の贖いとなったでしょうか。
パウロは『年ごとに捧げられた犠牲は、近付く者たちを完全にはできなかった』と言います。そのためイスラエル人にとっては『それらの犠牲は年ごとに罪を思い起こさせる』ばかりでした。
なぜなら『雄牛や山羊の血が罪を贖うことはない』からです。(ヘブル10:1.3.4)

『しかし、キリストは、罪のために一つの永遠の犠牲を捧げ、神の右の座に就きました』それはイスラエルの罪だけでなく世界の人々の罪への贖いともなります。(ヘブル10:12)
パウロはその犠牲の価が何に相当するかを示して『一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになった』と言って、イエスの贖いはアダムの失ったものを償うことを明かします。(ローマ5:18)

そのためにイエスは「アダムの罪」の無い人間でなければ、贖いとなることはできません。アダムの子孫は皆が尽く罪にあるからです。しかし、イエスは天からの方であり、マリアの処女懐胎によって地に来られた奇跡の方であり、唯一人罪の無い方となりました。
もし、イエスが普通の出生であったなら、キリストとして任命を受けることはできなかったことになります。

そうしてはじめて人間イエスは、人間アダムの罪への行いを相殺するために義の行いをし、死に至るまで試されたことによって、アダムの行いを無に帰せしめることができます。(ローマ5:19)

この働きを為すため、イエスはすべての人々を罪から贖う「大祭司」となられます。
それでヘブル書は『わたしたちの弱さを思いやることのできない方ではない方を、つまり罪を犯されなかったけれども、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に直面した方を大祭司としているのです』と書いています。(ヘブル4:15)
キリストは、地上での歩みを通して人間の労苦や誘惑に面したので、わたしたち人間の罪に流されやすい弱さを知っているので、人の罪を共感を抱いて扱ってくださると言うのです。

また、キリストの大祭司職は、モーセの律法の下での大祭司よりも遥かに次元の高いものなので、モーセの兄であった大祭司アロンの形式によるのではなく、さらに古代の他の人物、つまりアブラハムの昔に居た祭司でありながら王でもあったメルキゼデクという人物にも例えられています。(ヘブル5:10)

モーセの律法下では、「大祭司」と「王」との役職がはっきり分けられ、それぞれ別の人物が任命を受けましたが、キリストの場合はそれとは異なり、メルキゼデクのように王と祭司を兼ねる任命を受けます。
それは、イエスが祭司の家系のレヴィ族ではなく、ダヴィデ王家の家系に生まれたことが、律法の下での祭司とはならず、「王なる祭司」となることを示していました。

任命を受けた後の大祭司キリストは、その大祭司の役職を通して、ご自分の捧げた犠牲をどのように適用するかの権限を持ちます。
ヘブル書が、死に至るまで試された後のイエスの栄光について『そうして、権威を授かった後、ご自分に従うすべての者らの永遠の救いに責任を負う者となられました』と述べる通りです。(ヘブル5:9)

この大祭司への任命は、キリストの死を遂げた後のことでした。
その点をヘブル書は『もし彼(キリスト)が地上におられたなら、そこには律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが居るのだから、彼は(まだ)祭司ではなかったでしょう。』と明らかにしています(ヘブル8:4)

また、キリストも地上の大祭司のように捧げる犠牲を携えるために準備する必要がありました。それは即ちご自身の「血」の犠牲です。そのためにも、キリストが大祭司として活動するのは犠牲の死の後となります。(ヘブル8:3)


さて、犠牲の死を遂げられ、捧げるべきご自分の「血」の価値を携え天に戻ったキリストは、いよいよ大祭司としての職務を始められますが、そこで律法下の大祭司よりも高度な、どんな祭儀を司ったのでしょうか。

その職務には「聖霊」が大きく関わることになります。
では、大祭司としてのキリストが実際に何を行われたかを見ましょう。



 ⇒ 3.最初に祭司たちを贖う






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キリストの果たす役割3

2012.08.16 (Thu)
3.最初に祭司たちを贖う


キリストが大祭司の任命を受けたのは、犠牲の死を遂げてから神によって生き返り、その犠牲を携え天に昇られ、天に復活して以降のことでした。そのようにして『ひとつの犠牲を永遠に捧げて神の右に座した』と言うことができます。(ヘブル10:12)

それから十日して、ユダヤは五旬節の祭りとなりますが、この日にエルサレムの街の隅でひっそりと隠れて集まっていた約百二十人の弟子たちには驚異的なことが起こります。

それが、以前にイエスが度々語っていた『助け手』となる『聖霊』の到来でした。そのときから「小さな群れ」であった彼らは力を受け、奇跡の能力を与えられ弟子の数は日毎に大きく増えてゆきます。(使徒2章)

この聖霊についてイエスは『わたしが去って行かなければ助け手は来ない』と語っていましたが、その言葉の意味は、イエスが大祭司の任命を天で受けてはじめて、その罪を贖う権能を得たので、贖いをその百二十人ほどの弟子たちに最初に適用したことを物語っています。

ですから「聖霊の賜物」は、罪の贖いなくしてはけっして与えられない貴重なもので、罪を許された「神の子」だけが受ける特権と言えます。(ヨハネ16:7/1:12)

それなので、パウロは『従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。』と言うことができました。(ローマ8:1-2)

聖霊を受け、その奇跡の賜物を得た特定の人々については、ちょうど律法の規定に沿って、大祭司が最初に自分自身と共に働く祭司たちの罪を贖ってから後に民の全体を贖ったように、大祭司となったキリストもまず自らの死を通して完全にされ、それから共に働くことになる弟子たちを人類全体に先立って罪から贖ったことを表していました。(レヴィ記16章)

それらの聖霊を受けたキリストの弟子がイスラエル人であってもなくても、個人の出身民族に関わらず、モーセの時代から語られた『選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神の所有に帰する民』であると指摘し宣言したのはペテロでした。(ペテロ第一2:9)

かつてのレヴィ族の祭司たちのように、キリストの犠牲を代価に神に買取られた民である彼らは、キリストと共に神殿を構成する「石」となり、もはや地上に実在する石の神殿を必要とはしません。その高度で新たな祭司制度はイスラエルだけでなく人類全体の罪を贖う奉仕を行うことになります。


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パウロは、聖霊の賜物を得た彼らを「初穂の霊を持つ」と表現していますが、それは彼らが、大祭司キリストによって祭司となるべく人類に先立ってキリストの犠牲が適用された「人類の初穂」と見なされる選ばれた格別の人たちであることを物語っています。

こうして、キリストは新しい祭司制度を発足させましたが、これを可能にするために存在したのが「新しい契約」でした。聖霊を与えられてこの契約に招かれた人々こそ本当の意味での神の民「イスラエル」であり、全人類を祝福する『諸国民の光』となります。

この血統によらない、信仰によって選ばれた神の民、また聖なる国民のことを、パウロはユダヤ人と区別して『神のイスラエル』と呼んでいます。そこには様々な国の人々が含まれたからです。

ですが契約とは、不確定なものに対して取り決められるものです。
「新しい契約」の場合は、キリストと共になる人々を、その肉体でいる罪ある間であっても、仮の義を貸し出して「神の子」としての罪のない状態にあると見なす働きをしました。それが「契約」であり、聖霊を受けた人々が最終的に罪のない「神の子」となるかどうかは地上にいる限りは不確定でした。それなので、パウロは彼らの受けた聖霊の賜物は「約束手形」であるとも書いています。(エフェソス1:14)

しかし、彼らの肉体には、実際にまだアダムからの罪があるので、彼らの「義」は生涯を通じて、愛のうちに『傷なく、しみのない状態を保って』『貞潔な処女のように』生きるなら天でキリストと共になる、という条件が付されてます。
ですから、ユダヤ人が律法契約に失敗したように、聖霊を受けた弟子らも個々に失敗することも有り得ることになります。そこでイエスは彼らに『狭い戸口を通って入るよう』な努力を求めていました。

ですが、最終的にこれらの聖霊を受けた弟子たちは天に召され、いよいよ新しい祭司制度が機能して、全人類を罪から救う時代が到来します。
人々は、今の貪欲と争いに満ちる社会を後にして、愛と協調の社会を学びはじめます。
しかし、その過渡期には適正な支配を受ける必要があり、キリストが王として人類を治めることになります。その支配が如何に慈悲深いものになるかは、福音書が明かす通りになるでしょう。

このキリストの支配のことは「神の王国」と呼ばれます。
それはけっして人々の心の中にだけあるものでも、今の世の中を改善してゆくものでもありません。
むしろ、倫理的欠陥として人間全般に巣食う「罪」そのものを、生きる人々から完全に除き去る根本治療となります。
『その王国は、ほかのすべての王国を打ち砕いて終わらせ、それは大きな山となって全地に満ちる』ことになりますが、それは社会の大きな具体的変化なくして達成されるものではありません。(ダニエル2:44)

その変化の起こる前に、聖霊は再び弟子たちの選ばれた人々に注がれ、「神の王国」とキリストの到来が世界に知らされることになりますが、この点は後の部分で詳しく考えます。

さて、この「王国」を通して、罪を許され、愛を学んで「神の象り」に創造された通りの「神の子」に復帰した人類は、神との完全な和解に至り永遠の命に入ります。

これこそが、『神と人との仲介者』として任じられたキリスト(任命された者)の果たす、比類なく壮大で素晴らしい大事業です。この教えを信じるキリスト教徒とは何と幸いな人々でしょう。
まさに、「神と人の和解」こそが創世記から黙示録までを貫く永遠のテーマとなっています。

そして、イエス・キリストは人間だけでなく、神についても成し遂げる非常に大きな働きがあります。それもまた、キリストでなくてはできない事ですが、それによってイエスの父である創造の神は最高度の栄光を受けることになります。

しかし、そのことを考える前に、聖霊の賜物を受けた弟子は今日も居るのでしょうか。
この人々がどうなっているのかについて、次に見てみましょう。


 ⇒ 「聖なる者」



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