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キリスト教の本質 -回答-

2018.10.25 (Thu)

社会悪に立ち向かう点での正解はキリストにあります。
様々な偉人が巨悪に戦いを挑んできましたが、そのひとつひとつはフラグメントであり
巨視的にも恒久的にも勝利したことはありません。
偉大な改革者の方々の功を浸食してしまったもの、それが人間普遍に根付く「悪」であり
これこそが終りの見えない「倫理」という問題であります。

人々は「神がいるなら、これほど世の中に悪や苦しみが満ちているのはどうしてか?」と問うのですが
神をどうこう言う以前に諸悪や苦難もつまるところ
人間の倫理不全に起因するものがほとんどではありませんか。

まさしく聖書とは、この倫理という問題を正面から扱い
それをどうするかを知らせる書物なのです。
神はそれを『罪』と呼び、人がどれほど悪い倫理上の状態にあり
そこで何が必要かを教えています。

端的に言ってキリスト教とは、信者個人を益することを目的とするものではありません。
「信仰によって救われた」はその通りですが、この言葉は大いに誤解されています。
アブラハムに示された「人類の救済」という、神の意図全体への観点が欠けているからです。
「信者のためのキリスト教」であれば、狭く他者を侮蔑した利己主義を煽られることを避けられません。

また、本来聖書は「科学的」にも「宗教的」にもアプローチされるものでなく
そのようにすれば本旨を見失うでしょう。
聖書は「倫理」の面から読まれなくてはなりません。
エデンの二本の木から始まって、それが最後まで本旨だからです。
ですが、聖書が道徳を教える本だというのではありません。
この「倫理」とは、より根源的な「他者との関わり」を指します。

所謂「クリスチャン」方は「自分の救い」を求めますが
そもそも神が全能であるのに、何故「救い」が必要になったのかを弁えず
自分が是認され、神に近付くことをただ願うとすれば
それは人を神から隔てた問題そのものに目を瞑っているのです。

また、聖書学者は「信仰」の模範者でしょうか?
正確さを期して原語の語句や文法にこだわり過ぎても逸脱します。
御言葉に厳密に従ったユダヤの律法学者の末路はメシアの否認だったではありませんか。

聖書は「文学的」に読み、イメージとして把握されてはじめて深い意味を悟れるものです。
そこには幾分かの曖昧さ、「遊び」のような人格的余裕もないと硬直化してしまいます。
要は「人の語りを人が聴く」ということです。
聖書に律法があるとはいえ、そのすべてが法的書面でも学者の論文でもないからです。
そのうえで、やはり人を超えた書であることを「人格的に感じさせる内容」であるのです。

ですから、聴く前からこちらが前提条件を付けるように何かを決め付けて耳を傾けてはなりません。
相手の語るところを素直に受け取ってゆくと、はじめてその内容の真相が分かってきます。
聖書については欧米の精神的土壌では
このように「ナチュラルに聴く」ということがたいへんに難しいのです。
それは特に欧州で「高等批評」が発達したところに見えています。

高等批評は、欧米のキリスト教信仰というものが
どれほど強圧的で異論を許さないかを証明するようなものです。
ベルリンやチュービンゲンに代表される「牧師の息子たち」のような人々は
その圧制を打ち砕くのに、彼らはキリスト教の内部から行う以外に方法がありません。

この点では、ドイツはフランスのように宗教を公共から締め出さず
宗教戦争後の体制を維持したまま今日までその形を引きずってきました。
その圧力を形成していたのは、その父親たちの頑迷な「真理」という聖書主義の正しさであり
その矛盾した表層を信じ込んだ一般信徒という、社会に垂れこめる重い黒雲、いや同化しているものは感じない「深海の重圧」です。
キリスト教界の恐ろしく分厚い蒙昧から個人思想や生き方の自由を求める場合に
そこからの脱出を目指した人々の情念のようなものに共感をすら覚えるほどです。

そこで彼らは、キリスト教を19世紀の思想潮流であった「科学」によって
キリスト教を内部崩壊させる道をとりました。そうせざるを得なかったのでしょう。
つまり、父親たちの蒙昧な信仰の圧制に反発した彼らには「信仰」というものがありませんし
元からそれを破壊することが目的です。

彼らにとって聖書は「宗教的」に読まれるべきものではなく、「科学」の前に打破されるべきものです。
そうして「高等批評」は、聖書の傍らに在って「科学的な呪詛を浴びせ続ける者」となったのです。
彼らにとっては「父親たちのキリスト教」など、迷信として容易に崩れ去るに違いないと思えたのでしょう。
しかし、彼らの「父親たちのキリスト教」と「キリスト教」とは同じものではなかったのです。

この人々の批評が机上の空論であったことは考古学と「下等批評」の前に暴かれてきました。
また、彼らの聖書批判の要点にもやはり推論が用いられており、主観的で正しく科学でもありません。

この人々は聖書学者であっても、またキリスト教徒を自称してさえ所謂「信仰」はありません。
彼らがキリスト教徒を自称するとすれば、それは戦略であり、伏兵の迷彩のようなものです。
ですから英米の信仰ある学者たちがドイツに学んで信仰を打ち砕かれた事例があるのも当然でしょう。
そもそも「高等批評」の目的はそこにあるのですから。彼らが「神はいない」と叫ぶのは本音でしょう。
<似た現象はユダヤ教でも起こっており、共に宗教は社会を圧迫しています。この点で、宗教の社会的圧迫のない現日本の精神環境は非常に優れているといえます>

しかし、学者に何が主張されようと問題解決の糸口さえ見えません。
人間には社会的問題「倫理」が厳然として残っています。
人間に宿る「悪」は、産業革命や植民地支配を用いた物流
また、科学を応用した技術の発展に伴い、問題が増幅されてしまい。
恐ろしい結果を20世紀に刈り取っています。
そして21世紀の今日、世界はいよいよ混沌に向かって速度を上げてきました。

そこで本当は聖書に目を向ける必要はますます増大していましたが
その本旨である「倫理」を捉えることは稀で、「クリスチャン」は「救い」や「利益」を願います。
世に横溢する社会悪が増幅される中でこの有様であったのです。
しかし、人の「悪」は古代も現代も変わらないものでしょう。皆がアダムの子孫であるのですから。

キリストは当時にユダヤに在って社会への義憤をはっきりと表しています。MC3:5/12:24
それは弱者に対する当時の支配階級の態度への鋭い批判に明瞭です。LK11:45
おそらくは、そこにあらゆる悪が凝縮されていたのでしょう。
キリストを退け殺害させた咎は、ユダヤ律法体制をその世代の内に終わらせています。

悪の根源は「利己心」であり、それは他者を押し退ける我欲を本質とします。
究極の利己心を懐く悪魔の願望は「支配」であり、慈愛深い神に成り代わり圧制を与えてきましたし
終末にはほとんどその欲望を遂げたかになるでしょう。Isa14:13

これは自己愛がいけないということではなく、自分を含めてすべてを愛すること
それにより全ての魂が全体を愛すること、それが創造の意図であることを意味します。
これが「他者とどう生きてゆくか」という問題、「倫理」なのです。
創造界に悪魔を通し利己心が入り、それが調和を崩しました。
それを通して「死」が入り込んだのも、人がみな「他者とどう生きてゆくか」をわきまえないからです。

この身勝手な「利己心」を相殺するのが「利他心」であり、これが「愛」であり
旧約聖書では「ヘセド」、新約聖書では「アガペー」とされるもので
「ヘセド」は「不変の」または「忠節な愛」、「アガペー」はキリストが示す慈愛と云えるでしょう。
今のところ、わたしは本質的に同じものを指しているのではないかと考えております。
聖書全体、また神の教えはこの点に凝縮されるでしょう。

慈愛の薄い者、利己的で貪欲な者、専横な権威を愛する者、威張り支配しなければ人を愛せない者
こうした人々はその反対への傾向を持っており
神の前には相当に危険です。神にとって危険なのではなく、その人の魂としての存在意義が危機にあるのです。
そのような性質は「悪魔の象り」であるからで、最終的にキリストたちに逆らうことで裁かれるでしょう。その踏み外した強い自己愛に諸悪の淵源、社会悪の根があるからです。

悪魔こそは、自己を高めようとして創造界に混乱と争いを持ち込みましたが、この『つまずかせる者』はこの世に同じ性質の者らを持っていて、それら人間である『つまずきをもたらす者』を避けることは、この世が在る限り避けられません。
その最たる者が、ユダ・イスカリオテでありましたし、同じく『滅びの子』として終末に現れる『不法の人』『反キリスト』が現れるのでしょう。その者は究極的な高い座を占め、『神として自分を示す』までになり、そこに悪魔の不倫理性が凝縮されることでしょう。

その精神は、自己を高めないではいられず、他の人々を自分の踏み台にしようと、ごく自然に行動し聖徒らを売り渡すでしょう。そうでない人々は、その精神に唖然とさせられることでしょう。その貪欲な利己心を理解できないからです。それは自分の周囲に敵意と破壊をもたらさずには終わりません。諸悪の根源であり、人類に『救い』を必要とさせたそのものであるからです。

そこで、歴史上現れて来た様々な「社会正義」は、それら「利己心」への個別の戦いであったのでしょう。
田中正造も、賀川豊彦も、わたしには偉大な方々でまったく比較の対象にもなりません。
しかし、どんな人間も完全な正義を行うことができず
偉人の行いも「この世」の本質を変えるものとはなりません。
ですから、これらの偉人の精神に共感されることを通して
そこからキリストがどれほどの方かを実感されるものと思います。
即ち、唯一無二の「道」、深い闇の中に差し込む一筋の光であるからです。Isa60:2

悪魔が創造界に貪欲のカオスをもたらしたように
人間の間からは強欲を懐く勢力が絶えたことがありません。
社会の英雄的改革者なり、社会活動家なりはこうした強欲を相手に果敢に闘ってきたのでしょう。

ですが、その悪に走る傾向は実に人間自身から発するものであり
それを絶やすことは誰にもできません。
その点で、だれかが大きく成功したように見えても、それは常に一時的なものになってきました。。
宗教や社会のあらゆるユートピアが水泡に帰すのも、教義や体制の仕組みばかり考えて、人間に宿る悪の大きさを洞察しないからでしょう。

それゆえにこそ、キリストという究極の道が如何に稀有であるかが見えてくるでしょう。






 ⇒神はなぜ信仰を求めるか


新約聖書ヘブライ語原典説という退屈

2018.09.25 (Tue)


ご指摘の記事ですが、フェイク情報です。
書いた方はメシアニックジューの信条にあるようですが
新約聖書の大半が最初にはヘブライ語で書かれていたということについては、デマとしか言えません。
背景にはメシアニックジューによるユダヤ優越主義の下にキリスト教徒を取り込もうとの手段を選ばない意図も透けて見えます。

メシアニックジューは「ナザレ人イエスをメシアと認めるユダヤ教徒」というべき存在であって、依然として律法遵守のユダヤ教に留まっている現状からすれば、古代のユダヤ教イエス派の現代版のようです。これに賛同、または影響される元々のキリスト教徒が増えつつあるように見受けられますが、この人々にはキリスト教の名の下に律法とタルムードの歴史が育んできたユダヤ文化への度を越した傾倒が見られます。ですが、メシアニックジューはユダヤ教の範疇にあり、キリスト教徒ではないのです。両者を分けるものはモーセの律法をどう見るかです。

「クリスチャン」には旧約をよく知らず、旧約に不安を感じるという方が少なくないという話は時折耳にしますが、確かにキリスト教は一般的にユダヤ教から学ぶべきところをおろそかにしてきましたし、それはニケアー会議からしてそのようであったことを史料が示しております。
ですが、ユダヤ教側に至っては、ナザレのイエスをメシアとはまったく認めず、新約聖書も読んで来なかったのですから、新旧双方のを貫く経綸の知識という点ではキリスト教界に到底及ばないという以外ありません。ユダヤ教では「原罪」の概念なく、「キリストによる贖罪」や、『聖霊』も『新しい契約』についても思考の外にあります。


さて、まず、カトリックの聖典研究の長さも豊富さも、到底あなどれるものではありません。
「ヘブライ語だから読めずに価値が分からなかった」なぞ、巷の信徒や聖職者ならともかく、学者の居た教皇庁や修道会また大学が存在してきた以上、とても有り得ないことです。

そもそもカトリックには、ヒエロニュモス以来の学究の歴史がありまして、ルネサンス期にもアルフォンソ​・​デ​・​サモラ[Alfonso de Zamora (1474-1544)]のようなユダヤ人改宗者の学者らが居ましたし、近代ではアルフレート・エダーシェイム[Alfred Edersheim(1825-1889)のようなプロテスタントながらやはりキリスト教に改宗し、ユダヤ教学院で学んだ博識を以って協力した人々も忘れてはなりません。彼らはメシアニックジューではなくキリスト教に改宗したのです。
今日でもカトリックは写本調査においても高度であり、聖書研究者であろうとする者がカトリックの研究成果を無視することなどとてもできません。ある時代ではユダヤ人迫害の嵐も吹き荒れたとはいえ、カトリックに限らず、キリスト教界は改宗してくる少なくないユダヤ人を受け容れて来ており、彼らの知識から学んできたところも無視できません。

古代カトリックのヒエロニュモスにつきましては、カトリック辞典を要約しますと
ローマ司教(後代には教皇とも)ダマシウスⅠ世の下で信頼に足るラテン語訳聖書の作成に委嘱され長年をかけて携わりましたが、当時のラテン語訳聖書は杜撰な翻訳が多数横行していたので、彼をしてかの名言「翻訳の数だけ原典がある」と言わしめていたほど乱れていました。
ヒエロニュモス(英語でジェロームとも)の原語の追求は当時としては画期的で、彼は生涯の大半を使って能う限り原語からラテン語に翻訳を行い、それは遂に五世紀のはじめに至って完成しました。これがラテンウルガタ訳ですが、彼自身のラテン語の美しさが生かされ、当時としては考えられる最高水準に達した翻訳聖書であり、1962-65年の第二ヴァチカン公会議に至るまでカトリックの公認聖書、聖書と言えば「聖なるウルガタ」であるべきとされてきました。


また、わたしが申し上げるまでもないことですが
ヒエロニュモスは、聖書について徹底的な実地調査を施したのであり、第四世紀当時の聖書に関わる実情を彼を窓のようにして今日の我々も観るようなところがあります。
ラテン語話者ながら、ギリシア語ばかりかヘブライ語も非常な注意を払って、夜間だけユダヤ教徒の反対を回避しながら、シリアやパレスチナで直にユダヤ人から学んでおります。喉から血が出るほどの苦労をしてヘブライ語の喉音を学んだその意気込みにはまったく頭が下がります。


一方で、この度の新約聖書の原典がヘブライ語であったとの情報はフェイクであるという以上のものにはなりません。
勿論、マタイ福音書が最初にヘブライ語で書かれたとの古代の情報があること、また、ヘブライ人への手紙がパウロらしからぬギリシア語で伝えられているところでは、ヘブライ語原典説は不当なものではないのですが、以下のヴァチカン自身の補足情報に見るようにヴァチカンのヘブライ100番がマタイの原典なわけもありません。
それでも、キリスト教との分化以前の状態にあったユダヤ人イエス派が、福音書や使徒らの手紙を自らの言語で読むためにギリシア語からヘブライ語に訳した新約聖書を手にしていたことは充分に考えられるところです。

ですが、それは新約聖書の多くの原典がヘブライ語であったというわけではありません。
ペテロやパウロが活動していた異邦諸国でもユダヤ人の信者が得られてはいましたが、異邦人からの信者の方が多くなり、やがてユダヤ人からのキリスト信仰への転向者は異邦人から律法の習慣を離れるよう指導を受けるまでに変化を見せていたと言われます。
その以前の使徒時代から、パウロ自身は五か国語を用い、ペテロもマルコなどヘレニストを通訳としており、いずれもギリシア語圏で活動していたのであり、キリスト教理解の先端を走った彼らは律法主義者らと終生論争を戦っております。

「クリスティアノイ」と呼ばれるようになったのも、シリアのアンティオケイアであって、エルサレムではなかったように、その中にヘレニストのイスラエル系の人々が初期に多かったにしても、キリスト教を率いたのは明らかにギリシア語話者であり、彼らにとって聖書と言えばセプチュアギンタであり、新約筆者らもそこから旧約を引用しています。

それに対して、ユダヤ教イエス派、それもエルサレムやユダヤの人々がどれほどパウロたちに反対したかは、使徒言行録だけでも明白なうえ、書簡群を加えると手の施しようもないほどヘブライストの多くが律法遵守に傾いていたかはもはや隠しようもありません。彼らにとっては宗教上の良心がそう働くのを止められません。生まれて八日目からずっと信者だからでしょう。

一方で、ヘブライ人への手紙を別にしても、パウロの手紙の宛先はギリシア語話者であり、何人ものギリシア人の個人名もその中に挙げられてもいます。

福音書においても、『ユダヤ人の祭りが近付いていた』という言い回しが何度もあり、書き手の異邦人への配慮が見られ、ユダヤのように日付が夕方に替わるのではない人々への書き方も観られます。
それでも、当然ながらイエスがギリシア語で話していなかった痕跡が福音書ばかりでなく使徒言行録にも見られます。そこでキリスト教と言えば何でもギリシア語が優勢であるわけではありません。新約聖書のギリシア語文の中にも、ヘブライ語の影響やその文化を前提にしなければ理解の進まないところも随所に存在していますし、特に福音書は還訳して再考するなりすることで、語られた真意も明確になると言われます。

ですが、ユダヤ教はやはり『モーセの弟子』であることを大切にしており、アブラハムの血統にある契約を保つことに強いアイデンティティを持つ一方で、ユダヤ教がメシアに対して示した頑迷固陋によって『銀を試す』(マラキ3:1-4)機会に大きく躓いたことは福音書やその後の使徒文書からしても隠しようがありません。つまり、マラキ書を根拠にラビの中で恐れられていた「メシアの害」です。

彼らの足枷になったのが『律法による義』の獲得であり、『行いによる義』を宗教的良心とする習慣から抜け出せず、メシアへの奇跡の印に真に信仰を働かせるには至らなかったところにあります。メシアを退けたユダヤ体制は『その世代が過ぎ去る』前に『火のバプテスマ』によって神殿と神の名を失い、以後は聖所が無いため、律法の完全な履行も不可能となりました。この『火のバプテスマ』をバプテストが予告していた以上、神殿祭祀の終りは神意というべきでしょう。『斧は木の根元に置かれて』いたのであり、メシアの到来は、まさしくネイヴィームの警告の通りに、ユダヤ律法体制の裁きの日であったからです。それこそが「メシアの害」であったことでしょう。イエスの言、アベルからゼカリヤまでの血の責がキリストを迎えた世代に問われていたというべき歴史の事実です。

あのペンテコステの奇跡を目撃し、次いで同じく聖霊に与ったのが、国際性に富み洗練されたディアスポラの人々でありましたし、使徒らにしても訛りさえあるガリラヤ人であって、サドカイでもパリサイでもなくユダヤ体制派からは一定の距離を置く弟子らでありました。

しかしイエス派に於いては、シリアのアンティオケイアで初めて「クリスティアノイ」と呼ばれたように、キリスト教を支えたのもディアスポラの人々が中心となってのことです。続く使徒時代の進展、また使徒後のキリスト教の発展についてもそれがギリシア語の中で起こった崇拝の次元上昇であったことは覆すことのできない史実となっております。
他方、ユダヤがメシアを認めるに障碍となったのは律法の他に、旧約聖書が完成されて、それを永続する全き不動の神の言葉と崇め奉り、却って、神をそのヘブライ語の言葉の中に閉じ込めてしまい、『生ける神』YHWHの新たなメシアによる行動を想定しなかった硬直的なそのヘブライ優越的考え方にあります。
そこで新たな崇拝を受け入れる素地は言語に一因があったことは否めません。もし、イエス派がヘブライ語・アラム語話者のユダヤ人で占められていれば、ユダヤ教の強い引力からまず脱皮できなかったことでしょう。それは今日のメシアニックジューそのものです。

他方、イエス派の教えはギリシア語を経て新たな概念を獲得さえしています。例えれば「アガペー」、「カリス」、「パルーシア」、「コイノニア」、「エウアンゲリオン」、「ケリュグマ」、「エクレシア」、「アポストロス」などいくらか挙げてみるだけで、キリスト教徒であればユダヤ教を超えてどれほどの新次元に至ったかを感じないではいられないでしょう。

ですから、新約聖書のヘブライ語原典説を唱えることそのものに強いバイアスが掛かっていると言わざるを得ないのです。
ですが、キリスト教をヘブライ語から追い出したのはヘブライスト自身なのであり、皮肉にも、結果としてキリスト教をユダヤ教を遥かに超える規模の世界宗教に育てるという神意を、ギリシア語化させることで実現させてもいたのです。

キリスト教の中でユダヤ優越主義を唱えることは、つまりはメシアニック・ジューと呼ばれる人々の自らの出自に対する誇りの回復への目論見ではないのでしょうか。
しかし、それは史実の歴然を否定して初めて成り立つものであり、ユダヤ民族文化のキリスト教に対する優越を主張する目的意識がありありと見えます。即ち、パウロを苦しめた律法主義の再来であり、今になってもう一度パウロと衝突するものです。

ですが、それはキリスト教そのものからすれば無用なものであり、キリストご自身やその直弟子らへの苛烈な迫害をユダヤ人が行って来なかったわけでなく、むしろ、それらの反対の上にキリスト教は立脚してきました。その点から言えば、律法墨守も大祭司カイヤファもサンヘドリンもメシアを屠るには必要不可欠であったと云えるほどです。もちろんローマの支配や総督ピラトゥスも重要な役者を演じたと言えましょう。

それらを今更なかったことにはできませんし、むしろユダヤ民族のある人々がナザレのイエスやその弟子たちに行ってきたことを恥じ入り、悔いるということならそれは見どころのある潔さと思えますが、逆にキリスト教のパイオニアが自分たちユダヤ民族文化、また律法主義であるというのであれば、それは驚くべき誤謬です。
まさにこの点、メシアニックジューの問題はこの「律法をどう見做すか」にあります。彼らの主張は、「エシュアは律法遵守を肯定したのだから、引き続き律法を守るべきだ」と言っているからです。しかし、この観方は反対方向からメシアを見ています。なぜなら、律法を『成就する』(満たす)からこそメシアは完全な贖いの犠牲を一度限り捧げられたからです。(マタイ5:17/ヘブライ3:10-13・10:12)

むしろ、メシアがエシュアであることを認めるのなら、モーセの律法を体現して成就した唯一の方であり、それゆえにも人類の罪の贖いとなって、唯一人律法に適った有効な犠牲の死を唯一度捧げられる『神の子羊』であった方として、その方が、モーセの律法の犠牲を捧げ尽くして終わらせ、聖霊をもたらして『霊と真理による崇拝』を興したのです。その点に於いて、イエスは律法を通し、自らの業によって完全な義を獲得された唯一の方であられ、その意味で『律法の一点一画さえ滅び失せることはない』とされるべきものであるのです。(ヨハネ4:21-24/ヘブライ2:10)

更に、メシアの犠牲によって、律法を土台としたその先にある高度な『聖なる国民、祭司の王国』となる崇拝者が生み出されたのであれば、それがユダヤ人の中から起こり、当初イスラエルの人々によって新約聖書が書かれたというだけで、その民族には十分に誇る理由もあるでしょう。偉大な崇拝の前進の土台を据えたのも、彼らの功績であったのですから。(出埃19:5-6/ペテロ第一2:9/ヨハネ4:22)

しかし、メシアを退けて刑死に追い込み、その弟子らまでを迫害した結果、新しいキリスト教の担い手は、血統のイスラエルから『神のイスラエル』へと移行したこと、つまり、あのペンテコステの日から、何者に聖霊が注がれ、契約が移行したことが明らかになったことは覆しようのないことです。パウロが言うように、悔いたイスラエルには『律法から離れて神の義が明らかにされた』のであり、それでもなお律法遵守を唱えたユダヤ教が『キリストは律法の終り』というパウロと正面衝突を起こしていた様が新約聖書そのものの随所で明らかではありませんか。パウロは律法の習慣に戻ることを『霊によって始めて、肉によって完成する』愚に例え、『文字は殺し、霊は生かす』とも書いています。(ガラテア3:3/コリント第二3:6)
もし、メシアニックジューが、パウロの古代に彼と争ったユダヤ教イエス派の旧態依然とした律法主義を再演しようとするのであれば、やはり同じ結果を招くことになり、それは民族主義に拘って進歩を拒む名誉欲の訴えにしかならないでしょう。奇跡の聖霊の注ぎ出しなくして『アブラハムの裔』とは言えず、聖霊による招命が再び起こらなければ『聖なる国民、王なる祭司』となる神の王国の選民は現れないからであり、そのためにはメシアがこの世に臨御されなくてはなりません。

いまさら、律法を守れたとしても、動物の犠牲に何の意味が残っていると言うのでしょうか。律法を成就したキリストの犠牲の完全性を否定してしまうではありませんか。それは自家撞着というものです。
またメシアニックジューに入信する男性は割礼を受け、モーセの契約に服して律法条項全体を守る義務が生じます。(ガラテア5:2-3)
むしろ、トーラーはマシアハがエシュアであること、また他の誰もそれを体現し『神の子羊』とはなり得ないことを教える指標なのであり、人間に「正しい生活スタイル」を教える「神のデザイン」とはいえません。そんなことで神の是認を受けるとすれば、終末も裁きも無用でしょう。

そこで、新約聖書のヘブライ語原典説というのは、この民族的要求のために史実無視に走ることになります。
それはあたかも、「隣国で栄えている文化は、自分たちの国が起源なのだ」と言っているようなもので、その栄光を自分に帰そうとしており、しかも、それは実際には追い出しておきながらのうえ、事実でもない感情的言い分であるのです。ユダヤ律法体制の優越を示して、いまだにユダヤ人が選民だと偉ぶるとすれば、律法の先にあるメシアの犠牲による聖霊が教えた領域には進まないと言っているのであり、ユダヤ人の迫害に散ったキリストや使徒たちや新約筆者たちが、それを聞いたならどう思うことでしょうか?弟子らはサンダルに着いた土を払わなかったでしょうか。

ご指摘のヴァチカンの資料の周囲を30分ほど見回すだけでも、それは明らかなことでわたし自身にはつまらない時間の過ごし方にしかなりませんでした。
この”Vat.ebr.100”ですが、これは記入された文字がはっきりしており、地は中世ベラムのようです。また冊子本のようですから使徒時代よりずっと後のものです。⇒ ヴァチカン ヘブライ語資料100番
ヴァチカンには他にも公開されているヘブライ語の古資料がありますが、これはそのうちのひとつに過ぎません。⇒ ヴァチカン 公開ヘブライ語資料

そこでこの資料に関するヴァチカンのノートを見ますと、これがヘブライ語による四福音書であり、各書の前にヒエロニュモスの序文がついているとあります。⇒ Information for Vat.ebr.100
さらに、ユダヤ人学者のウンベルト・カッスート(Cassuto)によれば、この”Vat.ebr.100”はカタルーニャ語版からヘブライ語に翻訳されたものであるとも書かれています。
つまり、この資料は、中世スペインでコンベルソと呼ばれたユダヤ系でキリスト教に改宗した(させられた)人々の必要に役立てられたヒエロニュモスのラテン語訳を経たうえでの、ギリシア語からの重訳にして、ヘブライ語への還訳福音書であるという由来が分かります。これを根拠に新約聖書がヘブライ語原典であったと主張して良いでしょうか?
あまりにも杜撰な主張、嬰児の突飛な戯言、このような話を聞いている時間さえもったいのないことです。
前述のように、かつてスペインでも改宗ユダヤ人の学者が結構な活躍を見せていましたので、新約聖書原典がヘブライ語であったなど、そんなことがあれば当時から見逃すわけがありません。

キリスト教の方々に、これほどつまらない情報を鵜呑みにするほどリテラシーが欠けているとすれば、それこそ嘆かわしい事態でしょう。キリスト教に圧倒的優越性があることを知らないがために、キリスト教徒がユダヤ教とその文化に囚われてしまうという現象が起こってしまうのです。それこそは、半生を費やしてキリスト教を導くことに捧げたパウロという、貴重な『奥義の家令』の働きを無に帰する愚行ではありませんか。考えてもみて下さい、神と人との仲介者はモーセなのだとキリスト教徒が言うのですか?

しかし、こうして実際を歪めてまで、律法的ユダヤ民族主義がキリスト教に優位性を示したい動機はいったい何でしょうか。おそらくはキリスト教界への覇権獲得ではありませんか?
それこそがメシアニックジューの本質でないことを期待したいものです。

ですが、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三つの和解がいつの日か進むこともあるのかも知れません。
古来より、三一や地上再臨の誤謬が終末のために用意されて来たかのように今日まで多くのキリスト教徒を捕らえていますが、そこにメシアを自称し、幾らかの奇跡を行って見せる人間が現れるなら、火薬に火を付けるようなことになってしまうでしょう。そしてそうなるのでしょう。
それを多くの人々が喜んで迎えるのかも知れませんが、わたし個人が想うには、それこそ非常に恐ろしい結末、「不法の人」のカオスに至るでしょう。


以上、お尋ねの件につき、わたしの考えるところを記してみました。
ご参考になりますなら幸いに存じます。


それから、モーセを通してトーラーと共に存在してきたという「ヨブ記」は、律法主義の暴走を牽制し、その見方にバランスをもたらす役割を持っています。登場人物のすべてがイスラエル人ではないこの一書は、キリスト教を予告するほどの内容が込められているのですが、多くの人々によって善良さによる義の獲得の勧め、また義人が受ける苦悩の説明などのように、正反対の意味にとられている実態は、まことに嘆かわしく思います。
つまり、彼ほどの義人はいないと神に誉められたヨブの義行をもってしても、実に神の前に義を得ることはけっしてなく、それはキリストの義だけが価値を持ち得ることを教えていたのです。 ⇒ ヨブ記の背景 結論




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-回答- 千年王国の贖い

2018.02.13 (Tue)

Q;千年王国は、イエス様と使徒と聖徒を通して、千年王国がつくられること。
それはそのまま信じますが、千年王国で、どのように贖罪され、どのように人間の倫理的欠陥が無くなるのか、勉強不足でよくわかりません。

復活した時点では、以前と同じ倫理的欠陥を持ったままの人間ですが、もう寿命はないので、千年かけて完璧にしてもらえるという感じでしょうか?それとも一瞬で変われる?


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天界に召されるでもない私が何か申し上げるのも僭越ではありますが
分かる範囲で書きますと・・


まず、諸世紀に生きた一般の人々の復活ですが、この人々については既に一度死を経験しております。
この人々の復活が千年期の後になることは、使徒ヨハネ以来の教えです。(黙示録20:5)
パウロは『罪の報いは死である』としておりますので、死んだ者は既にその報いを受けています。(ローマ6:23)
ではなぜ復活するかと云えば、キリストの犠牲の益に与る以外には考えられませんので、もはや『罪』のない状態、アダムの堕罪以前の完全さの中で復活するとみるべき理由があります。

それゆえにも、パウロが『人は一度死んでから裁かれることが定められている』と言うように、復活によってエデンのアダムと同様に一度限り裁かれることになるのでしょう。(ヘブライ9:27)

千年王国は、千年間の生ける人類を支配し、贖罪を行う機関であり、それが具体的に何を行うのかは、聖書中に記述がほとんどありませんし、神殿祭祀以外には隠喩や例えも見当たりません。(あるいは、マタイが自らギリシア語に訳したという福音書の「パリンゲネシア」(再創造)という言葉が、信徒にも当てはまることになるほどの大変化を表す可能性も幾らか残るようにも思えます)

まず、これら第一の復活に預かる天に復活する人々については、地上で試され天に召されることで、そのまま罪のない者となります。
その成員が黙示録第七章にある14万4千という、実際の歴史とは合致しない12部族名による「イスラエル」で構成されるということです。その数字はパウロの言葉からすると(ローマ11:25)おそらく実数のようです。

その選びについては、ルカ22章にありますように、天界での二度目の主の晩餐がキリストと霊体に復活した十二使徒らと行われるに際して(これがどのようなものか見当もつきませんが、出埃24:9-11のようなものでしょうか)、『十二部族が裁かれ』彼ら以外の14万4千人が召されることになるのでしょう。

しかし、その選定から復活や、昇天までには幾らかの短いタイムラグがあるでしょう。復活が幾らか先になることをパウロが言っています。(テサロニケ第一4:15)

この14万4千人のすべては『地から買い取られた者ら』(黙示14:3-4)で、全員が元からの天使ではありません。しかし、この数字にキリストが含まれているのかは、律法で規定された祭司団が24の組に分けられ年に二回神殿祭祀を担当し、大祭司が別に年に一回至聖所に入りましたから、大祭司とされるキリストは別になるのでしょう。

天界の祭司らが、なぜ『地から買い取られた者ら』でなければならないかと言いますと、キリストと同じように生涯に亘る試練を肉体の地上で経て『レヴィ』の浄め」に到達しなければ、真実の『義』の立場を得て、『キリストの兄弟』とは成り得ないからです。

これはどんな天使にも勝るものであり、その『義』を経て、キリストと同じ不滅性に入るからです。(テモテ第一6:16⇒コリント第一15:52)


したがって、神から不変の信任を得るという点では、彼らの立場は天使らの上に位することになります。これは、想像を絶するほどのことで、想像するばかりです。(コリント第一6:3)

このコリント人への第一の手紙にあるように、彼らは『一瞬にして・・不滅性を着ける』とありますので、生涯に亘る試練を通過した者であれば、贖罪は、霊体に移行するときには完全に成し遂げられねばなりません。天界は肉なる者、特にアダムの罪ある者が生きられるような場所ではないようです。(イザヤ6:5)預言者らが、天界の幻を見ることはあっても、実際に霊者となったわけではありません。

こうして、アダムからの罪を負うべき真の『義』を身に着けた人類のための贖罪の祭司が揃いますが、その業は、地上で試されていない天使らにはできないほどに重い職務なのでしょう。⇒「据えられた隅の親石の完全さ

それから、彼らは主と共に、その時に地上で生きている人類の裁きに乗り出します。
この地上に生きている人々は終末を生き残ったので復活を経ていませんから、罪が贖われる必要があります。
しかし、それがどのようにされるのかは書かれておりません。

終末の裁きというのは「裁定」というよりはヘブライ語の「シャファト」であり、弱きを助け強きを挫く、救出の戦いであり、それが「ハルマゲドン」という言葉で世間では意味が独り歩きをしてしまっている、神と人との戦争です。

この戦いで、信仰を表した人々は生き長らえ、「千年王国」の下に入り、自分たちの管理と贖罪とを受けることになります。
ですから、千年王国で贖罪を受けるのは、肉の民であり、終末の聖徒の声に信仰を働かせシオンに集まって来る群衆を指します。
ですが、贖罪そのものについては、やはり聖書に記述やプロセスの前表が見当たりません。

分かっていることは、千年期前の信仰による裁きは、相当に鷹揚なもので、信仰を示す人々の過去を問わないものなのでしょう。『人はあらゆる罪を赦される』とイエスは言われ、同時に『聖霊を冒涜する者に赦しはない』とも言われました。
ですから、千年期に入ってからも罪せられて、命を絶たれる人がいることをイザヤが教えています。

神の王国とはいえ、それはやはり「支配」でありますから、人間は依然として『罪』にあることにはなるでしょう。
また、子供らも誕生することが描かれていますから、家庭が維持されると見るべき理由もあります。
その子らは、極めて安全で良好な環境で育つとはいえ、やはりいずれはエデンの問いが避けられないでしょう。
そこで、千年期の終わりに悪魔が解き放たれる理由もあることになります。
それは復活する諸世紀の人々にしても同じ事でしょう。ですから、最終的裁きはキリストによらず、神ご自身によって為される描写が黙示録にあるのでしょう。

加えて言えば、彼らの千年の生存によって、地上は今日のものとは一変し、どうにも想像する以外ないほどの世界を出現させ、諸世紀から復活する人々への証しとなるように思います。
彼らは千年をかけて、『罪』を清められた世界がどのようなものであるのかを証し出来るまでに、地上を整えるのでしょう。

「後の復活」によって、諸世紀から生き返る無数の一般の人々は、その光景に瞠目することになるのでしょう。
それでも、『蛇』に従う者らが出ることも避けられず、『その数は海の砂のようだ』と書かれています。(黙示20:8)

こうして、すべての人類が裁かれますが、生き残る彼らもアダムの得なかった『義』の完全性に達し、『̪死も墓も火の湖に投げ込まれる』(黙示20:14)であれば、彼らは永生や不滅性も得ることでしょう。

こうして、創造の業も遂に完遂を見ることになります。


以上が、神の王国に関わる次第です。


内容として近い記事には、綱領の「終末」があります。

--なお--

『天の王国』とは、もっぱらマタイがユダヤ人相手の福音書で使用した語です。

『神の王国』これは初めからギリシア語で書かれた他の三つの福音書で呼ばれます。

「千年の王国」これだけはヨハネ福音書にだけ出てくる『千年』の支配を敷衍しています。

新約聖書の全体を見回すと、どれも同じものを指す以外に解釈することはほぼ無理です。
そこで「神の千年王国」というような造語も、的外れにはならないでしょう。


しかし、注意して見ると、「王国」以外の呼び名で同じ天の支配と贖罪の機関を指している言葉があります。

それが『都市』または『城市』であり、古代の都市国家を指していることはほぼ間違いないでしょう。

ヘブライ人の手紙の著者は『その城市の建設者は神です』と述べています。(ヘブライ11:10)

つまり、アブラハムが待ち望んだ(メソポタミアの都市ではなく)その裔による『堅固な土台の都市』エルサレムが、『神の王国』を表していることは、ほぼ間違いないようで、『新しいエルサレム』も同じものを指しているようです。(これもこれから研究します)



以上、ざっと書き出しましたが、不明なところは、またご質問ください。

只今、教科書を書いておりますので(なかなか進みませんが)、ご質問を受けることで、何を書くべきかが分かってくるようなところがありがたく存じます。



キリスト教信仰

2015.09.06 (Sun)

基督教信仰とは、単に「神の存在を信じる」ことではありません。
もし、そのような信仰なら、その人にとって何の意味もありません。
何故なら、『悪霊たちでさえ、信じて慄いている』とあるのですから、滅びゆく悪霊と同じであれば何の意味があるでしょうか。むしろ、神を怖れることでは、一般の人々よりは悪霊の方が優ってさえいるとも言えるでしょう。(ヤコブ2:19)

基督教を信仰する意義は、「世の救い」にあります。
『世』とは、神から離反してしまった人間社会の全体を指しています。(ヤコブ4:4)
そしてこの世を支配しているのは、神でもキリストでもありません。(ヨハネ12:31/ヘブライ2:8)
そのために神は御子イエス・キリストを『世』に遣わされ、人類救済を託されたのです。キリストには「任命された者」の意味があります。(ヨハネ3:16)

ですから、基督教信仰とは、このキリストに、信仰者個人を超えて人類全体の救済が掛っていることを信じることを意味するのです。(テサロニケ第一5:9)

その救済の手段として、キリストはアダムが堕罪によって失った罪のない魂を、自らの魂と引き替えに神の前に捧げ、人類の全体が罪の許しを得られるよう、人々の罪を担って死を遂げられました。(ローマ5:18)
この死によって、神の前に罪が許され、人々が創造されたままの優れた姿に回復され、様々な苦しみから解放され、こうして空しい生涯から救われ、永遠の命に至ることを信じることが、基督教信仰の基本です。(ローマ5:21/イザヤ53:3-5)

そこで、崇拝の対象は神だけであっても、信仰の対象は神だけではありません。(ヨハネ3:18/14:1)
ナザレのイエスをメシア=キリストとして認め、そこに贖罪がかかっていることを信じる必要があります。(使徒4:12)
それですから、キリスト教とは「○○神を信仰する」という単純なものではありません。イエスがキリストであることを信じる「メシア信仰」があってこそユダヤ教を超える第二段階のキリスト教に到達できるのです。ユダヤ教はキリストが来られたことを認めていないため、その以前の段階に留まっています。

キリストを信仰するとは、個人の御利益や成功を求めるものでも、神から離れている『この世』の変革を目的とすることでもありません。(ヨハネ第一2:15)
この世に起こることの全てに神の摂理があるわけでも、悪魔が悪を引き起こしているのでもなく、我々の住む世界は自動化された法則の支配の下に置かれおり、そこで人々の当て所もない所業が休むことなく海の波のように揺れ動くばかりです。(イザヤ57:20/コヘレト9:11)

そこで良い事があれば神のお陰、悪いことが起これば悪魔の仕業というのは、まったく的外れです。
ひどい苦難に遭うとき、神はいるのかと訝る必要もなく、何か物事が上手く運んだときに、それが特に神の行われることであったと思い込む必要もありません。この世のありさまは常に変化しており、一々反応していれば単なる縁起担ぎになってしまうでしょう。

また、聖書を人生の案内書のように、あるいは、この世を生きる上での幸福をもたらす導きの書、また自分を救ってくれる本と看做せば、この書の中に込めらた意義深さに幾らも到達出来ないでしょう。

またユダヤ教については、神の律法に従うことで神の是認を得ることを目的としています。その律法には無数の付則が付け加えられて、ユダヤ教徒の生活のあらゆるところに指導が与えられています。しかし、ユダヤ教は神の是認に達しませんでした。却って、極めて貴重なキリストを退けた為に、イスラエルは神との契約も恩寵も失い、歴史的価値以外に他の民族と特に変るところは無くなりました。その原因となったのはキリストへの信仰の欠如です。そこで彼らはいまだに預言者の約束したキリストを待ち続けてはいますが、律法の規則への従順は既に意味を失っています。(ルカ13:28-30)

そこで神の選民は、血統上のイスラエルから取り上げられ、キリスト信仰による『神のイスラエル』へと移されています。その証拠がキリストの弟子らへの聖霊の奇跡の賜物であったのです。それはどの国民にも与えられるものとなりました。(マタイ21:42-43/ガラテア6:16)

そこで、更にもうひとつの対象への信仰があり、それが『聖霊』と呼ばれる神に発する御力に対するものです。(マタイ28:19)
つまり、イエスが行われた奇跡の『父の業』であり、弟子たちが引き継いだ『より大きな業』に対する信仰と言えます。(ヨハネ10:37-38/14:11-12)

この『聖霊』に対する第三段階の信仰を得なければ、真実にユダヤ教を後に基督教に達することはできないでしょう。『聖霊』こそが『新しい契約』に介在し、それを証しするからです。(ローマ15:16)
そこでイエスが『人はあらゆる罪を許されるが、聖霊への冒涜だけは許されることがない』と語られ、『聖霊』が起こす「奇跡の業への信仰」が『この世』を裁くものになることを教えられています。『聖霊』は『この世』が終わるときに再び地上の弟子らに注がれ、誰も反駁できない神の言葉を語らせることを聖書は繰り返し予告しているのです。(マタイ12:31-32・10:17-20/マルコ13:9-11/ルカ21:12-15/ヨハネ16:7-8)

キリストが世を去るときに『神と子と聖霊の名に於いてバプテスマを施す』ように使徒らに命じたことの意味はここにあり、神が三位一体だと言ったのではありません。三者は別のものとして信仰しなければ、聖書を把握することは不可能です。
つまり、「創造の神」、「創造物の初子であるキリスト」、「神から発する力でキリストが遣わす聖霊」の三つへの信仰を積み重ねて、救いに至る道が拓かれるのです。

また、今後もユダヤ人の個人的転向を期待するのは間違いではありません。しかし、神の恩寵ゆえに、終末にキリストが現れてユダヤ民族としてキリスト教への大量改宗を期待することは、新約の文言からして間違っています。それは旧約聖書においても「回復の預言」の意味するところを取り違えており、この「回復」には、諸国民への聖霊の灌ぎ出しがかつて起きたこと、また将来に起こることを預言者は知らせているのです。そのときには現在までの異教に汚れたうえに幼稚な「キリスト教」も浄化されることでしょう。(エゼキエル39:28-29/ヨエル2:28-32/マタイ10:17-20)
それはまた、キリストの犠牲による『新しい契約』が、ユダヤ教の『律法契約』よりも遥かに高次元である意義も偉大さも理解してはいないことを露呈するものでしかありません。(エレミヤ31:31-34)

クリスチャンと称する人々がユダヤ教に戻るかのように、エルサレム神殿の建立に賛成する理由はまったくありません。
キリストの一度限りの犠牲が捧げられたことがどれほど重要であったかを弁え知るなら、どうして再び動物の犠牲を捧げる崇拝方式に価値を見出せるでしょうか。しかも、その神の御名の発音さえユダヤ教からは去ってしまい、終末の聖霊の注ぎが起らない限り、その本当の名を人類の誰も知ることはないでしょう。(詩篇22:22)

諸国の人々が、イスラエルとその人々から学べることはいまだに多くありますが、ユダヤの宗教習慣に従う必要はなく、むしろキリストによる『新しい契約』が奇跡の聖霊をもたらすこと、また数々の旧約聖書の言葉が、新約聖書によってどれほど大きな対型的意義を獲得したのかに注意を促してこそ、キリストの弟子と言えましょう。

キリスト教の神髄は、規則に従うことではなく、自発的な愛アガペーによって動かされるところにあり、倫理的欠陥という人類共通の『罪』を認め、一重にキリストの犠牲に信仰を働かせ、神とキリストが『王なる祭司、聖なる国民』を聖霊を注いで召し出した人々の現れを切に願い求めることにより、「神の象り」に創造された人間本来の神の子としての自由な姿を願うこと、これが聖書教の到達するべき最終目的であるのです。それを実現するのが、終末に現れる『神の王国』、真のアブラハムの子孫の国であるのです。

神の王国の支配と贖罪を経験した後、人々は政治も宗教も必要とはしなくなるでしょう。
実に、政治と宗教とは、人間にとりついた『罪』という倫理上の欠陥への対症療法に過ぎないからであり、『神の王国』こそが、根本治療となるからです。


-追-
キリストの血を介した『新しい契約』と、それを証しする『聖霊』と、それをを受ける『聖なる者たち』、これらの中にキリスト教の『奥義』があります。(エフェソス3:5-6)
その全容は『世の基が置かれて以来、隠されてきたこと』であり、キリスト後の『聖霊』の到来によって、それは『奥義の家令』パウロのような人物を通して初めて世に明かされました。原始キリスト教の重要さはここにあります。即ち『奥義』(ミュステーリオン)を有しているのです。(マタイ13:35/コリント第一4:1-2/コロサイ1:26)

しかし、『世』はこれを知るようになっていませんし、これからも知ろうとはしないでしょう。(コリント第一2:7-8)
それに価値を見出さないからであり、それは人々の一般的な傾向が神と相容れないものであるからでしょう。(ヨハネ第一3:1)

キリスト教徒さえもが神に取入ろうとして、善行に励み規則に従い救われようとしますが、これはまったく的外れです。ユダヤ教を繰り返し、改めてキリストを無に帰せしめようとしていることになるからです。(コロサイ2:21)
ですが『奥義』の成就は個人の救いに遥かに勝り、神の栄光となる偉業です。(テモテ第一3:16/コロサイ1:27)

それでも、キリストの当時と同じように『聴く耳のある者』がまるでいないということもないように思えます。(マルコ4:9)
『奥義』にはある人々の価値観を刺激するものがあるからです。(マタイ13:44-45)
それでも、大半の人々は神の悠久の時に亘る偉業にも価値を感じず、何ら反応することもないでしょう。
自分自身に実利がないと見做すからです。その人々に原始キリスト教の信仰は無用でしょう。



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創造者の望むものが服従ではない理由

2015.05.16 (Sat)


頂戴致しましたご質問は非常によいところを突くものです。

支配欲の強い人は、他の人々に規則を与えて守らせようとするものです。その意図は、他の人々の上に立つことを願うからでしょう。
多くの信仰者にとっては、神でさえ信者に服従を望み、崇拝させ平身低頭させることを喜んでいるかのような印象を持たれているように見受けられます。そうような人々にとって、この世とは、神の摂理が働いている場とされる傾向があります。
それは、実は自分自身も支配されることを好んでいるという背景があってのことでしょう。様々な支配のピラミッドの階層も、その全体を構成する人々が、実はそれぞれに「支配」というものにどこかで喜ばしい価値を感じているからこそ、ヒエラルキアを確固たるものとして存在させるに違いないからです。支配されることは、自らの行動を規定されることを通して、自分の判断の決定を形作らずに済み、結果の責任を上位者や神に取らせることに於いてたいへんに「楽」なことです。人は常に隷属を嫌うかといえば、そうでもないのです。

宗教では端的な例にイスラームがあります。イスラームとはそのまま「服従」の意味なのだそうですし、その崇拝はまさしく超絶的な神の前に伏し拝むもので、その教えは宗教儀式だけでなく、人の生活方式ばかりか、政治の在り方まで規定しています。それこそは「支配の宗教」といえます。ユダヤ教もやはり規則の宗教であり、そこには神の人間を伏し拝ませるほどの絶対優位がなくてはなりません。しかし、聖書の神がシナイ山でイスラエルに律法を与えたとは言え、聖書を綿密に追って創造の神を見ると必ずしもそうは言えません。

まず、第一にこの違いには、人が「神の象り」に創造されたという事が関係します。
つまり、創造の神が人間にせよ天使にせよ、理知的な存在者を創造した目的に、自らの絶対意志に服従させるということはありません。
もし、そうであれば、神は永久に「唯我独尊」のように振る舞うことになるでしょう。常に命令を下し、ただ自らの意図を成し遂げる神は、絶対的超越の孤独の中に居ることを意味します。すべてが神ひとりの意志によるからです。

ですが、創造の神はなぜアダムに生き物の名を付けさせたのでしょうか。
明らかに神は自らとは独立した思考の持ち主であるアダムの自由な発想を許すばかりか、自ら創造したものにアダムがどう反応するかを楽しみ、自らの創造物への名付けをさえ許しています。アダムは明らかに神とは独立し、なお、神との意志の疎通を図ることができる存在であったと言えます。その関係は親子に例えられる親密なものです。

ほかの例を挙げれば、列王第一の22:21をご覧ください。
そこで全知の神が天使たちに様々な意見を述べさせ、その一人に考えるところを述べさせてもいます。

そして、エデンの二本の木があります。
それは祝福と呪いの分かれ道でありました。
もし、アダムの自由な選択を神が尊重しないのであれば、この選択も二本の木も必要がありません。

敷衍すれば、神は人類の苦悩の歴史、そして何よりも独り子の犠牲を以ってしてさえ、この自由を守ったと言えます。
その理由と言えば、人の自由さこそが『神の象り』、すなわち神自身をも尊重することであったからでしょう。

従って、人間にはある意味、自由な思考の持ち主であるということにおいて神と共通するところがあります。

創造の神は人の思考の自由を保つために、膨大な犠牲を払って来られたという以外にありません。そうでなく、神がただ主権をもとめていたなら、滅びの恐れをムチとし、逆らうものを排除する圧制の神となり、自由な意志は神だけが持つものとなったことでしょう。

人間の作った国家には、そのような圧政に近い政治を行うところもあります。独裁的であるほど主権者は恣意的に支配しようとしてきました。その動機は利己心です。
それでも人々は、ただ黙って強権的独裁を忍んできたわけでもありません。独裁的主権は人間性と対立するものであり。愚民を望んでは人間の持つ叡智を押しつぶしてもきたのです。人に叡智や人格を与えた神はけっしてそのような方ではありません。

むしろ、それぞれの思考を自由に持ち、発言し、表現することを望むものです。多くの人の自由な思考や判断こそが社会を豊かで効率よくし、間違いに気付かせ、多彩な楽しみも増やします。圧制が誤謬や不活性を生むのはそのためです。
やはり人は、そのように創造されているのでしょう。ただ従順であることが人の本性ではなく、正しい神に従順であればそれが神の意志であるということも、人が幸福になるわけでもありません。むしろ神のご意志は逆でしょう。

ですから、理知的な創造物であるということには、本来素晴らしい自由があったのですが、それは同時に諸刃の剣であり、その自由によって誘惑されると善を取らずに悪を選び、奴隷の境遇に、自分と子孫のすべてを貶めたアダムの行為は真に責められるべきもので、サタンに至ってはあらゆる支配欲と不自由の主犯とされるべきです。
これが「神を含む、あらゆる他者とどう関わってゆくか」という「倫理」の問題であり、「エデンの二本の木」のように自由意志を持つ全ての被造物が自ら答えを示さなければならない選択であり、それが何者に永遠の命を与え、神が誰と共に歩むかを決する『裁き』を必要とするのです。

ですから、「神から求められるのは従順だ」と言うなら、自らの答えをその自由意志を用いて神と人への忠節を示すことで裁かれる機会を活用するよりも、ただ怖れて自分の救いを確定させることを願い、神に自分を救う義務を押し付けようとすることになり、神を信奉する人々の間では、明らかにその方が人気があります。そのほうが安易だからであり、自らの選択による裁きを回避できるからで、多くの宗教家も信者に規則を与えて安心させようとするのですが、これは聖書を貫く問題が何であるのか、また神が人に意図することを知らないことを露呈するばかりか、却って信者たちを神の裁きに於いて危険にさらしていることになります。

アダムの選択の結果、神の栄光を反映するよう作られた人類も『罪への隷属』に置かれてきましたが、そのような隷属は創造者の意図するところではけっしてなかったのです。『死すべき人は何者か』とは、アダム以降の堕罪した人間について、その身の程を弁えるべきことを教える言葉であり、アブラハムをはじめ崇拝者らは神ばかりか代理の天使にも伏拝してきた通りです。

しかしそれでも、律法の中を見て、一か所でも神自身が人に伏し拝むよう要求するところがあるでしょうか?わたしは読んだことがありません。
そして、旧約の時代に亘って、中東では人に対して伏して挨拶することがごく普通に行われていました。(この点で的外れな指摘をするクリスチャンもいますが⇒「ふたつの句におけるπροσκυνέω」以下参照)
伏拝や跪拝は高位の人に対しても行われたことなのです。

そこで、いと聖なる神YHWHに対して旧約の崇拝者が伏して拝することは、ごく自発的で自然なことであったというべきでしょう。
神殿であれ、より古代の荒野やいかなる場所であれ、伏拝にせよ跪拝にせよ、それは常に自発的なものであったと言ってよいはずで、ここに聖書の神のひとつの精紳が読み取れます。

それは律法が「従順という他発性」を求めるのに対し、キリストの犠牲は「信仰という自発性」を求めるところにも表れています。

律法にせよ、法は従うものであり、条文がすべてを規定します。それは自発性を抑制し、外から自らを制御される義務が与えられます。そこで善悪が定められ、不倫理性のゆえに強制されなくては人間は互いの貪欲によって危険な状況に置かれてしまうので、どんな社会にも法か、あるいは何かの規制が存在しています。アダムの入り込んだ道徳上の欠損の道、つまり『罪』がまさにそのような支配される生き方に人間を方向付けたことは「この世」を見るなら明白でしょう。

しかし、キリストの犠牲に心動かされる場合はそうではありません。
他者を気遣うゆえに自らを抑え、また他者の喜ぶ姿を見たいと欲するのであり、それを可能ならしめるのは自由であって、自由がないと真実の愛を示すことができません。
真実の愛(忠節な愛)はパウロの云うように『法を全うするもの』となり、様々な規制の必要をなくすことでしょう。
それは人に対しても神に対してもです。

そこで確かに『キリストは律法の終わり』と言うことができます。キリストの教えにより、外的な法の束縛から内的な愛の自律に進んだのです。
『初穂』となった『聖なる者たち』の罪が贖われ始めることによって、彼らは『神の子』となり、まず彼らにおいて善悪を定める法はその必要を失いました。「キリストの律法」とは、愛に基づく清さを示してアダムの罪を持ちながらも新しい契約を全うする彼らの務めを表す言葉であって、モーセと異なり心に書かれたものなのです。

ですから、創造神は自らの栄光を表すかのようにして人間の自由を尊重するのであって、規則に縛りつけ自らの前に平伏させるとすれば、それは神が自らを卑しめるに等しいことです。
そうでなければ、この上なく貴重なキリストの犠牲を人のためによしとされたことでしょうか。

そこで、多くの宗教、特にキリスト教において「神の目的は信者に神を崇拝させる、または支配して従わせることだ」と主張するとすれば、それは大きな誤解であるばかりか、神を誹謗するものです。
「崇拝」とは人間が創造の完全性に達しないところで行われるのであって、アダムに崇拝が求められたわけではないのです。『神の王国』の支配も、人間回復の千年に限定されているのです。

宗教というものの本質は、『罪』によって神との障碍を持ってしまった人間に特有のものです。
なぜなら、それは神と人の仲立ちであり、本来アダムが必要としてものではありません。

キリストがその犠牲によって人々を神に帰すなら、神と人は再び結ばれるので、何の仲立ちの必要もありません。
これを新約聖書は『神の子となる』という表現をします。(ヨハネ1:12)子に父との仲介者の必要などないではありませんか。宗教と崇拝は『罪』という隔ての壁と共に過ぎ去るものであり、千年王国のあとに贖罪が終わるときに王国もその働きを終え、全てはキリストに帰依して集められ、創造の術も完遂し皆が自由を得るのです。

しかつめらしい序列や権威は無に帰し、人を分け隔てる地位も階級も格差もなく、全てが神と結ばれ、神は人々の自由や才能をこのうえなく、また分け隔てなく楽しまれることでしょう。そのようにして、創造界はいよいよ多彩な神の象りの栄光を増し加えてゆくことになるのでしょう。(コリント第一15:24-)

しかし、自分の子に平身低頭して欲しいという父親とはいったいどれほどの専制者なのでしょう?
キリスト教とは、隷従からの開放をもたらすもので、神に愛される子としての自由を謳歌する希望を目指すものなのです。どうして神はエデン(楽しみ)に人を住まわせたのでしょう。創造の神は父親としても子らの自由を楽しまれる優しく楽しい方ではありませんか。旧約に見られるような厳しい神の姿は罪の道が生じたためのものでしょう。しかし、キリストの犠牲が捧げられて以降『初穂』である人々から『神の子』の身分を得始めたのです。

この点からしても、神が切に求めるものとしてユダヤ教のように「服従」を強調するキリスト教というのはまったく間違っています。
パウロはこう言っています。『働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされる。』
これは律法による『業』による『義』を求めるユダヤ教と、『信仰』によって『義』を得るキリスト教との違いを述べる文脈で語られたものですが、服従という労働は、当然の代価として神を責めるものであることは傲慢の咎めが避けられません。自分が代価に値しない『罪人』であることも認めておらず、「自分はこれほど服従したのだから義と救いをよこせ」と言うに等しい愚行であり、間違いなく利己的なご利益宗教です。(ローマ4:4)

そこで、神への従順や組織や秩序が重要であると主張する裏には、まして、神が主権をかざすなどと言い張る宗派の裏には、指導者の欲得が潜んでいるのです。これはほぼ間違いがありません。
それは信者たちの神への従順の「おこぼれに与る」という欲得であり、指導者本人さえ気付いていないこともあるでしょう。
そこで「動機は悪くはなかった」と、どれほど唱えようと結果が悪ければ何の意味があるでしょうか。
それは創造の神を誤り伝えるものであるばかりか、まさに暴君であるサタンが望む圧政と隷属を推進しているではありませんか。


これに幾らか付け加えれば
この自由を踏まえた上で、イエスの次の言葉からすると、服従以上の自由の価値の大きさが見えてきます。

『「きわめて真実にあなた方に言いますが,すべて罪を行なう者は罪の奴隷です。そして,奴隷は家の者たちの中にいつまでもとどまっているわけではありません。子はいつまでもとどまっています。それゆえ,もし子があなた方を自由にするならば,あなた方は本当に自由になるのです。』(ヨハネ8:34-)

ここでイエスは自らを「家の子」として述べます。つまり自由人である「家の息子」ですが
つまり、「家の子」は、「罪の無い」「奴隷ではない」ので、いつかは去ってゆく身ではありません。しかし、アダムの子孫は皆が「家の奴隷」であり他人ですから、いつしか神の「家」を後に(死んで)去って行きます。一方、「家の子」はいつまでも留まります。

しかし、「家の子」がその「奴隷たち」を(買戻し)自由にするのであれば、「奴隷」も「自由人」となり去ってゆく必要もなくなります。
そうして、「罪」という労役から解かれた人は、神の家から子と同様に去るべき者ではなくなり、ましてその「家の子」として迎え入れられるなら、その家に留まり永遠の命に入るでしょう。その人も、家の主の子として大切にされることになるですから。
この例えでは、自由と神と永遠に歩む事柄が結び付けられています。

パウロは、「律法」への服従とキリストへの「信仰」への自由を対照させてガラテア書の中で見事な論理を展開しています。
そこでは、聖徒の受けた「神の子」としての自由が語られてはいますが、最終的な人類の得る自由として読むことができます。
どうぞ、その三章以降にご注目ください。


関連⇒「神は主権を求めるか


   ⇒「人はなぜ苦しみながらも政治と宗教を存在させるのか


   ⇒「主権という暴力




「キリスト教」がご利益信仰となっている理由は

2015.04.06 (Mon)


教会の宣教では「証」(あかし)と呼ばれ、 個人的に経験した主の恵みがどのようなものであったかを宣教の相手に話すことになるでしょう。つまり、信仰した自分にはこんなに良いことがあったという証です。
これをはっきりと申し上げるなら、その信者だけの「キリストの救い」は、「ラッキーな」個人的なご利益であり、諸苦満ちるこの世がどうなるというものではありません。果たして生活上の個人的な幸福が、世界人類を創造した全能神の「証」なのでしょうか。

そのようなご利益崇拝の原因はといえば、信仰する人々の関心が専ら自分に向いているからでしょう。
確かに、この世は住み易い場所とはいえません。人は「神が居るならなぜ世の中にこれほど悪があるのか」を問います。
しかし、そこで信仰する個人のメリットを唱えるとするなら、神は世の苦難には見向きもしないということなのでしょうか。

これについては信仰に限らず、人は大きな悪に直面したときに、二種類の行動をとろうとします。
ひとつには、その状況下で上手く立ち回り、自分たちの幸いだけは何とか確保しようとする。切羽詰ればこれが必要なこともあるでしょう。
もうひとつには、悪そのものに立ち向かおうとすることですが、これには相当な大志や自己犠牲を要します。まさにキリストの偉業の精神はここにあります。

もちろん神は、はじめから人間を悪の中に創造したのではありません。
「この世」というものは、人類が神から離れた結果存在したのであり、そこに神の意志も摂理もありません。
聖書は『この世の神』というのが『邪悪な者』『悪魔』であることを告げており、神との敵対関係にある「この世」はいずれは覆されることを再三知らせているのです。

さて、大半の教会の教えがご利益的である理由といえば、ニケアー以降のグレコローマン型教会の「この世」への見方にあります。それは基本的に、この世の中で本人の現状を善くして自分や周囲の幸福を得ようという趣旨であり、「この世」のそのものを糾弾したり裁いたりするものではなく、欲と苦しみ満ちる社会そのものを覆し世界に幸福をもたらすために根底から築き直すというものではありません。 そこでは社会悪は信者個人の幸運によって見逃され、世の苦難は人を磨くためであったとさえ理由づけされます。

そればかりか『聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできない』とのコリント第一の句を理由にして、信仰を持ったのも神の業であるから、その人は神に選ばれた幸運に恵まれたとさえいう教師までいるのですが、これは「おめでとうございます、あなたは当選しました」と言っては射幸心を煽る、怪しげな業者と本質は変わりません。その言葉にのってしまえば、人はますます利己心を募らせることでしょう。これがキリスト教によく見られる不倫理性ではありませんか。

どうして、これほどまでに利他性から利己性へと変容したかを問えば、キリスト教がローマ皇帝の宗教となったときに「この世に属する宗教」となったからでしょう。 そこではイエスの宣教の主題であった世を正す『神の王国』は、「ローマ帝国」という世俗国家の存在と入れ替えられ、以来ずっと俗化したままでいるのです。(ヨハネ16:8-)


その「キリスト教」で宣教される内容は、個人的な成功や健康、試練にどう対処出来たかを伝えるものであり、詰まるところ、教会員には、「この世」を上手く生きる導きが得られるというところがキリスト教の趣旨となっています。
その信仰の目的は、充実し幸福な生涯を送り、死後には天に召され、主と共に永遠の至福に入ることも約束されるとのことであるなら、これは一般に御利益信仰の範疇に含まれるというほかありません。 そこで「この世」の方は不幸や苦しみの中に放置され、キリスト教徒にならないと人は救われない、キリスト教徒にならなければ地獄に堕ちるというのです。この教えは、まず間違いなく周囲の異教徒への蔑視と、なにかにつけて自己正当化の理由とされ兼ねません。これはキリスト・イエスに激しく反対したパリサイ派の姿と重なるところがあります。

ですが、キリスト教とは、誰かが幸福であっても誰かが不幸であることを望むものではありません。ですからキリストが明言されたように「この世」を肯定するものでなく、むしろ神と対立するものであることは聖書そのものが証しているのです。(ヨハネ第一5:19)
なぜなら、「この世」は神の創造の栄光とはかけ離れたもので、聖書の「主の祈り」にあるように『ご意志が天に於けるように』地上には行われていないのであり、むしろ、『救い』を必要とするほどに悪と苦しみが避けられず、人々の一生を虚しいものにしてしまっているからです。創造の神が、この事態を放置しないことは、この有名な「主の祈り」からも明らかです。
ですが、「神の裁き」や「この世の終わり」を教えるのは「異端」だとする教会員は少なくもありません。ご自分たちだけのありがたい「幸福」が破られるように感じられるからでしょう。

一方で、本来のキリスト教の「救い」とは、アダムの不倫理性を選んだ『罪』によって、人類に利己心が横溢して神と隔たり、神の創造の企図からすっかり外れてしまっている「この世」という苦痛の社会システムが根底から新たにされ、人類の全体がキリストによる罪の許しを得て、神の創造の企図に復帰し、キリストの下に集められ、全世界が神のご意志に沿うものと変革され、こうして創造の業が本当の意味で成し遂げられることを表すものです。
そこでは、誰かは幸福で、誰かは不幸であるということはありません。普遍的幸福こそが神の創造の意志であり、キリストの犠牲の目的とするところです。その被造物への変わらぬ愛と公正な精神に深い価値を見出すことが信仰の動機であり、「世」の救いに自分をも差出し、神の意志に協働したいと願う人こそがキリスト教徒の名に値するというべきでしょう。


キリスト教が主要な宗教とはなっていない日本のような国を、教会は「福音化されていない」と見ています。
つまり、自分たちの教えが国中に満ちた状態になることを「福音化」と呼び、そうなることが正しく望ましいと考えているようですが、これは現実的でないばかりか、聖書に示されるキリスト教とも合致しません。
キリスト教国が取り立てて優れているというなら、それは植民地支配の時代の、西欧の白人が特に傲慢であった時代から進歩も反省もない、まったくの誤謬です。信者にならなければ救われないと言いながら、社会とのなれあいで、生まれた地域の宗教で救いが決まる矛盾は、どういう事になるのでしょうか?

聖書では、「この世」は『邪悪な者(悪魔)から出て』ているものと見なしていて、「この世」とキリストはけっして折り合えるものではありません。他の宗教はともかく、キリスト教が国中に満ちている状態そのものは、そのキリスト教が「この世」と妥協してしまっていることを示しています。(ヨハネ7:7・15:19)
歴史上、最も戦争を起こし、他民族を賤しめてきたのは、いったいどの宗教の国々だったのでしょうか?

キリスト教とは、常に少数者の宗教であることが教えそのものに含まれているのです。 本来、キリスト教はユダヤ教のように民族のための信仰にも、国家の宗教にもなりません。周りがみな同じ信仰者であることが必ずしも利点とはならないのです。

つまり、キリスト教は各個人の信仰が形作るものであり、コミュニティのすべての人に受け入れられることを想定したものではないのです。 信仰が地域のものとなればキリスト教の純粋性は俗化を避けられず、本来、生まれてくる子らに『幼児洗礼』など施して、ユダヤ教の『割礼』のように信仰を強要できるものではけっしてありません。元々コミュニティの宗教では無いからです。そうでなければ、新約筆者らは世を神の敵として繰り返し描かなかったでしょう。(ヨハネ第一2:15・5:19/エレミヤ25:29/エゼキエル/ヨエル3:9/コリント第一2:8/コロサイ2:15)

キリストの伝道の主題であった『神の王国』は「この世」のものとは異質で、人々の生きる動機が正反対のものなのです。「この世」の人々が生きる動機は「欲」であり、特に害を成している性質が「貪欲」であって、それが世界を動かしています。
一方、キリストの治めることになる『神の王国』では、「愛」が世界を動かすことになります。しかしこれは、この世ではとても受け入れられるものではありません。 この世での無条件な「愛」は家庭などの狭い範囲で専ら働くものです。(ルカ6:33)

これは人間社会の原理もシステムも神の意図とは異なることを示しています。しかし、愛による社会システムを心から望める人は多くはありませんし、現状の人間は誰もそれには従い得ません。人間には根本的に倫理性が不完全であり、本質的に利己的だからです。それは「罪」と呼ばれます。
ですから、キリスト教の信徒も他の人々と同様に「罪」を持つものの、それを悔いつつ「この世」に『寄留者』として生きるのであり、彼らの望む世界は「この世」ではなく、この世を『打ち砕いて終わらせる』キリストの支配、『神の王国』となるのです。 (ペテロ第一2:11/マルコ15:43)

その精紳は、人生を上手く生きることや、成功を収めることを願うものではありませんし、信者の救いがもっぱらの神の意志であるとも言えません。また、この世を改善してゆくことを本来の目的とするわけでもありません。 (ガラテア6:14)
死後に信者が天国の至福に入ることを目指すわけでもないのです。
こうしたキリスト教界の「救い」とは個人的な願望で、やはり利己心に根差しており、一般的には「ご利益」と呼ばれることでしょう。 キリスト教界に限らず「ご利益信仰」が宗教の趨勢となっている現状は、そのまま人間が利己的であり、アダムの『罪』が遺伝されていることの証しでもあります。

ですが、やはり本来のキリスト教信仰は「ご利益信仰」ではありません。
「ご利益信仰」は、キリストや使徒や弟子たちが願い、犠牲を捧げた人類救済の大志から観れば、正反対の精神を表していないでしょうか。 (コリント第二5:15)

一般的教会の教えがこのように「御利益信仰」に堕したのには、キリスト教の目的が何であるかを見失っていたというべきでしょう。この世がキリスト教の恩寵によって改善されてゆくというのは、既に教会の基礎を築いた古代の指導者アウグスティヌスにも見られる教えですが、聖書のヴィジョンでは、『神の王国』はこの世を『打ち砕く』のであって、改善するのではありません。キリストは世を裁きますが、良い方向に伸ばすと言ったことがあるでしょうか。(ダニエル2:44)

グレコローマン型キリスト教では『王国』も「天国」にされてしまうのも理由のないことではありません。『王国』が人類救済の大志を必要とするのに対して、『天国』は個人の安逸を求めるものであり、キリストの自己犠牲に対する反応には正反対のものがあります。『王国』を願う人々がキリストの自己犠牲の精神に倣おうと感化されるのに対して『天国』を求める人々はキリストの自己犠牲の上にあぐらをかいてしまうのです。自分は犠牲の益に与ることに感謝さえしていながら、自ら犠牲となることは望まないからです。

聖書を見るなら明らかなことですが、この世とは、神に従わず、また、従い得ないものです。 (ヤコブ4:4)
それは利己心と貪欲で溢れていて、キリスト教をご利益信仰に捻じ曲げたのも、キリスト教界がこの世の悪影響に不注意であったことの表れと言われても仕方の無いことなのでしょう。
大半の宗派は個人の益を求めて、崇高なキリストの自己犠牲の大志の上にあぐらをかいてしまっていないでしょうか。

大半のキリスト教と名の付くものがほとんど例外ないくらいにそのように見えます。
この人たちのご利益信仰も、自分が神の是認を受けていると唱えるのも、同じ動機から来ています。
つまり関心の中心は自分であって神ではありません。(フィリピ2:4・21)

聖書を読む者は誰であれ、キリストや使徒たち、また初期の弟子らがそのようであるとは思わないでしょう。(コリント第一10:33)
弟子らはキリストに続き自己犠牲を示したのであり、ただ感謝しているようなことは無かったのではありませんか。

キリスト教のご利益信仰は最大で究極の自己中心主義であり、これを超える偽りもないでしょう。
全能の神の意志を押し退け、キリストの犠牲を当然として自分に当てはめているですから。 ⇒ ヨブ記の結論
創造の神のご意志はどのようなものであるか、といえば、それは「誰かが幸福であっても誰かが不幸であるということのない」ことであり、この世では決して実現しない状態です。なぜなら、この世の精紳は利己的だからという以外にありません。「ご利益信仰」はまさしく「この世のもの」であって、神からのものではありません。

おそらくは、現状でキリスト教と名の付くもののすべてに神の是認も救いもないでしょう。
いずれもが、神に発するものではなく、その奇跡の証しである「聖霊」を持たないからです。
聖書に注意深く従えば「正しいキリスト教」が実現するわけもありません。それは人間を超えたことです。
様々な宗派が聖書に従うことで自分の正しさを示そうとしますが、聖書はそれを拒否します。かつてイエスを退けたユダヤ人がそれを証明してしまっており、その動機は義認欲しさであったに過ぎません。それもまた神を退ける貪欲の仕業でしょう。

しかし、これはけっして悲観的見方ではありません。実際、キリスト教徒は神と子には信仰を持っても聖霊を正しく信じるに至っていないのです。また、それを妨害しているのが自分の「欲望」であり「自己中心主義」であることにも気づいていないのです。
つまり、自分たちは聖霊を持っていると思い込むことによって、それを求め続け、捜し続ける動機を失っていますが、今からでも思いを作り直すことはできるのです。

まず、この自己犠牲の精神と聖霊理解から再出発しなければ、誰もキリスト教の土台の裾にも到達しないことでしょう。 ⇒ 聖霊という第三のもの




クリスチャンのための聖書再考の手引き書
 ⇒ 「聖書に流れる神のご意志



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「万人祭司」について

2014.08.06 (Wed)
確かに「万人が祭司である」というはルターの重要な主張です。
それはカトリックの聖職者だけがサクラメントゥム(秘蹟)を行えるとされていた当時の状況を打破することに眼目があったようですね。(「ドイツ貴族に与える書」)
また、「聖書を解釈するのはすべての人にとって自由である」とも語っていたことは、聖書を解釈できるのは専門職の牧師だけだということを平然と言ってのける牧師も存在する今日でも画期的なことであったと思います。
(その前に人々が母国語で読める聖書が必要とされており、ルターはドイツ語訳を著して、実際にその必要に答えたところは見事であったと思います)

さて、「万人祭司論」の根拠となったのは、挙例すれば、ペテロがその第一の手紙の中で『あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。』

また、ルター自身は黙示録を然して評価しませんでしたが、それでもその中で三回語られるキリストの追随者らが王また祭司とされるという記述、特に20:5-6の『彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する』などの言葉に根拠を見たのでしょう。

それに加え、ペテロは出エジプト記を引用し、当時のエクレシアの人々に宛てて『あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。』と記しました。

これらの言葉から、今日でも「クリスチャン」のすべてが、互いと世に対する祭司である、と教える教会はプロテスタントに少なくないようです。

ですが、その祭司職がどのように履行される、またはされているのかとなりますと、その認識は律法上の祭司職のようにははっきりせず、諸説に分かれるように見えます。もちろん、聖書中に「新しい契約」による祭司職の履行方法が書かれた箇所はありません。それは「千年王国」での職務となるからなのでしょう。

しかし、その前に前提となるアブラハムに約束され、モーセに対して『わたし(神)の言葉を真実に守るなら』と条件付けられた上で、『あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民』となるべきであった血統上のイスラエルではありましたが、メシアを拒絶してその格別な神の民とならなかったとしても、ペテロが手紙の中で言う『あなたがた』というのを、そのまま「クリスチャン」のすべてとしてしまってよいのでしょうか?

これは、「クリスチャン」の中にも信仰の弱い人も居るというような意味で言うのではありません。
キリスト教徒は、誰もが真実のアブラハムの子孫イスラエルと言えるのかどうかという問題です。

ペテロはこの手紙の挨拶文でこうも言っております。
『父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ』

つまりこの手紙を受け取った人々は、『御霊の聖め』を受けており、『父なる神の予知に従い』『選ばれた人々』とされております。
これはパウロも『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。』
これはまた、『神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになった。』と述べていたことにも合致します。(ローマ8:30)

これらは、神の選びであること、また聖なる者として「義」の状態に入ることを教えています。
その聖さとは、ペテロの云うように『御霊の聖めに』よるのであり、それが注がれた聖霊の働きであることは次のパウロの言葉からも明白です。
『異邦人が聖霊によって聖なるものとされ、神に喜ばれる供え物となる』(ローマ15:16)

従って、人を『聖なる者』(ハギオイ)とし、『義』の状態に携え入れるものが『水のバプテスマ』ではなく『聖霊のバプテスマ』であることには、多くの「クリスチャン」方も異論はないものと存じます。

その『義』の状態に入ることについては律法の中、レヴィ記の贖罪の日に、まず大祭司の贖罪、祭司の贖罪、そして民の贖罪という手順があったことに鑑みますと(レヴィ16:17)、キリストがご自身の血の犠牲を携えて天の至聖所に入られ、大祭司の職権を初めてそこで行われたことでしょう。
なぜなら、ヘブル書筆者は『もし、キリストが地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。』と書いております。(ヘブル3:4)

従いまして、キリストが天に去って十日を過ぎたペンテコステの日に、ガリラヤの弟子百二十人に初めて聖霊が注がれたことは、大祭司の職権によってキリストが律法で云うところの『自分の家の者』である祭司たちを贖罪し、まず、百二十人の聖霊を受けた人々から『義』が与えられ、彼らが祭司となったということができます。

このペンテコステの日にペテロは『イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』と語っていました。
ご存じのように、この言葉(使徒2:38)を根拠に多くの教会では、水のバプテスマを受けた信徒は皆、聖霊の注ぎを受けるものと教えております。

その教えにより、信徒は聖霊をも注がれていることになり、『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。』(ヨハネ14:23)という言葉、また『 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。』(コリント第一3:16)のような記述をありがたい根拠として、信者へのキリストの内住を教えるところともなっております。

またパウロは、聖霊を受けた人々が『神の子』となることを説いており、この人々は『アッバ』と極めて親密に神に呼びかけることが許されることも、教会信徒の特権であるとされているものと思います。(ローマ8章)

これは確かに大きな祝福、アダムからの『罪』(原罪)ある『死すべき人間』にとっては異例の扱いであるというべきでしょう。

さて、本来この異例な祝福につきましては、創世記に遡りますと、アブラハムの子孫に与えられたものであることが書かれております。
その理由といえば、アブラハムの信仰が非常に深かったため、老齢になって得た独り子イサクを犠牲として捧げることを厭わなかったからでした。
彼は『イサクを捧げたも同然であった』とヘブル書筆者は記しております。

この信仰の試みの後に、神はこのように彼に約束されました。
『地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』(創世記22:18)

それですから、「地上の諸国民に祝福を得させる」ということがアブラハムの子孫に与えられた異例な特権であり、これが後のモーセのときの『もし、わたしの法令を本当に守るなら、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神の特別に所有する民となる、それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです』という言葉において繰り返されていることも明らかなことでしょう。

ですが、血統上のイスラエルは律法を退けてしまったために、メシアの仲介する『新しい契約』を必要としたのであり、あのペンテコスタの日に聖霊の轟音に驚いてイエスの弟子のところに集まってきた人々の皆が、祭りを祝うためにエルサレムに来ていたユダヤ教徒でありました。

ユダヤ教徒には、確かに悔い改め、赦しを必要とする『律法の呪い』があり、その上、遣わされたメシアをユダヤの民としては退けてしまっておりましたので、彼らには悔い改めの水のバプテスマが旧来のユダヤ体制を去ってメシアへの帰依に準備されるという非常に願わしい意義があったことになります。(使徒13:46)

そればかりか、この時に水のバプテスマを通して、メシアへの信仰を明かした彼らには、本来アブラハムに約束され、モーセに示された「地上の諸国民に祝福を得させる」という『王なる祭司、聖なる国民、神の特別に所有する選民』となるという、それまで果たされずに歴史を辿った事柄が、遂にこのとき実現を見たということができます。
なぜなら、その以前に『神の子』とされたのは堕罪前のアダム、そしてイエスだけであったからです。

この点は、ローマ書でも『今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。』と述べられ、ヨハネも『神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。』とのべていますように、旧約に前例のない『神の子』の立場は、旧約の『神の人』を超え、聖霊によってキリストと結ばれた者だけの異例の立場と言えましょう。(ローマ8:1/ヨハネ第一3:24)

つまり、弟子たちに聖霊が注がれて初めて、ペテロの云うように『御霊の聖め』を受けたのであり、それが彼らに『義』をもたらしたと言えましょう。即ち「原罪」が大祭司キリストの贖罪によって最初に浄められた人々の登場であり、ヤコブはその者らと聖霊を受けていた自らを含めて『被造物の初穂』と呼んでいるのです。(ヤコブ1:18)

それが大祭司による祭司たちの贖罪で表された実体であり、ヘブル書筆者が言うように『もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。』(ヘブル9:13-14)とのこの言葉は、さましく、大祭司の下で働く贖罪された祭司たちの神殿における働きを述べていることは明らかです。

そこで「聖霊の注ぎ」ということを通し、祭司の権能、贖罪された聖い義なる立場、神の子、という人間側からは到底不可能な事柄の達成が関わっていたことを知ることになります。

他方で、一般的なプロテスタント教会における、「水のバプテスマを受ければ聖霊を得る」というこの教えを再考致しますと、「キリストの内住」や「聖霊の導き」によって良心的に行動でき、幸福を得られる。といったような教えは、どうも、聖書に流れる以上のような内容からは外れているように見えてないのです。

特に、聖書中ではアブラハム以来(本当にはエデン以来ですが)『地上のすべての家族が自らを祝福する』者となるという人類救済の偉大さと、「クリスチャン」方のご自分の祝福に傾倒なさっていらっしゃる姿にはかなりの違いを感じざるを得ません。
これで、「万人祭司」というのであれば、祭司の贖罪に預る民はどこにいるのでしょう。

ユダヤ人は、律法を守ることによって『諸国民の光』となることを目指しましたし、現代のユダヤ人も自分たちの宗教の目標をそのように云い表します。(イザヤ42:6)
それはアブラハムから継承した、類い稀な、そして見えない大いなる遺産でありました。しかし、血統上のイスラエルは遂にそれを得なかったとパウロは言います。(ガラテア4:21-31) これは真のイスラエルの追求であって単なる置換神学ではありません。
イエスが『あなたがたは世の光』と言われたのは、それらのユダヤ人がそのようになることを望んでのことだったのでしょう。(マタイ5:14)

その一方で、聖霊を注がれたユダヤ教徒であった弟子たちは、『その信仰によって』真実のアブラハムの子孫として水と霊から生み出されたということができます。(ヨハネ3:5)
本来ならば、血統上のイスラエルによってこの『諸国民の光』、『王なる祭司、聖なる国民』が構成されるはずでありましたが、そこはご存じのように、メシアを拒絶して処刑させたことに表されるように、ユダヤの民は十分に信仰を示す聖なる民の構成員を提供しませんでした。

そこでパウロが接木の例えを以って説明しておりますように、諸国民からも聖なる民に選ばれる人々が現れました。そこでの聖霊の注ぎははっきりとしたものであり、様々な「聖霊の賜物」の奇跡を伴っておりました。(ローマ11章/コリント第一12章) もし、これらの奇跡の賜物が無かったならユダヤ人は異邦人を受け容れなかったでしょう。
コルネリウスにせよ、エルサレム会議のヤコブの議決にせよ、説得力を以ってユダヤ人の異論を封じたのは明らかに人ではなく聖霊と言えます。(使徒10:45/15:28)

この「聖霊の賜物」に言及致しますと、「正統的プロテスタント」の方からは、そのような奇跡は今は無くなったと言われます。
その根拠としてパウロの『預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう』(コリント第一13:8)との言葉が用いられますが、果たしてそこでパウロは、賜物が無くなる時は何時かを論じていたのでしょうか。
むしろ、文脈はアガペーの優越性を述べておりまして、賜物が無くなることを論じてはおりません。そして、聖霊を受けた人々がこれを読んだときには、彼らが天に召されキリストと共になった状態では賜物の必要のないことを思い浮かべたことでしょう。

これに加えまして、使徒後教父の時代の初期、第二世紀には依然として「聖霊の賜物」を有した人々が生存していたことを少なくない資料から確認できます。この点では五世紀のアウグスティヌスですらも、かつて存在した聖霊を受けた人々の存在を認めております。彼の師でもあるアンブロジウスは、これら初期の聖霊を持った殉教者たちの多くを「聖人」として副次的な崇拝の対象にまで仕立てました。

このようにして、聖霊を注がれるということを再考いたしますと、「万人祭司説」は幾分か的を外したもののように見えてなりません。
それを以って「クリスチャン」は世のすべての人々のための祭司であるとするなら、未信者は救いの対象となり、水のバプテスマを受けて祭司となることが「救い」の条件ではなくなります。

ところが、『誰でも、わたしを通って入るなら救われます。』(ヨハネ10:9)という言葉は、恰もバプテスマを受けて信徒になることが救いのように見え、一方で、『神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。』(ヨハネ3:17)は、世の全体に救いがもたらされることを告げているのも明らかです。

そこでこれらを折衷して、世界がキリスト教に改宗することで世の救いが達成するというような見方も出てきたのでしょう。それを後押ししたのが「神の国は信徒の心にある」、また「信徒の行動によって神の国をこの世にもたらす」というアウグスティヌス以来の発想のようです。
ですが、キリスト教国から多くの争いが起き、世界大戦が始まった事実は、また、それ以前の植民地支配による強制、半強制の改宗行動は公平な観点からしてとても褒められたものでありません。
仮にこれが「万人祭司」の姿であるとすれば、それはどんなにか(恐れ入れますがはっきり申しまして)キリスト教を貶めるものであったことでしょうか。

むしろ、キリストの王国は『世のものではなく』争いから無縁のものなのではないでしょうか。(ヨハネ18:36)
それを考えますと、やはり聖霊を注がれた人々というのは、明らかに聖霊を持っていることが周囲から観察できた格別の弟子であったように思えます。
パウロは聖霊の働きの現れを『聖霊の顕現』と呼んでおりますが、その「顕現」に相当する語「ファネロ-シス」は、英語のマニフェストに相当するほど明瞭なものであり、この語の用法からして、有るのか無いのか外からは分からないようなものではなかったことでしょう。

といいましても、わたくしはフレンド会系の降霊的集会が原始キリスト教を再興するものであるとは思えません。
パウロが書きましたように、当時の聖霊の賜物は個人が制御できるものであり、パウロはそこに学ぶものがなければ益が無いとして、霊から話す人々を制限し、順番に秩序を以って集まりが霊から益を受けられる指示しておりますが、降霊的集会はそのようなものには思えません。(コリント第一14:26-33)

この点では初期教父らの情報のままに、第二世紀から聖霊の賜物と共に聖なる者も去ったと見るのが理に適っていると思えるのです。つまり、キリストの不在と共に聖霊は地上を去ったと。なぜなら、終末でもない時代に神は不要な事はなさらないからで、それはマラキからバプテストまでの四百年の神の沈黙の例を挙げることも不適切ではないでしょう。

そして、今日的「聖霊」の捉え方と異なるのは、その目的です。
つまり、初期の弟子らの目的は、『聖なる者』となりキリストと共に天の神殿で祭司また王として諸国民の贖罪に仕えることにありましたが、今日の「クリスチャン」のほとんどにとっての聖霊とは、自分の中にキリストを住まわせ、自分を幸福に導いて救いを得させてくれるというものではないでしょうか。
これは目的の対象が「すべての人」と「自分」というほどに異なってしまいます。
この点も有態に言わせて頂けますなら、人類救済の大志がご利益信仰にすり替わってはいないのでしょうか。

もし、そのようでしたら、ほとんどの「クリスチャン」の方々は、神のご意志から知らず知らずのうちに反対方向へと誘導されたことにはならないものでしょうか。

やはり、聖なる者らの目的は人類救済にあり、それがアブラハムはもちろんエデンの園から連綿と伝えられた遺産であり、それはキリストに信仰を持ち、水のバプテスマを受けたからといって誰にでも与えられるものではないのでしょう。

そこには神のご意志に基づく選びがあり、その選びは聖霊が注がれるという本来奇跡を通してはじめて与えられる異例に高い立場であり、自分にそれが無いからといって余りに落胆し続けるのは、余程自己愛が強いか、宗教に頼る弱さを露呈しているのではありませんか。そのような人が聖徒に臨むという終末の苛烈は試練を越えて行かれるでしょうか。(マタイ10:16-39)むしろ、聖なる者ではないことはその人にとって保護となるように思えます。


聖霊が注がれた『聖なる者』の立場を尊重することは、神から引き離されることではなく、却って、神のご意志の偉大さを認めそれを讃えることになるでしょう。
以上のように認識することに大きな抵抗感があるとしましても、それを試練を見做して克服される方々には、惰弱なご利益信仰を脱し、身を挺して利他的に振る舞い、キリスト教本来の輝きを取り戻す機会が開かれているのです。



「生きている間に洗礼を受けるべきか」という問題につき

2014.05.19 (Mon)
ご質問は単一のものとせず、いくつかに答えを分割する必要があるようです。
そこには微妙な問題も含んでおります。

ですが、誤解を恐れず結論から言いますと
「生きている間にイエスを信じなくても大丈夫ということで」す。
この「大丈夫」とは、「救いの可能性はすべての人に同等に残されている」の意味です。

そして、ご質問の趣旨はひとつのカラーを持っています。
「セカンド・チャンス」という発想で
それはこれまでの「旧来の教会的」な見方から、方向性を探ろうとするものでしょう。
つまり、「クリスチャンは天国行きが決まっている」という従来の教会の基本的な教えですが
この「旧来の教会的」見方がどこから来ているかといえば、所謂「クリスチャン」という聖書中にしっかりとは定義されてはいない単語に基づいていることでしょう。

これは聖書をいくらか詳しく探索するだけですぐに分かることですが、「バプテスマを受ければ救われる」というのは信者のすべてを意味していません。それは『新しい契約』に入る『聖なる人々』を指すのであり、聖書が書かれた当時には、ほとんどのキリスト教徒が『聖霊によって清めを受けた』『聖なる者』(ハギオイ)でありましたから、現代の人々が聖書をそのまま読むと、自分もバプテスマを受ければ救われると思ってしまうのです。

しかし、聖霊が注がれるというのは、奇跡を行う力も授けられたのであり、その紛うことのない印を持つ人は、最初にキリストの贖いを受けて『罪のない者』と見做されていたのです。ですからパウロも『(キリストを)信じた結果、約束された聖霊の証印を押された』とも、また『この聖霊が、わたしたちが御国を受け継ぐための保証(約束手形)となった』とも述べているのです。(エペソ1:13-14)

この『聖なる者たち』というのは、『キリストの兄弟たち』となり、『共なる相続人』とも呼ばれます。キリストと聖なる者たちの前でこの世が終わるときに世界の人々は『羊と山羊に』分けられ、そのときに、聖霊の言葉を信じて『羊』とされた人々を聖なる者たちがキリストと共に天から牧するようになります。

それが『神の国』の支配の到来であり、キリストと共になる『キリストの兄弟たち』が天から人類の祝福となり、遠い昔にアブラハムに約束された『地のすべての部族はあなたの子孫によって自らを祝福する』というアブラハムの相続財産を受けることになるのです。
つまり、本当の意味での「神の選民」『神のイスラエル』で、彼らは地上にいる間は聖霊を持った『聖徒』なのです。

ですから、メシア信仰をもったとしても、奇跡の聖霊の有無によって、信徒か聖徒かの違いが生じることになり、使徒時代から今日まで、奇跡を行う聖霊を持つキリストの弟子は絶えて現われていませんが、古代のカトリックの聖人たちには、奇跡を行う力とキリストに倣って殉教した記憶が刻まれております。このような人々が、この世の終末には再び現れると聖書に何度も語られているのです。

さてそこで、ただ「クリスチャン」と人を呼ぶのは、この『聖徒』か『信徒』かの違いが意識されず、そこで聖書理解に限界が出来、『新らしい契約』が『神のイスラエル』を導き出したことが分からなくなってしまうのです。
新約に三度現れるこの語「クリスチャン」はいずれも外部からの、または外部的な(ペテロも)呼び名であり、キリストの信者自身から現れた名称ではありません。
確かに使徒言行録では、シリアのアンティオケイアで最初にこの語が部外者によって用いられ、それが神のみ旨によることであった、とも訳文では言い添えられてはいますが、それは一つの単語「呼ばれた」という語に含意される「勧められて」というニュアンスを抽出し『み旨によって』と意訳したものです。その『み旨』という趣旨は、ユダヤ教からのキリスト教の分離を意味しており、もはや、彼らイエス派がはっきりと別の宗教として区別されるべき時に達していたという意味に訳者が解釈してのことでしょう。
ですが、「クリスチャン」という名でメシア信仰者が呼ばれることを神が導いたというには、新約聖書での表示が随分少ないように見えます。

むしろ、ローマ帝国内に信者が増えてゆく段階で、このユダヤ教徒とも異なる『この道に属する者たち』(使徒9:2)、また『ナザレ派』(ナゾーライオス)(使徒24:5)を一般人や権力側が識別する必要から本来出た名称であることは新約聖書と同時代の資料から明らかです。(使徒11:26)
つまり、ユダヤ教と後のキリスト教の分岐点を過ぎつつある当時の様子を教えるものでもあります。もはやユダヤの宗教はキリスト・イエスをはっきりと退けているので、メシアの教えはユダヤ教とは別物として、いよいよ諸国民に向かっています。彼らは血統上の『肉のイスラエル』ではなく、ユダヤ教からの人々と諸国民の、共に「メシア信仰者」でありましたので、双方の民を合わせて『神のイスラエル』であるとパウロは述べております。(ガラテア6:15-16)

彼らがそのように真のイスラエル、アブラハムの後裔として『地上のすべての諸族の祝福となる』『聖なる国民、王なる祭司』であることは、注がれた奇跡を行う聖霊によって『聖徒』と認めることができました。(創世記22:18/出埃19:5-6/ペテロ第一1:2・2:9-10)

それで今日、「クリスチャン」の語が何かにつけて繰り返されると、信徒と聖徒の区別を見失う危険も増えてゆくことは明らかです。しかし、両者の決定的な違いは、キリストの祭司となるべく『罪を許された』かどうかというほどに違うのです。これは不公平なことではなく、信徒たちはいずれ彼ら祭司たちによって贖罪される機会を得るわけですから、彼らの奉仕の益を受けるという幸いに与るのです。

さて、使徒時代に『この道』の中心を成していたのが、エクレシア(招会*)の中で聖霊の賜物を持っていたユダヤ人と異邦人からなる聖徒たちであったことはまず疑いようがありません。 *(現状のキリスト教で専ら呼称される「教会」は「キュリアコン」に由来するのでしょう)
しかし、その周辺にはコリント第一14章に見るように初学者や子供たちも居て、そこに集う人々や関心を持つ人、またその家族も社会からは『道に属する者たち』と見做されていたことでしょう。まず、このことを念頭に置く必要があります。

従って、ローマ帝国の国教とされ、様々な法整備が行われた後の「帝国のキリスト教」、つまり、ユダヤ教が国教であったような割礼に相当する「幼児洗礼」によって国民皆信者制となった後の意味での所謂「クリスチャン」と、初期キリスト教徒を指して呼ばれた「クリスティアノイ」とは意味や価値の上での違いがあり、私が文章で極力「クリスチャン」の語を用いないようにしているのは、この辺りの誤解を避けたいというところがあります。

一般の教会はこの語を用い過ぎ、洗礼を受ければ誰もが「クリスチャン」である以上にはなりません。つまりキリストの犠牲の『初穂』である『聖徒』は「信者」と同義語になってしまっています。
ですが、聖書の教えはそこまで単純ではありませんし、「クリスチャン」は「ご利益信仰」を受ける信者、自分は神に是認され寵愛を受けているという利己心に慢心する人々と同義語にもなっているのです。
その間違いは、本来は『聖徒』が受けるはずの天への召しや、『罪』の仮釈放が、聖書の書かれたまま自分に当てはまると勝手に勘違いをし、その祝福を横取りしているような気になっているだけのことであり、神の偉大なご意志には関心もぜず、ただ、自分の身に救いが起ることばかりを願いつつ、周囲の不信者は地獄に行くと思い込んでいるところから来ています。

ですが、聖書が書かれた当時、『この道に属する者たち』が「クリスチャン」と呼ばれるときには、聖徒も信徒もまたその周辺の人々を含んでいたことが実際のところだったでしょう。しかし、当時のエクレシアの大半を占めたのは聖霊注がれた「聖徒」でありましたから、「クリスチャン」の語を用いるときには聖霊ある人々と、そうでない初学者との混同を注意する必要があります。
現代語としての「クリスチャン」は、洗礼を受けた者、そこから派生して「救われた者」という意味でほとんどの教会や宗派で使われていて、そこで聖霊の有無はまったく意識されません。というよりは、奇跡の『聖霊』はその人に在ることにしてしまっているのです。

なんとも愚かしい事なのですが、「救われた者」とは「聖徒」を指すのであって、水のバプテスマだけで人が救われるということはありませんし(ヨハネ3:5)、「聖徒」にしてもその「救い」は「新しい契約」による仮の暫定的なものなのです。(ルカ13:24)聖徒は自らが聖なる者であることを忠節さと清い行状とによって、最期まで契約を守ることを生涯を通して実証しなければなりません。(ペテロ第二3:11)

しかし教会では、誰もが既に契約関係の恩寵にあった初代のユダヤ人のように水のバプテスマを受けると聖霊も自動的に受けられるかのように教えるので、実際に聖霊があろうとなかろうと区別なく皆がただ「クリスチャン」であることにされています。

古代の「クリスティアノイ」は、聖霊ある「聖なる者ら」を主に称して外部が使った呼称でありましたから、今日の「信徒」だけで構成される「クリスチャン」とは内実に相違をきたしています。

これらの違いがあるにも関わらず「クリスチャン」という言葉には、今日その区別も理解もまるで意識されません。
ですから、キリスト教を信じる者の全体を表す語として、わたくしは敢えて「キリスト教徒」を用いるようにしております。  [Believers (in Christianity)]

さて、本論ですが
キリスト教徒の間には相反する奇妙な風習が発生しておりました。
ローマ・カトリックがその体制を整える第四世紀より前からは、バプテスマを臨終の床まで延期する、というもの
それから以後には、生まれてきた赤子が死に瀕しているときに(場合によっては産婆の手で)バプテスマを慌てて施すという両極端です。

前者は、バプテスマはその人のそれまで犯した個人的罪を洗い流してはくれるが、一度バプテスマを受けた後の罪は許されないという、おそらくは「聖徒」について述べたヘブル6:6などを誤解してのことでしょう。
そこで、死の間際にバプテスマを受ければ、罪の無い状態で天国に入れるというご利益信仰で低次元の発想がなされていました。
しかし、ご存知のようにバプテスマは何ら「罪」を洗い流さず、倫理面では一向に普通の人と変わるところがありません。

後者については、バプテスマを受けた者は救われるという、ペテロ第一3:21などを誤解して何が何でもバプテスマを受けさせないと地獄に堕ちるという発想からきたのでしょう。
これも、もちろん信仰のない者にでも秘跡を与えてしまえば救われるというキリスト教の単なるアニミズムへの堕落でしかありません。どちらも神の全知全能であることを否認するかのような「悪しき信仰」の行動と言わざるを得ません。

この延長線上に大半のプロテスタントも基本を置いてまいりましたので、「バプテスマを受ければ救われる」というのが残っていたのでしょう。「教会のキリスト教」が幼稚な印象を受けるのも、このような聖書全体を流れる神のご意志への無理解、また、ご利益願望からの拒否があるというところが実際でしょう。


そこで、ご質問の本旨に入りまして
こんなことを言えば、教会諸派もエホバやモルモンにさえ批難轟々受けるようなことではありますが・・・

今日大半のキリスト教徒は何らかの宗派に属すに当たりバプテスマを受けています。
ですが、その意義は「集団に属し始めた」ということであり、ご本人はキリストに信仰を置いたと思っていらっしゃることでしょうけれども、真にキリストの帰依したのかどうかは分かりません。

ただ、分りそうなことは、「キリストという人物に従いたい」という願いを持っているであろうことです。しかし、その動機も分かりません。それは各宗派の教えるところに拠るのでしょう。その動機の中には「自分は救われたい」という利己的で狭い発想もあるに違いありませんが

教会によっては、というよりほとんどがそのようです。
それで「バプテスマを受ければ救われる」という信者のメリットを語ります。
ヨハネ6:47などユダヤ人に語られた言葉を誤解したのでしょう。神の終末における人類救済の目的が、ただ一度の水のバプテスマの儀式の中に具体化してしまっています。

救いとはそれほど簡単なものでしょうか?また、人の側からの行いで得られるのでしょうか?

これは、ものみの塔やモルモンまでも、いやキリスト教と名の付くものは押しなべてと言ってよいほど、バプテスマによって神の是認に入ったものと見做すのです。それはほとんど「救われた」というのと同じ意味を持ってしまっています。

つまり、人の定めた信仰を持ってそれぞれの宗派への所属することが「救い」になっているのです。それは「自分たちこそが正しい」という考えなしには成立し得ない「救い」と言う以外ありません。

しかし、聖書を精査すると、バプテスマを人類の救いの手段とすることはできません。けっしてできません。
なぜなら、人々はなお「裁き」を受けることにおいて誰も変わりがないからです。

もし、「私は信じます」と言ってバプテスマを受けるだけが神の救いであるなら、これまでキリスト教の勢力下に住んで居なかった無数の人々を、神は非常に偏狭な態度で拒むことになります。これは、高度なキリスト教を愛国主義者のような低次元な偏狭に卑しめ、却って『どの国民でも受け入れる』という神の性質に真っ向から反し、神を偽り伝えるものでしょう。(使徒10:35)

では、バプテスマを受けてキリストに帰依する意義は何でしょうか。
それは福音を聴いて、そこに大きな価値を見出して信仰を持ったということの表明でしょう。
そこには依然として『罪』があり、神の是認の外にいるのですが、その『罪』を悔いており、神の子羊の贖いを必要としていることを認めている状態に入ったのです。

しかしそれは、神の罪の赦しに入るわけでも、救われて永遠の命が約束されるわけでもありません
まして、人生での成功を求めたり、生命保険のように将来に備える思考は論外です。
「そんなにメリットが無いのなら・・」と思える向きは、受けないに限ります。その人にお誂え向きの宗教も宗派も他に沢山あるでしょう。

ですが、ある人々は神を知り始め、そこに素晴らしいものを感じます。
同時に自分の内に宿る『罪』に深い悔いを覚えます。
そして神、また人類を創造のままの『神の子』として復帰させるその業、それを可能としたキリストの犠牲に何より大きな価値を見出すことでしょう。
この人々にとっては「信じなくてはならない」ではなく「信じざるを得ない」のです。

まさしく神の素晴らしさに圧倒され、具体的メリットがあろうが無かろうが、この人々にはまったく問題ではありません
自分の裁きの結果を心配するよりは、一途に神の素晴らしい事柄の一端に自ら協働したいと願うでしょうし、聖書も『聴く』すべての者に『来たれと言うように』と命じております。(黙示録22:17)
その人は自然に神の素晴らしさを他の人に語りたいと願うことでしょう。

この「ある人々」こそがキリスト教徒の名に値し、バプテスマも本来の意義を以ってくるでしょう。このような人はどの宗派に属しているのかは問題ではなく、その心の在り方や、神に向かう姿勢に真価があるように思えます。あるいは、今はキリスト教を知らないだけで過ごしている誰かなのでしょう。その人は、今はキリスト教を知らずに過ごしているとしても、よほど「クリスチャン」よりは救いに価する誰かです。

一方、信仰があってもバプテスマを受けていない人をキリスト教徒と呼ぶかどうかは微妙な問題で、その機会が開かれているのに受けないのと、イエスの傍らで磔刑に処されていた罪人のように、機会の無い場合とは明らかに異なります。

ですから、「生きている間に信仰を持ってバプテスマを受ければ救われる」という旧来的観点からの受洗者と非受洗者という見方に救いの有無を単純に見ることは非常に不合理であると言わざるを得ません。恐るべき誤謬というべきでしょう。

バプテスマも人が施すものに違いなく、人の内奥までは問われておりませんし、人はそこまで見抜けません。それこそは神こそが裁かれるところでしょう。

また、「セカンド・チャンス」という言葉も、この理解の延長線上にあることを示唆しておりますから、同じ誤謬を引きずっており、けっして使用を推奨できる概念とも言えません。

どちらの観点も、「救いへのチャレンジ」のようなところがあり、やはり人間中心のものの見方からは脱却してはいないように見えてなりません。つまりは、自分から行動を起こして救いを得るという発想が、人間を主人公にしてしまっているのです。ご利益信仰なのです。

そこでは一重に神の御旨を探ろうという気概に欠けているので、救われればそれ以上求め続けようとはしないことでしょう。
諸教会の陥っているような信者の蒙昧と、教師の安住の構図の原因はここにあるのでしょう。

「自分は救いが欲しい」という人と、悔いていてひたすらに神のご意志に「協調したい」という人には、大きな隔たりがあるでしょう。

神が全知全能であることを信じるのであれば、その神がすべての人を救えないはずがないと結論できるでしょう。
しかし、聖書が神の裁きがあることを教える以上、人が救いを必要とする状況に入っていることと、救われる人とそうでない人とに分けられることにはよほどの理由があるはずです。

では
その裁きの要諦が何であるのか?
神の意向はどのようなものであるのか?
人はこの点に思いを馳せるべきであり、自分が救われるかどうかばかり考えていれば、単なる利己主義者でしかありません。



(⇒「終末の裁きに於いて何が問われるか」)



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バプテスマについて

2014.02.11 (Tue)
私に分からないところはまだ多くあり、首を傾げるばかりの聖句も相当量あるのが正直なところではあります。

それでも、背骨はつかんだという実感はいよいよ強くなっているという状態です。

去年、また一昨年と比べても現在の理解が広がっているのは、今回の下巻の書き換えではっきりと致しました。

それで、ずっと尽きない源泉に行き当たると、人は学び続けるほかなくなるのだろうと思います。

進歩が無くなったり、的外れになったなら、そこで自分の老衰以外に理由があるとしたら、今日の蒙昧に陥った教派と同じ何らかの根本的ミスを犯したことになるのでしょう。

この点で、重要なのが「動機」ではないかと感じられます。
つまり、人が真実に値しないとき、それは人が真実に対して迎え入れる気持ちの準備が無いのでしょう。

しかし、自分を捨てて、まず真実を求めようとする人を、神は捨て置くままにはしないのではないかと思えます。

と言いますのも、キリスト・イエスは『求めよ、さらば与えられん』と言われているからです。しかも、そこに聖霊が与えられるとも言われます。

御教会のみなさんが、この動機を持たれ、また主要な教訓とされて聖書にアプローチなさいますなら、進歩する上で恐れるものは無いように思います。

逆に申しますと、この動機を持たないことをこそ恐れるべきなのでしょう。
人は多くの「欲」のフィルターをもって、都合のよいことだけを濾し取ろうとしてらくだを呑み込むかのようです。神の真実に近づくことを求めるなら、これはどうあっても避けたいところではありませんか。



さて、ご質問の件

Q:<十字架の血潮で私たちの罪は赦された、私たちは赦された罪人、と言われ続けてきましたが、今もそういい続けていますが、どうなのでしょうか?
<(ここにも、ノンクリスチャンとの差別を感じてしまいますが)

A:「許された」と過去形にするところは誤解を招くようです。
ローマ8:1などで「許された」とされるのは「聖なる者」であることが文脈から明らかで、それは確かに聖霊の賜物を注がれ「新しい契約」に入った人々だけについて、当時は言い得たものでありました。

誇り高い人には受け容れ難いかも知れませんが
今日の人間はおしなべて許される以前の段階にあり、神の観点からすれば「まったくの罪人」となるでしょう。
そこには、どんな宗教を信奉していようと何の違いもありません。

ある人々は、「それなら自分は何故、キリスト教を信じてきたのか?」と、その効用や得られるところを憤然と求め、異を唱えるかも知れません。それはすなわち「ご利益信仰をしたい」と云っているのです。

今日のキリスト教徒は、聖徒と信徒が何を意味しているのか区別がつきませんので、誰でも彼でもバプテスマを受ければ「罪を許され」また「救われた」と勘違いをしています。 ⇒「聖徒
この人々はおそらく「新しい契約」の意味をも理解しないからでしょう。

しかし、聖書全体を流れる神のご意志は「人類の救い」であって、その信者のご利益ではありません。
これは懐く精神が180度も異なります。公共善の大志と些末な利己主義の違いです。

「新しい契約」はアブラハムに約された、その後裔が人類の祝福の所以となることで、それは律法契約が成し遂げなかった事柄、即ち、選ばれた人を「諸国民の光」となる真のイスラエルに召し出すということです。これは新旧の聖書を一条貫く最も重要にして根幹となるべき概念で、パウロはこれを『奥義』(ミュステーリオン)と呼んでおります。 ⇒「ミュステーリオン

その人々「聖なる者」たちを実に「聖」たらしめるものがキリストの血の犠牲の最初の適用であります。
我々「諸国民」は、彼ら「アブラハムの裔」の働きによって、最終的に罪を除かれることになります。 ⇒「アブラハムの裔

ですから、現状のようにキリスト教徒だけが「救われる」としてしまうと、おっしゃるように「ノンクリスチャンとの差別」が生じてしまい、そこでは「収税人とパリサイの祈り」の例えのような優越感がどうしても避けられませんし、それは神もイエスも意図するところではけっしてありません。

さすがに、これを正面切って「自分たちだけが救われる」と強調する宗派は少ないとは思いますが、それでも、やはり「自分たちには特に救いがある」、あるいは「有利である」としないと「やってられない」信徒がごっそりと抜け落ちる危険があり、それは多くの宗教組織が何としても避けたいところでしょう。そうして数多くの教会が堕落しております。

ですが、誰かが許されたか否かに関わりなく、キリスト教とはまことに素晴らしいものです。
それは個人の利益にはならずとも、全人類を罪から贖い、創造の当初の「神の子」としての輝きを人にもたらしますし、なんと言っても、神が神とされ、創造の業が完遂し、あらゆる事柄を創造者の意図に帰させ安定させるための基礎が据えられます。

これほど素晴らしい宗教がほかにあるものでしょうか。
この神の御旨こそは「極めて値高い真珠」、「すべてを売り払う」価値があるとわたしは思うのですが、人の価値観はそれぞれで、どうしても自分の救いを今欲しいという方々もいらっしゃり、神の裁きの以前である今、これを裁いてしまうことはできません。

ですが、それらの方々が聖書の教えの本質的なところに触れて、それに沿った信仰を抱けるものかは難しいでしょうし、同じ価値観を持てないでしょう。

つまり、神の御旨に関わる「聖徒」や、彼らを生み出す「新しい契約」を理解できるか否かで、キリスト教徒はおめでたい御利益信仰者にも、人類のための自己犠牲となるべくイエスに続く者とも変じることになり、その違いは余りに大きなものとなります。

《厳密に言わせて頂けますなら、「血潮」の中の「魂」(ネフェシュ)が贖罪を為します。(レヴィ17:11)》 ⇒「ネフェシュ





Q:<イエス様を信じれば・・・と洗礼を奨励するのもおかしいでしょうか?

A:バプテスマには
1.まず、自分にアダム由来の「罪」があり、神の前に贖罪を必要とする罪人であることを認め、その<罪を悔いる>、つまりその「罪」から逃れようと強く願っていることが求められるでしょう。それは犯された個々の罪を指す訳ではありません。その「罪」とは、パウロも自身について嘆いたところの、人に巣食う倫理上の欠陥を言うのです。それが世に蔓延し、ほとんどの苦難の淵源となっております。

2.それから、マタイ28:19にあるように、<信仰のうちに>自分の造り主として神を受け入れること

次いで任命されたキリストがイエスであることを認め、神の導き手また贖い主として受け入れること

更に、神から出る聖霊をキリストが導きの経路として、聖書中の過去、また将来に際立った仕方で用いられるときに受け入れる信仰を持つこと ⇒「聖霊という第三のもの

ただ、「あなたは信じられましたか? はい、ではバプテスマを受けましょう」と信徒を乱造していれば、その報いは「幼稚な教会」、あるいは「雰囲気だけの信者」を作るだけで、わらの家を建てるようなものにしかならないことでしょう。

判で押したように「すべての荷を負って労苦する者よ」と呼びかけ、「どなたでも」と広く門戸を開きながら信徒が増えず、あるいは流動的である日本のキリスト教界の実情はこの粗雑な造りに原因しているようにも思えます。

3.キリストへのバプテスマは、アダムの命にあって生き、今後も実際にはその命に在って生きるのではありますが、自分自身のキリスト信仰によって古い生き方を去り、我欲を捨てて<アガペー愛に沿って生きる>決意を固めたことを公に示すものでもあるでしょう。

それは同時に<神の安息に入る>ことでもあり、俗世の欲を離れ、自分の義を立てず、この世に在りながら神の義と将来の王国を求める生活へと移る決意表明ともなるべきのように思います。それこそがキリスト教徒らしい特質をその人に形成するのでしょう。それは単に善人や道徳的模範者を装う事とはまるで異なります。

だからといって、放縦が良いわけでも、自分の思うまま、望むままに言動を慎まなくて良いわけでもありません。それでなくとも人は度々失敗を繰り返すのですから。
一途に、神と人を愛し続けることは容易なことではなく、それを自ら判断し行うのは誰かの定めた規則に従ってしまうよりもずっと難しいことでしょう。

ですが、これを自ら行わなければ、イエスに教えられる弟子としての成長も、「神の子」に求められる「愛」においても一向進むところがありません。無頓着にしていれば、聖霊の顕現の時にさえそれを軽視し兼ねないのではないかという危惧も考えられます。なぜなら、自らの価値観で反応することに怠惰に過ごした為です。

一方「愛の掟」は、行う個人によって見かけ上は異なる結果を生み出すことを予期しなければならず、またそれを隣人愛の内に尊重する余裕も求められます。
そのように教条を離れることによって、人は愛における判断力を向上させてゆくことができ、それこそが人のアガペーを強化し、アダムからの罪あるとはいえ、キリストの教えに沿って、その道を進むことができるのでしょう。

それですから、バプテスマを受けた後も手取り足取り指導し続けるのは、信仰においてその人を成長させることにはならず、却ってユダヤ教のような規則に依拠する低次元の信仰へと、わざわざ信徒を拘束してしまうことでしょう。
やはり、規則に従わせることは、自発心を失わせ、自己の判断力が育たず、愛において進歩できなくなるからです。(ローマ13:8-10)

まして、自分では得心できなくても何かの規則や命令に従えというのであれば、ユダヤ教はともかくキリスト教の原則からまったく逸脱しているというよりほかありません。 ⇒「愛の掟

この点で、エチオピアの宦官がバプテスマを受けるとフィリポがすぐに移されたのは示唆的であるように思えます。神は不必要な事を行われません。宦官は「喜びつつ自分の道を行った」と書かれております。
ですが、キリストへのバプテスマも、それぞれの教団に帰依させるかのようになって、神の偉大な寛容さから遠く離れて、偏狭な正義感の徒を作っている宗派もあり、それらは他山の石とすべき教訓でしょう。



その一方で、キリストの教えに倣おうとする人は、常に聖書に相当に親しむ必要があり、その程度如何でキリスト教徒としての成長がどのくらいになるかが決まってしまうでしょう。しかし、これは他の信徒と比較してという意味ではありませんし、その人の倫理性がどの程度影響を受けるのかは分かりません。知識が救いとなるのではなく、より重要なのは共感でありましょう。

聖書に親しむことにより、神の意志を自らの思いに影響させ、そこに深い価値を見出せるなら意義があります。
そのために個人で聖書の熟読(けっして通読ではなく*)と、価値観を同じくする仲間と進歩を促し合う集まりの必要が生じます。
その集まりとは儀式や祈りを主体とする「礼拝」ではなく、今日では必ずしも場所を共にする必要もないかも知れません。
集まりでは、パウロも強調していたように学び合うところにその意義があります。*(通読を強調する教師は、信徒に「聖書を理解してはならない」と云うに変わるところがありません)

ですから、キリスト教徒の集まりには本来は「礼拝」と呼ばれるべき理由はありません。狭義の「崇拝」とは、聖霊なしでは存在し得ないでしょう。
聖書は人が一生を費やしても、けっして学び切れるものではありませんから、そこにお目出度い典礼儀式の必要はなく、むしろ初期キリスト教徒のように、『聴いて学ぶ』ものでなくてはなりません。(ローマ10:17)

またその学習の目的は、神のみ旨を再認識し、心に刻み込むことであり、そのご意志に協働する自分の道を探ることが集まりを必要とするのでしょう。つまり、信仰するということは、何かを信じるというだけのことでも、教理を学び得心することでもありません。信仰とは、それ以上ない究極的な倫理上の決定であり、その人が何かを退け、何かを擁護することを意味します。

そして、その擁護される事とは、「御子」と「聖霊」で表される神の御意志、あるいは神の行動目的である「経綸」と呼ばれるべきものであり、「信仰」の働きは、それを心から擁護し、推進させるべく自ら出来るところに応じて協働しようと努めるところにあるでしょう。

それは神がなさろうとされる事を理解し、その精神に同調し、自らにも培い、神が将来に行う事柄に自分を合わせ、終末に至っては、聖霊で語る『聖なる者ら』が現れるときに、自らを役立てようと努めることになるでしょう。そのときに行うべきことは主なるイエスも語っておられます。(ヨハネ17:20/マタイ25:40・10:42)




ですからバプテスマは、教理教育の卒業や入信儀礼以上のものであるべきのように思えます。
もちろん学んで信じたことの積み重ねがあってのことですが、バプテスマを一言で云えば<信仰を持った者が、その後を神の御旨に沿って生きる決意表明>ということなのでしょう。

それでも引き続き「罪」は内面で働くので、倫理的失敗や、思わぬ結果を招くこともあるかも知れませんが、それにも耐えられる信仰が育っていなければならず、その後に度々決意を翻すようなところが見えそうなら、バプテスマの判断は早計なのでしょう。

その人は、たとえ意図した通りにならなくても、自分の行動がアガペーに基づくものであったことを心底確信できるでしょうか。もしそうなら、それは他人のあれこれ言う領域のものではありません。しかし、本人にも疑念があり、そうしたことが傍目にも多いなら、その人は十分な倫理的決定に至ってはいないように思えます。

しかし、バプテスマを恰も完全な「裁き」のように見做してしまうと、人間の不確かさという現実を無視することになり、それは早晩無理が祟ってくるに違いなく、この辺りにはバランス感覚が求められます。 ⇒「神は人の何を裁くか
殊に、本人バプテスマを強く願っているなら、それを敢えて留める資格は何者にも無いように思えます。

と言いますのも、バプテスマそのものが、罪や汚れを洗い流すわけではなく、「裁き」が依然人々の前から去ることはないからです。それは『良心を願い求めることである』とある通りです。真実の正しさは神にのみあるからです。(ペテロ第一3:21)


ですから、バプテスマを受ける人はそれを神秘主義的に捉えて、自分が神との格別な関係に入ったと思い込むよりは、よほど自分の救いをともかくとして、一途に神の御旨に役立て用いることを願うことでしょう。
もちろん、「聖霊の賜物」の地上に存在しない今日、誰も「新しい契約」に参与して「罪」を許されることを今このときに期待するのは的外れです。

コルネリウスに聖霊が降るのにバプテスマの先行を必要とはせず、イエスの傍らの罪人はバプテスマを受けることなく、パラダイスへの復活という救いに与っております。

ましてやバプテスマを受けたからと「イエスさまが自分の中に住んでくださる」というのは、「聖徒」にのみ言い得ることであって、今は、思い込みの強い人の妄想による心理作用だけの厚顔な「ご利益信仰」でしかありません。

また、バプテスマは何かの宗教組織や教祖への恭順や帰依を表すのでもなく、もちろん「救い」を得る手形のようなものでもけっしてありません。

ただただ、信仰の対象*である神と子と聖霊を受け入れるべく『整えられた民』の一人となるというスタート地点に立ったことの表明でしょう。*(崇拝の対象は神YHWH以外にありません)




⇒ 「バプテスマの意義は何か
⇒ 「聖霊と火とのバプテスマの異なり







2013.2.23加

七人のうちの福音宣明者フィリポの活動

2013.10.30 (Wed)
許多の奇跡を行って人々を癒し、最後は磔にされたイエスがキリストであるという新たな信仰を得た巡礼者を含む信者たちはペンテコステの日からもずっとエルサレムに留まり続けていましたが、ステファノの殉教を契機に他のユダヤ人からの猛烈な迫害が始まったので、十二人を残して他の弟子たちはユダヤから散り散りになって逃げてゆきます。
しかし、これはキリストの教えがエルサレムから周囲に広げる働きを果たしました。

「福音伝道者のフィリポ」は、ステファノと共に七人の執事(ディアコノス)として選ばれていた一人ですが、そのフィリッポスというギリシア名にはステファーノスと同じく、ギリシア語を話すどこか外地に居留していた「離散」のユダヤ人、ヘレニストであったことが良く表れています。
彼も、エルサレムでペンテコステの時に百二十人ほどのガリラヤからのイエスの弟子たちに、イエスが約束していた「聖霊」が降り、異言を様々に話した姿を目撃したことでしょう。

その後、このフィリポには福音を宣明するための神からの力が強く働き始めます。

エルサレムの迫害を逃れた彼はまず、サマリアに向かいました。
そこはモーセの律法を守りユダヤ人と同じ神を崇拝していながら、ユダヤ教とは異なる部分のある教えを信じていた地域で、ユダヤ人からすれば偽の宗教を奉じると見なされていたサマリア人の住むところです。

しかし、このわずか数年前にイエスは、彼らの崇拝の中心地であるゲリジム山の麓にあるシェカルというところで、井戸に水を汲みに来たひとりの女を通してこの町にはイエスをメシアとして認める信仰が伝えられていました。ですから、イエスによって有る程度の下地が作られていたことでしょうから、フィリポは主の撒いた種を「刈り取った」とも云えることになります。

そして今回、フィリポが再び彼らの間で神の聖霊の力を示して奇跡の業を行うと、多くの人々がキリストの信仰を受け入れることとなりました。
これを聞いたエルサレムの使徒たちは、ペテロとヨハネをサマリアに遣わします。

すると、再び奇跡が起こり、ペテロがサマリアの弟子たちの上に手を置いてゆくと、彼らもユダヤ人の弟子と同じように聖霊を受け異言を語ったりしてゆくのでした。(これらの聖霊の賜物の種類についてパウロはコリント第一12:7-10に幾つかを挙げています)

それが余りにも驚くべきことだったので、元魔術師のシモンは、人々に聖霊を与えるというペテロの特権を金で買い取ろうとしました。
もちろん、それは正しいことではありません。即座にペテロは彼を断罪しますが、シモンはすぐに謝罪しこの場で命を失うには至りませんでした。しかし、この人物については様々に良くない伝承が聖書以外から伝わっています。

このペテロの役割は、マタイ16:19にあるようにイエスから与えられていた『王国の鍵』を使って、ユダヤ人だけでなく、異邦人からも神の王国に属する「聖なる人々」を招くという働きでした。
使徒1:8を見ると、このように聖霊を受けた人々はペテロを介してユダヤ人だけでなく、サマリア人へ、そしてまったくの異邦人へと広げられていったことが分かります。

さて、サマリアでの宣教が一段落すると、神の使いがフィリポに次に向かう場所を知らせます。
それは山の中のサマリアよりずっと南の砂漠から海岸に向かうガザへの道であったとルカが記しています。
すると、エチオピアの女王に仕えるユダヤ教に改宗していた高官が、エルサレムから自国に帰る途上にあり、馬車の中でイザヤ書の巻物を読んでいるところでした。

そこで聖霊は彼にこの馬車と一緒に走るように命じます。
その宦官(これは単に役職名で実際の宦官ではなかった可能性あり)は自分が読んでいたイザヤ53章の『彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。』というイエスに関わる聖句がだれのことを指しているのか分かりませんでした。
そこでフィリポの助けを得ようと、彼に一緒に馬車に乗るように招きます。

フィリポはこの句から始めてイエスがメシアであることを教えてゆくと、やがて水のある場所に出ました。
宦官はすぐに、自分も水のバプテスマを受けることを望み、フィリポはその願いを叶えます。
それが済むとフィリポは霊に連れ去られ宦官の視界から消えてしまいましたが、この人は知らされたメシアへの信仰を喜んでエチオピアへの道を行きました。エチオピアの非常に古いコプト教会はこの一件があって存在するようになったのでしょうか。こうしてキリストへの信仰は世界に向かって進み始めます。

この宦官には賜物を伴う「約束の聖霊」は注がれませんでしたが、それはまだペテロが、無割礼でまったくの異邦人であるローマ軍の士官コルネリオに会っていなかったので、まだ異邦人への「王国への鍵」が開けられていなかったからと見ることができます。ですからこのエピオピアの宦官は「聖徒」(ハギオス)にはなりませんでしたが、信ずる者「信徒」(ピストス)であったことでしょう。それでも宦官はメシア信仰を得て『喜びつつ、自らの道を進んで行った』のでした。

さて、フィリポの働きは更に続きます。神の霊は彼を取り去り、次にアシュドドに運んでいました。そこから海岸を北上しカエサレアに至るまで宣教しますが、その地域でも急いでユダヤ人から「アブラハムの真の裔」を救うべき大きな働きがあったのでしょう。

こうしてフィリポは聖霊によって用いられ、その導きのままに行動することで神またイエスと共に働き、その活動の場はイスラエルの外に向かって行きます。

フィリポが経験したような神の霊による移動は、旧約の中にもあります。
預言者エリヤは後継者のエリシャに職権を引き継ぐと、燃える戦車に乗って大空に消えて行きました。(列王第二2:11)
これはエリヤが天に昇って戻らなかったわけではなく、それから数年経った後でもエリヤは依然生きていて、ユダの王ヨラムに預言的な手紙を書き送っています。(歴代第二21:12/ヨハネ3:13)

このように、イエスの帰天後、エルサレムの片隅で隠れ住んでいた弟子たちに注がれた聖霊はこの人々に宣教の力を与え、次いで迫害が起こっても聖霊によるフィリポたちの活躍でユダヤ人の中だけでなく、教えとイエスの名と聖霊とはサマリアやエチオピアにまで広がってゆきました。その後は地中海世界からインドまでも使徒たちが到達したと伝承は伝えています。

これは人間の能力によって、弟子たちみんなが力を出し合うだけで達成されたのでしょうか?
けっしてそうではありません。神の御力、また導き無くしては考えられません。
本当に神を信じるということは、このように、昔の使徒も弟子たちもしていたように、神の力が実際に働くことを信じて待つことでしょう。

使徒言行録のフィリポの活動ひとつに注目しても、まさにキリストが天から彼らに聖霊を与え奇跡を通して初代の弟子らを導いていたことを、今日の私たちにも知らせてくれるものとなっています。

つまり、自分のしたいように勝手に崇拝するのではなく、また自分たちの能力ではなく、状況に応じて神の力や導きに従うときにこそ、神と協働してその大きな働きに貢献できるということを、フィリポの例からも学べます。そこに人の誇るところなど無いと、あのパウロでさえも云っています。

キリストが臨在し再び聖霊が働くときには、フィリポのように用いられ目を見張るような世界宣教を行う人々が現れることでしょう。初期の弟子たち以来、現在まで聖霊は降下していませんが、神のご意志を尊重するという態度をもって神の御力である聖霊を待ち望んでいることを示すことができます。

それは『罪』ある自分の信じるところが絶対に正しいとするのではなく、常に神のご意志を求める姿勢をもつところに表れるでしょう。正しさとは神のみが持ち得るものだからです。
ルカは福音書に於いて、『求め続け、敲き続けるなら』『父は聖霊を与える』とのキリストの言葉を記しています。(ルカ11:10-13)












.28May13改
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