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「聖書とキリスト教を知る」新十四日派教本

2021.02.17 (Wed)

この度、新十四日派としての教理教本を発刊するに至りました
「聖書とキリスト教を知る」と題し
「キリストはなぜ到来したか」を当該一冊目の副題とし
新十四日派の教理の基礎を周知するものです


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amazonから発刊

電子版なので、この通販サイトに登録し、Kindleの読み込みアプリを介し
ログインすればどの端末からでもその都度読めます
クレジットカードを使わずにも購読できるとのことです
コンビニ決済、ATM、ネットバンキングなどの支払い方法も選択できるようです。⇒アカウント作成方法


諸教会の一般の方々への教理教育が意外に整っていないという実情をあるようで、このような「教理本」を「教会のキリスト教解説」と見られるところがあるかもしれませんが、これらは原始キリスト教に基く教えを解説するものでありまして、一般的な教会の教理の解説をお望みの方には向くものではありませんのでご注意願います。

さて、「新十四日派」と銘打って新しい聖書理解をSNS上に公開して十年以上が経過しておりましたが、キリスト教には初心者である読者を対象とした明確な教本は初めての公表となりました。
その間、創世記から黙示録までに込められた教理教本を仕上げなかった理由には、聖書の黙示や預言の終末への視界がいくらか途切れていたところがあります。

何らかの仕方で教程本を作る方法もあったのでしょうけれども、これまでの自分の経験からするなら、聖書全体の理解が一応は一巡しないことには、先端的理解が分かると同時に基礎に近いところまで見直すような影響を及ぼすことが時折ありましたので、近年ようやく聖書理解が一周したかの感があり、今の時点で、ようやくこの書を出版するのは遅いようでも慎重を期して良かったのではとも思えるところです。

当然ながら霊感を受けて書いたのでない以上、新十四日派の教理としたものがそのまま正しいという確証もなく、また教本とはいえ子供にも分かるものではありませんが、平易な言葉を用い、蓋然性の高い事を取り上げ、省略できるものを大胆に捨てるつもりでは書あります。結果140頁程度の手頃な分量で、とりあえずの基礎の網羅として落ち着いたと思えるところです。

聖書にもキリスト教にも関心をお持ちの方でも、部分的な講釈ではなく、全巻にわたって首尾一貫した理解を願う必要にお応えできれば努めも報われるところです。ここに込められた内容は、人生訓や処世術のようなものではなく、まったく『この世』という人間の生まれ落ちる不条理で空虚な世界を糾弾するものです。そこに神の摂理など存在もせず、悪魔の言いなりになって利己心が横行し、創造の意図から逸脱している労苦の獄屋であり、人はみな出エジプトの時のように解放を待つ『罪』の奴隷です。

この前半の書では、人間という存在に苦難がついて回る根本的原因から解説を始め、早くもエデンで語られた解決のための神の手立て『女の裔』を巡って聖書が展開してゆくところを解説します。
この一冊の本だけでも、千年期に至るまでの概要はつかめるよう編集してあります。
アブラハムへの約束、モーセの律法契約、捕囚と回復、バプテストの現れとユダヤへの裁きの予告、キリストの到来と働きの意義、聖徒らに受け継がれたキリストの業、キリストと聖徒らによる『神の王国』の支配と贖罪、霊と魂の意味、信仰とは何か、など基礎的な項目は網羅しました。
聖書の概要を一通り知りたい読者の必要に応じられるよう願っております。


これらの内容は2020年秋から、エイレナイオスのブログ上に掲載してきたものに
二章を補筆、全体に訂正を施し、セクション分けをしました。
(紙媒体の場合には、もう少しの工夫をしたいとは思っております)

聖書とキリスト教を知る
- キリストはなぜ到来したか -


1.キリスト教の目的
§1.「この世」とは何か - 5 -
§2.神とは何者か  - 7 -
§3.人間の抱える問題とキリスト - 9 -

2.『罪』という死の原因
§1.悪に傾く危険性 - 11 -
§2.究極の倫理的選択 - 13 -
§3.悪魔の素性 - 14 -

3.神の人類救出の手段『女の裔』
§1.ヘビを無に帰させる何者か - 19 -
§2.死後の世界を吹聴する悪霊 - 20 -
§3.信仰の人アブラハム - 22 -
§4.国民となるイスラエル - 25 -
§5.不信仰から捕囚とされる - 27 -

4.メシア=キリストの現れ
§1.神の沈黙が破られる - 30 -
§2.『新しい契約』を仲介するメシア - 33 -
§3.律法をただ一人成就したメシア - 37 -

5.天に建てられる『神の王国』
§1.「天国」ではなく『天の王国』 - 41 -
§2.ユダヤ人のただ中に来ていた王国 - 43 -
§3.真のイスラエルを集めるキリスト - 46 -

6.俗なる「世」と聖なる「安息」
§1.俗なる『この世』の始まり - 51 -
§2.空しい世の人生 - 57 -
§3.安息日の主であるキリスト - 60 -

7.子羊の犠牲による祭司団の現れ
§1.エジプトを出る『過越し』の食事 - 65 -
§2.神に買い取られた人々 - 67 -
§3.『神の子羊』イエス・キリスト - 70 -

8.キリストの贖いによる聖霊降下
§1.聖霊とは何か - 75 -
§2.様々に働く霊 - 78 -
§3.注ぎ出された奇跡の聖霊 - 81 -
§4.聖徒の身分を証しする聖霊 - 83 -

9. 『火のバプテスマ』に焼かれるユダヤ
§1.籾殻を集めて焼くキリスト - 88 -
§2.キリストに予告された滅び - 91 -
§3.律法体制の過ぎ去った後に - 96 -

10.聖徒と信徒
§1.アブラハムの裔と諸国民 - 102 -
§2.大祭司キリストと共に働く祭司団 - 104 -
§3.キリストと聖徒たちの千年支配と贖罪 - 108 -
§4.神の名を唱えて救われる - 113 -

11.『魂』として保存される人類
§1.動物にもある『魂』 - 117 -
§2 血で表された『魂』 - 118 -
§3. 神はすべての魂を所有する - 121 -
§4.神が悪や苦を許している理由 - 125 -

12.信仰というもの
§1.濃い暗闇に住まう神 - 128 -
§2.主の僕は争わず - 131 -
§3.神と子と聖霊 - 133 -



以上、上巻 全141頁


なお、同じ「聖書とキリスト教を知る」の表題で、終末の黙示や預言の指し示す将来の「終末」を扱った「下巻」に相当する「再臨のキリスト」と副題するもう一冊も続けて発刊の用意を進めております。

こちらは、上記の上巻が初臨のキリストの意義を伝えるのに対して、それを鏡像のようにしてキリストが再臨するときに何が起ると聖書が述べるかに焦点を合わせており、二冊が対になるものです。

本来は「聖書とキリスト教を知る」と題する一巻の書とするつもりで、厚手にならず150頁ほどのものを目指したのですが、最低限必要を思われるものを網羅しようと書き進む内に、300頁近くなってしまうようになり、「手軽で読み易い」という当初狙ったコンセプトから逸脱してしまいました。やはり教科書は読みやすく薄い方がありがたいものです。

一応は全体像をレジュメにまとめて書き始めたのですが、書き進む内に思わぬ方向に筆が進み出し、気づけばキリストの初臨と再臨とではっきりと二分される内容となったことから、ふたつの書に分ける事と致しました。

下巻の内容は、黙示や預言書を包括的に扱い、新約との関係性を終末の出来事に組み上げたもので、筆者の十年以上にわたる聖書探求から、能う限り凱旋性の高い事柄をまとめております。
とはいえ、未然の事柄が内容ですので、独断とならぬよう仮定文を多用しましたが、もちろん筆者としましては、慎重を期したつもりではあります。
然りながら、今後の次第では何か変わる可能性もあり、その点、分冊であることが有用となるのかも知れません。それにしても、類を見ない終末理解の全体像ではありますが、ほとんどの箇所で複数の聖句や史料を支持を根拠としましたので、まったく的外れとはならないことでしょう。

こちらも加え、みなさまのご購読とご感想など頂けますなら幸いに存じます。

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こちらは現在準備中で、3月中に上梓できるものと思われます。



「大いなるバビロン 終末のイゼベル」 新刊出来

2020.09.06 (Sun)

完全書き下ろしの新刊出来

大いなるバビロン 終末のイゼベル
-バアル崇拝の顛末と黙示録の表象-


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amazonから電子版を出版 ¥500 Docx A5版 105頁
販売ページへ




「大いなるバビロン」という秘儀をバアル崇拝の顛末から解く

イスラエル王国の王アハブは、カナン人との通婚を禁じたモーセの律法にあからさまに反して、カナン系シドンの王女イゼベルを娶った。
そのため、イスラエルとユダの両国にカナンの神バアルの崇拝が王族を通して広められ、彼らの父祖の神YHWHの崇拝は後退を余儀なくされるに至った。
サマリアにもエルサレムにもバアル神殿が建立され、幼児を火で焼く忌まわしい崇拝が各地に蔓延してゆく。
その中から預言者エリヤがただ一人立ち向かい、カルメル山上での圧倒的勝利を納め、民の心をYHWHに帰らせる。

しかし、イゼベルの影響力は俗権に於いて強力であり神の奇跡なぞ意に介さないばかりか、既に多くのYHWHの預言者らを亡き者とし、今やエリヤにも襲い掛かる。
エリヤはモーセの原点となった荒涼たるホレブの山に逃れ、神との邂逅からバアル崇拝を罰する三人の任命を託された。

後継の預言者エリシャにより、シリアのハザエルとイスラエルのアハブの家から王位を簒奪するエフーがそれぞれ王として油注がれ、そのため遂にオムリ王朝は倒され、イゼベルは宮殿から落下させられ、サマリアのバアル神殿はその崇拝者と共に過ぎ去った。

しかし、イゼベルという女の鮮烈な生き様は、終末に至るまでの長い影を引き、この世の終りの夕陽に照らされ、遂に大娼婦「大いなるバビロン」という巨像を黙示録に投影することになる。これが地の王らの上に君臨する宗教上の淫乱なる女王である。
このバアル崇拝にまつわる一連の故事はただの歴史として記録されている以上の意義を孕んでおり、それは終末に於いて著しい啓発と成就とを与えるであろう。

即ち、終末に「聖なる者ら」を滅ぼし、血の罪を負うという黙示録中の大娼婦「大いなるバビロン」が何者であるかは神の「秘儀」であり、具体的に明かされることなく今日にまで及んでいる。
しかし、この大娼婦が「王たち」、即ち、公権力を使嗾して、終末に聖霊を受けて語る聖なる者らを亡き者とさせることに於いて、旧約聖書の列王記に現れるバアル崇拝者でイスラエルの王妃となったフェニキアの王女イゼベルの故事を見てゆくと、そこに黙示録の「大娼婦」との整合性から、その予型であったことが見えてくる。

実際の古代都市バビロンと、実在した女王イゼベルとが共に終末の大娼婦を描き出す役割の一半ずつを負っていると捉えるべき理由を聖書そのものが提供しており、古代の事例を用いて将来の終末に登場するものを表象とし、それを暗示しているのである。
即ち、女王イゼベルは予型、大いなるバビロンは対型であり、古代の出来事とそれに伴って預言された事柄が、単に一回の成就に留まらず、「終末」という、より重大な局面、人類全体が関わる遥かに重大な時について、聖書はその持てる預言の力を結集しているというべきであろう。

終末に世界の人々の裁きがあり、その結果を分けるものが聖霊を介した『信仰』である以上、聖書が確たる保証を人に与えるような仕方で言葉を書き記すことはない。人は皆おしなべて「裁きを前にした罪人」であるならば、聖書は人に安全を請合う法的証書でも、立証済みの学術論文でもないのであり、それらを遥かに超えた神の言葉は、人の内面を個々に試し、動機を焙り出すものである。それがまた、黙示録という書が暗示で成り立っている所以でもある。

それでも、列王記のバアル崇拝の観点から黙示録を照らし合わせることで、イスラエルとユダの両国に多大の害をもたらしたイゼベルの姿によって「大いなるバビロン」が何者であり、どのような経緯を辿って遂に最期を迎えるのかを類推することができるのである。

本書は、キリスト教界で明瞭に解説されることの稀な「大いなるバビロン」という秘儀を、預言者エリヤとエリシャの時代の視座に就いて探る試みである。
その意義は、終末に神に対抗しては滅びに至る「対型的なバアル崇拝」に陥ることへの警告であり、「聖なる者ら」の現れに際して、その聖霊の言葉に逆らうことのないよう備えさせることにある。

その忌むべき「バアル崇拝」は今日でも広く蔓延しており、もし「対型の預言者エリヤ」が現れるなら迫害して取り除き兼ねない勢いなのである。
そこで求められるのは、エリシャやエフーのような人々の現れであり、その人々は、「対型のエリヤ」であるところの「聖なる者ら」の聖霊の奇跡の言葉に信仰をおくであろう。またケニ人エホナダブのように「今日のバアル崇拝」に嘆息している人々でもあろう。

だが、黙示録は終末のイゼベルである『大いなるバビロン』が、どれほど俗界に権威を見せ、聖徒を滅ぼそうとも、終末の時期も終局に際しては高所から落下するかのように突然に滅び去り、遺骸さえ食い尽くされて何も残されないことを予告する。
そのとき、「聖なる者ら」への『二倍の復讐』が果たされることを喜べる人は幸いであるに違いない。


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100頁ほどの小著で読み易く、全体は三つの章で構成。
最初に二章で故事を解説し、第三章に黙示録の対型を解く
目次は以下の通り

第一章 アハブ王と預言者エリヤ
◆古代カナンの神
◆南北に分かれたイスラエル民族の国家
◆サマリアのバアル崇拝
◆譴責と旱魃
◆カルメル山上の対決
◆神の許に逃れるエリヤ
◆エリヤはYHWHに奏上する
◆後継者に恵まれる
◆ナボトへの血の罪
◆アハブの死

第二章 バアル崇拝の終焉
◆取り去られるエリヤ
◆イスラエルの影響を受けるユダ
◆モアブの反抗
◆エリシャの奇跡の業
◆二人の王への油注ぎ
◆隊長の謀反
◆女帝イゼベルの最期
◆ヘブライ人の原点を生きるケニ人
◆騙し討ちによる崇拝者の殺戮

第三章 終末のイゼベル
◆王たちと淫行を犯す大娼婦
◆「大娼婦バビロン」に暗示されるイゼベル
◆多くの水の上に座すバビロン
◆地上の舞台から去ったエリヤ
◆終末にエリシャの働きを為す者ら
◆究極の騙し討ち
◆離れるべき「バアル崇拝」


Docx A5版 105頁
電子版発売中




「キリストの例え話」第二巻 電子版出来

2020.07.10 (Fri)

まず、第一巻からご購読いただいております皆さまに感謝申し上げます。
お待ちいただいていた方には遅くない申し訳ありませんでした。

このたび苦労の末にようやく第二巻の発刊に漕ぎ着けました。

もう少し早くに上梓できるものと思いましたが、自分の能力の衰えも然ることながら、キリストの例え話は黙示録について何かを書くよりは余程に難しいことが痛いほど分かる結果となりました。

その語られている内容は幅広く、先の出来事への予告ばかりでなく、人間性や内面の動機、群衆や弟子たちの問題点、聖徒らの試みへの心の準備や迫害への備え、天の王国への理解、キリストとしてのご自身の役割、などなど、教えられている内容の多様さも深さも簡単に説けるものではありません。

これらをそれぞれの場面で次々に語られたイエスという人物は、今は見る事のできない奇跡を別にしてもまったく驚異的というほかありません。この方には一つの確かな方向性、歩む目標が明確にあります。それを「キリストとしての道」と呼んでしまうのは簡単なことですが、その挺身の道程には周囲の様々な人々への慈愛と見事な関わり、常に天界の御父への畏敬と愛着に満ちていることがはっきりとして参りました。
それは、まったく敬服すべき生き方であり、もう何と申し上げて賛辞を送ってよいやら分かりません。
しかも、最後には受難による倫理性の完成と律法を唯一人成就されるという大事業を残していたのです。

加えてキーファ、つまり使徒ペテロという人物に見られる主イエスとの関わりには、何か地上の人々を代表するような人間味があり、彼の実に魅力ある人物像が浮き上がります。彼となされた会話からキリストの貴重な講話が引き出されてゆくところは、ペテロの気取りなく腹蔵なく、また軽はずみなところを含めて、天と地との親密な邂逅を眺めるかのような温かみがあります。

それに引きかえ、比較にする方が無理ですが、この拙作二巻・・ここに書いたことには、もちろん間違いやおかしなところが無いとも限らないのですが、とりあえず自分の思うなりに「キリスト語録解説」をまとめましたので、今はほっとしたいところです。
こうして二巻分で34話を含めましたが、まだまだイエスの言葉は続いていて、特に終末関連のものが残っております。
これらにつきましては、今後「終末」に関する一書も構想しておりますので、そちらの出来具合を見た上で第三巻にかかるものかを再考しようと思っております。

平素よりブログ等、閲読くださいます皆さまには、このように何度推敲しましても、まことに読み辛い拙文で、何事も一人で行っております関係で不備もあるかとは存じますが、ご一読賜れますなら幸いです。キリスト教というものの高さ、広さ、深さに思いを馳せ、皆さまと共有できますよう念じます。

それにしましても、電子版でさえ一冊仕上げるのに老いた心身を削るものです。しかし、紙媒体も忘れてはおりませんので、もうしばらくお待ちくださいますようお願い申し上げます。



第二巻収録の項目は

1 .幼子のようにならなければ
2 .二人か三人が集まるところには
3 .赦さなかった僕の例え
4 .ペテロに託された鍵
5 .大勢が東からも西からも来て
6 .羊の囲いの例え
7 .悪い耕作人の例え
8 .盛大な婚宴の例え
9 .魂を殺すことのできない者どもを恐れるな
10.ミナとタラントの例え
11.座って費用を計算し
12.駱駝が針の穴を抜けるようなもの
13.小麦と毒麦の例え
14.十人の乙女の例え
15.羊と山羊とを分けるキリスト
16.不正な管理人の例え
17.成長する種の例え
18.道であり、真理であり、命である

以上18項目でA5版202頁

いつの日か紙媒体でも出版するつもりでおりますが、しばらくお待ちいただきたく存じます。

今後は、新十四日派としての教本、終末解説本、綱領便覧などを構想しており、随時必要に応じて綴るつもりでおりますが、何かご要望の向きはどうぞお知らせ願います。
(ただ、本人にその才また体調が適えばとはなりますが)

斯様に稚拙な書き物にも関わらず、ご辛抱のうえ閲覧くださってこられました皆さまには深く感謝申し上げます。



林 義平







新刊 「キリストの例え話」 第一巻

2020.05.16 (Sat)

このたび以下の「キリストの例え話」まず16話をまとめて第一巻として発刊する運びとなりました。
本書は、教会で曖昧にされ、キリスト教徒の間で誤解もされてきたキリストの言葉の幾つかを、能う限り検証し、その意味を問い直した研究成果の集積を公表するものです。

以前に書き貯めた文面を推敲補筆などして書き改め、新たな記事を加えて、これだけはと思える例え話と意義深い言葉を取り挙げてまとめ、書籍の体裁を与えましたところ、300頁を越えて400頁の本になる勢いで、それでも最低限を網羅できたものかもわかりません。

例え一巻_表試_底画_名入_挿画300





キリストの例え話、また語られた言葉に込められた意味の深さと数多さには目を見張るものがあります。
それらの数々を、メシア=キリストはその公生涯の間に呼吸なさるかのように次々と語られていたことにはまったく瞠目させられるばかりです。

これまで、それらの例えや、僅かな言葉の中に秘められた事柄を、聖書を中心にしつつ、歴史やユダヤ教の史料をも探索し、その意味を探ってまいりましたが、この十年にわたってそれらを書いてまいりました蓄積と、最近に書き足したものとを合わせてゆきますと、相当な分量になることが見えてまいりました。

つい先週までは、キリストの例えと言葉の解き明かしの試みとして、全24話を想定していたところですが、福音書をあちこち渉猟しておりますうちに、それだけでは到底収まるものではないことにいよいよ気付かされ、圧倒されるほどになった次第です。

それは使徒ヨハネがその福音書の結びで述べている言葉、『イエスが行ったことは他にも数多くある。それらのすべてが書き記されたなら、その書物はこの世界でさえ収められないだろう』。との一文が脳中に響いて離れないほどのものとなりました。

あれもこれもと、このまま筆者の微力を尽くしてでも書き貯めてゆくだけでも、まだまだ多くのことが湧いてくるかのようで、今週には30の題目に達して、なお他にも見当たるところが幾つかありまして、これではいつになったら出版にこぎつけるものかという不安を感じるところにさえなりました。

つきましては、「キリストの例え話」との書名のままで、とりあえず二巻に分割し、15話ほどをまとめてまず一冊を発刊することを思い定めました。

目次の記事の順は、二巻に跨って、読み易く内容も平易なものから、次第に神の奥義に関わる事柄に進むよう配慮いたします。

・ 第一巻の内容は 

1.よきサマリア人の例え
2.種まく人の例え
3.あなたがたは世の光
4.放蕩息子の例え
5.あなたがたの義がパリサイ人に勝らなければ
6.水と霊から新たに生まれる
7.あなたがたは地の塩
8.後の者が先になる 賃金の例え
9.枯れたいちじくの木
10.からしの木とパン種の例え
11.ゲヘナの裁きを逃れられようか
12.富んだ者とラザロの例え
13.神の王国はあなたがたのただ中に在る
14.あなたの罪は赦された
15.人の子は安息日の主
16.わたしと共に集めない者は散らす

まず電子書籍として出版し、遠からず追って紙本を追加したく思います。
紙媒体をご希望の皆様には、恐れ入りますがいましばらくお待ちください。


筆記いたしました者としましては、分冊にすることはあまり意に染まないところがあります。
といいますのは、記事の並びに従って内容も深度を増すよう、一応の工夫はできていると思われるからです。
しかし、紙媒体での厚すぎない手軽さも、本の機能の良さと思われ
あるいは、今後第三巻を追加する場合にも、分冊が有利かと思われました。

しかし、福音書に、ここまで意味深い事柄が、しかも次から次へと現れる言葉の重み、言葉に込められた奥義の深さは、かの黙示録さえも斯くやと思わされることもしばしばで、まことに畏れ多い驚異の連続であります。
これはけっして刊行に当たっての自画自賛などではなく、本当にそう痛感し、人知を超えた秘儀、文字通りの神韻渺茫に触れる思いです。
それをこうして拙い文書にたどたどしく書き連ねるような汚しを敢えて冒すのも、世には余りに知られずにいると思われてのことからでありまして、筆者の訥弁は何卒ご容赦願いたく存じます。

ともあれ、ご一読いただきたく、ここに出版をお知らせ申し上げます。
ご一読賜りますなら、取り組んだ心身の痛みも癒される思いです。




コメントを下さったみなさま

2020.04.29 (Wed)


拙文をお読み頂きましたうえ、励みあるご感想や、ご要望を戴きありがたく存じます。

本ブログ記事のこの場を通しまして、感謝申し上げます。

筆者は、健康思わしからず、一文を書きますにも難儀するようになってきております。

そこで、拙文ながらもご評価賜りますことは、まことに嬉しく存じます。

然りながら、幾つかお返事を略させて頂いておりますことをお許しください。

さて、昨今の世相には容易ならぬものがありまして、皆さま共々健康への一層の気配りを要しております。

皆さまはじめ、閲覧に来られますところのすべての方々にも

この禍いの中、くれぐれもご自愛なさいますよう願い申し上げます。


エイレナイオス



新十四日派の皆様へ連絡記事です

2020.02.06 (Thu)
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Category: 未分類

新刊「イサク献供に至るアブラハムの信仰」

2019.11.01 (Fri)

「イサク献供に至るアブラハムの信仰」
 -その心の軌跡を辿る-

創世記前半に在って一つの頂点を成すアブラハムによる息子イサクの神への献供は、信仰の勝利とされる一方で、実行に至らなかったとは言え、衝撃的な子殺しでもある。
実生活的感覚からすれば、息子の供儀などは到底受け入れられるものではないので、親の立場からも子の立場からも一般的共感を得ることはまず無理である。

では、神はただアブラハムに息子を殺めることを求めたのだろうか?

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この難問を巡り、ユダヤ教のラビ「教師」には、イサク献供の要求は神からのものではなく、悪魔のしたことであるとする向きが強い。
ユダヤ教との関連から生じたイスラームにしても、彼らのイブラヒームの息子の献供にもやはり悪魔の誘惑を示唆するところがある。

カルト宗教などはその異例さを利用して、信者から命を含めて何もかも奪い取ることを正当化しようともするかも知れない。
あるいは、この記述を以って聖書とその神、また信仰というものの評判を貶めようとする誹謗者も居ないとも限らない。

だが、アブラハムの記録は創世記の第11章の末から第25章にまで及んでおり、それ以前の原初史の分量をも越えて、詳しく描き出される彼と神の交渉、イサク献供に至る数十年間に亘る語らいと行動とを俯瞰すると、献供の場面だけでは見えない背景を見出すことになる。

そこに単なる人身御供の要求もなければ、子殺しを躊躇わない残忍な宗教狂いの父親像を見ることにもならないのである。

本書は、前二十世紀というほどの太古の事情に鑑みつつ、アブラハムと荒野の神「エル シャッダイ」との格別な交流を通じたアブラハムの心の軌跡を辿りつつ、共にあのモリヤの山に思いを馳せる試みである。

異教を報じていたメソポタミアの一遊牧民テラハの息子アブラムが、繁華な都市の偶像神とは異なる、荒野の神「エル シャッダイ」と出会い、残りの生涯をどう過ごしたのかを熟考することなくして、イサク献供という創世記に記念碑的にそそり立つ一つの頂点の価値をおぼろげながらにも感じ取ることは不可能というべきであろう。

本書をお読みになる方々が、彼と共にユーフラテスを渡るかのようにして、ついにあのモリヤの山へと生涯の道を歩むアブラハムに共感されるなら、それは筆者の本懐とするところであり、真に幸いに思う。


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という紹介で"amazon"から電子版をまず出版しました。

これは2016年に、”quarutodecimani のブログ”上で、三部の記事にしたものを幾らか調整したもので、この書の意義は、アブラハムのイサク献供(けんく)が、創世記の22章の当該部分からばかりで理解しようとすることの限界を説いている点にあります。

この「限界」を超えたところにある「信仰」というものが、神との邂逅によってはじめて生じること、しかもそれは固定されたものではなく、神との交流によって変化し、大樹のように育ってゆくものであることさえ視界に入ってきます。

アブラハムの信仰は「ご利益信仰」や自分の義やステータスを飾るような、ありきたりの「信仰」とは明らかに違います。また聖書の理屈を納得するばかりの「信仰」という一方通行とも異なるものです。

もちろん、聖書の記録を読むとき、神と人との関わりの過去を知らされるにせよ、実際に信仰するのは識者でも宗教家でもなく、他ならぬ、その人そのものなのであり、それは神との関係性によって個々に異なるものともなり、それは神との何らかの邂逅を通した生きたものとして様々な実をならせることでしょう。
数十年の間に育まれたアブラハムの信仰という大樹が結んだ実はどれほどのものであったでしょうか。

今日、神の声を聞く事も、キリストの監臨も聖霊の降下もないにせよ、創造の神は全ての個々の魂である人に顧慮を払われます。その神を聖書の中での人との関わりの例を知り、まだ見ぬ人を文書で紹介されるかのように事前に神を思い描くことは出来るのであり、またそれをはっきりと神が各個人に表される終末をいつの日にか迎えることにもなるのでしょう。

そこで信仰の偉大な先人の生涯に、その神との関わりに学ぶところは真に大きいものがあります。
また、彼の神「エル・シャッダイ」、そして後には[YHWH]と名乗られた創造の神のアブラハムに対する言葉と行いとを通して、今でも神の特質と想いの一端とを味わい知ることは可能であり、それだけでも大きな意味をそれぞれの個人にもたらし得るものです。

ささやかながら、本書がその一助になればと願っております。





電子版「閉塞してゆく現代を原始キリスト教が解き明かす」刊行

2019.08.18 (Sun)

この度「閉塞してゆく現代を原始キリスト教が解き明かす」をアマゾンから電子出版いたしました。

(これは、かつて原稿を書き貯め2016年に「いま、なぜ原始キリスト教か」という表題で23章186頁に仕上げてDLマーケットから出版していたものに数章を加えて新たに26章266頁に改めたものです)

幸いに、特には宣伝もしない内から購読して頂きました方々がいらっしゃり、アマゾンの宗教部門の新刊のベストテンに入ったとの知らせは、ギリギリでしょうけれども、それでもまったく予想外のことで、ご購読頂きました各位には誠にありがたく感謝申し上げます。

Primitivechristianity
  A5版 doc.266頁 ¥473
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その内容についていくらかご説明しますと・・

地球規模に何か不気味な異変があちこち感じられる今日、それが人間が原因を作ってきたのかどうかさえ議論されてはいるのですが、それでもそうした兆候は弱まることもなく、次第に容易ならぬ規模に広がっております。

さまざまに対処を唱える人々が警鐘を鳴らす一方で、経済活動を優先しなければ明日の生活が成り立たない現実、また膨大なエネルギーを消費しつつ利潤を追求し続けなければならない企業の事情、諸国家の利害の衝突など、この世界は危機を感じながらも身動きがとれないでいます。

この事態は、代々にわたる人間の行動の積み重ねの結果であれば切羽詰ってから対処するのも困難なものであり、この危機を脱することが可能であるかどうかについて、識者の語るところはそう心強いものではないようです。

難題に直面したときにはその原因をわきまえることが何より必要ですが、人間社会の表層に現れる事態の原因に議論は有っても、より深い原因、つまり人間の性質に由来するものについては、誰が問題にするということもないのはどうしたことでしょうか。

それは人間の不倫理性なのですが、いまさら、この危急の事態に立ち至ってしまえば、却って根本的原因をどうこうしている時間もないと思えるのかも知れません。

しかし、人間のこの不倫理性である『罪』が歴史上人々を苦しみ続けた挙句に、不倫理性の存在そのものが問われる時が来ることを知らせて来た書物が古来から有ったのです。

しかし、人々は「ご利益」を望んで、世界で最も頒布されてきた貴重な情報を伝える書物の価値を悟らず、そこにある人類の救済を特定の宗教信者たちだけの至福に置き換えてきてしまいました。そこにすら貪欲な願望、不倫理性が付いて回ります。

ですが、その聖なる書に記された数々の事柄の意義の重さが理解され、人々が自らを省みるだけでなく、自分という存在の意味をも知るべき時が来なくては、この書が世界で最も頒布されたものとなる意味もなかったことでしょう。

その書「聖書」には、世の終りつまり「終末」が到来すること、また、その時に何が知らされ、それがどれほどの変化をもたらすかについて、再三に記されており、そうである以上、終末にはそこに書かれた意味が知らされ、広められるべきことになります。

もちろん、今回出版されたこの本が、それを成し遂げるわけもなく、終末には神からの啓示が聖霊を介してキリストの初臨のときのようにあまねく世界に知らされると聖書にはあります。

それでも、この予備的理解さえまるで無いところに神の啓示も下賜はされないことでしょう。
なぜなら、その価値も悟ることのない人々が、その啓示を荷うことは考えられないからで、それゆえにも神はシュメール期の太古から、つまりアブラハム以来数千年の時の流れを通して漸進的にその目的を知らせ、キリスト後に至ってその知識を体系付け、なお将来の終末に明かされるべきことまでも含んで聖書を綴じたからです。

そこで、この危機の時代が終末の到来を意味するのであるなら、やはり、予備的理解が少なくとも存在しているべき理由があることになります。
そして現在、その終末が近付いているのかも知れず、また、そうでないのかも知れません。
いずれにしても、終末という時を迎えるのであれば、聖書に語られてきた数々の重い内容はいよいよ開示され知らされる必要があります。

西暦前八百年ほども昔から、終末期に現れる『シオンの残りの者たち』と呼ばれる一群の人々がいて、来るべき事柄に備えることが予告されています。新旧の聖書の記述を総合すると、彼らの先立ちが終末の到来を呼び込むことを教えています。これは、御利益信仰に堕した「キリスト教」からはけっして聞かれる音信ではありません。では、それはこの時代に『シオン』と呼ばれる彼らが形成されて現れるということなのでしょうか?

本書は、キリスト教の背景の有る無しに関わらず、この世の有様を憂う方々に向け、本来あるべき姿のキリスト教というものが、窮境にある人類の問題ある姿を映し出す鏡であることを知らせるよう試みるものであります。

それによって、人は自らの真の問題を知り、今何をなすべきかを考えるきっかけを得られるかも知れません。

もし、微力を尽くして出版しました本書が読者のみなさまのお役に立てますなら大いに喜ばしいことです。

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加えて、アマゾン・プレミアム会員では、「読み放題」の中に三か月毎にに含まれるとのことです。
この電子版は価格450円を頂いております。
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閲読するには、「キンドル・電子書籍リーダー」なるアプリケーション(ソフト) をご使用のパソコンやスマートフォンなどに取入れる必要はありますが、ネットに接続していらっしゃれば、直ぐに利用できます。
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さて、本当に現代はどんな時代に至っているのでしょうか。
終末が近いのかも知れず、そうでないのかも知れませんが、もし終末が近いのであれば、それが分かってから聖書を開き始めるのではほとんど意味を成しません。
特に、『聖霊』という次なる啓示が降るとき、その価値を悟る人が誰もいないのであれば、人間とは何と無益な存在なのでしょうか。

「新十四日運動」は、未だ何を行っているでもありませんし、日本の各所にほんの五人で年毎の「主の晩餐」を守っているに過ぎません。そのほかに身体的事情でその儀式も行えないながら、広報を支えて下さる方もいらっしゃいます。これらの方々の賛同は、この私がどうのというより、よほど価値の認識に於いて意義深く刻まれるものとなることでしょう。(ルカ18:8)









再刊 「聖書に流れる神の意志」

2019.06.10 (Mon)

昨年、DLマーケットが閉鎖、終了に至った関係で、刊行中の書籍類の提供が滞っておりまして、ご希望の方には申し訳ありませんでした。

その後、「パイデイア」と名付けるつもりの、特に新約聖書部分に注力した文書を書き上げようとしておりましたが、それにしましても、もう半年以上も提供不能になった状況に気が引けましたこともあり、いつの間にやら電子出版の環境も急速に向上して参りましたので、この度、通販大手の「アマゾン」を通して再発行することに致しました。

これがご要望を戴きました方々に幾らかでの便宜となりますなら幸いに存じます。
なお、紙本につきましても、ご提供できますよう検討するつもりでおりますが、しばらくのお時間を猶予下さいますようお願い致します。

今回、アマゾンから以下の「聖書に流れる神の意志」(85p)をとりあえず再刊致しました。
この教科書は大掴みに聖書の全体を把握し、その根底を流れる『女の裔』、つまりエデンの園で予告されたキリストによる『神の王国』へと結実する最も重要な事柄、使徒たちが『奥義』と呼んだ人類救済のあらましを知ることを目的としたものです。

つきまして、対象とします読者層は、初歩的なキリスト教学習者で、求道中の方々や教会員の聖書探求意欲にも答えることを目指しております。

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各章の構成は以下のようで
第一章 神とは誰か
第二章 「女の裔」イスラエル
第三章 キリストの教え
第四章 終末のキリスト

それぞれがの章の中は4~6の§に区分され、各区分の後に設問があり、それに答えることで学習効率を高めることができるでしょう。

今日のキリスト教の趨勢は、圧倒的にニカイア信条にある「教会のキリスト教」である状況下で、原始キリスト教の教本となれば、おそらくは日本語であるこの一書のみであるかも知れません。
教会の方々の中には「聖書を読むとわからなくなる」と言われる向きもあるとのことですが、一度、原初的キリスト教の解説を覗いてみることは無駄にならないことでしょう。

分厚い聖書を読み進めるにしましても、全体を通底する事柄を念頭に置くことは、読まれている部分への洞察を高める観点を得ることになり、理解を大きく助けるものとなるのを実感されるものと存じます。
その点で、お役に立てますなら幸いです。


なお、アマゾンからの入手につきましては、顧客としての登録が必要とはなります。
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みなさまのご利用をお待ちしております。







聴くに堪えぬもの

2019.02.10 (Sun)

「人類史は神の意図を成し遂げるためのプロセス」

「キリスト教は世界観であり歴史観」

「一度救われた人は、永遠に救われている」

「自分が救われたのは神が永遠の昔から計画されていたこと」

など・・

とても信じること以前に、到底納得が無理である。人種差別よりもひどい個人差別ではないか!
これでは神に一貫する経綸の意志なく、聖書には人間のための主題のみがあると言っている。
人類は敷かれたレールの上を走っているだけなのか?
それにしては酷い境遇ではないか? 神は人を混沌の中に投げ込んで試すか?

「聖徒」の理解が無いために、信者も教師も聖徒の高められた『初穂』の立場を自分のものだと思い込むことで、神の裁きと王国の観点が失われており、聖書の知識を無にするどころか、真逆の方向に誘導しているうえ、その究極目標がボケている。いったい何のためのキリスト教なのか。


パリサイのように、様々なキリスト教の解釈士たちは、聖書の字面を追って解釈することそのものに思考労力の大半を割かれて、その多くの知識が人にとって何を意味することになるかは然程考えないように見える。
だが、それこそ最も重要なことではないか。

キリスト教とは畢竟「倫理」であり
それも単なる道徳でもご利益目的でもない。
「神の基準に則して生きる」など初めから無理であるからこそキリストの犠牲を要したではないか。

キリスト教の教える倫理とは、自分が神を含む他者とどう関わるのか、どう関わりたいと思うのか
それがすべての個人に問われる決定的な時を「終末」として迎えることではないか。
神の裁きの日に各人が避けられない「エデンの問い」であろう。
「信仰を持ったら救われる」というのでは「終末の裁き」を無視させることになる。

聖書を知ろうとする人々は、強烈な誘惑に遭っている。
「ご利益」によって利己的になるよう誘う「教え」がまかり通っているのだから。
知識や信仰がその人を他と異ならせ、神の是認に入れるだろうか?

「信仰を持ちました」「バプテスマを受けました」
それで「救いに入りました」「内住の聖霊に導かれ、安心して地上生涯を全うできます」と

あり得ない!
それはそもそも倫理にもとることである。
キリストの現れた時のユダヤの前例を見れば
むしろ神はその傲慢を裁かれるのではないか?

聖書の言葉の数々を、あらぬ方向に投げ飛ばしてしまう解釈の原因は
自分たちの幸福や利益を探して、そのために聖書を読むという貪欲ではないか。
聖書そのものはそのような精神を示していない。
すでに、キリストの公生涯と犠牲の死を知ったときに、その教えがご利益目的ないことを悟り
心して聖書に向かうべきだったのだ。

人は幸福になろうとして宗教を信じようとするとよく耳にするが
はじめから全能の神が人々を幸福にできないはずがなく
それに反して、現に諸苦満ちる『この世』が空しいのには、よほどの意味があってのことに違いない。
人はその意味を、神の意図をこそ探り出すべきであるのに、自分の救いばかりを願っていて良いか。

神の要求と思われた割礼も律法の業もユダヤ教徒を救わなかったように
同じく洗礼も信仰もクリスチャンの救いの根拠になるまい。
なぜなら真の信仰とは、聖霊の奇跡による神との邂逅と聖徒への支持を要するのであるから。
聖霊の奇跡を見聞しないところに真の信仰も無い。

知識には傲慢、浸礼には慢心がつきまとう。
人には信仰の動機までは見えずとも、神には見える。
『その内面がどうかを見るからだ』

また信仰とは、つまり「倫理」が試されるところの「エデンの問い」への根源的な回答であり
それは信じるか否かの外見をまといながらもそれを本質とはしていない。
まさしく他者へのヘセドとアガペーが問われる。
これが即ちアダムがエデンで選ばなかった「倫理」なのだ。
愛こそが倫理であり、他者と関わりながら生きて行くべき道である。
然るに倫理不全の人類が永遠に生きるに値しないのは当然ではないか。

人はみなが神の前にキリストの犠牲を要する『罪人』であり
道徳性の多少の違いが生活に出ているばかりのこと
我々が持つもので、真実に善なるものは愛のほかには何もない。
まして、何かの宗教に帰依したからと創造の神が是認を前倒しするだろうか。

では、キリストの王国の到来と贖罪は誰のためか。
聖徒理解の不足は、利己心を誘う。
また、知ったと思えば慢心もする。

それを巧妙に利用して益に与るのは誰だろうか。
人が集まるところに財が有り、そこに禿鷲もいる。






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