FC2ブログ

預言者に石を投げる現代の宗教家

2019.05.28 (Tue)


これはキリスト教に限ることではないのですが
宗派の創唱者には陥り易い罠があります。
つまり、自分を過大評価することですが

問題の発端は、自分が格別の人間であると思い込むところにあります。
また、そうでも主張しないと信者を得ることもできないという事情が有ってのことかも知れません。大衆には傑出した人の現れを好むところがあり、ただの人でもそれらしくさせてしまう力を発揮するもので、その人に架空の人格さえ与えることがあります。
もちろん、新興宗教では一人を偶像視することが典型的ではありますが、誰かを特別視することでは、その宗派の頂点をグループが構成していてもやはり変わるところがありません。

おおよそ新興宗教では、何かの教えに時流に乗る魅力があって、人気を博しては教勢を拡大する時期が続いた後に、いずれ停滞期を迎えることになります。
その停滞をもたらす原因には、誰かを偶像視する無理や、教えの不合理さ、信者の良識の無さなどが祟って世間に醜聞が漏れ、やはり只の人を信者たちが担ぎ出していた現実が露呈することもあるでしょう。

理想を夢見ていたにも関わらず、実はその宗教が特に格別ということもなく、信者はもとより、教祖も同じ人間であることの証拠をじわじわと並べられることにはなるのです。

しかし、熱心であるほどに信者の多くはそれを認めるわけにゆきません。それ以前の自らの崇拝活動も信心も否定するということが、ほとんど自己人格の否定に近い損害を招くからで、信仰していた年月や、注いだ犠牲が大きいほどに、生き方の修正はそれだけ困難になってしまい、恰も政治家たちが不正行為を為したことを認めるのが築き上げた立場上から困難であるように、信者も信仰していた宗教の醜聞などを認めて道を改めることなど、余程に謙虚な人でもなければできることではありません。

古くて非常に大きな宗派であれば、まだいくらか正直に対応もできるところでしょう。永い歴史の中で多くの醜聞を既に曝して来た以上、今更何かを隠して却って不評を買うほど自らが改善されていないことを曝して信者を落胆させ、現代までも続く弊害ある宗教としての価値を疑われることを避けるためです。しかし、そのような宗派ですら自らの組織体を十分に省み、隠蔽体質を免れているかといえば、そうも言い切れないようです。

まして新興宗教系となりますと、組織体が小さめのこともあってか、信者への情報統制によって自派の格別さを装い続けることが内部だけでもできるものなら、それで済ませてしまおうと指導層は思い勝ちのようで、「インターネット上の情報は信頼できない」と特に強調する傾向が各派に揃って見られます。

しかし、それでは情報を判断する能力や見識が信者の間で育たず、イエスが取り柄もない田舎のナザレから来たこと、安息日に癒しをしたからということで奇跡の徴をも退けたユダヤの常識に従ったような近視眼的な人々を作っていることになるでしょう。
イエスをメシアとして受け入れたのは、宗教家のようではない民衆であったのは、そこに自然な感受性が働き、優越的な固定観念からは解放されていて、自らメシアの現れを判断することができたからではないのでしょうか。

そこで宗教家が恐れたのは、民が強力な大衆性を発揮して、イエスを先頭に立てて団結されないことであり、それはロバに乗った王としてのイエスを歓呼して迎えるという誰が統率したでもないセレモニーへの強い不服を言い表したところに明らかです。
宗教家の面子はまったく潰され、民への影響力は自然に失われました。


その点では、教理の正統性をふりかざすキリスト教の宗派の大半は誉められたものでもありません。
まさに信者を「教理の隷属」に置いて、多様な情報を取り入れて自ら判断をする自発性を抑制しているからです。

指導層は、それぞれの派に何か忌々しい問題があろうとも、神に導かれているのであるから「いずれは神が正して下さる」と信者たちが考えるように誘導しています。
それは古代のユダヤが律法に従わず、悪行が蔓延った時期があったにしても、それによって彼らが契約の民であり続けたようにです。
ですが、この考えには大きな無理があります。

まず第一に、ユダが神殿もろともに滅ぼされバビロンに捕囚になったようなことを自派に認められるというのでしょうか。
当時の指導層が徹底的な糾弾に曝されたのであれば、現代のその宗派にとって、いったいどれほど損害をもたらすことなのでしょう。

そのうえ、神はイスラエルの罪を指摘するために預言者らを遣わし続けたのですが、新興宗教の中にそのような厳しい通告を行うような人が存在できるものでしょうか。

こうした預言者たちについてイスラエルがどう反応してきたかを再考するなら、どれほど現代の新興宗教の数々に似たことが起っているかに気付かされずにはいられません。

エルサレムについてイエスは『自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ』と呼びかけ、殉教者ステファノスには『あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が一人でもいたでしょうか』と糾弾の声をあげているように、契約の選民であったにも関わらず、ユダヤの宗教指導者らは神の是認には程遠い状態であったのです。

そのため、遣わされた預言者たちは命の危険に曝されていたのであり、彼らが迫害された理由といえば、宗教指導層にとって都合の悪い存在であったからなのです。
指導者らに神からの譴責の言葉を聞くだけの潔さなどは期待もできなかったのも、本来、改善を求める声を聞く耳があったなら預言者の必要もなかったからでしょう。

イエスの時の書士やパリサイ人らは、自分たちの父祖が殺めた預言者たちの墓を飾り立て、『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことなどけっしてしなかった』と言い合っていながら、実は約束のメシアを殺害に追いやるという父祖たちにまさった悪行に手を染めようとしていたのです。
これはその父祖らに勝る悪業、偽善の上塗りでありました。

そこで当然ながら、古来、預言者たちは体制派からは現れていません。体制を批難する側に立って語ったから当然でしょう。
迫害に直面する彼らが、法の保護から押し出され「アウトロー」とならざるを得なかったのも宗教体制派がまったく邪悪で、悔いることを知らない者らであったからに他なりません。

偉大な預言者エリヤが忍んだ境遇も、預言の内容が体制派に都合悪くエレミヤが何度も囚われ、イザヤなどは鋸引きで命を落としたとも伝承されているのですが、そして今日、宗派の信者の囲い込みや、指導層の権威を守ろうとする新興宗教の中枢も然して変わらないでしょう。

宗派の問題を最も的確に暴くのは、けっして宗教団体の指導層ではなく、外部の人々、特に元信者であるのですが、この人々を忌避などし、発言を封じるために信者との交友を禁じて、家族であってさえその接触を断つというのは、現代の迫害に等しく、真に問題点を指摘できる人々を排除し、自らを省みる機会を拒絶するということでは『預言者に石を投げている』のと同じことではありませんか。これは人間共通の陥り易い弱さでしょう。

しかし、それでいったい誰が益に与っているというのでしょう。
家族親族の関係を寸断し、交友を禁じて職にまで障碍を置き、そうして自分たちの宗教の改善の機会さえ放棄しているではありませんか。守られるのは指導層と組織体の体裁ばかりの近視眼的施策であり、もはや人々を導く度量などはありません。

そのうえ宗教指導者が自ら預言者を自認しているとすれば、それはイスラエルに現れた預言者の働きを一向行えない「無意味な預言者」にしかならないでしょう。神は人を超えるからこそ、預言者が興され、人の至らないところを指摘するからです。本来、預言者とは、そうお目出度い存在とはいえません。

しかし、新興宗教のシステムは大抵はそうでありません。
「いずれは神が問題を正すはず」と言いつつ、問題を指摘する本質的に預言者の役割を務められる人々を黙らせ、人権さえ損なっている姿は、キリストに糾弾されたユダヤ宗教家のものであり、それは人を虐げているばかりか、古代と同様に神に向かって不敬を行っており、やはりキリストはそれを是認などなさらないのではありませんか。もちろん「聖霊が語らせる」わけもありません。

あちこちの宗派から聞かれる幼児への性的虐待の醜聞は、実におぞましいこととは言え、もはやどんな宗教団体であれ完全に免れていると主張する信憑性は無くなっているかのように見受けられます。おそらくは、それは宗教の問題をこえて、人間自身に宿る邪悪さのひとつの表れなのでしょう。
そうであるなら、宗派の面子に拘るべき理由もありません。人間共通の悪に対し、迅速で適切な対応を取る以外の何があるでしょうか。

逆に、宗派の権威のために覆い隠しているなら、その愚行はやがて白日の下にさらけ出されると見るのが当然ではありませんか。
それが衆目を集めることになれば、もはや主張するキリストの教えとやらも色あせることでしょう。

それに加えて、中間幹部の横柄さは、その宗派の指導部の性質の反映というべきでしょう。
多様な宗教の多くが幹部を優遇するのは、中枢の指導を末端まで行き渡らせるのに必要不可欠だからであり、その報酬として権威の分配が行われています。
つまり「偉くなりたい」「人を従わせたい」「誉められたい」などの悪魔的欲望を遂げるのを代償に、信者たちを支配し偉ぶることを内々に奨励することにより中枢の指導層と中間幹部の思惑は一致を見ることになるのです。中間幹部が尊大であれば、いよいよ頂点の指導層の偉大さが増し加えられるからです。

そうして自分の永遠の命が確保できたと思えば、その信者は欲のままに進んで、命の次には権威を望み、いよいよその正体を見せることになるでしょう。その教えがはじめから欲を煽ったものであったのならそれも自然な流れで、名前のほかにはキリスト教とは特に関係もありません。

人が自分の偉さを実感する方法は「人々に規則を細々と与え」、自分は「出来るところで恣意的に振る舞う」ことであると言えましょう。古来「小役人」が民衆に嫌われてきたにも理由があるのです。やはり宗教団体でも幹部が専横に振る舞っているという情報には事欠きません。
これをペテロは戒めており、『主要な牧者の現れるときに誉められることを目指す』よう解き勧めているのは、まさにこうした逸脱についてのことでしょう。

ですが、このペテロの言葉に従えるとすれば、その人は権威主義者ではない違いなく、自分のために上の位を望んでいるような野心家であるはずがありません。それは余程に利他的な人であり、まず少数派であり、そのうえ地位を得るどころか端に追いやられるような『幼な児』のように純真な人でありましょう。つまりは、まず居ないということです。中でも才能に恵まれた人であれば、野心家の陰険な策略に無策で曝され、害を受けることにもなるでしょう。

しかし、他者を押し退け、役職に貪欲で、特権意識に燃えているような人が権威を得るのが世の常であり、いったいどんな宗教がこれを免れていることでしょうか。つまるところ皆「世のもの」言う以上にありません。自然とそうなるのであり、内心の野心を禁じる方法が人には備わっていないからでしょう。
まして、それを気にもせず、幹部の地位欲しさの特権意識を煽っているようであれば、その結果はどんなものになるのでしょうか。

「いずれ神が正してくださる」と言いつつ、預言者に相当する知恵ある人々を「背教者」のレッテルを貼って駆逐する実行犯は、この幹部たちの役割であり、実に最初に石を投げ始めるのが彼らでしょう。
しかし、宗派の悪行を「いずれ神が・・」と一般社会が許すものでしょうか?そういう信者たちも幹部と同罪という以外に何と言えるでしょうか。幹部をはじめとして指導者も、そして一般信者までが一緒になって的確な批判者に向かって石を投げていることでしょう。

他方で、聖書はイスラエルやユダヤの悪行の顛末を包み隠さずに記録しているのであり、その正直さと新興宗教諸派の対照からすれば、どこかが根本的に異なっていると判断されるべき理由があることになるではありませんか。

聖書の中で、異教を避けるべきことは書かれていても、神からの都合の悪い情報を遮断したのは、その語るところを預言者もろとも消し去ろうとした宗教指導者であったのです。
そして預言者とは、常に中枢からは現れなかったのです。なぜならサンヘドリンのニコデモスの例が示すように、問題提起は外から起こされなくてはろくな改善も望めません。しかし、人同士は互いに異なる意見を尊重し、情報を交換してこそ健全な方向に少しでも歩めるからなのです。それこそが「人はみな不完全」と認めることでしょう。

批判にも様々なものがあり、的外れなものがあるにしても、なお傾聴に値するものを見分ける価値観や良識こそが指導層に求められるものでしょう。(箴言13:10)
その賢さを投げ捨て面子に拘っているなら、いずれは「預言者の墓を飾る」ことになるでしょう。その人々にとって預言者には飾りつけられた墓の中でいつまでも静かに眠っていて欲しいのです。 古代も 現代も、人々は倫理的に改善もしていませんから、時代も宗派も様々ながら、石を投げつけるところは何も変わりません。(マタイ27:52)

そのうえ終末が到来して、真実に聖霊で語る人々が現れるとすれば、その人々がやはり石を投げつけられるのは目に見えています。
そして加害者らは、その正当な酬い、いや二倍を受けることになるでしょう。『聖なる者たちの血に酔う』からです。
この偉ぶりと面子へのこだわりが、終末に『大いなるバビロン』と変じさせる元凶となるのでしょうか。

人に悪を行わせるのは、「間違った聖書解釈」でも「間違った宗派に入った」からでもなく、ただ、その人の悪の傾向そのものでしょう。
その人は、何を信じようと、何を行おうと、その人となりを変えられるでしょうか。「新しい人格」の表面を装ったところで、アダムからの罪を免れているなどと思ってよいものでしょうか。
いえ、誰であれそう思うのはまやかしに過ぎず、自分の悪への警戒を怠ることになり、そのうえキリストの犠牲の大きさを知らないと言っているのと同じです。



トラックバックURL
http://irenaeus.blog.fc2.com/tb.php/237-b7f28d1a
トラックバック
コメント
まるでjw組織の事を言われているようです。
聖書を読んでいるとこれは自分に当てはまるとか、自分の組織のこと述べているとか、今の世の中の事を言っている感じることが多々あります。jw組織の出版物や集会で扱われる内容も聖書預言がどのように我が組織に成就したかとか、生活や宣教でどのように聖書の教訓を当てはめられるかという視点でなされますので、聖書を自分や組織中心に考えてしまうのかもしれません。
一世紀の宗教指導者が自身の誇りゆえにイエスを頭ごなしにメシアとして認めなかったように、自身の宗派が唯一真の宗教だという考えの中では同じ轍を踏みはしないかと思えてなりません。
組織が行なっている情報統制も信者は神からの指示とみなしていますので神に忠実であることを何よりも重要としている人にとって、他の情報を取り入れることは反抗そのものなのです。しかし聖書では片一方の言い分だけで物事を判断しないようにと教えているのです。
しかも以前の宣教学校の教科書にも論駁する話をする際には相手の見解を十分知る必要があるとあるのにです。
この組織で教える立場にある兄弟がニコデモのように聖書の原則にそって物事を見ようとする態度のほとがいてくれる事を願うばかりです。

ヨハネ16の中には聖なる者が会堂から追い出されるというか記述があります。私は少なからずキリスト教組織の中から、真の崇拝を求めようとする人たちがこれから出てくるのではないかと思えます。イエスは火を投じるために来ると・・・。これが聖霊が働くことによって生じる分裂や争いのことであれば。

羊を殺す牧者を糾弾する記述がある一方で、羊を集めるとの約束も見られます。楽観はできないにしても、私は自分も含め多くの人が羊飼いの声を聞き分けられるようにと願っています。
k・f | 2019.05.31 20:19 | 編集
管理者にだけ表示を許可する