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主の晩餐 2021年3月26日夜

2021.02.28 (Sun)
『主の晩餐』を行うニサン14日が近づきました



『主の晩餐』とは、キリストが地上で過ごした最後の夜の食事において、イエスが命じられた唯一の定期儀礼を指し「復活祭」でも教会の「聖餐式」や「聖体拝領」とも異なるものです。
この儀式が陰暦14日に行われるべきことから、「新十四日派」と名乗る由来が込められており、使徒ヨハネの指導を受けた原始キリスト教「十四日派」の再興を図る上での最重要な儀式です。

その晩は、律法に定められた『過越の祭り』を行うべき夜に当たり、ユダヤ陰暦ではニサンの月の14日であり、現代の暦では毎年の三月から四月にかけての期間のどこかに迎えることになります。その夜に最後の晩餐の席にあったキリスト・イエスは、自らの死を予見して、出エジプトの夜を記念する食事から、新たにキリストのエルサレムからの出立を記念する儀礼を創始されました。

今日までパリサイ派であるユダヤ教徒が今年3月27日の夜、つまり「ニサン15日」に『過越し』の食事を行いますので
キリストと使徒たちがその前夜に『過越し』を行ったように3月26日の夜に『主の晩餐』を行うなら
当時に同じく、イエスの一行がしたようにユダヤ体制派に一日先んじてニサン14日を記念することになります。

この一日の差が、ユダヤ体制派が出エジプトと同日にメシア=キリストを屠り、出エジプトの子羊と『世の罪いを取り去る神の子羊』であるキリスト・イエスとの関連を作り出しました。このずれは神意に違いなく、当時までにユダヤ人の間で過越しの期日に混乱が生じていたからこそ、開かれた道であったと言えます。
そのようにメシアは、ユダヤ体制派からのはげしい敵意の中でこの儀礼を創始する場を守られたのであり、使徒二人に『水瓶を運ぶ男』を見つけるよう申し付けたところに祭司長派とその手先となっていたイスカリオテのユダへの秘匿性が表れています。イエスはこの機会を特に待ち望んで来られ、十二使徒は一人を除いてメシアの試練を共に耐え、天界での次なる会食が約される場面ともなりました。その間『神の子羊』であるイエスを屠る算段が外では進められていました。
ですから、『主の晩餐』を行うべき日付は、常にパリサイ派ユダヤ教徒の過越しの食事の一日前を守るべき理由があり、天文に従って算出するべきものとはいえません。それはユダヤ人が守る『過越し』の晩であるべきであり、太陽年の同日を求めるのは、ニケア公会議からの悪習であり、新旧の聖書の奇跡の連携を断つものというべきでしょう。

元々の『過越の祭り』とは、古代エジプトで奴隷にされていたイスラエル民族が、神の奇跡の数々を通したモーセとその兄のアロンのファラオとの交渉によって、ついにエジプトを出発する前の晩に起こった第十番目の奇跡と出エジプトを記念する年毎の祭礼でありました。
その晩には、各家庭で一頭の子羊が屠られて、無酵母パンと苦菜と共に晩餐にされたのですが、その血は、家の戸口の鴨居と柱に塗り付けるよう神は命じていました。
その夜、災いをもたらす天使が戸口の血を見ると、その家には害を与えずに過ぎ越していったので、害は儀礼を行わない家々に臨み、ファラオの宮殿も例外とはならず、皇太子の命も失われることになり、ついにファラオもイスラエルの出発を認めざるを得なくなりました。

そのときの子羊の血が、後の『神の子羊』キリストの犠牲の血を表していたので、出エジプトとキリストの最後の食事とが深く結びつけられています。その場でイエスはユダヤ教徒として『過越の祭り』を行うと同時に、新たな儀礼を創始されていました。
使徒たちを通して以後ご自分の死を記念して行い続けるようイエスは命じられ、それは後に『主の晩餐』と呼ばれるようになり、初期のキリスト教徒たちによって、ユダヤ教徒が『過越』(ペサハ)を行う時期に合わせて、ニサンの月の14日に入った夜に行われていたことを、最後に残った十二使徒のヨハネの弟子たちが伝えています。
それについては、第二世紀にエフェソスの指導者(エピスコポス)であったポリュクラテスの書簡に、彼らがユダヤ人の過越しを守る日に準拠させて『主の晩餐』(パスカ)を行っていたことが記されています。(教会史5:24)⇒ 翻訳

ついにイエスが命じられた定期儀礼は、この『主の晩餐』だけとなり、クリスマスのようなものはローマ帝国の国教となるまで存在もしていませんでした。太陽暦の12月25日はローマ帝国で祝われていた太陽神の復活、また農耕神サトゥルヌスの祭日として広く庶民に守られていたものですが、ローマの庶民がキリスト教に改宗するに当たってそのまま取り入れられたものです。
『主の死を知らせる』べき『主の晩餐』が「復活祭」に入れ替えられ、ローマ帝国で法制化されたのも第四世紀以降のことで、ユダヤ教と祭事を同じ時期にするのを嫌った諸国民派のキリスト教徒の慣行からきたものです。

元々はユダヤ教を土台としているはずであったキリスト教が、次第にユダヤ人信徒を失って、すっかりヨーロッパの宗教となった背景には、ユダヤ人のほとんどにキリストと使徒たちの教えが根付くことがなかったところに原因があり、使徒たちを受け入れた異邦人たちは、律法に固執するユダヤ人の頑なさ、またしばしばキリスト教徒の迫害に加わる姿を見ては、ユダヤ嫌悪を強めてしまい、キリスト教はまったくユダヤ教と異なる宗教となってゆきました。

ヨーロッパがそれまでの様々な異教からキリスト教に改宗するに従い、それまでの異教の習慣や祭りが「キリスト教」に混じることになり、特にキリスト教がローマ帝国の国教とされた西暦第4世紀以降には、旧約聖書に属するヘブライ文化は影を潜め、代って当時に流行していたヘレニズム文化がキリスト教の土台とされます。

ヘレニズムとは、アレクサンドロス大王の東方遠征の結果として、古代ギリシア文化が中近東のアジア文化と混じりあった文明のことで、ユダヤ人も影響を受けていたものの、本来のヘブライ文化とは異なるものであり、ヘレニズムは異教の神秘主義が色濃いものです。

そのため、キリスト教は基礎にするべきユダヤ教からの貴重な教えを捨てて、異教神秘主義を土台に据えて、別の宗教として再出発することになりました。そこで12月25日の当時の太陽神の誕生日であったローマ帝国の祭りは、そのままキリストの誕生日とされ、ヘレニズムに良く見られた三つの顔を持つ神々の影響は「三位一体」としてキリストや聖霊も神に祭り上げられるのを許しました。つまり、崇拝する神までが入れ替えられてしまいました。

キリスト教がヨーロッパ的な宗教に質を変え、他方でユダヤ教がモーセの律法に留まり続けたため、旧約聖書と新約聖書は緊密な一致を持つものでしたが、教えに分断が起ってしまい、キリスト教徒は旧約に関心が薄く、ユダヤ教徒は旧約の意味を解き明かす新約を無視しています。これではキリスト教の教会で学ぼうと、ユダヤ教の会堂で尋ねようと、どちらにも聖書全体を一貫して知る環境になく、ほとんどの場合、現在も実際にそのようです。

キリストが最後の晩餐の席で創始した『主の晩餐』にしても、ユダヤ人はいまだにパリサイ派であり続け、彼らの伝統に従い、旧約聖書に定められたユダヤ陰暦のニサン月14日の晩ではなく、翌日15日の晩に『過越し』の食事セデルを行っています。
そこに一日の違いがあったために、イエスは正しく出エジプトの日に相当する14日に『神の子羊』として屠られる運びとなりました。まさにユダヤ教徒は今日まで、その一日のズレをパリサイ派として継承し、21世紀に至るまで15日から祭りを始めることで、イエスをニサン14日に処刑したことを今も証し続けていることになります。

他方で、キリスト教徒と言えば、『主の晩餐』を出エジプトで屠られた子羊がキリストを指し示していたことを尊重もせず、ユダヤ教を嫌うあまりに、厳粛な『死の記念』をキリストの復活にちなむ「復活祭」に仕立て上げ、目出度い祝祭としてしまいました。しかし、新約聖書は『主の晩餐』がキリストの『死を告げ知らせる』ものであると教えています。それはキリストが死を前にした晩餐であって、復活が起きた日曜日の昼間に行うものではなく、酵母入りのふっくらしたパンを用いるものでもありません。

こうして、イエスの命じられたままにキリストの死を記念する『主の晩餐』をニサン14日の晩に執り行う人々はすっかり絶えてしまいました。それはユダヤ教はもちろん、キリスト教であっても新旧聖書についての一貫した教えから離れてしまった表れと言えるほどです。

出エジプトの晩餐とキリストの最後の晩餐とをつなぐ聖書に明らかにされている事柄は、深遠で意義深く明らかに人間が考案できるようなものでもなく、あらゆる物事を自在に操る神の意図と業を示しているのであり、そのものが一つの奇跡であって、人はそこに神の偉大さへのおそれと、人類の罪を負うために犠牲を決意したキリストへの敬意を示すべきものであることは明白です。

この『主の晩餐』は、その儀礼において、無酵母のパンと赤ぶどう酒を食べまた飲む人が、すでにキリストの贖いを受けていて、『新しい契約』に含まれ、聖霊を注がれている聖徒であることを聖書は示しています。(ルカ22:20)
その契約は、『天の王国』をキリストと共に相続するキリストの『兄弟たち』、つまり真の『アブラハムの裔』に属する人々を召し出すという、極めて重い意味を持つものであり、人類すべての希望がそこにかかっています。

それは単に「信者がキリストと結ばれる」というような「おめでたいもの」ではなく、キリストと共なる道を歩む人々が厳粛な自己犠牲の精神の決意を新たにするものであり、他方でアブラハムの子孫イスラエルでないわたしたちは「諸国民」として、その重大な儀礼の場をしつらえ、キリストの再臨がいつ起こっても良いように待次ものです。初臨のキリストは確かに『わたしはすべての者に言う、いつも見張っているように』と命じられました。そのキリストが自ら命じられた唯一の定期儀礼をまもらずにいるなら、それはキリスト教信仰を抱いていることになるでしょうか?

ですから、使徒の時代の後に聖霊が注がれた人々が去って、すっかり絶えた後の千八百年ほどが経過した今日、キリストの肉と血を象徴するパンとぶどう酒を食べまた飲む人はいませんが、それでもこの儀礼の準備を怠りなくするべき重い意味があるのです。(しかし、いずれは聖霊を注がれた人々がそれらを飲食する日が来るでしょう)

キリストが再び到来される「終末」、つまり『この世』が終わる時には、再び聖霊を注がれ奇跡の言葉を語り世界宣教を行う弟子、つまり『聖徒』が現れることはイエス自身が再三に語られたところです。
加えて『主の晩餐』は、『主が到来するときまで』行われるべきことを聖書は教えます。即ち、この儀礼を地上で行っている間には『神の王国』は未到来である明白な証拠でもあります。聖徒が天のキリストの許に召され揃わないなら『天の王国』も建国されないからであり、その前に聖徒は『新しい契約』を地で全うし「キリストの道を歩む」試みを受けねばなければなりません。(コリント第一11:26)

イエスは、いつになるか分からない再臨に備えるよう弟子たちに命じて、『主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたなら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている者たちのようであれ』と言われます。(ルカ12:36)
それは初臨のときのような聖霊の降下をもたらし、そうして『義』の仮承認を受けた人々が再び生み出されることでしょう。
しかし、地上の誰も命じられたただ一つの難しくもない儀礼さえ守らないとすれば、人間とはそれほどの神の善意に値するものでしょうか?それはアブラハムの信仰の前に恥ずべきことです。彼は何を捧げようとしたのでしょうか?その行いによって彼は神が御子を犠牲にするに足りる者が地上にいることを示したのです。

これまでのキリスト教界は、そのように準備が出来ていることを示してきたかと言えば
主人が戻ったときに、すぐに受け入れられる状態というものは、使徒の時代のキリスト教がある程度は回復されていなければならないことでしょう。
キリスト教界の現状はとてもそのようでものではありません。

キリスト教で唯一の定期的な儀礼として残された『主の晩餐』という、キリストの犠牲の死を記念すべき崇拝をさえなおざりにしているのであれば、キリストの再臨に備えているとは到底言えません。

もし、聖書に述べられた内容に、人がもたらすところを遥かに超える価値を見出し、神からの言葉と類い稀な意志とを悟り、神と子と聖霊とに信仰を働かせるのであれば、年に一度の『主の晩餐』を行わずにいられるものでしょうか。

今日、依然として聖霊が降下していない中で、パンとぶどう酒を食べまた飲むべき人は居ないとしても、その食事の席をしつらえて、主人であるキリストの帰られるのを待ち続けるのは、原始キリスト教に信仰を同じくする者の務めです。
ユダヤ教にもキリスト教にも、また世界を見回してもそのように主人を待つ者がいないとすれば、人間とは何と救いに価しないものでしょう。この世に差しのべられた唯一の救いの手にだれも応じていないのですから。

信仰の無い人が、『主の晩餐』の席を整えないからといって咎められもせず、罪を負って滅ぼされるでもないのですが、心に信仰を働かせている人が出来るのにそうしないのであれば、その無頓着さは神の偉大な意志とキリストの崇高な犠牲を卑しることにならないものでしょうか。
神もキリストも信仰を強要することはけっしてありませんし、カルトの教祖のように横暴に支配することもありませんが、では、人は何もせず、ただ救いを待つのでしょうか。それは神の側を落胆させることになるでしょう。
イエスが『人の子が来るときに、はたして地に信仰を見るだろうか?』と問われた一言に世界はどんな答えを示すものでしょうか。

『この世』からの救済に信仰を抱く人であれば、キリストの最後の晩、それはユダヤ体制派の祭りの前日、『準備の日』のことであったのですから、来る3月26日金曜日の夜をどうに過ごすかに注意しないでは済まないことでしょう。
もし、『主の晩餐』を行うとすれば、それはまた最後の十二使徒ヨハネの薫陶を受けたかつての十四日派の二十一世紀に於ける復興を意味し、キリストの命じたまま出エジプトに当たる夜に『主の死』を記念する者が現代によみがえっていることを示すことになります。
それは『来りませ、主イエスよ』と天に呼びかけるものであり、苦しみ満ち空しい世から『神の王国』の到来を願い求めていることを表すものともなります。

3月26日金曜の夜を聖なるものとして無酵母パンと赤ブドウ酒を前に、飲食することなく一定の時を取り分けるなら、それは神の御前に、地に待つ者がいることを表します。儀式のそれらしい次第は聖書にありませんが、パンを(できれば12切れに)割り、ぶどう酒を(できればゴブレットに)注ぎ、聖書のヨハネ福音書の14章から17章のいずれかを読み、神にキリストの再臨を請願し祈り、いくらかの神聖な時を過ごすことができましょう。

原初キリスト教回帰の信仰を抱く皆さまが同夜を共に記念できますよう念願しております。


エイレナイオス



無酵母パンのレシピは ⇒ こちらを
全粒粉の小麦粉は、大き目で商品数の多いスーパーなどには置かれております
酵母を入れなければ、あるいは白い小麦粉でも構いません
無酵母パンを焼くのは捏ね台となるテーブル、延べ棒、ボールか鉢、フライパンとガス台などの加熱器があれば一時間ほどで作れます
赤ぶどう酒は、できれば混合されたものでないものがよろしいでしょう


なお、当日この儀礼を行われた方には、人数と都道府県名など、ご一報頂き、お互いの喜びに加われますなら幸いに存じます。
ご連絡には、このブログのコメントもお使い頂けます。(管理人にのみ表示をお勧めします)






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「聖書とキリスト教を知る」新十四日派教本

2021.02.17 (Wed)

この度、新十四日派としての教理教本を発刊するに至りました
「聖書とキリスト教を知る」と題し
「キリストはなぜ到来したか」を当該一冊目の副題とし
新十四日派の教理の基礎を周知するものです


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amazonから発刊

電子版なので、この通販サイトに登録し、Kindleの読み込みアプリを介し
ログインすればどの端末からでもその都度読めます
クレジットカードを使わずにも購読できるとのことです
コンビニ決済、ATM、ネットバンキングなどの支払い方法も選択できるようです。⇒アカウント作成方法


諸教会の一般の方々への教理教育が意外に整っていないという実情をあるようで、このような「教理本」を「教会のキリスト教解説」と見られるところがあるかもしれませんが、これらは原始キリスト教に基く教えを解説するものでありまして、一般的な教会の教理の解説をお望みの方には向くものではありませんのでご注意願います。

さて、「新十四日派」と銘打って新しい聖書理解をSNS上に公開して十年以上が経過しておりましたが、キリスト教には初心者である読者を対象とした明確な教本は初めての公表となりました。
その間、創世記から黙示録までに込められた教理教本を仕上げなかった理由には、聖書の黙示や預言の終末への視界がいくらか途切れていたところがあります。

何らかの仕方で教程本を作る方法もあったのでしょうけれども、これまでの自分の経験からするなら、聖書全体の理解が一応は一巡しないことには、先端的理解が分かると同時に基礎に近いところまで見直すような影響を及ぼすことが時折ありましたので、近年ようやく聖書理解が一周したかの感があり、今の時点で、ようやくこの書を出版するのは遅いようでも慎重を期して良かったのではとも思えるところです。

当然ながら霊感を受けて書いたのでない以上、新十四日派の教理としたものがそのまま正しいという確証もなく、また教本とはいえ子供にも分かるものではありませんが、平易な言葉を用い、蓋然性の高い事を取り上げ、省略できるものを大胆に捨てるつもりでは書あります。結果140頁程度の手頃な分量で、とりあえずの基礎の網羅として落ち着いたと思えるところです。

聖書にもキリスト教にも関心をお持ちの方でも、部分的な講釈ではなく、全巻にわたって首尾一貫した理解を願う必要にお応えできれば努めも報われるところです。ここに込められた内容は、人生訓や処世術のようなものではなく、まったく『この世』という人間の生まれ落ちる不条理で空虚な世界を糾弾するものです。そこに神の摂理など存在もせず、悪魔の言いなりになって利己心が横行し、創造の意図から逸脱している労苦の獄屋であり、人はみな出エジプトの時のように解放を待つ『罪』の奴隷です。

この前半の書では、人間という存在に苦難がついて回る根本的原因から解説を始め、早くもエデンで語られた解決のための神の手立て『女の裔』を巡って聖書が展開してゆくところを解説します。
この一冊の本だけでも、千年期に至るまでの概要はつかめるよう編集してあります。
アブラハムへの約束、モーセの律法契約、捕囚と回復、バプテストの現れとユダヤへの裁きの予告、キリストの到来と働きの意義、聖徒らに受け継がれたキリストの業、キリストと聖徒らによる『神の王国』の支配と贖罪、霊と魂の意味、信仰とは何か、など基礎的な項目は網羅しました。
聖書の概要を一通り知りたい読者の必要に応じられるよう願っております。


これらの内容は2020年秋から、エイレナイオスのブログ上に掲載してきたものに
二章を補筆、全体に訂正を施し、セクション分けをしました。
(紙媒体の場合には、もう少しの工夫をしたいとは思っております)

聖書とキリスト教を知る
- キリストはなぜ到来したか -


1.キリスト教の目的
§1.「この世」とは何か - 5 -
§2.神とは何者か  - 7 -
§3.人間の抱える問題とキリスト - 9 -

2.『罪』という死の原因
§1.悪に傾く危険性 - 11 -
§2.究極の倫理的選択 - 13 -
§3.悪魔の素性 - 14 -

3.神の人類救出の手段『女の裔』
§1.ヘビを無に帰させる何者か - 19 -
§2.死後の世界を吹聴する悪霊 - 20 -
§3.信仰の人アブラハム - 22 -
§4.国民となるイスラエル - 25 -
§5.不信仰から捕囚とされる - 27 -

4.メシア=キリストの現れ
§1.神の沈黙が破られる - 30 -
§2.『新しい契約』を仲介するメシア - 33 -
§3.律法をただ一人成就したメシア - 37 -

5.天に建てられる『神の王国』
§1.「天国」ではなく『天の王国』 - 41 -
§2.ユダヤ人のただ中に来ていた王国 - 43 -
§3.真のイスラエルを集めるキリスト - 46 -

6.俗なる「世」と聖なる「安息」
§1.俗なる『この世』の始まり - 51 -
§2.空しい世の人生 - 57 -
§3.安息日の主であるキリスト - 60 -

7.子羊の犠牲による祭司団の現れ
§1.エジプトを出る『過越し』の食事 - 65 -
§2.神に買い取られた人々 - 67 -
§3.『神の子羊』イエス・キリスト - 70 -

8.キリストの贖いによる聖霊降下
§1.聖霊とは何か - 75 -
§2.様々に働く霊 - 78 -
§3.注ぎ出された奇跡の聖霊 - 81 -
§4.聖徒の身分を証しする聖霊 - 83 -

9. 『火のバプテスマ』に焼かれるユダヤ
§1.籾殻を集めて焼くキリスト - 88 -
§2.キリストに予告された滅び - 91 -
§3.律法体制の過ぎ去った後に - 96 -

10.聖徒と信徒
§1.アブラハムの裔と諸国民 - 102 -
§2.大祭司キリストと共に働く祭司団 - 104 -
§3.キリストと聖徒たちの千年支配と贖罪 - 108 -
§4.神の名を唱えて救われる - 113 -

11.『魂』として保存される人類
§1.動物にもある『魂』 - 117 -
§2 血で表された『魂』 - 118 -
§3. 神はすべての魂を所有する - 121 -
§4.神が悪や苦を許している理由 - 125 -

12.信仰というもの
§1.濃い暗闇に住まう神 - 128 -
§2.主の僕は争わず - 131 -
§3.神と子と聖霊 - 133 -



以上、上巻 全141頁


なお、同じ「聖書とキリスト教を知る」の表題で、終末の黙示や預言の指し示す将来の「終末」を扱った「下巻」に相当する「再臨のキリスト」と副題するもう一冊も続けて発刊の用意を進めております。

こちらは、上記の上巻が初臨のキリストの意義を伝えるのに対して、それを鏡像のようにしてキリストが再臨するときに何が起ると聖書が述べるかに焦点を合わせており、二冊が対になるものです。

本来は「聖書とキリスト教を知る」と題する一巻の書とするつもりで、厚手にならず150頁ほどのものを目指したのですが、最低限必要を思われるものを網羅しようと書き進む内に、300頁近くなってしまうようになり、「手軽で読み易い」という当初狙ったコンセプトから逸脱してしまいました。やはり教科書は読みやすく薄い方がありがたいものです。

一応は全体像をレジュメにまとめて書き始めたのですが、書き進む内に思わぬ方向に筆が進み出し、気づけばキリストの初臨と再臨とではっきりと二分される内容となったことから、ふたつの書に分ける事と致しました。

下巻の内容は、黙示や預言書を包括的に扱い、新約との関係性を終末の出来事に組み上げたもので、筆者の十年以上にわたる聖書探求から、能う限り凱旋性の高い事柄をまとめております。
とはいえ、未然の事柄が内容ですので、独断とならぬよう仮定文を多用しましたが、もちろん筆者としましては、慎重を期したつもりではあります。
然りながら、今後の次第では何か変わる可能性もあり、その点、分冊であることが有用となるのかも知れません。それにしても、類を見ない終末理解の全体像ではありますが、ほとんどの箇所で複数の聖句や史料を支持を根拠としましたので、まったく的外れとはならないことでしょう。

こちらも加え、みなさまのご購読とご感想など頂けますなら幸いに存じます。

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こちらは現在準備中で、3月中に上梓できるものと思われます。



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救うために来るキリスト

2021.01.09 (Sat)


「キリスト教」とは、イエス・キリストに倣う教えであることはもちろんですが、それを一言で表すとすれば、何と言えるでしょうか。

『神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである』とはキリスト教徒の間でよく知られた言葉で、ヨハネ福音書の第三章十六節にあります。

確かに『この世』は、アダムの罪によって作り出された『空しい』世界ではあります。しかし、そこに生まれて来たすべての人が『アダムと同じ罪を犯してはいません』。(伝道1:1/ローマ5:14)
アダム以後に命を得た人々には、悪魔の道に入るかどうかは依然として問われていないので、死者について使徒パウロが言うように『人間にはただ一度死に、その後に裁きを受けることが定まっている』のであり、人は皆が『罪』のない状態に復活して、無垢であったアダムの状態で試される必要があります。それによって『愛』を選び取り、他者とどのように生きてゆくべきかを弁えなくては永遠に存在する理由もありません。(ヘブライ9:27)

そして、終末に生きている人々については、『生きていてわたしを信じる者は、だれも決して死ぬことはない』と言われたイエスの言葉のように、復活を経ずに生きたまま再臨のキリストに試され、『神の王国』の支配する地を受け継ぐことになるでしょう。(ヨハネ11:26)

ですから、アダムの子ら以降今日まで人々は、だれも神の創造物としての試みを経ていないことになります。例外があるとすれば、それは亡くなった過去の聖徒たちでしょう。義なるキリストの仲介する神との契約により、聖徒たちは地上にいる間から『神の子』と仮承認されていたからです。彼らが天に召されるときに、その復活そのものが、裁きを通過したことの証しとなることでしょう。(ローマ8:14-17)

ほかのすべての人々については、それぞれに『愛』について神とどう関わるかを別に問われなくてはなりません。それは神に服従するかどうかということではありませんし、道徳的であるかどうかにも関わりません。親が子を無条件に愛そうとするように、神は一人一人に出来る限り命を与えようとされることでしょう。

神がカナン人の崇拝や習慣を嫌ったことは明らかではありますし、荒野をさすらうイスラエルの弱った人々に残忍な攻撃を仕掛けたアマレク人を神が呪ったとはいえ、その一人一人はやはり神の創造物であり、復活に価しないとは言えません。神はこう言われます。
『わたしは邪悪な者の死をさえ喜ぶだろうか。むしろ彼がその行いを離れて生きることを喜ぶのではないか』。(エゼキエル18:23)
この言葉を証しする例が、旧約聖書の中にも散見されます。

例えれば、ヒゼキヤの王位を継いだマナセ王ですが、彼は律法を守ることなく父王ヒゼキヤが壊した異教の祭壇を再建し、先住のカナン人をも越えて悪を行い、加えてバアルを崇拝し、自分の息子さえ火に落とし、エルサレムを罪のない者たちの血をおびただしく流した極悪人でありました。(列王第二21:1-)
彼の甚だしい悪行を見た神YHWHは、ユダ王国のバビロン捕囚を決意し、それは遂に翻ることがなかったのです。

ところが、YHWHがマナセを罰し、彼が異国で獄につながれると心を入れ替えたように変わり、大いに謙ってYHWHに祈りを捧げるようになったのです。その悔いは本心からのものであったのでしょう。ユダ王国のバビロン捕囚の意志は覆ることはなかったものの、YHWHはマナセの変化に目を留め、彼をエルサレムに戻して王位に復帰させています。確かにひどい悪人ではあったのですが、YHWHは彼が以前に犯した多くの殺人を含む重罪を赦しています。人がその思いを改めるとは、神の前にこれほど価値のあることなのです。(歴代第二33:12)

また、その以前の時代には、イスラエル王国の王アハブが挙げられます。
このアハブがフェニキアからイゼベルを娶って、イスラエルにもユダにもバアル崇拝を広めさせた元凶なのですが、YHWHは預言者を送り、何度も道を改めるよう促していましたが、遂にYHWHは彼を罰することを告げ、エリヤを通して彼の王朝を終わらせ、その子孫も絶え果てることを伝えると、アハブは悔いの表明として上着を引き裂き、粗布を身にまとって憔悴して歩くようになります。

その姿を見たYHWHは、預言者エリヤに向かって『アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか!』と喜々として言われます。
確かに神は、悪人の悔いることを喜ばれ、アハブに告げた王家の終りを彼の次の世代に先送りし、彼にはそれを見させないことにしたのです。(列王第一21:20-)

これらの例は、多くの流血の罪を負うひどい悪人といえども、神がその悔いを見せるところを評価することの証しと言えます。
また、創造の神が人をどう見做しているかについての貴重な情報をも伝えています。
神は、エデンの園で禁断の木を監視しなかったように、自らの『象り』である人の心を自由の内に保って、働きかけはしても強制しません。まして、生まれながらにアダムの罪にある人々には、不道徳性が避けられないことを神は熟知のうえで、それゆえにもキリストの完全な犠牲を人々に備えたのです。(ローマ3:23-25)
そして、そのキリストは『人には、その犯すどんな罪をも神を汚す言葉をも赦される』、また『人の子に言い逆らう者も赦される』と明言されています。赦されないのは聖霊という神の証しを故意に退ける罪だけであり、まず脱落聖徒のような者だけがその罪に裁かれるでしょう。(マタイ12:31-32/ヘブライ6:4-5)

神の慈愛は、様々な重罪を赦すまでに深く、初臨のキリストは罪人や娼婦、また悪辣な収税人たちを退けず、『わたしは義人たちではなく、罪人たちを招くために来た』とまで言われました。この『義人』とは、自分は律法を守っているのだから、当然、神に受け入れられ是認されていると思い込んでいたユダヤ人のことです。(マタイ9:13)
それに加え、イエスは『神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである』と言われたのです。(ヨハネ3:17)

確かに、再臨のキリストはこの世を裁き、多くの人々が命を落とすことは避けられないことです。
しかし、それは人々が道義心や復讐心に燃えて悪人を敵視するようなものではありません。『人の怒りは神の義の実践とはならない』からであり、すべての魂を所有される創造神の見方は、やはり人間の想いを超えるものです。(ヤコブ1:20)
『邪悪な者の死を喜ばない』神は、最後まで悪人に気遣いを示し続けることでしょうし、放蕩息子の例え話からすれば、時には善人以上に気遣うこともあるでしょう。

やはりイエスは、自らの犠牲の死についてこう言われました。
『モーセが荒野で蛇を掲げたように、人の子も掲げられねばならない。それは、信じる者の誰もが、人の子によって永遠の命を得るためなのだ』。(ヨハネ3:14-15)

このモーセの時代、不信仰のために荒野を四十年さすらうことになったイスラエルは、度々に自分たちの境遇に不平を鳴らしていましたが、その旅も終わり近くなって、何十年も食べてきた奇跡の食物マナに不平を言い出し、それに対してYHWHは多くの毒蛇を彼らの中に送って咬ませて罰するということがありました。(民数記21:4)

次々に咬まれて死んでゆく者らを見た民は回心し、『わたしどもは罪を犯しました』とモーセに執り成しを願います。
そこでYHWHは答えて、モーセに銅で蛇を象らせ、それを木に打ち付けて民の間に掲げるようにと命じます。
すると、蛇に咬まれ毒の回る中にあっても掲げられた銅の蛇を仰ぎ見るだけで生き長らえたと書かれています。(民数記21:9)
まさしく、イエスはご自分の犠牲の効力について、この故事に例えられ、人が罪深いとしても、キリストの犠牲に信仰を働かせ、それを仰ぎ見る者には永遠の命を与えると言われるのです。

これらを考え合わせると、終末の大患難にあって、多くの人々の応報の死を神は喜んで見るとは言えませんし、悔いる可能性を残す人に注意深くあられるに違いありません。
「ハルマゲドンの戦い」の後で、洞窟に身を潜め『山や岡に向かって「われわれを覆ってくれ」』と嘆願する人々からも、また最終的な裁きである疫病の死の影に襲われている人々からも、荒野のイスラエル人が毒蛇に咬まれて毒が体に回りつつある中ですら、掲げられた銅のヘビを仰ぎ見るだけで命を長らえたのであれば、ヘビにはるかに勝るキリストの犠牲を仰ぎ見て救われないことがあるでしょうか。
人は皆が同じく「罪人」なのであり、キリストは『世を裁くためではなく、救われるために来た』と言われるのは、このようなことを指すことでしょう。

そして、この点は黙示録にも記されたことです。
ヨハネは天使から次のように命じられます。『わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで崇拝する者たちを測るように」』(黙示録11:1)

これは、来るべき天界の神殿の寸法を測ることですが、同時に『そこの崇拝者を測れ』とも言われました。
聖徒について理解を深めた方には、これが天界の神殿を構成する聖徒たちのことであり、彼らは建物の石が正確に積み上げられる必要から精密に測られ削られているべきことであると理解できることでしょう。
つまり、彼らは『新しい契約』について忠節で清い状態を保ってはじめてキリストを『隅の親石』とする神殿に組み上げられるにふさわしい石材となるのです。(ペテロ第一2:4-6)

しかし、注目するべきはその次の言葉です。
『聖所の外の中庭はそのままにしておきなさい。そこは測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所である。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう』。(黙示録11:2)

かつて地上に存在していた神殿の境内の外側は「異邦人の中庭」と呼ばれ、律法契約にない諸国民も入域を許されていました。ヘロデ王が改築したときに広げられた中庭には、ローマ皇帝も代理人を遣わして自らの名義による犠牲を奉納し、それが焼かれて捧げられる煙をその中庭から代理人が眺めたと伝えられますし、ユダヤに駐留するローマ兵の中にも神YHWHに犠牲を捧げる者があり、新約聖書には、イエスに僕の病の癒しを願って許された百卒長はユダヤ教の会堂を寄進しています。また、使徒ペテロを自宅に招き聖霊を注がれた士官コルネリウスは普段からYHWHに祈り、ユダヤ人に施しをしています。これらの人々を考えると、ユダヤを占領した諸国民であってさえ、神YHWHへの崇敬の念は薄いものではなかったことが窺えます。(マタイ8:5-13/使徒10:1-2)

ですから、ヨハネに話しかける天使が『外の中庭』と言った場所は、契約にはない聖徒以外の大多数の人々のための広場を意味すると考えられ、『そこは測ってはならない』とは、聖徒たちが天でキリストと共になるだけの忠節な行いと資質を問われるのに対し、『新しい契約』になく、むしろ聖徒たちの活動期間の『四十二か月の間』、それを『踏みにじり』反対し妨害する人であってさえ許されることが示唆されていると捉えられます。

そのように逆らった人々からも悔いて神殿の『外の中庭』に集う人々が出るのでしょう。ですから『そこは測ってはならない』のです。イエスの言われるように、『その犯すどんな罪をも神を汚す言葉をも赦される』からでしょう。
ですから『異邦人の中庭』の広さや人を測ってはならないのは、神がすべてを知る能力を持ちながらも、どのような人が、またどれほど人数が是認の内に収容されるかも事前に定められないということです。神は人の自発心からの信仰を望むからであり、エデンの禁断の木を監視せず、王たちの悔いた姿を予測されず、かえって驚き喜ばれる方だからです。
この事では、教会によって聖徒に当てはめるべき聖句を根拠に「だれでも救われる者は世の基が置かれる前から決まっている」と主張する余地はなく、その「予定説」は、神は人の自発心を尊重しないと言うに等しい誤解です。(エフェソス1:4)

しかし神のこのような寛容さは、もちろんキリストも見事に反映しています。
刑場に引かれてゆき、『どくろ』つまりゴルゴタと呼ばれる岡の上で十字架に釘で打ち付け、またその衣服を誰のものにするかとくじ引きしている兵士らに『父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです』とイエスは執り成しの祈りをされました。けっして報復を願ったりはしていないのです。(ルカ23:34)

それから共に磔にされていた重罪を犯していた者の一人も『わたしを思い出してください』と信仰を言い表しました。またイエスが息を引き取った後には、その処刑を指図しながらも起ったことを一通り見ていたローマ軍の百卒長は、『この人はまことに神の子であった』と讃嘆の声を上げています。これらはイエスの寛容さによって成り立った信仰と言えるでしょう。(ルカ23:42-43)

イエスの慈愛ある心は、その弟子にも受け継がれ、後にユダヤの宗教家らに石打刑を受けた弟子のステファノスも息絶えようとするときに『主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい』との最期の言葉残しています。(使徒7:57-60)
その殺害に加担していたパリサイ派のサウルは、その後もイエスの弟子たちには苛酷な迫害者でしたが、キリストからの奇跡の働きかけを受け、やがて使徒パウロとされます。この人物はキリスト教という新たな教えを打ち建て、世界に広めることに於いて比べる者がほかにないほどの活躍を見せることになりました。

キリスト教徒であることに於いて完璧のように見えるその使徒パウロですら、『わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしている』また、『善をしようと欲しているわたしに、悪が入り込んでいるという法則がある』とも告白しています。(ローマ7:15-20)
そのうえ、彼は自分が迫害者であったことに非常な負い目を感じてもいました。(コリント第一15:9)
ですから彼は『わたしはなんと惨めな人間なのか。死にゆくこの体から、だれがわたしを救ってくれるだろうか』と問い、『わたしたちの主イエス・キリストを通して、ただただ神に感謝します』と言うのでしょう。

イエスに感化された罪人には、エリコのザアカイもいます。
収税人がローマの権力をかさに着て、税率以上を取り立て、払えない弱者には貸し付けたことにして、執拗に追い回し、当時のユダヤ社会から見下げられ、ユダヤ教の会堂に出入りして学ぶことは許されていませんでした。
しかし、イエスは最後のエルサレムへの旅の途上で、いきなりに彼の家に泊まると言われます。すると、それを目の前で聞いたエリコの群衆はひどくイエスに落胆せざるを得ませんでした。それほどザアカイは悪名を馳せていたのです。
ですが、その収税人も、メシアと噂される奇跡を行う方イエスを家に迎え、大きく感じ入ったのでしょう。『ゆすり取ったものは四倍にして返します』と言うまでに変わります。それにイエスは答えて『今日、この家に救いが来た』と言われるのでした。(ルカ19:1-10)

このように、キリストは確かに『裁くためではなく、救うために来た』と言われた通りです。ただ裁くばかりであるとすれば、人は誰も神の前に赦されないでしょう。また、神が人の心が行う決定をまったく予知するなら、創造界はただ圧制に落ち込み、人は神の『象り』でなくなり、そもそもアダムも後で変節するのなら、わざわざ創造されることもなかったでしょう。

そこで神の赦しがキリストの教えを形作るのであり、それは終末に在っても変わないに違いないことです。
たとえ、聖徒の迫害に加担し、あるいはその死にさえ責任を負う人であっても、それを悔いるのであれば神は赦されるでしょうし、聖霊の奇跡を通して「次なるパウロ」を救わないとも言えません。
人にとっては怨みがあろうとも、そのような人を神が赦すのであれば、誰もがその人を赦さねばなりません。(マタイ18:23-35)
石打で殺されたステファノスもパウロを赦さないということはもちろん考えられないことです。

キリスト以外、もとより人は皆アダムの子孫であり、神の前には皆が罪人です。
この世に多くの悪行が蔓延り、中には邪悪の極みのような事さえ行われて来たのですが、神の観点から見るなら、いずれもアダム由来の『罪』の行わせたことであり、本来、人は人を裁けません。
ただ、社会の秩序を保つために、人々は法を定め、違犯を取り締まるための権力を必要としてきました。
そこでは、社会一般の善悪規準によって裁かれる必要があるのですが、そうした人間社会での善悪規準と、神の観点とが同じものではないのです。

例えれば、イスラエルがエジプトで奴隷にされていた間に、アラビアにヨブという富裕な人物がいましたが、この人物から学ぶべき貴重な内容が旧約聖書のヨブ記の中に収められています。
彼の道徳性は並外れており、神でさえ『ヨブほど悪を離れ善を行う者もいない』と悪魔に豪語できるほどでありました。
突然の不幸が自分の家族と自分の身の上に生じたときにも、彼は神を一言さえ呪いませんでした。彼は子らのすべてと財産を失ってしまいましたが、そのうえに皮膚に難病を患い、ひどい痒みと潰瘍に悩まされ続けたのです。

しかし、その道徳の素晴らしさは、彼自身も自負するところでした。そこに三人の友人が訪ねて来て、彼に不幸が生じたのは、何かしら隠された悪があるのではないかとヨブを囲んで尋問を始め、ヨブ記はそれを長々と記録しています。

しかし、友人たちの疑いもヨブはすべて晴らしてしまい、彼の道徳性の立派な正義は「自分に不幸を与えた神に非がある」とするところまで進んでしまいます。
ですが、これは間違っています。
人がどれほど道徳的で義に適っているように見えても、やはりアダムの子孫であることには変わりがないからです。
そこでエリフという人物が論議に加わり、ヨブの間違いを徹底的に暴いてゆきます。
『あなたがどんなに正しくても、神に何を与えられるのか。神はあなたの手から何を受けられるのか?』と問われるヨブは、自負する道徳性の限界を言い当てられてしまいます。

エリフほ容赦なく、ヨブの問題をえぐり出し、こう指摘するのでした。
『あなたが悪を行っても、それはあなたと同じ人間に対するもの、あなたが正しくても、それは人の子に関わるだけなのだ』。(ヨブ記35:6-8)

さらに神自身がこの論争の場に大風に乗って現れ、ヨブに問いかけます。
『自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか』。(ヨブ40:8)
これにはヨブも返す言葉がありません。ここでヨブは自分の義への固執が間違っていたことを認めるに至ります。
『わたしは自分の言葉を撤回し、塵と灰の中で悔い改めます』。(ヨブ42:6)
どれほど道徳的であっても、それが神に対して是認を要求できないことを学んだヨブを神は祝福し、病を癒し失ったものを与えてヨブ記は終わります。

しかし、キリスト教界でこのヨブ記は、敬虔な善人であり続けることを勧める書と誤解されてきました。その理由といえば、「聖書は人に善い生き方を教えている」という決め付けから来るものでしょう。
いや、むしろ聖書の意義は、人類の全体を『罪』から救い、創造の神との関係を回復させる計画を知らせ、それがどれほど進展してきたかを教えるものではあっても、誰か個人を善人にならせ、神から罰せられない「正しい生き方」を教える本ではないのです。
これは大いに誤解されています。

逆に、どれほどの悪行を働き、どれほどの害を他の人に及ぼしたとしても、それで神の前に是認される機会をまったく失うこともありません。イエスは赦されない悪行として『聖霊を冒涜すること』だけを挙げるばかりです。(マタイ12:31-32)
ですが、これはどんな悪行をしても構わないという意味ではありません。そうすれば社会からの制裁を受けることでしょう。神は悪行を嫌うとしても、それはまず人間社会の問題となるからで、官憲という『上なる権威』は『いたずらに剣を帯びてはいない』のです。(ローマ13:1-4)

この違いを理解することは難しいことなのでしょうけれども、重要な真実がここにあります。
それは、この世で善人とされる人の善行であっても、それは人々の間で褒められるものであるばかりで、その善良さや正しさのために神はその人を特別に扱う義務を負うことはないということです。

しかし、これは人間の常識を超越しているため、キリスト教に於いてさえ理解されてきませんでした。
「聖書は人に敬虔で善良な生き方を教えている」と決め付け、「神に是認される生き方を送ることが神の意志であり、そうすれば救われる」と考えた人々はキリスト教の歴史上絶えたことがありません。
また、教理を理解し、信仰を持ったなら水のバプテスマを受けると「救われる」という単純な発想で、自分はほかの人々より神に近付いたと考えるのは自由にしても、そこで利己心を煽られてはいないのでしょうか。もちろん、それはキリスト教とは関係のない自負心です。

どこかの宗派に所属すること、また善行を積むことで、神に喜ばれ、または是認されると教えられる人々も少なくありません。いや、ほとんどのキリスト教の宗派はそのようです。しかし、それではキリスト教の真価を知らず、律法に従うユダヤ教から進歩していないというべきでしょう。
さらに「天国と地獄」など聖書にない教理が加わると、自分の周囲の同じ信仰にない人々は「地獄行き」になると思い込みさえしているのが実情ではないのでしょうか。それでは、自分たちは清くて『律法を知らないこの民は呪われている』と言い放ったパリサイ派、あのイエスに最も反発した宗教家らと同じ道を歩んでいるのではないでしょうか。(ヨハネ7:49)

この点で、大洪水を逃れたノアや、ソドムとゴモラの滅びを生き長らえたロトのようなキリスト前の例に目を向け、自分は彼らのような善人であろうと努めることは一種の罠となることでしょう。そのように装うことが本当に『義』なのでしょうか。その動機には何があるのでしょうか。ノアにせよロトにせよ、救われるために善を行っていたわけもないからです。
やはり聖書の示すところ、どれほどの善良さであっても「神の前の義」に達することはありません。それゆえにも「信仰」、つまりキリストの『義』に一心に頼ることではじめて人はキリストの義の中に含められる道がひらかれるのであり、それこそがキリスト教というものです。(ローマ3:22-24)

神がイスラエルに律法を与えたのも『罪を明らかにするため』であったとパウロは教えます。唯一キリスト以外に律法によって自らの義を証した人はいません。それは人の限界を超えた偉業だったのです。では、だれかキリスト教の信者が何かの規則や道徳を守ったから『義人』になれるのですか。(ガラテア3:19/ローマ3:20)
少なくないキリスト教の宗派が信者を獲得するために神の赦しを利用してしまい、「自分たちの教える条件を守るなら救われる」とし、ほかの人々を見下す原因を作って来なかったでしょうか。(マルコ7:7)

しかし、それはまったくキリストの教えとは違います。正反対に間違っています。
キリスト教の本質は『愛』と『赦し』であって、ほかの人を自分の踏み台にして自分の正義を喜ぶことなど、邪悪な方向に進んでいるというほかありません。(ルカ16:15)

そこで、終末の裁きで「自分の義」、人の間では通用するかも知れない「正しさ」などは、神の前にはその人を救うものとならず、むしろ逆の方向、つまり『自分を義とする』ユダヤ体制派に『火のバプテスマ』が降り注いだように、滅びへとその人を誘うものとなり兼ねません。(ローマ10:3-4)
神が人に求めるものは滅びの恐れからの「服従」ではなく、恐れの拘束のない自発的な『愛』であることはまったく明らかであり、『愛する者は神といつまでも結ばれる』とある通りです。(ローマ4:4-5/ヨハネ第一4:16)

ですから、終末の大患難も最後の災いである疫病が人々を裁く中に於いてさえ、『銅の蛇』に当たるキリストの犠牲を仰ぎ見る人がいるなら、神はその人に注意深くあることでしょう。
そして、終末の前からキリスト教を教えられた『シオン』の人々も、この『愛』と『赦し』という神の意志をけっして忘れてはならないに違いないのです。そうでなければ後から悔いて回心する人々の受け皿がありません。
やはり、「人を赦す者は自らも赦される」とイエスは言われます。それこそが神に倣うことなのです。(マタイ6:14)







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大患難をもたらす四騎士

2021.01.06 (Wed)


「大患難」とは、イエスが『終わりの日』について語られた中で、『その日には、それまで起ったことがなく、その後も起らないような大きな患難がある』との言葉からのもので、いつかは分からないながら、かつてユダヤ体制に「火のバプテスマ」が臨んだように、いずれは世界が逃れられない災厄の極まる体制の終わりを指している言葉です。

これに関して『終わりの日』は、神がキリストを介して人々を裁くことを目的としていることが否定できません。
そこには、二つの裁きがあります。
第一は、天に召されるべき聖徒たちを練り清める裁きであり、第二は、その聖徒たちを通してすべての人々がキリストの右と左に分けられる『この世の裁き』です。

そのようにして、神は人類を創造されたままの栄光ある姿に回復するための『聖なる国民、王なる祭司』となる人々を天に選び取って任命しながら、その過程を通し、彼ら聖徒の語る聖霊の言葉への信仰が世界の人々に問われ、『天の王国』の贖罪の祝福に値するかどうかについて、地上に生きるすべての人が裁かれます。新約聖書が「救いは信仰による」と主張するのはこのことを表しています。それは『神と子と聖霊』に対する信仰であって、『終わりの日』に問われる信仰であり、今バプテスマを受けているから救われているわけではありません。

その日には、エデンでアダムが悪魔によって試みを受けたように、終末の人々の前にも試みが許されます。
その試みが聖徒にとっては「迫害」であり、一般の人々には脱落聖徒、特にその中でも『反キリスト』による「背教」が強烈な影響を及ぼすことでしょう。それが神に対抗して立ち上がる人類諸国の権力の集まりが、かえって自壊することに端を発する世界の混沌に至ることを聖書は随所で告げているのです。

『終わりの日』も進み、終局(テロス)が近付くと、聖書中で『マゴグの地のゴグ』とも呼ばれる『不法の人』また『反キリスト』は、その高い地位から諸国の軍事力を集め、いよいよ『天の王国』に信仰を働かせてその側に立っている人々を攻め立てるよう号令を下すことになりますが、これが大患難への入り口となります。

ですが、実はこの攻撃には目標がもう一つあり、それは公には秘められ隠されるため、その相手にとっては思いがけない突然の滅びが襲うことになるでしょう。
その隠された目標が、聖徒たちを妬むあまりに権力をそそのかせて葬らせた元凶である旧来の宗教「大いなるバビロン』であり、黙示録は、この大娼婦が以前には「七つの頭を持つ野獣」を使って聖徒たちを攻撃させたように、その同じ『十本の角』の軍事力によって大娼婦自らが終りを迎えようとしていることを示唆しています。
しかし大娼婦は、『わたしは女王の位にあるし、やもめなどではないのだから悲しみを見ることはない』と自分に言い聞かせる姿も描かれています。ですが、この娼婦はすでに神と何の関係もないことが『騎兵隊』によって暴露されています。つまり、『やもめ』になっているのです。(黙示録18:7)

この段階で、大娼婦の立場は短期間に悪化していることでしょう。その大きな原因となっているのが、反キリストを中心とした脱落聖徒たちの背教、『羊のような獣』が後押しをする宗教合同的な新しい宗教の急成長でもあるでしょう。
黙示録は『獣の数字』について、『羊のような獣』が『その(数字の)刻印のない者には売り買いできないようにした』と告げていますので、『666』を刻印とする『野獣の像』崇拝、つまり反キリストの『背教』の隆盛のほどが分かります。(黙示録13:17)

これに対して、それまでの諸宗教がどう振る舞うのかを黙示録は語っていませんが、反キリスト崇拝にどう反応しようと、例え賛意を見せて迎合しようと、敵視しようと、『大いなるバビロン』への陰謀は水面下で進められ、諸国の軍事力の集合である『十本の角』の攻撃目標は、表向きの信徒攻撃のほかに、この大娼婦への奇襲も練られていることでしょう。

その以前に、反キリストの世界体制への凶兆が『神の怒りを満たした七つの鉢』よって次々に暴露されている中で、大河ユーフラテスも『その水は、日の出の方角から来る王たちに対し道を備えるために、枯れてしまった』とあり、『大いなるバビロン』が多くの信者を失っていることを黙示録は示唆しています。(黙示録16:12)
この『日の出の方角から来る王たち』とは、古代バビロンを東方から攻略したメディア・ペルシアとその連合軍を率いて巨大都市バビロンを一夜で征服したキュロス大王の故事を示唆していることは明らかで、諸宗教からの信者の急速な減少が『大娼婦』という旧来の宗教の没落を招くことは聖書全体の理解からして疑えません。(黙示録17:15)

旧約聖書中には、同じように死を目前にして女帝のように振る舞った前例があり、その名はイゼベルという皇太后で、イスラエルが律法で通婚を禁じられたカナン人のフェニキア出身でしたが、イスラエルの王アハブは律法に構わずイゼベルを妃に迎えてしまいました。この王妃はYHWHの預言者らの多くを殺害させ、一方で嫁ぎ先の首都にはカナンの神バアルの神殿を建立し、フェニキアからバアル神の祭司らを招きました。

その難局の中で預言者エリヤが対抗し、YHWHこそイスラエルの神であることを奇跡によって立証します。
しかし、神の奇跡を恐れぬイゼベルはエリヤの命を狙うのでした。
エリヤは、かつてイスラエルが律法を賜った砂漠の山シナイのホレブの峰にまで逃れてゆきますが、神は彼にバアル崇拝を罰するための三人を示します。それがエリヤの後継者エリシャ、シリア王ハザエル、そしてイスラエルの新王となるエフーです。

女帝イゼベルとイスラエルのバアル崇拝の最期については、新たに神から任命を受けたエフー王の活躍するところです。
預言者エリシャから油注ぎを受け王と宣せられたエフーは電光石火の行動で、イゼベルの息子でイスラエル王となっていたエホラムを一本の矢で心臓を射止め、次いでイゼベルの居る王宮へと進軍します。

息子の死を知ったイゼベルは厚く化粧をし、王族の衣をまとってエフーを出迎えますが、その姿にはいくらの恐れも見えません。
エフーはそれまでイスラエルの戦車隊の隊長でしかなかったのですから、イゼベルの背後にあるフェニキアとの同盟をエフーが必要とすると思い込んだのでしょう。実際、フェニキアの貿易商のもたらす富は絶大であり、地中海の各所に植民地を作ってもいました。

しかし、エフー王の心にはバアル崇拝の根絶という目的があったので、イゼベルにとってその死はあっという間に訪れることになりました。エフーが王宮に向かって「わたしに味方するものは誰か?」と問いかけると、寝返りを望む数人の官吏が顔を出したので、『その女を突き落とせ』と一言命じただけで、イゼベルは王宮から落ちて死んでしまい、野犬にむさぼり食われ、埋葬もできないほどになってしまいました。(列王第二9:37)

その後、エフー王は自分もバアルを崇拝したいからと偽り、バアルの信者を神殿に集めると、周囲に手勢を配置して、中に居た崇拝者を皆殺害させ、バアル神殿を公衆便所としてしまいました。

この故事を念頭に置いて黙示録の大娼婦『大いなるバビロン』を読むなら、そこに重なるものがあることに気付けます。
『大いなるバビロン』も、自分の最期が迫っていることを悟れず、イゼベルのように赤と紫の王族の衣裳をまとって悠然と『わたしは女王の位にある、やもめなどではない』と言っているかのようであり、それがあっという間に墜落死して、犬に食い尽くされるということは、黙示録の『あなたの見た十の角と獣とは、この淫婦を憎み、身に着けた物をはぎ取って裸にし、彼女の肉を食って、火で焼き尽すであろう』の言葉と似ており、旧約聖書をよく知る読者には、この類似には注意を促すものがあります。(黙示録17:16)

黙示録の大娼婦を滅ぼすのは、聖徒を滅ぼした野獣の『十本の角』であり、ここで言う『野獣』というのは、おそらく『野獣の像』のことを言うのでしょう。この『野獣』は宗教化した偶像であるので、旧来の宗教を『憎む』理由もあると言えます。
ともあれ、『大いなるバビロン』の滅びは当事者の予想外に起こり、水の中に石が消えて行くように突然に過ぎ去り、二度と見ることはありません。その滅びのあっけなさは、かつての関係者の驚きと嘆きを誘うほどのものであることを黙示録は強調しています。(エレミヤ51:63-64/黙示録18:9-11,21)

こうして反キリストは、諸国の軍を動員しておいて、王国の信徒を攻撃する前に大娼婦を平らげてしまい、それからいよいよ『シオン』に攻撃の矛先を向けますが、この時までに『シオン』は『神の民』となって、神から何かしら『新たな名』で呼ばれていることでしょう。
世界の連合軍が主要な目標とするのは、神の領域に入ったその民であり、そこを攻撃することが彼らにとって天の神に逆らう方法であり、自分たちの権力を固めるために避けられません。詩編の第二は、逆らう政治家たちの思いを描いてこう述べます。
『 地の諸国の王は立ち構え、諸国の高官らは共に謀り、YWHWとその油注がれた者とに逆らって言う、「われらは彼らのかせを壊し、彼らの縄目を解き捨てよう」と』。(詩篇2:2-3)
このシオンの危機にあって、遂に神はキリストを王として擁立することになります。
『天に座する方は笑い、YHWHは彼らを嘲ける。そして憤りをもって彼らに語り、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる、「わたしはわが王を聖なる山シオンに立てた」と』。そしてYHWHは王としたメシアに命じて言われます『敵のただ中から征服してゆけ』。(詩篇2:5-6・110:2)

こうしてキリストは聖徒たちを率い、地に向かい王権の実効支配のために進軍を始めます。
それはかつて、イスラエル民族が『約束の地』を征服して入植するときに、自分たちに降伏することを願い出たカナン人の街ギベオンを他のカナンの諸都市の連合軍から救うべく、一晩中の行軍を続けてまでギベオンの異邦人を救おうとの熱意を見せたときの姿に重なるものがあります。(ヨシュア10:1-)

イスラエル軍はギベオン救出に間に合ったばかりか、敵対したカナンの諸都市連合の軍勢を打ち破り、カナン平定の基礎をも築くことまで出来たのです。
神も天からこの戦いに加わり、カナン連合軍は混乱に陥ったうえ、天から大石のような雹を降らせて敵兵を打ち倒したのですが、『剣をもって殺したものよりも、雹に打たれて死んだもののほうが多かった』とヨシュア記は伝えています。(ヨシュア10:11)

それでも、戦いが夕刻まで続いたのですが、イスラエルは敵軍に十分な勝利を挙げられず、そのまま夜を迎えれば、闇にまぎれて逃げる敵軍が、再び陣立てを建て直す機会を与えてしまう心配がありました。
そこでイスラエルを率いるヨシュアが空に向かって『陽よ、ギベオンの上に留まれ、月よ、アヤロンの谷にやすらえ』と叫ぶと、『陽が天の中空に留まって、急いで没しなかったこと、おおよそ一日であった。これより先にも後にも、YHWHがこのように人の言葉を聞き入れられた日は一日とてなかった』とあります。(ヨシュア10:12-14)

もちろん、天文学からすれば到底有り得ないことでしょうけれども、聖書にはそう書かれています。
しかも、それは聖書中にもう一度示唆されてもいるのであり、それはやはり終末に関わる預言書の中、エルサレムが大きな地震に見舞われる日を予告したゼカリヤ書はこう述べます。
『あなたがたの神YHWHは来られる、もろもろの聖なる者らと共に来られる。
その日は、冷えて固まるもので満ちる。そこには連続した長い一日があるがYHWHはその日を知られる。これは昼でもなく、夜でもない。夕暮になっても光があるからである』。(ゼカリヤ14:5-7)

これは「ハルマゲドンの戦い」を指すのでしょうか。ゼカリヤは続けてこう記します。
『エルサレムを攻撃するもろもろの民を、YHWHは災いをもって撃たれる。すなわち彼らはなお足で立っているうちに、その肉は腐れ、目はその穴の中で腐れ、舌はその口の中で腐れる。
その日には、YHWHは彼らを大いにあわてさせられるので、彼らはそれぞれ隣り人を捕え、手をあげてその隣り人を攻めるであろう』。(ゼカリヤ14:12-13)

この同士討ちと『YHWHが知る日』の『夕暮れに光がある』とは、ヨシュアの大勝利と「ハルマゲドンの戦い」とを結びつけるものと言え、終末でのキリストと聖徒らの大勝利を暗示していると言えるでしょう。そして、その日を知るのはただ神お一人であられ、王キリストに征服の命令を下される時、その決定的な日を定められることでしょう。

黙示録では、神の怒りの第七の鉢が『大気に注ぎ出された』ときに『起ったことがなかったほどの地震が起り』『大いなるバビロンは神の御前に思い出され』『島々はみな逃げ去り、山々は見えなくなった。また一タラントの重さほどの大きな雹が、天から人々の上に降った』とあり、カナン軍と戦うヨシュアと、終末の地震を予告するゼカリヤとを結んでいます。(黙示録16:17-21)約26kg

終末のこの場で、救われるべき信仰を表すことになる世の人々は、神YHWHへの信仰を表したカナン人の街ギベオンのようであり、元々は罪ある異教徒であることは変わらないとしても、同じように終末に於いて、天のイスラエルが世を征服するために近付いてきた時には、信仰を働かせて自ら悔い改め、YHWHの側に着くことでしょう。
それは、キリストの前で右側に羊として分けられ、神の王国に入る事を意味します。そうであれば、終末のシオンの人々は、反キリストに集められる大軍勢が攻め立てるといえども、キリストと聖徒たちが救出のために急遽進軍し、大勝利を収めることを信じることができます。(テサロニケ第一3:13)

まさしく「真のイスラエル」によって、終末のギベオン人を救い出すために、全軍が徹夜で行軍したように、また丸一日勝利のために陽が沈まないような強大な奇跡を人々は目にすることになるでしょう。
預言者ミカも、それが出エジプトに際して、神が紅海の海水を二つに分けてイスラエルをエジプト軍から救ったあの大いなる奇跡に匹敵する事柄が再び起こり人々はそれを目にすると記します。(ミカ7:15-16)

さて、この大患難の始まりを画する戦いの後にこの世がどうなるかについて知らせるものに「黙示録の四騎士」があります。
それは天界に挙げられた使徒ヨハネが最初に見た終末への謎の啓示であり、子羊が開く七つの封印の最初の四つに当たります。(黙示録6:1-)
キリストを表す子羊が第一の封印を解くと、白い馬とそれに乗った騎手が現れます。
この者は弓で武装していますが、冠が与えられ、『征服のうえに征服を重ねるために出て行った』とあります。

次には第二の封印が解かれ、赤い馬とその乗り手が現れ、『人々が互に殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きな剣が与えられた』とあります。

第三の封印が解かれると、黒い馬とその乗り手が現れますが、この騎手は天秤を手に持っていて『小麦一コイニクスは一デナリ。大麦三コイニクスも一デナリ。オリーヴ油とぶどう酒は損なうな』との声が聞えます。(1コイニクスは約1リットル、1デナリは日当)

第四の封印が解かれて現れるのは、青白い(病的な)馬であり、その乗り手は『死』(タナトス)と呼ばれ、その後を『墓』(ハデース)が追走しています。

これら四つの騎馬について『彼らには、地の四分の一を支配する権威、および、剣と、飢饉と、死と、地の獣らによって人を殺す権威が与えられた』と黙示録は述べます。

これらの四騎士の中では、『人々が互に殺し合う』という「ハルマゲドンの戦い」を示唆する赤い騎馬について、やはり『地上から平和を奪い取る』とあります。
この赤い騎馬が、同士討ちの「ハルマゲドンの戦い」を指すものであれば、その後には食糧不足と疫病が続くことになるのは旧約聖書の故事に何度も描かれたところです。
『剣と飢饉と疫病』という三つの事柄は、旧約聖書中で繰り返し、軍隊に包囲されて終わりを迎える都市の運命として語られています。(エレミヤ14:12/エゼキエル14:21)
ですから、イエスがエルサレムの滅びを予告した言葉の中でも、ローマ軍による厳重な攻囲の中でエルサレム市内がどれほど悲惨な状態に陥るかを語られていますが、そこで起こったことはまさに『剣と飢饉と疫病』でありました。(ルカ21:11,21)

これら黙示録の記述が書かれたのは、エルサレムの滅びが起ってから二十年も後の事ですから、その四騎士の場合は、ユダヤの体制の終わりを超えて、『この世』という世界の終りについて語られていると見ることは間違いではないでしょう。

そこで「ハルマゲドンの戦い」に敗れた『この世』がその後どうなるかの様子がこれらの騎馬に知らされていることになります。
キリストと聖徒たちに敗れたこの世の体制は、権力を著しく失って『山々も消える』つまり政府として成り立つことにも危機が訪れていることでしょう。
この段階での人々の切実な想いをイエスはこう語っていました。
『人々は、その住む全地を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失う。天の万象が揺り動かされるからだ』。(ルカ21:26)
そこでは、それまで神の王国に強硬に反対していた無信仰な人々にも、キリストが来臨していることは認めざるを得なくなるに違いなく『そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを人々は見る』とルカ福音書は続けて記しています。

確かに、国々が同士討ちをしたのであれば、貿易を介した便利品の流通も製造も、食糧の輸出入サイクルも失われることも想定しなければなりません。今日の世界の生活がどれほど貿易に依存しているかは言うまでもないことですが、諸国の関係が失われて、経済活動だけは回り続けると期待する理由がありません。おそらくは、平常時のような生活は出来ないことでしょう。
人々が生活の糧を求めて食料品の価格は高騰し、日当で一日の食糧を確保するのがやっとの日々となるのでしょう。そのうえ社会が機能を果たせなくなってゆくなら、人々が仕事によって給与賃金を得るシステムそのものさえ危うくなり、生活が逼迫することも考えなくてはなりません。

では、神の民とされた人々の境遇はどうなるのでしょうか。
おそらくは影響をまったく受けないとは言えないでしょうけれども、何もない荒野で数百万のイスラエル民族を四十年に亘って奇跡の食物『マナ』で養ったのであれば、またイエスが『天の鳥を見よ』と言われたからには、神を持たない人のように絶望する理由もないことでしょう。(申命記8:3-5/マタイ6:26)
この点で、預言者エリヤは、天が閉ざされ干魃が続いた間、フェニキアのザレファトの地に住む困窮し切った寡婦の家に身を寄せ、かえってその親子を救っています。贅沢などは到底できませんが、不思議に食物は絶えることがありませんでした。この世に在っては意識しないことですが、わたしたちの生活を支えるのは、自分たちの働きである前に、すべてを存在させた神であることを知る必要があります。(列王第一17:12-16)

この食糧危機の後には、第四の騎馬が現れ、人々の間に疫病が蔓延し始めるのでしょう。
この災厄が決定的な神の裁きをもたらすことは、第四の青白い馬の後を『墓』が追っていることから明らかです。

しかし、神からの疫病という災厄は、『神の民』の一人一人をまるで『奥の間』に匿うかのように選択的に臨むのかも知れません。そうであれば、救われる人々は実際のシェルターを必要としないでしょう。
詩篇にはこうあります『あなたの傍らに一千人が、あなたの右に一万人が倒れるとしても、それがあなたを襲うことはない。
あなたの目が、それを眺めるのみ。神に逆らう者の受ける報いを見ているのみとなる。
あなたはYHWHを避難所とし、いと高き神を住まいとした。
あなたには災難も降り掛かることがなく、天幕には疫病も触れることがない』。(詩篇91:7-10)

この世が自壊してゆく中で『神の民』はそのように象徴的な「保護の奥の間」に隠されることになるのでしょう。
『さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。激しい憤りが過ぎ去るまでしばらく隠れよ』とイザヤ書にはありますが、それは隣人に差別的に振る舞わせるという意味ではないことでしょう。そうしなくても守られるという信仰こそがその人を利他的にさせ、キリスト教本来の『隣人愛』を行わせることでしょう。
そうでなければ、秩序を失った『この世』の醜いありさまのまま、自分だけは救われようとして、かえって滅びに価する利己的な資質を見せてしまいます。

この状況を使徒ペテロはこう書いています。
『主の日は盗人のようにやって来る。その日、天は激しい音を立てながら消え失せ、天の万象は焼け落ちてしまい、地とその業とが暴かれてしまう』。(ペテロ第二3:10)
これは、『天』で表されるそれまでの人間の支配であった政府が無力となり、地上には無秩序と混乱が蔓延して、人間に宿る「アダムからの罪」が露わにされて、その闘争性や利己性がどれほど醜いものかを暴かれ思い知らされるということなのでしょう。
しかし、神を知る人は、もとより『罪』こそ人の悪であることを教えられているので、信仰がないかのように、無秩序な悪行に同調することもないはずです。

さて、黙示録はこうした四騎士の災い記述の終りに、『彼らには、地の四分の一を支配する権威、また、剣と、飢饉と、死と、地の獣らとによって人を殺す権威とが与えられた』と結んでいます。(黙示録6:8)
青白い馬の後をついて来た『墓』が、同じ個所で『地の獣』に変えられているのは、死にゆく人々の墓が野獣たちの腹の中となることを暗示するのでしょう。
実に、「ハルマゲドンの戦い」で戦死する人々を黙示録では鳥たちがついばみ、エゼキエル書ではその食事に野獣も加わっています。(黙示録19:17-18/エゼキエル39:17-18)

また、『地の四分の一』というのが、滅ぼされる範囲を指すのか、それぞれの災厄が地の四分の一に臨み、白馬の騎士の分の四分の一だけが救われるのかは分かりません。
もし、白馬の騎士の管轄する『地の四分の一』が救われるのであれば、この第一の騎士はキリストを表すことになります。
しかし、この白馬の騎士がキリストを指すのか、反キリストの人類連合軍の出撃を指すのかについては、はっきりとしていませんが、終末には聖霊を持つ聖徒たちが明かしてくれる事柄なのかも知れません。
本書ではとりあえず、原始キリスト教の指導者たち、使徒ヨハネの薫陶に在った小アジアの教えに敬意を払い、白馬の騎士をキリストと想定することにします。

しかし、それで救われる人々が人類の四分の一であるかどうかは分かりません。
なぜなら、これら四騎士が現れた後になってもなお、人々が救われる可能性を聖書が語るからです。
そのような多大の寛容さを示したのは、まずほかならぬイエス・キリストであったのです。








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ハルマゲドンに向かう世界

2020.12.24 (Thu)

『ハルマゲドン』という言葉に人々が何を思い描くかと言えば、人類の最後の戦争による世界の滅亡というイメージが広く定着しています。たいていの場合、描かれるのは破壊に次ぐ破壊でしょう。
オリジナルからして、黙示録という謎の書に現われ、この世の終わりに世界各国の軍隊が集まる場所の名として記される『ハルマゲドン』ですから、確かにそのように受け取られても無理もありません。

ですが、それはこの世がインフラも建造物もまったく破壊され、文明的な世界が終わるという、フィクションの主題にされているような大惨事と、黙示録が本来述べるところとは幾らか異なっています。
もちろん、聖書の『ハルマゲドン』に関する記述からすれば、それは「戦い」へと向かう状況を表す言葉ですから、確かに人間同士の軍事的衝突は避けられません。しかし、それはキリストの予告された終末も終わりの時期に起こる未曾有の災厄の中の一つではあるものの、それですべてが終わるわけではなく、むしろ『この世』という永遠盤石に見えた「巨大な体制」が、多くの人々の予想に反して自壊に向かうきっかけをつくるものです。

『ハルマゲドン』に集められた諸国の軍同士の戦いが始まる前に、忠節を守った聖徒たちが天界に集められ、キリストを『隅の親石』として彼らによる天の神殿建設と、『神の王国』の支配の準備が進むなか、地上では、偽キリストと脱落した元聖徒らの支配と崇拝が固められていることでしょう。天と地の二つの王国はいずれ対決が避けられません。

地上に対するキリストの業としては、信徒たちの『騎兵隊』の活動が見られるだけでなく、祭政の世界秩序を手中にした『不法の人』である偽キリストの支配と崇拝には、それが正しくもなく、善くもないものであることを示す凶兆が『神の怒りの七つの鉢』に込められ、地上を治める者、『野獣の数字を持つ者ら』に害悪が注がれ始めることになります。それは偽キリストによる地上支配について、人々の熱狂に水を射し、疑念を起こさせるものとなることでしょう。人々に何と唱えられようと偽キリストの支配は決して「神の王国」にはならないのです。

その一方で、黙示録も第16章の『怒りの鉢』の場面には、もはや地上に聖徒の宣教活動は見られません。むしろ彼らは天での祭司団としての祭儀を開始する用意が整っています。
そのため、黙示録では『キリストの権威が実現し』て後、天界の幕屋から七人の天使がそれぞれに神の怒りを満たした鉢を持って現れる場面となり、地上の偽キリストの支配のもろさが次々に知れ渡ってゆきます。
この間『聖所は神の栄光とその力とから立ち上る煙で満たされ、それら七人の御使の七つの災いが終ってしまうまでは、だれも聖所に入ることができなかった』とあります。(黙示録15:8)

このように視界が妨げられて崇拝儀式がしばらく行えなかった事例が旧約聖書に二回書かれています。
一度目は、エジプトからシナイ山麓に逃れたイスラエルが、モーセがYHWHの言葉に従って崇拝の準備を完了し、いざ、『会見の天幕』での奉仕を始められる状態となった時に、雲がわき起こって視界が遮られ、神との会見を続けて来たモーセですら天幕の中に入ることができませんでした。(出エジプト40:33-34)
このことは、後にソロモン王が第一神殿を建立し、祭司団が最初に祭儀に取り掛かろうとしたときにも起ったことです。(歴代第二5:13-14)

そして、黙示録はここに於いて、天界の崇拝奉仕の準備が整ったことを同じように視界を妨げる煙によって暗示しています。つまり、天の大祭司であるキリストと、それに従う祭司団がそろったことを意味します。
そのため、召されるべき聖徒は一人として地上に残されておらず、今や、その権能が発揮される直前にあるのですが、地上では相変わらず『背教』した脱落聖徒らの地上支配が行われていて、多くの人々が生ける偶像である『野獣の像』を崇拝してしまい、その印である『666』の印を右手や額に受けて洗脳されてしまっていることでしょう。『666』とは、つまり完全なものを決してもたらさない偽物です。(黙示録13:15-18)

しかし、天の幕屋から現れ出た七人の天使らが、それぞれの鉢から『神の怒り』を注ぐと、偽キリストが治める世界の不完全さが次々に暴露されてゆくので、人々には悔い改める機会がさらに開かれることでしょう。
地上では大権持った頭目となり、今や神を自称して世界の王として振る舞う『不法の人』からすれば、それらの凶兆を打ち消し、人々には認めさせたくないことでしょうし、なんとしても目障りな信徒の集団には自分への崇拝を強要させるか、さもなければ処刑してしまいたいことでしょう。
そこで、彼は遂に『荒らす憎むべきもの』の『荒らす』、つまりこの世の滅びを招く決断に走ることになります。

そのことを、旧約の預言者エゼキエルは『マゴグの地のゴグ』の決断として描き出します。(エゼキエル38:1-)
『あなたはわが民イスラエルに攻め上り、雲のように地を覆う。ゴグよ、終りの日にわたしはあなたを、わが国に攻め来らせ、あなた(の敗北)を通して、わたしの聖なることを諸国民の目の前に表して、彼らにわたしを知らせる』。(エゼキエル38:18)

このゴグのイスラエル攻勢の結果についてはこのように書かれています。
『わたしはゴグに対し、すべての恐怖心を呼び寄せる。あらゆる者の剣は、その同朋に向けられる。わたしは疫病と流血とをもって彼を裁く。わたしはみなぎる雨と、雹と、火と、硫黄とを、彼とその軍隊および彼と共にいる多くの民の上に降らせる。そしてわたしはわたしの大いなることと、わたしの聖なることとを、多くの国民の目に示す。そして彼らはわたしがYHWHであることを思い知るであろう』。(エゼキエル38:22-23)

そしてこの大敗北が、ほかの預言者たちによっても以前から語られていたことに神YHWHは注意を向けさせてこう言われます。
『わたしが昔、わが僕イスラエルの預言者たちによって語ったのは、お前の事ではないか』。(エゼキエル38:17)

その通り。この世の終りに際して神が諸国民を徹底的に裁き、世界が神の憤りに飲まれることは、イザヤ、ミカ、エレミヤ、ヨエル、ゼパニヤなども揃って語るところでありました。
特にヨエル書では、神に反抗する人間の連合軍の大敗北を、かつてのユダ王エホシャファトの大勝利になぞらえています。

それは、エゼキエルの預言した前6世紀より250年ほど前に起った事件を題材にして、さらに終末をも予告した二重の預言で、預言者ヨエルはエホシャファト王の時に起った事が終末にも起きると語っているのです。

エホシャファト王は、YHWHに信頼を寄せる善王でありましたが、あるとき近隣諸国の連合した大軍勢に攻め込まれる事態が発生してしまったのです。(歴代第二20:1-3)
民も王も、対抗する力も策もなく、ただYHWHの前に謙るばかりでしたが、律法契約に忠節さを見せる者に忠節であるYHWHは、この善王の危機に際して、一人のレヴィ人に霊感を与え『この戦いでは、あなたがたは戦うに及ばない。ユダおよびエルサレムよ、あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられるYHWHの勝利を見なさい。恐れてはならない。おののいてはならない。明日、彼らの所に攻めて行け。YHWHはあなたがたと共におられるからである』と叫ばせます。(歴代第二20:17)

この神からの返答に信仰を働かせた王と民と共に、神殿合唱隊のレヴィ族が深い感謝を込め、例のないほどの大声を張り上げてYHWHを賛美して歌い出ました。(歴代第二20:18-19)
翌朝、ユダの軍隊は異例にも、そのレヴィ族合唱隊(おそらく288人)を軍の前に配置し、神への信仰を剣とも盾ともして進軍を始め、合唱隊が『YHWHを賛美せよ!その忠節な愛はとこしえに及ぶ!』と「賛美の詩篇」を歌い出すと、敵軍は混乱を起こして同士討ちを始めてしまい、エホシャファトの軍が敵軍を発見したときには、そこに生き残っている者を見なかったのでした。

ユダの人々は、敵の大軍勢から物資をはぎ取ってゆきましたが、一日では終わらず、二日でも終わらず、三日を要する大収穫となり、やっと四日目になって、その谷に国民が集合してYHWHへの感謝が捧げられるのでした。
それで、その場所は『祝福(ベラカ)の谷』と呼ばれ、神YHWHの民への善意を記念する場となったのです。

後の預言者ヨエルは終末に起るべきことを、このエホシャファトの勝利になぞらえて語り、『諸国民をふるい立たせ、エホシャファトの谷に上らせよ。わたしはそこに座して、周囲のすべての国民を裁く』と預言しています。(ヨエル3:12)
しかも、神はそれらの軍勢に加わるように諸国民を促しさえするというのです。
『諸国民の中で宣べ伝えよ。戦いの備えをさせ、勇士をふるい立たせ、兵士をことごとく近づかせて上らせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたの鎌を槍に打ち替えよ。ひ弱な者にも「自分は勇士だ」と言わせよ。周囲のすべての国民よ、急ぎ来て、集まれ』。(ヨエル3:9-11)

この預言に表れているように、神は諸国民を一気に裁くために、そのすべての軍勢を煽ってさえいます。
その結末と言えば、同士討ちによる壊滅であり、それはほかの預言者たちも異口同音に述べるところで、やはりエゼキエル書もその一つです。
エゼキエルの終末預言の特徴は、世界の軍勢に働きかけて、終末の『神の民』となっている信徒の群れへの攻勢を行わせるところの、強大な権威の持ち主としての偽キリストに焦点を合わせ、そこではもはや『マゴグの地のゴグ』との別の呼び名を与えて、その素性の一端を明かしているのです。

エゼキエル書に描かれる『ゴグ』は、『「わたしは無防備の村々の地に上り、穏やかにして安らかに住む民、すべて石がきもなく、貫の木も門もない地に住む者どもを攻めよう」と言う。そしてお前はかつて廃虚であったが、今は人の住んでいる国、諸国民のもとから集められ、国の中心の山々に住み、家畜や財産を持っている民に対して手を挙げ、戦利品を奪い、ほしいままに略奪しようとする』。(エゼキエル38:11-12)
『かつて廃墟であった』とは、まさに『シオン』であり、そのときには信仰を抱いて集まってきた信徒たちによって賑わい、『家畜や財産』に恵まれていることでしょう。

この『マゴグの地のゴグ』に対する預言の言葉についていくつかの解釈がされていて、世界に終わりが臨んだときには、現実のイスラエルの国を北から諸国が攻め込んで来るとキリスト教界で広く信じられています。
その原因は、この一連の預言の中でYHWHはこの『ゴグ』とされる人物が『北の果てから来る』と記されているところにあるのですが、旧約聖書を調べると『北の果て』の『場所』といっても、それが必ずしも実際の方角を示すものとも言えません。
例れば、詩篇の第48には『高く美しく、全地の喜び。北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都』とあり、王座を頂くシオン山上のエルサレムを『北の果て』にあるものとしていますが、北緯23度しかないエルサレムを『北の果て』というからには、これは地理上の方向や場所を指してはいません。(詩篇48:2)
古代での『北の果て』である北極は、全天がそこを中心として回るという天の最上の座を指して、古代人の深い畏敬を誘っていたものです。聖書がそこで言う『北の果て』が、メシアの「世界を統べ治める王の御座所」として詠われているのは明らかなことです。やはり『ゴグ』は偽メシアなのでしょう。そして『マゴグ』という北にある彼の故地は脱落聖徒らの集団を指すのでしょう。(詩篇45:6)

そこで、やはりエゼキエルがゴグが『北の果てから』攻めて来ると語ったとき、このような古代人の観点を考慮にいれないわけにはゆかないでしょう。
そうであれば、ゴグとは至上の権威の座に在ることを想定するべきことになり、それゆえにも、諸国の連合軍を集めて動かすことができるだけの立場が説明できます。
そして、世界人類を統治するほどの至高の座こそ、悪魔が切に求めていた地位でもあったのです。(イザヤ14:13-14)
終末に至り、悪魔サタンは偽キリストであるゴグという生きた偶像を介して、その人類連合への命令権を手中にしたと言えるでしょう。
まさしく、『マゴグの地のゴグ』とは、パウロが語った『神殿に座し自分を神として示す』絶大な指導者、つまり『不法の人』であり、この時に至れば、この世をまるごと神と敵対させて滅ぼすきっかけを作る『荒らす憎むべきもの』としての悪魔の代理の本性を発揮するでしょう。

そこで黙示録は、諸国の軍を集める指令の出所を明かしてこう述べています。
『また見ると、龍の口から、獣の口から、偽預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。
これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった。』(黙示録16:13-14)

確かに、ここには『ゴグ』、また『不法の人』の命令する姿は描かれていません。
しかし、『偽預言者』という単数で述べられる言葉の中に、すべての脱落聖徒らが含められているとすれば、その全体についてエゼキエルが『マゴグの地』と呼び『ゴグ』と二種類に分けていたと考えることはできるでしょう。つまり、脱落聖徒全体の集団を表す『マゴグの地』と、偽キリストを指す『ゴグ』であり、黙示録は『偽預言者』という一言にそれを集約しているのであり、そこでは誰が号令を下すかではなく、その意志の源と、それが悪魔の体制に広く一致して出される点に理解を向けています。

その世界を終わらせることになる攻撃の号令をゴグが下す前に、『龍』である悪魔と、今や並ぶものもない超大国となったキリスト教的国家、そして『偽預言者』である脱落聖徒の集団がそろってゴグを後押しすることになり、この世もろとも引き返すことが出来ない道に入ってゆくことでしょう。

さらに加えて、黙示録は有名な一言を加えます。
『それら三つの霊は、ヘブライ語でハルマゲドンという場所に王たちを集めた』。(黙示録16:16)

この『ハルマゲドン』という言葉は、俗に「世界の破滅」を表すものとして独り歩きを始めてしまっているようなところがありますが、この言葉そのものは場所を指し、戦いの性質を暗に表すもので、自然からの大災害で地球や人間の文明がまったく破壊されてしまうということではありません。
ここで『ハルマゲドン』とされる場所は、今のハイファの街に近いパレスチナの海岸沿いにある、カルメル山が地中海に落ち込むように見える切り立った難所があるために、道が非常に狭くなり軍隊の行進が阻まれるので、どうしてもそこを迂回する必要が生じて、五キロほど内陸の地点を通ることになりますが、その要衝となる場所を指します。
そこはエスドラエロンという平原を見渡す場所で、「メギド」と呼ばれる小山があります。『ハル』とは「山」でありますから、『ハルマゲドン』とは「メギドの山」と言う意味ではあります。

但し、それはただの小山以上の意味があります。そこの場所の地形から要塞が築かれ、古来から軍隊同士の決戦の地となって、「勝敗の決定的に分かれる戦いの場」という意味がこの『ハルマゲドン』の言葉に込められています。
まさしく、終末のこの世と神の王国との決戦も、勝敗のまったく分かれるものとなるのは目に見えるようですが、偽メシア『ゴグ』に惑わされた人々には、むしろ、現実世界を掌握している自分たち「地上の王国」に圧倒的な分があると思えることでしょう。

そして、やはりエゼキエル書でもゴグの軍勢の壊滅が描き出されています。
『あなたはわが民イスラエルに攻めのぼり、雲のように地を覆う。ゴグよ、終りの日にわたしはあなたを、わが国に攻めきたらせ、あなたを通して、わたしの聖なることを諸国民の目の前に表して、彼らにわたしを知らせる』。『わたしはゴグに対し、すべての恐れを呼びよせる。すべての人の剣はその仲間に向けられる』。(エゼキエル38:16.21)

この世の連合軍が同士討ちで壊滅することは、後の預言者ゼカリヤも繰り返し告げるところで『その日には、YHWHは彼らに恐慌を起こされるので、彼らはおのおのその隣り人を捕え、手を挙げて互いを攻める』と記しています。(ゼカリヤ14:13)

それは、あのエホシャファト王を大軍勢で攻めた諸国の連合軍の結末を思い起こさせるもので、やはり、その故事を終末の予告として語るヨエルはこう預言を続けています。
『鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した。来て踏みつぶせ、酒ぶねは満ち搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい。
裁きの谷には無数の群衆が集まっている。YHWHの日が裁きの谷に近づく。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。
YHWHはシオンから雄叫びを上げ、エルサレムからその声を轟かす。天も地も震え動く。しかし、YHWHはその民には避難所、イスラエルの人々の要害である。』(ヨエル3(4):13-16)

エホシャファト王の戦わない勝利によって、運ぶのに三日を要する戦利品をもたらし、神はそうしてユダの国を祝福しましたが、エゼキエルもゴグの軍勢の壊滅についてこう預言しています。
『イスラエルの町々に住む者は出て来て、武器すなわち大盾、丸盾、弓、矢、投槍、および長槍などを燃やし、また焼き、七年の間これらで火に燃やす。彼らは野から木を取らず、森から木を切らず、武器で火を燃やし、自分をかすめた者をかすめ、自分の物を奪った者から奪うと、主なる神は言われる』。(エゼキエル39:9-10)
おそらくは、同様にシオンの民も戦わずに守られ、諸国民の残された物を活用することもあるのでしょう。

そして黙示録第14章では、キリストの初臨でユダヤの体制が二つに裁かれたように、終末に二つの収穫があることを次のように記します。『見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠を戴き、手には鋭い鎌を持っていた。すると、別の天使が神殿から出て来て「鎌を入れて刈り取ってください。地の収穫物は実り、刈り取るべき時がきました」と叫んで言った。雲の上に座している者は、その鎌を地に突き入れた。そして、地の収穫物が刈り取られた』。(黙示録14:14-15)

こうして終末の穀物の収穫が終わると、もう一人の鎌を手に持つ天使が現れ、『その鋭い鎌を地に入れて、地のぶどうの房を刈り集めなさい。ぶどうの実はすでに熟しているから』と叫ぶ声がありました。
『そこで、御使はその鎌を地に突き入れて、地のぶどうを刈り集め、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだ。
そして、その酒ぶねが都の外で踏まれた。すると、血が酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどの深さになり、一千六百スタディオン(約288km)にわたって広がった。』(黙示録14:18-20)

これら黙示録の相次いで行われる刈り取りは、小麦とブドウの収穫を表しているのでしょう。
パレスチナでは、夏の前に小麦の収穫は終わり、それから初夏にかけてブドウの摘み取りがあります。
『人の子のような者』が、小麦である『聖なる者たち』を集め終わると、次にはブドウの収穫時期となっています。黙示録はブドウをしぼり汁を『血』になぞらえ、終末のこの世に臨む小麦とブドウの二つの裁きの収穫を予告しているのです。それがつまり、是認と呪いの二つの収穫です。

このように聖書は、世界に起きる神の裁きという一大事に焦点を合わせて語り、神と人との最終的な対立の始まりに、つまりキリストの再臨でも『顕現』(エピファネイア)の始まりに当たって勃発する「ハルマゲドン」の戦いを知らせています。
それは神が王キリストをシオンに立て、実力行使を行わせる時の始まりとなるので、世界はたいへんな衝撃を受けることでしょう。
そのため、この世は無防備な信徒の群れに圧勝できると思い込んでいたにも関わらず、まったくの敗北を被り、かつてエルサレムの滅びについて語られた言葉『そのとき、人々は山に向かって、我々の上に倒れかかれと言い、また岡に向かって、我々に覆いかぶされと言い出す』との預言の引用は、黙示録の中でもう一度繰り返されます。

『天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島とはその場所から移されてしまった。
地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。
そして、山と岩とに向かって言った、「さあ、我々を覆って、御座にいます方の御顔と小羊の怒りとから匿ってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。その前に誰が立つことができようか」』(ルカ23:30/黙示録6:14-17)

もはや、世界はキリストの見えない来臨をその心の目ではっきりと『見る』ことになるでしょう。
つまり、自分たちの大敗北を通して『人の子が、天の雲と共に来るのを見る』ほかありません。それは強制的に見させられることで、刑の執行はすでに始まっているのですから、そのようにしてキリストの再臨を認めざるを得なくなることは、それだけ不信仰であったことになりますし、神を見出すことでは最悪の方法です。(マタイ26:64)

加えて、『偽キリスト』つまり『ゴグ』また『不法の人』にも最期が臨むことをパウロは『キリストはその顕現によって彼を無に帰させる』と述べています。つまりそれは創造物としての『魂』の喪失であり、永遠の無存在に去って行くことを意味します。おそらくは神に逆らって軍に加わった確信的な人々の死についても、復活の無い「永遠の死」を遂げるのでしょう。
それですから、終末の裁きと言うものを、誰であれ軽く考えたり、侮ったりすべきではありません。

では、これを読む皆さんが終末に直面するとしたら、それぞれにどう振る舞うのでしょうか。
もし、ここに書かれた情報がまるで的外れでなく、一定の真相が込められているとすれば、それは『人の心にも上らない』聖書の秘儀に触れたことになり、聖書が警告する「終末」という、短くも未曾有の大変化の起こる時期への心の準備になるところもあるでしょう。とは言え、それで悪魔の誘惑にうまく対処できるかどうかは別問題です。アダムも禁断の木の実を食べることの害は知っていたのですから、より必要なのは知識に勝るものと言えます。(テサロニケ第二2:8/マタイ25:41-42)

さて、『ハルマゲドン』の戦いの後でも、未曾有の大患難はそのままに続きます。もはや強大な政府も地上のメシアもなくなり、人間社会の支配機構としての権力である『天が巻物が巻かれるように消える』にしても、まだ地には多くの一般の人々が残されています。『天』で表される人間社会を治める権力機構が無力となった後、いったい世界はどんな姿を見せるのでしょうか。その中で信徒たちはどうなるのでしょうか。






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終末のイナゴと騎兵隊

2020.12.23 (Wed)


キリストの再臨によって『終わりの日』が到来すると、アダムの子孫である人類は『この世の裁き』に直面し、一連の格別な物事が次々に起ってゆくことを聖書は明かしています。旧約聖書の数々の預言や古代の出来事にも、新約聖書のイエス・キリストの言葉の数々にも『この世の終り』について焦点を合わせたものが随所に存在しているので、あの黙示録であってもそれら数々の終末の情報へと注意を促す「索引」のようにさえなっています。

さて、ここで『イナゴ』について述べるのは、やはり旧約の「預言者たち」の一つ、ヨエル預言書に書かれた、植物を食い尽くし、無数の群れをなして空を暗くするあの昆虫のイナゴを象徴とし、重要な予告となって後の使徒時代に一度成就した事柄と、それを通してさらに終末に起る事柄を予告しているところに注意を促すためです。

このヨエルの預言は、その第一の成就を記す使徒言行録なくしては神意を探れるものではありませんので、新約聖書を認めないユダヤ教には隠されたままですが、さらにもう一度の成就が終末にあるなら、それを知らせる黙示録の難しさのため、キリスト教界からも隠されたまま終わるのかも知れません。

『イナゴ』によって示された異象の意味を結論から言えば、『イナゴ』で表わされる「聖徒たちの働き」を表しています。
しかし、黙示録は、ヨエル書にイナゴと共に書かれたもう一つの要素である『軍馬』から、使徒時代には起っていない別の「軍馬」によって構成される『騎兵隊』の存在をも描き出しています。
ですが、その黙示録にある『二億』にも上る数の『騎兵隊』が何を指しているのかは、実際、今日のキリスト教界からも隠されたままに記述だけが存在してきました。

では、まず黙示録の第九章から「終末のイナゴ」について語るところを見てみましょう。
『第五のラッパ』が吹かれると、天から一つの星が舞い降り、地の下の『底知れぬ深み』にまで入ってゆき、牢獄の鍵を開けることになります。(黙示録9:1-3)

すると、かまどの濃い煙が立ち上って天を覆い、異様な姿の無数の蝗が現れては、すべての人々に苦痛を与えることになります。
黙示録9章はこう描きます。
『その煙の中からイナゴが地上に出て来たが、地のサソリが持っているような力が彼らに与えられた。
彼らは、地の草やすべての青草、またすべての木を損なってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと、言い渡された。彼らは、人間を殺すことはしないが、五か月の間苦しめることは許された。彼らの与える苦痛は、人がサソリに刺される時のような苦痛であった。その時には、人々は死を求めても与えられず、死にたいと願っても、死は逃げて行く』。(黙示録9:3-6)

これら、終末のイナゴについては木々を損なう実際のものではなく『額に神の証印の無い人々だけを害する』とあります。
しかし、『人々を殺さず』とあるように、これらのイナゴにはサソリのように人々を害するにしても殺すまでには至りません。
これらのイナゴが、なぜすべての人に苦痛を与えるかと言えば、アダムの子孫である人々にはもれなく『罪』というものがあり、神の前には『罪人』であることを告発するからなのでしょう。
人間が、どれほど道義的に振る舞おうと、貪欲と争いから抜け出ることは出来ません。戦争はおろか犯罪も無くせず、隣人とさえ問題なく過ごす保証もないのですから、理想世界を描いてもけっしてそれを実現できない理由が自分自身の中に在るのです。そのように人間が自らの問題を取り除けないのであれば、どれほど社会を良くしようとしても、その努力が本当に実を結ぶには至りません。また、これを知らされるということは、人間社会の重苦しい限界を認めることにもなりますから、人間の叡智を信じたい人々や政治に邁進し日々努めている人々は、人間の本質の暴露に反発することもあるでしょう。

これらの激痛を与える「終末のイナゴ」の正体については『額に神の証印の無い人々だけを害する』という言葉に現れています。
なぜなら、これらのイナゴには、仮のものながら聖霊の注ぎによって『額に神の証印がある』と言え、キリストからの『義』を分かち与えられているので『鉄の胸当て』を着け、義なる良心を保っていると言えるでしょう。その『義』なくして『罪』あるどんな人間にも『この世』を糾弾する資格などないからです。ですから、イナゴたちは自分たち以外のすべての人を襲うことでしょう。(黙示録9:4・9/ローマ8:33)
また、これらのイナゴに『金の冠』があるのは、彼らがキリストと共なる王権の相続者であることを明かし、女のように長い頭髪は、キリストという夫を持つことになる婚約の身を指すのでしょう。

こう捉えると、これら世の真実を暴くイナゴが『聖徒』であるとの理解の扉は大きく開かれることになります。
その活動領域は第一世紀のいなごの範囲であったユダヤ体制を越えて、全世界に行き渡るものでしょう。

では、かまどの煙のように現れるイナゴを解き放つところの、地底の牢獄の鍵を開けることになる、地に降りた『星』とは、キリストなのでしょうか。
黙示録での『底知れぬ深み』の用例はいくつか有り、特に17章8節の『昔はいたが、今はいない、だが、やがて底知れぬ所から上って来る野獣』についての句は、『底知れぬ深み』が『昔』と『今』という時間の大きな隔たりを指していることを教えます。
黙示録に描かれるその暗く不気味な印象からは想像しにくいところですが、使徒時代が過ぎ去り、古代の聖霊降下が終わって後、今日まで千八百年ほどのキリスト不在の時期が続いて来たことからすれば、再び聖霊を注いで遠い過去から呼び出すかのように、新たな聖徒たちを任命することは再臨のキリスト以外に出来るものではありません。

では、『底知れぬ深みの鍵を開ける』天からの『星』が解き放つ『イナゴ』は、以前にも存在したことのあるのでしょうか。
まさしく、聖霊が降ったその日に、使徒ペテロが先頭に立って、聖霊によって異国の言葉を話している弟子たちの上に預言者ヨエルの言葉が成就していることを証していました。つまり、聖霊が老若男女、奴隷や下女にまで注がれるという預言であり、その預言書は『イナゴ』の害がイスラエルを襲うことについても述べるものであったのです。(使徒2:1-24/ヨエル1:2-4)
『それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。強大で数多い民がいて、山々の上を暗闇のように覆う』。『火は彼らの前を焼き、炎は彼らの後に燃える。彼らの来る前には、地はエデンの園のようであるが、その去った後は荒れ果てた野のようになる。これを逃れるものは一人もいない』。(ヨエル2:2-3)

イエスが去った後、聖霊を受けた弟子たちは、あのペンテコステの日以来、ユダヤ体制が、現れたメシアを退けてしまったことを暴露し始め、神は彼らに奇跡を行う賜物を送ってその業を支えられました。それはユダヤの宗教家らには痛みを与えるものとなりました。それは体制派がメシアを殺めたことを、残された弟子らによって聖霊の奇跡が行われるほどに、彼らの良心を苦しめるものとなり、その結果、神の是認から離れたユダヤ体制には破滅と荒廃に向かう以外の道は残されなかったと言えます。(使徒5:28)
ですから、第一世紀にイエスの後に残された弟子たちの活動は、ヨエルの予告したイナゴのように、ユダヤの体制を象徴的に食い尽くしていったということができます。(ヨエル2:7-11)

加えてヨエルは、イナゴの姿をこう描写します。
『その姿は馬のようで軍馬のように駆ける。山の頂を駆け巡って戦車のような響きを立て、わらを焼く炎のような音を立てる。これは戦いの備えをした強大な民のようだ』。(ヨエル2:4-5)

このヨエルの預言を後の黙示録が踏襲していることは、『これらのイナゴは、出陣の用意の整えられた馬によく似ている』と同じように述べているところに明らかです。(黙示録9:7)

つまり、第一世紀のキリストの死の後に聖霊によって現れ、その殺害の罪を暴露した聖徒たちの活動は、再臨のキリストにより『底知れぬ深み』という永い時間の隔たりをも越えて再び導き出されるということであり、終末にもう一度聖霊が注がれることを明かすものとなっています。

しかし、終末でのイナゴは人々に痛みを与える間の『五カ月』という、イナゴ本来の寿命を終えると、人々への痛みを与える業を止め、みな去ってしまうことも黙示録は示唆し、以後、これらのイナゴは黙示録に登場しません。(黙示録9:5/ナホム3:16-17)
これは聖徒たちが聖霊の言葉を終末に三年半語った後に、天界に召されて去ってゆく姿を、イナゴという現れては消えて行く昆虫に例えて示しているかのようです。(黙示録11:12)

しかし、黙示録では使徒たちの時代とは異なり、聖徒たちが去った後に、「イナゴに似た別の民」が、同じようにこの世を攻撃する姿を描いています。終末の聖徒たちである「イナゴ」が、『ライオンの歯を持ち』『さそりに似た尾があって』それがすべて『罪』ある人々に苦しみを与えたように、新たに現れる「イナゴに似た別の民」たちの姿も、それによく似て居るのです。

その新たな者たちについて黙示録のヨハネは『第六のラッパが吹かれた』後に何が起るかについてこう述べます。
『騎兵の数は二億であり、わたしはその数を聞いた。
わたしは幻の中で馬とそれに乗っている者たちを見たが、その様子はこうであった。彼らは、炎、紫、および硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭はライオンの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とを吐いていた。
その口から吐く火と煙と硫黄という三つの災いで人間の三分の一が殺された。』(黙示録9:16-18)

イナゴが去った後に突然現れるこれらの騎兵隊について、黙示録はどこからどのように現れるのかを示さず、ただ、「ユーフラテス河畔に囚われていた四人の使いが解かれた」ことだけを告げています。
これは『大いなるバビロン』からの解放を暗示していること、また去って行ったイナゴと密接な関係にあることが明らかではあります。

つまり、旧来の宗教から出て来る人々から、これら『二億』にも上る数の出所が示唆されていると言えるでしょう。
彼らの行動は、『人間の三分の一が殺された』という結果をもたらすというのです。
この『三分の一』が、社会を構成する「政治」、「経済」のほかの「宗教」を指すとすれば、バビロン河畔からの解放が有って後の事として、人々が宗教を責めるとすることには整合性があることになります。

かつて神を崇拝すると唱えるイスラエルの民にこう預言されていました。
『この民は、口でわたしに近づき唇でわたしを敬うが心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、人間の戒めを教え込んだからだ。それゆえ、見よ、わたしは再び驚くべき業を重ねてこの民を驚かす。賢者の知恵は滅び聡明な者の分別は隠される。』(イザヤ29:13-14/マタイ15:9)
この言葉は聖霊の言葉により終末にも力を及ぼすことでしょう。
黙示録の際立った樹木、海の生き物と船、川と水の源、天の光明のそれぞれ『三分の一』が損なわれ、この世に以前から権威を持ってきた知恵も賢さも崩れています。もったいぶった宗教家たちの教えの無益さが暴かれ、むしろ、殺人の汚名を受けるばかりです。(黙示録8:4-12)
イナゴは誰をも殺しませんでしたが、次に現れる騎兵隊が『人間の三分の一が殺す』というのは、その『三分の一』に属する人々を断罪し、聖徒を実際に殺めさせた事を責めて、『血』の責任を問うことになるからでしょう。

これら騎兵の馬も、先に現れたイナゴに似て、ライオンの頭、ヘビのような尾を持ち、通り過ぎるときに人を害するところは同じです。つまり、その口から発せられる音信に人々が否定的に反応するなら、害を受けるのであり、イナゴと違って後の騎兵の攻撃には致死性があります。人類一般の『罪』を指摘する以上の、実際の『血の罪』、やはり聖徒殺害の応報を告げるからでしょう。

しかし、これらの馬の乗り手である「騎兵」そのものについてはその害を受けないのでしょう。なぜなら、彼らは『火のような赤、煙の紫、燃える硫黄の色の胸当てを着けている』のですが、これらが火と煙と硫黄とを表している以上『ゲヘナ』に対する防御を備えていること、つまり、滅びに犯されない保護を受けていることを表していることになり、これはイナゴとは異なる装備です。

しかも、騎兵の馬のライオンの口からも『火と煙と硫黄』が吐き出されているのであれば、その音信には『ゲヘナの裁き』が込められていることになり、永遠の滅びをもたらすこれは重大事に他なりません。聖徒殺害の罪を負う宗教界は、これらの騎兵隊による暴露の攻撃を逃れられないことでしょう。それでも、『大いなるバビロン』を実際に処刑するのは、これら騎兵隊が行うものではなく、彼らが行うのは旧来の宗教に対する罪の宣告であり、それによって『大いなるバビロン』が滅びに面する時に、『二億』もの騎兵隊の告発行動により、宗教体制自身の悪の大きさを恥や自責の念とを以って悟らされることでしょう。

こうして、古代に記されたヨエルの預言書から使徒言行録、そして黙示録へとイナゴを追ってゆくと、終末の聖徒たちと、その業を受け継ぐシオンに集まる信徒たちの活動について、使徒時代を鏡に映すようにして観察することが出来ます。
これは、終末の『北の王』の崩壊の後の信徒たち、つまり彼らが『騎兵隊』となってどう働くかを知らせる極めて重要な情報というべきでしょう。
聖徒たちが、まだ地上に居た間に、迫害を受け窮境に陥った彼らに親切を示して、聖霊の言葉への信仰を表した人々については、イエスが言われたように『まさしく言う、わたしの弟子だという理由でこれら小さな者の一人に冷たい水一杯でも飲ませる人は、必ずその報いを受けないことがない』のであり、また、キリストの右に羊として分けられることになるでしょう。(マタイ10:40-42・25:31-36)

しかし、聖徒たちに善意を示してキリストの側に立つ機会は、彼らが天界に去った後にも、なお開かれていると考える理由はいくつもありますが、この『騎兵隊』に加わることもその開かれた機会の一つとなることでしょう。

終末の『北の王』の恐ろしい脅しを信仰によって耐え抜いた「シオンの民」には、聖徒を葬り去った元凶である宗教体制全体『大いなるバビロン』を告発し、そのあまりに重い罪を暴露する活動を行うための期間が聖徒たちの三年半の世界宣教の後に訪れることを新旧の聖書は証していると言えます。

しかし、その期間はさほど長いものとはなりません。『大いなるバビロン』の滅びが近いからです。
その間に、キリスト教的な覇権国家と脱落聖徒らによる活動が活発化していることでしょう。
それが、神YHWHを無視した新たな宗教、旧来の宗教が聖霊の前に崩れ落ち、すっかり魅力も失せているところに、それになり代る、究極の偶像礼拝への謀略であり、宗教心を持ち続けながらも、かつての宗教に失望した世の人々を広く受け入れ、多くの宗教を一つにまとめ上げる「平和の宗教」となり、強制によって無神論でいた人々は肩身の狭い世界になることも予想されます。(テサロニケ第一5:3/第二2:4)

偽のメシアの統治に、多くの人々が理想的な社会の実現を目前にしているかのように錯覚し、人類の未来を輝かせるかのような宗教社会のユートピア、目に見える地上の「偽の神の国」への支持を常識のように推し進めるでしょう。脱落しているはずの元聖徒たちは悪魔からの霊力を受けてさえ、そのまま神に属していると信じ込む者もいるでしょう。しかし、最後にはイエスから『不法を働く者らよ』と断罪されてしまいます。(黙示録13:15/マタイ7:22-23)
シオンの民の『騎兵隊』の暴露の活動と、この脱落聖徒らによる新たな宗教の進展に挟まれ『大いなるバビロン』には、その最期を迎える時が刻々と近付いています。

ここまで物事が進むなら、世界はキリストの再臨の時期の『終わりの日』も、いよいよ『終局』に起こる『大患難』が勃発する門口まで来ていることでしょう。






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危機から守られる『シオン』

2020.12.22 (Tue)



『シオン』が信徒たちの集団を表し、キリストの再臨により聖霊が再び注がれることから母体となって『聖徒たち』を生み出すとすれば、悪魔の側が『シオン』も放っておくことはないでしょう。
実際、黙示録第12章によれば、聖徒を生み出す前に陣痛の苦しみがあり、生まれてくる聖徒たちである男子の赤子を龍である悪魔が食らい尽くそうと狙うとあり、それでも赤子は神の許に引き上げられて悪魔の攻撃はかわされることになります。

これは、聖徒という聖霊に基く権威が神の前に確立されることを言うのでしょう。
イザヤ書は、『国民が一日のうちに生み出されるだろうか』と問い、『だが、シオンは産みの苦しみが臨むやいなや、子らを産んだ』とシオンによる聖徒の出産が一時に、『神のイスラエル』、『アブラハムの裔』の残りのすべてが生み出されることを予告しています。これは「サラの象徴」である『シオン』がすべての子を生む最終的な出産でもあります。(イザヤ66:8/ガラテア6:16/創世記22:18)

この短期間による聖徒の現れについては、黙示録とダニエル書が告げるように、終末の聖徒たちの活動期間が『三年半』『42ヶ月』『1260日』と三種類の数え方で言い換え、けっして長いものではないことと合致します。存在がわずか三年半であれば、全員が現れるのに世代にわたるような期間となる道理がありませんから、神の裁きは一気に人々の本質を突くものとなるからでしょう。(黙示録11:2-3/ダニエル7:25・12:7)

終末で人々をキリストの前に羊と山羊、つまり右と左に分けるものが、聖霊の証しをする聖徒たちへの反応となるのであれば、また、聖徒たちが天界でキリストと共に祭司団を構成し、千年期に人々を導き、贖罪を行うのであれば、悪魔はそれを何としても阻止したいに違いありません。しかも、キリストと聖徒たち、つまり『女の裔』は悪魔の頭を砕いて終わらせるのですから、聖徒を攻撃することは悪魔の存亡が懸かっています。(マタイ25:31-33/創世記3:15)

しかし、そのときには終末での聖徒たちの現れによって、天の王国を相続する全員が生み出され、天界での勢力に変化が起こります。今やキリストは『女の裔』としての全員を手中に収めたと言えるからでしょう。
『天では戦いが起った。ミカエルとその使いたちが龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所はなくなった』。(黙示録12:7-10)

聖徒たちの全体が生み出され、『アブラハムの裔』がそろったことによる宣言である『今や、われらの神の救いと力と国と、神のキリストの権威とが現れた』との天界の声は、いまだ試練はあるものの、聖霊で油注がれた『女の裔』が出そろったことにより、滅ぼされるべき悪魔が天使の中から追放されるべきことが確定したかのようです。

天使長ミカエルが決起する場面はダニエル書にもあり、そちらでは亡くなっていた昔の聖徒たちの復活の際に、この天使長が立ち上がることが描かれていますので、時期としては黙示録とほぼ同じ期間に相当し、同じ事を述べているのでしょう。(ダニエル12:1)
一方の黙示録は、さらに詳しく語り、聖徒たちの全員が存在するようになったことで、悪魔とその一党は天から地に追い落とされ『自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって地に降った』とあります。(黙示録12:12)

ですから、悪魔が聖徒を生み出そうとしている女シオンをつけ狙うばかりでなく、聖徒が生み出されたことに怒り狂い、シオンを攻撃しようとすることは当然予期されることで、やはり黙示録はそのように告げています。

地に来た悪魔は『男児を産んだ女を追いかけた』とあります。つまり、聖徒を生み出した女シオンを攻撃目標として『ヘビは、口から川のような水を女の後ろに吐き出して、女を押し流そうとした』と、その攻撃が起こることを予告しています。しかし、それはうまくゆきません。『大地が女を助け、口を開けて、龍が口から吐き出した川を飲み干した』。(黙示録12:6)
この『女』を助ける『大地』というのは、おそらく人間の力ある機関、政府の権力や司法の権威を指すのでしょう。あるいは世論にも守られるのかも知れません。ともかく、地上に来て荒れ狂う悪魔は、聖霊の言葉に信仰を持つ集団、また『神の王国』を支持し、その聖徒たちを生み出した信徒の集団に強い敵意を向けることでしょう。

しかし、『女』には神からの助けの備えがあります。『女は荒野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるために、神の用意された場所があったのである』と黙示録は告げます。(黙示録12:6)
この期間は、ちょうど聖徒たちが聖霊の言葉を語って預言し、苦しみに遭いながらも証しする期間と同じです。それは黙示録の同じ文脈で念を押すかのように、『女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである。女はここで、蛇から逃れて、一年、その後二年、またその後半年の間、養われることになっていた』ともある通り、やはり三年半、42か月、1260日の安全が与えられるのです。(黙示録11:3・12:14)

一方で、聖徒たちにはいよいよ試みが臨みます。『龍は女に対していきり立ち、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守り通している者たちと戦おうとして出て行った』とあります。こうして悪魔は、その攻撃目標を女から聖徒たちに変更して狙いを定めます。(黙示録12:17)

それですから、聖徒の母である「女シオン」は、生み出した聖徒たちが神の崇高な世界宣教の証しの業を行っている『三年半』の間については、神によって悪魔の攻撃から保護を受けることになり、それはイエスの終末預言の中でも、イエスの困窮する『兄弟たち』に援助の手を差し伸べる人々が居て、その善意ある行いによってキリストの右に是認を受ける『羊』として分けられるとの言葉とも合致するものでもあります。(黙示録11:3/マタイ25:38-40)

ですから、シオンに属していた元からの人々だけがキリストの側に立って是認を受けるわけではありません。
預言者イザヤとミカは言葉をそろえ、まるで一人の証言者が語るように、まったく同じ言葉で預言をしているところがあります。
『終わりの日に、YHWHの神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、ほかのどのような峰々よりも高くそびえ立つ。
国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。「YHWHの山に登り、ヤコブの神の家に行こう。YHWHはわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。YHWHの教えはシオンから、その言葉はエルサレムから出るからだ」』。(イザヤ2:2-3=ミカ4:1-2)

ここに描かれる人々は、シオンに参集してくる諸国民であり、そしてその時には、すでにYHWHの山シオンは並ぶべきものがないほどに高められています。
ですから、この新たな人々は、聖霊の言葉を語る聖徒たちの世界宣教の結果としての心に抱いた信仰により、シオンを目指して来るのでしょう。それゆえにも、シオンについてはその受け皿として安全地帯になっているべき必要もあります。

そして、信仰する者たちの集団であった女シオンは、諸国民から頼られるほどに高められ、清い信仰を抱く世界の人々の行く先となることでしょう。小山であったシオンは、あらゆる秀峰をも見下すほどに高められ、どんな宗教や思想からも跳び抜け、他を凌駕していることでしょう。諸国の人々はそれが分かっているからこそ、真実の神YHWHを求めてシオンに『大河のようにそこに向かう』に違いありません。
おそらく、その間にユーフラテスの水位は激減してしまうのでしょう。そうであれば『大いなるバビロン』を滅びに向かわせることにもなります。聖霊の証しを前にして、もはやそこには何の優れたところも魅力もないからです。

旧来の宗教については、黙示録が『大いなるバビロン』と呼ぶ前の段階ですら存在意義すら失ってしまう様が、黙示録の前半『七つのラッパの吹奏』のはじめの四つの中に繰り返し描き出されています。
それらによって打撃を受けるのは『地』『海』『川』『太陽、月、星の光』のそれぞれ『三分の一』であり、木々は焼き尽くされ、海水は血となり、川は苦くされ、天体は光を失ってしまいます。
これが宗教という分野に起るであろうことについて簡単に言えば、終末というものの性質からしてそう言えます。
樹木は人々の間で優れた者を、海水は世界の人々を、川の水源は宗教の出所を、天体の光は教えを指していることでしょう。
しかし、神の真理が明かされるに従い、政治や経済と共に世界を構成する『三分の一』は大きな打撃を避けられません。

宗教指導者は羞恥に焼かれ、信者たちは死のような教えにまとわれ、宗教の根源は清涼なものでないことが暴露され、人々を導くはずの光明は消えてしまうということでしょう。

しかし、荒野に逃れた『シオン』の安全も、『一年、その後二年、またその後半年』が終わるとき、つまり「三年半」が終わると保護が解かれ、再び脅かされることになります。それは『野獣』という権力が聖徒たちに実力を行使して襲い掛かり、制圧することに関係しているのでしょう。しかし、恐れるべきでないことを新旧の聖書が示しています。(黙示録11:7)

その『野獣』という名の権力は、ひとつの国家が主導するものの、実際に聖徒を手にかけるのは一か国の権力ではないでしょう。
なぜなら、黙示録が描くように、聖徒たちを攻撃する『獣』は『七つの頭と十本の角と王冠を持つ』異形の生き物だからです。(黙示録13:1・17:7-14)
ダニエル書の第11章の中では、『聖徒の民を滅ぼす』のがマケドニア・ギリシアの王、つまり『北の王』エピファネスであることを指し示すのですが、同時にそれを、後から生えて来た『角』であるともダニエルは記しています。これは終末でのエピファネスのような『北の王』の国家が、後発のもので、それ以前の幾つかの強国を凌いで後、さらに強力な覇権国家と急成長することを教えるものです。(ダニエル8:20-24)

また、同書は『彼は軍隊を派遣して、聖所と要害を汚し、日毎の供え物を廃止し、荒らす憎むべきものを立てる』とあり、黙示録では異形の獣が聖徒を妨害し、遂には滅ぼすことが述べられているところからすれば、終末に聖徒を殺める直接の勢力は『北の王』が『派遣した軍』であり、それは『七つの頭と十本の角と王冠を持つ』という、国際的な集団の軍事力の行使であることを指し示してもいるのです。(ダニエル11:31/黙示録13:7)

もちろん、『北の王』は反宗教的ではありますが、国際的な集団の方は必ずしもそうではないのであれば、『北の王』が『大いなるバビロン』の訴えを利用すること、つまり『他国の神々と共に要害(聖所)を攻撃する』事も聖徒については有り得ることでしょう。ほかの宗教と共に、またはそれ以上に『北の王』は『神の王国』に激しく反対するからで、圧政者の彼にとってキリストの千年王国など到底許せないことでしょう。(ダニエル11:36-39)

こうして終末の『北の王』は、聖徒攻撃に着手しますが、それが成功してしまうことは、聖書がはっきりと繰り返すところで、疑いようもありません。
しかし、その神への反対行動の直後、この『北の王』が突然の崩壊に直面することも聖書は知らせています。
『彼らの国の終りに、罪人の罪が満ちるに及び、ひとりの王が起る。
その顔は猛悪で、彼は曖昧な言い回しをよく理解し、その勢力は盛んであって、恐ろしい破壊をなし、その行うところは成功して、有力な人々と聖徒である民を滅ぼす。彼は悪知恵をもって、偽りをその手に行い、自ら高ぶり、不意に多くの人を打ち滅ぼし、また君の君たる者に敵する。しかし、遂に彼は人手によらずに滅ぼされる』(ダニエル8:23-25)

このように『北の王』が聖徒攻撃に成功しながら、最後にはシオンにも押し迫ることもダニエル書はこう告げています。つまり、世界を二分する南北の王たちの覇権争いの中で、シオンにも危機が訪れます。
『終わりの時になると、南の王は彼に戦いを挑む。それに対して北の王は、戦車、騎兵、大船隊をもって、嵐のように押し寄せ、各国に攻め入り、洪水のように通過して行く』とダニエルは天使の言葉を記すのですが、この場面はダニエル書も終わりに差し掛かっており、その後には『神の王国』が設立されることを暗示する第十二章の幾らかの文章が残されているばかりです。(ダニエル11:40-)
つまり、終末に『南の王』が『北の王』に対して戦端を開くと、『北の王』は自軍の大きさにものを言わせて、素早く広く侵攻してしまいます。

その結果、『あの「麗しの地」も侵略され、多くの者が倒れる』とあります。(ダニエル11:41)
この「麗しの地」とは『約束の地』『乳と蜜の流れる』パレスチナですが、これは実際の土地を指すのではなく、象徴的な「聖なる地」を指すのでしょう。つまり、聖徒たちが迫害に倒れる中で、信徒たちの『シオン』の地までもが『北の王』の強烈な恫喝に曝されることになるということでしょう。

それが証拠に、その結果として『彼は大海*と麗しい聖なる山との間に、天幕の王宮を設ける』ともあります。(ダニエル11:45)*(地中海)
しかし、ここでダニエル書は、すでにエピファネス王やシリア王国のことを語ることからすっかりと離れて、別の事象を語り始めています。ダニエルに語る天使は、終末を知らせる材料として、ここからは古代アッシリアの出来事を用い始めているのです。

それは、まだダヴィドの王朝が健在であった時代のユダ王国のこと、つまり獰猛な大軍をパレスチナに送り込んだアッシリア帝国のセナケリブ王の故事に触れていると言えるのです。(歴代第二32:9)
なぜなら、セナケリブ王こそ、地中海とエルサレムの山地との間にある「シェフェラの台地」に大軍を布陣し、移動宮廷を設けてエルサレムの手前にある要塞都市を攻めていた故事があるのですが、その件でダニエル書、イザヤ書、歴代誌、そしてイエスの言葉に不思議な一致が見られるのです。

セナケリブは、ダヴィドの王統を継ぐヒゼキヤ王を恫喝して降伏させようとし、ユダの民はもはや命運も尽きたと覚悟を決めつつあったときに、預言者イザヤはヒゼキヤ王と民に神YHWHの言葉を告げてこう言いました。
『(アッシリアの王が)この城市(エルサレム)に入ることも、矢を射ることも、盾を持ってこちらに向き合うことも、攻囲の塚を築くことさえもない。』『わたしは自らのために、そして我が僕ダヴィドのためにこの城市を必ず守ってこれを救う』(イザヤ37:33.35)

当時の実際の状況からすれば、とても信じられないような預言の言葉であったことでしょう。
しかし、神はたった一人の天使に命じて、一晩の内にアッシリアの大軍十八万五千を亡き者としてしまいました。(歴代第二32:21)
『人間のものではない剣によってアッシリアは倒れる。人間のものではない剣が彼らを食い尽くす。彼らは剣を恐れて逃げ、その若者たちは奴隷労働に服すことになる』ともイザヤは預言していたのです。(イザヤ31:8)

まさにその通りの事が起りましたが、神はイザヤを通して必ずシオンを守ることを宣言し、恐れないようにと命じていたのです。
『(敵の)その声によって驚かず、その叫びによって恐れないように、万軍のYHWHは下ってきて、シオンの山およびその丘で戦われる。鳥がひなを守るように、万軍のYHWHはエルサレムを守り、これを守って救い、これを惜しんで助けられる』。(イザヤ31:4-5)

では、終末の『北の王』が聖徒を滅ぼし、その暴虐が信徒の集団である『シオン』に近付くとしても、神YHWHはその象徴的な地を守られないことがあるでしょうか。もちろん、世界覇権国家の脅しに耐えることには相当に強い信仰が要るに違いありませんが、信じる者たちのシオンには偉大で不動の神の預言がこのようにあったのです。(ゼカリヤ2:5)
聖徒たちを滅びに陥れた勢力も、その頭目である終末の『北の王』が世界覇権を目指して広く世界に攻め込んだことで意気も上がることでしょう。しかし、それはこの王の臨終が迫っている印でもあるのです。
おそらくは、強権支配の無理が高じて権力が内部から崩れてしまうのでしょう。それも『人間のものではない剣によって倒れる』と言えることでしょう。
飛ぶ鳥落とす勢いで北から攻め込んだ王セナケリブも、恥をかきつつアッシリアに逃げ帰り、やがて後継者争いから二人の息子に殺されて死を迎えています。(列王第二19:35-37)

実に、イエス・キリストもこの事態を先見されて語られているかの言葉を残しています。
『戦争や暴動のうわさを聞いても、おびえてはならない。こうした事がまず起こると定まってはいるが、世の終わり(テロス)はすぐには来ない』。(ルカ21:9/マタイ24:6/マルコ13:7)
この二大覇権国家の戦争は、世界最終戦争とも言われる「ハルマゲドンの戦い」とはなりません。最終的な神と人との戦いでは、世界連合軍は同士討ちで壊滅することを聖書は繰り返し教えますが、終末の『北の王』は、ただ自分ひとりの権力が崩れ去ってしまうからです。

終末の『北の王』は世界に広く攻め込み、また聖徒たちの多くを滅ぼし、その活動を終わらせることでしょう。
その勢いをかって、信徒たちの集団にも強烈な脅しの言葉が突き付けられることをイザヤとダニエルの預言は予期させるものです。そのときには保護の「三年半」が終わっているでしょう。
しかし、古代に神がシオンとエルサレムを守られたように、信仰を抱いて立ち続けるならその脅威も砕かれ、巨万の軍といえども目の前で総崩れを起こしてしまうのでしょうし、異形の『野獣』も活動期間の『四十二ヶ月』の時間切れを迎え、一度は姿を消しているでしょう。(黙示録13:5)
ですから、イザヤもイエスも、恐れおびえてはならないと言うのです。

ですから、聖徒を失ったとは言え、それこそは天界のキリストの許に彼らが集められたことの印でもあるのですから、むしろ、残された信徒たちには、更に信仰を強める理由であるのです。
そして『シオン』は、さらにもう一度保護されることになるのですが、それはいよいよ再臨の最終的な結末と「千年王国」とをもたらす時となるでしょう。

ここまで来れば、イエスが言われたように再臨から始まる『この世の終り』の中でも、さらなる「終局」(テロス)が『すぐには来ない』とは言え、目前であることには変わりません。
ダニエルに天使はこう語っています。
『聖なる民が全く打ち砕かれると、これらすべての事が直ちに成就する』。(ダニエル12:7)

ですから、聖徒が天に去った後についての聖書に書かれた終末の情報は、もはや聖徒のためのものとはならず、新たな『神の民』、信仰を働かせ『シオン』に集う人々に向けられたものなのです。
では、人々は『恐れてはならない』との言葉にどう反応するのでしょうか。






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終末に先立って現れる『シオン』

2020.12.06 (Sun)


『シオン』とは、エルサレムの街を乗せている小山を指す呼び名です。
しかし、この言葉『シオン』には、ただの場所を表すばかりでない深い意味が聖書中に与えられています。
エルサレムの街はたいへんに古い起源を持つとされ、四千年ほど前のアブラハムの時代には『サレム』とだけ呼ばれて、やはりそこは人の住む場所として記録されています。
それから四百年を経て、アブラハムの子孫がエジプトで増えてイスラエル国民となり『約束の地』パレスチナに到着したときに、そこは『エルサレム』と呼ばれるカナン系エブス人の街となっていました。

イスラエル民族にパレスチナが与えられるに際して、神は彼らがカナン系の諸部族を追い払って入植するように命じていましたが、イスラエルはカナン人をすべて追い払うことには失敗して、あちこちにカナン人の街を残していたのですが、シオン山上にエルサレムの街を構えるエブス人についてもその残りのひとつとなっていました。

その原因には、エルサレムの街が勾配の急なシオンの山の上にあるために攻め難い要害にあったということがあります。
今日でこそ「エルサレム」と言えば、イスラエルの都とされて有名ではあるのですが、この街がイスラエルに属したのはモーセの後継者ヨシュアの入植の時代ではなく、三世紀以上後のダヴィド王まで待つことになりました。

イスラエルの全部族から王位に就くことを依頼されたダヴィドは、『約束の地』の中ほどに近いエルサレムの攻略に着手しました。しかし、シオン山の要害に阻まれ、エブス人からは『お前はここに来られない』と山上から罵倒されてしまいます。
それでもダヴィドは、取水用の井戸穴を探り出し、そこから市内に侵入してエルサレムを占領することに成功するのでした。

その後は、シオン山上の街を指して人々は『ダヴィドの街』と呼ぶようにもなり、イスラエルの首都となるばかりか、二代目の王ソロモンによって神WHWHの神殿が創建され、エルサレムは政治的にも宗教的にも民族の中心地の地位を得ます。
このエルサレムは急斜面のシオン山に守られ支えられる街であることから、やがて『シオン』という言葉はイスラエル民族にとって聖なる故地を意味するものとなってゆきます。

さて、キリスト後の第一世紀まで時代は下り、イエスを退けたユダヤでは西暦七十年、ローマ軍によるエルサレムと神殿の最後の破壊をもたらした『火のバプテスマ』の後から、ユダヤ人は次第にパレスチナを追われ、諸国に流民となってゆきましたが、この民族にとってのパレスチナ帰還願望が近代に「シオニズム」と呼ばれたのも、シオンの地にユダヤ人の首都を回復する悲願を表す呼び名であったのです。(詩篇137:1)

今日のように、パレスチナにユダヤ人の近代的な国家が存在するようになるとエルサレムが回復されたかのように見え、イザヤやエレミヤなどの旧約の預言者たち(ネイヴィーム)が予告したイスラエルの帰還が神の意志の通りに実現したと信じる人々も少なくありません。(エレミヤ31:4-6)
それらの人々は、神はエルサレムを再び繁栄させるという預言の言葉が、二十世紀になってから文字通りに地上のシオンとエルサレムに成就したと思うのでしょう。イスラエルという民族国家が離散を経て再び集合し存在するようになったからです。(ゼカリヤ1:17)

ですが、そのように信じるなら『新しい契約』を理解の外に押しやることになってしまいます。
つまり、律法契約を終わらせたメシア=キリストの仲介によって締結された別の契約があるのです。それはモーセ仲介の『律法契約』をも含めて成就する、より高次元で重要な、しかも聖霊の関わる「新たな契約」のことであり、それは旧約聖書にもはっきりと預言されていたものです。(エレミヤ31:31-33)

『新しい契約』の崇拝は、律法の動物の犠牲に代えて、キリストの完全な犠牲が永遠に捧げられ、律法の崇拝を完了させた上に成り立つ、より高度な『霊による崇拝』をもたらしました。それは『エルサレムでもないところで行われる』崇拝となるとイエスは明言されています。(ヨハネ4:21-23)
そのうえ、キリストの血は、信仰を働かせたユダヤ人から律法不履行の罪を取り除いて赦しを与え、キリストと共に『義』を得るようにさせ、それによって聖霊を介した崇拝が聖徒の集まりの中で行われる新しい次元を開いています。(ローマ8:33)
イエスが持っていたような奇跡を行う聖霊の崇拝は、それを持つ聖徒らがキリストと結びついた『兄弟』であることを証しするものとなり、彼らこそが『アブラハムの裔』、人々の罪を贖う「真実のイスラエル」であることを示したのです。

ですから、パウロは自分たち聖徒がユダヤ教徒とは異なり、かつてモーセを通し律法を与えられた山シナイではなく、キリストにより聖霊を授けられた場所である『シオンの山』に由来することを述べています。(ヘブライ12:18-24)
古代にはシナイ山の下に集まっていた民に、神は国家法となるべき律法を守らせるための強烈な恐ろしさを与えながら契約締結に臨まれました。(出エジプト20:18-20)
その一方でキリストの新しい契約では、シオンの山上のエルサレムにいた弟子たちには、キリストの完全な犠牲に基づいた天からの是認の内に、赦しの印としての聖霊が降っています。この脅しと赦しに於いて二つの契約には対照的なものがあります。キリストの教えは国民に対するような義務的な法律とはならず、自由の内に信仰を抱いた個人に感化をもたらすものとなりました。(ローマ8:14-16/ペテロ第一2:16)

パウロはまた、律法契約が多くの規則で成り立ち、民を縛って奴隷のようにしていた事と、新しい契約がそうした隷属的な定めの数々から解放されたものである事とを対照させ、イエスを受け入れず律法に留まったユダヤ教を奴隷女の『ハガル』に例え、新しい契約に属するキリスト教をその女主人の『サラ』に例えてもいます。奴隷ではなく自由人の『サラ』こそがアブラハムの正妻であり、律法から解かれた自由民である聖徒たち「真実のイスラエル」の母とも言えます。(ガラテア4:25-26)

実際、使徒パウロは『キリストがわたしたちを律法の咎めから買い取って釈放した』と断言し、使徒ペテロは異邦人を含めた聖徒たちについて『あなたがたも善を行い、またどんな事でも恐れないなら、サラの娘となる』と手紙に記しています。(ガラテア3:13/ペテロ第一3:6)
まさしく、彼らはイスラエルの血統によらず、『水と霊から生まれた』聖なるイスラエルの民であり、その一員である価値はもはや地上のエルサレムをどうこう言うものではありません。(ヨハネ3:5・4:21-24)

この観点に立って『シオン』を見ると、ただの地上の小山ではない、より意義深く抽象的な『シオン』というものが考えに入ってきます。
つまり地上の都市ではない、より高次で意義深いエルサレムを乗せる「抽象的なシオンの山」です。
やはり旧約聖書では抽象的な『シオン』について語られており、特に雄弁に語るのがイザヤ書と、同時代に書かれたミカ書です。

まず、イザヤ書に特徴的なのは『シオンの娘』という言葉、そしてその母親である『シオン』が擬人的に描かれていることです。
『シオンの娘』または『シオンの子ら』は、美しく装っていたことが描写されます。
その姿には『足首の飾り、額の飾り、三日月形の飾り、耳輪、腕輪、ベール、頭飾り、すね飾り、飾り帯、匂袋、護符、指輪、鼻輪、晴れ着、肩掛け、スカーフ、手提げ袋、紗の衣、亜麻布の肌着、ターバン、ストール』と持ち物に恵まれ、娘として栄えの中に恵まれて生活していた様が語られます。

しかし、やがてこの娘は高慢さを帯びてしまいます。
『シオンの娘らは高ぶり、首を伸ばして歩き、目で媚を送り、その行くときには気どって歩き、その足飾りをりんりんと鳴り響かす。』(イザヤ3:16-17)
これは、イスラエルが律法から離れた事を指します。ですから裁きを前にした時期の預言者エレミヤは『背信の子らよ、帰れ』との神の言葉を預言しました。
つまり、その『子ら』は律法契約で結ばれたはずの神YHWHから離れ、異教に流れてしまったからで、それは契約違反でしたから、神は罰する事を差し控えず、イスラエル民族はアッシリアとバビロニアに捕囚とされ、遠く『約束の地』から引き離されます。(エレミヤ3:14)

そのように神が『シオンの娘』を処罰したことについてイザヤは続けてこう語ります。
『芳香は悪臭となり、帯は縄となり、よく編んだ髪は禿となり、華やかな衣は荒布となり、美しい顔は焼き印ある顔となる』。(イザヤ3:24)
これは覇権国家によって征服され、民が捕囚とされる事を指すので、イザヤはさらに『あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れる。シオンの門は嘆き悲しみ、シオンは荒れ果てて、地に座わり込む』とも語っています。(イザヤ3:25-26)

エルサレムは人の住まない廃墟となり、その街を載せていたシオンの山は、まるで子らを取られた母親のようで、神殿も失って、夫に去られた寡婦のようにされてしまいました。
『人々は「あれが見捨てられた女、だれも顧みることのないシオンだ」と言う』と、捕囚の間の落ちぶれたエルサレムの廃墟が異邦人に卑しめられるさまをエレミヤは預言していました。(エレミヤ30:17)

しかし、やがて赦しの時期が到来することになります。イスラエル民族は依然として『契約の子ら』であり、メシアの到来を見る必要がありました。
エルサレムの滅びから五十年ほど経過する内に、バビロニアはキュロス大王の率いるメディアとペルシアの前に倒れ、「当時のメシア」であるキュロスの寛容政策によって諸国の民と神々がバビロンから故地に戻されていったのです。

そのため、寡婦となって身を落していた『シオン』の許には、思いがけず『子ら』が大勢帰って来ることになったのです。
『あなたを破壊した者は速やかに来たが、あなたを建てる者は更に速やかに来る。あなたを廃虚にした者はあなたから去ってゆく。
さあ 目を上げて、見渡すがよい。彼らはすべて集められ、あなたの許に来る・・その時あなたは心の内に言うであろう、「だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子を持たない。わたしは捕われ、また追いやられた。誰がこれらの者を育てたのか。見なさい、わたしは独り残された。これらの者はどこから来たのか」と』。(イザヤ49:17-18)

それからしばらくすると、シオンの子らは神殿を再建し、母親シオンの夫である神YHWHを呼び戻すことになります。
それは西暦前515年、以前の神殿の破壊の起こった前586年から七十一年目のことであり、エレミヤが予告した通り七十年の空白の後に、契約の民は異国の王に仕える生活を終え、再び彼らの神YHWHに崇拝を捧げることになったのです。(ゼカリヤ8:3/エレミヤ25:11)
これらの見事な回復について『YHWHはこう言われる。お前たちの母親を追い出した時のわたしの離縁状はどこかあるのか。お前たちを売り渡した時の債権者は誰なのか。お前たちの罪によってお前たちは売り渡され、お前たちの背きのために母親は追い出されたのだ』とあります。つまり、子らが帰るその時にはイスラエル民族の罪が赦され、シオンには繁栄が戻ることもイザヤによって三百年も以前から預言され、それがこうして成就していたのです。(イザヤ50:1)

これらのイザヤ書の回復の言葉はユダヤ人によって「慰め」(ナハムー)の預言と呼ばれるものとなり、イザヤ書の第40章以降に語られていますが、そこには古代の出来事を通して、終末の時期に関する多くの事柄が含まれています。つまり、バビロン捕囚からの民の帰還は、終末にもう一度象徴的な意味で起こる事柄としても描かれているのです。

例えれば、イザヤと同時代の預言者ミカは、捕囚に身を落していた『シオンの娘』が豹変する姿を描いています。
そこでは『シオンの娘よ、産婦のように苦しんでうめけ。あなたは今、町を出て野に宿り、バビロンに行かなければならない。その所であなたは救われる。YHWHはその所であなたを敵の手から買い戻される』として、まずその捕囚と、そこからの請戻しを預言するのですが、『娘シオンよ!立って脱穀せよ。わたしはお前の角を鉄とし、お前のひづめを銅として、多くの国々を打ち砕かせる。お前は彼らの不正に得た富を、その奪った富をYHWHに、全世界の主に捧げるであろう』とも書かれ、シオンの娘が諸国を粉砕するほどの強大な権力を持つようになるとも知らせてもいるのです。(ミカ4:10・13)

これはキリストの王国の到来による『この世の終り』と征服を指しているのでしょう。(ゼパニヤ1:14/ダニエル2:44)
やはり、ミカはエルサレムの土台に向かって語り『エルサレムの娘の王権が、お前のもとに再び返って来る』とも告げています。(ミカ4:8)

ですから、旧約預言の『シオンの娘』や『子ら』とは、新約聖書に於けるキリストに属する聖徒、つまり『神の王国の相続者』であることを聖書全体が知らせているのです。(ローマ8:15-17)
そして「シオンの山」が、それらの『子ら』や『娘』の「母」となることを、その昔から預言者たち(ネイヴィーム)がずっと指し示していました。まさしく、こうしたところが聖書という書物の驚くべきところです。寿命の短い人間などがこれら悠久の秘儀を考案することなど到底できないからです。

では、さらなる謎としての、『終わりの日』に聖徒たちを生み出して母親となる「終末でのシオン」とは何者なのでしょうか。
この観点から新約聖書の中を探ると、ただならぬ身分の『子』を産む女が確かに見出されます。
それが、黙示録第12章の初めから現れる『女』であり、陣痛に苦しみながら、男児を出産します。(黙示録12:1-)
しかし、『初めからのヘビ』である悪魔は、その子が生まれたところで食い尽くそうと身構えていたのですが、その子はすぐに神の御許に保護されます。

生まれるその子は『鉄の杖をもってすべての国民を治めるべき者』とあり、『神の王国の相続者』であることが示唆されています。つまり『キリストと共なる相続人』のことです。(ローマ8:17)
黙示録のこの『男児』は、『娘』でもなく『多くの子ら』でもありませんが、ここにはかつて生まれた『独り子』イエスを亡き者にしようと動かされた『東方からの心霊術者(マギ)』と、ベツレヘムの二歳以下の男児を抹殺したヘロデ大王の故事が暗示されています。(マタイ2:1-16)
これはつまり、終末に聖徒たちが現れる初めの時期にも悪魔が彼らの登場を妨害しようとすることの警告と言えるでしょう。

他方、王国の子を生み出す母親について、黙示録にはこう描かれています。
『大いなる印が天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた』。(黙示録12:1)
聖徒を生み出すであろうこの女が、天空の光をまとい、また天の印として現れたからと言って天の領域のものと決め付けるわけにもゆきません。なぜなら、人間にとっての自然な上からの光はすべて天から注ぐからであり、太陽、月、星とは、そのすべてを指していますし、その幻が天に現れたとしても、それは映像を映し出す画面として天空の光を反映する女を見せる場として捉えることは可能です。まして黙示録での『赤子』は天の神のもとに逃げていますし、この『女』は地に来た悪魔の攻撃を受けてもいるのですから。(黙示録12:13)

しかし、より注目すべきは、黙示録のほかにイザヤ書も終末に輝く女であるシオンについて預言していることです。
『(女よ)*起きよ、光を放て。あなたの光が到来し、YHWHの栄光があなたの上に昇ったからだ。見よ、暗きは地を覆い、闇が国々を包む。だが、あなたの上にはYHWHが輝き出で、その栄光があなたの上に現れる』。(イザヤ60:1) *(動詞が女性形)
そして、この「女シオン」の許には多くの子らが四方から次々に集められて来るというのです。
『さあ目を上げて見まわせ。皆があなたのもとに集まって来る。息子たちは遠くから、娘たちは腕に抱かれて進んで来る・・それは海沿いの国々がわたしに向けて送るもの、タルシシュ*の船を先頭に金銀を持たせ、あなたの子らを遠くから運んで来る。あなたの神、YHWHの御名のため、イスラエルの聖なる方のために。主があなたに輝きを与えたからである。』(イザヤ60:4・9)*(スペイン)

こうして新旧の聖書はそれぞれに八百年も記録された時を隔てていながら、『シオンの娘』という聖徒たちと、その母となる女『シオン』の姿を描き出しているのです。

しかし、終末に聖霊が再び注ぎ出され、聖徒たちが再び現れるキリストの臨在の時が何時になるかは不明で、そのためにもイエスは『家の主人は、盗賊がいつ来るか分かっているなら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入ることなど許さない。あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子は来るのだ』と弟子たちに命じられています。(マタイ25:43-44)

ですから、終末のいつ聖徒たちが生み出され、再び聖霊を注がれるのかを知る者はありませんが、その以前に聖徒たちの母親は存在を始めていて、しかも『この世』の暗闇の中で光を放ち始めることを黙示録とイザヤ書とが教えているのです。
その『女』は、一家の者たちが起き上がって来る前から、かまどに火を入れ、朝食を用意する主婦のようでもあります。『終わりの日』の朝方、暗い中で働き始めるのです。

その女こそが『アブラハムの裔』を生み出す正妻『サラ』ですから、イザヤ書は『子を産まなかったうまずめよ、喜び歌え。産みの苦しみをしなかった者よ、声を放って歌いよばわれ。夫のない者の子は、嫁いだ者の子よりも多い」とYHWHは言われる』と、独り息子イサクだけをやっと生んだサラが、多くの子らに恵まれるという古代には起らなかった抽象的、霊的な意味での喜びを歌います。(イザヤ54:1)

イエスは盗人の例えに続けてこのようにも言われました。
『主人がその家の奴隷たちの上に立てて、時に応じて食物を備えさせる忠実な思慮深い奴隷は、いったい誰だろうか。
主人が戻ったとき、そのように努めているのを見られる奴隷は幸いだ』。(マタイ24:45-46)
この訓話はルカ福音書にも有りますが、そちらでは使徒ペテロがこの話に先立ってイエスこう質問しています。
『主よ、この例えはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、皆のためですか』。(ルカ12:41)

つまり、ペテロたち使徒が是認された聖なる者の立場を表すのであれば、イエスの不在の間に家の仲間の奴隷たちに定時の食事を備え続け、主人を共に待つ下僕たちが、聖徒であるか信徒であるかと質問していることになります。
しかし、イエスはペテロの問いには答えずに『忠実な思慮深い奴隷』について話しを始めました。

それが表すことは、聖徒であるか信徒であるかはそれが成就する時点で問題ではないということでしょう。なぜなら、キリストが再臨する以前には聖霊が再び注がれて聖徒たちが現れることはなく、『シオン』は『子』を生んでも集めてもいないからです。
しかし、「女シオン」という奴隷たちの集団は神の栄光を受けて輝き始めていることがイザヤ書と黙示録の記述の順から明らかです。

これらの聖書の言葉を総合してゆくと、終末に先立って活動を始める「主人の奴隷たちの集団」が形成され、この集団全体が聖徒たちを迎える母体『シオンの山』に相当することになり、そこに『子ら』が集められます。また、その以前にこの集団を世話して導くまとめ役の奴隷が居るということも分かります。
それらの者が『新しい契約』に属していることはないでしょうから、その『忠実な思慮深い奴隷』または『家令』(ルカ書では会計奴隷)も奇跡の聖霊で導かれるということはないはずです。(ルカ12:)

使徒ヨハネも言うように、メシアの栄光の以前には聖霊も無かったのですから、祭司でもレヴィ族でもなく後に十二使徒に含まれる漁師のアンデレやヨハネのように、聖霊はもちろん神からの任命も役職もないながら、自発的に神の意志を求めて活動を始める人々が終末にも現れ、後になってキリストの喜ばれる者となることは再臨の時にも有り得ることです。(ヨハネ7:39)

そのように仲間の奴隷たちを養うために努める『忠実な思慮深い奴隷』の働きを試みる者は一人だけではないかも知れません。
マタイ福音書では、『もしそれが悪い奴隷であって、自分の主人は帰りが遅いと心の中で思い、その奴隷仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その奴隷の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目に遭わせるであろう』ともあります。(マタイ24:48-51)

この意味は、本当に主人を待ち続けるのではなく、自分で勝手に時を前倒しして宴会を始めてしまい、主人の帰宅に無関心であるなら、それは悲惨な結果を招くということでしょう。
その『悪さ』は、主人の都合ではなく、自分の願望に従ったところに原因があります。

そこで、神への畏敬を持ち、キリストの再臨を待つ「信仰ある人々」は、神とキリストを中心とした思いを懐き続ける必要があります。そのような人々が現れないなら「女シオン」も登場せず、『忠実な思慮深い奴隷』も意味を成しませんし、終末さえ遠のくのかも知れません。
終末にキリストを主人とする『奴隷たち』となる人々の各自は「神は自分に何をしてくれるのか」ではなく、「自分は神に何ができるのか」を問う内心の動機がなくては、容易に神を無視した「ご利益信仰」に陥ってしまい、それは神を待つ姿勢とはならないでしょう。

はたして人は、神が自分に益を与えてくれるので崇拝するのでしょうか。
もし、そうなら、その人がどれほど恭しい態度を神に見せたとしても、実は神を自分の僕のようにしているのです。
あなたが神であったとしたら、そのような崇拝者に囲まれていたいと思うでしょうか。

いや、その利己性こそが『罪』となって創造界に不調和と苦しみをもたらし、神との関係を壊し、イエス・キリストを除き去った精神なのではありませんか。
では、そのように利己的ではないキリスト教、また宗教がどこにあるものでしょうか。
それは個人個人の心の奥にある良心と愛とに基く価値観によってはじめて見出され、あるいは形作られるものなのでしょう。

では、『シオン』という女はいつ現れるのでしょうか。
それは人間の側に投げかけられた問いのようです。
イエス自身がこう言われます。
『しかし、人の子が来るときに、はたして地上に信仰が見られるだろうか』。(ルカ18:8)
この言葉をキリスト教団体に所属している人々は怪訝に聞くことでしょう。自分たちの集団があるし、キリスト教界は世界一の信者を誇るのですから。
しかし、イエスの言葉には危うさが込められているのも事実です。
どれほど多くの教会や宗派があろうとも、イエスの求める『信仰』がそこにあるという保証はありません。

また『女』の現れは、ただ時間が経過するのを待てばよいのではないでしょう。
問題は、自分の願望を別にして、神の意志を探ろうとするだけの信仰を働かせる人がこの世にいるか、ということです。
神の意志は、人の思惑を遥かに超え『天が地より高いように』価値あるもので、それに気づける人には『全部の財産を売り払って買う』真珠商人の例えのように扱われるようなものなのですが、それを見出す人が今日いるのでしょうか。イエスが来られるときにそうしているなら、その人は幸いでしょう。(マタイ13:45-46)





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荒らす憎むべきもの

2020.11.30 (Mon)

この言葉『荒らす憎むべきもの』は、イエス・キリストが使徒たちの質問に答えて、神殿が破壊されてしまうユダヤ体制の終わりを語った一連の預言の中にあり、マタイとマルコが記録していますが、キリスト教界を見渡しても、創世記の『女の裔』から黙示録の『聖徒』を理解した明解な教えがされていないため、これがもたらすの害がどんなものかが明瞭ではありません。

イエスは受難の三日前に、エルサレム神殿を眺めるオリーヴ山で、37年後に到来するエルサレムの滅びと荒廃を予告し、その時期に起る様々な事、戦争の噂、軍隊の攻囲などを挙げて使徒たちの注意を促しました。つまり、ユダヤが『火のバプテスマ』を受ける患難についてであり、ユダヤ体制の終わりについてのイエスの預言が二重の成就を示唆している以上、ユダヤ体制の終わりは、延いては再臨、つまりこの世の終りの有り様を写す鏡像でもあります。ですから、これらの預言の言葉は今も生きていて「昔に済んだこと」にはなりません。

その預言の中でも、特にユダヤとエルサレムに居る者たちには、あるものを見たなら『山に逃げよ』とイエスは命じられていました。
ルカ福音書は「それ」が軍隊によるエルサレム攻囲であったことを告げています。実際にそれからエルサレムが何度も軍勢に攻囲される中で、イエスを信じた人々の群れが北東部の高地の街ペッラに逃れていたことを史料は記しています。その後、ティトゥスの率いるローマ軍の最後の攻囲によって、遂にエルサレムは神殿と共に最期を迎えます。(ルカ21:20-21/教会史3:5)

他方、マタイとマルコの福音書によれば、弟子たちがエルサレムを後にする契機の「それ」については、『預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべきものが、聖なる場所に立つのを見たならば』『そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。畑にいる者は、上着を取りに戻るな』とイエスは語っていたとあります。
ルカ福音書との「それ」の異なりは、イエスの預言が、ユダヤ体制の終わりの日だけでなく、この世の終末についても述べていたことによるものなのでしょう。(マタイ24:15-18)

マタイとマルコで言われるところの『預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべきもの』という謎深い言葉については、『これを読む者は悟れ』と、二人の筆者によってそれぞれ添え書きされていますので、イエスが警告された『荒らす憎むべきもの』が何であるのか、聖書を知ろうと思う人なら無関心でいるわけにはゆきません。(マタイ24:15)

確かに、『荒らす憎むべきもの』については、ダニエル書の中で三回言及されています。特に終末には二つの覇権国家の対立があることを述べるその第11章ではこのように書かれています。
『彼(一人の王)は、腕を起こし(軍隊を派遣し)、要害(城)すなわち(神殿の)聖所を汚し、日毎の供え物を廃止し、荒廃をもたらす憎むべきものを立てる』。(ダニエル11:31)
このように、イエスが終末について語られた通り『荒らす憎むべきもの』はダニエル書に書かれているのですが、この言葉を理解するためには、まずダニエル書の終り近くに描かれている、終末の時期の世界の情勢を知っておく必要があります。

ダニエル書の第七章以降には、彼が夢と幻で見た四種類の獣が登場し、次々に現れては消えてゆくことを通し、歴史上の世界覇権の流れを表していることが分かります。これは分かり易く、新教系の教会でも教えられているところです。
つまり、ダニエルの夢に現れた『ライオン』が意味するものは、ダニエルの当時に世界覇権国となっていた新バビロニア帝国、その次の『熊』がキュロス大王のメディア・ペルシア帝国、それを倒すアレクサンドロス大王のマケドニア・ギリシア王国の『豹』、それからどんな動物にも例えようもなく強大なローマがあり、これらの獣たちの入れ替わりが表わすものを歴史に照らせば容易に「世界覇権の流れ」を表していると分かることで、これがダニエルのバビロニアの時代に予見されていたことは驚くべきことです。

ですから、有識者の中にはかえって明解な預言が信じられず、そこにある通りにダニエル書が西暦前6世紀の著作ではなく、ローマが世界覇権国となった後に書かれたもので、「予言」を装った歴史書であるとする人も少なくありません。
その人々にとって、それは「有り得ない」ことであり、本来「信仰」とは無縁の学者だからでしょう。また、教会の指導層の中にさえ「ダニエル書や黙示録は聖書とは言えない」と発言する人がいます。人に道徳を諭すような「敬虔な書」という次元を超えているからでしょう。

それでもダニエル書は、捕囚の生活やバビロニアの慣習、著者自身のバビロニアやメディア・ペルシアの支配の下での役職、また、同時期の預言者エゼキエルが際立った人物としてダニエルに言及していること、また、近代考古学が知る以前からバビロニア最後の王ベルシャッツァルが父のナボニドスとの共同統治者であったことを伝え、ナボニドスが自らの王権の正当性を装うためにネブカドネッツァルの妃の一人を娶っていたことなど、ダニエル書の内容には当時の具体的正確さ、それに加えて、ネブカドネッツァルの言葉や布告を含めて、聖書中で例外的に当時メソポタミアの国際語となっていたアラム語でこの書の前半部分が記されているところなど、まさに現場の息吹を伝えるものがあり、この書を出所の知れない偽書とすれば、それは浅はかなレッテル貼りと言うべきでしょう。まして、イエス・キリスト自身がこの書に言及された以上、神の言葉として敬う必要があるのは明らかです。

さて、『荒らす憎むべきもの』という言葉は、『荒廃させる』という事と『憎むべきもの』という二つの要素から出来ています。
まず、『憎むべきもの』または『忌むべきもの』という表現は旧約聖書のほかの箇所にも見られるもので、例えればモーセの律法の五巻の書の最後である「申命記」の7章26節には『あなたは忌むべきものを家に持ちこんで、それと同じようにあなた自身も呪われたものとなってはならない。あなたはそれを全く忌み嫌わなければならない』との掟があります。
この『忌むべきもの』(シクク-ツ)とは異邦人が崇拝する偶像を指していますから、偶像の神ではないYHWHとの律法契約にあったイスラエル人には、偶像を嫌悪して避けるべき務めがあったのです。

しかし、預言者エレミヤは、イスラエルが律法を守って来なかったことをとがめて、『彼らは憎むべき物(シクク-ツ)を、わが名をもって呼ばれる家(神殿)に据えて、そこを汚した』と訴える神の言葉を記しています。(エレミヤ32:34)
ですから、イエスが言われたように、神殿の『聖なるところに』『憎むべきものが立つのを見る』という状況は、かつて律法を守らず、神殿を異神の偶像で汚したイスラエルの歴史上にあった事なのです。

このような事態は、その後にも繰り返されました。
旧約最後の預言者マラキが語り終えて後、バプテストのヨハネまでの間の時代に、それがもう一度起っています。
これはキリストの到来する二世紀前のことでしたが、アレクサンドロス大王亡き後、マケドニア・ギリシアの王国は大きく四つに分裂し、その中でも二つの王国が強大となり、ユダヤを挟んで北と南で勢力を争いを繰り広げた時代の事でした。

それらの王国とは、北のセレウコス朝シリアと、南のプトレマイオス朝エジプトで、地図を見ると分かるように、イスラエルは今でもシリアとエジプトに挟まれています。
この二か国が強大になり、その間でユダヤは激しく揉まれ、何度も支配する国が入れ替わっていました。その後の歴史を簡単に言えば、ローマが強国となって東に支配権を伸ばして来たために、ようやくユダヤはこの闘争から逃れることになります。

この混乱の時期でも、特にユダヤを揺さ振ったのが、ユダヤから見て『北の王』である、シリアの王アンティオコス四世エピファネスでありました。
「エピファネス」とは「顕現者」という意味で、「神の現れ」の意味を含んでいましたが、実際、まるで自分が神でもあるかのように、支配地域の宗教や神々に迫害し、強制的にギリシア文化を押し付ける強引な王であったのです。

この王は、南の王の領域まで深く攻め込み、もう少しでプトレマイオス朝エジプトを征服してしまうところまで進んだのですが、それを許さなかったのが新興大国ローマであったのです。
あと少しでこのシリア王はエジプトをわがものに出来るところまで行ったところをローマに遮られてしまったものですから、エピファネスのくやしさは激しかったに違いなく、その帰路に立ち寄ったユダヤでは、その鬱憤が解き放たれます。

エピファネスは、なんと、ユダヤ人にユダヤ教禁止令を発布し、反対する者を容赦なく虐殺し、同調するユダヤ人には気前よく地位を与えます。そのうえに、やがては神YHWHの神殿にゼウスの祭壇と像を持ち込んだのでした。それは紀元前167年の事とされています。当時の出来事を記したマカベア記第一は聖書には含まれませんが、エピファネスの据えた偶像について、はっきりと『荒らす憎むべきもの』と記して、当時のユダヤ人がその言葉によって何を表していたかを今日に伝えています。(マカベア記第一1:54-63)

このように外国の王に崇拝を入れ替えられるということでは、イスラエルの長い歴史の中でも例を見ないことでありました。
敬虔なユダヤ人たちは、レヴィ族のマカベア家を頭にして北の王と戦いを始め、紆余曲折の後、かの名の知られた「マカベアのユダ」に率いられて遂に神殿を奪還し、自分たちの神YHWHに神殿を献納し直すことに成功しました。(マカベア記第一4:52-)
その後は、やがてローマの権力が伸びて来るまでの七十年ほどの間、ユダヤは独立した国家となることもできました。
さらにその後になってユダヤを治めたのが「ヘロデ大王」であり、その最晩年になるとイエスがベツレヘムで生まれることになります。さらにそれから三十三年後、そのイエスが受難を前にしてダニエル書の『荒らす憎むべきもの』に言及されたのです。
そこで、『荒らす憎むべきもの』とのイエスの言葉を聞いた当時のユダヤ人なら、それが「偶像」を指すことに気づいたはずです。マタイとマルコは、イエスのこの言葉を読むユダヤ人でない読者に『読む者は悟れ』と、ユダヤ人の観点に注意を促していることでしょう。

エピファネスによるこれらのすべての事が起こる以前に記されたダニエル書は、ユダヤを挟んだ南北の王国の勢力争いの様子や、北の王の横暴を二世紀も前から予告していましたから、イエスに至る時代を予見するだけでなく、さらなる将来をも見通した驚異の書といえます。
イエス・キリストが、終末について語る中で『預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべきものが、聖なる場所に立つのを見たならば』と言われたのはこのこと、『北の王』によるかのような『偶像』、つまり『憎むべきもの』が『聖なる場所に立つ』ような事態の二度目の発生に注意を促していたということになります。
これは、使徒パウロの言葉、『彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の神殿に座して自分は神だと宣言する』という『不法の人』についての言葉を思い起こさせるものでもあります。(テサロニケ第二2:4)

やはり、ダニエル書第11章の『北の王』は、まさしく『この王は、その心のままに事を行ない、すべての神を越えて自分を高くし、自分を大いなる者とし、神々の神たる者にむかって驚くべき事を語り、憤りのやむ時まで栄える』と描写されています。(ダニエル11:36)
では、かつてのシリア王エピファネスに相当するダニエルの描く「終末の北の王」が、そのまま同じく自分を神として、終末のさらに『終局』(テロス)で滅びる『不法の人』であるのかと言えば、そう単純ではありません。

というのも、ダニエル書が知らせるところでは、終末の『北の王』は世の終わりの最終部分、つまりキリストが聖徒たちを伴い実際の権力を持って到来し、世界の人々を裁く決定的な場面までは存続できないのです。これは世の終わりも、その最後の場面となる『終局』で、つまり『キリストの顕現によって』最終的に『不法の人』が滅ぼされるというパウロの言葉と一致しません。(テサロニケ第二2:8)

他方で、ダニエル書の第十二章のはじめには『その時あなたの民は救われる。すなわち書に名を記された者は皆救われる。
また、地の塵の中に眠っている者の中から多くの者が目を覚ます。その中で永遠の生命に至る者もあり、また恥と限りなき恥辱を受ける者もある。賢い者は大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は星のようになって永遠にいたる』とあり、終末の聖徒の天への復活と、生ける聖徒の召集、つまり『女の裔』の完成、『天の王国』の設立が描かれていることが分かります。(ダニエル12:1-3)

ですが、『北の王』については、その直前で『彼(北の王)は遂にその終りに至り、彼を助ける者はいない』とあり、古代のエピファネス王に相当する終末の『北の王』は、古代と同じように神の崇拝を妨げるものの、自分自身が偶像そのもの『不法の人』となるのではなく、かつて神殿にゼウスの偶像を立てたように、終末の偶像『憎むべきもの』を立てる役割を果たした後に終わりを迎えてしまいます。しかし、この世はその後もしばらく存続し、それから『終局』を迎えることになるのです。(ダニエル11:45)

将来の『北の王』は、終末の聖徒らの活動である『日毎の供え物』を止めさせ、背教によって聖徒らの『聖所を汚す』ことをダニエルは暗示していますが、それは自分が起こした『腕』、つまり何らかの権力によって聖徒を妨害することが『彼から軍勢が起って(派遣して)、神殿と要害を汚し、日毎の捧げ物を取り除き・・』とあることから明らかです。『北の王』が興した権力、つまり聖徒を攻撃するために派遣された軍勢は『獣』であり、それは黙示録でも共通しています。(ダニエル7:23-25/黙示録11:7)

ですが、『北の王』がローマに征服を妨げられたさらに後、最後の最後で南の王の領土に大規模に広く侵攻しながら、何かの理由で不意に自分の終わりを迎えてしまうことをダニエル書は続けて予告するのですが、これは実際の歴史には起こらなかった記述であり、シリア王国の歴史と合わずに謎とされてきたところです。(ダニエル11:31・40)
つまり、ダニエル書による『北の王』の『南の王』への最終攻撃があってから、急に『北の王国』が終わってしまうというこの部分はいまだ一度も実現していないので、終末にだけ起こることを述べていると考えられるのです。(ダニエル11:40-)

それが証拠に、実際の歴史でのシリアの王国はエピファネスの後も百年間存続し、十人以上も王が次々に即位しているのですから、ダニエル書が記すようには、エピファネスの代で終わっていませんし、シリア王国はローマによって滅ぼされています。
ですから、エピファネスで『北の王』シリアが滅んでしまうように書かれたダニエル書は、古代のエピファネスを通して、将来の別の事態、つまり攻め込んでいながら崩壊してしまう「終末の北の王」について述べていると言えるのです。⇒「突如瓦解する北の王

その「終末の北の王」は、古代とは別の何かの偶像『荒らす憎むべきものを立てる』、つまり、自分自身ではない『不法の人』を神殿の神の座に据えるということになるのでしょう。
その『憎むべきもの』は、聖徒攻撃の『獣』と関係があることをダニエル書の上記の節は明かします。
一方で、『悪霊の働きによって存在する』という『不法の人』が脱落聖徒の主要な者であれば、ダニエルが言うように、『北の王』が『聖なる契約を捨てる者を顧み用いる』ときに、その『北の王』が据える『荒らす憎むべきもの』とはまさしく脱落聖徒、それも『偽キリスト』『不法の人』である理由が出てきます。(ダニエル11:32)


ダニエル書そのものは、エピファネスの代での『北の王』の没落と聖徒の招集の場面を最後にその記述を終えてしま受付のですが、終末についてのその後の情報は他の新旧の聖書にまだまだ絶えません。
そして、やはり立てられるその偶像が、命のない単なる彫像ではなく「生ける偶像」となることを黙示録が示唆しています。
特に『荒らす憎むべきもの』が一層高められるのが、『北の王』が崩れ去ったあとであることを示して黙示録はこう語ります。
『第二の獣(子羊のような)は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者をみな殺させた』。(黙示録13:15)
つまり、聖徒たちを殺した権力の集合体である『七つの頭を持つ野獣』が、『北の王』ではない別の強国、『子羊のような・・野獣』おそらくはキリスト教的な背景を持つ別の覇権国家の後押しを得て、その『七つの頭を持つ野獣』を偶像化させる様が黙示録で次のように語られています。『』。(黙示録13:11-18)

これらの情況を整理すると、『北の王』は、脱落聖徒のある者を擁護して押し立て、一方で軍勢を派遣して聖徒たちを殺させることで、かえって聖徒たちに試練を与えて清め、天への召集を促してしまい、その直後に『北の王』自身が何かの理由で存在を終えてしまってしまいます。『荒らす憎むべきもの』を立てた擁護者は、消え去る『北の王』から『子羊のような二本の角を持つ獣』、おそらく「終末の南の王」に入れ替わる理由が生じます。
おそらくはダニエル書が描く、将来の『北の王』が最後に『南の王』に大規模な進攻を行った直後に、『北の王』は自国の権力を維持できなくなるのでしょう。そのため、この王が起こした聖徒攻撃のための『野獣』または『腕』も、その後ろ盾を失うことになると言えます。(ダニエル11:31/黙示録13:7)

しかし、反宗教的な『北の王』ではないところの『子羊のような』非常に宗教的な別の覇権国家は、聖徒を滅ぼした『野獣』を『ものを言う』『獣の像』に仕立て、しかもそれは『息を吹き込まれ』「生ける偶像」とし、宗教の要素を加えてさらに強力な存在となるということです。これは『野獣』という権力と『偶像』の崇拝の合体を意味しないでしょうか。(黙示録13:11-14)
しかも、その偶像崇拝は脅しによる強制的な宗教にまで高められ、政治と宗教の頂点を極めることが示唆されています。これは悪魔が願ってやまない神の座と言えるでしょう。(イザヤ14:13-14)

まさしく、これが『自分は神だ』と唱える『不法の人』であれば、パウロが教えたように『神の神殿に座して、自分を神として公けにする』ことでしょう。この者に悪魔が霊力を与えて『偽の印』を行われるのであれば、いったいどれだけの人々が信じてしまうでしょうか。その人々に欠けているのは『真理への愛である』とパウロは言います。(テサロニケ第二2:4. 9-10)
そのときには、宗教を強く嫌う『北の王』はすでに無く、いまや「生ける偶像」の後ろ盾はキリスト教的な大国であり、もはやその宗教化を妨げる勢力はありません。むしろ、宗教を称揚し、崇拝しない者には殺害の脅し、また『売り買いをさせない』という制裁が広く施行され、その信仰者には『不法の人』の印として『すべての人々にその右の手かその額かに刻印を受けさせた』とあります。これは無信仰な『北の王』の正反対のような極端でしょう。共通するのは強制です。(黙示録13:16)

これは『右手』という「行動」の、『額』という「思考」の制限を与える暗喩と考えられ、洗脳行動の強制を意味することは濃厚です。(申命記6:5)
そして、その印は『666』であり、聖書中の完全数である「7」にはけっして達することのない偽物であるということでしょう。黙示録が明かすように『その数字は人間を指すものである』のなら、それは『不法の人』、もはや肉体では来ないはずのキリストの騙り者であると結論できます。(黙示録13:17)

その時までに、旧来の組織宗教である『大いなるバビロン』が信者の多くを失っているからといって、去っていった人々のすべてが、神YHWHに帰依するとは言えない理由がここにあります。実に「キリストの地上再臨」を心待ちにする「クリスチャン」は数知れず、また様々な宗教にも末世の大きな変化を教えるものがあり、ブッダの教えが弱まるという末法思想から、西方にあるという浄土の「阿弥陀如来」の現れに信仰を持つ仏教もまたそう言えるかも知れません。
そして、この状況に新たな崇拝が興されるなら、それは地球規模に及ぶ可能性がないとは言えません。

というのも、古い宗教組織を去った人々であっても、旧来の信仰信条を心から拭い去ることは容易ではなく、キリストが地上再臨していると信じれば、大半のキリスト教徒は『不法の人』への崇拝を喜んで受け容れてしまい兼ねません。悪魔が霊力を与えて幾らかの奇跡を行わせるなら、人間社会全体も惑わすに難しいこともないでしょう。そのうえ「三位一体説」を信じ込んでいるままなら、偽キリストを『神』とすることも当然となります。

しかも、終末にキリストが現れるという基本的な教えを持っているのは、キリスト教だけではありません。
まず、ユダヤ教がそうであり、ナザレのイエスをメシアとして認めなかったユダヤ教は、その後も二千年にわたり「約束のメシア」をいまだに待ち続けており、イエスの去った後にローマ軍に破壊されてしまった神殿の再建を行わずにいるのも、正統派ユダヤ教徒が「神殿を再建できるのはメシアのみ」との信条を崩していないことがあります。

それでも現代のユダヤ教徒には、神殿再建に前向きな人々が多く、すでに神殿祭儀に用いる器具類の再現はできています。その中には『契約の箱』も含まれていますが、その箱の上に古代にあったという奇跡の臨在光(シェキーナー)を魔力で照らして見せて、人を欺くことなど悪魔にとっては容易いことでしょう。現に人々は「UFO」を見たくらいで騒いでいるのですから。(レヴィ16:2/エレミヤ3:16)
それにしても、神殿を建てたからと言って、すでにイエス・キリストが『完全な犠牲を捧げて、神の右に座して』いる以上、地上の神殿で捧げる動物の犠牲に今さらどんな意味が残されているのでしょう。それはもちろんキリスト教のものとは言えません。(ヘブライ10:12)

神殿の再建については、キリスト教徒の中からも旧約の預言の成就としての実現を信じている多くの人々がいます。
実際、エゼキエル書の第40章以降には、建築可能に正確な寸法が記載され、細部まで再現可能な神殿の詳細が延々と書かれており、あたかも再建を誘っているかのようではあります。この神殿はいまだに実現していないので、ユダヤ人を中心に「第三神殿」とも呼ばれているものです。
では、そこに終末の偽メシアが肉体をもって現れるなら、どういうことが起こるでしょうか。使徒パウロは『不法の人』は『神の神殿に座して、自分を神として公けにする』と言っていなかったでしょうか。(テサロニケ第二2:4)

加えて、イスラム教でもイエス(イーサー)は偉大な預言者であり、終末のメシア(マシーフ)の到来が教えられています。
終末のマシーフはダマスコスに降臨し、その後はイーサーによって平和と正義が成就すると、イスラム教の口伝「ハディース」が説いています。
こうした諸宗教の信仰心が偽キリストの登場に影響を受ける可能性といえば、数種類の揮発油が充満する火気厳禁の環境に偽メシアという一つの火種を持ち込んで、すべてを引火させるほど危険なものと言えるでしょう。
はたして悪魔は、よこしまな先見によって終末の巨大宗教の種の数々を、長い年月の間に諸宗教のあちこちに予め播き散らして用意してきたのでしょうか。それを神の言葉も予告し、誘っているかのようなところがあることからすれば、終末の人間社会は神と悪魔の策略で激しく試されることになるでしょう。

今日、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という、反発しあう一神教同士が、偽キリストの下に宥和するとなれば、地上の紛争の多くの原因が取り除かれることになり、聖書が終末に予告しているような『人々が「平和だ、安全だ」と言っているそのときに、突如として滅びが彼らに臨む』という終末特有の状況を人類社会は自ら作ってしまう事にもなり兼ねません。(テサロニケ第一5:3)
しかも、終末のそのときまでに、争いあっていた二大強国の一方が崩壊しているのであれば、世界からは宗教も政治も争いの大きな原因が去っていることになり、大半の人々は偽りの平和の到来を受け入れてしまい、それは逆らうのも難しい世界的な潮流となることでしょう。
その形成された世論の中に分裂の薄れた世界は、一丸となってキリストの王国に抵抗するのに都合良い条件を揃えていることにもなるでしょう。(詩篇2:1-6)

しかし、『不法の人』という「生ける偶像」が、実は神にまったく逆らうものであって、イエスの言われた『荒廃をもたらすもの』となってこの世の滅びを招くのであれば、まさしく、その究極の偶像崇拝を見かけるようなことがあるなら、そこから一目散に離れ、『666』の印ある「偽キリストの崇拝者」とならない決意が必要になるに違いありません。新約聖書の中で使徒たちまでもが偶像崇拝を避けるよう訓戒を続ける理由には、肉体で来るはずのないキリストへの警告を含んでいるのでしょう。最後の偶像崇拝は極めて巧妙に誘惑を仕掛けて来るだろうからです。(ルカ17:23-24)
その究極の偶像崇拝のもたらす害は、人々を一人でもキリストと聖徒による天界の神殿から地上に目を逸させ、『背教』に巻き込んで『神の王国』の支配に入らせないことにあります。

しかし、それが悪魔の誘惑を用いた神の裁きであるなら、神は一人一人の決定を神は強制しないばかりか、終末の偶像崇拝を誘惑物として用いることでしょう。つまり「エデンのヘビ」のようにです。
ですから、こうしてダニエル書と黙示録が緊密な暗示を繰り返して補い合うのも、『秘められ、封印された』預言の数々が、あたかもジグゾー・パズルのピースをまき散したかのように、聖書がそのまま読んで分かるものとはされなかった神の意図を知らせているかのようです。人を裁くために、それらは何時でも誰にでも教えられるものではないということでしょう。まさしく『耳のある者は聴け』と繰り返しイエスが言われた通り、『彼らには知ることが許されていない』ということです。

これら後の時代と終末とに起こることを知らせた天使は、最後にダニエルにこう言っています。
『ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者らが調べて右往左往し、そうして(雑多な)知識が横行する』。(ダニエル12:4)
実際、これら書かれた事柄は秘められてきたと言うべきでしょう。意味を探ろうとした人々からは不統一で混乱し、さして教訓にもならない解説ばかりを聞かされてきたものです。神が秘めたのであればそれも当然のことでしょう。

ですがもし、ここに示した理解が隠された言葉の真意に近付くものであるなら、それだけ終末が近付いているということなのかも知れません。
そうなれば、終末に面する人にとって聖書の終末預言はただ事では済まず、興味本位で読んでみるだけのものとはならないでしょう。『荒らす憎むべきもの』についてマタイもマルコも『読む者は悟れ』と但し書きを添えている以上、その意味を捉えるには探求心を必要とするに違いなく、「ご利益信仰」の程度で満足している人々には、いつまでも鍵をかけられた理解となるのでしょう。「自分は正しい宗教を実践している」などと油断していれば、裁かれている意識がないのですから格好の餌食になるばかりです。

使徒パウロは『神の言葉は生きていて力を及ぼし、どんな諸刃の剣よりも鋭く刺し分け・・思いと心とを見分ける』と書いています。この句に込められた意味は、同じ聖書を知りながら、人はそれぞれ別の内面を行動によって公に表すことになるとの警告でもあります。(ヘブライ4:12)
では、わたしたちが終末に入るとしたら、それぞれどのような行動をとるでしょうか。誘惑者は悪魔ですから、様々な事情や欲に訴えて一人一人を揺さぶって来ないとは言えません。





⇒ 「ダニエル書第11章 歴史照合



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聖徒をねたむ『大いなるバビロン』

2020.11.22 (Sun)


この「バビロン」というのは、イスラエル民族に大きな影響を与えたメソポタミア南部に存在していた古代の大都市のことで、またかつて存在した一つの国の名前でもありました。歴史上に有名な大王であるネブカドネッツァル2世によって隆盛したときの新バビロニア帝国は、世界覇権国家にのし上がるに際して、ユダ王国の首都エルサレムをその神YHWHの神殿もろともに破壊し、民を捕囚として自国の首都バビロンとその近郊に連れ去っていました。こうしてモーセ以来続いた契約の民は「バビロン捕囚」に身を落とすことになったのです。

その災難は、イスラエル民族が律法契約を守らず、異教さえ崇拝していたことの酬いでしたが、神は預言者たちを通し、度重なる警告を与えていたのです。しかし遂に彼らの神YHWHはこの民を罰することを定め、ユダ王国もバビロンに滅ぼされ、ダヴィド以来の王統は途絶え、神殿も破壊されて内部の什器もバビロンに移され、ここに於いてイスラエルの国としての独立性も神YHWHの祭儀も絶えるに至りました。これはモーセの時以来七百年以上の間に無かった民族の危機でありました。

しかし、栄華を誇ったバビロニア帝国も、その後に興るメディアとペルシアの帝国のキュロス大王に倒されるに及んでイスラエルは解放され、エルサレム神殿も預言されていた通りに、故国に戻ったユダヤ人らによって破壊されてから七十年後に再建されることになりました。
以後のイスラエルやエルサレムにとってのバビロンとは、YHWHの崇拝を妨げ、ダヴィドの王統を倒した存在と言えます。
ダヴィド王朝のユダ王国を終わらせたばかりでなく、周辺のほかの国々も支配下に置いたネブカドネッツァルは、王都バビロンを拡張し、広大な市域は高く堅固な城壁に守られ、市の中央を流れる大河ユーフラテスにより繁栄を極め、当時には非常に洗練された大都会であったと伝えられています。

預言者のエゼキエルやダニエルも『約束の地』パレスチナから引き離され、このバビロンとその周辺に捕囚民となっての生活を余儀なくされていましたが、その境遇で記されたこの二人の名を冠した書が聖書の中に収められています。
特にダニエル書の中では、ほかならぬ大王ネブカドネッツァル自身の『この大いなるバビロンは、わたしの大いなる力をもって建てた王城であって、わが威光を輝かすものではないか』との自慢の言葉が記録されています。(ダニエル4:30)

実際、当時のバビロン市は建造物の壮大さ、多様さ、新奇さ、市域の広さに於いて際立っており、二重に巡らされた分厚い城壁と水深ある大河の流れとによる防備は、いかなる軍勢の攻略も不可能に見せ、城壁内にも広い耕作地を持ち、20年の攻囲にも耐えられるとも言われたそうです。

ですから、ネブカドネッツァルが豪語した『この大いなるバビロン』が、その言葉を記したダニエルが生きている間に、たった一夜の内に、しかもほぼ無傷でペルシアのキュロス大王に征服されるなどとは当時のだれも思いもしなかったでしょう。実際、キュロス王自身がバビロン市を初めて目にしたとき「いったい誰がこのような街を征服できようか」と述べた言葉が史料に残っています。

しかし、西暦前539年10月5日の日曜日の夜、乱痴気騒ぎの徹夜祭に浮かれるバビロンの市内には、ユーフラテスの川床を歩いて侵入してきたメディアとペルシアを中心とする軍勢にその夜の内にあっけなく征服されてしまいます。
ペルシアの将軍キュロスは、ユーフラテスの上流から川の流れを変えてしまい、市内の川の水位は兵士らの膝くらいになっていたと歴史家クセノフォンが伝えています。⇒ 「指名されたメシア・キュロス

驚くべきことですが、このバビロン陥落が起る二世紀も前に、預言者イザヤはキュロス大王のその名を予知しつつ、彼がバビロンを攻略し、イスラエルを解放してエルサレム神殿の再建の基礎が置かれることを前もって知らせていたのです。
『わたし(神)は、水の淵に向かって「乾け」と言い、お前(バビロン)の大河に「わたしは干上がらせる」と言う。キュロスに向かっては「わたしの牧者わたしの望みを成就させる者」と言う。エルサレムについては、「再建される」と言い、神殿については「基礎が置かれる」と言う。』(イザヤ44:27-28)
実際、キュロスはバビロンを征服するばかりか、勅令を発布してエルサレム神殿の再建を命じてもいるのです。(エズラ1:1-3)

また、ユーフラテスの水位を減らす作戦でキュロスが勝利することについては、それが実現する50年も前に、神は預言者エレミヤにも次のように語らせていました。
『わたしはバビロンの海を干上がらせ、泉を涸らす』。『バビロンの勇士たちは戦うことを放棄し砦に座り込む。彼らの力は萎え、女のようになる。バビロンの家屋は焼かれ、かんぬきは砕かれる。伝令は走って次の伝令に伝え、使者は次の使者へ取り次ぎ、街が隅々まで占領されたとバビロンの王に知らせる。渡し場は次々と奪われ、沼地の葦舟も火を点けられて兵士らは狼狽する。』(エレミヤ50:38・51:30-32)

また、このようなバビロン陥落が、言わばエルサレムへの復讐であったことを聖書は語っています。
『「バビロンの王ネブカドネッツァルはわたしを食い尽し、わたしを滅ぼし、わたしを空の器のようにし、龍のようにわたしを飲み込み、わたしのうまい物でその腹を満たし、わたしを洗いざらいにした。わたしとわたしの肉親に降り掛かった暴虐は、バビロンに降り掛かる」とシオンに住む者は言わなければならない。「わたしの血はカルデヤに住む者に降り掛かる」とエルサレムは言わなければならない』。(エレミヤ51:34-35)

しかも、そのバビロニア帝国の終りがどれほど急速に訪れるかについて、神はさらに詳しく預言者エレミヤを通して示させてもいたのです。
エルサレムが滅ぼされる七年前の事、ネブカドネッツァルへの恭順を示すためにバビロンに向かうユダ王の一行に含まれる役人の一人に、預言者エレミヤはバビロンの滅びを預言した書き付けを託し、ユーフラテス河畔に着いたなら、その預言を読み上げ、その書き付けを石に結わえ付けて川面に投げ込み『バビロンはこのように沈んで、二度と上がってこない。わたしがこれに災を下すからである』と言うようにと命じていたのでした。(エレミヤ51:64)

鉄壁の防御を誇る大都市が敢無く陥落してしまう意外な結末も、イスラエルの神YHWHが名指しで予定したペルシアのキュロスを通して実現させたことであり、イザヤはこうも預言しています。
『わが僕ヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなた(キュロス)の名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。』(イザヤ43:4)
そのため、神YHWHはキュロスを確かに『油注がれた者』つまり『メシアであるキュロス』と、彼が生まれるはるか以前からその名の通りに呼んでいるのです。(イザヤ45:1)

彼がメシアと呼ばれたことは、もちろんイエス・キリストが二人居たとか、キリストがイエスとなる前にも一度現れていたとか言う意味ではありません。
帝王ネブカドネッツァルが豪語した『大いなるバビロン』という大都市は、やはり誰にでも征服できるようなものではありませんでしたから、それを陥落させたキュロスという人物は、常人を超えた、言わば神懸り的な英傑であったというべきでしょう。その意味で彼はやはり神の使命を帯びたメシアであり、覆し難いものを覆し、建て難いものを建てた稀有の王であったのです。⇒ 「キュロスの円筒印章

さて、『大いなるバビロン』と言えば、それを誇ったネブカドネッツァルの古代を遠く離れ、この世の終りについて知らせる黙示録の中にも『大いなるバビロン』と称する終末の何者かが現れているのですが、この謎めいた未来の『大いなるバビロン』について黙示録はこう描写しています。
『わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚す数々の名で覆われ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。
この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、その額には、一つの名が記されていた。それは奥義であって「大いなるバビロン、淫婦らと地の憎むべき者らとの母」というものであった』。(黙示録17:3-5)

古代の大都市『大いなるバビロン』と同じ名で呼ばれる終末の『大娼婦』とは一体何者なのでしょう。
黙示録の筆記者である使徒ヨハネが見たこの幻には、単なる空想の産物とは言えないところが多くあります。特に古代のバビロンと対照して見るなら、この『大いなるバビロン』について黙示録が次々と明かす事柄が、旧約聖書の記述と深い関係を持つものであり、イザヤやエレミヤのかつての言葉が、遥か遠い将来の終末に再び成就する二重の預言であったことを指し示すものとなってくるので、かつて古代に起こり、歴史に刻まれている事柄が、次に「もう一度起こる」と証しすることで将来の人々の信仰を促しているのです。

この『大いなるバビロン』についての記述は黙示録の第14章から第18章にかけて四度現れ、そのほかにも第17章と第19章では『大娼婦』とされ二度現れています。これは黙示録の中でも目立つ存在であることは言うまでもないことで、確かに徒ならぬ扱いを受けています。
それはイスラエルの歴史の中でのバビロニアによるエルサレム神殿破壊と民の捕囚という大きな災厄、また、そこからの帰還と神殿の再建という大きな出来事が旧約聖書中でも際立っていることに対応するところの、終末にも起こる類似した大事件を暗示するかのようです。
やはり黙示録は、旧約の故事の重要性をもう一度終末の時期に呼び戻し、さらに大規模な成就を予告させるということにおいて恐るべき「神の書」と言うべきものです。

そこで、実際の都市バビロンが今は過ぎ去って無くなっている事実からしても、黙示録の『大いなるバビロン』が何を指しているかについては、過ぎ去った歴史だけでは終わらない非常に大きな意味が終末にもあることになります。では、それは何でしょうか。また、古代都市バビロンの陥落は、終末の『大いなるバビロン』と何か類似するのでしょうか。

まず、分かることは、世の終わりに現れる『大いなるバビロン』は『大娼婦』であって、この娼婦の相手の顧客は『地の王たち』であり、また『地の貿易商ら』がこの女の贅沢のために大儲けをしているとの情報が黙示録の第18章に記されています。この女がなぜ娼婦と呼ばれるかと言えば、政治にも金銭にもすり寄って、『この世のもの』となってしまったからでしょう。確かにキリスト教界は、キリストへの貞潔さなど325年のニケアー会議の時から捨ててしまい、『神の王国』より世の権力者との関係を選び取ってきたのです。(ヨハネ15:19-20)

しかし、なんと言っても『大いなるバビロン』の邪悪さといえば、『この女が聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔いしれている』ということが挙げられます。つまり『聖徒たち』の犠牲の死を祝しているということでしょう。(黙示録17:6)

この『大娼婦』に関わる聖徒の死に関する血の罪について、明確に黙示録は二度記しており、そのほかにも『(神は)ご自分の僕たちの流した血の復讐を、彼女(娼婦)に遂げられた』ともありますから、古代のエルサレムを滅ぼしたバビロンとの歴史上の暗示を見せつつ、終末の『大いなるバビロン』がエルサレムの特に神殿に相当する『聖なる者ら』への悪行の酬いを受けることになる定めを強調しているのです。(黙示録18:24)

しかし、黙示録でもダニエル書でも『聖徒の民』を滅ぼすのは、いずれも『野獣』であって『女』ではないはずです。(ダニエル8:23-24/黙示録11:7)
それでも、黙示録での「聖徒を滅ぼす野獣」の上にこの大娼婦が座っていることが、この女の役割を示唆していると言えるでしょう。(黙示録17:3)

つまり、権力を持つ『野獣』というものが聖徒を攻撃した直接の下手人であるにしても、大娼婦がその野獣の上に乗るという関係からすれば、野獣の聖徒殺害について、より高いところからそれを導いた姿を見せているといえるでしょう。(箴言28:15)
これは『野獣』に勝った聖徒への罪の大きさを指し示しており、勝利の美酒であるかのように『その血に酔っている』からには、聖徒の滅びによって願いを遂げたというべき描写でしょう。
その関係は、現れたメシアを謀略によってローマの権力に渡して処刑させたユダヤの宗教家らの姿に重なるものがあります。宗教家らの罪がローマ総督に勝って遥かに重いことは、イエスが当時に総督に任命されていただけのビラトゥスに言われた通りです。(ヨハネ19:11)

そこで聖徒らの死をそこまで喜ぶこの大娼婦とは何者なのかについて知る糸口があります。
聖霊を介して聖徒が語るその言葉は、人間を超える発言であり『どんな反対者も、対抗も反論もできないような言葉と知恵をわたしがあなたがたに授ける』とイエスが言われた以上、それを聞く『王や高官』また『諸国民への証し』となると予告されましたが、それが神からの音信となる以上は、宗教関係者たちがそれに反応しないということが考えられるでしょうか。(ルカ21:15)

むしろ、聖徒の語るところが非の打ち所もないものであるほどに、それまでの宗教は面目を失うに違いなく、イエスに論争を挑んで皆が論破されてしまったユダヤ宗教体制各派のように、もはや聖徒たちを殺害する以外に自分たちの存在する意義を保てなくなるであろうことは目に見えています。それはキリストが三年半にわたる宣教の結果として、多くの群衆に歓呼してエルサレムに迎えるのを苦々しく眺めるしかなかったユダヤの宗教指導層の姿に現れたものでした。(ルカ19:36-40)

確かに、ユダヤ宗教体制がローマ総督ピラトゥスに訴えて、ローマの権力によってイエスを処刑させましたから、終末の宗教体制や組織が同様の反応を見せるとしても不思議はないでしょう。もし、彼らがかつてのユダヤの宗教家の失敗から学ばないとすれば、ナザレのイエスをメシアとは見分けなかったように、終末にも聖霊の言葉に抗い、メシアの兄弟たちを陥れようとする危険は現実のものとなってしまうことでしょう。
そこで『大娼婦』の正体に見えてくるものがあります。
ユダヤの宗教家らがローマの権力を利用してイエスを殺害したように、終末の聖徒たちを殺める宗教体制が『聖徒の血に酔う』理由がないとは言えません。

この娼婦が『王たちと淫行を犯し』権力に擦り寄っていれば、聖霊が『神の王国』の到来を告げるときに、権力者と共にそれに反対し、聖徒たちは政権に反逆し、国家転覆を画策していると主張して法で裁かせ、警察や軍事力を使わせて聖徒たちを聖霊の言葉もろともに葬り去る役割を担うのに、既存の「宗教」はそれを買ってまで出てくるであろうことは、宗教界の的外れな正義感と闘争性に既に見えていると言って過言ではないでしょう。
実際、ユダヤの宗教家らは「権力の敵」としてイエスを訴え、『わたしたちには皇帝のほかに王はいません』などと言ってはローマの権力にすり寄り、メシアの王権まで否定してしまったのでした。(ヨハネ19:12-15)
しかし、彼らがイエスを訴えたローマのその同じ権力により、彼らは四十年を経ずに破滅させられることになります。つまり、ユダヤが受けた『火のバプテスマ』による滅びです。

終末でも同じように、黙示録は『多くの水の上に座っている大淫婦に対する裁き』があり、『(神は)ご自分の僕たちの流した血の復讐を彼女になさった』。また『ひとりの力強い御使が、大きな臼のような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され全く姿を消してしまう」』とも予告していますが、これらの言葉は、古代に実在した都市バビロンが水面に消えるというエレミヤの預言と合致していますから、かつての事跡が将来の終末に向けてもう一度語っていることは明白です。黙示録では、神の聖なる僕たちに『大娼婦』が行った悪事は『天に達し』、神の憤りを免れないことも予告されているのですが、それとエルサレムへの復讐という点では古代と重なるものがあります。(黙示録17:1・19:2・18:5)

終末において、聖徒を除き去るという悪事を行うことにより、どの宗教や宗派が『大娼婦』となるかが決まることでしょう。しかし、『聖なる者』はその犠牲によって逆に清められ、『わたしはあなたがたを純潔な処女としてキリストに差し出し、一人の夫と婚約させた』と語ったパウロの言葉が、遂に天界での『子羊の結婚』として成し遂げられ、そうして『神の王国』は完成を見ることでしょう。そうなれば、天に揃ったエデンで語られた『女の裔』には、以後「ヘビの裔」の頭を打ち砕くばかりです。遂に天界に確立されたキリストたちの権威を攻撃することは誰にもできないからです。(コリント第二11:2/黙示録19:7/創世記3:15)

その間に地で勝ち誇る『大いなるバビロン』には処罰が臨む以外に道は残されていません。
古代のバビロンが、川の流れを変えられて水位が下がったことが一夜で陥落することになったように、黙示録の『大いなるバビロン』についても、聖徒らが地上を去った後の場面でユーフラテスの水が涸れてしまったことを描写しています。しかもそれは、『日の出の方角からの王たち』、つまりバビロンの東方に位置していたメディアとペルシアの王たちの率いる軍勢に相当する権力を呼び覚ますことになるとも黙示録は語っているのです。(黙示録16:12・17:16)

聖徒を除き去る悪行は、それが卑劣であるほどに、聖徒らの宣教によって受けるバビロンの被害の大きさを物語っているとも言えます。
聖霊の奇跡の言葉は、旧来の宗教がどれほど当てにならないものかを明かしてしまうのであれば、そのため、大量の信者が水の流れを変えられたように、バビロンから去ってゆくことが示唆されているでしょう。確かに黙示録は『あなたが見た水、あの淫婦が座っている所は、さまざまの民族、群衆、国民、言葉の違う民である』と明かしている通り、世界的範囲の人々が転向してしまうことが示唆されています。(黙示録17:15)
その中には、聖徒の業を受け継ぎ、旧来の宗教の暗い理解を暴露してしまう二億の『騎兵隊』となる人々も含まれることでしょう。多くの信者を失った後の宗教団体はどれほど弱くなることでしょうか。(黙示録9:16-19)

その弱体化は、『大いなるバビロン』への神の裁きが近付いた印ともなります。
神は、『彼女がしたとおりに彼女に返し、その仕業に応じて二倍に報復し、彼女が混ぜものを入れた杯の中に、その倍の量を入れてやれ』と言われます。
終末に『大いなるバビロン』に含まれてしまう宗教は、間近に来ている『神の王国』を知らせる聖徒たちが、地上の国家の転覆を謀って、反逆していると訴えるのであれば、その宗教はその主張と同時に自らを『この世のもの』としたことにならざるを得ません。そこで彼らは諸国家の権力の上に乗ることになり、その立場は確定されます。対照的に、聖徒たちは迫害によって試され、キリストへの貞潔さが立証されてゆくことになり、娼婦と処女の両者の違いはもはや埋めようもないほどに差がついてしまうことでしょう。

ですから、聖徒が地を去って後、『彼女は倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そこは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣となった』と黙示録は宣告しますが、聖徒を告発することをもって、まさしくその宗教は『倒れた』と言われるに値します。
ですが、そこに属していた人々にとっては重要な救済の言葉も発せられます。
神は『わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪に与らないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ』と言われるからです。(黙示録18:2-6)

この『大いなるバビロン』から離れるように命じられている『わたしの民』と神が呼びかけられる人々が誰かと言えば、もはや天に去った聖徒たちのことではないことは明らかですから、大娼婦への裁きを身に受けないために、そこから出る人々、つまり、その時まで様々な宗教や宗派に属しているであろう人々でさえ、「神の民」とされる機会が依然として開かれているということになるでしょう。

ですが、旧来の宗教団体に属する人々がどれほど聖霊で語らせる神の側に立つのかは、その時にならないことには分からないことです。
もちろん、聖霊の証しに神の意志を洞察し、自分のそれまでの信条を撤回できるほど謙虚な宗教家や信者がいないということにはならないでしょう。しかし、それは例外的に高潔な人に限られそうで、既得権益にひたって生きる大半の宗教関係者にそれは期待できそうにありません。
信者にしても、たとえ多くの人々が言い包められ宗派に囚われているに過ぎないとしても、思うことの習慣は容易に変えられるものではありません。人の考え方の傾向は特に宗教によって形作られ、年月を経て固まってゆくものです。それには本人でさえ気付けない後遺症のようなものが残るものです。
実際、キリストが現れたときのユダヤ人の多くがそうなりました。

イエスの教えに転向した彼らであっても、千年以上続いたモーセの律法からくる生活習慣を良いつもりで従い続け、『割礼』や『安息日』を、また食事制限をキリストの弟子であっても守り続けていたのです。イスラエル民族と律法との千数百年の永い関わりからすれば、「まず、律法は守らなくては」という常識的な敬虔さが彼らに在っても当然であったと言えるでしょう。(ローマ14:2.5/使徒21:20)
その一方で、キリストの教えに転向してきた諸国民は、律法に捕われず白紙の上に鮮やかにキリスト教を描くことができ、ユダヤ人が割って入らない限り、キリストやそれに続くパウロが説くような革新的な教えをより良く取り入れることができました。(ローマ9:30-31/ガラテア3:1-3)

このようなイスラエルと諸国民の宗教上の逆転が起こることをイエスは『後の者が先になり、先の者は後になる』と例えを用いて言われていましたが、やはりユダヤ人でイエスを信じた人々でさえも、律法の習慣を超えてパウロが説いた新たな「キリスト教」には着いて行くのに困難を感じ、パウロを避けてもいたのです。(マタイ20:1-16/ヘブライ5:12/使徒21:21-24)

思い返せば、ユダヤの神との長い歴史は、旧約聖書の深い意味を新しいキリストの教えの中に見出さない限りは必ずしも益とはならなかったのであり、将来の終末の聖霊の発言がやはり革新的であればこそ、同じことがキリスト教界に起きないとは言えないことでしょう。使徒時代が終わり、聖霊注がれた聖徒がおよそ第二世紀の終りには居なくなって以来、千八百年が経とうとしているので、その間に蓄積された「キリスト教の常識」も積もり積もって多くの「クリスチャン」にまとわり着いています。その中には「天国と地獄」、「三位一体説」などの聖書に無い教えが形作っている「常識」があることでしょう。

かつてユダヤの宗教家らは、ナザレ人イエスが自分たちの安息日などの常識的規則を守らないことにつまずき、『この人は神からの人ではない。安息日を守らないからだ』と結論していたのですが、同様にキリスト教界での旧態依然とした中世的な教えを頑固に唱え続けるなら、終末にはどういうことになるでしょうか。

いまだ終末が到来していない段階では、どのような宗教や宗派、また信者が「聖霊の言葉」に反対するのかは分かることではありませんが、いずれにしても、メシアの初臨でイエスに反対したユダヤの人々のように心を頑なにして、その同じ道に入ってしまわないよう、古代の彼らを反面教師として自らを省みるべきでしょう。

やはり、人の心がどうかを見る神に対して重要なことは、人の内面の暖かさや柔らかさなのでしょう。
宗教家のように聖書やキリスト教の知識を増やすことそのものが、その人に神の是認をもたらすわけではないのです。
また、聖霊の言葉を前にして、古い教えに固執し頑なであることに何の正しさも残りません。







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終末に起こる『背教』

2020.11.16 (Mon)

「背教」という言葉を聞くと、キリスト教から離れた人について、または間違ったキリスト教とされる様々な「異端」の宗派が思い浮かぶことでしょう。
しかし、ここで聖書が警告する『背教』と呼ばれるものは、それらの「正統的キリスト教からの逸脱や棄教」とは次元が異なるほどにまったく別のものです。その『背教』は、終末になって出現する特定のものであり、世界の人々を危険にさらす恐るべきものであることを聖書は教えているのです。この観点を持たず、どこかの宗派を「背教している」などと言っていれば一向にこの『背教』の真意を捉えることはないでしょう。

さて、『終わりの日』となるキリストの再臨を迎える時期が聖徒の現れと試練の日々となり、そこで『新しい契約』から脱落してしまう者らがあるとすれば、その脱落した「元聖徒ら」はその後どうするのでしょうか。そこに聖書が警告する『背教』の姿と、それが広がる誘因とがあります。

「ミナの例え話」には書かれていないのですが、よく似たマタイ福音書にある「タラントの例え話」には結末があって、このように描かれています。
『この役に立たない下僕を外の闇に追い出してしまえ。そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするだろう』。(マタイ25:30)
この『泣き叫んだり、歯ぎしりしたりする』とは、ローマ軍士官の深い信仰の表明にイエスが感嘆したときに、神の是認が異邦人に向かう一方でユダヤ人が除外されるとイエスが語られたその結末でもありました。(マタイ8:5-13)
永く律法契約に在ったイスラエル民族が、現れたメシアに不信仰であったので捨てられ、『新しい契約』に異邦人が補充されるということを予告した中の言葉であったのです。(ローマ11:24/エフェソス2:19/ペテロ第一2:10)

ユダヤ人であれ異邦人であれ、聖霊を注がれ聖徒の立場を得たものの、『新しい契約』を全うせずにいるとすれば、その契約に入れなかったユダヤ人が『籾殻』として焼き捨てられたように、タラントの例えの悪い下僕もまた神の是認の外に放り出されることを指すのでしょう。つまり、契約違反者として『天の王国』への召しからは除かれるということです。(マタイ13:47-50)
聖徒で生き残っている中で是認された者たちが裁きを通過して、一斉に天に召されるとき、契約に違反していた者らは、なお地上に残されるという結末により、取り消されない不名誉を刈り取ることになるでしょう。(テサロニケ第一4:17)
ですから共観福音書の終末預言で『ひとりは連れて行かれ。ひとりは捨てられる』という事にならないよう『見張っているように』また『用意のできているように』とイエスは訓戒しています。これは彼らが聖霊を活用してキリストの証しを行っているべきことを言うのでしょう。(マタイ24:40-41/ルカ17:33-35)

他方で、そうしない聖徒らは妥協して変節し、『この世』のものとなってしまうのでしょうか。(ヨハネ第一5:19)
そのようにした脱落聖徒が何をするかといえば、結果的には皆が『神の王国』に反対する行いを始めるのでしょう。
しかし『背教』そのものは、聖徒の油注ぎの早い時期から始まることを聖書は暗示しているので、この世と対立する『新しい契約』を重荷と見做す者らが、自分たちの行動を正当化しようとすれば、あるいは忠節を保つ聖徒の仲間を『この世』に売り渡すような事もないとも言えません。
やはりイエスは、弟子たちに終末に起こることを警告して『あなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互いに裏切り、憎み合うであろう』と警告していました。また『不法が増すので、多くの者らの愛は冷える』とも言われましたが、これは一般社会の世相が荒むことを述べているのではありません。(マタイ24:9-12)
また、パウロも手紙で『終わりの日に・・崇拝の外見を見せながら、内実の無い者となる。こうした者らからは離れよ』とも警告しているのですが、これも外部の人について言っているわけではないのです。これは、聖徒でありながら、あからさまに清さを捨てる者も出たなら、けっして近づかないようにと言っていると捉えるべきでしょう。(テモテ第二3:5)

イエスはあるとき、『その日には、多くの者がわたしに向かって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力ある業を行ったではありませんか』と言うであろう』とも語られています。これらの奇跡の業は聖霊注がれた者が行うものであり、この者らも以前は聖徒であったことが考えられます。
しかしイエスは彼らにこう答えることになります。『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ行ってしまえ』。(マタイ7:22-23)
このように拒絶された者らは『不法を働く者ども』であり、けっして忠節とは言えず『新しい契約』を全うするとは思われません。

この『不法』(アノミアス)という言葉は、イエスだけでなく使徒パウロによっても用いられており、テサロニケへの第二の手紙に『背教』と関連付けられています。

パウロの語るところからすれば、『背教』とは終末が来るときに起こるもので、今日に至るまでの「正統的なキリスト教」から宗派や人々が逸脱して分派するというような「異端」と呼ばれるのようなものを指すのではありません。
つまり、これまでに見られたキリスト教の歴史上のどんな宗派の分裂も、様々な誤まりの教えの発生ですらもここで言う『背教』に含まれず、この終末に起こるという『背教』に比べればさほどのこともなく、致命的な罪にもならないでしょう。この『背教』は、天界で聖徒らが揃うことを妨げ、『神の王国』の設立を阻もうとする『不法』であるのです。

その極めて恐ろしく危険な『背教』が終末に起こることを明確に告げるのは使徒パウロであり、彼はテサロニケの弟子たちにこう書いています。
『まず、神に対する背教が起こり、不法の者、つまり滅びの子が出現しなければ終わりは来ない』。(テサロニケ第二2:3)

ここでパウロの言う『背教』(アポスタシア)は、キリストの再臨と彼らの天への招集の時期に関連して『終わり』に起こる事なのであり、けっして初期キリスト教がローマ帝国の国教とされて、その道を外れた過去の変節を言っているのではありません。それどころのものではないのです。

それが証拠に、パウロはこの句については以下のように前置きしてから『背教』の真相を語りだしています。
『さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの臨在と、わたしたちがその許に集められる事について、あなたがたにお願いしたい。霊によるとか、また言葉によるとか、あるいはわたしたちから出たとされる手紙によって、主の日は今来ていると触れまわる者があっても、動揺したり、慌てたりしてはいけない』。(テサロニケ第二2:1-2)
パウロがこの手紙を書いた西暦55年頃に、早くも弟子たちの間には、聖霊が「キリストの再臨が起こっている」と語ったとか、使徒たちからの手紙があったとかいう噂が立っていたので、パウロがその噂が根拠のないものと正し、また彼に与えられた終末への知識も伝えている中で、『まず、神に対する背教が起こり、不法の者、つまり滅びの子が出現する』と言っているのです。

パウロはここで『背教』を語りながら、『不法の人』という何者かについて言及しています。それは『滅びの子』でもあることも知らせています。それが『背教』の源となることを彼は明かしているのです。
では、この『背教』とはどんなものを指すのでしょうか。また出現するという『不法の人』また『滅びの子』とは、いったいどんな者なのでしょうか。

パウロが言う終末に起こる『背教』がどんなものかを探る手がかりが、この『不法の人』(ホ アントローポス テース アノミアス)また『滅びの子』(ホ ヒュイオス アポーレイアス)という言葉に残されています。
というのも、ほかならぬイエス自身が『滅びの子』という語をある人物を指してこう用いていたのです。
『わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたから戴いた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした。』(ヨハネ17:12)
これらの祈りの言葉が語られた場面は、最後の晩餐を使徒たちと過ごした後のことで、イスカリオテのユダ、つまりキリストを裏切る十二人の一人は、すでに自らの師を銀貨30枚で敵に売り渡すために、一行から離れて別行動をとっていたのです。

イエスは地上での公生涯の間、一緒にいた使徒らを守り続けて、ついに最後の晩となったときに、彼らはその晩餐で師が離れてゆくこと、また『聖霊』という『助け手』が与えられることなどを知らされるに至っています。(ヨハネ14:16-18)
しかし、イエスは、その十二人の中の『滅びの子(ホ ヒュイオス アポーレイアス)だけが滅びた』と言われました。ユダ・イスカリオテをほかにして誰がこれに当てはまるでしょうか。
そこから、終末の再臨の時期に、十二使徒からの脱落者ユダ・イスカリオテに相当する何者かが現れる事態の発生に注意が向くことになります。
この件を念頭に置きながら、聖書の中を捜してゆくと、それらしい記述が無いわけではありません。

その箇所は、まずダニエル書の中にいくつか見出されます。
ダニエル書は、終末についての情報を、幻や夢、また天使からの話として聞いた事柄をまとめた書で、バビロン捕囚となった知恵者ダニエルによって書かれました。
この書には、歴史上の強国の盛衰と覇権国家の流れがいくつかの比喩を用いて予告されているだけでなく、特に注目するべきことに、終末の時期についての貴重な情報も含められています。イエスもダニエル書に言及して初臨のエルサレムの滅び、またそれに重ねて再臨で起こる事柄を『荒らす憎むべきもの』の現れとして重要な情報を語っている以上、ダニエル書がわけの分からないオカルトのような書でないことはますます明らかです。(マタイ24:15)

そのダニエル書には、終末の聖徒の民が『違背』(ペシャ)によって害を被ることが数回書かれているのです。
その第八章にはこうあります。
『その群衆は常供の犠牲と共にその角に渡された、それは違背(ペシャ)のためであった。そして彼(角)は真理を地に投げ捨て、これらすべてを行って大いに栄えた』。(ダニエル8:12)

この文脈を見ると『天の軍』つまり『聖徒の民』を攻撃して滅ぼす『角』という権力が、彼らを常供(日毎)の犠牲と共に絶えさせることが書かれています。(ダニエル8:24)
そして、その原因を作ったのが『違背』(ペシャ)であり、これは「犯罪」とも訳せます。敷衍すればユダ・イスカリオテがイエスをユダヤ体制派に売り渡したような犯罪、『不法な行い』と似た構図を作っている様が見えます。
つまり、終末にはユダ・イスカリオテのような裏切りが起り、聖徒たちの全体に決定的な危害が及ぶということが類推できるのです。まさしくイエスは『そのとき、多くの人がつまずき、また互いに裏切り、憎み合うであろう』と警告されていなかったでしょうか。その裏切りは一人によるものではなく、聖徒たちの中を二分するほどになるのでしょう。

一方、契約に忠節でキリストと結ばれた状態を保つ聖徒たちについては全員が逮捕されるのはなく、また皆が殉教の死を遂げるのではありませんが、キリストと同じく迫害を受けることは定められています。(黙示録13:10)
彼らの地上での聖霊による宣教活動は、かつての神殿におけるレヴィ族祭司たちの『常供の犠牲』つまり日毎の奉仕の対型と見れば、『その群衆は常供の犠牲と共にその角に渡された』というダニエルの言葉が、聖霊による宣教活動の中断と彼らの捕縛と捉えることは的外れとはいえないものがあります。しかも、彼らの受難は黙示録の記述とも一致するのです。(黙示録11:7)

こうして、終末の『背教』というものの全体像に見えるものがあります。
つまり、選ばれ聖霊を注がれながら迫害に耐えられず契約から堕ちてしまう「元聖徒ら」が何を行うかということであり、ダニエル書は迫害だけでなく誘惑と甘言を仕掛ける強大な権力者がいることも暗示しています。それは終末の強大な覇権国家であり、軍国主義で同時に反宗教でもあることをダニエルは記しています。(ダニエル11:32-35・36-38)
その誘惑にかかって契約から脱落する聖徒たちは、それでも奇跡の力を失うわけではないようで、彼らに助力する霊者が現れることをパウロはこう述べています。
『不法の者が来るのはサタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、異兆と、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを滅ぶべき者どもに対して行う』。(テサロニケ第二2:9-10)
また、彼らがキリストの裁きを前にして、『わたしたちは、あなたの名によって力ある業を数多く行ったではありませんか』と言うとイエスは予告していたのです。

聖霊から邪霊への移行が間断なく行われるためか、脱落聖徒らは自分の持つ霊力の源の区別さえできないのでしょう。
こうしたことは、本当に自分が何をしているかを吟味すべき「見張っている』べきことと言うほかありません。
このような例はすでにパウロの時代から起こっていたらしく、パウロは『不法の秘密はすでに働いている』と書いており、使徒ヨハネも『すべての霊を信じてしまわないで、それらの霊が神から出たものかどうかを試せ。多くの偽預言者が世に出てきているからだ』と警告しています。これら使徒たちの言葉から、すでに使徒の時代から聖徒の周辺では悪霊の邪魔が入ろうとしていたことがわかります。
加えてパウロは、『今はこの者を抑えているものがあり、それは、定められた時にこの者(不法の人)が現れるためである』とも述べています。つまり、当時には『不法』も抑制されていたのですが、終末にはそうならないということでしょう。(テサロニケ第二2:7/ヨハネ第一4:1)

こうして脱落聖徒らが依然として霊力を持ち続け、終末ともなれば、一度は聖霊を注がれた人々をも惑わして『背教』に引き込み、さらには裏切りというユダ・イスカリオテの役割をも負うという姿が浮かび上がってきます。これは終末の『女の裔』である聖徒たちが終末に再登場することに対する悪魔の側からの最大の攻撃と言うべきものです。(ダニエル11:35)
しかも、それら脱落聖徒の中でも傑出した者が『不法の人』、また『偽キリスト』となってイエスの「地上再臨」を装い兼ねないところまでがパウロの言葉から視野に入ってきます。イエスが何度も繰り返し『「あそこに居る」と言われても出て行くな』との警告しただけの危険もそこに見えています。

悪魔サタンの狙いについては旧約聖書から暴露されており、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲の頂きに上り、いと高き者のようになる』という神に成り代わるという究極的な野望であるのです。(イザヤ14:13-14)
それを成就させる機会が『不法の人』を通して、また『偽キリスト』を自らの偶像として世界の人々をひれ伏させることにより到来するとなれば、悪魔はそれを躊躇しないでしょう。
パウロは『不法の人』についてこう指摘しています。
『彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の神殿に座して自分は神だと宣言する』(テサロニケ第二2:4)

こうして脱落聖徒と悪魔らの利害が一致し始め、『契約を離れた者ら』を利用する悪魔は、聖徒らが天に揃うことを妨げようとしながら、自らの強欲を遂げるべく終末での大暴れを始めることでしょう。
黙示録はこう述べます。
『兄弟たちは、小羊の血と彼らの証しの言葉とによって、彼(悪魔)に打ち勝ち、死に至るまでもその魂を惜しまなかった。それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちは災いである。悪魔が自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもっておまえたちのところに下って来たからである』。(黙示録12:11-12)
この意味するところは、聖徒らが忠節に証しを終えた後の事であり、その時に至れば、悪魔は地に強い影響力を用い始めるということでしょう。そしてそこには脱落聖徒が残されていることになります。

やはり黙示録は、忠節に活動する聖徒を表すであろう『二人の証人』という預言者らがイエスと同じく地上で三年半、つまり1260日の活動を行うことを記しています。(黙示録11:3)
その活動の後、忠節な彼らは天に召されます。しかし、地上での神の業は進展を続け、聖徒らの去って行った後も神の活動は絶えることがないのです。次いで世界の諸国から、新たに『神の民』と呼ばれる人々が現れることを聖書は語ります。それも『大群衆』であり、聖徒らの活動は増幅されることになるでしょう。それは聖徒たちの聖霊の言葉に信仰を働かせた人々の集団の活動、世界を覆う大宣教となるでしょう。(ゼカリヤ2:11/黙示録7:9-17)

イエスは祈りの中で聖徒ばかりでなく、この人々のことを予見しこう神に願っています。
『わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは父よ、あなたがわたしのうちにあられ、わたしがあなたのうちにあるように、皆の者が一つとなるためです。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにあらせるためであり、それによって、あなたがわたしをお遣わしになったことを、世が信じるようになるためです』。(ヨハネ17:20-21)

この人々が、聖徒ではないながら、彼らの言葉に信仰を働かせた人々を指していることはイエスの言葉から疑いようがありません。
その人々が、キリストが神と結びついているように、聖徒らと一つの民となることにより、終末に信徒でなる『神の民』が現れるのであり、ゼカリヤの預言はその日のありさまをこう予告しています。
『万軍のYHWHは、こう仰せられる、その日には、諸国の言語を話す民の中から十人の者が、一人のユダヤ人の衣のすそをつかまえて、「あなたがたと一緒に行こう。神があなたがたと共にいることを聞いたから」と言うであろう』。(ゼカリヤ8:23)
それは終末の聖徒たちの活動が実を結んだ証拠、地上を受け継ぐために信仰によって救われる人々の登場であるのです。(黙示録21:1-4)

さらにこの人々は、その信仰を心に抱くだけでなく、聖徒たちへの熱烈な支持を行動で表すことが黙示録に記されています。
彼らは、聖徒の去った後に、その業を受け継ぎ、『この世』を糾弾し始めるのですが、黙示録は第9章の中で、キリストによって導き出される無数のイナゴを用いて聖徒の活動を、それが終わるに続いて騎兵隊の現れによってイナゴの業が継続されることを描き出しています。

かつて、イエスが去った後に弟子たちがヨエルのイナゴの預言を成就して聖霊を受け、ユダヤ体制派を糾弾して悩ましたように、再び現れたイナゴである聖徒を亡き者とした『この世』の勢力に対しては信徒たちも黙ってはいません。聖徒たちの犠牲は無駄にならず、その音信に無数の賛同の声が湧き上がるのです。

特に、その罪が重いのが『大いなるバビロン』が属するであろう世界の『三分の一』に相当する部分であり、それに向かって聖霊の言葉に信仰を持った人々である「信徒」らが、その悪行を暴くという、神の側に立った断罪の声を上げることを黙示録は明らかにしています。彼らの数は『二億』という膨大な数字に象徴されているように、『この世』も無視できない勢力となることでしょう。(黙示録17:1-6・9:16)

もちろん、この人々は『偽キリスト』の『背教』にも惑わされることなく、『この世』の側に着いた脱落聖徒らに迎合することも有り得ません。むしろ、聖徒を葬った『この世』の勢力とそれを売り渡した者らの悪をあばき、神の王国とキリストの見えない臨御を強力に支持することでしょう。(黙示録7:9-17)

では、信徒の大集団が告発するところの、世の『三分の一』また『大いなるバビロン』とは何を意味するのでしょうか。





⇒「背教と不法の人

⇒「小麦と毒麦の例え 不法の人の現れる時



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キリストが犠牲となって地から去り、やがて聖なる者らも聖霊と共に歴史の舞台から消え、『この世』は相変わらず悪と苦しみの横行する空しい世界としてその後も千八百年あまり存続してきました。(ヘブライ2:8)
しかし、聖書に『光は闇の中で輝いている。そして、闇はこれに打ち勝ってはいない』と、今なお伝えるように、キリストと聖なる者らの活動は昔の物語として終わってしまったわけではありません。(ヨハネ1:5)

終末に至って聖霊の注ぎが起り、『聖なる者ら』が再び選び出されるとなれば、それがいつであれ世界は大変革を招くほかありません。エデンの園で予告されたヘビとその裔、また女とその裔と間の強烈な敵意は、伏流水のように世界の歴史の奥底に存在し続けてきたのであり、それは世に対しては聖書の中にだけ書き留められてきました。その間に神の教えは新約聖書を加えてユダヤ人のものだけではなくなり、いつしか世界で読まれるまでに広められ、いまや並ぶべき書物がないまでに流布され、イエス・キリストの名は世界中に広く知れ渡りました。

そして、来るべき「終末」という特別な時期ともなれば、人類を巡る両者の対立が、キリストの初臨に勝って世界中を巻き込み、史上なかった規模で世界を覆う時となり、この争いを免れることは誰にも許されないことでしょう。これから起る決定的な闘いは、『この世』という神から離れ落ちた人間社会の終りと再出発を前にして、いよいよ大きな山場を迎えることになります。

さて、創世記のはじめで予告された『女の裔』が何者であるのかの謎は、すでに新約聖書によって明らかにされています。
それは『地のあらゆる氏族が自らを祝福する』というアブラハムの子孫であり、モーセの律法契約が目指した『祭司の王国、聖なる国民』の到来でしたが、律法が生み出したのは、唯一その掟をことごとく成就したイエス・キリストただ一人だけであったのです。

しかし、イエスは『新しい契約』によってメシアへの信仰を働かせたイスラエルの残りの人々と、異邦人から補充された人々を『聖霊』によって、血統だけによらない「真のイスラエル」として生み出し、彼らを『兄弟』、つまりキリストに同じく『神の子』とし、そうしてアダムの罪を赦された民を地上に出現させ始めたのでした。そして、彼らは『聖なる者』、『聖徒』と呼ばれるに至ったのです。

その人々はキリストの犠牲を人類全体に先立って適用されたことにより『天に登録された初子たちの集会(エクレシア)』と呼ばれていますし、律法制度でレヴィ族が『初子』つまり長子の部族として祭司職に任じられたことも、聖霊を注がれた彼らが『初穂としての霊を持つ』とされることも共に彼らが神に選び取られた格別の人々であることを示しています。(ヘブライ12:23/民数記3:40/ローマ8:23)

『聖霊』を注がれて『異言』という習得したことのない言語で神を賛美する奇跡の賜物をはじめとして、その『翻訳』、また神の『知識』や『知恵』、そして『預言』や『癒し』に至る様々な能力を表して、自らが『新しい契約』に属する『聖なる者』であることを示した人々は、第二世紀の終り頃から存在がはっきりと資料に残されなくなり、第四世紀にまとめられたエウセビオスの「教会史」では、キリスト教の第一世代である使徒たちについて『彼らは、自分たちと共に働く神の霊と、自分たちを介して成し遂げられるキリストの奇跡を行う力を使って、天の王国の知識を全世界に宣べ伝えた』とあり、また第二世紀の中頃については『当時はまだ神の賜物によって多くの不思議な業が様々な教会で行われていた』とも記されています。
つまりこのエウセビオスの書が著された第四世紀には『聖霊』を注がれた人々は過去のものとなっていたのです。(教会史3:24・5:3[エウセビオス「教会史」上講談社学術文庫)

そして今日に見られる諸教会の基礎が据えられたのも、ローマ皇帝がキリスト教に介入を始めた同じ第四世紀のことで、それ以前の『聖霊』が導いていたキリスト教とは異なる教えに変化し始めました。
しかし、きわめて重要な事に、イエスはご自身の再臨の時に、つまり『終わりの日』にも聖霊で語る弟子がいることを示されているのです。それが『聖霊』で語る弟子たちの預言であるのですが、もちろん、神のこの世への介入が起るときに、超自然の事柄が起きないと考えることは聖書を知る者にはあり得ないことです。(ミカ7:15-16)

そして聖徒が終末に現れるなら、『新しい契約』はキリストの再臨の起る『終わりの日』に再び締結されるだけの『効力を持つ』ことになります。(ダニエル9:27)
この点は、旧約聖書にも多くの関連する句が存在しており、特にダニエル書では、その第八章で歴史上の世界覇権の移り変わりを描いたうえで、『彼らの国の終りの時になり、罪びとの罪が満ちるに及んでひとりの王が起る。その顔は猛悪で、彼は曖昧な言い回しをよく理解し、その勢力は盛んであって、恐ろしい破壊をなし、その行うところは成功し、力ある人々を倒し、聖徒である民をも滅ぼす』としています。(ダニエル8:23-24)
つまり、『聖なる民』は迫害に遭って滅ぼされるというのです。それもこの受難については一度ばかり語られたことではありません。(ダニエル7:21)
これは、メシアが『彼はさげすまれ、わたしたちは彼をさほどの者とは思わなかった。』と軽視され処刑に至ることを予告した預言者イザヤのように、ダニエルはその『兄弟たち』、つまり『聖徒たち』の受難をも予告していたのです。(イザヤ53:3-4)

加えて、聖書最終巻である黙示録にも、終末に『二人の証人』が登場しており、キリストのように三年半『1260日の間預言させた』その後に、やはり『底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す』とあります。(黙示録11:3-7/箴言28:15)
この『二人の証人』が誰かについては、『地に住む人々は、彼ら(の死)を喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。この二人の預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである』と補足されているので、彼らは『この世』の罪を暴く者で、人々を悩ませる預言を語っていたことから、ユダヤ体制の悪を暴いたイエスのような存在、つまり『わたしの業を』『より大きく行う』とされたキリストの弟子らであると結論付けることは聖書の内的調和からして的外れではないでしょう。
『二人』というのは、法的証人としての複数の証言者によらなければ重大事案は裁けなかった律法の概念に触れているのでしょう。それだけ終末の証人たちの言葉が重い知らせであるということです。(ヨハネ14:12/民数記35:30)

かつて、イエスがユダヤ一国の中で行われた証しの業と裁きを、終末の聖なる弟子たちが世界規模で行うと見るべき理由は、『より大きな業を行う』と言われた上記の句ばかりでなく、旧約の預言書の中で神YHWHが世界を裁く時が到来することが何度も明らかにされているところに十分な根拠を見出せます。例を挙げれば、預言者エレミヤはこう言っています。
『叫びは地の果にまで響きわたる。YHWHが国々と争い、すべての肉なる者を裁き、悪人を剣に渡すからであるとYHWHは言われる。万軍のYHWHはこう仰せられる、見よ、国から国へ災いが出て行く。大きな嵐が地の果から起こる。』(エレミヤ25:31-32)

また、イザヤはこう言います。
『諸々の国よ、近づいて聞け。諸々の民よ、耳を傾けよ。地とそれに満ちるもの、世界とそれから出るすべてのものよ、聞け。YHWHはすべての国に向かって怒り、そのすべての軍勢に向かって憤り、彼らをことごとく滅ぼし、彼らを屠られた。』(イザヤ34:1-2)

預言者ゼパニヤの言葉も激烈さでは劣りません。
『YHWHは言われる、「それゆえ、あなたがたはわたしが立って証言する日を待て。わたしの決意は諸国民をよせ集め、諸々の国を集めて、我が憤り、我が激しい怒りをことごとくその上に注ぐことであって、全地は、ねたむ我が怒りの火に焼き滅ぼされるからである。』(ゼパニヤ3:8)

こうした預言の言葉は聖書に広く見られ、新約聖書にも見出されます。
『その時には、世の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来る。』(マタイ24:21)

『人々は、この世界に何が起こるかをおののき、恐ろしさのあまり気を失うだろう。森羅万象が揺り動かされるからである。』(ルカ21:25-26)

『地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らもみなが洞窟や山の岩かげに身を隠した。そして、山と岩に向かって言った。「私たちの上に覆いかぶさって、玉座におられる方の顔と小羊の怒りから、私たちを匿ってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。誰がその前に立つことができようか』(黙示録6:15-17)

『この世』というものが、実は悪魔の策略によって人類が否応なく陥っている苦しみの世界であるという実情を知らずにいる人なら、聖書やキリスト教というのは、ひとえに人に穏やかで敬虔な振舞いをさせるものだと思っているような人々もいて、以上のような神と世界が対決する激烈な預言の言葉は「聖書」らしくなく、耳を疑うような内容と思えるかも知れません。

しかし、上記のように激しい預言の言葉が聖書に再三に記されている以上、美しく柔和な言葉を聖書から拾い読みしてありがたがっていても、それが神の言葉の趣旨となるわけでも、また聖書やキリスト教の本質に触れたことにもなりません。それは「その人が望むキリスト教」であって、やはりユダヤの宗教家らに彼らの願ったようなメシアは到来せず、今日までも待ち続けている姿に重なってしまうのではないでしょうか。

実際のところ「人の幸福」とは、個人が「天国の至福を味わうこと」なのでしょうか。それとも人類全体の幸福は対症療法ではなく根本治療なくして到来しないというべきでしょうか。
聖書を通して見える神の意志は、悪魔が据えたものを根こそぎにすることであり、キリストが命をかけた闘いを地上で行い、ついに忠節を尽くしたのも、人々に真実の幸福をもたらすためではなかったのでしょうか。それこそがエデンで語られた『女の裔』、また『アブラハムの裔』の役割ではありませんか。
その益にあずかるはずの『地のあらゆる氏族』がそれを否定してよいわけもありません。(創世記22:15-18)

『聖なる者たち』はキリストの兄弟、また同労者となって終末にも任命を受け、神の代弁者として聖霊に導かれて語るので『この世』からの様々な攻撃の矢面に立つことになります。彼らこそは、天界でキリスト共になる『栄光ある者たち』であって、『天使をも裁く者となり』、『その最も小さい者さえ』『女から生まれた中で最も偉大な』バプテストのヨハネに勝ると言われる通りです。(ペテロ第二2:10/コリント第一6:3/ルカ7:28)

イエスがかつて弟子たちにて言われた言葉、『「下僕は主人に勝らない」と、私が言った言葉を思い出せ。人々がわたしを迫害したのなら、あなたがたをも迫害するのだ。』との言葉の通りに『キリストと共になる者ら』は、やはり同じく『女の裔』としてかかとを砕かれなくてはなりません。キリストが磔刑に処せられたように、彼らも『自分の(磔刑の)木を荷って後に続く』覚悟が要ります。(ヨハネ15:20/創世記3:15)
しかし、それを通して彼らはキリストとまったく結ばれた者らとなり、地上の試みは、彼らをイエスを『隅の頭石として』その上に神殿となるよう積み上げられるに相応しく試され研磨された石とさせるのであり、試みを通過してこそ彼らの天の立場は確定し、欠くことのできない一員となるのです。しかし、その試練はイエスがそうであったように簡単なものではありません。(マタイ21:42/ペテロ第一2:5)

彼らの試練が終わる時、『新しい契約』を最後まで保って亡くなった聖徒らと、忠節の内に生き残っている聖徒らとが天界に召されるに際し、キリストはまず聖徒らを復活させる権威を行使するでしょう。『父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与える』とは『新しい契約』の仲介者であるキリストが、その契約に属した者の誰を復活させるかを選ぶ権限を持っていることを明らかにしています。(ヨハネ5:21)
ですから『天の王国は、海におろして、あらゆる種類の魚を採る網のようなものである。それがいっぱいになると岸に引き上げ、それから座って、良いものは器に入れ、悪いものは外へ捨てる。世の終りにもそのようになるであろう』という「引き網の例え」の意味はこの観点から明らかになります。

そのためにイエスは『墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善を行った者らは命を受けるために生き返り、悪を行った人々は裁きを受けるために生き返って、それぞれに出てくる時が来るだろう』という復活に関する句についても、神の行う復活の業と、キリストの行う二つの復活の業があることを示唆しています。『新しい契約』を全うした聖徒らは、『終わりの日』に『神の王国』を建てるために復活を受けますが、黙示録はこの復活を『第一の復活』と呼んでこう記しています。『第一の復活を受ける者は幸いな者であり、また聖なる者である。この人たちに第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間支配する。』(黙示録20:6)

また、黙示録は『それ以外の死者は、千年の期間が終るまで生き帰らなかった』とも述べます。つまり、これは『聖徒』としての復活をしない、あらゆる時代の世界の人々の復活を指しており、「第二の復活」とも言えます。
それですから契約を守らなかった聖徒らについては『第一の復活』は受けられないでしょう。なぜならイエスがそれを望まない者となっているからで、彼らは一般の人々と共に千年後に肉の人として生き返ることでしょう。そうであれば、それは復活とはいえ彼らにとって愚かさと恥辱を表すことが避けられないことになります。(マタイ25:1-13)

また、終末に幾らかの忠節な聖徒たちが、『第一の復活』の時期まで生き残ることも知らされています。
『生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは決してない。』とパウロが述べた通り、最後まで生き残った聖徒らは、第一の復活が行われたすぐ後から、『雲の内にあって』つまり人に見られることなく天に召されることになるとされています。もちろんこれは新教系の「クリスチャン」が「携挙」と呼んでいるものとは意味が違います。(テサロニケ第一4:15-17)

ですから、この時点になっても天への召しがない聖徒は、『新しい契約』に忠節でなかったのであり、おそらくはその自覚もあることでしょう。何かのことで『この世』からの圧力に屈してしまっているのです。
『自分の魂を救おうとするものはそれを失い、それを失うものは得るのである。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、一人は取り去られ、他の一人は残される。ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、一人は取り去られ、他の一人は残される』との句は、まさに彼らが契約を守らないことの結果を警告して語られたものという以外にありません。(ルカ17:33-36)

契約を守らない事には、世の側に立ってしまうばかりでなく、聖霊を受けながら何もしないという不忠節も起こるのでしょう。
イエスは、自らを『王権を確かなものとするために旅立つ高位者』に見立てた「ミナの例え」を使徒たちに語っていました。(ルカ19:11-27)
ミナというのは金額の単位で、1ミナは今日の80~100万円ほどになります。
さて、ルカの記すミナの例えでは、この主人は王権を獲得するために旅に出るので、この主人は王とも成れる立場の皇太子か有力貴族ですが、主人と奴隷たちのほかに、その主人の王権獲得を望まない『市民たち』という第三の者らが幾らか顔を出し、ミナの例えを具体的に明らかにしています。

この当時の王権と言えば、ユダヤを治めるヘロデ家の息子たちが王になるに際し、皇帝の裁可を仰ぎにローマに赴き、そこで任命を受ける必要がありましたから、場合によってはローマに長く逗留させられることにもなりました。
しかも、うまく皇帝から王権を授かるのに成功したからと言って、そのまま王位に就けるとは限りません。たとえ信任状や認証指輪などを持って帰国しても、自国の中の対立勢力を自分でねじ伏せ、王位に就くことを実力で勝ち取る必要があったのです。

そのような主人は、まず自国を留守にして『王権を確かなものとするために旅立つ』必要があったので、家の下僕らにそれぞれ1ミナを託して、それで各自が商売をして1ミナを増やすように命じてから出発しました。その後から、その国のある市民らは使節を送り、この主人が王となることを望んでいないと権威者に申し立てました。

それから主人が王権を授けられて帰国すると、下僕らの商売の結果を報告させます。
ある下僕は1ミナを10ミナに増やしましたので、主人はその者に十の街の支配権を与えます。同じように5ミナに増やした者には五つの街を与えます。
しかし、ある下僕は1ミナを1ミナのまま持っていました。それは商売に失敗したわけでもなく、なんと、1ミナを布に包んでそのままにしておいたのでした。

その理由は、主人が『自分ではまいていない場所から刈り取ろうとする厳しい方』なので、『恐ろしくなって』何もしないでいたというのです。
主人は、それなら両替商にでも預けるだけでもその利息と一緒にもらえたのに、それさえしなかったことを責めます。
そしてその下僕の1ミナを取り上げて10ミナに増やした者に与えるようにと命じ、それから主人を王として望まなかった市民を打ち殺させるのでした。

この一連の例え話は、この例えによく似たマタイにある「タラントの例え話」と共に、イエスが地上の生涯を終える数日まえに話されたもので、まさにイエスが『神の王国』の王権を確かなものとするために天の神のもとに旅立とうとしていた時期でありました。
そこで弟子たちにはミナに当たる何か貴重なものが与えられ、主人であるイエスが再び到着するときに、弟子たちはミナをそれぞれどう運用したかを報告することが求められることがこの例えで示されています。

下僕の内の一人が託された財産をまったく使わず、利息を得るために預けもしなかったその理由は『恐ろしかった』という告白から明らかで、主人の財産の運用で失敗する怖さでもなかったことは『両替商にでも預けていればよかったのだ』という主人の指摘からも分かります。
この託されたものを布に包んでしまっておいた下僕は怠惰であったのでもないでしょう。財産を増やすという主人の意向を知りながら、怖くてそうしなかったのです。

ここに託された財産が何であるかを知る糸口があります。
それは、運用するならその身に危険が及び兼ねないもの、公にすることさえ恐れを招き兼ねない何物かです。
これをキリストが残した聖徒たちの務めと照らし合わせるときに、それが『聖霊の賜物』であり、特に終末では奇跡の言葉を語らせると共に、それは『この世』との対立を招くほかありません。神の創造の意図から堕ちたその世界の『罪』を糾弾し、新たな支配体制である『神の王国』に道を開けるべきことを聖霊は宣言するに違いなく、それも論駁不能である完璧な言葉であれば、人々は聞かなかったことにはできないでしょう。まさしくイエスが言われたように『世はあなたがたを憎む』のです。(ヨハネ15:19)

イエスは弟子らに『招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない』とも『狭い戸口から入るように努めよ。入ろうとしても入れない人は多いのだ』とも言われました。これは後の『わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、それぞれ体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない』との使徒パウロの訓戒とも一致します。(マタイ22:14/ルカ13:24/コリント第二5:10)

この厳しさは、彼らの受けることになる『キリストと共なる凱旋行列』に加わる栄光にふさわしい勇敢さを示すよう促すものでしょう。つまり『この世』に対する勝利の行進です。(コリント第二2:14/コロサイ2:15)
しかし、イエスは『わたしは平安をあなたがたに残し、わたしの平安を与える。わたしはそれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。恐れおののくな』とも言われ、獣刑に処せられたことも石打の死刑にも遭ったことのあるパウロも、『神は忠節な方であり、あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時にそれに耐えられるように逃れ道も備えて下さる』と書いています。(コリント第一10:13)

初期キリスト教徒の殉教伝説を集めた聖人伝は、中世期に欧州で脚色されたものではありますが、それらの言葉の端々に迫害に散っていったかつての聖人たちには、拷問や処刑に在っても平静を保つ様々な超自然的な助けがあった様子がおぼろげに伝えられています。いずれは肉体を解くべき彼らは、その痛みも免れたのかも知れません。
おそらくは、聖霊の奇跡の賜物からして、彼らの決意を最後まで貫かせる心の平穏さを神が与えられないということはなかったことでしょう。

そうして、ふさわしく整形された石の数々として聖徒たちの忠節が『隅の親石』であるキリストの上に積み上げられ、ついに天の神殿が建立されて、キリストたちは地への王権を手中にすることになります。
それからは、『神殿への復讐』がなされる時であり、もはやイエスは自らと兄弟たちを葬った『この世』と戦う大王としての厳貌に変わり、黙示録が描くように王冠を頭に載せ、炎のように燃え立つ両眼、口から諸刃の長剣が突き出した姿となってすべての聖徒たちを率い、いよいよ『この世』の征服へと乗り進まれることでしょう。さて、その王権を望まなかった市民らはどうなるでしょうか。(エレミヤ51:11/黙示録1:12-18/ローマ16:20)

こうして砕かれたかかとは癒され、次にはヘビの頭が砕かれなくてはなりません。地上で誰をも裁かれなかったイエスは、今や王権を得て世界を自らのものとされる時を迎えるのであり、人々は自分の目で見ることができないながら、どれほど疑い深い人であってもキリストの再臨を認めざるを得なくなる時が来るでしょう。





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キリストの再臨とこの世の裁き

2020.11.08 (Sun)


地上に現れたイエスは「初臨のキリスト」と呼ばれることがあります。
それは、福音書の中でイエス自身が何度も予告されていたように、天に去った後のいつの日にか戻って来られることを告げていたので、キリストの帰還を後の人々が「再臨」と呼ぶようになった前後の対照からきたものです。
「再臨」という言葉は聖書にはありませんが、イエスは確かに『人の子が来るとき、果たして地上に信仰が見られるであろうか』または『人の子の来る時は、ノアの日のようになる』とも語られました。これらは明らかにキリストが再び来られる後の時代のことを指していることは疑問の余地がありません。しかも、それはいつになるか分からないので、『見張り続けるように』とも言われのです。(ルカ18:8/マタイ24:37.42)

また、パウロが『生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが・・彼らと共に雲の中で引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるようになる』と書いていたので、教会によっては、いつの日にか自分たち信者が天に挙げられてイエスに会い、そのまま天で過ごすものと信じてもいます。
ほかにも、弟子たちがイエスの天に昇ってゆく最後の姿を目撃した使徒言行録の場面では、イエスが見えなくなった空をいつまでも眺めている使徒たちに、二人の天使が現れて『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上られたのをあなたがたが見たのと同じ有様で、また来られる』と言ったと書かれているところから、再びイエスが天から、その場所であったエルサレム東側にあるオリーヴ山に降って来られるものと信じてやまない人々も少なくないようです。
それに加えて、その時には今ユダヤ教徒であるイスラエルの人々が、降臨されるイエスを実際に見て悔い改めて回心し、キリスト教に大量改宗することを心待ちにしている「キリスト教徒」も少なくありません。

このように、さまざまな「クリスチャン」と称する人々が、それぞれにイエスが再び来られると言われた言葉を受け止めているのですが、ひとつの共通点があります。それは、キリストの再臨の記述に必ずと言って良いほど伴う『雲』という一言への配慮がみられないことです。

「雲」と言えば、登山をする人々やパイロットたちにとってはたいへん厄介なものです。視界を妨げるからです。
旧約聖書には、エジプトを後にしたイスラエルを追撃するエジプトの戦車と騎馬の部隊の前に雲の柱が立ちはだかり、イスラエルを紅海の対岸に渡させる時間を与えるものとなった故事が有り、また、崇拝の天幕と什器が完成し、祭司たちが準備を整えたところで、天幕には雲が充満して、祭儀を開始することがしばらくできなくなりました。それはソロモン神殿の最初の時にも起ったことでありました。

新約聖書でも、あるときイエスが山の中で輝きはじめて変貌され、その幻の中に共に現れたモーセとエリヤと会話している場面が終わろうとするその時、使徒たちの前に再び普段のイエスの姿に戻るところで、やはり雲が使徒らの視界を妨げて場面を転換しています。(マタイ17:5/ルカ9:34)

これらの前例から終りの日に『雲と共に来る』または『雲に乗って来る』と言われるイエスの再臨を考えるとすれば、その戻られる姿が見えるものかに疑問符を付けるものとなるでしょう。

加えて、イエスは『終わりの日』の預言、つまり終末預言の中では、ご自身の次の来臨は『稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来る』と言われてもいます。(マタイ24:27/ルカ17:24)
これは、肉体をまとったイエスを広く人々が同時に見られる到来となるという意味ではなく、その直前の文脈で、イエスは偽キリストの登場があることを警告して『人々が「見よ、彼は荒野にいる」と言っても、出て行くな』また「見よ、奥の間にいる」と言っても、信じるな」』との言葉との対照を言い表しているというべきでしょう。これはイエスが地上のどこかの場所に居るものではないという意味以外に捉えられません。『しばらくすれば、もはや世はわたしを見ない』とのイエス自身の言葉を加えるなら、キリスト再臨が不可視であるとの理解は動かし難いというべきでしょう。(マタイ24:26/ルカ17:23/ヨハネ14:19)

さらに、この点を強く支持するのは、キリストの再臨が『裁き』でもある点です。
今日、イエス・キリストほど名の知れた人物もないほどです。イスラム教徒でもイエスは偉大な預言者「イーサー」と呼ばれ、やはり終わりの時に再び現れるものとされています。意外にもイエスはイスラム教徒からも敬われる偉人なのです。
世界一般でのキリストのイメージといえば、長髪に白衣をまとった姿にすっかりと定着してもいるので、それらしい人物が同じようにして現れるなら、自然とイエス・キリストだと思えるほどになっているほどです。『偽キリスト』を演じることはそう難しいことではなさそうです。しかし、古代ユダヤでのキリストの最初の現れでは事前のイメージなど無いことでしたから、ユダヤ体制もメシアとは外見で分からずに裁かれたというべきでしょう。

ですが、キリストが『この世の裁き』のために再臨されるのであれば、それと分かる姿でこの世に現れるものでしょうか。
もし、そうするなら、人々はキリストの前に自分の内心を思うままさらけ出すことはしないでしょう。むしろ救われたいがために「敬虔なクリスチャン」を装うのでありませんか。
かつて、キリストの最初の現れ、つまり「初臨」の際には、旧約の預言にあったメシアの故郷とされるベツレヘムからは来られなかったので、ユダヤ人にはナザレ村から来た大工の息子をメシアとして受け入れるには、どうしても聖書の知識を超えるイエスへの信仰が求められました。そのとき、神は律法を守る業ではなく、御子への信仰によって人を救う『義』を与えようとされたからです。(フィリピ3:9)

確かにイエスは復活を受けたあとに弟子たちに現れ、食事さえしています。
しかし、その復活でイエスが再び人間となられたわけではありません。それが証拠に旧約聖書には天使たちが食事をしている場面が一度ならず有り、そのことは『キリストは肉において死に渡され、霊において生かされた』という使徒ペテロの言葉を否定できるものではありませんし、再びキリストが肉をもって現れるなら、その犠牲は、またアダムのための贖いはどういうことになったのでしょうか。(創世記18・19章/ペテロ第一3:18)
やはり『「最初の人アダムは生きる魂となった」とあるように、また最後のアダムは命を与える霊となった』と述べるパウロも、やはりペテロに同じくイエスは霊者となったことを教えています。(コリント第一15:45)

そして、キリストの再臨が『この世の裁き』のためであるなら、世界の人々が自分がどのような者であるのか、その内面が明らかにされねば『裁き』の意味をなしません。
そこで、神もキリストも裁きの前には決して『顕現』はしない、つまり圧倒的な現れ方はしない理由があることになり、それはユダヤ体制の裁きでも、またエデンで禁断の木を監視しなかったところにも一致します。神は人の決定を見守られていました。

では、キリストの再臨が『雲』によって衆目には隠されたものであるとするなら、キリストの圧倒的な現れではなく、まずは受け入れるも拒絶するも可能な一定の範囲での神の証しを人々は見聞きすることになるでしょう。
キリストの終末預言の中には、まさしくそのようなものが有るのです。
それがつまり、イエスが終末に起る事として語られた、弟子たちが為政者らの前に引き出され、彼らがそこで聖霊の語らせるままに語るという新約聖書に繰り返し現れる終末預言の事態の発生です。(マタイ10:17-18/マルコ13:9/ルカ21:12-14)

そのときには『すべての反対者も論駁できないような言葉と知恵が授けられる』ので『予め何と言おうかと思い悩む必要はない』また、『話す練習はしなくて良い』とまでイエスは言われているのです。(ルカ21:15/マルコ13:11)
これは世界的な注目を浴びるものとなるのでしょう。ですから『それは彼ら(為政者)と諸国民とに対する証しのためとなる』ともイエスは言われます。つまり人間の能力を超えた神の行う世界宣教とも言えるものです。(マタイ10:18)
ですが、それらの弟子たちはキリストご自身ではありませんから、世界は彼らの証しを受け入れるも退けるも強制されるほどのことにはなりません。ですから、そこで求められるのが「信仰」と言えます。

その弟子たちの聖霊に導かれる言葉が具体的にどんな文言となるのかは、当然ながら今は皆目わかりませんが、それが人間の『罪』を知らせ、『神の王国』の到来を知らせるものとなることは『この世』と『キリストの支配』の対立性からして明らかでしょう。ですから聖徒たちは『王や高官の前に引き出される』のであり、そうして宗教家らと論争するよりも重い現実的争点に立つ理由があります。『神の王国』は到来する現実の支配であるからです。
そこで人々は、『この世』という現状の体制と『神の王国』という新たで理想的な社会との選択で分かれるであろうことは今からでも容易に想像できます。

もちろん、世の政治家たちがその立場を喜んで譲るとは思えませんし、それは詩編第二に『地の諸国の王は一団となって立ち構え、諸国の高官も共に謀り、YHWHとその油注がれた者とに逆らって言う。「我らは彼らのかせを壊し、彼らのくびきを解き捨てよう」』と言うと予告されている通りのことになるでしょう。
『この世』には複雑に絡んだ無数の「既得権益」というものが張り巡らされてもいるのですが、世の中は体制的に古い利権構造を変えたがりません。一部の富裕な人々が得をするピラミッドがすでに存在しているからで、新しく廉直なシステムを嫌います。それに対して『神の王国』ほど革新的で新しく公正なものも無いでしょう。
そこで問われるのは、利己心か利他心かということにならざるを得なくなります。
すべての政治家や既得権益者がキリストの支配を拒むというわけではないにしても、それはよほど高潔な人、僅かな人数ではないでしょうか。
聖霊の言葉に世界は揺さぶられることを、使徒パウロは旧約聖書のハガイの預言を引用して、神はシナイ山を激しく揺さぶったように、再び天地を激しく揺さぶると述べ、『あなたがたは語っている方を拒んではならない』と警告しています。(ハガイ2:6-7/ヘブライ12:25-27)


これらの事が起る時には『聖霊』が再び注がれているに違いなく、その時代にも『聖なる者』が再び現れていることの証拠というほかありません。それこそがキリストの再臨の決定的な証拠であり、『終わりの日』は間違いなく始まっていることになります。
そのとき、キリストの二度目の来臨が、信仰ある人々にとって必ずしも祝福になるとは限りません。それはマラキの預言が警告していた初臨のユダヤと同じです。
やはり、終末の再臨が『この世の裁き』でもあることをイエスは次のように語っています。

『人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。それからすべての国の民がその前に集められ、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。
そして、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぐように」』(マタイ25:31-34)
しかし、左側に分けられた人々には『呪われた者どもよ、わたしから離れて、悪魔とその使いらに用意された永遠の火に入ってしまえ』と言われるのです。(マタイ25:41)

このように人々を分けるものが何であるのかを明かして、イエスはこう言われました。
『あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、渇いていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかった』。
そこで、彼らもまた答えて言う、「主よ、いつ、あなたが空腹であり、渇いておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか」』
『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者の一人にしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。

これら呪われた人々とは逆に、キリストの是認に入った人々にはこう言われます。
『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、わたしにしたのだ』。

ここに『この世の裁き』の条件が示されています。それは「キリストの兄弟」、つまり『聖なる者』への態度によるのです。
また、それは『人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒涜はけっして赦されない』と言われた通りであり、あらゆる人は、聖霊の言葉によって二つに分けられることをイエスは明らかにされているのです。(マタイ12:31)

そして、これらの言葉からも、イエスの再臨はやはり目に見えないものであることが明らかになります。どちらの人々もイエスの兄弟への振舞いが自分へのイエス本人からの酬いになるとは思っていなかったのですから。しかもイエスは地上にご自分を捜さないようにと言われるのです。
やはり、『この世の裁き』に於いて世界を分けるものは『聖霊の言葉』であり『聖なる者たち』への人々の反応であるのです。これこそは、人が到底できないような『聖霊』を用いた神の裁きなのでしょう。

では、そのとき人々はどう反応するのでしょうか。
『この世』とそこから得られる利益に執着し続けることは大きな罠になるでしょう。『この世』は『神の王国』と折り合えるものではないからです。そして人は『聖徒』でない限り、誰もが『この世』に属し、アダムの『罪』の内に生きています。
特に政治に携わる人々、大企業の経営者、聖徒らを捕縛する役割を負うような警官や軍人にも葛藤は避けられないことが考えられます。更に難しいと思われるのが宗教関係者となることでしょう。
神やキリストの顕現を見るならまだしも、人間である聖徒らの『聖霊』の発言を前にして、それまで教えてきたこと、また信じてきたことを訂正するだけの潔さがあるでしょうか。
あるいは、かつてイエスに神の印を感じ取り、その許を訪ねたユダヤ最高会議議員でパリサイ派であったニコデモのように廉直な宗教人も終末に現れるかも知れません。またイエスの処刑を担当したローマ軍の百卒長が信仰を言い表したようなことがあるかも知れませんが、そう多く望めないようではあります。(ルカ23:47)

キリストの初臨を迎えたユダヤからして、神の裁きに臨む誰にでも言えることは、自分の利益や権威に凝り固まっていないこと、自分の利益や体裁ではなく真実を求め、人々への共感や同情心に豊かであることは神の目に不変の価値あることでしょう。
しかし、「自己義認」というものは避けるべきものです。「自分は正しいのだから、時には悪を行うことも許される」というのは神の前には通用しないことに違いなく、それこそはユダヤの宗教家らがメシアに対して行った決定的な悪でありました。彼らの「正しさ」には自分の都合や願望が混じっていたところで、イエスへの神の証しを見ても神の義には服せなかったのでしょう。

結局のところ、ユダヤの宗教家らの優れた聖書の知恵や表面上の清さ、正しさは、かえって彼らに罠となったのです。
聖書やキリスト教の知識でさえ『持っているものまでが、取り上げられる』というイエスの警告の言葉はまだ終わっていないというべきで、その裁きでは、その人の思想も信条も関わりなく、もちろん「クリスチャン」であるかどうかにも関わりなくすべての人に臨むことでしょう。
まことに『人は人の外の姿かたちを見るが、YHWHはその心を見る』と言われる通りです。(サムエル第一16:7)

では、各人は終末に至って聖霊の言葉を聞くときに、どう判断し行動するのでしょうか?
その聞く事に純真な価値観を持てるなら幸いなことで、人は誰もが自らの心を常に省みるべきではありませんか。
キリストの初臨を受けて試されたユダヤ体制が、終末の再臨の裁きの時期に生きる人々への重い教訓となって聖書に記されていますが、これは歴史にも刻まれた動かし難い事実なのです。





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聖徒と信徒の違い

2020.11.06 (Fri)


新約聖書を注意深く読んでいると、特にイエスの後の使徒たちの時代以後の手紙文の中で『聖なる者』や『聖徒』と呼ばれる人々が登場することに気付くことがあるでしょう。例えれば『キリストと結ばれて神聖なものとされ、聖なる者となるため召された人々と、・・すべての人たちへ』というように、これらパウロの手紙の宛先となったのはそれぞれ誰のことでしょうか。(コリント第一1:2/コロサイ1:12)

キリスト教会では、ほとんど例外なく『聖なる者』という呼び名も、ただ同じ信者を表す別名というくらいに解釈されているのですが、しかし聖書を良く読み込むと、キリストの犠牲が最初に適用され『聖霊』を注がれた者らが、『聖なる者』また『聖徒』と呼ばれることに気付けるものです。
つまり、あのペンテコステの日をはじめとして、奇跡の賜物を受けた弟子たちのことです。もちろん今日には、あのような人たちは存在していません。(エフェソス1:18/コリント第一14章)
天に召される『聖徒』と、地を受け継ぐ『信徒』との違いがあると聞くと、「それは不公平だ、神は信じる者を差別しない」と反論する「クリスチャン」もいることでしょう。ですが、それは「アブラハムの裔と契約を結んだ神は不公平に人を差別した」と言うことになってしまいます。

やはり、ほとんどのキリスト教会がそうであるように、信徒と聖徒の違いに気付けないとすれば、キリストの信仰者はみなが天にゆくものとされることにもなってしまいます。確かに、天でキリストと共になるという内容が新約聖書のあちこちに出てくるので、信者がみな天にゆくものと思えるのかも知れません。(ヨハネ14:3)
しかし、『復活』が死者に残された希望であることもまた聖書の述べるところで、実際イエスがラザロのような人物を生き返らせているので、人間の生きる希望が天と地のどちらにあるのか、教会の教えでは混乱を感じている人もいることでしょう。

そうした教会の教えでは、「地上に人が生きるのも、天に招く人を選別するための試みである」ともされます。しかし、それにしては神がアダムとエヴァを地上に創造して『たいへん良い』と満足されたのはなぜでしょう。人は天に生きるように創られたのでしょうか。(創世記1:31/詩編115:16)
しかも、福音書でラザロの姉妹であるマルタは、四日前に亡くなった兄が『終わりの日の復活の時に生き返ることは知っています』と当時のユダヤ人一般の信じるところをイエスに語っていましたし、ユダヤ人は地上への復活を信じるので死者には土葬を施してもきたのです。(ヨハネ11:24)

そこで、キリスト教を本当に知ろうと願うなら、神の人間についてのご意志が何であるのか、地上に復活させるのか、天に召すのかを曖昧なままにはできません。
では、真相はどうなのでしょうか。

さてパウロは、キリストが弟子たちを導いた『新しい契約』の意義を説いて、『召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐため』としています。
つまり『天の王国』をキリストと共に受けることです。
それですから彼らの『市民権は天に有り』、キリストによって『世から選び出された』ため、聖霊を受けたときから『この世』のものではありません。そのためにも彼らは、キリストと共に『この世』という地上の人間社会を裁く立場に就くことができるのです。(ヘブライ2:11・9:15/ガラテア6:16/フィリピ3:20/ヨハネ15:19/コリント第一6:2)

また使徒ペテロも、聖霊を注がれた彼らが地上に在っては『寄留者』であり、『霊によって聖なる者とされ』、『血の注ぎを受けるために選ばれた者たち』であり、『天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、絶えない財産を相続する者』であること、また『神は・・イエス・キリストの復活を通して、新たに生まれさせ、さらに生ける希望を与えてくださった』とも述べています。つまり、選ばれた者たちは、キリストの復活した天への命を共に受け始めているというのです。(ペテロ第一1:1-4)

また、パウロは『わたしたちは罪に定められない』と述べ、彼らがアダムからの『罪』を赦された状態に入ったことを教えてもいます。『霊に導かれる者は神の子である』ので、キリストの犠牲の贖いが最初に受けられるので、彼らは『人類の初穂』でもあるのです。(ローマ8:33・14/ヤコブ1:14)
つまり、彼らは『新しい契約』に入ることで、前述のようにキリストと結びついた近親者、共に『神の子』、キリストの『兄弟』となり、真実の『アブラハムの裔』、『神のイスラエル』に含まれたのです。(創世記22:18/ガラテア6:16)

もともと、モーセの律法の目的は『聖なる国民、祭司の王国』をアブラハムの子孫であるイスラエル民族から導き出すことにありました。(出エジプト19:22)
しかし、イスラエルは不信仰を示して律法契約を守れず、バビロン捕囚を招いてしまいました。そこにおいて神は血統上のイスラエルとの関わりを律法契約と共に断念しています。(ヘブライ7:7-13)
それでも、預言者は『新しい契約』が結ばれる日を知らせ、それはキリストによって到来することになり、律法の目的であった『聖なる国民』がそこから実現したのでした。それが『聖徒』です。(エレミヤ31:31-33)

これらキリストの『新しい契約』に入った『聖なる者』については、聖霊が注がれ『罪』から清められ「贖われた状態」に入りましたが、いずれは彼らは祭司のように用いられ、天から地上のすべての人々を同じ『罪』のない状態に到達させるのが神の目的であり、そのことは律法の『贖罪の日』の祭礼の手順にも表れていた通りです。

大祭司キリストに次ぐ祭司たちとなる『聖なる者たち』についても、共に天界の神殿を構成し、天からの彼ら祭司団の働きによって人々が贖われるということ、それこそ彼らが天に招集される目的であるのです。祭司が汚れていては『罪』ある民を清める資格がないことを律法の規定が示していたように、天の祭司団も『罪』から清められた者でなくてはなりません。(テモテ第一6:13)
そこで『新しい契約』は、キリストと共に天界の祭司となる人々を、すでに地上にいる間から『罪を赦された者』つまり『聖なる者』と認め、『聖霊』を注がれてキリストの業を行う権威を授けていたのです。(コリント第一6:11)

しかし、『多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求される』とあるように、『聖なる者』となりキリストと共なる格別の立場に就いたからには、当然ながらより重い責任が生じます。(ルカ12:48)
そこでやはり、『聖なる者たち』が清めに入った状態にあるのは条件付きのもので、『新しい契約』によるその『罪の赦し』も仮のものです。彼らは地上にいる限りは、まだ完全な道徳性に到達しているわけではありません。もし、完全となっていれば、そのまま肉の体のままで永遠に生きることでしょう。

ですから、新約聖書に道徳的な行いを求める記述があるのは、『聖なる者たち』がキリストとの関係に相応しく歩んで『契約』を全うするよう勧告しているからです。依然として「アダムの罪」が彼らに働きはするものの、そこを『新しい契約』がキリストの『義』を仮に適用することで、彼らも『義』とされるのであり、失敗することはあるにしても、自ら悪業に走るなら、それは与えられたものを踏みつけることになり、『契約』を守っているとは言えなくなります。
彼らは『召されたその召しにふさわしく歩むように』しなければなりませんし、『汚れを大目に見るのではなく、聖化によって召された』のです。(テサロニケ第一4:7)

新約聖書が道徳的であるようにと命じ『不義な者には王国を受け継ぐことがない』と言うのも、彼らが『神の霊によって義とされた』からであり、モーセの律法のように守って『義』を勝ち得るものではなく、愛と良心に動かされて自分を汚さないことを意味します。(コリント第一6:9-11)
清さを守ることは、何かの規則を守れば良いということではなく神と人への気遣いによる『心の律法』によるので、使徒パウロであっても『ひたすら後のものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばしつつ、目標を目ざしてひた走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞を得ようと努めている』と語っているのです。(エフェソス4:1)

やはり「契約」というものは常に不確定な事柄について結ばれるものであり、確かにキリストの義は成し遂げられたものであっても、聖徒の一人一人が契約に忠節を尽くして守り通し、ついに義を得るか否かについては、彼らが地上で実証しなければならない各人の務めです。(テサロニケ第二1:4-5)
ですから、イエスは『自分の(磔刑の)木を担ってわたしに続け』と言われたのであり、『狭い戸口から入るように努めなさい。事実、入ろうとしても、入れない人が多いのだ』との厳しい言葉の数々は、キリストの『兄弟』とされる者に求められる条件であり、キリストの道を共にしなければなりません。
ペテロもこう言います。『あなたがたは、実に、そのような道に召されたのだ。キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと模範を残されたのだ』。(ペテロ第一2:21)

彼らにも時に過ちを犯すことがあることについては『互いに罪を告白し合い、また、癒されるようにお互のために祈りなさい』とも書かれているように、自らが『罪』ある身であっても『聖』とされた事についての責務を各自が果たしてゆく必要があるのです。(ヤコブ5:16)
しかし、そのように自らの中にある『罪』との格闘を続けることにより、彼らには人々が負っている『罪』の克服が如何に難しいことであるかを実感する機会ともなり、それは彼らが天界から人類を扱うときに、深い哀れみと共感を働かせる資質として定着することでしょう。この点でも地上に来られ、人となられたキリストは模範者であり『主ご自身が試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができる』とあります。(ヘブライ2:17)

そのため、大祭司キリストとその従属の祭司である『聖なる者たち』が『神の王国』を構成し、人々を治めて贖罪を行う新たな時代が来たなら、『この世』のままに、争い満ち、人生を空しく過ごさねばならない今日とは対照的な世界の到来を期待することができます。
聖書の最終巻となっている「ヨハネ黙示録」は、『この世の終わり』とそれに続く『神の王国』について描写されている書ですが、『神の王国』は『この世』を終わらせて、一千年の間、生ける人々を顧みることを知らせています。(黙示録20:6)

『天の王国』が千年続くことについて述べるのは黙示録だけである理由から、第五世紀まで活動したカトリックの最も傑出した指導者とされる「聖アウグスティヌス」以来、「千年支配」は文字通りのものではないとされて教理から外され、無視されてもきたのですが、その同じ黙示録は『この預言の巻物から何かを取り去る者がいれば、命の木から・・・その者の分を取り去るで」あろう』と警告していたのです。(黙示録22:19)
聖書を読み続けていると分かることですが、謎めいた言葉の続く黙示録も新旧の聖書と非常に多くの関連を持っており、人間の知恵を超える不思議な調和が確かに見られます。誰かが黙示録は意味の分からない怪書だと言うなら、その人は聖書全巻にさほど通じていないだけのことでしょう。
しかも、その「千年王国」の幸福については、イザヤ書がその光景をいくらか描き出してもいるのです。

『天の王国』が『この世』を終わらせて登場する以上、その支配する地上の社会は当然ながら現状とは大きく異なるものです。
イザヤの預言書の第65章では、『わたしは新しい天と新しい地を創造する』という神の預言を語り、『以前のありさまは思い起こされることも、心に上ることもない』という新時代の幸福を説いています。
その命の長さは『樹木のように』なり、『彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる』とあります。それは古代のイスラエルではぶどう園の持ち主が、雇人を使って栽培させ、その益は持ち主が得るかつてのありさまと異なることを強調しています。つまり、搾取を受ける今日のような空しい労働はなく『彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、彼らが植えるものは、ほかの人が食べない』『自分の手で作った物を存分に楽しむ』とあるように、人々はその働きから有意義な益を受ける事が知らされています。『彼らは無駄に労することない』ともあるのです。

そこには『わずか数日で死ぬ嬰児、自分の寿命を満たさない老人は、もはやその中にいない』とあり、突発的な不幸で亡くなることもないようです。『生まれた子を死の恐怖に渡すこともない』とある通りです。
むしろ『彼らはYHWHに選ばれた者の子孫であり、祝福された一族としてみなが共に居る』ともあります。千年に及ぶその期間に入ることを許された人々は、そこから生まれる子らが世代を重ねて増えることを述べているのでしょう。

このように変わるのは人間社会ばかりではなく、アダムの『罪』を犯して以来、『呪われた地』も変化を遂げるのでしょう。
これを述べるのは同じイザヤ書でも第11章にある預言で、こう書かれています。
『狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く』。
『わたしの聖なる山では何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地はYHWHを知る知識で満たされる』。このような自然界の調和は『エデンの園』以来見られなかったことに違いなく、弱肉強食が当然の世界観は拭い去られることでしょう。

アダムが『罪』を負った後に、神は『地はあなたのために呪われたものとなった』と言われましたが、彼が耕す地面からは雑草が生じ、それもイバラやアザミなど、棘のある植物が繁茂するようになったことを創世記は記します。それは耕作を苦しいものとし、ときには、洪水や旱魃、嵐や地震など、自然災害もあ人の生活を脅かすものとなっていったことでしょう。
それらの『呪い』の解かれた地上がどれほど心地よく、また美しい姿に変わるものでしょうか。おそらくは現在からは想像もつかないほどの世界が待っていることでしょう。

しかし、その社会での人そのものがアダムの堕罪前の状態に完全に戻ったかと言えば、そうは言えません。
なぜなら、イザヤ第65章には『百歳で死ぬ者も若死にする者とされ、百歳で死ぬ者も呪われた罪人と見做される』の一句が存在しています。
つまり、これは『永遠の命』にまでは到達していない中間的な人の状況を指していると言えます。「千年王国」とは『贖罪』、つまり『罪』の赦しが地上で進んでゆく期間であるからです。

聖書は別の箇所で『もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない』人の最終的な将来を告げているので、その千年期の後には『死も墓も火の池に投げ込まれ』、永遠に存在しなくなる時の到来を知らせているのです。(黙示録21:4/20:14)
これはつまり、アダムとエヴァには許されなかった『永遠の命の木』から取って食べることになった人々への祝福を告げるのであり、その人々はキリストのように『義』の完全性に到達し、そうして神と共にいつまでも永久に歩むという、本来の人間創造の目的が達成され、そのときには神の創造が完全な成就を見ているということでしょう。

そこに至る「千年王国」には、生きる人々を『罪』から清め、無垢であったアダムと同様の状態にまで高める働きがあると言えます。それは、その千年の間は、あのヘビである悪魔が人間社会に影響を及ぼせない状態にされることが預言されていることと一致します。『またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所の鍵と大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。
彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、あの年を経たヘビを捕えて千年の間つなぎ留め、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印してしまい、千年の期間が終るまで諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた』とある通りです。(黙示録20:1-3)
その間は、今日のように争いで混乱した社会を見ることなく、人々はキリストの『義』を仮承認された状態にあり、なお子孫を生み出しながら生きるということでしょう。

千年が終わった後に悪魔が解き放たれるというのは、『贖罪』された地上の人々が堕罪前のアダムと同じ『罪』のない状態に復帰したうえでエデンと同じ意味で試されると考えるなら、様々な点で辻褄が合ってきます。つまり創造の神からすれば、悪魔とはいえ他の被造物の試金石として用いることは可能です。
聖書にはこうあります。
『神は、すべてのものを自らの目的のために創造された。邪悪な者をさえ悪しき日のために』。またこうもあります。『邪悪なる者は義なる者の代価、不信実に振舞う者は廉直な者に取って代わる』。(箴言16:4/21:18)
つまり、悪魔は初めから悪者ではなく、自由意志の結果として自ら悪の道に入ってすべての悪の父となったにせよ、創造の神は、悪となった者をさえ用いて、あらゆる自由意志の持ち主である『神の象りに創られた』者のすべてを誘惑させ、善を望む者を一層清めて『義』を与えることができるのです。(エフェソス5:9)

ですから、イエス・キリストであってもその例外とはならず、地上で誘惑を何度も退け、遂に倫理の完全性に到達されたのであり、悪魔は、イエスを磔刑に処させて攻撃したつもりでいて、かえってキリストをまったき『義』へと磨き上げてしまったと言えます。そしてキリストの試された完全な義は、善を望む者すべての『義』の根拠となり、あらゆる人々に『義』をもたらす基礎となりました。(ヘブライ2:10/ローマ5:19)

同じように『聖なる者』に聖霊を注がれることで選ばれた弟子たちも、地上でキリストのように悪魔からの攻撃に耐え、イエスの道にしっかりと付き従うことにより、『義』とされて天の祭司職を受けることになります。彼らの働きにより『義』は人類に広げられます。
こうして、すべての自由意志の持ち主は、神と共に生きるべき存在となることでしょう。そうして神の創造は終わることになり、その意志は天にも地にも行き渡ることでしょう。(マタイ6:10)

「千年王国」はその序章であり、『この世の終り』を逃れ、地を受ける人々には依然として『義』の完全性には到達しないので、何らかの故意の罪をわざわざ犯して離れ落ちる人がいないとは言えないものの、ほとんどの人々が、天からの支配と贖罪の祭儀を受けることで今日の社会では到底得られない幸福を味わうことでしょう。
地上は信じられないほどに変化し、それは以前の時代に亡くなっていた無数の人々の驚きを誘い、それだけでも復活してくるであろう各時代の人々への印となることに不足はないでしょう。

「千年王国」が終わると、以前の世で亡くなったあらゆる人々の復活が起り、『罪の酬いは死である』と書かれているように、一度死を経た人が生き返る場合、その『罪』は消えています。(ローマ6:23/伝道の書9:5-6)
また『神の業は完全』であるので、復活に際してわざわざ人を『罪』ある状態に神は創らないからであり、また、すでに『罪』のない状態で生き返る人々もその自由意志を試される必要があるからで、そこで悪魔が再び用いられる理由もあると言えます。(黙示録20:12-14/申命記32:4)

このように、キリストと聖霊によって結びついた聖徒たちの役割は、天界の祭司団として地上の人々から『罪』を除き、創造されたままの無垢の状態に清めることであり、それはまさしく古代にアブラハムに約束された子孫、『地のあらゆる氏族が自らを祝福する』民、真のイスラエルとなります。(申命記18:18)
この句で、人々が『自らを祝福する』と能動的に述べられるのは、贖罪を受ける人々がただ受け身ではないことを表すと言えます。
なぜなら、その人は『信仰』を表すことが求められているからであり、それも終わりの日に生きる人々には「千年王国」が到来する前にそうしている必要があります。

これまで解説してきたように、キリスト教での『信仰する』とは、ただ神の存在を信じるというものとはなりません。
それは人が自らの置かれた『罪』ある現状を認めて『悔い』、そこにキリストの犠牲による『贖い』が必要であることを認めて乞い願い、贖いを備えたキリストに信仰を働かせることも欠くことができません。
それに加えて信じるべきものがあります。
それが『聖霊』の働きであり、こうして『神と子と聖霊』への信仰が求められることになり、それは『この世』が終わる時代に於いて、つまり「千年王国」の前に人々に求められることになるのです。

「千年王国」が近づくと、再び『聖霊』が神の証しを行うときが来ます。キリストが再び『聖なる者たち』を集め、最終的な祭司団の天への召集を行うからです。これが新教系の教会員によって、模範的なクリスチャンが天に招かれるという「携挙」と勘違いされているものですが、神の救いは「善人」のためのものではありません。キリストは『世を裁くためではなく、救うために来た』のであり、『罪人を招くために来た』と言われなかったでしょうか。
終わりの日に『聖霊』の証しを受け入れ、どのような人であれ、そのときに『信仰』を働かせる人を、キリストは「千年王国」に招く意志を語られているのです。(ヨハネ3:16)

その『信仰』は、自分の益のための「ご利益信仰」であってはならず、神を含むあらゆる他者とのつながり、つまり『変わらぬ愛』からのものでなくてはなりません。そこに高慢な自己義認の余地はないでしょう。
創造界がいまのように乱れ、悪と苦しみの場となった原因が利己心に発していることは永遠に忘れるべきでないことです。神は永遠に生きたい人に命を授けるわけではけっしてありません。ただ善良で従順であればその人を生かすわけでもありません。神と共に生きる人は、神と人とどのように生きてゆくべきかをわきまえているべきであり、それを願い求めることはアダムのようにではなく、その人自身が誘惑を退けて『変わらぬ愛』(ヘセド)を選び取る心の底からの決定にかかっているのです。






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『火のバプテスマ』に焼かれるユダヤ

2020.10.29 (Thu)



バプテストのヨハネは、メシアが来られる前から『その方は聖霊と火とであなたがたにバプテスマを施すだろう』とユダヤの人々に予告していましたが、それは同時にメシアの現れが『小麦』と『籾殻』とを分ける裁きになると語られていたのです。これはユダヤ体制への恐るべき警告であり、バプテストはメシアの裁きの先駆者でありました。
メシアに信仰を働かせたユダヤの人々が『小麦』として『倉に納められ』、他方、そうしなかった『籾殻』に当たる人々は『消すことのできない火で焼かれる』と預言されていたのです。

イエスが天に戻ってから十日後の「ペンテコステの祭り」の朝から、イエスに信仰を持った弟子たちには『聖霊』が注がれるようになりましたが、その人々は神の是認の内に入ることで『倉に納められた』ということは、まず間違いないことでしょう。
では、メシア信仰を持たなかったユダヤの人々、また律法に固執したユダヤ体制は『籾殻』となって焼かれたのでしょうか。

メシア殺害ほど重い罪もないことでしょう。イエスに働いていた奇跡を起こす『聖霊』の証しを否定しただけでなく、殺意をもって反対行動を起こしたのですから、それは「ヘビの裔」の悪業というほかありません。
使徒ヨハネはこう書いています。
『神が御子についてなさった証し、それが神の証しである。神の子を信じる者は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じずに、神を偽り者にしてしまっているのだ』。(ヨハネ第一5:9-10)

イエス自身もこの『神の証し』についてこう言われています。
『誰も行ったことのない業をわたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったろう。だが今は、彼らはその業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んだのだ』。(ヨハネ15:24)
それですからイエスは反感を懐くユダヤ人らに辛抱強く接し『もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。だが、もし行っているのであれば、わたしは信じなくても、その業は信じよ』。(ヨハネ10:37-38)
神の御子で在られる方が、これほどまで謙虚に神の証しを受け入れるように説いたのですが、やはり、その結果は芳しいものとはなりませんでした。
徹底した不信仰がもたらしたもの、それは第一に『聖霊』の働きを否定することであり、それは神を受け入れないという意思表示をしてしまうことでもあったのです。(マルコ9:39)

これは人がアダムからの『罪』に影響されて、つい悪事を犯してしまう事とは性質が違います。
十分に神の善や正義を見ていながら、それを敢えて否定することであり、これはまったく故意の罪、はっきりと倫理的選択をして「悪」を選び取る危険に身を曝すことでしょう。
特に『聖霊』が働く奇跡を目にしながら、それを否定することがどれほど決定的な罪となるかをイエスはこう言われていたのです。
『人が犯す罪や冒瀆はどんなものでも赦されるが、霊への冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦されるだろう。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でもけっして赦されることがない』(マタイ12:31-32)

神からの証しである『聖霊』の奇跡を行うイエスを見ても、ユダヤの宗教家らはそこに神を見ず、イエスは悪霊を使っているとなじり、奇跡を見るほどにかえって激しく反発していました。それに加え、メシア殺害という間違いなく神の意志を否定する罪まで、つまり赦されることのない恐るべき咎を負うことをしでかすに至りました。

刑場に引かれてゆくイエスを見ていた信者の女たちは涙にくれていたのですが、イエスはこう言われました。
『わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣きなさい。人々が、「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ」と言う日が来る。そのときには、人々は山に向かって「我々の上に崩れ落ちてくれ」と言い、岡に向かって「我々を覆ってくれ」と言い始めることになる。』(ルカ23:28-30)
この山や岡に保護を求める句は、旧約聖書のイザヤとホセアの預言に含まれているもので、共に神の裁きの日に人々が隠れ場を求めて言う言葉とされています。(イザヤ2:19/ホセア10:8)
それら預言の句もユダとイスラエルの罪への神の報復の場面で語られる言葉であったのですから、この山や岡に隠れようとするほどの危機が、メシア殺害の罪の酬い、逃げ場のない神の報復の予告としてイエスが引用して語るところとなったのでしょう。

イエスはこの前にも、ユダヤ体制が非常に危険な状態に直面することを何度か予告していました。エルサレムへの最後の旅をして街を一望するところに来るとイエスは涙を流してこう言われたのでした。
『もしおまえが、この日に平和をもたらす道を知ってさえいたら。しかし、それは今おまえの目に隠されている。いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神に査察されていることをわきまえなかったからなのだ』。
まさしくイエスは、ご自分の受難ではなく、彼らの酬いとはいえ滅び行くエルサレムの運命に涙されたのです。(ルカ23:42-44)

これこそは、旧約最後の預言書マラキが、メシアの現れが必ずしも祝福とならないことを警告していた通りの事で、ユダヤの体制はその通りの呪いを刈り取ってしまうのです。
イエスがエルサレムの滅びを預言した当時は、ヘロデ大王が増改築を施した壮麗なエルサレム神殿がそこに実在し、見事な観光名所として世界から誉れを受けていました。実際ヨセフスは、もし戦争を起こさずにいればきっと世界の羨望を受けたに違いない都市が、破滅をもたらす世代を生んでしまったがために、今や灰燼に帰したと無念さを吐露しています。(ユダヤ戦記6:4:407)

その神殿を望むオリーヴ山に座したイエスは、その時すでに神殿が危機にあることについて、『石がこのまま石の上に在って崩されないでいることはない』と使徒たちに知らせていたのです。
とても信じられないような事を予告されるイエスの御傍に四人の使徒が寄ってきて、『どうぞお話ください』とエルサレムの滅びについての預言を聞き出すことになりました。これは使徒たちに鮮烈な印象を残したに違いなく、マタイ、マルコ、ルカの「共観福音書」が揃って記しています。(マタイ24/マルコ13/ルカ21)

イエスは、まず偽メシアの到来を告げ、戦争の噂が立つこと、国と国との民と民との闘いが起こり、飢饉と地震があることから語り出します。しかし、それらの事の起こる前に、弟子たちへの迫害が起こり、彼らはイエスの名のために王や高官らの前に引き出されることになりますが、その弟子たちには反対する者らが束になっても論駁できないほどの言葉が聖霊によって授けるので、何を話そうかと心配する必要がないとも言われます。しかし、彼らはイエスの名のために人々から憎まれ、親族、友人によってさえ官憲に引き渡されるというのです。(ルカ21:12-17)
それでも、彼らが様々な審理の場に引き出されることで、王や高官たち為政者らと、それを聞く諸国民に対しての証しが行われるとも言われていました。(マタイ10:17-20)

その聖霊による驚くべき証しが『神の王国』についての福音となり、人が住むあらゆる場所で知らされることになります。(マタイ24:14)
しかし、この世からの強い反感と迫害により弟子たちの中からも裏切る者やつまずく者らも現れ、それは互いの敵意を煽るものともなります。
そして、エルサレムが軍隊によって攻囲されるなら、その終わりが近づいたことを悟るようにと言われます。(ルカ21:20-24)
それを見たユダヤにいる弟子たちは山地に逃れるよう直ちに行動を起こさねばならないこともイエスは告げられます。そうしなければ子を宿していたり、子に乳を飲ませている女たちには災いが来ることでしょう。
ユダヤの人々は剣に倒れ、囚われとなって諸外国に引かれてゆくでしょう。エルサレムは定められた時まで異邦人に踏みにじられるところとなります。
しかも、こうしてことのすべては、イエスを退けたユダヤ人の世代の間に臨むと言われます。なぜなら、それは『処罰の日』であり、この悲劇を招いたのはユダヤの体制が『自分たちが審理されていることをわきまえなかったから』であったのです。メシアを退けた「その世代」は必ずや酬いを受けなくてはなりません。(ルカ21:22・19:44)
しかし、その裁きがいつ起こるのかの年月は誰も知らないので、弟子たちは『ずっと見張っていて、目を覚ましているように』と言われました。(マルコ13:32-33)
これらの言葉はイエスが地上を去ってから33年目から成就し始め、37年後には本当にユダヤ体制はまったく処罰を受けることになりました。

パレスチナのイエスの弟子たちはユダヤ人から『ナザレ派』と呼ばれて、しばらくはユダヤの中でも増え続け数万人に達していたことをナザレ派の頭となっていたヤコブが述べています。この人たちはイエスをメシアとして受け入れたユダヤ教徒であり、引き続き律法を守っていました。(使徒21:20)
しかし、ユダヤではピラトゥスに続いて赴任してきた代々のローマ総督が次第に敵対的な人物になってゆき、そのためユダヤ体制はますます愛国的になってゆきます。そこに何人もの偽メシアが登場するならどういうことになるでしょうか。実際、ローマへの反感が強まるにつれ自称メシアが横行することになり、争い合う「この世の王国」としてのイスラエルの指導者、「世的なメシア」を求める期待が民の間に強まってゆきました。

その一方で、ローマに処刑されてしまったナザレのイエスを信奉するような「ナザレ派」は軟弱に見なされ、強く排斥されるようになり、その状況でユダヤ教とキリスト教とをはっきりと分ける要因ともなってゆきました。
この時期のユダヤ人のナザレ派信者は、ユダヤ教の会堂から排斥されるようになっていたのでしょう。同時期に書かれたと思われるヘブライ人への手紙には、『集まることを止めないように』とあり、ユダヤ教の会堂とは別にでも集まることを勧めています。(ヘブライ10:25)

特に西暦60年代に入ると、ユダヤはローマ帝国の中でも特に不穏な地域となりましたが、遂に堰を切ったかのように、ユダヤの過激派がローマ軍の守備隊を襲って全滅させるという事件が起こってしまいました。それが西暦66年のことです。
ダマスコの総督府は、ユダヤが反乱を起こしたと見做し、ケスティウス・ガッルスは駐屯していた一個軍団を率いてエルサレム攻略を始めます。
都市攻撃は順調に進んで、市民も覚悟を決めていたところ、いまだに理由のわからないことながら、ローマ軍が撤退を始めてしましました。

ユダヤ人は、これを自分たちの戦いの結果であるかのように勇み立ち、安息日にかまわずローマ軍を追撃さえし、以後は武器が量産され、若者には軍事教練が施されます。この状況からナザレ派やユダヤの危機を悟った人々はパレスチナを後にし始めました。まさしく『戦争の噂』を聞いたからであり、ローマを相手に勝てるわけもないことを悟ったからです。
そのローマ軍がいったんは退いたことにより、そこでイエスが予告された『エルサレムが軍隊によって攻囲されるなら・・山に逃れよ』の言葉に従う道が開かれました。その後もエルサレムはエドム軍や、野盗集団によって何度か囲まれるようになってゆく中で、実際に弟子である人々が北東部の高地の街ペッラに逃れたとの史料が残っています。(教会史3:5)

一方、ローマ軍のなぞの撤退から三年半が過ぎ、西暦70年の『過越しの祭り』の時期でごった返すエルサレムは、フラヴィウス・ティトゥス率いるローマ軍四個軍団と連合軍の満を持した二回目の攻囲を受け、市内にはすぐに飢饉とそれに続いて疫病が発生するのでした。それでも市内を支配していた野盗や愛国者らは、全滅するまで戦うことが神の意志に沿うものだと思い込み、それがかえって聖なる都エルサレムの徹底的な壊滅をもたらすことになります。(ユダヤ戦記6:2:93-)

エルサレムはイエスの言葉のようにローマ軍によってすっかり囲まれてしまいました。ローマ兵は付近の木々を伐採し、エルサレムの市街を取り囲む策を建設しましたが、これは緑成すエルサレムの景観を砂漠のようにしてしまったとヨセフスは嘆いています。(ユダヤ戦記6:1:5-7)
神への祭りを祝おうと集まっていたユダヤ教徒たちには、その意志とは正反対の現実が襲いかかります。
当時のユダヤ人で、その様子をその「ユダヤ戦記」に記したヨセフスによれば、市内は極端な愛国者や野盗らの集団が支配し、勝ち目がないのに戦いに固執し、神殿を破壊することは避けようとするローマ軍側からの再三の投降勧告に従わず、意固地になったユダヤ人自身が神殿を要塞化して血で汚し、市民からは食糧を強奪して回ったため、ついには母親が子を焼いて食べるという事態にまで進んでしまったことを生々しく伝えています。(ユダヤ戦記6:1:199-)
まさしく『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言われた悲惨な状況は誇張ではなかったのです。

そして夏を迎えると、神殿での崇拝も止まってしまい深い絶望が市内に蔓延する中、ついにローマ軍が市内に突入してくるのでした。人命はゴミのように捨てられ、エルサレムでは神殿も炎上し、市内の三つの塔を残してあらゆる建物が破壊されたと言います。占領した兵士らは市内で奪略、虐殺、放火の限りを尽くし、逃げ場を求めて地下道に殺到しますが、そこはすでに死体の山であり、腐臭が酷かったと記されています。(ユダヤ戦記7:1:1)
生き残っていたユダヤ人らの多くは剣に倒れ、あるいはすでに手の下しようもなく弱って餓死してゆきました。愛国者や野盗らは凱旋行列に引ったて見世物にしてから処刑するためにローマに送られ、ほかの多くの人々が奴隷として売り飛ばされ、見世物の剣闘士とされ世界各地に送られていったのでした。(ユダヤ戦記6:9:414/ルカ21:24)
その民の苦しみや絶望はどれほどのものであったことでしょうか。これがユダヤ体制が良いつもりで選んだ道であり、イエスが予見して涙された結末であったのです。
これはエルサレムにとって、それまでに経験したことのないほどの『大患難』というべきユダヤ体制の終わりであり、人々は山や岡のようなものに庇護を乞い願う思いであったことでしょう。

このときのエルサレムの陥落は、遂に完膚なきまでの滅びをエルサレムとユダヤ律法体制にもたらしたと言っても過言ではありません。律法の定めの三分の一が崇拝の場としての神殿を必要とするものでありましたから、エルサレムの神殿を跡形もなく失ったユダヤ体制は、その後21世紀の今日に至るまで、律法の全体を守ることが不可能となってしまったのです。その滅びはかつてのバビロニア捕囚のときを上回るものとなり、かつてはエルサレムに戻った人々によって神殿を失ってから七十年で再建できたものを、ローマに蹂躙されたユダヤの民は今日に至るまで神殿を失い二千年が経とうとしています。神殿と共に民族の系図も焼失し、誰が祭司を務めるべきレヴィ族かを確定できなくなりました。今日のユダヤ人の中には「自分はレヴィの系統に属する」と自慢げに言う人々がそれなりに居るのですが、それを裏付ける証拠もこの時に失われてしまったのです。(エズラ2:62)

しかし、これはパウロのような使徒たちによっても予告されていたことでありました。
使徒パウロはエルサレム破壊まえの西暦67年頃に帝都ローマで殉教したとされていますが、その以前に『新しい契約』と『律法契約』とを対比してこのように書いています。
『神は「新しい」と言われることによって、初めの契約は古びてしまったと宣言されたのである。その年を経て古びたものは、間もなく消え去ることになる。』(ヘブライ8:13)
確かに、イエスが『完全な犠牲を捧げた』のであれば、もはや動物の犠牲に何の意味が残っているでしょうか。
律法中の崇拝の儀式はキリストという『来るべきものの影』つまり模型のようなものであったからです。完全なものが到来した後に、その模型にこだわるべきどんな理由があるでしょうか。それはあたかも、幼虫が羽化して見事な蝶となったかのようなものです。キリストの到来と共に、人々は地上の肉的な崇拝を離れ、霊的な天の崇拝に目を向けるべき時を迎えたというべきでしょう。

こうしてメシアの現れはユダヤを審査するものとなり、イエスの弟子たちには『聖霊』が、そうしなかった体制派には『火』がそれぞれにバプテスマとして臨むことになったという以外にバプテストのヨハネの警告の言葉の捉えようがありません。
神の不興を買った昔の捕囚期のように、裁かれたユダヤ人はその後も反乱を起こしては、次第にパレスチナから散らされ、世界各地に寄留する民となってゆきました。
キリスト教徒から見れば、イエスが『これらの事柄がみな臨むまで、この世代は過ぎ去らない』と言われたのは、明らかにメシア殺害の酬いであったと見るのが自然ですが、ユダヤ教徒はそうではありません。(マタイ24:37)

故国を失った彼らは、移住した異国でもモーセの律法をできる限り守ろうとして、律法学者らが考案した規則をタルムードと呼ばれる書物にまとめ、嬰児に割礼を施し、毎週の土曜日を安息日として守ろうとするユダヤ人は、今日までキリスト教の国々やイスラム教の国々の中でそれに同化せずに集団で生活し、ユダヤ教パリサイ派であり続けてきました。
ですから、彼らは今に至るまで、ナザレ人イエスは「ガリラヤの私生児で、魔術を行い民をたぶらかした」としてきました。もちろん、これはひどい誤解です。しかし、ユダヤ教徒に向かって「やはり、ナザレのイエスがメシアだったのでは?」と言うのは禁断の問いとなっています。ユダヤ教はその後もローマとの戦いは正しかったと教えられてきましたし、そもそも律法の役割や意義を知らせている新約聖書など聖典として認めません。
また、ユダヤ教徒には律法を守る自分たちを高める傾向が残り続け、諸国に寄留していながら異邦人には高利貸しを行うなど差別的に振舞ってきました。その強いこだわりはナザレのイエスへの見方を変えないことに加えて、特にキリスト教の諸国家に居住していた彼らが迫害を受ける要因ともなってしまいました。

近年では、ユダヤ教徒の中からナザレのイエスをメシアとして認める「メシアニック・ジュー」と呼ばれる派も現れてきましたが、この人々の崇拝の中心は引き続き律法を守ることにあります。ですからこの派であっても『新しい契約』の理解に達しているとは言い難く、やはりキリスト教とは異質で、モーセの律法で足踏みを続けているところ、またイスラエルの血統を誇るところでは、ほかのユダヤ教徒と特に変わるところがありません。
メシアの現れは、イスラエルが神と律法契約を結んだときのように、いや、それ以上の宗教上の次元上昇が起こったというべきほどの大変化をもたらしていたのです。この境界線を踏み越えることはユダヤ教徒にとって易しいことではないのですが、それは現在のキリスト教徒にとっても変わりません。『新しい契約』の意義が余りに斬新なため、理解出来ず、道徳的な規則主義に満足する人々も非常に多いのです。

ユダヤでのメシアの現れを通して、『アブラハムの裔』また『祭司の王国、聖なる国民』が歴史上初めて生み出されていたのですが、それは律法契約が遂に生み出せなかった『聖なる者』を出現させる目的の達成でもありました。古い契約はここに完了を見たのです。同時に律法や預言の書の中に予め示されていた数々の模型の実体も到来しました。
また、聖徒たちの現れによって、そこに新たなイスラエルの民が存在していました。つまり血統によらずメシアへの信仰によって生み出された『神のイスラエル』であり、その崇拝は『聖霊』によるもので、もはや『エルサレムでもないところで父を崇拝するときが来た』のであり、『まことの崇拝者は霊と真理とをもって崇拝するとき』がイエスの現れと共に到来していたのです。(ヨハネ4:21-23)

それでも、イエスのユダヤ体制の終わりに関する預言には、当時には起こらなかったいくつもの言葉が含まれています。
それらの言葉の中には、『そのとき、人の子の印が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る』などがあり、そのような事実は当時には認められません。ユダヤ戦役はユダヤという地域で起こったこと以上ではないからです。また、ユダヤ戦役の時にいったい誰がイエス来臨を見て悲しんだでしょうか。(マタイ24:30)

また、『人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める』というような事もありませんでした。これはつまり、聖徒らの天への招集を指していますが、それがやはり『キリストの(再び)来られる』時に起こることであることをパウロが明らかにしています。
加えて、聖霊を注がれ奇跡を行う弟子たちの存在は、その後の第二世紀の史料にも依然として確認されるのです。(マタイ24:31/テサロニケ第一4:15-17)
さらに加えて、そのときに「王国の知らせ」があまねく世界の果てにまで知らされたとも言えません。弟子たちはいまだ世界宣教の途上にあったのです。

そこで、キリストの語ったユダヤ体制の終わりの予告は、その時代だけでなく、さらなる将来、つまり『この世』という体制の終わりへの「二重の預言」であった事を示唆しています。
つまり、ユダヤの体制の終局に起こった事柄が、この世が終わる時に起こる事柄の予型ともなっているということです。
そうであれば、オリーヴ山上でのイエスの終末預言をはじめ、聖書中の様々な預言の一字一句が、それぞれの時代限りのものではなく、依然として人類に大きな意味を持っていることになるでしょう。
しかも、その極めて重要な時期はメシア=キリストの再来に関わるのであり、将来の次なる二度目の現れにはユダヤ一国の体制を超えて、『この世』の全体が裁かれる時となることを示しているのです。(マタイ25:31-32)




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キリストの赦しによる聖霊の到来

2020.10.27 (Tue)


聖書で語られる『霊』また『聖霊』とは、どんなものの事を指すのでしょうか。
実は、『霊』と『聖霊』には意味深い違いがあります。
何がその違いを生んだかといえば、イエス・キリストの犠牲の死を通した『罪の赦し』、つまり贖罪によってその大きな意味の違いを生じさせることになったのです。

特に『聖霊』は、キリストが犠牲の死を捧げて天に去った後に、弟子たちを『助けるもの』となり、また『真理をあまねく教える』ものともなり、それが新約聖書を成立させる原動力となったと言って過言ではありません。
そればかりか、『聖霊』は選ばれた民である「真のイスラエル」を生み出すものともなってゆきました。
では、『霊』と『聖霊』とはそれぞれ何かについて聖書に耳を傾けましょう。

キリスト最後の受難の日に、ユダヤ人宗教家たちから極悪人として裁くようナザレの人イエスを引き渡されたローマ総督のピラトゥスでしたが、イエスに何の罪状も認められないので、彼は何度もイエスの釈放を試みます。しかし、宗教家に扇動されていた群衆があまりに騒ぎ立てるので、ユダヤ一国の騒擾になってしまうことを恐れた総督は、僕に水盤を用意させ、見守る人々の前で手を洗ってこう言いました。
『この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい』。すると群衆は『その血の責任は、我らと我らの子孫の上にかかってもよい』と言います。しかし、本当にそれでよいのでしょうか?(マタイ27:24-25)
もはや、ユダヤの体制はイエス殺害を目論んだことにおいて、引き返すことのできない道に踏み込んでしまったのです。

この数日前のこと、イエスはご自身の刑死が近いことを悟り、宗教家らに向かって『この神殿を壊してみよ!そうすれば、わたしは三日で立て直す』と挑発していたのです。
それに対して彼らは『この神殿は46年も掛かって建てられたのに、それを三日で建てると言うのか!』と当たり前のことを言って、イエスの言葉の背後に込められた二つの象徴的な事柄を悟りませんでした。(ヨハネ2:19-20)
つまり、『神殿』というのは、イエスご自身の体のことを指して言われたのであり、それから『三日で建て直す』とは死んでも三日後に復活することの例えであったのです。
イエスの復活の後になって弟子たちはそれに気づいたのですが、いきり立つ宗教家には大言壮語の大法螺吹きとしか思えません。そのため、彼らはますますイエスへの殺意を固めてゆくのでしたが、それこそイエスの意図したところであったのです。この『建て直す』との言葉はイエスを訴える口実ともされます。(マタイ26:59-62)

こうして「三日目に復活する」という予告は反対者らにも忘れ難いものとなりましたので、イエスを磔刑で殺害させた後には、その墓を自分たちの神殿衛兵らに見張らせることにするのですが、それはイエスの弟子らが遺骸をほかの場所に移して復活を演出しないように守らせるためであったのです。しかし、この策は裏目に出てしまいます。

金曜日に亡くなったイエスは、大安息日であった『無酵母パンの祭り』の初日に当たる土曜の丸一日を墓の中に遺体のまま横たえられていましたが、日曜日の早朝になると神殿の傭兵たちが見守っている眼前に天使が現れ、本当にイエスに復活が起こってしまい、墓の前に立て掛けてあった大きな蓋の石も動かされていたのです。
傭兵たちは輝く天使を見て真っ青になって死んだようになっているばかりでしたが、しばらくして、自分たちを遣わした宗教家たちに見た通りに報告します。

すると宗教家は、これを揉み消しにかかります。
『夜中に弟子どもが死体を盗んで行ったと言え』と命じて兵士らには多くの口止め料を払い、総督からは役職怠慢を咎められないようにしておくと請け合ったのです。これは明らかに故意の罪というほかありません。(マタイ28:1-15)
それですから、ユダヤの宗教家らは、自分たちが天に逆らう行いをしていたことは否応なく知ったことになり、その場で悔いるには彼らの心は頑なに過ぎたのでしょう。ですが、噂は市中に広まってしまい、彼らの面目は情報を統制することで保たれるありさまです。

こうしてユダヤの民は、ナザレ人イエスを巡って二つに裁かれていたと言えます。
このことは、早くもバプテストのヨハネがイエスの来られる以前に指摘していたことでした。
『わたしは水でバプテスマを施す・・しかし、わたしの後から来られる方はあなたがたに聖霊と火とでバプテスマを施すであろう』。(マタイ3:11)
この句は、多くの「クリスチャン」にとっては、あのペンテコステの日にイエスの弟子たちに聖霊が火のように与えられた事を指すものと勘違いされています。しかし、それは違います。
バプテストのヨハネは続けてこう述べていたのです。

『(その方は)手に箕を持って、脱穀場を隅々まで掃き出し、麦は集めて倉に入れ、殻は消えることのない火で焼き払われるだろう』。(マタイ3:12)
ここには、麦の穀粒と籾殻という二種類の収穫物へのそれぞれに違った処置が描かれています。
有用な麦粒は倉に納められるのですが、その一方の籾殻は火で焼かれています。殻は使い道が何もないからです。

これらのヨハネの言葉は、やはりメシアの現れによってユダヤが裁かれることを述べています。
それを更に裏付けるのが『斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて火に投げ込まれるのだ』という同じ文脈で言い加えられた言葉です。(マタイ3:10)
この警告を受けたのは『パリサイ人らとサドカイ人らと』であり、ヨハネは彼らを『まむしの子孫よ!』と呼んで水のバプテスマを受けさせませんでした。悔い改めには程遠かったからでしょう。やはり、彼らはナザレ人イエスに対してそれなりの行動をとったのです。(ルカ7:30)
しかし、このヨハネの言葉は、ユダヤ人の中から『聖霊のバプテスマ』を施される『小麦』に当たる人々も出ることを教えています。

聖書で言う『霊』とは、創世記の初めのところから登場しており、神の創造に於いて働いています。(創世記1:2/詩編13:6)
また、アダムの鼻孔から神が吹き入れられたのも『霊(ルーアハ)』であり、その結果として『人は生きた魂(ネフェシュ)になった』と書かれています。漢字では「霊魂」と一つの意味にされがちですが、ヘブライ語では『霊』と『魂』とでは意味が随分違います。(詩編88:10)
ヘブライ語の『霊(ルーアハ)』には「風」という意味もあります。ですから、『霊』とは人を呼吸のように、人を生かしているものでもあり、人が死ぬと『その霊は神のもとに帰る』ともあります。(伝道12:7)
もちろん、人間には死後に意識がないことを聖書が教えるのですから、死後に神のもとに帰るのは人の意識ではありません。『帰る』というのは象徴表現であり、人を生かしていた神に属するものである『霊』がその人から離れたという以上のものにはなりません。旧約聖書の詩編には『息吹(ルーアハ)を取り上げられれば、彼らは息絶えて元の塵に返る』とある通りです。(詩編104:29)

同じく『霊』は、預言者たちに霊感を与え、神からの意志を伝え、また幻を見させる働きも行ってきました。(ペテロ第二1:21/出エジプト31:1-5/エゼキエル11:24)
イエスはこの『霊』について説明し『風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない』と言われます。つまり、肉体で地の上に住む人間には捉えられないということでしょう。(ヨハネ3:8・12)
また、『わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろうか』とも言われました。
ですから、聖書の言う『霊』とは物質的なものではなく、天的で見えないながら地上でも働いているもの、例えるなら機器によってさまざまに働く電力のようなものなのでしょう。(コリント第一12:7-11)
それは現に、生きる物の中でも働いてそれぞれを生かしているもので、人にとっては、ある時には『霊に燃え』、ある時には『抑制される』べきものともなるのが聖書の言う『霊』というものです。(使徒18:25/箴言25:28)

では、『聖霊のバプテスマ』のような『聖なる霊』とそれら普段から働く『霊』とは同じものでしょうか。
これは非常に重要な点です。
というのも、使徒ヨハネがイエスの復活後に与えられる『霊』について、福音書にこのように書いているからです。
『イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだなかったからである。』(ヨハネ7:39)
このキリストの受ける『栄光』とは、死に至るまで試されたことから得た『義』の完全性を言うのであり、その義認が霊者としてのイエスの復活の時に与えられ、更に後の弟子たちへの義認の分配に至ったことを指すのでしょう。(テモテ第一3:16)

もちろん、キリストの犠牲による義は、あらゆる人の贖罪の代価となるのですが、まず贖罪を行う祭司たちが清められねばなりません。それは律法に定められたレヴィ族でも、清めの基準に達していなければ崇拝に携われなかったことが予型として表していたことです。(ヨハネ第一2:2/出エジプト30:21/レヴィ22:4)
また、受難の前の晩、イエス自身も『わたしが去って行かなければ、あなたがたの助けは来ない』。また『わたしは父にお願いしよう。そうすれば父は別に助けを送って、それはいつまでもあなたがたと共にいるようにして下さる。それは真理の霊だ。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにあるのだから。』と言われています。(ヨハネ16:7・14:16-17)

イエスは地上を去る前に、弟子たちにはその『霊』が与えられ、それがずっと彼らの内に在って助けを与えることを約束し、『わたしはけっしてあなたがたを見捨てない』とも言われるのでした。(ヨハネ14:18)
ですから、キリストが天に去った後に降る『霊』は、それまでになかった特別のもの、「世が受けることのない霊」、弟子たちにだけ働く助け、つまり『聖霊』であることが明らかです。

そして、イエスが復活した日から50日目の朝に、新約聖書の使徒言行録は大きな出来事があったことを記しているのです。
それは律法に定められた『週の祭り』の朝であり、『無酵母パンの祭り』の二日目から50日を数えて日を定めることから「ペンテコステの祭り」とも呼ばれます。
その日が訪れるまで、イエスの弟子たちはユダヤの人々を恐れて、エルサレムの街の一角に潜んでいましたが、一方で、街には祭りを祝うために外地のユダヤ人がにぎやかに集まって宿泊していました。
その朝になると、突然に大風の吹き付けるような轟音が響き渡ったので、祭りに来ていた人々は何事かと、その音のするところに集まってきました。

彼らが目にしたものは、120人ほどのイエスの弟子たちが、様々な言語で神を讃えている姿であり、彼らの頭の上には『火の舌のようなものが見えた』とあります。
普段を外国で過ごしているユダヤ人や改宗した異邦人は、イエスの弟子たちが自分の住んでいる国の言葉が様々に話されていることを見て大いに驚きました。

すると、使徒ペテロがほかの使徒らと共に彼らに相対して、これが旧約のヨエルの預言の成就であることを聞くすべての人に知らせます。
『その後わたしはわが霊をあらゆる肉なる者に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしは下僕や下女にもわが霊を注ぐ。』(ヨエル2:28-29)

これはイスラエル人であればすべての人に霊が注がれて奇跡の業に預かるという意味の預言ではなく、レヴィ族であるか、宗教家であるかに関わらず、どんな立場の人であっても霊が注がれることが起こるということであり、実際にこの日に聖霊を受けたイエスの弟子らは皆が平民でありました。迫害を恐れて街の一角に潜んでいた弟子たちは、『聖霊』が注がれると大きな力を受けて公に堂々と語り出し、その後の宣教への長い道のりに足を踏み出したのです。イエスがこう予告していた通りです。
『聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の絶え果てるところまでもが、わたしの証人となるだろう』。(使徒1:8)

そして、彼らがイエスこそメシアであり、復活したことを証し始めることにより、宗教家らはますます窮地に立たされてゆきます。
その日以来、弟子たちは霊によってキリストが行っていた業を受け継ぎ始めていました。
使徒ペテロには非常に際立った癒しの奇跡が伴うようになり、彼が通る道には、その影がかかるようにと重病人が横たえられたのですが、その人々も『一人残らず癒された』と自らも医師であったルカが使徒言行録に記しています。(使徒5:1-16)

このようなイエスの業の継承については、イエス自身が使徒たちとの別れの晩に語っていたことでもありました。
『わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからだ。』(ヨハネ14:12)
また、受け継ぐ業は癒しばかりではありません。『父のもとから出る真理の霊が来るとき、そのものがわたしについて証しを行うであろう。それからはあなたがたも証しをするのだ。初めからわたしと一緒にいたのだから。』(ヨハネ15:26-27)

こうして使徒たちを中心とした弟子たちは聖霊を注がれてキリストの業を行って『アブラハムの裔』をユダヤ人から更に集めてゆきますが、やがて聖霊は、ユダヤ人ばかりでなく諸国民にも注がれることが起きるのでした。
それはイスラエルの神を深く信仰していたユダヤ駐在のローマ軍の士官コルネリウスとその親族友人らが、集まって使徒ペテロを迎えるところで起こっています。(使徒10:37-46)
ペテロがイエスの宣教活動と死と復活について話していると、その場で異邦人である彼らに聖霊が注がれたのでした。
それを目撃したユダヤ人の弟子たちも、後から伝え聞いたユダヤ人も、その事はたいへんに信じ難いことに思えました。なぜなら、神への崇拝も契約もそれまでは常にイスラエル民族と共にあったからで、イエスの宣教活動もパレスチナに限られていたのですから、アブラハムの子孫であるユダヤ人が驚き惑うのも不自然なことではありません。

後に使徒パウロは聖霊の諸国民への注ぎ出しについて、その理由がイスラエルの中から現れた聖なる民が不足していたことによるものであると明らかにしています。つまり、メシア信仰に達して『律法契約』から『新しい契約』へと移ってくるユダヤ人の数が不十分であったというのです。
そこでパウロは『接木』を例えに語り、本来の植えられたオリーヴの木の実りが少ないので、異邦人といういわば『野生のオリーブの枝が切り取られ、もとのオリーヴの枝に継がれた』というのです。(ローマ11:17)
パウロはまた『イスラエルから出た者がみなイスラエルなのではない』とまで述べています。(ローマ9:6)
これは『祭司の王国、聖なる国民』の数を満たすための処置であって、こうして神の王国を構成する本当の意味での『アブラハムの裔』、「真のイスラエル」を信仰ある異邦人からも集めて完成させる目的があってのことなのです。

ですから、イエスの活動も使徒たちの活動も、共に『アブラハムの裔』を集め出すための宣教活動であったことが明らかです。
そして、この人々に奇跡を行わせる『聖霊』が注がれたことによって、その民の一員とされたことが示されたのです。
この事は新約聖書に中に何度も明確に書かれていて、エフェソス人への手紙には『あなたがたもまたキリストにおいて真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、それを信仰したことで、約束された聖霊で証印を押された。この聖霊は、わたしたちが王国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光を讃えることになる。』とあります。

またコリント人への第二の手紙にも『わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは神である。神はまた、わたしたちに証印を押し、保証としてわたしたちの心に霊を与えてくださった』ともあります。『聖霊』は選ばれた者に押された『証印』であり、任命の油注ぎであったのです。(エフェソス1:13-14/コリント第二1:21-22)

ここにイエスが語られた『水と霊から生まれた』人々が誰であるかが明らかにされています。(ヨハネ3:5)
それは「クリスチャン」とは言えません。それを遥かに超えて、「奇跡の賜物」を持った格別な人々であり、キリストと共に信仰によって『神の子』に選ばれた『聖なる者たち』であったのです。(ペテロ第一1:2)
彼らに注がれた『聖霊』は奇跡を行うので、その人たちは自分がその者だと言い張る必要がありません。神の証しがその業に見えたからです。ですからパウロは『霊に導かれる者は神の子である』と明言しています。(ローマ8:14)

このようなわけで、『聖霊』というものは今日の諸教会で教えられるような神自身の位格の一つであるわけもなく、むしろ『神から授かる賜物』であり、『キリストを通して注ぎ出される』ものであることは聖書に明らかです。(コリント第一6:19/テトス3:6)
つまり『聖霊』とは神から発するもので、キリストに従属している格別な清い力であり、それを持つ者は『神の子』として相応しくアダムからの『罪』を赦免された清い状態になくてはなりません。
それゆえにも、『聖霊』を注がれた者は『聖なる者』、つまり『聖徒』と聖書で呼ばれており、単なる信者でも単なるユダヤ人でもない本当の意味での『イスラエル』、『アブラハムの裔』を指しているのです。(コリント第一1:2)
しかし、彼らは「キリストの得た義」が仮に彼らにも適用された状態であり、まだ、キリストと同じ完全性に達してはいません。彼らの『義』の仮承認は『新しい契約』に基づいて与えられたもので、彼らは地上で試みに遭い、最後までの忠節を示してその契約を全うする必要があります。

こうしてエデンで語られた『女の裔』が『霊から生み出され』、あのペンテコステの日に初めて世界に現れることになりました。つまり、『女の裔』とはキリスト独りではなかったのです。モーセの律法に示されたように、彼の子孫から『祭司の王国、聖なる国民』が現れるのです。キリストはただ一人律法を全て満たして、その民を生み出すきっかけとなられました。つまり『救いの創始者』となられたのであり、ご自分の犠牲によって『義』の土台を人類の中に据えたのです。

ですから、イエス・キリストがそれらの『兄弟たち』の中にあって主要な創始者であることには変わりません。
それでパウロは『約束はアブラハムと彼の子孫とに対してなされた。それは「多くの者」を指すかのように「子孫たちに」とは言われず一人を指して「あなたの子孫に」と言っている。これはキリストのことである。』としています。つまり聖書中では便宜的に『女の裔』の全体を代表してキリスト一人を語るところがあることを教えています。(ガラテア3:16)

では、『女の裔』が一人ではないのであれば、そのかかとが砕かれるということは、その受難がイエスの磔刑では終わっていなかったことを表すのでしょうか。また、『ヘビの頭を砕く』というのも、キリストが一人で行うことではなかったのでしょうか。
この点を考える前に、『聖霊と火とでバプテスマを施す』とのイエスの働きのもう一方に残された『火のバプテスマ』がどのようにユダヤ人に臨んだかを見ておきましょう。つまり、メシア信仰を抱かなかった『籾殻』に当たるユダヤ人たちがどう焼かれる酬いを受けたかという事です。









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子羊の犠牲による祭司団の現れ

2020.10.23 (Fri)




『祭司』とは、神への崇拝を司る役職を指し、儀礼を行って人々と神の間を取り持つ働きをします。
モーセが仲介し神YHWHとイスラエル民族との間で結ばれた『律法契約』には、YHWHへの崇拝の方法も定められていました。
その崇拝を直接に司る人々は、特にイスラエルの中から選ばれた『清い者』であることが求められ、ほかの人々が生業に携わるのに対し、崇拝に携わる人々には他の人々から寄せられる収穫の十分の一の備えによって生きることが定められました。
その『祭司』ですが、この人々がどのように選ばれて職に就けられ、また崇拝奉仕を行ったかについて知ると、キリスト教に於いてそれが重要な意味を持っていたことが分かります。

祭司職の始まりについては、出エジプトの前夜の第十の災いからイスラエルが保護された出来事に由来があります。
奴隷にされエジプトに捕えられていたイスラエル民族を救出して自由な民とし、『約束の地』パレスチナへと導き出す神の意図を託されたモーセと兄のアロンに対し、頑なにファラオは反対し続け、遂にエジプト中が長子を失うという災厄の中、皇太子を失ったところでは、さすがにファラオもイスラエルの解放を認めるに至りました。

その第十の災いが下された晩に、イスラエルの家々では一頭の子羊か、子山羊が食事のために屠られていました。
神は、第十の災いの後にファラオがイスラエルを解放することを予見して、その晩は旅支度をしたまま食事するようにと言われます。パンも酵母を入れないもの、普段の時間をかけて発酵させるふっくらしたパンではなく、すぐに準備できる無酵母のパンを焼かせます。

しかし、この食事が普通でなかった最大の点は、屠った子羊などの血を、家々の門の左右の柱と鴨井とに塗り付けさせたところにあります。
その夜にエジプトの全土を通過した天使らは、家々の門に塗られた血を見ると、その家は通り過ぎ、塗られていない家に侵入してそこにいる長子は人であれ家畜であれ損なってゆきました。
エジプト人の家々からは悲痛な叫びが上がり、それはファラオの宮殿であっても例外ではなかったので、イスラエルの神の意向に逆らうことに頑なであったファラオもついに思いを変えることになりました。またエジプト人たちも、イスラエルが出て行ってくれることを願って、彼らに様々な物品を与えるほどになりました。十度も続いた災いにすっかり懲りていたのです。

イスラエルの幾百万は、その日エジプトを出発し、東に向けて旅を始めました。
後代のユダヤ人ヨセフスによると、彼らの行列は大ピラミッドで知られるギゼーの近郊から始まり、ナイル川のデルタ地帯を東に進みます。心変わりしたファラオの追撃に紅海の水が分かれてイスラエルを逃れさせ、エジプト軍を海に沈めたのはその数日後のことでした。出エジプト記によれば、それから二か月するとイスラエルはシナイ半島の中ほどにあるシナイ山のホレブ峰の山麓に集まっていました。
そこで神YHWHは、イスラエルの民にエジプトを出立した月を以後「第一の月」とし、第十の災いが起った十四日の夜に毎年食事儀礼を行うよう命じます。

これは『過ぎ越しの祭り』と呼ばれることになりました。天使らが屠られた家畜の血が塗られた家があれば「通り越して」災いを下さなかったところからこの祭りは『過越し』と呼ばれることになります。
この祭りは、毎年の春先の『ニサン』と呼ばれる月の十四日の夕暮れから夜にかけて行われる晩餐儀礼であり、神によってイスラエルがエジプトの奴隷状態から解放されたことを語り伝えるためのものとなりました。
『過越し』の翌日から七日の間、イスラエルは無酵母パンを食べる『無酵母パン』の祭りが続きますが、無酵母パンは美味しいものとは言えません。その酵母の無さに『清さ』が象徴され、その禁欲的な厳粛さからユダヤ教徒はその祭りが終わった後も七週間は慶事を避けます。

そこで屠られた子羊の血が、イスラエルの長子の命を救ったから、イスラエルの長子はすべてわたしのものであると神YHWHは言われるのでした。
YHWHはイスラエル12部族の中から自らの所有とする一部族を「長子」として取ると言われます。その部族は神の崇拝を専業とし、ほかの部族のように『約束の地』の中に街の幾つかは与えても、相続地を与えないと言われるのでした。
これが『祭司の民』となるのですが、神はイスラエルのイスラエルの12部族の中からレヴィ族を選ばれますが、それは預言者モーセの部族でもありました。レヴィ族は三男の家系ですが、イスラエルの全ての長子の代わりとされます。

崇拝に関する最高位を司る『大祭司』にはモーセの兄アロンが任じられて祭司の長となり、その子らは従属する祭司団を構成します。
一方では儀式に用いる什器や設備、また祭司と大祭司の職服が作られ、崇拝の定式は神がモーセに伝えたところによって定められてゆきました。それらが神への祭儀を行う場、『崇拝の天幕』となるよう神は命じます。それらはシナイ山のホレブの峰の麓で造られ、神YHWHへの崇拝が始まっています。その天幕の上方には、昼は雲の柱が、夜は火の柱が生じるようになり、神がそこに臨御されていることを証し、雲が高く上がるときにイスラエルは旅立つ用意をし、その柱が導いて荒野を移動することになりました。旅の間、レヴィ族は崇拝の天幕と什器類を運ぶ一切を任されていました。(民数記14:14)

『天幕』と言っても、崇拝の場はそのテントだけがすべてではなく、周囲に幕の垣が巡らされ、その中は『庭』とされ、動物などを捧げるための火が焚かれた祭壇や、祭司らが身を清めるための水盤が天幕の外に置かれました。
天幕の中は二つの部屋に仕切られ、入り口の方は『聖所』とされ、香を焚く金を被せた祭壇と、十二枚の無酵母パンを置く金の食卓、それから灯明を備える金製の七又の燭台とがありました。
もう一つの奥の部屋は『聖の聖なる所』また『至聖所』と呼ばれ、そこにはただ『契約の箱』が安置され、大祭司だけが年に一度『贖罪の日』と呼ばれる初秋の祭日にだけ入ることが許されます。

しかし、レヴィ族以外の者は聖域に近づいてはならず、特に『契約の箱』のような聖なるものを普通の人が直接目にすることは死を意味したというのです。
それは、神の前に誰もが『罪』ある者であることを知らしめ、畏れかしこむべきことが求められている強烈な教訓といえるでしょう。

その聖なる環境に在って務めを果たすレヴィ人は、イスラエルの中でも格別の部族となり、ほかの部族に勝って身体的にも道徳的にも清さが求められていました。
彼らは、エジプトを出る前の晩の子羊の血で命を贖われた『長子の部族』であり、イスラエルの中から神に仕える者として取られた格別の民となっていたのです。
神に取られた彼らには、『約束の地』に相続地が与えられないので『十二部族』からも外されました。
その代わりに、ヨセフの部族がヨセフの二人の息子、マナセとエフライムによって二つの部族に分かれて、レヴィ族の不足を補うことにされ「イスラエル十二部族」は引き続き保たれました。

さて、神YHWHの祭りについては『律法』の中で三つの時期が求められていました。
一つは春先の第一の月ニサンに行われる『過越し』と『無酵母パン』ですが、そこから七週を経た五十日目には『週の祭り』と呼ばれる喜ばしい祭礼が定められました。無酵母パンの祭りの二日目から五十日を数えるので「五旬節」また「ペンテコステ」とも呼ばれます。伝承では最初の大祭司アロンに油注がれたのがこの時期であるとされます。小麦の収穫が始まるこの祭りでは酵母の入った二つのパンが神の前に供えられます。

三つ目の秋の祭礼が『贖罪の日』とその五日後から始まり、八日間行われる『仮小屋の祭り』で、これは秋に一年の収穫物を祝う性格をもっています。人々は野外に仮小屋を建てて七日の間そこで過ごすのですが、これはたいへん喜ばしい祭りであり、収穫によって『年に冠を授ける』祭りともされます。
しかし、これに先立つ『贖罪の日』はイスラエルの罪の告白を伴う重厚な雰囲気があり、イスラエルは神の前に赦しを求めるべきものです。

『崇拝の天幕』は、イスラエルが『約束の地』に定住した後も、パレスチナの各地を転々としていましたが、ソロモン王が神殿を建立してからは、その地エルサレムが神YHWHの不動の崇拝の中心となりました。
その新しく建立された神殿の構造も『崇拝の天幕』の拡大型となり、基本的な祭儀を行う機能は変わりません。

年に一度の『贖罪の日』に大祭司は奥の間である『至聖所』に香を焚きながら入りますが、その部屋には明かりがなく、『契約の箱』の上には奇跡的な臨御(シェキーナー)の光が宿っていたと伝えられます。
そこに入る前に大祭司としての正式な職服に身を包んで、自分自身の罪を清めるために雄牛の血を『契約の箱』の前にふりかけます。

次に、自分の一族に属する祭司団の罪の贖罪のために、もう一度大祭司が至聖所に入ります。
こうして、大祭司と祭司団との贖罪を終えた後、大祭司は正装を解き祭司の亜麻服に着替えて民の待つところに出て来て、民全体の罪が贖われたことを宣言し、こうして秋の『贖罪の日』が終わります。

この『贖罪の日』の儀礼には、『祭司の王国、聖なる国民』についての予告的な意味がありますので、ここでは特に取り上げておきます。
罪を除くことを表すこの日の儀礼は、まず第一に大祭司の罪が、次いで祭司団が、それから最後に民に贖罪が告げられていました。

このように、祭司の部族が子羊の血によって成立してきたことは、後に現れる『神の子羊』と呼ばれたイエス・キリストの犠牲の血によって『罪』を贖われて『祭司の王国、聖なる国民』を生み出すことの予型であったことが手に取るように分かります。
イエス・キリストは頑ななユダヤ教の指導者らによって磔刑にされ犠牲となりましたが、その死に至るまでもの忠節は倫理の完全さに到達させるものとなりました。
新約聖書はこのことを『万物の帰すべき方、万物を創られた方が、多くの子らを栄光に導くのに当たり、彼らの救いの君を、苦難を通して完全にされたのは、彼にふさわしいことであった』と記しています。(ヘブライ2:10)

もちろん、キリストの血の犠牲は、その救いを信じるすべての人に『罪の赦し』をもたらすことになるのですが、律法の『贖罪の日』の儀礼が示していたように、まずは、天界の大祭司となられたキリストは、仲間となる祭司団に相当する『聖なる国民』の『罪』の贖いを行う必要があって、それから民に贖罪が行われます。
そうして大祭司イエスと祭司団に当たる聖なる民とが揃って、天界から人類の『罪の贖い』のために『祭司の王国』となって働き、そうして人々の救いが達成されるのです。

この観点から新約聖書を読み返すと、意義深い理解に到達することになります。
つまり、イエスは大祭司として『ご自身の血を持って、ただ一度聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた』と書かれています。(ヘブライ9:12)
これは、『贖罪の日』に大祭司が自らを清めたことに相当し、それから自分の親族の祭司団を清めたように、大祭司となられたキリストが、自らと結びついている『聖なる国民』を清めることも意味しています。
それは彼らが『義の業を行ったからではなく』イエスをメシアとして『信じた』ので選ばれたのであり、それは『無償の賜物』でありました。(テトス3:5/ローマ3:23-24)

新約聖書は更に、『実際、聖なる者となる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一人の方から出ている。それでイエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない』とあります。(ヘブライ2:11)
この意味は、磔刑に処せられた自らの血の犠牲によって倫理の完全性に到達されたキリストが、レヴィ族のような一群の人々を聖なるものに清めることを言い表しており、キリストが『神の子』であったように、ある人々を清めて『神の子』とし、大祭司の一族であるかのようにキリストの『兄弟』とならせることを意味しています。つまり神という『一人の方から出ている』つまり『子』状態に入るからです。(ローマ5:9/ヨハネ1:12)

確かに新約聖書では、キリストの弟子たちが『罪を赦された』状態に入ったことが何度も書かれています。(ローマ8:1)
ですがこれは単に「クリスチャンはみな罪を赦されている」ということにはなりません。『キリストの兄弟』と呼ばれるほどに高い誉れに達しているわけではないからです。また、キリスト教徒は皆が天にゆくわけでもないことも明らかです。天に召される人々には、ただイエスの許で自分の至福を味わうのが目的なのではないからであり、むしろ利他的に人類の罪の清めのために祭司となり忙しく奉仕するのです。

パウロは、自分を含めた当時の弟子たちが『キリストと共同の相続人』であると書いています。(ローマ8:17)
何の相続かと言えば、アブラハムへの神の約束『地のあらゆる氏族が祝福を得る』という、あの人類救済の『王なる祭司、聖なる国民』となるという輝かしい栄光に浴することへの相続であり、天界で大祭司キリストと共に祭司団を構成するという栄誉を受けることであるのです。
使徒ペテロは、当時の弟子たちが『アブラハムの裔』となることをはっきりと告げて、『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神の所有する民である』また『あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となる』とも書いています。(ペテロ第一2:9・3:6)

実に、マタイ福音書の第二十五章はこの世の終わる時期についてのイエスの預言となっていますが、その時にキリストの『兄弟たち』に親切を示す人々が神の是認に入ることが描かれています。祭司となる人々を助ける彼らは神の裁きに適い、『神の王国』の地を受けることになるのです。(マタイ25:31-40)
このことはイエスの受難の前の祈りの中でも語られています。
『わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じる人々のためにもお願いします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、皆が一つとなるためです。』(ヨハネ17:20-21)
これは、信じた者は皆同じという意味ではありません。神とキリストとが別の方であり「三位一体」などではない事にも表れています。
このキリストの兄弟たちの言葉によって信仰を働かせる人々とは、迫害に遭うキリストの兄弟たちの側に立つことになるのです。彼らは天で祭司となら人々と共に『神の民』とされる将来の姿がここに描かれています。

では、地上にいる間の「キリストの兄弟たち」はどのように見分けられるのでしょうか。
キリストと共に『アブラハムの裔』となることは、誰にでも差し伸べられることではありません。
ユダヤ律法体制に固執したユダヤの宗教家らは、自分たちの父祖がアブラハムであることを誇って自らを省みることをしませんでした。彼らは『契約の子ら』つまり血統上ではアブラハムへの神の約束を受け継ぐ立場にあったのですが、ほとんどのユダヤ人はメシアを見分けず、かえって殺害してしまいました。メシアへの信仰に至らなかったからです。神の所有する格別な民となる機会は、傲慢な彼らにはついに与えられませんでした。

では、イエスをメシアとして信仰した僅かなユダヤ人には、イエスが犠牲の死を遂げた後に何が起ったのかを見てみましょう。
つまり、キリストの兄弟として『アブラハムの裔』に選ばれた人々はどのように見分けられるかということです。







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俗なる「世」と聖なる「安息」

2020.10.19 (Mon)


ノアの大洪水によって一度人間の世界は更新されましたが、その後はノアの三人の息子セム、ハム、ヤペトから再び人類は増え始め、人間社会が再び出来上がってゆきました。

創世記では、箱船が漂着した現在のトルコにあるアララト山から、人々の集団が一つの言語を話すままに『東に向かって旅をして、やがてシナルの地に平原を見つけて定住するようになった』とあります。(創世記11:1-2)
その場所は、今日「メソポタミア」と呼ばれている土地の南部で、大河チグリスとユーフラテスとが流れる広大な場所であり、考古学が最も古い文明を見出した場所でもあります。

そこで、大河からの水を引いて灌漑農耕が行われ始めたのですが、その地の収穫量は非常に大きく、人々には様々な業種に携わることが可能になり、良質な粘土は無尽蔵にありましたのでレンガを用いて建物を造り、文字を粘土板に刻んで文書とすることもできました。
これは、今日「シュメール文明」と呼ばれ「楔形文字」で知られています。文字を持った最初の文明とされ、取引のための大麦の単位「シェケル」が現れましたが、この名称は現代のイスラエル国の同名の通貨に依然その痕跡を残しています。

この文明は、長い時代をかけて徐々に進歩したというよりは、現代と共通する文化社会が突然に現れたと考えられています。あるいは大洪水前の文化が何らかの仕方で伝えられたのかも知れません。
この人々は、早速に青銅を用いて農具から武器までを製造し、その地方にいくらでもある粘土で様々な器を焼いて作れました。
車輪も考案してロバの引く荷車ばかりか、戦車まで造られていたことが出土するレリーフに描かれています。
ですから、この人々は戦争を行ったことも明らかで、重装槍兵の密集隊形も描かれています。これは後代ギリシアの戦法「ファランクス」に似た戦法もすでにこの文明期に有ったことを物語っています。

そして、創世記は強大な権力者、ハムの孫に当たる『ニムロデ』なる人物に触れてこう述べます。
『クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。
彼はYHWHの前に力ある狩猟者であった。これから「YHWHの前に力ある狩猟者ニムロデのようだ」という慣用句が起った。』(創世記10:8-9)
この権力者は元は猟師であり、農耕者ではなく、やがて街々を襲って征服し、さらに自らも北方に向かって街々を建てて行った様子が創世記に記されています。(創世記10:10-12)

こうして人間社会は、支配者と被支配層とに分かれ、社会は人の上下に人を置くものとなってゆきますが、これは遅かれ早かれ現れるべき「この世の定め」というべきでしょう。そこから奴隷制や様々な搾取が始まる以外にありません。
古代も現代も、支配の動機には貪欲や虚栄心などがあることでしょうけれども、被支配者の方にも支配されなくてはならない理由があります。

それが誰にも宿っている利己心の存在であり、人間は互いの貪欲に対処しなければならず、そのためには有無を言わさぬ強大な力、つまり「権力」によって保護される必要があります。それが警察力であり軍事力でもあるのですが、その力は圧倒的でなくては社会秩序を守ることができません。民の性質が悪ければ悪いほどに、それらすべてを組み伏せてしまうほどの強力な暴力を持つ者、それが統治者の必要条件であることは歴史が常に証明してきたことです。
ニムロデのように、神の前に力あると言われるほど強権であることは、良くも悪くも古代社会を安定させたことでしょう。
『罪』ある人間とは、互いが危険な存在であるという悲しい現実がそこにあります。個人的いさかいから国の間の戦争まで、人の貪欲は衝突せずには済みません。人は『罪』ある限り争い続ける存在です。(ヤコブ4:1-3)

こうして今日まで続く人間社会がスタートを切ったのですが、創世記は別の事柄に注意を向けます。
人々は、『さあ、街と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そして我らは名を上げて、全地の表に散るのを免れよう』と言ったとあるのです。(創世記11:4)
メソポタミアの都市文明の考古学も明かす特徴がここに見られます。
それは城壁で囲まれた街々がいくつも造られ、それぞれに実際に大きな塔を持っていたことです。それらは「ジッグラト」と今日呼ばれる塔やその土台の廃墟にも明らかです。

「バベルの塔」という言葉は有名ですが、聖書に触れたヨーロッパの画家たちに題材を提供してきたことがその背景にあります。
ですが、聖書中に「バベルの塔」という言葉はありません。
遥かな古代に、摩天楼のように高い超絶的な建造物があったという話は魅力的ではありますし、それが神への挑戦だとか、大洪水からの避難場所だとも解釈されてきましたが、この『塔』がそのようなものではなかったことは、都市毎に塔が有ったところに示唆されています。
また、『頂を天に届かせよう』というのと『我らは名を上げて』という言葉には、それらの背後に説明されていない事柄が含まれています。

まず、それぞれの塔のふもとには、神をまつる小さな祠があり、それが時代を経るに従い大きくなって社となり、やがて神殿へと発展しているという発掘調査の結果に見るべき意味があります。
つまり、それらの「塔」は崇拝に関係していたことが明らかであり、それは「神への挑戦」とは言えません。
そこで『頂を天に届かせよう』というのは、神々の領域に到達し、呼び込むことを目的としていたと捉えるのも的外れなことではないでしょう。しかも、『バベル』という創世記のヘブライ語は、シュメール語の「バブ・イル」から来たものであることが知られており、その意味は「神の門」というものです。つまり、神との接点であり、交霊術な意味があります。

それからもう一つの句『我らは名を上げて、全地の表に散るのを免れよう』という句の意味は非常に分かり難いものです。
なぜ、彼らが名を上げることで、神の意志であるところの、人々が地上に増え広がることを免れるのかが分かりません。
この句の『名を上げて』と訳されているヘブライ語動詞「ナーセー」に「造る」という意味もあることからすれば、『我らは名を造って、全地の表に散るのを免れよう』とも訳すこともできます。

つまり、「大義名分を得る」または「名目を造る」とも解釈でき、それでゆくと、シナルの平原に収穫量の非常に大きい肥沃な場所に灌漑農耕を始めて、分業集団生活の快適さを味わった人々が、地の全面に広がるようにとの創造の神の命に反し続けてそこに定住する許しを得るために、神々の領域に通じる場を設けて宥めようとの意志がそれらの塔の建設に込められていたという背景を示唆するものと成り得るのです。実際、当時のメソポタミアからの出土品には、様々な便利品から芸術性あふれる装飾品まであり、人々がどれほど生活を楽しんでいたかを伺わせているのです。
そして「その神々」はそれを許したことでしょう。創造神ではなかったからであり、かえって人間から「神」として崇拝されることを喜んだに違いありません。大洪水後の堕天使らは拘禁され、もはや人間界に降れませんでしたから、後には自分の偶像を代わりに崇めさせるようになったとしても不思議はありません。聖書が一貫して偶像礼拝を禁じる背景がここにも見えます。

そこで、シナルの民の様子を目にした創造の神は、彼らが一か所に集まって都市生活を謳歌し、地上の全面に散ってゆくつもりがないのを憂慮すると、創造神らしい一手を打ちます。
それが言語分散という奇策であり、それによって意思の疎通を妨げられた人々は世界各地に住み分けを行わざるを得なくなり、多様な人種や文化が生まれる元にもなったといえます。
この言語分散の神意は、同時に人間全体を覆う世界支配、超絶的な一つの権力をも打ち砕いて分割されることにもなり、その効力は今日に至るまで強力に作用し続けています。独裁国家の現状に見るように、だれにも『罪』がある以上、恣意的に振る舞う一つの支配権が世界全体を治めることは人類を益さず、むしろ世界の福祉に強い危機さえ招くことでしょう。
国境線が引かれ、国と国とが争うことは避けられないにしても、度を越した圧政が世界を覆うことはまだ避けられています。もし、強大な圧政が世界のすべてを支配していたなら、イスラエルのような宗教国家は存在できなかったでしょう。

さて、こうしてメソポタミアで人間社会の原型が築かれて後に各地に伝播するに従い、どこの場所でも生きる上での苦痛が避けられなくなります。つまり、それが『この世』につきものの『空しさ』です。
戦争や騒擾などの社会悪に加えて、自然災害や不作なども襲い掛かるでしょうし、食糧が充足していてさえ、人々は力ある者らの貪欲の犠牲にされ貧窮を忍ばざるを得ないのが「この世の常」となっています。それが「搾取」というものの結果であり、古代の帝国から今日のブラック企業まで、それは社会のあらゆる場所で陰に陽に起こっている現実です。
しかし、律法を与えた神は『同胞であれ、あなたの地で町の中にいる異国の寄留者であれ、貧しく苦しんでいる雇い人を虐げてはならない』と命じ、『賃金はその日のうちに、日の沈む前に支払わなければならない。彼は貧しく、その賃金をに向かって魂を伸ばしているからである』とも言われ、搾取を禁じ、貧しさを配慮するよう要求されています。(申命記24:14-15)

経済学でも”人類の歴史の大部分において、人は底知れず貧しい状態にあった”と歴史上の経済規模を推定して結論する学者もいますが、その論を待つまでもなく、人間社会は僅かな富裕層と大多数の貧しさを味わう人々へと分ける力が働いているのは今日でも現実に起きていることです。しかも、世界の富をほんの一握りの人々が所有し、残りの数パーセントの富を大多数の人々が奪い合っているというアンバランスも、今日いよいよその傾向を強めているというこの事は、『この世』というものに神の意志も摂理も働いていない明確な証拠というべきでしょう。この貪欲と不公正の横行する世界が、アダムの『罪』が人類にもたらした悲惨な酬いという以外にありません。

後のイエス・キリストが、『あなたのご意志が天におけると同じように地にも行われますように』と神に祈るべきことを教え、『今日、この日のためのパンをお与えください』とも祈るように人々に教えたところでは、『この世』が多くの人々にとって生活しやすい場にはならないことを含めています。
また、イエスは弟子たちに『あなたがたにとって貧しい者は常にいる』とも語られ、弟子たちが援助すべき貧しい人々を『この世』がずっと将来まで作り続けることを前提として語られています。
こうした『この世』が人に要求する生き方というものは、必然的に生きるために夢中で働き、僅かな利益を貪って争い合うことになるのです。
もちろん、これは創造の神が人間に意図したものではありません。神はむしろ『人を自らの象り』として創られたのであり、人は本来、神の栄光を反映させる存在であるべきなのです。

この世の生活様式が招く生き方は隷属であり、ソロモンが語るように『空しく風をつかむようなもの』であり、想いが俗世の些末な事柄や卑近な物事に向かうことも避けられません。
命が掛かっているのだからと、「生きるための行いは尊い」と誰かが主張しようとも、やはり生涯の結論として「空しいものは空しい」以上にはなりません。
神はアダムとエヴァをエデン、『楽しみの園』に置かれたのであり、『顔に汗してパンを食べ、ついに地面に帰る』という生き方に入ったのは『罪』を負った後のことです。
「懸命に働けばそれだけ多くの益がある」という神話が社会のあちこちで信じられていますが、これは実社会で、不労所得の方が遥かに多くの利益をもたらしている現実から勤労者の目を背けさせる「呪文」のようなものでしょう。富ある者はますます富んでゆき、貧しい者は富む機会がますますなくなります。貧しいということは、富んでいることよりも「高くつく」と言われる通りです。ソロモンが『富んだ者には友人が多い』と述べた背景には、このことが込められているのでしょう。(箴言14:20/ヤコブ2:2-4)

しかし、この不公正には幾らかの善処はできても人間が解決できるような問題ではありません。
例えれば、ソビエト連邦という大きな社会実験の結末を挙げることも的外れではないでしょう。
それ以前のロシア帝国は、永く大半の人々が「農奴」の身分にあり、わずか2%の貴族層が豊かな生活を享受していたと言われます。
元来は、この巨大な不公正を正すという大志を標榜した社会主義への転換が結果として残したものといえば、やはりソビエト社会の2%に当たる特権富裕層「ノーメンクラトゥーラ」であったというのは大きな皮肉です。結局のところ、人々が入れ替わっただけであり、無数の血が流され民が飢えに倒れていった酬いがこれであったのです。
その結末をもたらしたのは、やはり人間自身に巣食う利己心、つまり『罪』でしょう。人自身の問題が解決されないのに、社会問題の解決もあり得ないということです。

『罪』ある以上、人は自ら貧困も争いもない社会を作ることができません。
むしろ人間社会は、その『罪』の不倫理性によって互いを害さないように、法律を定め、権力によってそれを施行しないでは居られず、人と人との間には法と権力によって垣が巡らされ、力に支配されなくては生きてゆけず、互いの貪欲の中で生きるために労役から逃れられません。これが『この世』であり、『罪』ある限り人はけっして自力で争い合うこの世界から出られません。
世界的な名声を誇る知者たちが「どうして戦争がなくならないか」を額を寄せて論議するまでもなく、答えはすでに新約聖書のヤコブ書にあったのです。
『あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。あなたがたは、貪るが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして悪い求め方をするからだ。』(ヤコブ4:1-3)

もちろんすべての「欲」が悪いのではなく、他者を押しのける「貪欲」、『悪い求め方』に問題があるのです。
これが「倫理問題」というものであり、「人が神を含む他者とどのように生きてゆくべきかをわきまえていない」ところに問題があるのです。生き方をわきまえない者が永遠の命を得てよいわけもありません。

それで、人は空しい『この世』から出ることができません。それこそは神に任命されたキリストが扱うべき難題だからです。
しかし、神は空しい『この世』に生きている人々が俗世にまみれたままになって、まったく本来の栄光を忘れないようにモーセの律法に中に一つの習慣を守るよう命じていました。
それが『安息日』の取り決めであり、これは十戒の第四戒に挙げられているので、偽証や殺人や姦淫を犯すべからずの前に位置するほどに重視されるべきものと言えます。しかも十戒の中で最も長い文となってもいるのです。(出エジプト20:8-11)

さて、モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの数百万の大集団には、何もない荒野に在って、毎朝『マナ』と呼ばれる奇跡の食物が天から降ることで生命を支えられていました。それも数か月や数年の間ではなく、彼らが荒野を巡った四十年もの間、神は彼らにこの食物を与えて彼らの大群衆をずっと養ったのです。
ですから、イエスが『明日を飢えると患うな、天の鳥を見よ・・野のユリを見よ』と言われた背後には、これほどの神の供給力が有ってのことだったのです。(マタイ6:25-29)

毎朝人々は自分の必要に応じてマナを集めるのですが、『多く取った者にも多過ぎず、少なく取った者にも少な過ぎなかった』とあります。こうして彼らは、生きてゆくのに煩うことから解放されていました。何もない荒野に居たにも関わらずです。(出エジプト16:18)
しかし、七日に一度はマナの降らない日がありました。その前日に二日分が必ず降ったのです。マナを集めない日が『安息日』であり、人は生業を行ってはならない、その場所に留まれとも命じられていたのです。人々は家族と安楽に過ごすことができたでしょう。

このことから、人は俗な生活にまったく没頭してしまわずに生きてゆけるよう神は取り計らわれること、また、人が俗と聖とを見分け、極端な競争社会に巻き込まれ、まったく奴隷環境に陥り、「エジプトからの道」を引き返してしまわないことを知るべきであったのです。イスラエルはエジプトを出て自由の民となったからです。

その自由を表すものが『安息日』であり、これが後の世にキリスト教を介して週に一度の休日をとる習慣として広まりました。
しかし、元々の『安息日』の律法から、イスラエルの間では、ただ『仕事をしてはならない』という命令が重視される傾向があり、それは今日のユダヤ教徒が細心の注意を払って仕事と思える作業をしないようにと、交通機関がストップし、台所で新たな火をつけないようにし、エレベーターのボタンさえ押さないようにその日だけは各階停止になるといった厳格さが神の意志であるかのようにされ兼ねないものともなってきました。
やはり、キリストの時代の律法学者らは、『安息日』を守るために律法より厳しい規則を39種類も考案し、それらには更に無数の付則が有って、それらが書かれたタルムードを読んでいるだけで頭が痛くなるほどです。

キリスト教の中でも、宗派によってはユダヤ教徒に同じく土曜日が本来の『安息日』であるのだからと、日曜日を休む一般社会との軋轢を避けるために、わざわざ自前の会社や学校を設立してまで土曜安息を貫くところもあります。
ですが、それらが『安息』の神意かと言えば、あまり自由であるようには見えません。実際、「安息日には、平日よりも気を遣う」との現代ユダヤ人の本音がそのことを端的に表していることでしょう。

一方で、十戒の『安息日』の項では『安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ』と命じられています。イスラエルが捕囚の憂き目に遭ったのも『安息日を汚した』ことが重い原因であったと神は言われました。(出エジプト20:8/エゼキエル20:16)
『聖なるものとする』事と、『なんの仕事もしてはならない』事との関係は十戒からは特に読み取れるところはないので、「日曜日には教会に行くこと」がその休みを聖なるものにすると単純に捉えられ兼ねないところがあります。

ですが、『この世』の隷属からしばし離れるという観点から『安息日』を見るなら、それは『マナ』の供給者であった神に頼り、この世の「俗な生き方」が本来の人が歩むべき道ではないのであり、この世の隷属状態から抜け出せず、仕事だけのあくせくとした生き方に埋没して、人間に本来備わっている『神の象り』、つまり「聖なる姿」をまるで忘れてしまうことのないようにとの教訓を読み取ることができるのです。

人は「生きるために生きる」のではない想いに在って生活する、つまり、殺伐としたこの世のありさまのままに生きれば、その人は外も中もすっかり悪魔が導いたこの世界の精神に染まってしまうところを、『安息日』は人としての尊厳をもって生きるよう促しているのです。それが『安息日を聖なるものとせよ』との戒めの本意なのでしょう。その真髄はマタイ福音書第五章以降に記されたキリストの言葉「山上の垂訓」に見事に語られている、晴れやかな自由、信仰により煩いから離れた思いの状態に表れています。そこでイエスは『あなたが思い煩ったからと言って、自分の寿命を1キュビトでも加えられるだろうか』と言われるのです。(マタイ6:27)

一方で、古代シュメール以来続いてきた『この世』は、都市生活の交換制度の煩雑さに追われる生活、卑近な物事の流行など、俗な事柄を人々に強いてきています。
その点で、都市に住まず、家畜を放牧して暮らすアブラハムに話しかけた方は聖なる神であり、遊牧生活がもたらす自由と深い思惟を巡らせるアブラハムの環境は、創造者が『荒野の神』として現れた理由を示唆するものと言えます。

後代に使徒パウロは『アブラハムは真の土台を持つ都市を待ち望んだのであり、その建設者は神である』と記しました。アブラハムはニムロデの諸都市の内のウル近郊から『約束の地』パレスチナに向かいましたが、彼自身には『足の幅ほどの地も与えられなかった』ともあります。それでも、アブラハムにはニムロデの俗なるバベルではない、気高い都市『新しいエルサレム』を待ち望むべき神の約束があったのです。(ヘブライ11:10/黙示録21:1-2)

これはまさに、現代に生きるわたしたちも望むべき新たな文明、『神の王国』といえるでしょう。
それは永く続いた『この世』の空しい労役の果てに訪れるキリストによる解放であり、聖なる神を『父』と呼ばれるイエスが、自らを指して『人の子は安息日の主なのだ』と言われた通り、『神の王国』は人々が思い描いても果たされる事のなかった、いやそれ以上の優れた社会の現れとなるでしょう。(マタイ12:8)

一方で、この世の俗を離れて生きることは、毎週休暇を取る事とは別の問題ですし、「安息を聖なるものとする」のは人にとって毎日表すべき特質なのであって、もちろん、どの曜日を休むかということでも、何が禁じられた仕事なのかを区別することでもありません。『この世』に埋没して空しい人生で終わる必要などありません。
むしろ『マナ』を与えた神の全能性に頼り、自分を生かしているのが自分だけであるかのようにせず、不信仰にあくせくと生きるのを止め、自らの理念や愛を捨ててまで『この世の奴隷』とならないことを「安息」が指すのであれば、その人は神に頼ることで「俗」を離れ『安息日を聖なるものとする』ことができるのです。

『この世』とは、そこまで人を追い込んで奴隷にしようとする脅しがあちこちに潜んでいる汚れた場というべきです。
懸命に働いても暮らし向きが一向に改善しないとすれば、それはおそらく『この世』の巧妙な仕掛けに捕らえられ、隷属させられている危険性が小さくないかも知れません。しかし、神に頼り『安息』の自由を求める道は開かれているのです。(マタイ4:4)

場合によっては、隷属させようとの謀略が思い掛けず「宗教」という方向から仕掛けられる事もあり得ないことではなく、人の心を支配しようとすることに於いて、宗教ほど奴隷化に効果を上げるものもありません。
いずれにせよ、『神の象り』汚すような悪魔的で理不尽な要求がされるとき、その人はその手を止め「安息の聖」を守ることができることでしょうか。その各人が、その手を休めるだけの決意が神への信仰に応じたものとなるにしても、いくらかでも隷属から離れる事はその人にとって「聖なる安息」と言えましょう。
人は『エジプトに戻る』べきではなく、モーセによってエジプト脱出を行わせた全能の神は、いずれキリストを用いて隷属の『この世』からの人類の出立を導かれることでしょう。(申命記17:16)





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天に建てられる神の王国

2020.10.15 (Thu)


世に言われる至福の「天国」が聖書の中にあると思う人は数知れないことでしょうけれども、それは誤解です。
キリストが地上に現れ、ユダヤの人々に『神の王国は近づいた』と伝道したのですから、この『神の王国』を「天国」、つまり善人を死後に受け入れる場所として創造以来から存在していたという捉え方では、しっくりとするものにはなりません。(マタイ3:2/ルカ1:15/ルカ10:11)
実際、主要な日本語訳聖書も「天国」と訳すのはさすがに避けて、『天の国』また『神の国』としています。
それでも、元の新約聖書ギリシア語には『王国』(バシレイア)とされていますから、キリストの伝道の主題ともなったのは『天の王国』、また『神の王国』であり、死後に召される「天国」と受け取るのは一度わきに置いて、聖書の語るところを先入観なく聴く必要があります。

さて、人々が「キリスト」と聞けば、キリスト教を始めた偉大な創唱者とも、教会員であれば神そのものと考えられるのが普通でしょう。
しかし、もとより「キリスト」には「任命された者」との意味があるにしても、その役割はどのようなものだったのでしょうか。

旧約聖書は、到来する『約束のメシア』について幾つかの事を教えていましたが、イエスが現れた当時のユダヤ人がメシアについて、はっきりと期待していた役割がありました。
それは預言者イザヤが語っていたように、将来に到来するメシアが「偉大な王」となることだったのです。
『ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。』
『ダヴィドの王座とその王国に権威は増し加わり平和は絶えることがない。王国は公正と正義とによって今から後、そして永遠に立てられ支えられる。万軍のYHWHの熱意がこれを成し遂げる。』(イザヤ9:5-6)

そのためイエスが現れて『神の王国は近づいた』と宣明されたときに、それを聞いたユダヤ人たちが、自分たちイスラエル民族がローマやヘロデ家の支配を脱して、再びダヴィドのような強大な王を戴く強国になることを期待したとしても、それは自然な反応だったでしょう。(マルコ1:15/使徒1:6)

実際、イエスが空腹の群衆に奇跡を行って、僅かな食糧から数千人が満ち足りてなお余るほどに増やしたとき、その人々は『これこそ来ることが定められていた預言者だ』と言っては、イエスを王にしようとその許に群がって来たことがありました。
また、イエスも最後にエルサレムに上る際には、ダヴィドを継いだソロモン王の即位と同様に、ロバに乗って登城し、群衆はそれを見ては上着を道に敷き、ナツメヤシの枝を手にとって振るいながら『救い給え、ダヴィドの子によって!』と叫んで、新たな王を迎えるかのようにして祝っています。イエスの血統上の父ヨセフはユダ族もダヴィド王統にあり、母マリアもレヴィ族ながら古くはダヴィド王家に連なる系譜にあったのです。(マタイ11-16/サムエル第二8:18/ルカ3:23-38)

そこでイエスの宣教の主題も『あなたがたは悔い改めよ、神の王国が近づいたからだ』というものでありました。
つまり、『神の王国』また『天の王国』が「来た」とではなく「近づいた」と言われたのであり、どのように近づいたのかと言えば、まず王国の王であるメシアがそこに現れていたからです。
しかし、イエスがイスラエルの王となって当時のエルサレムに王権を打ち立てることは遂にありませんでした。
むしろ、群衆がイエスを王にしようと迫って来ると、イエスはそれを逃れて山中に潜みましたし、最後のエルサレム登城に於いてこそ、自らを王されることを受け入れましたが、もはやその時には数日後に死を迎えることを悟っていたのです。(ヨハネ6:9-15/マタイ21:7-9/列王第一1:38-40/ゼカリヤ9:9)

そして処刑を受ける直前、当時のローマ総督ピラトゥスに審問された際にイエスは『わたしの王国はこの世のものではない』と言われ、『そうでなければ、わたしの弟子たちは、わたしを渡すまいとユダヤ人と戦ったに違いない』とも言われました。(ヨハネ18:36)
つまり、キリストの『神の王国』とは、争い合う地上の国家ではなかったのであり、これはユダヤ人一般が願っていたものとは本当に大きな違いがあります。
だからと言って、よく言われるように「神の国は信徒のこころの中にある」というわけでもありません。そうであれば聖書に『天の王国』とは書かれず、また『神の王国はあなた方のただ中にある』と言われたのは、イエスを信仰しないパリサイ人に向かってであり、その頑なな宗教家の心の中にキリストの国があるというはずもありません。その言葉の意味は、まさに彼らのすぐそばに王国の王、メシアがいることに彼らの注意を促していた言葉であったのです。彼らが王の到来の壮麗な様を期待していたからです。(ルカ17:20-21)

当初はユダヤ人に向けて書かれたとされる「マタイ福音書」が、ほかの三つの福音書と異なってキリストの王国を何度も繰り返し『天の王国』と記したのも、ユダヤ人が誤解しやすかったこの点を強調するためです。彼らにとって「王国」とは地上に打ち建てられる強国であろうと思われていたところに原因があります。(マタイ4:17/マルコ1:15)
ですから、ユダヤの宗教家の中から珍しく信仰を働かせてイエスの許を訪ねたニコデモが、『誰であっても新しく生れなければ、神の国を見ることはできない』とイエスに言われて面喰ってしまい、『人は年をとってから生れることなど、どうして出来ましょうか』と、まともに反応しています。(ヨハネ3:3-4)
このイエスの言葉は、当時の地上の王国を念頭に置いたユダヤ人にとって思いもよらないことであったのです。

しかし、後に使徒パウロはこのイエスの言葉の意味に一致して、『肉と血は神の国を受け継ぐことはできない』と教えています。
神の王国が天界に設立される以上、それに含まれる人々は肉体を去って、天使のような霊の者となる必要があることになります。(コリント第一15:50)
やはりイエスはニコデモに『風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いてもそれがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのようなものだ。』と言われ、彼が理解できずにいることを意に介さずに話を先に進め、ご自身が磔刑を受けることになる結末までも話されるのでした。(ヨハネ3:8-16)

この奥義についてはイエスが地上を去った後になると、使徒たちをはじめ弟子たちもよく理解するところとなります。
使徒ペテロは晩年の手紙の中で、『わたしのこの幕屋を脱ぎ去る時が間近であることを知っている』と書いて、自分の肉体を『幕屋』つまり仮住まいのテントに例えています。これは死者がみな地上への復活を遂げるものとして、遺体をそのままに埋葬することを専らにしてきたユダヤ人の常識とはかなり異なっています。(ペテロ第二1:14)
この使徒ペテロは、それから間もない西暦67年ころにローマ皇帝ネロによって処刑されたと考えられています。同じ迫害で使徒パウロも相次いで世を去りました。
では、そのときに彼らは天に昇ったかといえば、そうは言えません。

彼らがいつ天界に召されるかについて使徒ヨハネはこう記しています。
『御子が現れるときに、わたしたちが御子に似たものとされるということは知っている。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからことになるからだ』。(ヨハネ第一3:2)
このことについては使徒パウロもこう言っています。
『最後のラッパが鳴ると一瞬のうちに死者は復活して朽ちない者とされ、ラッパが鳴るときわたしたちは変えられる。』(コリント第一15:52)

これらの言葉は、どちらも将来のある時、地上を去ったキリストが再び『現れる』『最後のラッパ』の時に『天の王国』に入る者たちが『キリストに似たもの』とされることを告げているのです。
それは、肉体に生きた者が、霊の体に生まれ変わり、そうして将来のある時点で、天界に昇ることを意味しますから、使徒マタイはそれを『再創造』(パリンゲネシーア)と呼ぶほどの大変化の時であると書いて示唆しています。(マタイ19:28)

つまり、『天の王国』が設立されるときに、その民となるよう選ばれた人々は霊の体をまとって天に集められ、人類を祝福する神の選民「真のイスラエル」となることを意味するのです。これはキリスト教会で信者が死後に行く「天国」と単純に誤解されてきたものであり、またユダヤ教徒にとっては、ほんのかすかに知らされていた奥義でありました。(ゼカリヤ12:8)

その天に召される民とは、モーセの『律法契約』が生み出せなかった『祭司の王国、聖なる国民』の事であり、キリストの『新しい契約』がその民を生み出します。それが真の『アブラハムの裔』また「神の選民イスラエル」となるのです。

それですから、使徒ペテロはユダヤ人ではない諸国の弟子たちにこう呼びかけています。
『あなたがたは選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、神の所有する民である。』『あなたがたは、以前は神の民でなかったが、今や神の民なのである。』(ペテロ第一2:9-10)
ここに、律法契約が誕生させるはずであった神の民の出現が知らされています。その『聖なる民』はキリストの仲介する『新しい契約』によって生み出され、キリストの弟子の中から現れていたのでした。
では、このように血統のイスラエルではない諸国民が『神の民』と呼ばれて『天の王国』に入るのであれば、実際の血統上のユダヤ民族、『肉のイスラエル』はいったいどうなったのでしょうか。

実に、イエスはこのようなユダヤ人と異邦人の逆転が起こることを何度も予告していたのです。
あるとき、イエスに奇跡の癒しを依頼したローマ軍の士官がいましたが、ユダヤ人の習慣では非イスラエル人との交友や、同じ屋根の下に入ることは身に汚れを受けることにされていましたので、そのローマ士官はイエスが家に入らずに済むように『ただ、お言葉を下さい』と伝言しました。イエスの奇跡は必ず起こるに違いないので、軍人が兵に命令するように、イエスにはその言葉だけで結構ですと言っているのです。

それを聞いたイエスは深くこころを動かされ『わたしはイスラエルの中にもこれほどの信仰を聞いたことがない』と感嘆し、『多くの人が東から西からきて、天の王国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外の闇に追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。』とも言われています。(マタイ8:5-13)
まさしく、ユダヤ人の体制派を成す宗教家たちは、イエスに敵意を抱き、殺害を企てようとしていましたから、異邦人ながらこのように深い信仰を抱く人々は『肉のイスラエル』に勝ってよほど『天の王国』に相応しいと言えます。

この違いは、イエスが天に去った後の使徒たちへのユダヤ人の態度にも明らかなものがありました。
ユダヤ体制派は、イエスばかりかその弟子たちにも迫害を加え続けて宣教を妨害し、殺害まで行うほどであったのです。そこで弟子たちはパレスチナを追われ、諸外国のユダヤ人居留地で伝道を始めるようになりました。(使徒8:1-4)
しかし、外国各地に寄留していたユダヤ人のコミュニティからも、やはり激しい反対を受けることもしばしばであったのです。(使徒14:19)

ですから使徒パウロもユダヤ人反対者に向かって、『神の言葉は、まず、あなたがたに語り伝えられるべきものだった。しかし、あなたがたがそれを退け、自分自身を永遠の命に相応しくない者にしてしまったのだから、さあ、わたしたちはこれから向きを変えて、異邦人たちの方に行く。』と言って彼らを見限ったことを明かし、実際に諸国の人々の中ではイエスというキリストがユダヤに現れたことの福音を受け入れ、弟子が急速に増えてゆくことになったのです。(使徒13:46-49)
こうして、ユダヤ人は律法を守るモーセの教えに留まり、キリスト教は世界の宗教となる下地が作られていったのです。

さて、そこでイエス・キリストの宣教が、ただ信者を集めていたのではないことがはっきりとします。
キリストの伝道活動の目的は、律法契約が生み出せなかった『祭司の王国、聖なる国民』を、メシアへの信仰を抱く人々から生み出すことであったのです。
この時点で、エデンで語られた『女の裔』の実体がここまで明らかになりつつありました。それは、ただ神YHWHを信じる人々を招くことではなく、メシア信仰を抱く人々から全人類を祝福する「神の選民」が集められるということです。

ですからイエスの宣教がパレスチナの中だけで行われ、イエスの時には異邦人に広げられなかったのも、その『聖なる国民』となる資格がまず第一にアブラハムの子孫イスラエルにあったからです。彼らは『契約の子ら』とも呼ばれていました。(使徒3:25-26)
イエスが『約束の地』パレスチナを巡ってユダヤ人が信仰を働かせると、イエスは『この者もまたアブラハムの子なのだから』また『アブラハムの娘を・・癒すのは当然』とも言われています。(ルカ19:9・13:16)
ですが当時のユダヤでは、自分は神の前に義人であると思い込む宗教家らが、自分たちのように細かな規則を守れない平民を「地の民」とか『呪われている』とか言っては卑しめていたのです。そうして自分たちを高める踏み台としていたのでしょう。(ヨハネ7:49)

しかし、イエスはユダヤ人の中でも特に卑しめられていた『収税人や娼婦たちの方が先に王国に入りつつある』と言われ、彼らの行状ではなく信仰を認められるのでした。彼らこそが信仰による本当の意味での『アブラハムの子ら』と言えたからです。(マタイ21:31)
そのことに不平を鳴らす宗教家に、イエスは感動的な「放蕩息子の例え」や「九十九匹の羊を残して一匹を捜しまわる羊飼いの例え」また「失われた一枚の硬貨の例え」などを話して聞かせましたが、その頑なな心には響かなかったのでしょう。自分は義に適っていると思う彼らには、愛や同情心が失われていたのに自ら気付けなかったのです。(ルカ15:1-23)

一般的に、人は自らの不道徳性について、自分の悪い行いを抑えようとします。それは人同士の間では平和を生む良いことです。
しかし、そうしたからと言ってだれであろうと自分の悪を抑え込めたからと言って、神の前に義人となれるわけではありません。抑えてはいても、やはり悪が自分の中にあるのですから。
もとより神は、人間に巣食う『罪』がどれほど根深いかを熟知しているからこそ、キリストを犠牲として『罪の贖い』を備えられたのです。人はだれも自分がアダムの罪を負う子孫であるのに、善行によって義人を装うことがどれほど神意からかけ離れたことであるかを悟らねばならないのです。そうでなければ、その人は真にキリストの犠牲の贖いに信仰を置いたことになりません。

この点で、ユダヤ人の大半は、メシアを前にして律法に固執し続け、自分は義人であると思い込み、大きな失敗を刈り取ったのであり、人の『罪』の本質を理解しなかったことは、後のすべての人々への重い教訓となっているのです。人はユダヤ人でなくても『律法』のような何かの道徳律に従うことで神との関係を良くできると思いがちだからです。(ヨブ記35:7)

しかしイエスは、『アブラハムの裔』を訪ね求め、謙虚な人を捜してパレスチナのユダヤ人の間を辛抱強く巡り続けましたが、それも『天の王国に入る』『聖なる民』をユダヤ人から集めるための活動であり伝道であったのです。そうでなかったら、イエスは世界に向けて諸国民に宣教活動をしていたことでしょう。(ルカ13:6-9)

しかし、その伝道の収穫といえば、いくらかの人々がメシア信仰に達したものの、ユダヤは体制としてイエスを受け入れず、かえって殺害してしまったのです。
メシアの刑死の後、ほどなくして弟子たちはユダヤ人に迫害されて諸国に散ってゆき、新たな教え「キリスト教」がいよいよ世界へと広がりを見せることになってゆくのでした。







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メシア=キリストの現れ

2020.10.12 (Mon)


時は西暦29年、パレスチナは北部をローマ帝国の傀儡であるヘロデ王家の支配を受け、南部のユダヤは総督を戴くローマ直轄領とされていました。(ルカ3:1-3)

しかし、この年になると永い神の沈黙が破られることになります。
ユダの荒野に古代の預言者を思わせる姿の者が現れ、ユダヤの民に『悔い改めのバプテスマ』を施し始めたのです。
バプテスマとは「物を浸すこと」を意味しますが、それは洗い清めの意味も持ちます。
その預言者風の人物は、約束の地を南北に流れるヨルダン川で、水の中に人を浸す儀礼をユダヤ人に行い始めたのですが、こうしてイスラエルの人々は、旧約聖書最後の預言者マラキ以来ついに新たな預言者の現れを目にしました。(マタイ3:1-6)

この時代のユダヤ人には『悔い改め』を必要とする、律法契約についての罪の意識があったのです。
『捕囚』から戻って、神殿も再建し崇拝も再開できたのですが、十戒の石板を入れた律法契約の証しである『契約の箱』は遂に戻らなかったのです。そのため、イスラエルと神との契約は不安定なものとなっていました。
やはり、神は契約にあったはずの民に向けて多くの糾弾の言葉を旧約聖書に中で語っていたのです。
そこで預言者の姿をした者が、ヨルダン川で人々に『悔い改めの水のバプテスマ』を施し始めると、多くのユダヤ人が神との関係の修復を求めてバプテスマを受けようと集まって来るのでした。

その荒野に現れた預言者は、神殿に仕える祭司の息子で名をヨハネと言いましたので「バプテストのヨハネ」と呼ばれるようになります。
一方でユダヤ人は、旧約聖書が告げながら四百年にもわたって預言者が現れなかったので、荒野に現れたヨハネが『約束のメシア』ではないかと色めき立ちます。
しかし、当のヨハネはそれを否定して『わたしは水であなた方にバプテスマを施すが、わたしの後に来られる方は聖霊と火とであなた方にバプテスマを施すであろう。』と話し、自分がメシアの前に登場する使者であり、民の心を整える役割を持っていることを知らせます。

しばらくすると、そこにイエスという30歳ほどで北部のガリラヤ地方の田舎、ナザレ村出身の大工の長男が訪ねてきます。
そしてヨハネから水のバプテスマを受けることを申し出ました。
この人物がただならぬ方であることを察知したヨハネは、『わたしの方こそあなたからバプテスマを施していただく必要があるものです』と言うのですが、彼は『今はそうしてもらいたい。それが義に適う事を果たすものだから。』と言われ、ヨハネから水のバプテスマを受けられました。

すると、『聖霊が鳩の形をとってイエスの上に留まり、また天から声があって「これはわたしの子、わたしの認める者である」と語られた』とあります。(マタイ3:16-17)
ここに於いて、遂に『約束のメシア』、『神の独り子』が歴史の舞台に登場したのでした。
天からの声が告げるように、この人は神の子であり、神の最初の被造物であることを示す『初子』であり、天使がそうであるように、神と同じく霊の存在者であったものを、神が人間社会に遣わすに当たり、レヴィ族の血を引く処女マリアの胎に移され、その夫となったユダ族でダヴィドの王統の血筋に当たるヨセフの子として世に来られたのであり、神が自ら創造した唯一の存在であるために『神の独り子』とも呼ばれています。

旧約聖書では、メシアのこの素性ははっきりとは明かされていませんでしたが、ユダヤ人には旧約聖書の中に神以外に創造に参加している『知恵』(ホクマー)と呼ばれる何者かが描かれていることに気付いてはいたのですが、それを彼らは「ホクマーの謎」としてはいました。
ですが、新約聖書を記した使徒たちはこう明かしています。
『御子は、見えない神の姿であり、すべての創造に先立つ初子である』『御子は万物よりも先におられ、万物は御子によって創られた』。(コロサイ1:15・17)
『神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』(ヨハネ3:16)
人類の救い主となるこの人が、アダムの子孫であることはなく、「人」以上の存在者である必要があったのです。
神の創造の意志は尽くこの存在者によって実現したからでしょう。この方が天界に在ったときには『神の言葉』とも呼ばれていました。
『こうして言葉は肉となってわたしたちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子の栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。』(ヨハネ1:14)

バプテスマを受けたイエスは霊に導かれて荒野に入り、そこで40日40夜の断食を経てから悪魔の誘惑を三度退け、いよいよその活動を始めることになります。
この前後に、バプテストを通してメシアの到来に気付いた二人の平民が居ました。
この二人はガリラヤの湖の漁師仲間であり、一人はアンデレ、もう一人の若者はゼベダイの子のヨハネと言いました。
この二人は平民でありながら、神の意志に深い関心を寄せ、四百年の神の沈黙にも関わらずメシアの現れを心待ちにしていたのでしょう。バプテストが現れると、彼らはその弟子となっていたのでメシアの現れにいち早く気付いたのです。

二人の内のアンデレは、自分の兄弟シモンのところに行くと『わたしたちはメシアを見つけた!』と喜び、このシモンもイエスの宿に連れてゆきます。
そこでイエスは、このシモンに「岩」というあだ名を付けて、以後その名で彼を呼ぶのでした。
この「岩」とはアラム語で「キーファ」、ギリシア語で「ペトロス」、つまり、これがキリストと後に「使徒ペテロ」とされる漁師の最初の出会いであったのです。

そしてイエスは『神の王国は近づいた』とイスラエルの中で宣明し始め、あらゆる病気を癒し、悪霊に憑依されている人々を解放して『約束の地』パレスチナを巡り、ユダヤの人に希望の音信を伝え始めます。その伝道の主題である『神の王国』とは、偉大な王メシアの世界支配であり、ローマとヘロデ家に支配されていた多くのユダヤ人の希望でもあったのです。

キリストの教えが『福音』と呼ばれるのも、その教えに幸福な知らせが込められているからです。彼らは律法契約不履行の罪から解かれる道が開かれようとしていたのであり、いまや『新しい契約』が始まろうとしていたのです。
旧約聖書のエレミヤの預言書はこう予告していました。『見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る』。『この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだようなものではない』。『来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、とYHWHは言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの想いの中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる』(エレミヤ31:31-33)

このように『新しい契約』は律法契約のような多くの法律で成り立つようなものとはなりません。
それは『心に記される』もの、つまり『愛』を教えるものとなることが示唆されていましたが、そこに於いて神の崇拝は大きな変革を遂げようとしていたのです。

そして奇跡を行う人、ナザレから来られた方イエスの噂はすぐに広まり、多くの人々がその許へと集まってくるのでした。
しかし、癒しを受けてイエスがメシアであることを信じた人々に、イエスはそのことを語らないように言われます。それはイエスがメシアであることを、ユダヤ人の一人一人にそれぞれの信仰によって見出すことを求められたということを意味します。


旧約聖書の預言では、メシアは北部ガリラヤのナザレなどではなく、エルサレムに近いベツレヘムから現れることになっていました。(ミカ5:2)
まずそこで、イエスを神から遣わされた人として認めたくないユダヤ人には、そうする逃げ道が与えられました。
ですから、メシアはイスラエルの血統にある者すべてに自動的に与えられたのではありません。(マタイ3:9)
メシアをそれと見分けることは『信仰』という「心の目」で各自が行うことを神は求めたのであり、それによって人は、その心がどのようなものであるかを示すことになったのです。

しかし、イエスはダヴィドの王統を継承する両親を持ち、その家系はベツレヘム由来でありましたので、ローマ帝国が人口調査を行い、ユダヤの民がそれぞれ故郷で登録するよう条例が出された折に、その父となるヨセフと既にイエスを身籠っていたマリアとが連れ立ってベツレヘムに宿泊していたまさにそのときイエスが生まれていました。
その後、ユダヤを支配していたエドム人のヘロデ大王は、メシアがベツレヘムで生まれたとの悪霊からの情報を、東方から来た占星術者らから知らされ、自分の王権の危機を感じてベツレヘムの二歳以下の男児を抹殺させるという暴挙に出ました。しかし、その晩に父親のヨセフに天使が急を告げたので、彼はマリアとイエスを連れてエジプトに難を逃れるのでした。(マタイ2:13-18)

ほどなくヘロデ大王が崩御した事を聞いたヨセフはパレスチナに戻るのですが、王位を継いだヘロデ・アルケラオスがユダヤ人虐殺を行ったことも耳に入れていたらしく、その暴君を恐れてベツレヘムのある南部のユダヤではなく、北部ガリラヤの目立たないナザレ村に住んで大工を営み、そこでイエスは弟たち妹たちと共に成長してゆきました。(マタイ2:19-23)
これらの一連の事情があって、メシアとしての活動を始めたイエスは『ナザレ人』とも呼ばれていましたから、旧約の預言の言葉通りにメシアは必ずベツレヘムから来ると信じた人々には、聖書の文字通りにメシアを迎えるのではなく、信仰によって見分ける必要が生じ、これは彼らにとって予想外の「罠」ともなったのです。(ヨハネ7:48-52)


一方で、イエスが『わたしが父の名によって行っている業が、わたしについて証しをしている』と言われたように、奇跡の業を行わせた神は、イエスがメシアであることを証し続けました。
『神を信じない者は、神が御子についてなさった証しを信じず、神を偽り者にしているのである』ともあるように、神が当時のユダヤ人に求めたものは、律法を厳密に守ることではなく、メシアへの信仰であったのです。(ヨハネ第一5:10)

しかし、ナザレ人イエスの現れに対し、ユダヤは宗教指導者らを中心にメシアとして受け入れることを拒絶し、魔術を行い『民を惑わす』騙り者としてローマ総督に処刑させてしまいます。
特に、律法に細かい無数の規則を付け加えていた『律法学者』と、それに盲従する『パリサイ派』、それに神殿の崇拝を取り仕切っていた『祭司長派』らは、ナザレ人イエスが自分たちの規則に従わず、かえって自分たちの傲慢さが暴露されるのを聞いて、イエスに強く反対し、激しい敵意を燃やすようになりました。
その動機といえば、自分たちは優越感に浸っても、民が癒されることに喜べない利己心にあり、神の奇跡に価値観を持てない不信仰の結果です。まさしく、彼らは『神を偽りもの』としていたと言うほかありません。

イエスを殺害しようとしていた彼らに向かって、イエスは『あなたがたはその父である悪魔からのものだ』と語り、『ヘビよ!マムシの裔よ!』ともイエスは言われました。また、バプテストのヨハネも『マムシの裔よ!』と呼んで、宗教家らにはバプテスマを受けさせませんでした。(ヨハネ8:44/マタイ23:33/ルカ7:30)
ですから、ここに『ヘビの裔』が『女の裔』の『かかとを砕く』ということの意味がはっきりと見えています。言うまでもなく、メシア殺害がそれでありました。しかし、イエスは復活を受けることになるので、致命傷とはなりません。

『ヘビの裔』とされた彼らには、逆に「律法を守っている」という強い自負があり、それができない人は異邦人であろうと、同胞のユダヤ人であろうと見下し、また避けてもいました。
ですが、イエスは同胞の下層民に寄り添い、彼らを蔑視しません。むしろ『義人ではなく罪人を招くために来た』とさえ言われるのです。(マルコ2:16-17)
そこが律法を守ることによって『義』を得ようと努める「ユダヤ教」と、一重にメシアの救いに『信仰』を働かせる「キリスト教」の分かれ目ともなります。(フィリピ3:9)

それはかつてエレミヤが『この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだようなものではない』と預言した言葉にも表れています。(エレミヤ31:31)
さらに、後代のキリストの使徒パウロもこう述べています。
『イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しなかった。イスラエルは信仰によってではなく、行いによって義を得るかのように考えたからである』。(ローマ9:31-32)

では『律法』は、何のために与えられたのでしょうか。イスラエルはそれを守る事で神の格別な選民『王なる祭司、聖なる国民』とされるはずではなかったのでしょうか。(出エジプト19:5-6)
この問いについて、元はパリサイ派で律法を熟知したパウロはこう答えます。
『では、律法とはいったいなぜ与えられたのか。律法とは違犯を明らかにするために付け加えられたものであり、約束を与えられたあの子孫が来られるときまでのものである』。(ガラテア3:19)
『すべて律法の述べるところは、律法下にいる人々に向けられたものである。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するためである。なぜなら、律法を行うことでは誰も神の前に義とされないのであり、律法によっては、ただ罪の自覚が生じるだけなのだ。』(ローマ3:19-20)

つまり、神はかつてイスラエル民族が増えて国家となるに際し、神の意に沿う法律を与えて、必要とされた国家の秩序を民に備え、同時に神の崇拝方法も定めましたが、その国家の法律、『モーセの律法』を通して、同時に『違犯を明らかにする』、つまりアダム由来の『罪』のために、イスラエルであっても神の求める基準に届かない事を通して、すべての人に『違犯』があることをはっきりと示し、そうしてあらゆる人が有罪であることに於いて『すべての人の口がふさがれ』『神の裁きに服す』必要があるという厳しい現実に目を向けされるという目的があったというのです。この『罪』また『違犯』を赦すのが、メシア=キリストに与えられた大きな役割なのです。

それですから「ユダヤ教」を超える「キリスト教」では、もはや律法を守る務めからは解かれ、イスラエルに『義』をもたらすべき役割を律法が終え、「行いの業」ではなく「メシアへの信仰」によって神の前に『義』を得る道がイエスによって拓かれようとしていました。
そこで使徒パウロはこう述べます。
『人は律法の行いではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる』。(ガラテア2:16)

その一方で、イエスは『わたしが律法や預言者を廃止するために来たと思ってはならない。』また『これらの最も小さな掟を一つでも破り、そのように人に教える者は、天の王国で最も小さい者と呼ばれるであろう。』と言われました。(マタイ5:17・19)
それでは、イエスはその弟子たちに律法を守り続けるよう教えたということなのでしょうか。
イエスは同じ段落でこのようにも教えていたのです。『わたしは律法を廃止するためではなく、完成するために来た。律法のすべての文字の一点一画が成就しないよりは、天地が滅び去る方が先である。』(マタイ5:17-18)

これらのイエスの言葉と、使徒パウロの『キリストは律法の終わりである』との記述とは、まるで矛盾しているかのようです。(ローマ10:4)
しかし、新約聖書でユダヤ人に宛てて書かれた「ヘブライ人への手紙」には、この事情を示唆する言葉が次のように書かれています。
『イエスは死の苦しみのゆえに「栄光と栄誉の冠を授けられた」。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのだ。神は多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされた』。(ヘブライ2:9-10)
ですから、キリストの犠牲を『罪の無い』、完全に確かなものと宣言したことに於いて、律法は不滅でなくてはならず、『すべての文字の一点一画』も揺るぎないものであるべきなのです。
この理由で、もはや人が律法を守る真似をして優越感に浸るようなことをすれば、それはキリストの犠牲の価値を卑しめるのであり、むしろ、誰にも巣食う『罪』を悔いて一重にキリストの贖いに頼るべきなのです。

これはイエスがアダムの子孫のために犠牲の死を遂げられることにより、もとよりアダムの子孫ではなく『罪のない方』であったイエスが、さらにモーセの律法をただ一人全うされてすべての言葉を成就し、そうして死に至るまで試され、遂に神の前に義の完全さに到達されたことを指し示しています。ですから、マリアがヨセフと結婚する前に聖霊によってイエスを身籠る、つまりアダムの子孫ではなくして誕生するための「処女懐胎」は単なる伝説では済みません。()

そのため新約聖書はイエスを『最後のアダム』とし、『一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得る』と述べます。アダムの罪はイエスの忠節によって置き換えられ、そうして、アダムに代わってイエスが人類の『とこしえの父』となり、その子孫に永遠の命を与えることになるのです。(コリント第一15:45/イザヤ9:6)
イエスはアダムの子孫のために『罪の酬い』を自らの身の上に受けることで犠牲の死を遂げられ、そうして『罪の贖い(あがない)』、アダムの子孫の赦しを備えたのです。(ローマ5:18)

この人類全体への『罪の贖い』は、旧約聖書と律法契約に留まるユダヤ教にはない、キリスト教だけの教えとなりました。
『女の裔』という神の奥義の開示はキリストの現れという大きな節目を迎えて、更に進展しようとしていたのです。





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